ガラスの涙と痛みの樹 |
それは、愛すべき日常に突然舞い降りた。
いつも通りの時間に登校し、いつも通りに出会う友達とする他愛ない話の最中のこと。
「……硝子ってさ」
「……ん?」
どのような流れだったろうか。友達の一人が私の方を見てこう言った。
「悩みなんてなさそうだね」
もう一度言う。どのような話の流れだったかは思い出せない。もしかすると、流れは関係なく、常々彼女が思っていた事がもれたのかも知れない。
「あははっ。うん、まぁね」
本当は。本当はそんな事はないけれど。そう言われる様に努めてきて、その成果を前に否定の言葉は意味がない。
「いいな〜。私も硝子みたいになりたいよ」
それはやめておいたほうがいい。心の中、笑顔で話は続けながらに呟いた。私は唯、誰にも見せてこなかっただけの紛い物だから。
喉もと過ぎれば熱さを忘れ、誰もが経験するだろう些細な辛さはどこ吹く風。そう思い込みながら。いや、そんな考えすら潰しながらどのくらい経った事か。
もうほとんど思い出せないほど重なった幾つもの「あの時」を思い出せる分だけ振り返る。
どうしてだろう。いつもは考えもしないのに、どんどんと、頭に靄がかかっていくような……。
ガラスの涙と痛みの樹
気持ちを表に出すという事は、全てでなくともそれをどこかに切って捨てる事だと思う。
誰かに気持ちを話す事は、捨てるはずだった物を無理矢理渡す事だと身に沁みている……。
件の会話の後、ぼんやりとした頭を抱えながらに迎えた昼休み。私は一人廊下と繋がる広間で、あるべき「私」を脳裏に走らせていた。
「私……は」
「私」は、どれだけ無理な渡され方をしても貰い受けるつもりでいる。そうあるべきだと思っている。「あの日」にそう決めた。
未だ、その誓いに代わる言葉を見つけられていないけれど……。
「しょーっおっこー!」
「わぁ?!」
不意に思考の端から無闇にテンションの高い声が飛び出した。一瞬後に視界の外から勢いよく現れる一つの影。
「け……桂?」
「はろろんやっほー硝子ー!」
思わず閉じた目を開けば、そこにはくるくると奇妙な舞を踊りながら、初弾のテンションそのままに、腰まで伸びた黒髪を振りかざしながらおかしな挨拶をする「親友」がいた。
伊丹 桂。
端的に言うならば、彼女は「学校の人気者」だ。
「クラスの」でも「グループの」でもなく。先生達を含めた学校全体が彼女の存在を慕う。
文武両道、容姿端麗と輝かしい四字熟語に相応しい人間であるはずが、誰もが思い浮かべるのは奇妙奇天烈の五字熟語。日々における知識と知恵と身体能力の盛大な無駄遣いが皮肉にも素晴らしく彼女を彼女たらしめていた。入学当初、彼女に一目惚れしていたらしい男子達がそんな事を話しているのを今も時々耳にする。
そんな彼女が私に声をかけてきたのは昨年。中学3年の学校祭の事だった。
たまたま同じクラスになった私達は、たまたま学校祭の実行委員に任命されたのだ。
『オーケイ私に任せとけ! 学園祭を楽園祭にしてくれらぁー!!』
想像するに、受験に忙しい時期で学校祭の準備などしている暇はないという空気であっただろう中、彼女のその一言だけでクラス中が沸いた。
『むしろお前等の力も私に貸せぇー!』
彼女が何か言う度に、クラス中に謎の歓声が飛び交った。
まるでそれは、そう。真っ白なカンバスに色取り取りの絵の具が塗られるような。それも、筆など使わず楽しげに、掌を刷毛のようにして。
『という訳で君の力も物凄く借りるから覚悟するがいいよ!』
それまでにも彼女の人気を知らなかった訳では勿論ない。けれど彼女がこの手の委員に選ばれたのを見たのはそれが初めてだったのではないだろうか。
『そうだ! 今日から君は私の親友! ベストフレンドゥ!!』
圧倒的な統率、そして眩いばかりの存在感に圧され、漸く彼女の「学園祭」の言について考えるに至ったその時には彼女の人差し指が私を指していた。
