遥か遠く、海の向こうから。 |
会いに行くから。
きっと、会いに行くから。
たとえどれだけかかったとしても――
むくりと起き上がったあたしを待っていたのは、ありふれた景色だった。
いつもの自分のベッドの上。白い天井、見慣れた一人暮らしのワンルームアパート。
部屋の隅には高校のときから続けているギターだとか、液晶じゃないからころんとした立方体の形をしたテレビ。他にも掃除機だとか、大学に来てすぐ買った3年物のノートパソコンだとか、いつも自分が使っている家具が並ぶ。
「頭痛い……」
痛みでやっと思い出す。
風邪ひいて寝てたんだった。そうそう、大学の講義中急に気分が悪く早退して、うちに帰ってからずっと寝てたんだった。
枕元にあった携帯電話を見ると、着信履歴が尋常じゃない数入っていた。
何かあったのかな?
とりあえずメール着信を確認する。
「うわ、新着59件……?」
メールボックスを開くと、そこに現れたのはひどく緊迫した文章だった。
『早く連絡しなさい!』からはじまった母親のメールは、最期は『無事を祈っています』に変わっていた。その間にも似たような内容の友達や彼氏、大学の先輩からのメールが大量に送られてきている。
あらら、風邪をひいている間ずいぶんみんなに心配かけちゃったみたいだ。
日付は寝込んだ日からなんと2週間が経っている。そりゃ心配もするわ。
着信記録も同じような相手からだった。留守電も多いけど全部メールと同じ内容だろう。まさか2週間も寝込むとは……不覚だ。そんなに疲れていたんだろうか。
とにかく親に連絡するのが一番だよね。そう思ってボタンをプッシュした。が……
「何で出ないの?」
仕事中かな?
パートで働いている母のことだ。この時間は忙しかったかもしれない。きっと友達も彼氏も先輩もみんな授業中だ。
しかたないな。
友達みんなに『復活しました!心配してくれてありがとう』ってメールを一括送信して、とりあえずシャワーを浴びる事にした。7月終わり、寝ている間にかなり汗をかいてしまった。
ざっとぬるい湯で体を流してさっぱりする。が、浴びている最中に突然お湯が出なくなった。
「冷たっ!」
しばらく待ってみたがもう一度お湯が出る気配はない。
故障かな?
仕方ない。今夏でよかった、と思いながら冷たい水で流して出た。
すぐに携帯を見たのだが、返信はまだない。まあ、みんな授業中だから仕方ないか。でも、一人もこないって言うのは少しばかり寂しい。
ドライヤーをかけようとしたが、なぜか電源が付かない。テレビもつかなかった。おかしいなと思って冷蔵庫を開けると腐った匂いがした。もやしは液体化してたし、パックの牛乳はどろどろした塊と化していた。
「停電でもしてた?」
そう、そのあたりであたしは気づくべきだったんだ。
切羽詰ったメールの内容。返信のない携帯電話。お湯の出ない蛇口。電気の通らない家具。
そして、2週間という時が経っていた事。
いくらひどい風邪だってそんな長い間意識がないのはおかしいと気づくべきだったんだ。
気づいたのは、外に出てから。
セミロングの茶髪を高い位置に括って、ラフなジーパンにタンクトップ。わざわざデート用の女の子っぽい服を引っ張り出すのは面倒だったからこれで十分だ。ちょっと外に行って帰ってくるだけ出し、いつも履いている黒のスポーツサンダルを引っ掛けてアパートのドアを開けた。
最初に気づいたのはひどい腐臭。冷蔵庫の中とは比にならない悪臭に、思わず吐き気を覚えた。
思わずばたんとドアを閉めて部屋に戻る。
――いったい今のは何?
