歪の檻と杯 3 |
環織都2
今日は、酷く疲れた。
毎日が楽しいなんて事は無かった。けれども此処までの気だるさを感じる事は、そうそう無かったはずだ。全ての原因は判明している。
だからといって、怒りを覚えるわけではない。そんなくだらない感情を抱くことを考えるだけで、苛立ってしまいそうだ。マイナスはマイナスと掛け合わせればプラスになるというが、そこから生まれる感情にどれほどの価値があるのだろう。数式の上でしか成り立たない法則が、現実で成り立つわけではない。
「ただいま」
お決まりの台詞は丁寧に、余裕も持ち合わせているように。何故ならば、周りの自分に対する評価が『そういう子』だからだ。名門水瀬中学校の『優等生』、それが周りから与えられた彼の立ち位置だった。
脱いだ靴はきちんとそろえて靴箱に入れる。玄関は家庭の第一印象だ。故に常に気をつけていなければならないのだと、父母は言った。焦りはなく、温かい幸せな家庭のはずなのに、両親は笑ってそう言った。
幸せそうな両親の顔を見れば、多少の我慢くらい出来た。この世界が壊れないために、自分は『優等生』を演じ続ければいい。
リビングには寄らない。すぐに階段を上って自分に与えられた部屋に帰る。よくよく思案すれば、『自分の部屋』というものも一つの〈閉ざされた世界〉と考えられるのかもしれない。
そこまで考えて、苦笑した。ああ、何処に閉ざされていない世界があるというのか!
「…………何をいまさら、」
そんなこと、当たり前のくせに。
『自我を持つ』こと自体が、閉ざされた世界なのに。
馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、馬鹿なのは誰、馬鹿馬鹿しい、愚かなまでに莫迦な、自分。周りの期待にこたえるのが、そんなに辛いの? なら投げ出してしまえばいい。世界は、『くだらない』のだろう?
「うるさい……」
力強く目を閉じれば、夜の帳はすぐ傍だ。何も恐れることなどない。本当にそう言えるのか。
苦しい水槽の中でもがいても、深くまで落ちていれば自分で抜け出すことは出来ない。誰かの伸べる手を、待ち続けるしかない。けれど自分はその手を素直に取ることができるのか、何度尋ねても自分は答えられないのだ。
ベットに身体を投げ出し、床に鞄を投げ捨て、無造作に長くなった前髪を掻く。鳥の鳴き声が、窓越しに聞こえる。心地よい。
鳥の鳴き声が響く部屋の中で、彼は枕に顔をうずめる。静寂すぎる部屋には、少し小さすぎるクラシック。耳を澄ませば、ミュージックが静寂に負ける。静か過ぎる世界に、一人きりは寂しいのだ。
時計が、秒針を進める。かちこちと、秒針の進む音が部屋に響く。
眠りの奥の、人々が共有できる区域。そこに辿り着くのには、もうすこし時間が要る。
感じたはずの痛みだって、もうすこしで消えるのだ。
――抑制と我慢は、別物なのだから。
『痛みを感じないという、痛みを感じる矛盾』
坂原香槻3
鳥の声だけが響く、静かな朝。
ジリリリリリ、と目覚ましのアラームが鳴った。いつもの起床時刻、だけど今日は少しだけ早く起きた。何か用事があったわけでもなく、ただ純粋に目が覚めただけだ。
制服に着替え終えてから、彼は目覚ましのアラームを止める。六年間愛用し続けている、ちょっとだけ型の古い目覚まし時計。いくら投げても壊れない奇跡の一品。
「今日は、食パンでいいかな」
あまり、食欲がない。昨晩こっそりと食べたチョコレートババロアの所為だろうか、そうに違いないだろう。なかなかにくどかった。カロリー高め、ダイエット中の女子にはオススメできない。
くだらない事を考えて、少しだけ苦笑。今時、夜中に置きだしてチョコレートババロアなどを食べる女生徒などいるまい。皆、必要以上に体重を深刻に考え、必要以上に減量しようとするくらいだ。
女生徒のほとんどは、細くて綺麗な子になりたがっている。けれどその『綺麗』の基準がはたして合っているのかどうか。心の問題でもあるし、そもそも見た目を気にする事が果たして『綺麗』の条件に含まれるのか。甚だ疑問だった。
階段を下りて、リビングに顔を出す。リビングに父親の影は見当たらない。母も今は病院だ。姉妹兄弟はいない。静かな部屋の中で、彼はがさがさと食パンを一枚取り出す。バターも塗らずに、彼はそのまま食パンを頬張った。無味である。
「今日は、選択体育があったっけ。織都は出るかなぁ」
