Between the light and the dark 第三章ーティエンランへ
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初めて間近で見た海に、クズハの姉弟は手を取り合ってはしゃいだ。

「姉さま、見てみて、船だよ!」

「きゃー!波があるー!ちょっとアオイ、飛び込んでみなさいよ!」

「嫌だよー」

王宮の窓からも、海は見えるのになぜこんなに楽しいんだろう。はしゃいでしまうのだろう。活気のある男たちや、威勢のいい掛け声、浮足立ったような港の雰囲気。

「ああ、もう、チョロチョロするな」

イランの声も無視して、二人はあちらに行って船を見たり、こちらに行って並べられている魚を覗いたりした。

ふと自分の影が伸びた。振りかえると、真っ赤な太陽が、地平線へ沈んでゆく。

「わあ…!」

キキョウが感嘆した息を呑んだ。

「ティエンランでハ」

アオイの横に立っていたワカが、彼方を見ながら言う。

「人の魂は、死後、太陽の沈む西の果てへとゆくそうデス。そして、東から生まれ変わル」

「聞いたことがある。太陽信仰だろう」

中々に面白い考え方だと、アオイは初めて聞いた時思った。

「先に亡くなった自分と縁のあった魂は、西の果てで待っていてくれるのですっテ。だから、死んだらまた会えル」

「ワカは信じているのか」

「はイ」

紅い光を浴びたその姿に、アオイの胸がキュンと鳴る。この女は、自分を拒否しない代わりに、イランが一々と邪魔する。あの男はワカが好きなんだろうか。やっときたか。森の中での嬉しそうな声を思い出すたびにイラッとする。

 

「なー、イラン。今日は酒場に行かねえ?船に乗るのは明日だし、ガキどもの社会見学にはなるし、情報も集まるし、いいことづくめだぞ」

陽気なアカンの声がした。

「お前がただ飲みたいだけだろう。却下」

「そんなこと言わずにさー」

ふざけたようにアカンがイランに縋った。抱きついて甘える女の如く唇を寄せる。その癖殴られないように両腕を押さえつけている。

妙な色気すら漂っているその雰囲気に、アオイは目を剥いた。姉は口を押さえて凝視している。

「こっ…この馬鹿!止めろ、気色悪い!」

「うんって言うまで離さなーい」

突如始まった奇妙な痴態に、港の人々がなんだなんだと集まってきた。

「はいはい、お代は見てのお帰りね」

「離せ、おれに触るな!…そこに手を突っ込むなー!」

「足癖の悪い子だな。こうしてやる」

「ちょっと、ワカ!目を塞がないでよ、見えないじゃない!」

「見るものじゃありません、目の毒デス」

「なあ、カナン。お前ら、いっつもこんなんなのか」

「時と場合によっては…」

「はい、毎度ありー」

「毎度ありじゃねえよ!お前なに見せ物にしてんだよ!」

「お前、背中が弱かったよな」

「ぎゃー!止め…本当に…!分かった、許可、許可する!これでいいだろう!」

「わーい、ありがとう!もう大好き!一生、離さないんだから!」

「離せ離れろ離れんか!」

闇者とはもっと壮絶な人間を想像していた。孤高で闇を背負った、暗澹とした人間を。だけど、同行する五人は、変な寸劇を度々繰り広げる。

まあ、そっちの方が楽しいけど。

「おおーう。結構溜まったな。酒場でパアッと使おうぜ」

「見せ物になるものですね」

「イランとアカン、旅芸人に入ったらどうデスカ」

「いいわね、それ。いざとなったら薬を飲ませて売りましょうか」

「阿保か」

ガンガンガンゴン、とそれぞれの頭を拍子良く殴り

「宿に荷物を置いてから、行こうか」

踵を返したイランに、ぞろぞろと付いてゆく。

太陽が光の残像を残して、地平線の彼方に消え去った。

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どんなにはしゃいでみても、胸の痛みは中々消えてくれない。

