あいつの瞳に映るもの1
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「ねぇ、翔!知ってる?」

 

休み時間。あいつが興奮した様子で俺に駆け寄ってくる。

大方またつまらない噂でも仕入れてきたんだろう。

 

「また事件があったんだって!」

 

またか。俺は事件よりも、そんな学校の七不思議並にありふれた話題を、

いまだに目を輝かせてはしゃいでいるこいつの方が驚きだ。

 

もっとも、事件というだけあって、学校の七不思議のようなただの噂話とは違う。

現実に起こったできごとなのだ。

また、誰かが死んだという事件だ。

 

それなのに、目を輝かせて心なしか嬉しそうに話す不謹慎な女、それが幸だ。

 

 

 

この辺りでは昔からおかしな事件が続いているらしい。

俺が生まれるよりも前からだ。

下は中学生から上は大学生まで、若い連中が突然謎の死を遂げるという事件だ。

男の場合、大抵は施錠されているはずの自宅の自室のベッドの上で、

体中の血がなくなって死んでいるのを朝になって発見されるらしい。

女の場合はというと、胸に穴を空けられ心臓が潰されて大量の出血とともに死んでいるところを、

入浴中であったはずの自宅の浴室で発見されるらしい。

 

らしい、というのは既にマスコミも飽きたのか、

死者が出てもほとんど報道せず、噂以外に情報がないからだ。

これが殺人事件なのかそうでないのかはわからないが、解決したという話は聞かない。

その証拠にこうやってまた新しい噂が舞い込んできたわけだ。

 

「今度は西山高校の生徒が殺されたんだって」

 

西山高校というとこの辺りでも名門の男子校であるからして、被害者は男に違いない。

 

「朝部屋で殺されているのが発見されたんだって!

それも、また首のところに噛まれたような傷があったって!」

 

男の死体にはもう一つ共通したところがあって、

どれも首のところに噛まれたような痕が残っているらしい。

 

「吸血鬼に噛まれたみたいな!」

 

「またそれか」

 

俺はいい加減聞き飽きた。

 

こんな事件が起こった当初はマスコミも珍しがって騒ぎたてたそうだ。

体中の血を抜き取るなど、現代の科学をもってしても行うことができないらしく、

その上首に奇妙な痕があることから、『吸血鬼』という言葉が飛び出す程だったらしい。

 

だがそれも俺が物心つく前の事だから、優に十年は昔の話だ。

そんなカビの生えたような古くさい言葉を、今も平気で口にするような奴なんだ、こいつは。

 

「だってそんな事ができるのって吸血鬼以外にいないでしょ?」

 

そんなファンタジーを信じている夢見がちな少女……というと聞こえはいいのだが、

俺にはただの『痛い』女にしか思えない。

 

「翔は恐いって思わないの?」

 

「恐い?何を怯える必要があるんだ?」

 

「だって今度は自分が殺されるかもしれないんだよ?」

 

「そんなことはありえない」

 

俺は断言できる。

 

「どうしてそんなことがわかるのよ?犯人だって見付かってないんだよ?」

 

「この事件に犯人なんて存在しないんだよ。

テストで一番を取ったとか、胸の大きな女を彼女にしたとか、

子供の癖にもう処女じゃないとか、そういう罪深い連中に天が下した罰だ。だから俺は大丈夫!」

 

ちなみに、警察もこれを事件だとは断定していない。

なんらかの事故か動物などに襲われた可能性がある、と昔から言いつづけている。

原因は不明だが、犠牲者の数は町の人口の一パーセントにも満たない。

原因不明の奇病にかかる確率や、交通事故にあう確率よりも低いかもしれない脅威に対して、

一々怯えていては生きていけない。

幸みたいな物好きが面白がっている以外、

誰も話題にしないのは要するに自分は大丈夫だから関係ないと思っているからなんだろう。

俺だってそうだ。

 

「なんだ、翔。またその話か?」

 

俺はそんなつまらない噂話はさっさと終わらせてしまいと思っていたところに、

智也が割り込んできやがった。

 

「胸、胸って女の子の価値はそんなことで決まるもんじゃないぞ。

そんなんだからお前には彼女ができないんじゃないのか?」

智也とは昔から意見の合わないことが多いのだが、どういうわけか親友と呼べる仲だ。

 

「待て、今は誰も胸の話なんかしていない。

ただ、胸の大きな女を彼女にしちまうような男は死んでしまえと言っただけだ。

それに、女の胸は膨らむためにあるのであって膨らまないのは女のできそこないだ!」

 

「馬鹿な事を言うな。もっと広い目で見てみろ。

そうしたら意外に身近なところに魅力的な女の子がいることに気づくと思うぞ」

 

「それはただのきれい事だ。現実を見ろ、現実を。こいつを見てみろ」

 

そう言って、俺は幸を指さした。

話を中断されて不愉快そうな面をしていた幸だが、

突然自分の話題に切り替わった話の流れが理解できないでいるように見える。

 

「智也はこいつを彼女にできるとでも言うのか?」

 

もちろん俺は遠慮したい。美しくスタイル抜群のモデルのような美女、

の対極にいるような女だからだ。

 

智也は答えに窮するどころか、にこやかな表情を幸に向ける。

 

「美島さんはとても素敵な女の子だと思うぞ。

できることなら俺の彼女にしたいくらいだが、

残念ながら美島さんは想いを寄せている人がいるからね」

 

それは初耳だ。だが、俺が知らないのにどうして智也が知っているんだろうかと、

疑問に思わないわけではない。

 

「幸、お前好きな奴なんていたのか?」

 

幸が恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いている様を見ると、答えを聞くまでもなかった。

 

「……いちゃ悪いの?」

 

「誰だ?そいつは」

 

「誰って……」

 

幸は俺に教えてくれるつもりはないらしい。口を噤んでしまった。

智也は相手の名前まで知っているんだろうか?