腐臭は……実はよく知っている。
なぜかと言うと、あたしが大学で専攻しているのが『生物学』という分野だからだ。外を埋める腐臭は、実習で狸の骨格標本を作ったときに肉を削ぎ落とす過程で嗅いだ匂いと同じだった。
心臓がすごい速さで脈打っている。
「何……?」
でも、電気がない今状況を知るには外に出るしかない。自分の目で確かめるしかない。
もう一度部屋に戻り、タオルを口元に巻いた。
そして、大きく一つ深呼吸してから覚悟して部屋のドアに手を掛けた。
誓って言える。
あたしはただの大学生だ。まあ、偏差値的に言えばほとんど日本のトップに入るかもしれない国立大学生である事を除けば。生物学専攻でマクロの方面、特に進化や分類に興味があったりする。そこから最近は地球科学分野にも足突っ込んでみたりして、ほら、あの、恐竜滅亡!みたいな感じの?そうそう、古生物学っていうんだよね、あの分野は。
特技は剣道っていうのだけは珍しいかもね。その辺のシロートの男なら負けない自信もある。だから運動はそこそこ出来て、お陰でがりがりに痩せてはいないけど細身なほう。顔も10人いたらその中で4番目くらいかな。美人じゃないけど目を背けるほど不細工ではない感じ。
自分で言うのもなんだけど、顔とスタイルは悪くない、頭はいい、運動も出来る。愛想もいいし、これと言った欠点も見つからない。
要するにけっこう幸せな大学生活を送っていたんだ。
理系学部だから回りは男の子ばっかりで、男女構わず友達も多かったし。そろそろ2年近くなる彼氏だっていた。
そう、神様に見初められる理由は一つだってなかったんだ。
それなのに。
あたしの目の前に突きつけられたのは信じられない現実だった。
アパートを出てすぐの道に倒れている人を見た。
近寄ろうとした足がすくんで動かなくなる――あれは、死体だ。動物実験で様々な生物の死体を扱ってきたあたしにはすぐに分かった。
ピクリとも動かない。腐臭もある。なにより、あの塊の上に大量のハエが飛んでいる……死んでからかなりの時間が経っているのは一目瞭然だった。
あたしは愕然となった。
いや、そんな言葉じゃ表現できない。
凄まじい悲鳴を上げて走り回った。見慣れた街が見慣れない景色に染められている。悲鳴と涙が途切れることなくあたしの中から飛び出して、夏の青空を切り裂いた。
何か日常を探して駆け回ったのに、その先にあったのも累々と横たわる人間の死体だった。
アスファルトの道に折り重なるようにして倒れている死体。死体。死体。女性、男性、子供も大人も老人も関係なくただの腐った肉の塊として転がっている。
これは何?
一体何?
大きな交差点では車が衝突した跡がある。ぶつかった車の中にも死体が見える。
「誰かっっ!!」
お願い、誰か!
叫ぼうとしたが喉がからからに渇いていて声が出ない。腐臭を防ごうと巻いた口元のタオルも呼吸を妨げていた。
タオルを剥ぎ取って叫ぶ。
「誰かいませんか!!!」
肺の中に腐臭が入り込んできた。
音のない大通りに自分の声だけが響いた。
返事はない。
ポケットの携帯電話を取り出す。電池の残量が少ない。返信メールはない。
震える指でボタンを押す。ぴぴっと、電子音がする。
「お願い、出て……!」
携帯電話を耳に当てて呼び出し音を聞きながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を腕で拭って、とりあえずこの街の状況を知るために山の上を目指す事にした。
どうしようもない絶望感が全身を支配する。今にも両手足が動かなくなりそうだった。
それでも、まず確かめなくちゃいけない。
途中で通った病院の前は特にひどかった。前面のガラスが派手に割れて、そこに数人の死体が積み重なっていた。その中には医者と思われる白衣の男性の姿もあった。
目を背けながらひたすら山の頂上を目指した。
山を登り始めると腐臭が少し遠のいた。
嗚咽としゃくりをあげながら、何の音もしない山道を登り続けた。標高数百メートルのこの山は、登山道だけならほんの30分もあれば街全体を見渡せる場所に出る。
どうしてこんな事になっているんだろう。
まるで映画で見た『地球最期の日』みたいだ。
あの主人公はどうしたんだっけ?
この山はいつもと変わらないように見えた。途中で湧き出ている水もいつもどおりだった。そこで喉を潤して、また頂上を目指す。
「あれでしょ? 原因はどっかの国の秘密機関が開発してた細菌兵器ってやつでしょ?」
途中のコンビニで盗ってきた乾パンを齧る。お腹はすいていなかったが、今のうちに何か腹に入れておく必要があるだろうと思った。
どっかの少年漫画の主人公が言ってた。『食える時に食え』って。
それから、何をしたらよかったっけ?
