桜 -Yuyuko After Story- |
白玉楼――
冥界で狂い咲いた桜の花も散り始め、深緑の衣を纏おうと葉を芽吹き始めた頃。この大庭園の主、西行寺幽々子は塀の先に見える庭の様変わりを何気なく眺めていた。顕界に入り浸ったせいか、顕界では考えもしなかったことが、ここ冥界の白玉楼では頭の中に浮かんでは消える。
そこまで深く考えていたとも思えなかったが、考え事とは恐ろしいものだ。目の前に山積みになっていたはずの大福を取ろうと思ったら、指が皿の底を舐めていたことに彼女は少しばかり驚いた。
何かを食べようと思ったときに、何も無いときほどもどかしいものはない。躊躇いも無く、台所に居るだろう真面目が取り柄の僕に声を掛ける。
「妖夢〜。大福が切れたわ」
「ちょ……。幽々子様……あれだけの大福をもう食べちゃったのですか」
呆れるのをもう数百年前に諦めた半人半霊・魂魄妖夢は、代わりの黒糖まんじゅうを手早くお盆にたんまり載せ、早摘みの新茶を入れた湯のみと共に居間に現れた。
「最近どうなされました……。いつも以上に消費が激しいかと思うのですが……」
庭掃除の休憩に白玉楼の御殿に戻っていた妖夢が、休みに入りがてら幽々子に出したのが先ほどの大福だった。それが、瞬く間に消えうせているのだから、彼女にも境界を操る程度の能力があるのではないかと疑い深くなる。
「うーん。ちょっと考え事をね……」
そんな風にぼやいている間にも、黒糖まんじゅうが2つほど消えていることに、妖夢は少し不安になる。その心内は閉まっておくべきと考えていた彼女であったが、身体は意思に反して言葉を紡いでいた。
「お言葉ですがお一人でお悩みになるより、私を利用した方が早く解決するのではないでしょうか……」
「…………」
座った幽々子から上目使いで睨まれたような形になる妖夢は、自分のしたことを内心で頭を抱えて後悔しつつ、目を閉じて口から放たれる戒めを待った。
それであって、幾度待っても言葉が浴びせられることが無いことを訝しく思いつつ、薄っすらと瞼を起こすと、そこには桜のような笑みが浮かんでいた。
「そうね……。じゃあ、ちょっと働いてもらおうかしら」
「はい。何なりと」
「じゃあ、紫を呼んできて」
「はい!……って、え?」
意気込んで返事をしたのはいいものの、月に生身で行けというほど素っ頓狂極まりない願いに思わず聞き返していた。幽々子の友人である八雲紫は、神出鬼没でみょんなところから現れることが多い。そんな彼女を、捕まえて来いというのだ。どんなことを求められて応える気でいたが、さすがに無理と言うものである。
「幽々子様……さすがにそれは」
「わかっているわ。あいつがそう簡単に起きて……」
自嘲気味に笑っていた幽々子であったが、ふと言葉を切って妖夢に視線を向ける。いきなり真剣な目を向けられて、ビクッと反応をした彼女であったが刹那に状態を理解した。
後方に鼻腔をくすぐる様な小さな気配が湧き出ていた。
「あら?お呼びかしら」
「お呼びよ」
只の襖であったはずの場所に黒い縦線が入っていたかと思うと、両端がリボンで結ばれ広がった。その暗がりの中から扇子で口元を隠しつつ登場したのは、ど派手な衣装を臆することも無く雅やかに着こなす唯一の妖怪・八雲紫本人である。
「噂をすれば何とやらってね」
居間の端に現れた紫は、卓上に置かれたまんじゅうを手に取り一口。
「まあ、噂をされたから出てきたんだけど」
「狐をとっ捕まえて、呼び出そうとした手間が省けてよかったわ」
「あら?そんなに急用だったの?」
そんな問いを受けて、幽々子は庭先に見える桜の群生に儚げな目を向ける。
「……そうね。急用だわ」
「ふーん」
「あ、あの?私は何をすれば……」
二人の会話になるべく干渉しないようにと、居間の柱の一本と化していた妖夢であったが、居たたまれない気持ちが圧して口を開いていた。
会話に割り込まれたのを不満そうに感じさせず、幽々子はいつもの幼げな笑顔を振りまいて、要望に応えて彼女に仕事を一つ託した。