初めて足を踏み入れた酒場で、キキョウとアオイは、これでもかと言うほど騒いだ。

猥雑な雰囲気がそうさせたのかもしれない。初めて飲んだ酒がそうさせなのかもしれない。

「子供がお酒を飲んではいけないのは、未発達の体がうまく成分を分解できなくて馬鹿になるからです、絶対駄目」

説教するワカに、お子さま二人は反発した。

「わたしはもう子供じゃないわよ」

「未発達ってなんだ、だったら酒場なんかにつれてくるな」

「まあまあ」

流し込むように酒を飲んでいたアカンが笑う。

「下の毛が生えりゃ、立派に一人前だぜ。ちょっとだけならいいだろう」

「ぼくはもう生えてるぞ!」

「わたしも!」

結局、初めて口にした酒の不味さに、姉弟二人はむせた。

イランはどうでもよさそうに、腕を組んで目を閉じている。

どうしてこの男は、自分を見てくれないのだろう。心がしわっと痛む。王宮にいた頃は、全てがわたしに注目していたのに。臣下も女官も、叔父も…。そこまで考えて、キキョウの心は、さらに痛んだ。

叔父は嘘をついていたのだ。美しい顔で、美しい言葉を紡ぎながら、自分たちを騙していた。王座につきたいがために。母だってそうだ、父さまを裏切って。

やけになって、猪口を開けている内に、厠へ行きたくなってきた。

席を立って奥へと向かう。それにしても、どうしてわたしがこんな所に我慢しなくちゃいけないんだろう、王宮の香を焚きしめた清潔な不浄が懐かしいと鼻を摘まんで用を足した。

ため息をついてみなの所へ戻っている時。

 

「そこの美人なお嬢さん」

明らかに自分に向けられた声だった。振り向くと親父が二人と若い男が三人、こちらを見て親しげに笑った。

「ヒュー。掃き溜めに鶴だぜ」

「おれたちと飲まねえ?野郎ばかりで淋しんだよ」

「やめろよ、お前ら。こんな美人さんがおれたちの相手してくれるわけねえだろ」

賛辞とその目線は、みるみる内にキキョウの心を潤わせてくれた。

「いいわよ、少しだけなら」

鷹揚に頷くと、男たちは無邪気に喜び席を開けた。矢継ぎ早に浴びせられる心地よい言葉に酔いしれる。

キキョウは飢えていた。己を崇める賛美の言葉と眼差しに。だから貪欲に欲し、惜しみなくそれを与える男たちを簡単に信用した。勧められるまま酒を空けた。

そうよ、やっぱりわたしは美しいんじゃない。見る目がないのはイランの馬鹿たちなのだ。

「ちょっとー、あんたたち。子供にこんなにのませちゃあ駄目じゃない」

女の声が聞こえて、心地よい時間はぶち壊された。ぎっとそちらを睨むと丸々と太った女が立っていた。万丸い頬が笑顔で落ちそうだ。

「何だよ、アイカ。邪魔すんな」

「デブには用はねえんだよ」

「あら、ひどーい。そのデブと寝てくれたのは何処の誰よ」

なにこの汚らわしい女!これが商売女といわれる人か。

「お気づかい結構よ。わたし、楽しんでいるから」

そうこなくっちゃと男たちは喜々とした。そして二階でゆっくり飲もうと誘った。

「いいわよ」

邪魔をされずにチヤホヤされたいキキョウも、一も二もなく賛同して腰を上げる。

「あんた、やめときな」

この女は嫉妬しているのだ。醜い人は対外美しい人を羨み、僻む。そんなデブを尻目に階段に足をかけた瞬間、誰かに強く肩を掴まれた。

「あっ!」

誰かはイランだった。

「悪いな」

底冷えのするような恐ろしい目で男たちを睨みつけている。

「おれの女だ」

キキョウは口を開けたまま思考は全く停止していた。その中で喜びとうろたえと弾んだような感情がグルグルと回る。心臓がドコドコうるさい。脳内に色取り取りの花さえ散ってきた。目の前で射切る男たちや、諌める丸女などどうでもよかった。

「戻るぞ」

気付けば背をイランに押されていて、男たちはいつの間にか消えている。

「さ、さ、触らないでよ!誰があんたの女…!」

「そんなの、方便に決まっているじゃねえか」

再び思考は停止した。嘘?嘘をついたの、この男は?

