ビューティフル 18 |
水族館に行きたい、と直隆が言った。
テレビで紹介されているのを見て、いてもたってもいられなくなったらしい。
「こーんな巨大な透明の甕にな、取り取りの魚が泳いどるんじゃ。それを食わずに観賞するとは何という娯楽ぞ」
子供のように目をキラッキラさせて、身ぶり手ぶりを交えて説明する。
可愛いなあ。
つい初音は目を細めてしまう。
本人に言ったら怒るから言わないけれど。
「じゃあ、明後日行こうか。平日だから空いているだろうし」
「楽しみじゃのう」
嬉しそうな顔をして直隆は初音を抱え込む。
そうだ、と初音はあることを思いついた。そして苦笑する。
あたしは本当にこの人にぞっこんだ。
用事があるから水族館前で待ち合せよう、と初音は言った。
「電車でおいでね。歩いたら日が暮れちゃう」
とも。
不思議だ。
一緒に暮らしている女と外で落ち合う。
不思議で少しだけこそばゆい。と、頬を掻く。
電車は走る。
この銀色の箱の羅列を直隆は気に入っていた。リズミカルな振動も、どことなく眠たげな人々の顔も、拳のきいたアナウンスも。
何より、飛んでいるようだ。地上を走れば景色は前から後ろへ次々に流れていったし、地下を走れば窓の外に広がる暗闇に心が躍った(地下を走るという概念は衝撃だった)。
電車を降りて、ホームを歩く。
エスカレーターに足を乗せるとき、少しだけ得意になってしまう。動く階段に感動した直隆は初めて乗った時、バランスを崩してひっくり返ってしまい、降りるときは躓いてこけた。今では澄ました顔をしてスムーズに乗れる。
タスポをかざして改札を抜ける時も、少しだけ得意になってしまう直隆、足を速めて目的地へと急いだ。
そこに立っている女を見た時、人違いかと思った。
周囲が霞むほど存在感を放っている女。
初音は着物を着ていた。
濃い藍色の袷で裾と袂には白波と可愛らしい異国の船があしらわれている。帯は渋い銀色でお太鼓の部分には二匹の小さな魚が躍っていた。
襦袢と帯締めを赤で統一し、白い半襟から覗くうなじが色っぽい。
いつも一括りにしているか、下ろしっぱなしの黒髪は高い位置で纏められており、それだけで別人に見える。
美人だ、と素直に思った。
着物姿が珍しいのか、道行く人はチラチラと初音に目線を向ける。中にはうっかり見とれて恋人だろう女に引っ張られている男もいた。
直隆は息を吸い込む。
自慢したかった。見も知らぬ周りの人たちに、あれはわしのものだ、いい女だろうと自慢したかった。
目線を感じて胸元に手をやったり、うなじをなでつけたり落ちつかなげな初音がこちらに気が付いた。
「遅い」
その声、その柔らかさ、その笑顔。
「悪い」
胸に満ち溢れる愛おしさを抑えつけて、直隆は歩き出す。
「着物を貸してくれるお店があるの。着付けもやってくれるんだよ。水族館に行くって言ったらこんなコーディネートしてくれて…。変かな」
恥ずかしそうに俯いて初音は顔をほんのりと赤らめた。
「き」
きれいだ、という言葉が喉の奥に詰まって出てこない。賛辞は全て喉元を先頭に渋滞状態で、直隆はどうしたらいいか分からず困ってしまった。
「き?」
ああ、もうそんな顔で見上げるんじゃない。
「き…き…北国にも春が来たようです。と宇賀殿が言っておった。昨日」
はあ。初音はきょとんと直隆を見たままだ。
「やっぱり似合わないか…」
あ、と直隆は思い当った。
初音は自分の為にわざわざ着物で来たのだ。着物を当たり前に来ていた時代の自分の為に。
溢れた愛おしさはもう零れている。
「そんなことはない」
乱暴に手を取りながら、直隆はそっけなく言った。
「今まで見たどの女よりも美しい」
なんちゅーこっぱずかしいことをゆーとるんじゃわしはー!
顔がゆでダコのように真っ赤になったのが分かる。
「さ、ゆこう」
「う、うん」
初音の顔もこれまた真っ赤だった。
館内はガラガラで、時たまカップルや親子連れがちらりといる程度にしか人はいなかった。
藍の世界だ、と直隆は思う。
昔、まだ少年だった頃、琵琶湖で泳いだ。湖底まで潜って、水面を見上げた時の色にそっくりだ。
「静かだね」
歩くには困らない程度の照明、朧に光る硝子の向こうに巨大な魚がゆっくりと泳いでゆく。
感嘆の声が出た。
こんな大きな魚をどうやってここまで運んできたのだろう。こんな大きな透明の甕をどうやって作ったのだろう。大変な作業だったに違いない。ただ、魚を観賞するためだけに。
それをやってのける現代という世界を直隆は不思議に思う。
「直隆、見て見て。ほら可愛い」
手を繋いであちらへこちらへと進んでいくうちに、初音がはしゃいだ声を出した。
「…けったいな魚じゃのう」
「ペンギンだよ」
子供の様な熱心さで硝子に手をくっつけて、ペンギンとやらを見ている初音はいつもとはまるで異なった。
この女はいつもわしを振り回す。
出会った頃も、そして今現在も。無意識に、ただその存在が。
「直隆、しんどいの?」
南国の熱帯魚が泳ぐ水槽前で、初音は横の男を見上げた。
こういう時、大概はしゃぐのは直隆の方なのに。と黒い瞳で問いかける。
「それとも酔った?」
心配そうにのぞきこむ初音の顔は、硝子から発光される淡い光に照らされて、儚く幻想的に見えた。
「初音」
「ん?」
「わしはそなたに惚れておる」
先程とは違い、言葉はするりと出てきた。
ゆっくりと直隆の唇が近づく。初音は一瞬ためらったが、目を閉じて素直に受けた。
ふれあうだけの優しいキス。
分厚い硝子の向こう、色とりどりの魚たちが横切って行った。
その夜。
ケータイの着信音で初音は目が覚めた。
部屋の中には二人の服が散乱しており、直隆は初音を後ろから抱えたまま、静かな寝息を立てている。
「…はい」
「林田博です」
「あっ!」
直隆の調査を依頼したまま、すっかり忘れていた。
「お久しぶりです、お元気で…」
「松本四朗直隆は」
初音の声をさえぎって、博は言った。
カチッと音がする。
「姉川の戦いで死んだ」
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水族館デート。 | ||
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コメント | ||
天ヶ森雀さま:コメントありがとうございます。水族館は隔離された別世界だと思うんです。(まめご) かくも美しき世界、かな。(天ヶ森雀) |
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