SNEIL |
西暦20××年。
いつもと変わらない日常なのに,どこか『違和感』を感じてしまう私。
友人と食事をしながら,つい呟きます。
『…ねぇ,あの傷ってあんなだったかしら…?』
『エ?なあに?』
友人はけだるそうに答えた。
『傷よ,お店のあの壁の傷。あんな形だったかしら?』
『傷なんかあったっけ?こんな感じじゃないの?』
友人は,自分の指をしげしげと見つめながら話し続ける。右手の小指に出来た引っかき傷が気になるようだ。指がとても美しい友人であったから。
『傷だけじゃあないの。色んな事がちょっとずつ違ってるような気がするの…。色とか,形とか,最初は気のせいかとも思ったんだけど,でも違うの,本当よ。』
深いため息をついたあと,友人は静かに彼女を見つめながらこう答えた。
『最近疲れてるんじゃないの?ほら,ご主人の帰りも遅いって心配してたし。あんまり気にしない方がいいわよ』
『…うん』
夫はある公的な研究機関に勤めている。どんな事をしているのかは彼女にはわからない。彼が,家では仕事の話は一切しないからだ。ほんの少し興味はあるものの,そこまで詮索しようとは思わない。彼を愛してるし,彼からの愛情も充分感じているから。それで充分だと思っていた。
しかし,その夫が最近ほとんど家に帰らなくなっていた。連絡は取れている。毎日必ず,勤め先である研究施設から電話がかかってくるからだ。
『・・・今日も家に帰れそうも無い』
『あなた,大丈夫なの?今日でもう1週間よ。』
『僕は大丈夫,君は何も心配しないでいい。』
『でも…』
『…もうすぐ0時になる。もう仕事に戻らなくては。いいかい?いつも言ってるとおり,戸締りをきちんとして寝るんだよ。小窓のロックも忘れないように。それから,朝日が昇るまでは決して外に出てはいけないよ,良いね?』
『…分かったわ。…お休みなさい…』
この1週間,毎日この繰り返しだ。最初は1人で家にいる私を気遣っての事だろうと思っていた。しかし,既に1週間…。いくら鈍い私でも,何かおかしいと感じてしまう。
あの人は一体何をしてるんだろう。何故,そこまで戸締りに気をつけなければいけないの?それに加え,最近感じるこの『違和感』…。何か,何か,おかしい…。
ベッドの中で,悶々と色んなことを繰り返し,繰り返し考えてみる。しかしそんな事を考えながら,いつのまにか眠ってしまったのだろうか。気がつけば,夜は空けカーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んできた。
不意に,玄関のチャイムがけたたましく鳴った。
まだフラフラする頭を抱えながら,ドアを開けてみると昨日ランチをした友人である。
『全くいつまで寝てるの?もう11時よ!!』
朝日だと思っていた,カーテンから差し込んでいたあの光は,どうやら昇りきった日の光であったようだ。よっぽど私は夕べ眠れなかったらしい…。
『昨日様子がおかしかったから,ちょっと気になって寄ってみたの。出かけない?どうせ朝もまだなんでしょう?』
友人に連れられて,私は昨日と同じ店に入った。昨日と同じ席で彼女と向き合って座る。正直食欲はほとんどないのだが,彼女の気遣いは嬉しかった。ゆっくりと食事をし,食後のコーヒーを飲む頃になって,ようやくぼんやりとした頭がはっきりとしてきた。
『…さて,調子はいかが?』
『…ありがとう,おかげで少し元気が出たみたい』
『人間きちんと食べないと!ぼんやりとした頭で考え事なんかしてたら,余計な事まで想像しちゃうわよ』
『そうね・・・,本当そうだわ…。』
確かに私は,この1週間漠然とした違和感を感じていた。でも,これらは夫を心配するあまり,ちょっと神経質になっていただけだったのだろう。そうだ,何をそんなに心配する事があるだろうか。夫は毎日きちんと連絡を入れてくれる。仕事が忙しいだけの事。ただ,それだけなんだ…。
そう考えながら,目の前に座る彼女の方に目をやった。彼女は相変わらず,指の怪我が気になるのか,しきりに指先を気にしているようだ。
『その指の傷…。』
『そうよ,嫌になっちゃう。自慢の指なのに』
そう言いながら彼女が差し出したのは,『左手』の小指。…左?…左!!