 

「まぁ、俺の言いたいことはだ。

非常にわかりにくい翔の良いところを見抜いてくれて、

想いをよせてくれている女の子がいたとしても、

翔がいつまでもそんな調子じゃ愛想つかして離れていってしまうぞ」

 

「心配は要らない。俺の周りには俺が女と認めるほど胸の大きな女はいない。

故にそんな女にいくら嫌われても痛くも痒くもない」

 

「当たり前の様に存在する大切なものほど、

失うまでそれに気づかないなんてよく言う話だろ?無くしてから泣いたって遅いんだぜ?」

 

どんな御託を並べたところで、男とは例外なく大きい胸に惹かれるものだ。

小さい胸が好きな男はいない。小さい胸でも我慢できる男がいるだけだ。

理想的な大きい胸は極めて希少であるため、

智也の様な事を言って妥協することが、大人になるということなのかもしれない。

ならば俺は大人になんてなれなくて良い。

 

「もしもさ……。翔はその胸の小さな女の子から好きだって言われたらどうするの?」

 

今度は幸だ。どいつもこいつも小さい胸の話ばかりしやがる。

 

「小さい?小さいってどれくらいだ?Cカップくらいか?」

 

幸はとっさに両手を自分の胸のあるべき場所にあてた。

幸というこの哀れな女のなりそこないは、Cカップどころか、およそ胸と呼べるものがない。

 

「お前のようなぺたん子が俺に告白しようなど身の程をわきまえぬ愚か者め!

鏡で自分の姿を見てみろ!そして恥て死ね!と言ってやるつもりだ」

 

「馬鹿はお前だぁ!」

 

そう叫ぶと、幸は俺の座っている椅子を蹴飛ばして教室から出ていきやがった。がさつな奴だ。

胸がない、品がない、家事ができない、それじゃあ嫁のもらい手もなかろう。

 

「翔、教室でそんなに過激な発言は謹んだ方がいいと俺は思うぞ。

周りを見てみろ。お前に殺意の籠った視線が向けられているだろう?」

 

言われてみれば、他のぺたん子共の睨むような視線が俺に向けられている。

 

「たかが女だ」

 

「女ってのは結束力が強いからなぁ。

お前が教室に一人になった隙を狙って協力して殺すかもしれないじゃないか。

みんなで口裏をあわせれば完全犯罪だって夢じゃないと思うぞ?」

 

「馬鹿馬鹿しい。俺は正義の代弁者だ。悪には屈しない!子を育む豊満な胸こそ女の証だ!」

 

智也のせいでいつの間にか妙な事件の話からずいぶんと逸れてしまったが、まぁいい。

俺は何も恐れるものはない。ぺたんこな学校の女子共に嫌われようが敵視されようが、どうでもいい。

吸血鬼?馬鹿馬鹿しい。いるはずがない。

 

それにしても幸に好きな奴がいたとは甚だ意外だった。

幸の様な子供には色恋沙汰なんて無縁なものだと思っていたのだが、

そんな奴がいたらしい。

幸が恋人なんかと仲良く並んで歩いている姿など到底想像もつかない。

あいつにはまだ早すぎる。そもそも、相手の方だってロリコンでないのならば願い下げだろう。

そう思うと、決して報われることのない恋をしている幸の事が不憫に思えてくる。

 

仕方がない、今は格差社会なのだから。

恋愛ブルジョワジーと言われる一握りの美男美女が異性を独占し、

そうでない恋愛プロレタリアートは身を粉にして必死に相手に尽くしてようやくおこぼれに預れる、

そんな格差社会なのだから。

 

俺がこの国の乱れた風俗とその将来を憂いていた崇高な日の午後は雨だった。

 

傘を持っていなかった俺は、濡れる覚悟を決めて学校を飛び出した。

最初は走っていたものの、パンツの中まで雨に侵されてしまっては、もう何も守るものはない。

のんびりと雨を浴びていくことにした。

 

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通り慣れたいつもの大きな交差点。

 

そこの信号で足を止めていると、その日はけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。

始めのうちは気にもしなかったが、

あまりにも品がないものだからどの車が鳴らしているのか見てみたくなった。

そしてそれを特定できてしまうほどの長時間に渡って鳴り響いていた。

 

「うるさい、馬鹿野郎!」

 

そんな粗野な言葉が騒音を一瞬にしてかき消した。

だがその声は意外にも、野太い道を極めたかのようなおっさんのものではなく、

高く響きわたる女性のものだった。

交差点の真ん中に止まった赤い車から、

漆黒の長髪をなびかせて姿を見せた女性がおそらく声の主だろう。

彼女が睨み付けると騒音の主は彼女の車を避けて逃げるように走りさった。

 