「そうね。久々に紫と再会したわけだし、宴会の準備でもしてもらおうかしら」
「はい。わかりました」
自分でもできる仕事を貰って舞い上がっているのか、妖夢は身を翻すと軽快にストストと奥に消えた。そんな小さな影を笑顔で見送った彼女は、見えなくなったところで面を捨て、隙も何も無い面を着け直してスキマ妖怪に対する。
この妖夢を排除する行動に、怪訝な感情を隠すまでも無く紫は問う。
「何よ。そんなに危ない話なわけ?」
「そんなところね」
そこで一旦話を切った幽々子は、湯飲みを手に取りお茶を一口含む。それで意を決したのか、一息吐いて意思を刷り込ませた瞳で紫と対峙する。
「私を復活に協力してもらえないかしら」
「…………」
開いた口が塞がらないとはこういうことかと、紫は感心するがそんなことはどうでもいい。問いたださなければならないことが、目の前に鬱陶しく転がっている。
「あなたの亡骸を復活させるのは、今回の事で不可能だと身をもって分かったはず。どうしてまたそんなことを?」
「語弊があったわね。『私の記憶を復活させる』って事」
「……本気?」
「本気よ」
紫はどうしようも無いなと思いつつ、幽々子に察せられないようため息を吐いた。
どうしてこんなに頑ななのか。普段の能天気な彼女とは正反対の姿。妖怪桜に中てられて、春雪異変を起こしたのかと思っていたが、どうやら彼女の性格も災いしたらしい。
確かにそれくらいでないと、幻想郷の春を興味半分で集めようとは思わないのかもしれないが――。
「で?具体的にどうするわけよ。私にはあの封印を解く事はまず不可能よ」
「封印を解く必要は無いわ。境界を操ってもらって、西行妖で魂が納められている部分まで送ってもらえればいい。そうすれば、あとは全て私がやる」
「……はぁ」
今度は躊躇いも無く頭を掻きつつ、肺に溜めた空気を吐く。
どうしてここまで過去に固執するのか、解せない部分が疑念を生む。
「何でそこまで記憶にこだわるわけよ。今更、過去のことを思い出しても仕様がないと思わない?」
そんなぶっきらぼうなに問いた紫に、彼女は声を凛として答える。
「博霊の巫女と白黒の魔法使い……」
「ん?それがどうしたというの?」
「あいつらを見ていたら、人間だった頃の私がどうだったか気になったのよ」
「本当に今更ね」
嘲るように笑った幽々子に、相槌を打つように紫も微笑した。
亡霊になって久しい彼女は、もうほとんど人間の頃の記憶は無い。それを今になって趣くまま探そうというのは、陽気な性格をしている幽々子らしいと言えば彼女らしかった。
しかし、そういう理由であれば、紫は認めるわけにはいかない。
「今のあなただけじゃ満足できない?」
「……どういうこと?」
彼女は一時的に封印されている魂と同調でもして、記憶の部分だけをサルベージュして帰ってくるつもりだろう。そんなことは認めない、認めることができない。
――本当を知る事や最期の記憶まで拾いそうな行為を許すことはできない。
「今の生活が十分だったら、過去の生活なんてどうでもいいでしょう。無理に過去の記憶を掘り出すのは、愚者か末期の人間の行為よ。それに、万が一封印が解けたら私としてはかなり困ることになるんだけど」
険呑な様を当ててみたが、幽々子は全く意に介す気は無いらしい鉄仮面がそこにある。雰囲気から表情やら、弄るときとは別人にも感じる亡霊がそこにいた。
「それでも頼めないかしら」
「…………」
お互い睨み合いにも近い、はち切れんばかりに空気を張り詰めた結界にも似た空間がそこに現れる。
一体、何刻経ったのか時間の感覚が狂い始めた頃、我慢できずに声帯を動かしたのは白と紫色の影。
「ったく……。わかったわよ」
幽々子の真摯な姿を見て、紫はすでに切れるカードが手元に無いことに気がついた。
もう、なるようにしかならないと……。
当の亡霊の姫は友人の思惑なんぞ見ず知らず、ホッと胸を撫で下ろす。
「ありがとう。紫」