『え……えぇ?!』
思考の全てを彼女に向けてもまだ足りなかった。彼女に思考に追いつけなかった。何の準備もなく手を引かれ、宇宙へ連れさられた気分だった。
そんな心持ちの中でさえ、指先を遡ったそこにある彼女の笑顔が眩しかった事を今もよく覚えている。
あれから一年経って。今の私でもまだあの頃の桂に追いつける気がしない。それ程にあの出会いは衝撃的だった。まだまだ桂の事を理解するには時間が足りない。
言葉は悪くも、巻き込まれるように親友になったはずが、いつの間にか私から彼女を知りたいと思うようになったのも彼女の彼女たる所以に違いない。
「どーしたんさ、ぼーっとしちゃってさ?」
「え、いや……。何でもないんだけど」
その結果、この一年で解った事がある。
桂は変な風に見えて非常に鋭い一面があるという事。そして恐らくはそれが、桂の本当の姿なんだという事。当然、あのおしゃべりの場には桂もいて、だからもしかすると今も私から何かを感じたのかも知れない。
「そかなー? 何となく『アタイ今悩んでますからキルミーベイベーヘルプユー!』って雰囲気だった気がしたんだけど」
ほら、やっぱり。気付かれない自信があったのに、こんなにも簡単に見破られる。これでも隠し事には少し自信があったのに。
でも、桂が鋭いだけじゃない。今日は妙に「私」が揺らぐ。「いつも」は。「いつも」ならもっと。
頭の中で「いつも通りの自分」を確認しながら、その自分に合った言葉を選ぶ。
「……自殺願望はないつもりだよ」
相手が桂で、この自分ならば、この言葉で傷つける事はないはず。けれど。
「で、も。硝子は人の自殺を止められるならってそういう事しそうでさ〜。けいちゃんちょっとし〜んぱい」
その言葉に、またしても「私」が揺れ動く。
一つ大きく心臓が跳ねる音が聞こえて、一瞬後に感じた頭の重みによろめきそうになる。
「……硝子?」
暗く落ちそうになった視界の端に桂が見える。
いけない、心配させては。感付かれる前に最善を考える。
「あ、はは……そんな事、ある訳ないじゃない」
まずは笑顔。引きつっていないか細心の注意を払いながら。
「いくらなんでもそこまでしないよ。私だって命は惜しいし……」
返事は冗談めかした軽口で。不謹慎さを出さないように。
それから……、それから。
「だから……。私は、大丈夫だよ」
どうしよう。思考がまとまらない。いつも意識さえせずにやっている事がわからなくなる。
普段、私はこういう時に何と言っていただろう。思い出せない。頭が重くなる。
「ね、もしかしてさ……」
思考の間は数秒。けれど桂の表情に影が差すには十分な時間。耳に届いた言葉に、重さを増して痛みすら現れた頭が叫ぶ。
感付かれるな。気取られるな。気を使わせるな。その先を言わせてはいけない。
「な、なんでもないからっ。ほら、授業始まっちゃうよ」
言うが早いか、小走り気味に先立つ。すれ違いざままで見せていた笑顔におかしなところは無かっただろうか。
考えてしかし、そんな訳がないとすぐに別の自分が否定する。上手くやれたつもりなのは私だけ。取り繕えた物などありはしない。
桂にはきっと見えていた。どこまでか、あるいはどこまでも。
「は……ふ……」
教室に入って数分。私に続いて入ってきた桂に視線を向ける事もできず私は授業を待つ。
思い切り走った訳でもないのに妙に切れる息は焦燥感。見られてはいけない物を見られた衝撃と、触れられてはいけない物を触れられた不安な気持ちが入り混じる。
桂が悪いんじゃない。不意をつかれて動揺してしまった私が。演技の拙い私が。上手く笑えない私が。……私が、全て悪いんだ。
いつしか走る痛みは熱さを帯びて、揺れる思考の行き先が自分でもわからない。
熱に浮かされ痛みに沈み、授業が入る隙など頭にあるはずもなく。気付けば、響く鐘の声に耳が震えていた。
帰り道。先の熱を理由に遊びの誘いを断り、一人憂鬱とひた歩く。