「世間知らずのお姫さまがご帰還だ。またフラフラどっかに行かないよう、縄でも付けとけ」

ポイとアオイたちの前に付きだすと、踵を返して喧騒の中へと消えてゆく。

「何していたの、姉さま」

騙した男に腹が立つ。そして一瞬でも浮かれた自分にも腹が立った。

「お酒!誰かわたしにお酒をちょうだい!」

「おお、小虎だ。小虎がここにいるぞ」

ゲラゲラとアカンが笑う。

煽っている内に気分が悪くなってきた。切なさがこみ上げて胸が痛い。

「少し夜風に当たりましょうか」

シランがその手を取って外に導く。振りはらう気力もなかった。喧騒は遠のいてゆき、辺りは波の音しか聞こえない。

「ねえ、シラン」

「なあに?」

「わたしは…きれいじゃないのかな」

漂う磯の香りは鼻に付くくせにどこか親密的だ。

「どうして?」

キキョウの中で美しいことは無敵と同意語だった。美しくあれば全ては許され、認められるはずだった。

「何がきれいで何が美しいなんて、人其々よ。あんまり欲張ると身を滅ぼすわ」

「別に欲張ってなんか…」

「じゃあ、言い方を変える。今まで散々甘やかされて育ってきた王女さま。世間はもっと広くてとてつもなく厳しい。さっきだって、あの男たちに付いていっていたらどうなっていたかしら。死ぬほど屈辱的な目にあって、売られてしまう可能性だってあったのよ。殺されて海に捨てられていたかもね」

ぼんやりその言葉を聞いていたキキョウの顔が青ざめた。じゃあ、イランはわたしを助けてくれたのか。あの丸い女も。

「そんな…」

今まできれいなものしか見てこなかった。そんな恐ろしい闇の間があるなんて、知らなかった。いや、外の世界に限ったことじゃない。

きっと、王宮の中にも。美しい日常を彩りながら、喜怒哀楽様々を織りなしている。

女官たちや、臣下たち。父、母、叔父、そして弟。みんな人間で、みんないろんなことを考えて生きている。それぞれの役割を演じながら。

姉さまはさ、きれいなものしか信じたくはないんだよ。汚いものに目を逸らせてさ。だけど、きれいなものの下にも、汚いものもあることを知るべきだよ。

そうね、アオイ。あなたが言っていた意味が、何となく分かったわ。

「ねえ、シラン」

「なあに?」

「わたし、外に出て良かった。本当に良かった」

「そう。じゃあ、戻りましょうか」

いや、そういう意味じゃあないのだけど。まあ、いいや。酒場に入ると、店の奥で髭親父と仲よさそうに話しているアイカと目が合った。にっこりと笑う丸い女に、キキョウも小さく頭を下げる。

 

席に戻ると、イランは遠くで男たちと話しており、酔っぱらったアオイがワカにとんでもないことをほざいている最中だった。

「ぼくはね、将来クズハをしょって立つ男だよ」

ユーラユーラ揺れながら、困りきっているワカの両手を引っ掴んで離さない。

「だからワカも、王妃となってぼくの横にいるべきだ。何、心配はない。歴代の王の中には十四で結婚した人もたくさん…」

「何を言っているの、この馬鹿弟」

ゴンと水色の頭を殴ると、アオイが悲鳴を上げて振り返った。

「痛いじゃないか、イラン!…なんだ、姉さまか。弟の頭を殴るなよー」

「あの、もう手を離してくだサイ」

「嫌だよー」

「イランはどこへ行ったの?」

「めっけもんの情報があったとかで、あっちの商人に紛れている。いやいや、ワカが王妃になったら、クズハでは酒が無料で飲み放題だなー」

「王宮のいい男紹介してね」

「高額な薬物も手に入りますね。知ってますか、木乃伊という…」

「あなたたちは、本当に自分のことしか考えなイ」

ついにアオイに抱きつかれたワカが悲痛な声をだした。

やっぱりこの女は嫌いだ。弟まで誑かして。

「何をやっとるんだ、お前は」

脇からひょいと手が伸びて、アオイが猫のように襟首をつままれた。イランだった。

「離せよ、今、大事な話を…」

一瞬暴れた弟は、そのままコロンと寝入ってしまった。

「飲ませ過ぎだぞ、アカン」

「ごめんよー」

アオイを抱きかかえたイランは、そろそろ出るぞと扉へ向かう。後ろ姿をぼんやりと見ていたキキョウに、シランが小声で囁いた。

「あの男はやめおきなさい」

「どうして?」

その行動の一々が目に付く男。闇者のくせに、大勢の中にいてもわたしはすぐに見つけ出してしまう。

「取って食われちゃうから」

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政務室に入ったミカゲは、そこにいる男を見て、心の臓が飛びてるのではないかと思うほど驚いた。寝台から離れられないはずの兄が、爽やかな顔して卓上に腰かけていたからである。