「そろそろ部屋に来るだろうしね。早く行くわよ」
台所の方に一瞥を投げてから、幽々子に外に出るように促した。そのついでに、言葉で彼女を縛っておくことも忘れない。
「何を知っても自分を失ったら、弄り倒すからね」
「千年来の友人をちょっとは信用したらどう?」
春を体現したような笑みを浮かべる彼女をまぶしく思いつつ、そんな彼女に「そうね」と嘲った微笑を交えて応じ、彼女の後を追って西行妖に向かって歩き出す。
桜ふぶきが散った後の庭を進んでいくと、一本の雄大な桜の前に行き着いた。
――西行妖。
多くの人間の精気を吸って、妖怪樹となった桜の大樹。
二度と狂い咲くことが無いだろうこの枯桜の周りは、新緑と淡い桜色のコントラストに包まれている。その大樹の手前、紫と幽々子は二人並んで、その大きな幹に向かっていた。
「本当にいいのね?」
白玉楼から続いていた沈黙を破ったのは紫。
「あんたこそ私のこと手伝っていいのかしら?」
流し目を一つ送りつつ、スキマ妖怪に対するは幽々子。
互いを見て互いに吹き合う姿は、まさしく千年来の友人の姿かもしれない。
「まぁ、面倒なことになったら、博霊神社のおめでたい人に任せればいいわ」
「それには賛成ね」
博霊の巫女の文句が頭の中に浮かび、笑みを浮かべるがそれも一瞬。目を瞑り、瞼を上げたその先に、研ぎ澄まされた鋭い瞳が現れる。
紫は懐に手を入れるとスッと一本の扇子を手に取り、西行妖の幹に向かって水平に突きつける。そのまま上段に構えなおすと、ゆっくりと地面と垂直に振り下ろした。
空間に黒い線が入ったかと思うと、端はリボンで結ばれて境界が紡がれる。
それを確認した彼女は、目を流し幽々子にその暗闇の先に誘う。
「さぁ、開いたわよ」
「……ありがとう」
千年も亡霊をやっていることから、こんな些細なことに気を張っているのに驚いた幽々子は、目を深く瞑り精神を一点に集める。
吐く息一つ。それが合図か、深く閉じていた目を開ける。
「行って来るわ」
「くふっ……行ってらっしゃい」
「何?」
張り詰めた空気を引き裂くように、いきなり噴出した紫を訝しく思い、疑いを挟んだ彼女は思わず声を出していた。
「まぁ……行ってみなさい」
「?」
紫はそう告げると、後ろを向いてもう仕事は終わったと庭に広がる新緑に目を向ける。
そんな彼女の行動を伺う気は無いわけではないが、興味の赴く先の黒く禍々しく開かれた境界へ幽々子は足を踏み出した。
そんな彼女を横目に収めつつ、清清しい気配の中で紫は冥界の青空を望む。
心配する必要なんて無かったのだ。
幽々子が自らの最期を思い出すなんて、杞憂に過ぎなかった。
必ず幽々子は、何もせず帰ってくる。
いや、帰るという行為すら正しくない。境界の中を覗いただけでその先は無いだろう。亡骸と確認することも無く、彼女は結界区域に入ることは無い。
境界を弄ったときには、さすがに驚いた。千年以上妖怪として生きていたからか、それが顔に出なかったのは自身に及第点を与えたい。
こんなことをしたと思われるのは、一人しかいなかった。
『妖忌の奴……謀ったわね』
幽々子は、黒ずんだ境の元に来ると、深呼吸を一つする。
『人間だった私はどのような人だったのか』
求めた物はそれだけ。そのためだけに、友人に無理を言って境界を開けてもらった。
漆黒の空間に頭を突っ込む。
そして、目は見開かれた。そこに見えたもの……それは、
――百由旬は続くだろう桜の花びらの絨毯に包まれた自分の姿。
ちょっとした風でも舞い上がる桜の花びらは、幻想中の幻想であって誰が見ても吸い込まれそうな景色を醸し出している。その中に、何事にも不安を感じることが無いのではないかと思わせる安らいだ表情を浮かべる自分が埋まっていた。
顔は自然と境界から外に出ていた。
金縛りにでもあったように、暗闇の奥から目線を外すことができず、さらにどんな表情をすればいいのか分からなくなっていた。