赤い車は選りにも選って交差点の真ん中で故障でもしたのだろうか。

彼女は雨に濡れるのも構わず、自分の車の後ろに回り込むと腰を落として両手を車に添えた。

どうやらあの大きな車を一人で押すつもりらしい。

俺はその根性に感心した。

でも女の根性だけで車が動くほど世の中甘くはないだろうと俺は思った。

気がついたら俺は交差点に飛び込んでいた。

別に下心があったわけじゃあない。

俺も赤い車に両手を沿えて、ふと隣を見れば彼女が微笑んでいた。

 

「ありがとう」

 

その時、初めて間近で彼女の顔を見た。

雨に濡れ、髪が肌に張りついたその顔は見るものを一瞬で魅了してしまう美しさであった。

見つめていると肝心の用件を忘れてしまいそうになるほどだ。

 

「じゃあ、あそこまで押してもらっていいかな?」

 

と彼女が指さした。

 

果して二人で車は動くのだろうかとも思ったが、いざ押してみると思いのほか軽かった。

二人とは言っても、女である彼女の力は数える程のものではないだろう。

 

「ありがとう」

 

改めて彼女は俺に言った。

 

向かい合ってみると、やはり彼女は綺麗だった。

一度彼女を目にしてしまうと、もう他のどの女も雑草にしか見えないほどだ。

彼女の美貌の前では、他の女は皆恥ずかしさのあまり顔を覆い隠してしまう程である、

と言っても過言ではないように思える。

それ以上に、濡れてぴったりと張りついたブラウスの下で誇らしげに張り出している大きな膨らみが

俺の視線を釘付けにして放さない。

俺は今だかつてこれほどまでに大きくも形の整ったものを見たことがない。

巨乳というものは、テレビや雑誌が生み出した虚構の存在であり、

現実の人物とは一切関係のないフィクションではないかと疑ってすらいたくらいだが、

俺は今日限りその認識を捨てることにする。

短めのタイトスカートからは決して太くはない、まぶしい程に白い二本の足がすらりと延びていた。

上から下まで非の打ちどころが見つけられないほど完璧だった。

その美しさを妬む女共が例え血眼になって粗を探したところで何も見付からないに違いない。

 

スーツ姿ということは、仕事中だったのだろうか。

 

「ここにいたら焼けちゃうから、あそこの喫茶店に行かない?」

 

彼女は少し先に見える店を指さすと、俺の返事も聞かないうちに手を取って足早に歩き始めた。

 

俺の都合なんて全くお構い無しなのだろうか?

まぁ、でも構わない。例え親父が危篤で家路を急いでいたとしても、

彼女に誘われたのならば親父だって許してくれるはずだ。

もっとも、俺に予定は何もなかった。

あったとしても、彼女に握られた手の感触でそんなものは忘れてしまえる。

 

それにしても、『焼けちゃう』ってなんだ?

日焼けか?『濡れちゃう』の聞き間違いか?

今さら雨宿りをしたところで、

この雨では彼女もまた俺と同じようにパンツの中までぐっしょりと濡れているに違いないのだから

手遅れだという気もする。

 

だがまぁそんなことはどうでも良い。

揚げ足を取って一生に一度あるかないかのチャンスを不意にはしたくない。

 

店に入ると、店員は席に案内するのと一緒にタオルも貸してくれた。

 

「ちょっと電話してくるから、先に座って待ってて」

 

言われるままに俺は席に着いた。

 

彼女は店の隅でこそこそと話している。ロードサービスにでも電話をしていたのだろう。

 

「急にエンジンが止まっちゃってね。何をしても全然動かなくて困っちゃったわよ」

 

椅子に腰かけながら彼女はそう言った。

 

『困っちゃった』と言う割には慌てた様子もまったくなく、

落ち着いて冷静に対応していたように見える。

 

「私、六條英里香。君は?」

 

「俺は早川翔です」

 

「いくつ?」

 

「十五です」

 

「高校生?」

 

「はい」

 

彼女は矢継ぎ早に質問を浴びせた。

 

「そうだ、もう注文した?」

 

俺は薄い財布を引っ張りだして中身を確認しつつ、メニューの中で一番安いものを探した。

 

「そんなこと気にしなくていいわよ」

 

と彼女が言ってくれた。

 

ハンドルが左側に付いている赤いオープンカーに乗っているだけあって、

お金には不自由していなさそうに見える。

聞けば有名な外資系企業に働いているらしい。

 

「遠慮しないで好きなもの頼んでね」

 

俺はその言葉に甘えた。

 

「六條さんはいくつなんですか?」

 

「私が年を聞いても良い年齢に見えるのかしら?」

 

つまり、女に年を聞くなということか。

 

「君の一回り年上の二十七歳って事にしておこうかな」

 

その言い方だと、まるで本当の年齢ではないように聞こえるのだが、

それ以上その話題に触れることは許されないのだろう。

 

「彼女とかいないの?」

 

予想外の質問に、俺は慌てて首を振った。

 

「さっきからずっと見てるけど、そんなに珍しい?」

 

そう言って彼女は一番上のボタンが外されたブラウスの襟元に指をかけて軽く引っ張った。

 

気づいていないだろうとばかり思い込んで、

俺の好奇心は話の最中もずっと彼女のブラウスから透けて見える雄大な峡谷に見とれていた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

俺は全力で視線を逸した。

 

「君も男の子だもんね」

 

そう言って彼女はくすりと笑った。

 

隠すこともなく、恥しがる様子もなく、堂々としているが大人の余裕というものなのだろうか。

 

「君はタバコ吸わないよね?」

 

「もちろん」

 

「お酒も飲まない?」

 

「当たり前だよ」

 