あの時。少し離れていた桂はどんな顔をしていただろう。私に向いていただろう視線にどんな思いがあったのか。
目をそむけてしまった私にそれを知るはおろか、推し量る事も出来はしない。でも。
きっと私は桂を傷つけた。それだけは解る。
「私は…………」
同じ事を繰り返すのか。呟く声にその言葉は無い。
どのように歩いてきただろう。家を目指して向かっていたはずの足は、向かう先をずらした上に公園を目の前にして止まっていた。
「懐かしい……な」
言うともなしにこぼれた言葉は、思慕にも似た懐古だった。
背の低い滑り台にブランコ、小さな砂場。そして一脚のベンチがあるだけの小さな公園。
右へ左へ首を振り、一面を見渡しても名前を示す物は無い。私がここを遊び場にしていたあの頃と変わっていなかった。
「ナナシノ公園……」
ふと、そんな言葉が零れ落ちた。それはあの頃、「あの子」が呼んでいたこの場所の名前。
名前は聞かなかった。住んでる場所も。幼稚園でどのクラスだったかも。もしかすると別の幼稚園に通っていた子かもしれない。
推測に意味は無い。今となってはもう、それらを知る術はないのだから。
「十年、か」
ベンチに座り、指折り数えた掌を見つめれば。何かを求め、請うように開かれていた。
今、私が請う物があるとすれば、それは赦しだろうか。目を細め、右手を見つめ考える。三つ子の魂何とやらとは言うものの、これだけあれば魂だって変わるだろう。そう思う。
……そう、あれは十年前。二つの別れが降り立った少し寒い秋の日の事。
当時、私は猫を飼っていた。正確にはお母さんが結婚する前から飼っていた、真っ黒な毛並みのおばあちゃん猫。名前を「ヒスイ」と言った。
私が生まれた頃にはもう相当の高齢で、物心つく頃には起きている姿を見る事がほとんど無かったけれど、私は彼女が大好きだった。
縁側で日向ぼっこをしていると、いつの間にかそばで眠っていて。顔をそっと近づければいつも優しいおひさまのにおいがした。
そんな彼女に天から迎えが来ていた頃。私はこの公園であの子と遊んでいた。中々友達の出来なかった私にとって初めての友達で、その日は初めて出会う約束をした日曜日だった。
お昼前になって、昼食後にまた会う約束に胸を躍らせながらに帰った時。そこにいたのは「お母さんだけ」だった。
優しげで、それでありながら寂しそうに笑いながら、お気に入りの膝の上で眠るように目を閉じた亡骸を、それでも尚慈しむように撫でていた。
見ただけで全てを理解できるのに。死への嫌悪は欠片も起こらず、唯々美しく。
それ故に、私は気付くのだ。彼女に何もしてあげられなかった事を。
ただ、愛していた。それだけで何かが出来ているつもりで、私だけが満たされて。
もしも私が彼女の死を前にして、お母さんのように振舞えただろうか。問いよりも先に用意された答えが無情にもそれを否定する。差は歴然。当時の私だって解っていた事だ。
でも、だけど。それでも私はすべき「何か」を知っていなければならなかったのに。思いつかなければいけなかったのに。何も……なにも思いつけない事が、悲しくて。
思いに弾かれ踵を返し、そこが帰るべき家と知りながら、私は逃げるように遠ざかる。
誰かに聞いて欲しかった。誰かに聞いてみたかった。
私の気持ちを、私が彼女にすべきだった事を。
全てを知るだろうお母さんではなく、私自身が気付くきっかけをくれる誰かに。
当時六歳の私の行動範囲なんて知れている。その中で、あの日の私が選んだ「誰か」が。
『おひめさま?』
あの子だった。
私の事を「おひめさま」と呼ぶ艶やかな黒髪の女の子。
二人でそれぞれ別れたはずが、どうしてか目の前で砂山をこさえている。
『どうしたの?』
同じ言葉で聞こうとしてしかし。砂山を背に立ち上がり、私を見上げながら先に発したのはあの子だった。
『……うん』
