二重想 第二章 プロローグ 壱 |
零
今日も客、……誰も居ない。
もう限界の近い蛍光灯が照らし出す店内は、どんよりとした沈黙が漂っていた。それにしても、いつもここは変わらないなぁ。
住めば都、とはよく言ったものだ。最初来た時は、あんなにもこの雰囲気に恐怖さえ感じたのに、今僕は、レジ内のパイプ椅子におとなしく座り、誰も居ない店内で、本のページをまた一枚、また一枚とめくっている。
バイト探しを始めてここにありつくまで、たいした時間は要さなかった。未だにあの家は誰の家だったのか、まったく記憶に無いのだけれど、特に問題も無いので気にしないことにしている。
なにはともあれ、僕はここで朝から晩まで働き、一日にだいたい四千円強、稼いでいる。これだけで暮らしていくのは、現代日本ではとても困難なことだけれど、親の遺産とかも合わせて、まあ、なんとか、僕一人でも食っていけている。
部屋の中はとてもゆとりのある生活が出来そうには見えないけど、余分な買い物もしなくていいところに、バイトし始めた甲斐もあって、結構、日々優雅な生活をしている。
バイト仲間が他にいないから、交流関係はゼロだけど、そんなのは、たいしたことじゃなかった。そもそも僕にとって友達といえる存在は、今までもこれからも、本だけで十分だし、ここにはその友達がいっぱいいるから。
古本屋『黄金堂』。
外見と、どこかギャップのあるネーミングで、まあ、大して繁盛していないこの場所が、僕のバイト先なんだけど、本当に人がこない。
その理由は、主に辺鄙な場所にあること。そしてさっきも言った通り、外見が、…内側もだけど、とてつもなく汚い。でも、品揃えは意外にも充実していて、かなり貴重な本があちらこちらと書棚に眠っている。これは僕にとって、とても都合のいいことであるのは間違いないだろう。
そんなわけで、カウンターレジに座って、僕は今、本を読んでいる。その隣には、一人の男性が座り、出口に睨みを利かせている。
この人がここの店長さんで、名前は日暮響。もう六十半ばを過ぎるというのに、白髪も皺もない、恐るべきご老体である。どっからどう見ても、四十代後半にしか見えない人なんだから。でも、声はがらがらなんだよね、これが。
彼が何をしているかというと、簡単に言えば、見張り。古本屋も最近、万引きの被害が相次いでいるようで、ただでさえ儲からないのに、経営にも一塩、苦労させられているらしい。そんなわけで、ここ『黄金堂』では、人を雇って、そいつにレジをさせ、自分は客に睨みを利かせる、という方法を取ることを思いついたのだそうだ。だが、肝心の人を雇うことが出来ない。なにせ、今時誰も雇うことの出来ないような、低時給で、そのお値段、四百十円。十二時間ぶっ通しで働きもしないと、生きていくことさえ困難な額だ。ただでさえ、本というものが、読まれなくなってきている今日この頃、誰がこんなバイトにつくだろうか……、と日暮さんも思い始めたころ、僕が現れた。まさに、彼にとっては願ったり叶ったりだったらしい。
しかも、僕は、この日暮さんと本の趣味も合うことから、即バイトに決定。僕にとっても、言うこと無しであった。
ところで、そのバイトの一日の仕事としては、特にない。ただ単にレジをしていればいいだけで、特に客がいなければ、それ以外はずーっと本を読んでいればいい。そう、つまり本好きにとっては夢のような職場。……だけど本当にここ経営平気なのかな、と本気で心配したりもする。だって、……客が本当に居ないんだから。一週間に十人も来ればいいほうだ。
そんな環境で、この一ヶ月働いているんだけども、特に最近したいこともないから、困るんだよな。まあ、本を読めれば僕は満足だし、言うことはないんだけど、なんか、これといった目標がないと、生きている気がしないし……。