そう、身を守る手段。
「剣道やっててよかったな」
現実逃避にそんな言葉を口にした頃、ようやく山の頂上に到着した。
ゆっくりと、眼下に広がる街を見渡してみる。
「あぁ……」
思わずため息が漏れた。
見慣れた街の光景は全く変わっていなかった。
なにが違うって?
動くものが何一つ見えなかったってこと。
以前この山から見下ろしたときは車の流れや、少なくとも人が歩いているのが見えた。そんな小さな都市ではないのだ。こんな真昼間に誰も歩いていない事などあり得なかった。
どうしたらいいんだろう。
崩れ落ちた自分の横で、電池の切れた携帯電話がピーっという電子音を上げて沈黙した。
世界が滅亡してから1年が経った。と、思う。
というのも、もうだいぶ記憶が曖昧になってきていたからだ。たぶん僕はついこの間19歳になったはずだ(・・・)。
極東の小さな島国で偶然作り出されたウィルスは、偏西風に乗って世界中を駆け巡り、瞬く間に空気感染で全世界を支配した。人間に関していえばその致死率はほぼ100パーセント。ほぼ、っていうのはここに生きている僕がいるから100じゃないってだけだ。
それは全部僕が後で調べた事だった。
いったいどこのB級映画の話だよ!
そんな突っ込みはもう飽きてしまっていた。
もうどれだけ泣いたかもわからない。何度死のうとしたかも分からない。
でも、たいていそういう映画だったらヒロインが用意されていて苦労の末に会えるわけだろう?もし僕が死んでしまったらきっとその彼女は一人で泣く事になる。それだけは嫌だったから、ずっとここまでがんばってきた。
何度も何度も神を恨んだ。
どうして僕なんだ。何のとりえもない、毎日を生きるだけで必死になるようなちっぽけな人間なのにどうして僕を選んだりしたんだ?
もちろん恨んでも答えがない。
沈黙の世界ではむなしさが募るだけだった。
「さ、行こうか」
この地獄で唯一残っていた飼い犬のフィンを連れて家を出る。
今日も人を探しに行こう。父親のものだった銃を裏ポケットに忍ばせる。
くんくんと寄って来たフィンの喉を撫でてから、ばたんと扉を開けて外に出た。
ほんの一年くらいじゃこの街は変わらないように見える。アスファルトだってそんなに剥げてないし、映画のようにひどく蔦が蔓延ってくるわけでもない。
そして今もまだ希望は捨てきれない。
まだ、これが夢なんじゃないかって。明日目覚めれば母がいて、『おはよう、ケリー』って言ってくれるんじゃないかって。彼女譲りの金髪を撫でながら『悪い夢でも見たの?』なんて――
毎朝声をかける場所がある。そこには僕の母が眠っていた。
「今日も行くよ。もしかしたら今日こそ誰かに会えるかもしれない」
簡素な十字架の下には毎日花を添えていた。
何の力もない僕にできる精一杯だった。
ウィルスが蔓延する頃、僕は体調を崩して眠っていた。学校(スクール)を休んで眠った僕が目を覚ました時最初に見たのは、変わり果てた母の姿だった。肌はすでに腐っており、大好きだったふわふわの金髪だけで判断した。腐臭が漂うその体を庭に埋め、死体の山に埋まった周辺地域を散策した。
今でこそ死体はすべて微生物に分解されたが、当時は凄まじい腐臭から逃れられず、むせるほど顔を洗い、吐くほど水を飲んだ事もある。
半年ほどかけた調査によってかろうじて残っていた新聞や、緊急で配られたと思われるビラ、それに勝手に潜入して集めたTV局に残されたテープだとかを手に入れた。