「ご飯はお母さんが作ってくれるの?」

 

「俺が作ることもあるよ」

 

「へぇ、料理できるの?」

 

「一通りはね」

 

「そっか……」

 

そこで黙ると、彼女は俺を吟味するかのように視線を上から下へと走らせる。

別段隠さなければならないものはないものの、改めて見つめられると恥ずかしくなり、

思わず顔を伏せてしまった。

ただ見つめられるだけでも恥ずかしいというのに、

彼女が俺の好奇の視線から胸を隠さずに堂々としていられたのが不思議なくらいだ。

美しいだけにもはや嫌らしい視線にも慣れているのだろうか。

 

「翔くんって、おいしそうだね」

 

俺の理解に苦しむ言葉だった。

 

彼女は俺を丸々と太らせた後にとって食うつもりだとでもいうのだろうか?

 

「指、出して」

 

まさか本当に俺の指をかじって味見でもするつもりだというのか!

だがその可憐なお口でかじられるのであればそれも悪くないような気もする。

いやしかし、本当にそんなことはしないだろうと思い、おずおずと指を差し出した。

 

「声、出さないでね」

 

彼女はちらりと店員の目がないことを確認した後、

俺の手を取り、人差指を口に含んだ。

 

彼女の軟らかく温かい舌がねっとりと指に絡む感触があった。

俺は驚きつつも、なぜ彼女が俺の指を舐めているのかこの状況がさっぱりと理解できず困惑した。

綺麗なお姉さんにこんなところで指を舐められているなんて

まるで夢の様ではあるが、嬉しいことにどういうわけか現実であった。

 

彼女は目を閉じて、口の中に意識を集中しているらしい。

しきりに指が刺激される。

 

自分の指をしゃぶるように丹念に舐めた記憶など俺にはない。

だが、それはこんなにも気持ちがいいものだったのかと俺は初めて知った。

頭がぼうっとする。周囲の音も、目に映る光景も霞んで俺の意識から遠のいていく。

思考を放棄したくなる程の心地良い感覚が、俺の指先から脳に送り込まれてくる。

時が経つのも忘れるほど、その感覚に夢中になっていた。

 

「終わったよ」

 

そう言って、彼女にぎゅっと手を握られて俺の意識は現実に戻った。

 

「合格」

 

彼女はそう言った。

 

何が合格なのかは疑問に思うべきところなのだが、

あいにく快感に酔ってしまった俺の脳はそんな些細な事を気にも止めなかったらしい。

 

俺はまだじんじんと余韻の残る指先をぼんやりと見つめた。

まだねっとりと彼女の唾液のまとわりついている指先には、彼女の歯形と思しき痕が付いていた。

出血でもしたんじゃないかと思う程の痕だったけれど、血は出ていないようだった。

これほど強く噛みつかれたというのに、俺は痛みどころか今まで気づきもしなかった。

 

彼女は一体何をしていたのだろうか、

気にはなったものの時間切れだった。

 

「やっと来たわね」

 

彼女の視線の先にはロードサービスのレッカー車が来ていた。

 

「翔くん、電話番号教えて」

 

まだぼんやりしている俺の脳は、彼女の質問にただ素直に答えた。

 

「電話してね」

 

彼女は自分の携帯電話の番号を書いた紙を俺の手に握らせると、会計を済ませて店を出ていった。

 

まだまるで寝ぼけているかの様な俺の頭は、

彼女の姿が見えなくなっていってもしばらくそこから動けないでいた。

 

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家に帰ると、ぼんやりとしていた頭がようやく冷めてきたらしい。

 

冷静になって昼間のできごとを思い返してみると、どうにも現実のような気がしない。

平凡な日常に慣れた俺の脳は、

綺麗なお姉さんとの甘美な一時を夢という一言で拒絶したがっているらしい。

しかしあのお姉さんの電話番号が記された紙っ切れが、

決して夢ではなかったということの証だ。

 

『電話してね』なんて言ってはいたが、これは一体なんの罠なのかと俺の平凡な脳は疑っている。

偶然見取れてしまう程に綺麗なお姉さんを街中で見かける幸運はたまにはあるけれど、

見取れて終わるのがせいぜいだ。

 

まぁそのお姉さんの車がトラブってしまうなんて幸運な偶然が起こることも、

宝くじで一等に当たるよりかは高い確立であるだろう。

でも、そのお姉さんが俺を喫茶店に連れ込んで、指をしゃぶって、

それから電話番号まで教えてくれるなんてことがありえるだろうか?

 

そりゃあ俺の男としての魅力が全身からあふれ出しているからに決まってるだろ!

なんて事をぬかしてしまうほど、俺も身の程をわきまえていないわけではない。

非常に残念な事ではあるが、あのお姉さんを引きつける魅力は、俺のどこを探しても見当たらない。

 

きっと、日本中探したってそんな魅力を持ち合わせている男なんて数人くらいしかいないはずだ。

彼女なら男なんてより取り見取りだろう。『あれが良い、』と彼女が指させば、

その男は絶対に首を横に振れないはずだ。

どんなに貞淑な夫も彼女の前でただのオスにも奴隷にもなるはずだ。

 

胸は小さい方がいいなどと血迷う輩もいるようだが、

それは英里香という存在を知らない不幸な男の戯言であり、

彼女の前では胸の大小など瑣末な問題に過ぎなくなる。

 