「おはよう、ミカゲ。ずいぶんと遅い出勤だな、用でもあったのか?」

「いえ…ど、どうされたのです。先程までは…」

朝、フヨウと共に見舞ったはずだ。王妃を後宮まで送り届け、しばらく時を過ごしていましたなど言えない。

「朝から紅を首に付けているお前がうらやましい訳ではないが」

笑顔を崩さず、兄は書類に目を落とした。

「わたしの代わりは、責任持って果たしてほしいものだね」

慌てて首元に手をやると、確かに赤いものが付いている。

「申し訳ありません、少し、女官と…」

「不実な女官だ」

不気味なほど優しい笑みを保ったまま、王は腰を上げた。

「これの見直しを。穴だらけで目も当てられない」

卓上に積んである紙の山を叩いた。

「は…」

「なあ、ミカゲ」

こういう言葉を知っているかな。

「王は人であって人にあらず、ただ民と国のためにあるべし。私は捨ててまずは公を考えよ。難しいとは思うけどね」

そのままゆっくりと歩いてくる。ミカゲは恐怖を感じて、突っ立っているだけだった。

「お前にはその覚悟はあるのかい」

肩に手を置いて、耳元で囁かれる声は、ぞっとするほど迫力があった。

「見直しした書類は、わたしに回せ。王子と王女の捜索にも力を入れろ。国内にも王弟が王座を狙っていると下らん噂がある、早急に打ち消せ」

「はっ!」

力強く命を下し、扉の向こうへ去っていった王に、重鎮たちは跪礼をして頭を垂れた。

見事に揃った返事に、信頼と尊敬が籠っていたのが分かった。

おかしい。

今まで全ては自分の手の内にあったはずだ。それがどうして。

おかしいといえば、身辺に起こる出来事も奇妙なことが続いた。

イシとの密会中に、頭上から何故か盥が落ちてきた。二人で仲良く伸びてしまい、宮中の噂になった。王妃には、凛気を持って詰られ、宥めるのに苦労した。

朝、起きると女官が悲鳴を上げた。姿身をみて、ミカゲも悲鳴を上げた。

自慢の顔には、皺と髭と渦巻きと「ばーか」という文字が、墨で落書きされていた。

何かに呪われているのではないか。しかし、物の怪がまさか「ばーか」など落書きしないだろう。

 

その夜、ツキヤマを呼び出した。国王の信頼の厚い老人すら、わたしの味方なのだ。それは絶対的な安心だった。

「毒の効果が薄れてきたかもしれませんなあ」

首を振りつつ、ツキヤマは言った。

「では、もう一段強い薬を…いや、いっそのこと、殺してしまえばいい」

政務室で、兄に馬鹿にされたことは、屈辱として胸の内に残った。なにが民と国のためにあるべしだ。全ては我のためにあるべきだ。生意気な二人のガキを取り逃がしたものの、消息を絶っている。手ダレの護衛が付いていると聞いた。が、それからうんともスンとも言ってこないという事は海外へ逃亡したのだろうか。

じんわりと焦りがにじんでくる。

「今日の明日で、御命を奪う事になれば、すぐに殿下の仕業とばれるでしょうな」

「なぜだ」

「今日の出来事をお忘れか」

誰が忘れるか。

「殿下は今まで通りに。今、動けば敏い陛下はすぐにお気づきになられる」

もう少しのご辛抱です。

ゆっくりとツキヤマは笑った。海千万、山千万の笑みだった。

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船などワカたちにとって格別珍しいものでもなかったが、姉弟は船の上でも存分にはしゃいだ。

ティエンランの陸地はもう目の前だ。

ふと、三年前のことを思い出す。ジュズは、今もどこかで元気にしているのだろうか。シギは想い人と再会できたのだろうか。「会いたい」の一言で涙を流した男と女は。

 