電気は完全に止まっていたが、意外と自家発電している施設があったりする。とくに病院なんかには多い。そこをうまく使えばなかなか快適な暮らしをすることだって不可能じゃなかった。
この世界で盗みもくそもない。何もかも使い放題だった。最初の1ヶ月くらいは使えた水道ももう出なくなってしまってから、飲料水はもっぱらスーパーに残っているミネラルウォーターだった。
そしてこの一年間で分かったのは、もうこの辺りにはもう人間はいないんだろうなって事だった。会えるのは死体ばっかりで、生きた人間には一度も会えなかった。ラジオ局を勝手に使おうとしたこともあったけれど、使い方が全く分からなかった。
無人になった学校にも図書館にも欲しい本は死ぬほどあるんだ、通信手段だってそのうち勉強してみるさ。
ところがその日はなんだかいつもと違う気がした。
目覚めて絶望に包まれたあの日と同じ、真っ青なシアトルの空を見上げる。
昔はよく近くの空港から飛び立つ飛行機の轟音が響いていたりした。今では見たこともないような大きな鳥の影がある。どこか遠くからやってきたんだろう、名前も知れない鳥に食料として以外の興味はなかった。
ここはアメリカ合衆国ワシントン州シアトル郊外――そんな名前、もう意味を成さない。人類がいなくなったこの世界では。
僕の名はケリー=ウィンストン。それももう意味がないな。
呼んでくれる『ヒト』がいないんだから。
わんわん、と切羽詰った声でフィンが吼えている。
「どうした、フィン」
栗毛の小型犬だから、最近頻繁にシアトルの街付近まで現れるようになった大型の哺乳類に会ったら一撃でやられてしまうような小さな体だ。
胸の銃を抜いて構えながらフィンの元へ向かう。
息を潜めてフィンのいる場所に行くと、目に入ったのは白骨化した死体だった。もう見慣れた自分にとって特別気にとめるものではない。
「何だ、どうして騒いだんだ?」
フィンの頭を撫でてやると、その栗毛の犬はくんくんとその骨の下にある黒い箱を引きずり出そうとしている。
これは何だ?
気になって骨をどかしてその箱を手に取った。
何だろう、微かに音がする……音?!
はっとしてその箱に耳を当てた。
『……ガ……ァ』
雑音に混じって人の声がする。
慌てて箱に付いたつまみをめちゃくちゃに回した。
すると、その箱からはっきりと人の声が聞こえてきた。
その瞬間、僕はあんなに憎んでいた神に心から感謝した。箱から聞こえてきたのは若い女性の声だったのだ。
待ちに待ったヒロインからのメッセージだった。
それは噂に聞いた『無線』というやつだった。
世界中の人と繋がる事が出来るって、親友のビットがよく自慢してたのを覚えてる。使い方をよく聞いておけばよかった。下手にいじくりまわすとこの声が途切れてしまいそうだ!
失敗するわけにはいかなかった。初めての人の声だ。
一年前から録音以外の声を聞いていない。
興奮しながら箱に向かって叫んだ。
「ハロー、ハロー? 僕はここにいるよ! 答えて! 君は誰?」
『??っ!! ……―!』
ところが箱から響いてきたのは全く聞いた事のない言語だった。
『!===?っっ!!!』
向こうも興奮してしまっているみたいで、うまい返事が返ってこない。
「僕はケリー! ケリー=ウィンストン! 答えて! 君は誰?」
向こうにいるのは違う言語を話す女性らしい。
が、ほんの少し待っていると、今度はたどたどしい英語が返って来た。
『こ、こんにちは。英語、話せないから。だから、ゆっくり』
よかった!
