ヤミの国のいりす
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甲高い声で鳴いて、ぎょろぎょろと五月蝿い眼つきで、大事な所に勝手に入り込んで。

猫なんか、この世から消えればいいのに。

 

猫なんか。……猫、なんか。

 

 

 

「ヤミの国のいりす」

 

 

「………………ぁ」

 

視線を上げた先に時計が映る。二本の針は今が夕刻である事を教えてくれた。

思考の闇の中に自らを入れ溶かしている間に時は一人歩きをしていたよう。

その割りに、成果と言えば……。

 

「いまひとつ、ね」

 

考える事は一つだけ。あの泥棒猫を葬る計画について。

あの旅行以来、あの猫は前にも増してうーじに馴れ馴れしい。

 

『私、知ってるんだから!』

 

脳裏に過ぎるあの日の言葉。思い出すだけで全身が鬱血するような最悪の気分になる。

私はうーじの恋人。恋人の事を見つめて何が悪いのか。誰が私を咎められるか。

 

それなのに。それなのに、あの女は。あの泥棒猫は。私を。私に。

 

なんなの? 猫のくせに……!

 

「……けふっ、こほっ…………」

 

闇から抜け出した途端、思い出したかのように咳を出す私の身体。

手放せなくなった咳止めは日に日に増えていく。

 

既にいくつ目かも忘れた粉薬を水を使わずに飲み下す。慣れたものだ。

頭のぐらつく感覚に酔いながら、咳が引くのを待つ。

 

3、2、1……。カウントと共に静まる咳。静まる私の心。

もう大丈夫。しばらくは。もう少しだけならこの図書館内で計画を練る事も、大学構内を周る事も出来る。

何をすべきか。覚めた心で幾つかの候補を挙げる。

 

「……うーじ」

 

候補の筆頭はうーじに会う事だった。

この時間にうーじがいるかは知らないけれど、きっと会える。私はうーじの恋人なのだから。

 

 

リノリウムを蹴る音が静寂に響く。この空間に今、私しかいない事の証明。

うーじはどこだろう。夕日が沈むまでには見つけたい。

きっといる。絶対に見つかる。私が、見つける。

 

かつかつ、かつかつかつ。

知らず、床を蹴る音がリズムを刻む。

かつかつか、かつかつ、かつ。

幸せな気分に胸が弾む。あの頃の私に戻ったよう。

 

もう二度と手放さない。金網の内側に猫なんて入れない。入れさせない。

大丈夫。うーじは私が守るよ。うーじの大嫌いな猫から、私の大嫌いな猫から。守るよ。

 

かつ、かつかつ。かつかつ、かつ。

購買に行って、学食に行って、廊下をぐるっと見回って、もう一度図書館に行ってみたり。

見つからないけど、少しづつ。少しづつうーじに近付いている。そんな気がする。

 

後は、講義室。うーじのとってる授業の場所を回ればそれでおしまい。

うーじが今日受けた講義は知っている。そこに行けば、きっと。

 

 

ドアノブに手をかけ、ドアを押す。閉じ込められた空気のにおいがする。

うーじは……いない。けど、うーじがいた事実が「そこ」にあった。

 

うーじのノート。私とうーじを結んだ運命のノート。

うーじの物だけれど。私の、宝物。

ここにいればうーじが来てくれる。ノートを取りに、ここへ。

 

もうすぐ来るだろうか。もうすぐ。

夕日はまだ沈みそうに無い。計画はまだ実行すらしていないけど、先駆け的に二人でイラストを愛でるのもいいかも知れない。

 

待ちきれない。待ち遠しい。心ばかりが急いて、急いて。

頭も、心もぐるぐる回って、今にも「私」が溶けてしまいそう。

ぐるぐる回って行き着く先は、ジャムか、マーガリンか。セオリーとしてはバターだろうか。

 

なんにしても、そうなる前に来て欲しい。瞼の裏で何を壊そうとも落ちつかない気持ちを冷まして欲しい。

 

「ごほっ……」

 

どうやら薬の効き目が切れたよう。昂る心に敏感に、かつ迅速な私の身体。

落ち着けないと。そう思っても、うーじの事を考えるだけで止まらなくなる。

 

壊して、壊して、壊しても。心の熱さは冷め止まない。

このままじゃいけない。咳がどんどんと激しくなる。

 

「ノート……」

 

そうだ。ノートの中のイラストを見よう。それで治まってくれるはず。

ごめんね、うーじ。イラスト、先に見ちゃうね。

 

徐にノートを開く。私の望む世界をそこに求めて…………。

 

 

「…………え……?」

 

もと、めて……?

