Between the light and the dark 第八章ー蝉時雨 |
イランが東の館に呼ばれたのは、夏の日差しが容赦なく照りつける時間帯だった。
「分かった」
使いの少女は真っ直ぐにイランを見据えた。
「御同行するよう、仰せつかっております」
年はまだ十にもなっていないだろう、ふと初めて会った時のワカを思い出した。
そして内心舌打ちをする。
自分の弱さを貶すように。
「人道に劣っているからな、俺らの仕事は」
いつしかアカンが言ったことがある。
「どっか歪んでしまうんだよ。おれは酒がなければ生きていけないし、カナンは薬物に対して執着しずぎだ。極めつけはシランだよ、男のくせに女の格好をして女言葉でしゃべる。そしてお前は」
「うるせえよ」
続きは言われずとも分かっていた。
「いいや、分かってねえ」
十年前、イランの手から女を――クンを引き離した元本家直属衆は、少しだけ笑ってイランを見た。まるで聞き分けのない弟に苦笑する兄のように。
「俺たちは虫けらなんだ。愛しいなんて感情は持つな」
そんなものはない、という反論は口の中で消えた。
「ワカに偉そうなことをほざいているけどな。俺からみりゃお前の方がよっぽど危ういよ」
そんなことはない、という反論も口の中で消えた。
だから、これで良かったんだ。
己は己のやるべきことを成しただけだ。胸の隅の痛みは放っておけば、その内消滅する。
その部屋は暗かった。というより、開け放たれた窓からの日差しが強すぎて、暗く映って見えた。
見渡す限りの床の間は、飴色に鈍く光っている。外からの蝉の声が降り注いでいるため、余計に部屋の中の静寂が際立っていた。
少女が一人、くつろいだように寝そべっていた。ぺったりと床に頬を付けて。時たまパタン、パタンと片足を尻尾のように打ち下ろす。まるで猫そのものだった。
婆は少し離れた所でじっと座っている。
「婆さま、ハヤテのお頭が参りました」
「御苦労」
イランをここまで案内してきた少女は一礼して下がった。
「早速じゃがの。そこな娘を見てどう思う」
「阿呆に見えます」
正直に答えた。頭の悪そうな、多少呆け気味の少女だと思ったのだ。
婆は満足そうに頷き、ジン語で娘に呼びかけた。娘が顔を上げる。
イランは思わず息を飲んだ。
ワカだった。興味のなさそうな顔でイランを見たが、再び元の体制に戻る。
「成功じゃな。帰ってよい」
「お聞かせ願えませんか」
許しも得ずに婆の前に腰を下ろすと、イランは老婆の顔を睨みつけた。
「本家は何を企んでいるんです。ワカは何のために東の王子に宛がわれるのです」
「おんしには関係のないことじゃ。早う去れ」
「去れと言われれば去りますが、生憎おれは自制心のきかぬたちでして」
ふてぶてしくイランは笑った。
「十年前もそのせいで祖父を失いました」
婆の表情からは何も読み取れない。
十年前。
朧月の夜、イランの元にやってきたのは親友の恋人だった。
――お願い、わたしを連れて逃げて。
当主の娘であるクンは、忍びの里を嫌悪していた。いつか背負う重圧にも。偶然知り合ったイランとヒサメは、その心情を理解することはできなかったが、美しくたおやかな少女に心惹かれたのは事実である。クンも二人に好意を持っていることも知っていた。
おくびにも出さず、だからこそ三人は老師や本家の目を盗んでよく遊んだ。といっても男二人の馬鹿馬鹿しい勝負をクンが笑い転げて見ているだけであったが。
その内、クンとヒサメは二人だけで会うようになった。
「なんだよ、水臭いな」
悲しみを押し殺して、イランはヒサメの背をどついた。いや、悲しみだけではない。
強烈な嫉妬心だった。
昔から、ほんの子供の昔から一度も勝ったことのない親友への劣等感。屈辱。
全てを抑えつけて、笑うしかなかった。
だが、その女が選んだのはヒサメではなかった。
――お願い、私を連れて逃げて。
イランの胸に飛び込んで、儚い声でそう言った。その瞬間に沸いた歓喜はクンに向けられたものではない。
ただただ、ヒサメに勝利した喜びだった。何もかも敵わなかった親友に対して初めて感じた優越感。
――逃げよう。
だが、本家直属衆が事態を傍観している訳がなく、里を見渡す山の中腹にある一本杉の近くでついに捕まってしまった。
――手間取らせるんじゃねえよ。
底冷えのするような声で二人の手を引き離したのは、今はイランの下に付いているアカンだった。
地下牢に閉じ込められたイランはそこでヒサメと対面する。
――おれはお前を許さない。一生許すものか。
軽蔑も悲しみもない、その目にあったのは、ただ憎悪のみ。
――まさか親友に裏切られるとはな。
イランが失ったものは友情だけではなかった。
――この大馬鹿者が。
敬愛する祖父は、いつものように一喝して去って行った。その死を知ったのは翌日である。
――シシドは自害した。お前の行いを詫びながら。
――何故だ、爺さまが教えたことだろう! 親兄弟にも情けは無用と教えたのは爺さまじゃないか!