この世には英里香と英里香以外しか存在しないのだと知り、

英里香を引き立たせるためだけにそれ以外の女は存在しているのだと認識を改めるに違いない。

 

その彼女が出会ったばかりの年下でまだ学生の俺に興味をもつとは、

俺の脳では到底理解できない。

 

これは何か裏があるに違いないと思いたい……。

だが、近々俺が莫大な遺産を相続するとか、油田を堀当てるとか、

地球の支配者になるとか、

七つの不思議なボールを見つけ出すレーダーを発明する予定もない。

 

美女に手を出したら恐いお兄さんたちが家に集金にやってきた、

なんて事もあるのかもしれないが、

それなら俺なんかよりも金をもっていなそうなおっさん連中を狙えばいい。

 

じゃあ、なぜ俺を……。

 

俺は電話番号を前にしながら、電話をかけるべきかやめておくべきか悩んでいた。

 

もしもこれが罠でもなんでもなくて、神様が善良な俺に授けてくださった御褒美なのだとしたら、

これを不意にしては一生悔やんでも悔やみきれない。

 

悩んでいると、電話が鳴った。英里香さんだった。

 

「今日はありがとう。おかげで助かったよ。それでお礼とかさせてほしいんだけど、

今度の土曜日空いてる?」

 

どうやら今俺の図上で幸運の星が輝いているらしい。願ってもない話だ。

 

「お礼だったら今日してもらったのに、そんなの悪いです」

 

悪いのは俺の頭じゃないかと思いたい。

英里香さんが誘ってくれているんだから、そんなことどうでもいいじゃあないか。

 

「そう……、それじゃあしかたないわね」

 

この気を逃したら、二度とチャンスなんてなさそうなのに。

まるでせっかく飛んできた青い鳥を撃ち落とすような愚行だ。

 

「じゃあ、また翔くんに合いたいからっていうのじゃダメかな?」

 

どうやら俺が三日前に食った焼き鳥は青い鳥の肉だったらしい。幸運があふれ出している。

 

そんな嬉しいことを言われて、嫌だというはずがないだろう?

 

そんな都合のいいことがあるはずがない、怪しい、これは絶対に罠だ!

と少しくらいはおもったさ。

でもそれを潔く無視して目の前にぶら下げられた幸運を全力で追いかけるのが男ってものだ。

 

「土曜日、大丈夫です!」

 

何か予定が塞がっていたとしても、無理矢理開けてやるさ。

 

人には一生に一度、モテ期と言う異性にモテまくる時期が訪れるらしいのだが、

たぶん今がそれなんだろう。俺はそう信じて疑わないことにした。

 

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「なぁ、翔。お前明日暇だろう?ゲームの初回限定版を買いに行こうと思うんだけど、

暇だから一緒に並んでくれないか?」

 

金曜日、智也がいつものように俺を誘った。

 

智也は俺の事を自分と同じ、

いつまでもデートの予定を入れられない独り身のさみしい奴だと思い込んでいやがるらしい。

 

だが、今の俺はこの間までの俺とは違う。

 

「明日は無理だ。デートの予定が入ってるからな」

 

俺は勝ち誇ったように言ってやった。先を越されて悔しがる智也の顔が楽しみだった。

 

「デート?そうか……相手は誰なんだ?」

 

智也は悔しがるでもなく、俺の幸せを喜ぶでもなく、心なしか悲しそうに見えた。

 

そんな反応は予想していなかった。

 

「この間、偶然知り合った人だ。すげぇきれいな人だぜ。

二十七歳だし、大人のお姉さんって感じの。もちろん完璧な胸をしている」

 

俺がそう言うと突然智也の顔が近づいてきた。

 

何を思ったのか、危うく接触事故を起こすという程まで近づいたものだから、

俺は渾身の力を込めて智也の顔に張り手を浴びせた。

 

「何をするんだ、気持ち悪い!」

 

「ひょっとしたら熱でもあるんじゃないかと思って、額で計ってやろうとしただけじゃないか」

 

「馬鹿野郎。どこの世界に男同士で額をくっつけて熱を計る奴がいるんだ!

熱があるのはお前の方じゃないのか?」

 

「そうか。熱じゃないとしたら、ついに現実と妄想の区別がつかなくなったのか?

現実から逃げても何も解決しないぞ?」

 

智也の奴は俺の言葉を信じていやがらないようだ。まぁ無理もない。

自分でさえもこの奇跡のような幸運が信じられないくらいなのだから。

 

「なぁ、智也。現実から目を背けているのはお前じゃないか?

俺が大きなチャンスを手にして、

お前を置いて一人で大人の階段を登ろうとしている事実を認めたくないのはわかる。

でもこれが現実なんだ」

 

「そうか……」

 

そう言うと智也は黙りこんだ。

俺の巨乳信仰にケチをつけていた罪を今更ながら悔やんでいる風ではなく、

何かを考えているようだった。

 

「お前、ひょっとして宝くじでもあたったのか?」

 

何を考えているのかと思えば、この男はどうあっても奇跡を信じようとしないらしい。

親友とはいえ恥ずかしくなる程の愚かさだ。

 

「そんなものはあたっていない。信じる者のところへ巨乳はやってくるのだ」

 

「宝くじでないとしたら、デート商法である確立が五十%。

流行のマイウェイとかいうマルチ商法への勧誘である可能性が三十%。

血縁者に重病を患っているものがいて

お前に腎臓・肝臓・心臓・肺・その他健康な臓器の提供をさせる目的である可能性が十%。

ショタコンの類である可能性が九%。

精神錯乱状態・泥酔状態・心神耗弱・真実の愛・その他の可能性などが

一%程度であると俺は断言する!」

 

要するに、何か裏があるに違いないと言いたいわけか。

 

「翔。冷静になれ。仮にお前の言うような素晴らしい女性が存在したとしてもだ。

どうしてその女性がお前なんかに興味を抱くと思うんだ?