それを聞いた僕は叫んだ。
「僕の、名前は、ケリー。君の、名前は、何?」
はっきりと区切ってそう言うと、またたどたどしい英語が返ってきた。
『私はミナ』
「ミナ!」
僕は黒い箱を抱きしめた。
理屈じゃない涙があふれてきた。通信の向こうからもミナの泣き声と嗚咽が聞こえてきた。
僕はやっとヒロインと出会えた。
あの最悪の日から半年、あたしはまるで亡者のようにして過ごしていた。
人の腐る匂いがもう当たり前になるような生活の中で、死ぬって言う選択しすら持たずにただ食べて、動いて、生きて、いた。
大切な人もみんな失って、世界も何もかもが崩壊して……あたしは文字通り生ける屍と化していた。何もない世界を徘徊するだけの亡者だった。
そんなあたしを変えたのは、意外にも「寒さ」だった。
何もしないうちに秋になり、かなり肌寒くなってきた頃にようやくあたしは死の恐怖を感じた。
生きるためにあたしは目覚めた。
何もかも残っていた。地球温暖化なんて何のその、ガソリンも灯油も使い放題だった。
そして、車に乗る事を思いついた。
その瞬間あたしの世界はかなり広がった。
自分で言うのもなんだけど、もともと頭はそう悪くないんだ。
そこからあたしはとにかくこうなった原因と生き残りを探して奔走した。通信手段を探し、時には発電所に入り込んだ事だってある。残念ながら一人じゃ発電するのは無理だったけれど。
本は死ぬほどあった。勉強する時間も有り余るくらいにあった。
情報を集めるのも簡単だった。
これほどまで自分の頭脳に感謝したことはない。そして――頭脳を恨んだ事もない。
「最悪だ……」
あの死体の山を築いた原因。
以外にも足元にあった。
あたしが通っていた大学の生物学分野ミクロ部門の研究室で研究していた遺伝子操作ウィルス、それが人類にとってほぼ100パーセントの致死率で作用した。詳しいことは分からないが、あたしにはその抗体があったらしい。それでも、そのウィルスの強さは半端ではない。きっと空白の2週間は仮死状態にあったに違いない。
そこまで知ってから、あたしはひとつの結論に達した。
「きっと他にも生きてる『ヒト』がいる。抗体を持つ人がどのくらいの頻度でいるか分からないけど、世界中探せば一人くらいいるはずだ」
それはたった一つの希望だった。
あたしが選んだ通信手段は無線だった。
電気がほとんどない今、大量にストックのある電池で全世界に呼びかけられる無線は手ごろな手段だと言えた。
ただ、問題もある。
相手が答えてくれなければ意味がない。
それでも。
あたしは、自分が全世界で生き残ったくらいの確率しかない希望にかけた。
毎日毎日朝と、寝る前に呼びかけた。
もう時間の感覚なんてない。いったいどのくらいの時間が過ぎたんだろう。気が遠くなりそうな時間を一人で過ごした。生き残っていた飼い犬と暮らした事もある。が、鎖も繋いでいなかったそいつはいつの間にか山に帰っていってしまった。
いっそのこと気が狂ってしまえればよかったかもしれない。
そうしたらもうこの孤独からも絶望からも開放されるのに、何故か自ら命を絶てないでいた。
もしかすると、世界中のどこかにヒーローが待っていてくれるのかもしれない。いつか助けに来てくれるその人を待っていたためにあたしは死ねなかったのかもしれない。
それにこんな世界じゃ、ヒーローだって信じられないくらいの孤独を抱えているはずだった。
そして、その奇跡は唐突にやってきた。
毎晩の日課になっていた無線のチューナーをくるくると回す。いつも返事の返ってこない無線は、もう何本もの電池を消費していた。毎晩握り締めて眠るものだからあたしの手にすでにしっくりと馴染んでいた。
「誰か……答えて……」
ざざっ、ざざっと雑音のみを伝えるその無線は、今日も沈黙したままだった。
もう寝ようかな。
諦めて電源を切ろうとしたその時、無線から雑音以外の音がした。
「?!」
思わずばっと起き上がって無線を握り締める。
「誰? 答えて!」
少しずつ音が近づいてくる。
甲高い、意味を成さない音。
これは……犬の鳴き声?
ああ、そうか。人じゃなかったんだ……。
一瞬でも期待した自分にがっかりする。
が、それは一瞬だった。
『Wa……? Fin,…found……T?』
――人の声。
ひどく聞き取りづらいが、若い男の声だった。
心臓が跳ね上がる。
人の、声だ。
一年以上聞いていないヒトの声だ。
「お願い! 気づいて! あたしはここにいる!!」
必死に無線に向かって呼びかけた。これを逃したら二度と繋がらない気がした。
自分の他にもヒトが生きていた事に、胸が打ち震えた。あたしは、一人じゃない。
天に祈りが通じたのか、それとも神様は最初からあたしたちの間に繋がりを持たせる気だったのかわからないが、無線の向こうからはっきりと声がした。
『Hallo, hallo ? I’m here! I’m here! Who are you?』
その声を聞いた途端、涙が溢れた。
一年間。
誰もいない世界でただ生きてきた。未来も絶望に包まれた中で、ただ……
「ああ!! よかった、ヒトがいたんだ! ありがとう、神様! ありがとう……!」
何を叫んでいるのか自分でもよく分からない。
ただただ嬉しかった。
この広い世界であたしは一人じゃない。
『Hi! This is Kelly! Kelly Winston! Please! Who are you?』
向こうから聞こえてきたのは流暢な英語だ。
そうだ、日本語とは限らない。
ずいぶん前に覚えたたどたどしい英語を利用して頭をフル回転させる。
「H, Hallo. I can’t speak English., so please slowly…」
これであっているだろうか?