本家の思う所あったのか、掟を破り殺されるはずのイランは何故か数日後に釈放され、ハヤテの頭に任命された。
十年の時が経つ間に、傷は痛んで膿んでくる。
「当主はなぁ」
応答するように婆の声がした。
「最初からこの娘に着目しておったよ。無論美しい娘はいくらでもおる。だが、女心かのう、かつての男がほかの女に執着するのは耐えられんかったんじゃろ」
「おれは執着などは」
「まあ、今更なんやかんや言うたところで変えることはできぬ。そうそう、事の発末はチャルカ王の依頼じゃ」
依頼とやらはどうでもいい類だった。豪商連合の裏血判書を盗み出してほしいとかなんとか。しゃしゃり出てきたのは本家である。
「もっと大きな利益を生み出したいとは思いませんか」
提案したのはジンに戦を起こさせるよう、けしかけることだ。ティエンランもしくはクズハ、あるいはその両方に攻め入れば、武器の生産地であるチャルカに莫大な利益をもたらすであろう。
王はしばし唸って、それから口を開いた。
「経済は生き物や。やる価値はあるな」
その一言で決まった。双方準備にとりかかる。
ジンの城にはすでに数名の闇者が潜り込んで、澄ました顔で警備兵や女官になっており、第一王子、第二王子にも近づいている。ただ第三王子のヤン・チャオに手を焼いていた。
城にほとんどおらず、ぶらぶらといい加減に旅をしている。直属衆を含め女が何度か接触を図ったが、結果は芳しくなかった。
「城を嫌うて放浪しておるくらいじゃ、好奇心旺盛だが、我儘でもある。だから今までに見たことのない娘であれば食いつくであろう」
おいで、と老婆はジン語で少女に声をかける。ワカはのろのろと起き上がると目をこすりながらやってきた。「あ」と「う」の中間の様な声を出して婆に甘える。
「お前の目当てはこれじゃろう」
婆が饅頭を取りだすと、歓声を上げて両手を伸ばした。
イランのことなど見向きもしない。饅頭しか眼中にない。
ワカはもうワカであって、ワカでなくなってしまった。その人格は封印され、いまや目の前にいるのはただの馬鹿娘だ。
「失礼します」
これ以上、ここにいると婆を殴ってしまいそうだった。足音荒く出てゆく男を老婆はじっと見送っている。
「なあ、シシド。おんしの孫はおんしによう似とるなあ」
蝉しぐれの中、婆は遠い昔の友人に語りかける。激しさを秘めた男だった。血は受け継がれるべきものなのか。
横でワカが鳴く。声を出すことはできない、喉を潰したのは自分だ。この娘は死ぬまで言葉を発することはもう出来ない。
焦げ茶の頭をなでると、気持ちよさそうに目を細めた。
「覚えておきや、ワカラン。闇は光と決して交われぬ」
この娘は表舞台の光へと送り込まれる。闇の手先として。
「闇と光の狭間など存在しない。ゆめゆめ勘違いするでないぞ」
ワカは頷いた。そんなものは分かっていると言わんばかりに。
説明 | ||
ティエンランシリーズ第五巻。 クズハの王子アオイたちの物語。 「闇と光の狭間など存在しない」 |
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コメント | ||
天ヶ森雀さま:コメントありがとうございます。その内じっくり書いてみる予定。多分。(まめご) イラン、不器用すぎる…。そしてクンはある意味とても女らしい業を背負ってそうなお人ですな。ちょっと気になるタイプです。(天ヶ森雀) |
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