近づいてくる男なんて掃いて捨てるほどいるはずなのに、どうしてお前を選ぶと思うんだ?

お前の妄想や勘違いでないのなら、何か裏があるはずだ!」

 

俺の初デートを妬んでそう言っているわけでもなく、本気で疑っているようだ。

 

「お前と違って俺には男としての魅力が溢れているという事実を認めたくないのはわかる。

その魅力は男にはわからないかもしれないが、

経験を積んだ大人の女性には一目でわかるものなんだよ」

 

俺がそう言ったら智也はため息をついて黙りこんだ。

 

どうやらこいつはまだ現実と向かい合う覚悟ができていないようだ。

 

「なんの話をしてるの?」

 

そこへ幸が首を突っ込んできた。

 

「大した話じゃないよ」

 

智也がそう答えた。

 

「ねぇ、翔。明日暇でしょ?見たい映画があるんだけど一緒に観に行かない?

おごってあげてもいいわよ?」

 

「暇じゃない、どうしてお前らは俺を暇人だと決めつけていやがるんだ?

明日はデートだよ、デート!」

 

「デート……。誰と?」

 

「お前とは比べものにならないきれいな大人の女性だ」

 

「ただの臓器売買のブローカーだよ」

 

すかさず智也の野郎はとんでもないことを言いやがった!

 

俺がどんなに頑張って巨乳信仰の素晴らしさを解いてやったところで、

幸の奴も結局智也と同じ事しか言わなかった。

 

「翔は騙されてるんだよ!」

 

まぁ百歩譲って、騙されていたとしても俺に失うものは何もない。

虎穴に入らずんば虎児を得ずってやつだ。

傷つくことを恐れていては何も成し得ない。

 

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そして俺は土曜日がやってくるのを指折り数えて待った。

 

ようやく土曜日がやってくると、俺はこっそりと家を抜け出した。

 

辺りが薄暗くなり、街頭の灯りがないと人の顔も区別が付かないような時間になっても、

英里香さんはまだ姿を見せない。

十八時に駅の前で待ち合わせのはずだったのだが、もう一時間近くは待っている。

 

「ごめん、ちょっと遅くなる」

 

と連絡があったきりだ。彼女の感覚では、一時間は『ちょっと』の範疇に入るのだろう。

まぁ、当然だ。胸が大きければ大きいほど、綺麗であればあるほど、男を待たせる事が許される。

彼女を待つのであれば三日くらい徹夜することも厭わない。

 

こんな夜に呼び出して一体どんなお礼とやらをしてくれるのかと、

妄想に胸を膨らませたおかげで退屈はしなかった。

 

ようやく、俺の目の前に赤いオープンカーが止まった。

それは、先日俺と彼女を引き合わせてくれたあの車だった。

 

エンジンも切らずに運転席のドアが大きく開いた。

彼女は今日もスーツだった。

あの日濡れてしまったものとは違うもののようだったけれど。

 

足を開き、地面を踏みしめるように外にだされた左脚。

スーツに似合わないスニーカーを履いていた。

 

長い足を上にたどると、膝が見えるくらい短めのスカートから、

無防備にも太股が少しばかり露になっていた。

 

なるほど、低く座るスポーツカーとは実に魅力的なものだ。

これが男のロマンというやつか。

 

残念ながらそれも一瞬のことで、

すぐに右足も外に出されて足は閉じられた。

 

それから彼女はドアを開けたまま車の横に立った。

 

「ごめんね、遅くなっちゃって!」

 

いいながら、顔の前で両手を合わせ、拝むように謝った。

 

「急に仕事が入っちゃって」

 

どうやらそれが彼女が今日もスーツ姿である理由のようだった。

 

「でも、どうして待ち合わせをこんな時間にしたんですか?」

 

「太陽が出ているうちは焼けちゃうでしょ?」

 

「日焼けですか?」

 

「そんなところかな」

 

彼女の染み一つない透き通るような白い肌を保つためには、

それほど神経質にならないといけないのだろうか。美しくあるのも楽ではないらしい。

 

「私、太陽が大嫌い」

 

変わったことを言う人だ。太陽が好きだと言う人を見たことはないが、嫌いだという人も珍しい。

あって当然のものであり、なくては地球上に生命が誕生し得なかったと言われる太陽の存在を

嫌ってしまうとは、そこまでして美に拘っているのだろうか。

 

「翔君にはわからないことよ」

 

俺もそんな苦労はわかりたくない。

 

「それよりも、敬語やめてくれないかな?」

 

「え……?どうしてですか?」

 

いきなりそう言われても困る。年上には敬語とさんざん躾けられてきたものは、

そう簡単に変えられない。

 

「私の言うことが聞けないの!」

 

少しきつい口調で俺は一瞬驚いた。でもそう命じられるのであれば、従わない理由もない。

 

「敬語なんて使われると、私たちの間に大きな隔たりがあるような感じがして嫌なのよね……

年齢的な隔たりがさ」

 

ようするに、高校生にタメ口を許すことによって自分も高校生に戻った気分にでも浸ろうと……

そういうことなのか?