と、誰かが入口に入ってくるのが視界に入ったので、僕は、今読んでいた本を閉じた。その本は最近噂の、魔法ファンタジーもののハードカバーなのだが、思っていたより面白味はなかった。僕としてはやっぱり、魔法はちょっと神秘的で意味のわかる呪文を唱えるものが、割と好きなため、この本のように杖一振りと、謎の呪文を唱えるという傾向のものはあまり好まない。それでも、最後まで読まなければ気がすまないのは、宿命というか、なんというか……。
僕は苦笑いを隠しながら顔を上げて、お客のほうを見た。あんまりじろじろ見るのは失礼だけど、笑っていればそれも問題ないだろう。それに、監視の役目は日暮さんが請け負っている。
……お客は女性だった。眼鏡をかけ、髪はショート。服は、白のタンクトップにジーンズという、随分と動きやすい格好である。活発そうな顔立ちで、よく日に焼けている。でも、もとは白いのか、普段は隠れている部分なのだろう、Tシャツのときに隠れる、肩から少しまでのところは、真っ白だった。
「いらっしゃい、冴ちゃん。久しぶりだね。」
彼女が入ってくると、日暮さんが急に、彼女に話し掛けた。日暮さんにしては珍しい行動だった。いつもなら、獲物を狙う肉食動物のような目で、お客を監視して、しかもそれで逃げ出してしまうお客さんも居るくらいなのに、どうやら彼女は知り合いのようだ。僕は二人の顔を見比べる。二人ともニコニコ笑っていた。
「はい。日暮さんもお元気そうで。」
奇麗なイントネーションだった。ハキハキ喋る、キッといい人だろう、そう僕は直感した。
「今日も何か売りに来たのかい?」
「いいえ、ちょっと久しぶりだから、寄ってみようかなって。」
「そうか、そうか。まあ、ゆっくりしていくといい。」
そこで、僕はちょうど彼女と目が合った。
「あっ、日暮さん、新しく、バイトを……、えっ、……雪村さん!何でこんなところに!」
「はい?」
彼女は僕を指差し、驚愕の表情を浮かべた。だが、驚くのはこっちである。
何で彼女が僕の名前を知っているんだ?……僕の記憶の中に彼女の顔は存在しない。初対面であるはずだ。
僕は呆然としたまま、その疑問を抱きかかえなければならなかった。
だが、今はそれよりも大きな問題が、僕の中で緊急警報を鳴らしている。彼女が少しずつ近寄ってくると同時に、彼女の瞳に僕は釘付けになっている。蛇に睨まれた蛙、違う意味でそういう状況だった。
頭の中が真っ白になり始める。何故、彼女が僕の名前を知っているのか、それは大いなる謎だが、それよりも、こんな美人に見つめられたら、僕は、一体どうすれば……。
「なんだ、なんだ?二人とも知り合いなのか?」
困っている僕の気持ちを知ってか、知らずか、日暮さんが合いの手を入れてくれた。僕は彼女から少し視線を外し、もちろん正直に答える。大昔から、誤解はさっさと解いたほうが良いと、決まっているのだ。
「はい。」
「いいえ。」
全く同時に違う答。
……。どうも、かなり根本から勘違いしているらしい。僕は彼女の誤解を解くべく、席を立った。
「あの、多分あなたの、人違いだと思うんですが……。」
よかった。思ったより声が震えない。
「そんな、……だって、あなたは雪村さんじゃないんですか?」
聞き間違えじゃ、なかったらしい。確かに彼女は、僕の名前を呼んでいる。
「ええ、まあ確かに、僕の名前は雪村聡志だけど……、僕はあなたのことを知らないし。」
「……雪村聡志?名前は……けど……、でも……。」
彼女が視線を落とし、ボソッと何かを呟きながら、考え込む仕草を見せる。どうやら、自分の中で整理をつけているようだ。どっちにしろ、僕は彼女の考えている人物とは、違うはずだ。何しろ、僕の記憶の中に、彼女のような美人は存在していないのだから。
「まさか、また!……だけど……。」
彼女がこちらを一瞥する。油断して彼女のほうに目をやっていたため、視線がぶつかり合い、それに反応して心が跳ね上がった。