大体意味は通じるはずだ。
すると無線の向こうから確認するようにはっきりと区切った言葉が返ってきた。
『My - Name - is - Kelly. What - Your - Name? 』
今度ははっきりと理解できた。
ケリー。
無線の向こうにいるのはケリーというヒトらしい。
「I’m Mina.」
そういうのが精一杯だった。
無線の向こうから悲鳴のような歓喜の声が上がって、嗚咽が漏れた。
あたしももう限界だった。無線を握り締めて、この通信機の向こうにいるケリーと共に一晩中泣きまくった。
無線の向こうにいるのはケリー=ウィンストン、アメリカのシアトル郊外に住んでいた19歳の青年らしい。あたしより3つ年下だ。彼も抗体を持っていたらしく、あたしと同じように永い眠りから覚めると何もかもがなくなってしまっていたと言った。
最初に無線から入った犬の声は彼の飼い犬のフィン。栗色の小型犬できゃんきゃんといつも吼えてうるさいんだ、とケリーは困ったように言っていた。
一年ぶりのヒトとの会話。苦手だった英語を勉強するのが楽しくて仕方なかった。
無線を持ち歩いていろんなことをケリーと話した。
家族の事。学校の事。今はもういなくなってしまった友達や彼氏のこと。
その中でケリーも少しずつ日本語を覚えていった。
『ミナ、君は今 Where、ドコにいるの?』
「日本だよ」
『Oh... 遠いネ』
ケリーはそう言うとしばらく黙り込んだ。
あたしは最近図書館からはがしてきた地図を見て、距離を確かめる。
彼との間に横たわるのは太平洋。とてもじゃないけれど、あたし一人で渡れる距離じゃない。
それでも、ケリーは無線の向こうでポツリと呟いた。
『I want to see... Mina』
「無理だよ、ケリー」
あたしはこの一年ちょっとですごく強くなった。一人でも生きられる。
特にはるか遠い大地でも生きているヒトがいると分かってからは、毎日に希望が湧いていた。最近では通信系の学位がとれるくらいに勉強し、ラジオを使って全チャンネルで日本中に放送を流していた。
あたしはここにいる。生きているヒトがいたら、ここにきて。
あたしは、ここにいる。
『会いたいヨ、ミナ』
ケリーの声が悲痛に響いた。
あたしはそれに答える言葉を知らなかった。
二度目の夏が終わろうとしていた。
そろそろ冬に向けた準備をしなくちゃいけない。
ケリーは最近やたらとあたしのいる場所について聞きたがった。地名だけじゃなく緯度、経度にいたるまで。何をたくらんでいるのは聞かずとも分かった。
彼はきっとここを目指す気なんだ。
しかしこの広い広い海を渡るなんて無理だ。人間たちがたくさん活動していた頃だったら飛行機でも大きなフェリーでも使って来られただろう。この世界にはそんな手段はない。
「ケリー、何を考えてる?」
『何も』
聞いてもケリーはしらばっくれるばかりだった。
怖い。
怖い。
だってケリーを失ったら、あたしは本当に一人になってしまう。
「無茶、しないで」
『大丈夫だよ、ミナ』
あたしは彼に依存していた。
もう優しい彼のテノールを聞かないと眠る事が出来ないくらいに。
会いたい。
会いたい。
その気持ちはもう我慢できないくらいに膨れ上がっていた。
無線の向こうの女性はミナ=サクマ、英語はひどく苦手そうだったので僕は彼女の使う言葉を少しずつ覚えていった。ひどく発音しづらく難しい文法の言葉だった。
僕より3つ年上のミナはいつも優しい声で僕に答えてくれる。
それは僕の生きている全てになった。
ミナがいるのは日本。何の皮肉か、あのウィルスを作り出した大学がある場所にいるらしい。
「会いたいヨ、ミナ」
そう言うとミナは無理だよ、と笑った。とても悲しそうに。
悲痛な声を聞いて僕の中である決心が芽生えた。
そう、ヒロインを助けるのはいつだってヒーローの役目だろ?