 

英里香さんには高校生の乳臭いガキ共にはない大人の魅力があると思うのだが、

彼女はそう思わないのだろうか。

 

「それから、『英里香さん』も禁止!」

 

と言いつけられた。

 

 

 

「なんで俺を誘ってくれたの?」

 

ずっと気になっていたことを聞いてみた。

 

「そうだなぁ……。若いから、かな」

 

「若い……から?」

 

「そうだよ。若い子は健康で元気があって良いじゃない?」

 

「健康とか元気とか言われてもピンとこないなぁ……」

 

「あら、健康って大事だよ。健康はお金じゃ買えない掛け替えのないものなんだよ、

って有り余るほど元気な人に言ってもわからないかもしれないけどね。

大切なものの存在は失ってから気づくってよく言うでしょ?」

 

「そっか……。英里香はもう若くないもんね」

 

そう言った刹那、顔面に激しい衝撃が走った。

 

前の車がはね上げたコンクリートブロックが、

ガラスを突き破って俺の顔に衝突したんじゃないかと思う程の衝撃だった。

 

でもよく見ると、それはぎゅっと握られた英里香の拳だった。

それが俺の額を襲ったらしい。

 

せっかくのありがたい健康とやらももう少しで失ってしまうんじゃないかと思う程で、

俺の頭はしばらくもうろうとしていた。

 

「それと、翔くんは頭が悪そうだけど、でも良い匂いがしたから、かな。

好みの匂いっていうのかな」

 

匂い……。そう言われてもわからない。

俺は未だ嘗て同姓はもちろん異性を匂いで識別するなどという事をしたことがないし、

できる気もしない。

ただ、英里香ほどの人生経験を積んだ女性ならばそれができるのだろうと納得することにした。

 

英里香の車に揺られ夜の高速道路を走り抜けて着いたのが海辺のレストラン。

 

海辺とは言っても砂浜はない。変わりにちょっと洒落た木製の簡素な柵があって、

その先の地面が消えてなくなっている。

身を乗り出せば暗闇の底から波のぶつかる音が聞こえてくる。

そんな崖の上のレストランだが、対岸の街並みの夜景が綺麗なところでもあった。

 

「ここは気に入ってるお店なんだよ」

 

高そうな店である。高い金とる店なら悪いはずがない。

でも、そんな理由じゃないらしい。

 

「ニンニクがでないんだよ」

 

「嫌いなの?ニンニク」

 

「もちろん。見たら吐き気がするし、匂いを嗅いだだけで頭痛がするのよ」

 

「じゃあ頼まなければいいじゃない」

 

「だから、店内に一個でもニンニクがあったら匂うでしょ?」

 

そう言われても俺は同意しかねる。

 

隣の席の人がニンニクをすりばちでごりごりすり潰してご飯にかけて食べてるだとか、

ニンニクの皮を香のようにして焚いているだとか、

そんなところなら自分がニンニク料理を避けたって匂いはするだろう。

でも、遠くの席の誰かが頼んだメニューのニンニクなんてまずわからないだろう?

 

「……そんなに嫌いなんだ」

 

「あと、ここは大盛りも作ってくれるんだよ」

 

と言うだけあって、俺の前に運ばれてきた料理は山のように高く盛られていた。

大きいパスタ用の皿の上にてんこもりで、

ちょっとでも振動をあたえようものならたちまち崩壊してしまいそうな程に高い。

その証拠に、ウェイターは崩れないようにパスタを上から手でおさえて持ってきた。

 

こりゃあ大盛りってレベルじゃあない。一体なんの嫌がらせなのかと思う程だ。

ひょっとしたら英里香は金なんて持ってなくて、

俺がこれを三十分以内に平らげたら料金がただになるとか、

そんなシステムなんじゃないかと勘ぐりたくなる程の量だ。

 

「俺……こんなに食べれないんだけど……」

 

「あら、そうなの?」

 

と英里香は意外そうに声を上げた。

 

「男の子はみんなこれくらい食べるでしょ?」

 

そりゃどこかのお相撲さん見習いの話だろう。帰宅部の俺には関係ない。

 

「英里香はあんまり食べないんだね」

 

英里香のパスタは小振りな皿に盛られていたが、俺の巨大な皿の前では余計に小さく見える。

 

「まぁね……」

 

そう言ってフォークでくるくるとパスタをいじるばかりで、なかなか口に運ぼうとしない。

 

気に入っている店だと言うだけあって、確かにおいしいのに英里香の口は話をするばかりだ。

 

「英里香は……彼氏とかいないの?」

 

「彼氏か……。そう呼べる相手はもうずっといないかな」

 

それは甚だ意外な答えだった。

 

「なんで?」

 

思わず、俺は心に浮かんだ言葉を口にしていた。

 

「好きになれるほど気に入った相手がいないって事かな」

 

「結婚とか考えてないの?」

 

「別に興味ないかな。焦ることでもないしね」

 

「えっ!だってもうすぐ三十でしょ?俺なんかと遊んでていいの?」

 

「だから、結婚なんて興味もない相手と無理にするものじゃないでしょ?」

 

「そっか……。高望みしすぎてるんだね、それじゃあ一生結婚できないよ?」

 

「翔くんってさぁ……殺したくなるほどにくたらしいって言われない?」

 

どうやら英里香の気に障ることを言ってしまったらしい。

笑顔をひとつも崩していないのが反って恐い。

俺はただ英里香の事を心配しただけだというのに、難しい年頃だ。

 

「さぁ……どうかな。素直でいい子だとは言われた気がするけれど……。それよりも、」

 

俺はさっきから減っていない英里香のパスタの方が気になっていた。

 

「全然食べてないね」

 

「そうね……。こういう食べ物が好きじゃないから、かな」

 

「でもお腹減るでしょ?」

 

「まぁ減らないこともないんだけど……食べる気がしないのよ。

何を食べても全然味がしなくてね……砂を噛んでるみたいでちっともおいしくないのよ」

 

「あ!もしかして、英里香は一人暮しでしょ?