 

 

 

そこには、奇妙な世界が広がっていた。

 

たくさんの鉛筆書きのイラスト。

 

 

うさぎが密室で七輪を焚いていたり。

うさぎが激しい雷の中で凧揚げをしていたり。

うさぎが大量の紫煙をあげて緩慢な自殺を遂行していたり。

うさぎが真上に発砲して自由落下してきた弾丸に脳天を打ちぬかれていたり。

 

うさぎが。うさぎが。うさぎが。うさぎが。

 

「………………」

 

何これ。何これ何これ何これ何これ何これ。

違う、こんなの違う。私の求める世界じゃない。こんなのうーじのイラストじゃない。

 

だってうーじは猫が嫌いで。うーじのうは、うさぎのうで。私の、私の運命の人で…………!!

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」

 

叩きつける。同時に、筆箱を漁り、取り出す。赤と、黒のボールペン。

 

「こんなもの!! こんなものこんなものこんなものこんなもの!!!!!!!!!」

 

ありったけの力で絵を潰す。引っ掻く。削り破く。

激高は覚めず。ノートの端で手が切れ血が出ても、血の味がする激しい咳が出ても。

 

無茶苦茶に、ぐちゃぐちゃに、がりがりと。黒く、赤く、紅く。赤黒く。

 

それでも、消えない。泥のように重くて黒い物が。心から消えない。落ちない。流れない。

 

「うぅぅぅぅぅぅぅじいいいいいいぃいいいいいいいい!!!!!」

 

愛しい人の名前を叫ぶ。その声が、何故か他人の物に聞こえる。

その声が、妙に耳に響いて。段々遠く、遠く……。

 

とお、く…………。

 

 

 

 

「…………あ、れ……?」

 

 

 

 

気付けば、私は見た事のある世界にいた。瞼の裏の空想世界。私だけの場所。

今まで壊し続けてきたなにかは腐り切り、どこにも行けず窮屈そうに積まれている。

 

私が触れた途端、積まれたそれらがガラガラと崩れ落ち、私の前にもう一つの世界が開く。

 

そこには、「私」がいた。両手を傷だらけにして、血と二色のボールペンでうーじのノートを塗り潰している。

なんの事は無い。さっきまでの私だ。

 

不思議と疑問を感じない。むしろ、安らぐ思いすらする。

 

それはまるで。……そう、戯曲を眺める観客の心情。

目の前の世界に一喜一憂しながらも、それが作り物である故に持てる安堵に似ている。

 

「…………」

 

……そう、か。そういう事だ。

目の前の光景は。さっきまでの私は。今まで見ていたものは。全て、嘘。虚構の世界。

 

「は……」

 

うーじの描いているイラストは猫のままだし、うーじは私の恋人。うーじと私の世界は何も壊れていない。

 

「あはは……っ」

 

何を慌てていたのだろう。当たり前じゃないか。そんな事があるはずがない。

全ては夢。おかしな白昼夢。目が覚めれば、はっと気付いたら私は図書館で物思いにふけっているに違いない。

 

解ってしまえば何の事は無い。作り物の世界に向ける感情なんて高が知れている。

だから。目の前の光景に心を揺らす事も無い。

 

……無い、はずなのだけれど。

 

やはり目の前の光景はいただけない。

私の愛しい人が、私の愛しいものを壊し続けるなんて。

そんな絵を書き続けていたなんて、虚構であっても許されない。

 

ふと、視界の先にゴミ箱が見える。ノートを引き裂いている「私」の左後ろ辺り。

思う事は唯一つだった。試しに目の前の「私」に念じてみる。

ドラマで死ぬはずだった登場人物が視聴者達の声で生き延びる事になった。そんな話を思い出す。

時として、観客は戯曲の流れを変える力を持つのだ。

 