「ワカ」

「どうしたんデスカ。アカン」

横に立った男は今朝がた、大層な二日酔いに苦しんでいた。薬を求めるアカンに、「時間が経つのが薬です」とカナンは軽くいなした。もう復活したのか。

「昨日聞いた里の情報だ。イランには言ってねえ」

「はイ」

「ジン絡みで動きがある。本家は娘を一人、城に送り込む気だ。それが誰になるかは決まってねえが、おそらく東の婆に集められた娘たちの一人だろうよ」

「衆ではなく、本家が動くということデスカ」

ワカの体が緊張した。そんなことは滅多にない。自分も知らない。

「覚悟をしておけ」

耳元で低く囁かれた声に震えた。離れようとするアカンの裾を掴む。

「どうしてイランに言わずに、あたしに言うんデスカ」

「あいつはな」

アカンは小さく笑った。

「心が弱いんだよ。お前以上にな」

 

ティエンランに着きぼんやりと歩きながらも、ワカの頭の中は混乱したままだった。

本家は直属衆を抱えているものの、動いたためしがない。少なくともワカが知る中では。王家絡みですら分家衆に割り振る。もしかして、この大陸で戦が起こるのではないか。歴史が動くほどの。

そこまで考えてぞっとした。ジンとどこの国で?まさかこのティエンラン?誰が雇い主だ?

「ワカ、どうした?大丈夫か」

アオイが心配そうに手を取った。この姉弟も、巻きこまれるのか?

「大丈夫デス…」

「船に酔ったんじゃねえのー?」

「薬飲みますか?」

「あっ!カナン、この野郎、おれにつれなくした癖に」

「船酔いと二日酔いは違います」

「大丈夫です、大丈夫ですカラ」

無理やり笑顔を作って、顔を上げた瞬間、ワカはひっくり返った。

意識が遠くなってゆく。混乱の中にゆっくり落ちてゆくようだった。

 

夢を見た。

幼いワカは隣にいる少女を見上げた。家に帰る途中だった。

姉さま、また市場に行きたい。

まあ、あなたは本当に外が好きなのね。

微笑む姉の簪が、日に煌めいた。後ろには一人の老婆が付いてきている。

ああ、またこの夢か。

沈み込んでいる意識の中でワカは思った。早く目覚めなければこの後の惨劇を見ることになる。

どうして、あたしはこんな夢を見るのだろう。家族の記憶など一切ないのに。

夢の中の二人は、笑いながら大きな家を目指す。やめて。その中に入らないで。

早く目を覚まさなくちゃ、早く…!

 

「ワカ」

誰かに頬を撫でられて、目を覚ました。息が喘ぐように口から出る。

「怖い夢でも見たのか」

逆光で誰かは黒い影だった。意識は夢の残像に引っ張られてぼやけたままだ。手は優しく頬から額へと移り、汗を拭ってくれた。

「泣くほど怖い夢だったのか」

素直にワカは頷いた。柔らかい声に釣られたように、ポロポロと涙が出る。

「泣くな」

相変わらず声は優しいままだ。

やめて。優しくしないで。あたしは勘違いをしてしまいそうになる。どうせ拒否するなら、どうして優しくするの。期待させるの。

この男はいつもそうだ。心が弱っている時にするりと入ってきて、雲のように優しい言葉で、手でくるんでくれる。実態のない掴めないフワフワとした、そのくせ泣きたくなるような真摯さで。

「イラン」

声はひしゃげて醜かったが、どうでもよかった。

「なんだ」

男の手は相変わらず、愛撫するように髪を梳く。

「止めてくだサイ」

「なぜ」

まるで雲で首を絞められるみたいに苦しい。優しく、だけど確実に首は絞まってゆく。

「あなたの気分次第で振り回されるのは、もう嫌なんデス。お願い、優しくしないデ…」

「そうか」

手が離れた。止めてほしいのに、止められると今度は悲しくなってしまう。涙は勝手に零れてゆく。

イランは遠く窓の外を見ていた。人を想うということは、どうしてこんなに痛いのだろう。

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再び寝入ってしまったワカを眺めながら、イランはため息をついた。