『・・・違うわ,右よ,右の小指だったわ。』
『…?何言ってるの?最初から左よ。もう今日で3日になるわ。3日も見続けてるから,本当嫌になっちゃう。』
・・・・・・・・・・・・悪い夢なら,醒めて欲しい・………
『…ねぇ,本当に大丈夫?』
私の顔色の悪さに,驚いたのであろう心配する友人と足早に別れ,
私は一目散に自宅に引き返していた。
『あなた…,早く帰ってきて…』
いい様のない不安感から逃げるかのように,私はベッドの中で震えていた。
それから,どれ位経ったのだろう…。
『・・・電話だ…!!』
時間は,いつの間に経ったのだろうか。間もなく日も変わる頃になっている。
毎日決まった時刻にかかってきていた,夫からの電話の音であった。
『もしもし!!もしもし!!』
『どうしたんだ,一体?』
『お願い,すぐ帰ってきて!!私おかしくなりそうなの…。』
『…何かあったんだね…?』
『今まで黙ってたけど…。あなたが家に帰らなくなってから,
私の周りで,ずっとおかしいの。
ずっと気のせいだと思ってたんだけど・・・。』
私は今まで溜まってきた物を吐き出すかのように,夫に話しつづけていた。
『・・・最初は建物の『傷』から始まって…,今度は友人の『傷』・・・。
何が起こってるのかわからない。でも何かが違うって言う事だけはわかるわ!!』
夫は,私がまくし立てている間,黙って話を聞いていた。
『…そうか…。やはり外の世界にまで…』
『エ?』
『いいかい?明日の朝,1人で僕がいるこの研究所まで来ておくれ。場所はわかるね?』
『場所はわかるわ…。でも,一体…?』
『来てくれればわかる。今まで黙っていて済まなかった…。』
一体,夫は何を知っているのだろうか?
そして,一体何が起こっているというのだろうか?
『…ここだわ…』
登ったばかりの眩しい朝日の中,私は夫がいる研究所の前に立っていた。
この向こうに,愛しい夫がいる。
私の鼓動は,彼に会えるというだけで高鳴っているが,
それと同時に,拭いきれない強い不安感も溢れてくる。
一体,彼はこの中で,何を知っているのか…。
激しく高鳴る鼓動を抑えながら,私はゆっくりとドアに手をかけた。
ちゃぷん
『…?』
開けようとしたドアは,確かに硬いコンクリートで出来ているはずなのに,
何故だろう…?中から『水』のような音が聞こえる。
『…?何故,こんなものの中身に,水が…?』
そう思いながら,私はゆっくりと中に足を踏み入れる。
研究所の中は薄暗く,気味が悪いほど静まり返っている。
まるで,何者も存在しないかのような静寂さだ。
『夫は,本当にこの中にいるのだろうか…』
この研究所に入る前の,強い不安感が私の胸を締め付けていく。
まっすぐに進んで行く先に,かすかな明かりがついている部屋があった。
『…実,験,室…。責任者,…夫だわ…』
明かりが漏れているその部屋の前には,そう書かれていた。
私はためらう事無く,その扉を開けた。
僅かな明かりがともす部屋の中,夫の姿はなかった。
あるのは数台のパソコンと,ビデオカメラ,それに小さな椅子が1つ…。
『…あなた…,一体,何処に…?』
私がそう呟いた瞬間,1台のパソコンが,ブンっとたちあがった。
…夫だ。モニターには夫が写っている。
『…やあ,待っていたよ…。』
モニターの中の彼は,静かに微笑みながら話し始めた。
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いつもと変わらない日常。…昨日までは | ||
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