**********
会いに行くから。
きっと、会いに行くから。
たとえどれだけかかったとしても――
**********
春が来た。
2回目の冬を乗り越えたあたしはその幸せをいっぱいに感じるため少し遠出する事にした。
乗りなれた車に乗り、途中で元(・)ガソリンスタンドに寄る。レギュラー満タン。
今のあたしはガソリンスタンドにもラジオ局でもテレビ局でも、それこそ生物学者にだってなれるくらいにたくさんの事ができるようになっていた。寒い冬の間に読んだ本は、こんな世界に放り込まれる前からは考えられない量だった。
どうして人間がいなくなってしまうまで、人間の築いてきた知識の量とその素晴らしさに気づけなかったんだろう。
もう後悔しても遅いけれど。
あたしの持つ知識を誰かに伝えたいと思っても、もう伝える相手もいないのに。
目覚めたあの日からずっと暮らしている街を離れて少し走ると、大きな湖にぶつかる。
人間の活動に関係なく四季を表すこの場所が好きだ。
湖に流れ込む川沿いにはサクラの木が目渡す限りに並んでいる。手入れする者がいなくても美しく咲き誇る姿にがんばれ、と背を押される気分だった。
今年もまたサクラが見られた。それだけで泣きそうになるくらい満足だった。
まるであたしとケリーの間に広がる海のように広い湖は、あたしがこれまで流した涙を全部飲み込んで湛えているかのように静かだった。
その時突然無線から声がした。
『ミナ? 今ドコ?』
ケリーだ。
こんな時間に珍しい。
冬の間もあたしがくじけないよう支えてくれたテノールの響きは、何故だか少し興奮しているようだった。
「今日はね、広い湖を見に来たよ。春になって嬉しかったから」
『広い湖……』
そこでケリーの声が一旦途切れた。
まだかすかに冬を残した風が冷たく吹き抜ける。
『そこにいて!』
「ケリー?」
何故?アメリカにいるケリーが、ここにいるあたしに命令する。
そんな事ありえないはずだった。
心臓がドキドキする。
まさか。
まさか。
「ミナ!」
遠くから呼ぶ声がした。
無線からじゃない。
空気を伝って届く、本物の声。
思わずはっと振り向いた。
目に映ったのは、土手を転がり落ちるように下りてくる人影――人影(・・)。
もう2年近くも見ていない生きた人間の影。
「ああ……」
喉の奥から感嘆の声が漏れた。
どうして。どうして。
膝に手を付いて息を整えているのは、金髪の青年。ふと向けられた蒼い瞳に心臓が跳ね上がる。
「何で……ケリー?」
うろたえるあたしにケリーがにこりと微笑む。
「半年かかっちゃった。遠かったよ、日本は」
「どうして……どうして……」
視界がにじむ。
ケリーが息を整えながらこちらに向かって歩いてきた。
「だって喜ばせたかったんだ。海を越えて行くって言ったらきっとミナは反対するだろう?」
一年近くあたしと話し続けていたケリーの日本語は完璧だ。
冬の間もずっと通信していたのに。あの時すでに日本に向かっていたというのだろうか?
見上げる位置にあるケリーのはにかむ笑顔に釘付けになる。人種も、住む場所もぜんぜん違う。でも、あたしの他にはただ一人生き残った『ヒト』。
ずっとずっと会いたかった。
「やっと、会えたね。ミナ」
涙が溢れる。
胸が詰まってしまって声がでない。
ケリーはあたしを強く抱きしめた――温かい、人のぬくもりだった。
こんなに広い世界で。
出会えたことは奇跡なんだろうか。
それでもきっと、「ヒトは一人じゃ生きられない」なんて冗談めかして言ったヒトは大正解だ。
会いに行くから。
きっと、会いに行くから。
たとえどれだけかかったとしても――
了
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
説明 | ||
世界から何もかもが無くなってしまった日 少女は青い空を見上げて絶望した。 少年は動かなくなった母を庭に埋め、毎日花を添えた。 いつか出会えることを信じている。 だからその日までは生き続けよう―― ※イラストは黒雛さくらさまにいただきました。 |
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