だが、それも寸分。亡霊として死を操ってきた彼女が、それの意味することを理解できないはずは無い。死に誘う者として、顕界での人間の最期を千年は覗いてきたのだ。見ただけで、人間だった自分がどのような扱いだったのかを把握することなぞ雑作も無い。
やっとのことで黒い結界の狭間から視線を外すと、千年来の友人にそれを隠すように回って白玉楼に向かって歩き出す。
「もういいわ」
「そう」
境界を繋いだときとは反対行為。下から扇子を持ち上げるとスッと黒い禍々しい境界は霧のように消え去った。
果敢なく見えるものの、自信に満ちた背中に紫は声を掛ける。
「で、どうだったの」
「あんたなら分かるでしょ」
背中越しに笑みを向ける幽々子。
「そうね」
微笑を返した紫は、彼女に続くよう白玉楼に向かって歩を進める。
「宴ではいいお酒を振舞わなきゃいけないようね」
「おっ。それは期待していいのかしら?」
“いいお酒”という言葉に目ざとく反応をする彼女は、嬉々とした眼差しを幽々子に向ける。そんな現金な妖怪を内心で笑いつつ、後が怖くないように手を打つことにした。
「がっかりしない程度には期待していいわよ」
「それも難しい要求ね」
他愛も無い会話を紡ぎつつ、屋敷に向かっていると道中に一つの小さな影が見えた。
「幽々子様〜。どこにおいでになっていたんですか」
肩を上下に揺らし、息も絶え絶えに現れたのは、他の誰でもない魂魄妖夢である。
宴の準備ができてから、居間に戻ってみると二人とも居ないことに驚いて、白玉楼中を探し回っていたそうだ。妖夢には悪いことをしたと、幽々子は心の中で謝っておく。
ふと、そんなときに妙案が浮かんだ。
「今宵は妖夢を潰すことにしましょう」
「え?」
「それはいいわね」
「えっ……ちょ」
口を裂くようににやける幽々子に、半霊が縮こまるほどの悪寒を感じて庭掃除に逃げようとする彼女を紫が扇子で遮る。妖怪が本来持つ邪な表情を惜しみも無く使い、羊のような彼女を暗黒の闇に誘う。
「私のお酒が飲めないって言うのかしら?」
「え……え、そんなこと……は」
霧散をする語尾を一字一句逃さず耳に入れたスキマ妖怪は、獲物を追い詰めた狼のような目で縛る。結局は声さえ出させれば、境界を弄って何処までも聞けたのだが、そんな必要が無いほどこの娘はとても真面目である。
「そうよねぇ」
「妖夢はリタイア禁止ね」
「はい……」
慰めるように半霊が身体を滑る姿を見ると、少し意地悪しすぎたかなと思ったりするのだが、陽気の姫と邪念の女はこんな面白いことも無いと思う。
すでに幽々子の興味は宴会に趣いていた。
本来ならば記憶をある程度思い出すまでは、西行妖の前から立ち去る気など黄粉の粉程も無かった。そんな彼女が、あの壮大な光景の中を独占するような自らの姿を見たときに感じたこと。
――これ以上無粋な真似をするでない。
人間だった頃の自分から、説教を受けた気がしてならなかった。
あのどこまでも無限に存在する桜の花びらを、どのように集めたのか知る由は無い。けれども、あの敷き詰められた桜の花びらを見たときに、人間から忌み嫌われて過ごしていたわけでないということを何となく察した。
今の能力を人間時代にも持っていたことだけは、薄っすらと覚えがある。
それによって避けられ、孤独に亡霊となったのではないか。あの陽気な人間達を見ていると、記憶の彼方に消えて想像で取り繕った人間像を照らし合わせて、今まで以上の理想を真っ白な紙の上に描いていた。
模写をして出来上がったキャンパスが、本当にそうなのか気になった。
そして確かめて見たら拍子抜け、それは気にしすぎだったという事である。
瞳に映る白玉楼の庭の光景が、いつもより鮮やかに彩られているように見えた。
了
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C74で出した冊子の小説です。 紅楼夢6で、完全に1から書き直した物を頒布する予定。 |
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