考えると、少しだけ笑えてきた。――うん、この調子。けれどきっと、織都は試合に参加したりしないだろうな。昨日の事もあるし。
はた、と我に返る。昨日の帰りの事を思い出せば、頭に血が上りそうだった。駄目だ駄目だ駄目だ、思い出してはならない。そう、彼だってそう望むだろう。いつだってそうだ。
けれど自分の立ち位置は忘れない。昨日の自分を信じることを信じる。
「……たまには、一緒に登校でもしようかな」
「どうしてそういう思考になるのかが、まったくわからないな」
「……幻聴が聞こえたから、今日は病院に行かないとね」
「そうだな、おすすめの精神科でも紹介しよう」
「……――織都?」
「ああ」
リビングの一番右隅の窓の向こう側、申し訳なさ程度に彼の顔が見えた。多分、堂々と顔を出すのも何だかんだでもやもやしているのだろう。おかげで相変わらずの無表情。それが懐かしく思えた。
「おはよう。待ってて、すぐ行く」
さて、どうやって彼を今日の体育にどうやって引っ張り出そうか。絶対に言っても聞かないだろうから。
そう思うと、少しは笑えるのかもしれない。
「早くしろよ」
「分かってるって!」
今日も前を向けるように、僕は頑張ろうと思います。
だからどうか、君も笑ってくれますように。今ここから、心から願うよ。
『一人なんて寂しいからもっと先へ』
野摘英花3
泣きたくなるけれど、だからって現状がどうにかなるというのか。それは意地以外の何でもない。けれど私は変わらない。今までもこれからも、変わることはないと思っている。
「わぁ。英花さんの叔母様の絵皿のデザイン、すごい綺麗」
褒めて言ってくれているであろう女子の声すら、煩わしくて堪らない。いや、いつも彼女たちの声は煩わしかった。それが何を対象にして言っているものであれ、怒りはいつも同じ方向を向いているのだから気にするだけ無駄だ。自分に言い聞かせる。
掲示板に張られた絵皿のデザインは、他の誰でもない、間違いなく野摘英花のものだった。だというのに、名義は『野摘千代枝』。叔母の名前だ。
「……そうね」
二枚舌の下に隠されているのは、明確な怒りだった。スケッチブックの、一番最初。一番気に入っていたデザインを、自分はもう使うことが出来ないのだ。
それだけが、突きつけられた唯一の事実のようだった。
だんっ、と勢いよく机の上に鞄を置いて、彼女は用意を引き出しの中にしまい始める。彼女らしからぬ様子にクラスメイトは驚いたように彼女を振り返ったが、すぐに自分の世界へと戻っていった。彼女にもとても都合がいい。
叔母にデザインを盗まれる事は、今回に限ったことではなかった。叔母は表面上、英花のそのデザイン癖を貶し、止めるように何度も言ってきた。けれど知っているのだ。陰でいくつもいつくもスケッチブックのデザインを盗んで、自分の作品に仕立てていることを。
それが高く評価され、叔母は小さいながらも大手との契約を多数結ぶ某デザイン会社と契約している。私のデザインを自分のデザインと主張して、世に送り出し続けている。
――大人は、汚い。
けれども、彼女は知っている。子供である以上、何も出来ないことを。文句を言ったところで、曖昧に言い逃れされて終わり。
「……止めようかな」
自分のものだと胸を張っていえないのならば、デザインを描く事に意味が見出せない。手元にあるスケッチブックも全部、学校の焼却炉にでも入れてしまえばいい。そうすれば誰にも見られることはない、盗まれることもない。全部全部、夢だとすら思える。
けれど、泣きたかった。慰めてほしかった。
「英花さん。私、何か不快な事でも言ったかな……?」
先程の女子生徒が声を掛けてくる。そう、彼女は関係ないのだ。
――それなら、仮面をかぶりましょう。彼女は悪くないもの。
「ううん、違うの。褒めてくれてありがとう」
「そっ、か。ならよかった」
ちくちくとした空気が痛かったのか、彼女はすぐに離れていってしまう。
――これでいい。全部全部、無かったことでいい。
鞄の中に入ったスケッチブックを見つめて、彼女は思った。
『曇った空から、落雷』
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とある場所の、とある学校で。世の無常を嘆いて、歪んでしまった学生達の物語。 | ||
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