蛙と蛇は目を合わせたまま、それから、しばらく沈黙が続いた。僕の背筋を冷や汗が、垂れた気がする。
真っ白になった頭。……平衡感覚が狂い始める。なんか垂直に立っていないような……。
「なんかわけありみたいだな。よし、今日は閉店にしてやる。二人とも、中に入んな。」
日暮さんが沈黙を破り、僕と彼女を包んでいた結界を解いた。
僕の思考が日暮さんの介入により、正常かどうかはともかく動き始め、平衡感覚も戻ってきた。床にちゃんと足を着いている。だが僕は、彼女と目を合わせたまま、それを外すことが出来なかった。店じまいのため、入口に赴く日暮さんを視界の端に捉えるが、捉えるだけだ。僕の意識は完全に彼女に捕まっていた。
彼女が身体を動かした。心がびくつく。まるで彼女の一挙一動が、僕をどうかしてしまうかのような気分だった。
彼女は僕に焦点を向けたまま、レジの横をすり抜けていった。とりあえず日暮さんの指示に従うことにしたのだろう。迷わず、レジ横を通ったことから、『黄金堂』というか、日暮家自体と繋がりが深いことがわかる。僕も彼女に続いた。彼女に怯えながらも、僕の心は彼女に惹かれていた。
それは、彼女との出会いが、まるで物語のようだったからかもしれない。
『黄金堂』の奥は、普通の茶の間になっている。というか、ここは日暮夫妻の生活の場だ。営業前はいつも、二人そろって座っている。僕も営業終了後、たまに御呼ばれされて、お茶菓子を戴いているけれど、そんなことは滅多に無い。そういえば、面接もここでやったっけ。
そこに僕と、冴ちゃんと呼ばれていた女性が向かい合うように座った。その横に日暮さんが座る。
「ま、お互い自己紹介から始めよう。じゃ、とりあえず、冴ちゃんから。」
温和な声で、日暮さんが話を進め始める。奥さんは、洗い物をしているのか、台所のほうから、食器がこすれる音が聞こえていた。
「……私は、霧下冴子です。」
僕の目の前に座った彼女は、困惑した表情でこちらを見ていた。だが、やはりその顔に見覚えが無い。
続いて僕が自己紹介する。
「……僕は、雪村聡志です。ここで、一ヶ月前からバイトをさせてもらっています。」
相手も名前だけだったので、こちらもそれだけで済ます。視線は出来るだけ下げて、目が合わないように努めた。
「じゃ、今度は冴ちゃんの状況を聞こうか。」
日暮さんは着々と、困惑している話し合いの場を取り仕切っていく。さすがに伊達に年はとっていないらしい。
彼女はゆっくりと語り出した。なんだか本当に、嘘のような話を。
二ヶ月前、今は亡き姉の恋人を偶然見つけた。だが、その後、記憶喪失に陥ってしまった。その彼の身内が居なかったので、自分の家まで運び、それからしばらく世話をしていたのだが、ある朝、目を覚ましたら、いなくなっていた、ということらしい。しかもその恋人が、僕と瓜二つだと言う。その上、名字まで一緒で、名前は雪村恵吾というのだそうだ。
「……そんなに、似てるの?その恵吾さんと僕って。」
「はい、声まで一緒です。口調は違うけど、……あの、聡志さん、ちょっと、『私が雪村恵吾です』って、言ってみてくれませんか?」
僕はそのとおりにした。
「……同一人物としか思えません。」
そう言って彼女は、僕の顔をしげしげと眺めた。僕は堪らず、向かい合ってしまった目線をそらした。ああ、もう、頬が赤くなるのがわかる。
そらした先には、日暮さんのにたにた笑いがあった。僕の弱点をよーく知っている日暮さんだからこそ、ここで笑える。
「冴ちゃん、そのくらいにしてやってくれ、こいつ、そういうのに弱いんだ。女性との免疫がないらしいんでな。話すだけならいいんだが、女性客と視線が合うと、いつも、レジで真っ赤になるんだぜ。」
「へえ。恵吾さんは、平気でしたけどね。どちらかと言うと、……好意的なほうでした。」
彼女が急に、遠い目を向ける。それと共に、声も一緒に。……何か思い出したのだろうか?