誰かに想いを聞いて欲しくて、想いに突き動かされて。辿り着いた場所がここで。言葉を捜すも、そのどれも見つける事は出来なかった。
ただ、乾いた喉がひりひり痛く、瞳の奥で涙が熱く。見つからなかった言葉の代わり、こぼれ落ちたのは小さな嗚咽だった。
『あの……ね』
出会えた事の安堵だったのか、それともまた別の感情だったのか。もう涙は止める事が出来なかった。それと同じくして、言葉も。
祈るような気持ちだったと思う。ここであの子と合えたのは偶然のようなもので。こぼれ続ける言葉はもう止められず。出会い頭に泣かれたあの子の気持ちを考える暇も無くて。
だからそれは、私にとって大きな賭けだった。受け入れてくれるだろうか、と。渦巻く不安はどこまでも大きく膨らんで。うつむいた視線の先で手が震えて。
『わたしは……なにができたのかな。どうすれば……』
『……そんなの』
と。不意に届いた言葉に想いと手が止まる。そこで私は始めて顔を上げた。
『そんなの、きかれてもわからないよ』
正面に捉えたあの子は、どこか怯えた表情でそう言った。精彩の欠いた声と相成ってどこまでも私の心に重く響く。
『ごめんね、もうかえる』
ああ、私は。私は、賭けに負けたのか。
今にして言葉に表すならば、きっとそんな思いで見送った。肩より少し伸びた髪を揺らしながら、遠ざかっていく背中を。
悲しくて、寂しくて、痛くて。それでも、もう涙は出せなかった。
泣いて、気持ちを出したら一人になって。その上でまだ泣いていたら……。
『…………っ!』
思ってすぐさま目を閉じて、両の掌でまぶたを強く押さえ付けた。泣くな泣くなと心で喚き、笑え笑えと頭で叫び。
目尻に感じる熱いものなんて知らない。心に触れる冷たい疼きなんて知らない。そうやって全てを否定して、何もかも切り離して。次第に頭も心も白く白く染まり。
『あ……』
数瞬後、白い闇から意識が戻り、両手を下ろしたその時には。ぎこちなくも、崩れそうで、壊れそうな危うげなものだったろうけれど。
『は、はは……』
私は、笑えていたと思うのだ。
あれから、今日までここに来る事はなかった。あの子はあれからもここに来ていたのだろうか。だとすれば、私がいない事に傷つき続けていたかも知れない。
我ながら酷い人間がいたものだと思う。当然、忘れていた訳じゃないけれど、ここまで鮮明に思い出したのはいつ以来だったか。
ああ、本当に。自分が嫌になる。大嫌いだ。周りの多くを偽って。傷ついた振りして傷つけて。あの子も、桂も置き去りにして。
「あー……。ほんと、何で今日に限って……」
今も、私ばかりが泣いている。
気付けば流れていたなんて、そんな言い訳は通らない。私が泣いていい理由はどこにもないのだから。
せめて少しでも早く止まるよう、あの頃のように強くまぶたを抑え続ける。
私は、何も変わってなどいなかった。押し付けて、逃げ出して、傷つけて。そんな自分勝手な私のままだったのだ。
まぶたの裏に映る暗闇の中。私の心にはその思いだけが幾度も巡り続けていた。
朝。昨日の気持ちに揺り動かされたのか、いつもより早くに目が覚めた。
眠気はなく、憂鬱な気分さえ無ければ外の天気と相成ってさわやかな目覚めとなっていたに違いない。
今から学校に行った所で誰も……。いや、桂はいるかも知れない。あの子の朝は異様に早いと有名だった事を思い出す。
どうしたものだろう。昨日の事を謝るべきなのは解っている。
けれど、顔を合わせる勇気が沸かない。合わせずとも、この時間では桂としばらく二人きり。今のままじゃまた私は「間違える」。
時計の針を見つめながらしばし手持ち無沙汰な気分をもてあます。無為に時間の歩む音に耳を預ける。
普段聞いていても何とも思わないのに、こういう時には妙に急かされている気分になる。
……違う。急かしているのは私自身だ。
突き動かす。跳ねるように体を起こし部屋を出る。駆け足気味に歯を磨き、顔を洗い。制服に着替える為、再び部屋へ。