そちら側へ行ってはいけないと声がする。また同じことの繰り返しになるじゃないかと。

感情を律しなければ、正常な判断ができなくなる、それが怖かった。

自分の弱さは身にしみて分かっている。それが原因で大切な祖父の命を奪ったことも。

本家でいたぶるように嗤ったクンの声が蘇った。命を捨てていいとまで想った女の本性はあれだったのか。それとも、おれは自分の中で女の幻影を作り出していたのか。

 

「ワカー。大丈夫?」

アオイが扉からひょっこり顔を覗かせた。

「まだ寝ているんだ。イラン、いつまでここにいるの?ぼくが見ていて上げるから、どっか行きなよ」

下心満載の笑顔に手刀を落とす。

「無邪気な少年の振りが通用するのは女にだけだ。覚えておけ」

「そうか。おっさんには通用しないんだな。覚えておくよ」

「おっさん言うな」

「明日には宮廷に着くんだよな」

「早ければ昼前に着くだろう」

それから沈黙が訪れた。

「ワカってさ」

アオイがその寝顔を眺めながら言う。

「きれいだよね」

「そうか?」

「うん。無垢っていうかさ、擦れていないというか、取り繕ってないところがいい」

当たり前だ、そうおれが育てた。汚れを知らない無邪気なまま、ただ自分だけを見るように。

「初めてなんだ。こんな人。周りは猫やら羊をかぶった人たちばかりだったからさ。勿論、ぼく自身もね」

カエルの子はカエルというが、キツネの子はやはりキツネだ。中々に敏い。

「こいつは馬鹿だからな」

「分かってないな、イランは」

大人びた顔で少年は笑った。

「無垢と無知は別物だよ」

 

雲ひとつない青空が広がっている。

ティエンランの都を目指しながら、一行は赤茶けた道を歩いていた。

宮廷に入ったら、自分は一旦クズハへ様子を見に行ってこようか。まさか他国の宮にまでミカゲの手は届くまい。

「ティエンランの女王はどんな人なの。美人なのでしょう」

「そういう噂だな」

隣を歩くキキョウがイランを見上げた。

「行きがかり上、民から壮絶な人気がある」

「へーえ」

「わたしの父さまだって人気あったわよ」

「姉さまはすぐに対抗意識を燃やすんだな」

「何よ!」

じゃれつくように姉弟が追いかけっこを始めた。イランを盾に笑いながら逃げるアオイに、キキョウが口を尖らせて追いかけまわす。

「ああ、もう、うっとおしい!キリキリ歩け!」

だからガキは嫌いだ。

「子連れ狼でショウ?」

「子連れ狼だな」

「あたしたちお邪魔かしら」

「ほのぼのとした風景ですね」

ボケナス四人は、我関せずといった風情で無視を決め込んでいる。

 

一本杉まで競争だ。

今日は負けねえぞ。

身を切る風、けぶる森の湿気、流れる木々。

競るように横を飛ぶ灰色の髪、得意げな声、微かに滲んだ劣等感。

全て自分が悪いのか。それとも清算せぬまま今に至った三人が悪いのか。放置して膿んだ記憶は、腐敗して心の奥底に横たわっている。きっと、クンとヒサメの中にも。

 

「見えてきたよ!」

遠くに見える山の中腹に、ティエンランの宮廷が見えた。

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****

 

 