ろくなもの食べないで偏食ばかりしてしてるんじゃないの?

味覚障害っていってね、亜鉛が不足するとそうなるんだよ!」

 

と俺がせっかくそう言っているのにだ。

 

「ふ?ん……」

 

と英里香は他人事であるかのようにまるで興味を示さない。

 

「よかったら俺がご飯作ってあげるよ?」

 

「翔くんって料理できるんだ。一人暮ししているわけでもないのに珍しいね」

 

「まあね。母親がね、今時の男は家事ができないと人間としてダメだって言ってね、

無理矢理仕込まれたんだよ」

 

「じゃあ、翔くんって掃除とか洗濯も得意だったりしない?」

 

突然英里香の目がきらきらと輝きだし、体を乗り出して俺の顔を覗き込む。

 

料理には大して食いつかなかったのに、そんなに興味のある話だったのだろうか。

 

「まぁ一通りはできると思うけど……」

 

「翔くん、今度家にこない?」

 

英里香は俺の手を取り、ぎゅっと握った。大きな両方の目の丸い瞳で一心に見つめている。

 

この誘いを無下に拒む馬鹿がいるだろうか。

いたとすればそいつは男として大切な何かが欠落している。

 

「いいよ、行く」

 

結局、英里香はパスタを半分も食べなかった。

 

店を出ると、車に向かおうとしていた俺の手をとって、海の方へと連れていかれた。

 

「どうしたの?」

 

英里香は俺の問には答えず、海を見下ろすようにして立っていた木の幹に俺の背中を押し付けた。

 

辺りは薄暗く、近くにあるはずの英里香の表情もうかがうことができない。

 

一体どういうつもりなのだろうか。俺は不安よりも期待で胸が高鳴っていた。

 

「声を出しちゃダメだよ」

 

そう言うと、英里香は手で俺の口を塞いだ。

声が漏れないほど強く塞がれたけれど、決して乱暴ではなかったから、

俺はされるまま素直にうなずいた。

 

そして、英里香の顔が近づいてきた。

少しずつ少しずつ大きく近づいた英里香は俺の顔を逸れ、首の左側に触れた。

英里香の吐息が首をくすぐると、軟らかくて温かい感触が伝わった。

 

舌が肌を這ったかと思った刹那、俺は声を漏らしていた。

俺の意志とは関係なく声が漏れ出そうとするのを、かろうじて英里香の手で塞がれている。

 

気持ちいいという感覚だけが強く、強くどこからか湧き起こってきて俺の脳に流れ込んでいる。

理性も英里香との約束もすっかりと押し流されてしまって、

脳が快楽に溺れ他の仕事を放棄しようとしている。

 

目の前が白くなっていき、体中の力が抜けていくような気がしたけれど、

もはやそんなことすら理解できなくなるほど強い刺激が送り込まれる。

俺の意識はその辺で途切れた。

 

気がついたら、俺は英里香の運転する車の助手席にいた。

 

どうやら運転中らしいということはぼんやりと理解できたが、体が動かない。

脳がそんな簡単な仕事さえも拒んでいたせいで、

しばらくはただ目に映る景色を眺めていることしかできなかった。

 

「気がついた?」

 

英里香に言葉をかけられても、俺は声もでなかった。

 

英里香は俺を家まで送り届けてくれた。

 

その頃には少しはましになっていて、

英里香の手を借りてなんとか立ち上がるくらいはできるようになっていた。

 

「なんとか大丈夫そうね」

 

俺は門に捕まりながらかろうじて体を支えていた。

 

「それじゃあまた電話するからね」

 

そう言い残して、英里香は去っていった。

 

<つづく>

説明
年頃の男の子が皆そうであるように、早川翔(15)も大きな胸が大好きだった。
巨乳に非ざれば女に非ず、胸の無いのは女のなりそこないだと、
過激な発言を憚らない巨乳信仰者でもある。
そんな翔に密かに想いを寄せる幼馴染の奇特な少女が美島幸(15)だ。
だが、幸の胸は発育途上なのかそうでないのか、翔には異性として認識されず、
密かに悩んでいた。

その平凡な日常をぶち壊す巨乳、六條英里香(自称27)が翔の前に表れる。
主食は人間の生き血。英里香はその美貌を武器に健康で若い男に唾を付け、
死なない程度に少しずつ血を奪っていく。
翔はその中の一人として目を付けられたとも知らずに、
英里香に好意を抱くようになる。

英里香に疑念を抱いた幸と親友の智也が反対するのも聞かず、
翔は英里香の色気と美貌に籠絡される。
ストーカーの素質のある幸はその天賦の才を活かして、
翔を振り向かせようとする。

「あいつの瞳に映るもの2」に続きます。
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