「朝ごはんは……。まあ、いいか」
冷えた空気を動かすように呟いて、冷えた制服に身を包む。冷たさでより頭が冴えていく……そうだ、まだ寝ているお母さんに書置きを残しておこう。
思うが早いか机に向かい、「いってきます」とやや走り書き。台所のテーブルにメモを置き、一つ大きく深呼吸。
「よし……いこう」
言葉の雰囲気だけでも前向きに。けれど心にもやを残したまま、定まりきらない意を少しでも打ち消すように強めにドアを開けば、いつもよりも多く飛び込んでくる朝の光。朝の空気。
ひんやりと肌に当たる風に少しだけ身が振るえ。ほんの一瞬、うつむきそうになる。
けれどそれを堪えて空を見上げ、朝焼けの時間が終わりつつあるのを知った。
秋とはいっても昼にはもう少し暖かくなるだろう。そんな事を考えながら歩みを進めていく。その内冷たさに慣れた体は意識を向けていく。自身から、世界へ。
そうして始めて気付く優しい空気の匂い、囁くような風の音、眩しさを感じない柔らかな光。朝、目覚めるのは人間や動物だけじゃないと。世界自身が教えてくれる。
近くにありすぎて、意識する事すら無くしてしまいそうな大切な事。私がこの世界に生きている事を起きてすぐに教えてくれる。だから、私は朝が好きだった。
歩けばどこまでも行けそうな。気を張らないとそのまま朝もやに溶けてしまいそうな。そんな気持ちにさえなってしまうのだ。
「……っと。いけない」
溶けるならやる事をやってから。終わらせる事を終わらせてからだ。
秋色の風と景色を振り切りながら、目指すそこさえ振り切らないように。少しづつ足早に。
「………………」
ああ、同じだな。ふと、そんな思いを心の中に見つけた。
あの頃もこうして走っていた。あの子に会う為に、あの公園に向かって。
昔から運動が苦手で、駆け出してもすぐに息が切れて。それでも早くあの子に会いたくて一生懸命に走っていた。
『かみのけ、ふわふわ。おひめさまみたいだね』
初めて出会った時。何より先にそうあの子がそう言ってくれた。
そして名前を聞こうとした私に、それをさえぎる様にして……。
『わたしはね、ぴえろさんなの。よろしくね』
「…………」
あの子の名前を聞かなかった……。聞けなかったのには理由があった。
「ピエロ……かぁ……」
その全ては、あの一言に集約される。幼い私の鈍い心にも届く確かな拒絶の意。
名前を知られたくなかったのだろうか。だとすれば、そこにあった理由は何だったのか。
駆ける思考に引かれて速さ失った足は、やがて公園の前で止まる。
どこからか風に乗ってやって来たのか、秋色に染まった木の葉達が小さな憩い場を彩っていた。
その中心に。
「……砂山?」
昨日までは無かったはずのそれがささやかに自己を主張していた。
近付いて見ると、対面まで開通したトンネルも掘られているのが解る。
『ひとりでつくるのはむずかしいんだよ』
ふと、あの子の声が脳裏に揺れた。思えばあの子と遊ぶ時にはいつも一緒にトンネルを掘っていた気がする。
向かい合って砂をかき、砂山の下で互いの手を握る。そして、どちらとも無く笑い合う。
たったそれだけの事が何故だかとても楽しくて、嬉しかった。
「…………これを作った誰かにも……」
手を繋ぐ相手はいたのかな。心にふわりと浮かんだ想いに手を引かれるままに、トンネルの奥へと腕を伸ばす。
……と、程なくして。かさりとした紙の感触に一時、指が強張った。
「……?」
自由を取り戻した右手で「それ」引き抜くと、中身を砂から守る為の覆いだと解った。
感触から察するに、中身は手紙だろうか。だとすれば私が見ていいものじゃない。
元に戻そうと持ち手の位置を変えた時だった。今まで隠れて見えなかったそこに文字が書かれていた。
『とぅ しょ〜こ』
端正でありながら、綴られた言葉を意識せずとも感じる砕けた雰囲気。
よく見返さなくても解る。……桂の、字だ。