キキョウは思わずその姿に見とれてしまった。

絹の衣を纏い、入れ髪を付けた男の姿に。

「何だよ。ジロジロみんな」

「イランを見ていた訳じゃないわよ!ま、窓の外を見ているの!」

「ああ、動かないデ」

真っ赤な顔して怒鳴るキキョウの髪をワカが結っている。

都の宿の一室に入った一行は、質素な綿から高級な衣へと着替えた。

「なんで?」

「人は見た目で判断する生き物だ。そこらの村にいる格好で、クズハの王子と王女です、なんて真実味がないだろ」

「その臣下も然り。と言う訳で大変身―」

おどけたように、アカンとシランがお辞儀をした。

それにしてもこの肌触りは久し振りだ。柔らかくまとわりつくひんやりした絹も、髪を結われる感覚も。

出来たと言われ、姿身を覗いてキキョウは悲鳴を上げた。

「何なの、このだっさい結い方は!何年前に流行ったものだと思っているのよ!」

「はイ?」

「クズハの王女がこんな髪型しているなんて、笑われてしまうわ!座りなさい!」

叩きつけるようにワカを椅子に座らせると、鼻息荒く焦げ茶の髪を梳いた。

「イタイイタイイタイ!」

「うるさい!おだまりっ!」

「姉さまは、だんだん誰かに似てきたなあ」

アオイがチラリとイランを見る。その男は珍しく笑いを堪えるように、悲鳴を上げているワカと手と口を忙しなく動かしているキキョウを眺めていた。

「それに、この衣を用意したのは誰よ!感性がない。全然感性がない!」

「イラン」

「うるせえなあ。適当に引っ掴んできたんだよ」

「この男に感性を求める方が間違っているのよ」

「人は見た目で判断する生き物ってさっき言ったじゃない」

「大体でいいんだよ、大体で」

「ほら、出来たわよ。ね、違うでしょう」

おおーう。と、男どもから感嘆の声が上がった。

「全く分からん」

「何で分からないの?姉さま、ぼくがやってあげるよ」

弟の手に髪を委ねながら、ワカをくるくる回しているイランを見やる。

「な、なんか変デスカ」

「いや、襟首を掴みやすそうだなと」

「ひィ!やめてくだサイ!」

なに、いい大人がじゃれているのよ!

「化粧は?香は?扇はないの?」

険を含んだ声が出る。

「だから、大体で…」

「そんなのわたしが許さない!」

思わず椅子から立ち上がった。勢いでアオイがよろめく。

「ティエンランの王に、クズハの王女と王子が謁見するのよ!妥協は許さないわ、なければ買って来なさい!」

 

結局、青白吐息の闇者と弟を引き連れて、鼻息荒く宮廷の門下にやってきたのは、昼も過ぎた頃だった。

「たのもー!」

「姉さま、それ、違うと思う」

が、勢いが良かったのは大階段の途中までだった。何なのこの人迷惑な宮廷は!汗をかいたら化粧がはげるじゃない!

「クズハの王女は、体力がないな」

ひょいと抱き上げられ、キキョウは悲鳴を呑み込んだ。すぐ近くにイランの顔がある。

「ち、違うわよっ。ちょっとお腹が空いて…!」

「誰かがうるさいお陰で昼餉も食ってないからな」

「わたしのせいだってゆうの」

頬を膨らましつつも、男は細いくせに軽々とキキョウを抱えている。まるでこの恰好は甘い恋人同士のようではないか。

仕方がない、ご厚意に甘えてやるわ、と心の中で言い訳して男の肩に頭を持たせかけた。イランは何も言わない。目を閉じると、自分の心臓の鼓動音が聞こえた。

ああ、わたし、すごくドキドキしている。

「こら、アオイ。帯にぶら下がるな」

アオイの馬鹿!邪魔するな!

「だってさー。みんなもう遠いんだもん。疲れたー」

「手のかかる姉弟だな」

舌打ちしたイランは片手にキキョウを持ち変え、片手にアオイを荷物のように抱えた。

アオイ!この馬鹿弟!あなたは男の子でしょう、一人で歩きなさいよ!

嫌だよー。楽な方がいいもん。

無言の攻防戦を繰り広げながら、二人はイランに担がれてゆく。

「まーた子連れ狼やってるよ」

上から声が聞こえた。四人が笑いながらこちらを見ている。

「うるせえ!」

「もう宮廷の中よ。お行儀よくしなさいよ」

再び小さな舌打ちをして、イランは階段を昇る足を早めた。

 

説明
ティエンランシリーズ第五巻。
クズハの王子アオイたちの物語。

「たのもー!」

視点:アオイ→キキョウ→ミカゲ→ワカ→イラン→キキョウ
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コメント
天ヶ森雀さま:コメントありがとうございます。元々、違う物語(お笑い系)をぶち込んでしまったので…。ワカラン、イラン、シラン、アカン、カナンの名前からふざけてるし(笑)。(まめご)
>闇者とはもっと壮絶な人間を想像していた。アオイくんに同様一票。でも面白いからいいです(笑)。(天ヶ森雀)
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