私は念を強める。そんなにそのノートが気に入らないなら。そんなにそれが邪魔ならば。

そんなもの、引き裂いてゴミ箱にでも捨ててしまえ、と……。

 

 

 

 

 

 

「…………ぅ」

 

目に刺さる光の感覚。控えめに、弱弱しく。それでも、確実に私の意識を浮かび上がらせる。

 

「あ、目を覚ましたね」

 

すぐそばで声が聞こえる。聞き間違うはずも無い。これは、うーじの声。

 

「おはよう」

 

「ん。……おはよう、うーじ」

 

目覚めて最初に見るのが愛しい人。おまけに邪魔な二人もいない。

辺りを見回せばここが保健室で、予測の中でここは図書館だと思った故の違和感を除けば最高のシチュエーション。

 

「ノートを取りに行ったら君が倒れてたから驚いたよ」

 

驚いた光景が一切目に浮かばないのんびりとした声。

その中に、一つ。脳の奥をジン、と熱くさせる言葉を見つける。

 

「……ノート?」

 

「うん。知らない?」

 

何だろう、頭がずきずきと痛い。

 

「……どんなノート?」

 

「普通の大学ノートだよ。うさぎの絵が描いてあるんだけどね」

 

どうしてだろう、ぐらぐらと気持ち悪い。

 

うさぎ、……うさぎ。うーじの描いたうさぎの絵。

まだ、戯曲の途中? どうして私はここに?

 

「…………」

 

「入巣さん?」

 

……そっか。そういう事。

私は戯曲に招かれた。役者として、舞台に上げられた、と。

 

「……知らない、かな」

 

「んー、どこいったのかなー」

 

それならば。ひとつ、役者として舞台を完成させようじゃないか。

幕引きと共に夢から覚めるのがベスト。ここから一気にクライマックスへと導こう。

 

「ねえ、うーじ」

 

「ん?」

 

この世界のうーじは、猫。

甲高い声で鳴いて、ぎょろぎょろと五月蝿い眼つきで、大事な所に勝手に入り込んで。

どれもうーじに当てはまらないけど。それでも、うーじは猫なんだ。

猫は、この世から消えればいい。消さなきゃ。

 

「後ろにあるそれ、うーじのノートだったりしない?」

 

「え、どれ?」

 

視線の端に見えた分厚い医学書を、うーじの眼がそれた隙に取る。

なるべく、うーじの顔を浮かべないように。私は、それを思い切り。思い切り振り上げて。

 

「ノートらしき物は無いみたいだけど…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごめんね、うーじ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからの事は、あまり覚えていない。

一歩歩みを進める端からその一歩を忘れる。だから、どこをどう歩いたかなんて思いだせるはずも無く。

 

けれど、あの泥棒猫を探している事だけは心に留めて。

 

 

「けほっ……」

 

 

夢から覚めないのは、まだ戯曲の幕が下りていないから。幕を下ろすに相応しい結末から遠いから。

すべき事は一つ。いつだって、考える事はそれだけでいい。

多くの事を考えるから。あの時のように計画がうやむやになってしまうんだ。

たった一つ。それだけあれば実行は可能なのだ。

 

「…………」

 

視線の先にあの女を見つける。

思考を冷やす。思考の全てを「たった一つ」で繋げる。

 

たった一つの思考の許、たった一つの凶器を持って、たった一つの方法で、たった一つの結末へ。

 

「……」

 

繋がった。あの女はまだこっちに気付いていない。回りに人もいない。

アポカリプス・ナウ。私は走り出す。

 

 

静かに、しかし激しく。目標まで5メートル、4、3、2……。

 

目標がこちらに気付く。けれど、もう遅い。反応も、それに対する判断も、それに基づく初動も。

0・5秒後には距離が0に。1秒後には私が獲物を振り上げて。

 

 

1.2秒後には……。

 

 

 

 

                                                END

説明
「いりす症候群!」の「滅」が出る前の10万点ネタばれ二次小説です。説明を読んでピンと来ない方は多分読んでも面白くないです。
ピンときて読んでみて面白くない場合は私の責任なので申し訳ございません。
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