どうして。何の為に。次々と浮かぶ疑問の全てに同じ答えが当てはまる。そして、その答えから同じ疑問が沸いて来る。
「ここに私が来る事、判って……?」
知らず、指先に力が加わっていく。
くしゃり、と。手の中の包みが窮屈そうに声をあげた。慌てて手を離す。包みを落としそうになり、抱き止めるように取り直す。
指先が震えているのがよく解る。心臓の音がうるさいほどに響いている。
よく解らない。この気持ちは何だろうか。久しぶりのような、初めてなような……。
「……桂」
失いたくない。失ってはいけない。私の大好きな。私の、大切な……。
「勇気、貰えるかな?」
呟き、思い至り、覆いを解いていく。そして、ゆっくりと。私は桂からの手紙を開き始めた……。
「そろそろ、いいかな……」
昨日の昼よりも上の空で授業を過ごし、放課後。私は天井を見つめながら屋上へ行くタイミングを図っていた。
『〜およびだし〜
ほーかごにおくじょ〜までいらっしゃい。
ちゃんと来ないとけいちゃん泣いちゃうかもよん』
手紙にはいつもの桂の口調でそう書いてあった。
見ているだけでも桂の笑い声が聞こえてきそうな、そんな文。
唯一つ、気になる所があるとすれば。最後の……。
『泣いちゃうかもよん』
桂は。私が今日公園に行かず、手紙の存在すら知る事無く学校に来ていたら。どうしていたのだろう。
この辺りでは最も空に近いだろうあの場所で、来る事のない私を待ちながら「泣いて」いたのだろうか。……なんて、悲しい景色。
「……行こう」
何とはなしに人がいなくなるのを待っていた。時間的にも、気分的にも頃合。もう屋上にいるだろう桂もこれ以上待たせられない。
席を立つ。どうしてか、気分はこれから叱られに行く子供のようで。
それ故に、私はゆっくりと急ぎながら、冷たい音の鳴る廊下をひた歩く。
一年の教室があるのは四階。屋上はここから一つ階段を上ったそこにある。
そこまでの距離が、妙に長く感じるのは。私の歩みの所為だろうか。それとも。
「……なんて、ね」
流石に空想を挟めるほどの長さは無かったようで、視線の先には目当ての階段がひっそりと佇んでいる。噂に曰く、罪人が上れば扉の先に死後の世界が待っているらしい。
どこにでもある怪談話だけど。もしも……と、私は考える。
もしも。扉を開いたその先に、桂がいなくて。いつかは逝くだろう常世の国が私の目の前にあったなら。
「帰して下さい」と、誰に願えばいいだろう。誰に懇願すれば届くだろう。
ドアノブに触れようとした手がためらいに宙を舞う。やがて力なく落ちそうになる左手を右手で支えると、重なったその手が祈りを捧げているように見えた。
私は目をつぶる。そして唇に手を寄せて、一つ静かに呟いた。
「今だけは」と。
手を解く。ためらいを振り払いながらドアノブに手をかけ、押し捻る。
開くドアの隙間から風が流れ込んでくる。風に押されてドアが重くなる前に、一気にドアを押し切った。すると。
「きゃ……っ!」
吹きすさぶ風と、色彩豊かな赤と紅が私に飛び込んできた。
「うぇーるかーーむ!」
飛んできたそれらを確認する間もなく、底抜けに明るい声のする空を見上げた。
視界を覆う漆黒。すぐさま、桂の髪だと理解する。夕陽に照らされてきらきらと輝きながら、私の前を流れていく。
姿を追う視線が正面で止まる。一際強い風が通り過ぎた後、私と同じ高さに降り立った彼女が徐にこちらに向き直る。
「はーろん、しょーこ」
桂は笑顔だった。
「来てくれたんだねっ。けいちゃんうれしーいよ」
声の抑揚も、口調だっていつも通り。
「うん……、驚いたよ。あの公園に、桂の手紙があって……」
それなのに、どうしてだろう。今の桂は、……何故か、妙にかすんで見える気がする。
「落ち葉」
「え?」
何と言えばいいだろうか。「いつもの」桂の雰囲気を感じない。
「お迎え用の。あの公園から持って来たんよん」
例えようのない気持ちが心に染み渡っていく。
「でもちょーっと失敗。硝子の顔にぶわさーってなるはずじゃなかったんだけど」
見つからない言葉を無理矢理捜して、それを言い表すならば。……そう。それはまるで、映画のエンディングのような。
スクリーンに映るスタッフロールをぼんやりと見つめている時のような、そんな気持ちだろうか。
「髪に絡まってんじゃんさ。ごめんよ〜、取ったげるから動かんといてーい」
ああ、これで終わってしまうのか。楽しんできたそれまでの時間が少しだけ冷えて、寂しさに変わっていくような……。
一番近いと思われたその表現も、言葉にしてみて違和感がある。
決定的に違うものが一つ。目の前の光景は、髪に触れる指は。カメラの前に作られた幻想ではなく……。
「髪の毛、ふわふわ。お姫様みたいだね」
現実、だ。
「え……?」
「私はね、ピエロさんなの。よろしくね」
「け、い……」
桂が笑う。あの子の言葉を、あの時の口調で囁きながら。
「……実際は、ピエロどころか疫病神だった訳だけど」
桂が、笑う。私の知らない顔で。寂しげに、儚げに。
「桂は、あの時の……」
「うん。久しぶりって言うべきなのかな?『おひめさま』」
数秒前に感じていたものは、「今までの桂」に対して感じた想い……だった、のだろうか。
……違う。私は、まだスタッフロールを見つめている。
「あれから十年、か。月日が経つのは早いね」
半月に足を回して二歩、三歩。背を向けた桂の表情は読む事が出来ない。
「あの日はね、母さんの命日だったんだ」
「……!」
強い風の音の中ですら消えない桂の声。
響く言葉が冷たく揺れて、私の胸に深く刺さる。
「あの日から数えて三年前。車に轢かれそうだった私をかばって、そのまま……」
足が動かない。桂の側に行きたいのに。桂が、一歩づつ離れていくのに。
「その時にさ、父さんがね。『疫病神』って……。すぐに後悔してたみたいだけど」
声が出ない。届かせなきゃいけないのに。立ち止まって欲しいのに。
「それから父さんは私と顔を合わせようとしなかった。私の名前を呼ぶ事も……」
へりまで歩いて。手すりに軽く触れながら、紅い空を見上げる姿はとても寂しそうで。
だけど、私は何をすればいいだろう。何と声をかければいいだろう。同調も、共感も。示す前から軽薄さ以外感じない。
「硝子が飼っていた猫が亡くなった時ね、『またか』って思った」
止め処なく進む話に私の名前が出たその時。桂が、こちらに向き直った。
「そして父さんの言葉は正しかったんだなって、そう思ったよ」
変わらず、桂は笑顔だった。変わる事無く寂しげで、変わる事無く儚げで。
「……だからね」
安らかで。暖かで。鮮やかで。綺麗で。……本当に、綺麗で。
「私はもう、死んだ方がいいと思うんだ」
意識の外で、それが辞世の笑みだと気付いていたのかも知れない。
だから、私はその言葉に驚く事はなかった。……驚く事が出来なかった。
「…………え」
どうして、嫌な予感というのは当たってしまうのだろう。驚けなかった所為で声を上げる事も出来ない。
潰れた喉から空気が漏れ出たような、そんな声を出すのが精一杯で。桂には何も届かない。
「きっとね、私がいると硝子が不幸になるから」
身体に力が入らない。震えるばかりで一歩も動けない。
「ここに来て貰ったのは、最期に色々聞いて欲しかったから、かな。勝手だって、判ってたけど……」
それなのに。冷たい筈の空の下、心臓ばかりがどくどくと騒がしく、熱く。
「まだ話したい事もあるんだけどね、分かんなくなっちゃったから。……もう、いいや」
茜色の景色が揺れている。桂の顔も判らなくなる。それでも、笑っている事が判ってしまう。悲しい事を言いながら、笑顔のままで。私の前からいなくなってしまう。
「硝子……」
いやだ。いやだいやだいやだいやだ。
いなくならないで。私の側にいて。桂がいない世界なんて……!
「ごめんね」
瞬間。揺らいだ景色の隙間から、身体を支える腕を手放した桂が見えた。
後ろに傾いてく身体が現実離れしてゆっくりと映る。そのさなか。
「……けいっ!!」
私の中で、何かが爆ぜる音がした。
世界が一変する。足の踏み切りから駆け出すまでほぼ同時。数秒前まで震えていた足とは思えない速さで桂の許へ。
辿り着くまで、あと一歩。見開いた眼差しの桂と目が合った。
腕を引こうとしても、もう遅い。私の足が遅いからって油断した桂が悪い。
死なせない。死なせてなんて、あげない。
手を伸ばし、腕を掴み、自分でも信じられないほどの力で桂の体を引き込んだ。
バランスの悪い体勢をもう片方の手で覆い、背中から抱きしめる形になる。
そのまま、私が下になり。屋上の低い地面に叩きつけられる。背中が痛い。肘も多分擦り剥いた。桂の後頭部が私のおでこに直撃した。どこもかしこもあちこち痛い。だけど。
「桂……」
抱いた温もりに感じる確かな存在。
「うん……そっか。硝子は大丈夫だったんだね」
届いたその声に確信する「生」の気配。
「私が言ったような自己犠牲を持ってなくて……本当によかった」
「ばか……。桂の、ばかぁ……」
本当は。本当は、そんな事はない。
心のどこかで、きっと思っていた。大切な誰かの為なら、その人が救われるなら。賭ける命に迷いなど持たないと。
……だけど。
『硝子が不幸になるから』
「桂がいないのが……、一番の不幸だよ……。桂が、いないと……」
桂が教えてくれた。
「……うん」
それでは意味がないと、それで救われても新しい痛みが心に残るだけだと。
「ごめん、硝子……」
目頭が熱くなるにつれて、抱きしめる腕の力が強くなる。
「それから……ありがと。私の為に泣いてくれて」
それを縫いながら、私を探して宙を泳ぐ桂の指が目尻に当たる。
目に触れないようにする為か、控えめに動く冷えた指先が涙に触れた。
「あったかいね……硝子の涙」
「……から、だ。いたい……」
夕闇の帰り道。私は桂に肩を貸りながら、牛歩の歩みで帰路を辿っている。
「火事場の馬鹿力、かな。あの時の硝子、本当に凄い早さだったし」
あの後。立ち上がろうとする私に酷い筋肉痛が駆け巡った。
仰向けのまま起き上がる事すら出来ない私に「お姫様抱っこ」を提案した桂を、何とか説得して今に至る。冗談と本気の区別がつき難い桂だけど、多分、あれは本気だった。
「馬鹿、って……。それは酷いんじゃないかな?」
「そういう言葉だから仕方ないかなって思っといて」
拗ねる私と、苦笑いの桂。私達を知る人が見たらどう思うだろうか。ほぼ動けないと言っていい中、思考だけはよくまわっていた。
「ま、それはともかくさ。そのままでいいから、聞くだけ聞いてよ」
一度立ち止まり、体勢を整えながらに桂が言う。
「何?」
「さっきの話。言いたかった事、一つ思い出したんだけどさ」
「……うん」
桂は、今思い出したように言うけれど。私は知っている。
学校を出た時からずっと、桂は何かを言いたそうにしていた。
「硝子は……」
多分それは、桂にとって言い辛い事で。だから、私も聞き出せずにいたのだけど。
「もっと、自分に素直になってもいいと思う」
その一言で。桂が何を考えていたのか、何となく掴めた気がした。
「私が逃げた所為で、それが出来なくなって……。だから私が言うのは……」
「桂」
「……硝子?」
「もう、いいの……」
瞳を見据えて言い放つ。桂にはもう、自分を責めて欲しくなかった。
目を合わせるだけで、それが通じるだろうか。そう思いながらも、それは言葉にすべき事じゃないから。少なくとも、今は。
「……そう」
何がどこまで通じたかは判らない。どれだけ時が経とうと、人の心が全て解る筈もなく。自分の事さえ解らない事だらけで、あの時の答えもまだ出ないまま。
「ところでね、桂?」
「うん?」
でも、その断片が桂の言葉にあるのなら。
「折角だから、試しに一つ素直になってみようと思うの」
まっすぐな気持ちを、素直に伝えてみるのもいいかも知れない。
「その言い方は……。もう、決まってるんだ?」
「うん」
不思議そうに尋ねる桂が、言葉を受け取った時。どんな顔をするか考えながら
「大好きだよ、桂」
伝えたその「大好き」が、私の中で変わって行くのはもう少し先の話。
説明 | ||
穏やかな笑顔を決して絶やす事のない高校一年の七海 硝子(ななみ しょうこ)。 些細な日常と、親友である伊丹 桂(いたみ けい)の一言で笑顔に歪みが沸いた時、今へと繋がる彼女の昔話が始まる。 ……とか、そんな話だったようなそうでもないような。とりあえず百合ジャンル。 |
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