「あ、あの、それでえっと期待に添えなくて、ごめんなさい。」
なんとなくしんみりした気持ちになってしまった僕は、とりあえずそう呟いた。が、言ってから、自分で馬鹿みたいなことを口にしていることに気付いた。
「いえ、いいんです。というか、あなたが謝る必要はないじゃないですか。もう私も、諦めようと思っていたころだし、問題はありません。」
だが、そういう彼女の瞳には、そのような気配は微塵もなかった。むしろ、悲しさが浮かんでいた。きっと、今までにもこうしたことが何度もあったのだろう。その度に失意して、……きっと、好きだったんだろうな。僕は、素直にそう感じ取れた。そこまでわかっていて、自分には何も出来ないとわかっていても、
「諦めちゃ、駄目ですよ。」
僕の心はそう呟いていた。
「えっ?」
「恵吾さんがあなたにとって本当に大切な人なら、諦めちゃ駄目です。僕も応援しますから、頑張ってください。」
僕は、彼女の悲しい目の色に、驚きの色を上塗りした。
「冴ちゃん、こいつに隠し事は無駄だよ。聡志は観察眼だけは長けてるからね。」
「日暮さん、だけってなんですか、だけっていうのは。」
「そのままの意味だよ。」
「そんな、酷いですよ。」
僕は、笑った。こういうやり取りは日暮さんとの間では、日常良くあることだ。それを見て彼女も微笑している。もう、哀しみの色は見えない。
……良かった。
今までの雰囲気が一転したところで薄い桃色のルージュが上下に動いた。
「やっぱり、似てます。雪村さん、……恵吾さんに。」
「そう?でも、こんな性格じゃなかったでしょ?」
僕が、彼の性格なんて知りもしないが、こんな珍妙な人間ではなかったと思える。
だって彼女の好きになった人なんだから……。
彼女は軽く頷くと、
「ええ。でも、その、雰囲気が……、ちょっと違うかな?なんというか、その、不思議と似てるんですよ。その……優しいところ……が、かな?」
と、首をひねった。
その仕草にドキッとする。こんな言葉を女性に掛けられたことなど、今までになかったことだから、というか、あんまり個人的に話なんてしないから……。
もう何度目だろう、また彼女の姿に視線がくぎ付けになってしまう。目が離せない。……まずい、顔が熱くなってきてる。
「おい、聡志。顔真っ赤だぞ。」
日暮さんがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら、こっちを見ている。その意図は明白だ。……この場は逃げるしかない。
「日暮さん、僕、レジに出ますから。」
「何を言ってるんだ。さっき閉店にしたばかりだろ。」
……しまった。自分で墓穴を掘ってしまった。
「聡志さんって、面白い人ですね。」
冴子さんが、小さく笑う。
……なんか、惨めだ。ともかくここから、……あ、そうだ。本、レジに置きっ放しだった。それを理由にして。
「日暮さん、僕、本取ってきます。」
「あ、そう。」
しかし、日暮さんの相変わらずニタニタ笑いは消えず、冴子さんも微笑んだまま、二人は僕のことを見ていた。その視線に、しばらく背中がかゆかった。
「ふう。」
レジ内に立ち、彼女と別空間に居ることを再認識すると、顔のほてりも収まってきた。徐々に胸の鼓動も収まっていく。しかし、あのままだったらどうなっていたことやら。……もしかしたら、ぶっ倒れていたかもしれない。
でも、それだけ可愛い人だったのである。改めて分析してみると、霧下冴子は、今までこの『黄金堂』来た女性客の中で、一番僕の好みにフィットしているというか、一番、心に直接像が映し出される感じがしたのだ。……まずいな。もしかして、……これが俗に言う一目惚れというやつなのでは?……ああ、まずい、よくわからないけど、そう考えると、本当にそうであるような気がする。
僕は、読みかけのハードカバーを手にし、日暮さんと談笑している彼女のほうを見やった。脳内に先ほどの仕草が、繰り返される。
……、僕の顔は真っ赤になっているだろう。……ああ、やっぱ完全に一目惚れだ。まさか、本当に起こるとは、しかも自分の身にとは、……思いもしなかった。てっきり、一目惚れっていうのは、小説の中だけの話だと思ってたのに。
……でも、……だけど、これじゃ、どんな小説に比べたって、相手が悪いだろう。
「……きっと、恋人いるんだろうな。……はあ。」
思わず口からこぼれてします。当たり前だ。あれで恋人がいないというんだったら、僕は、世の男達の神経を疑うぞ。あんな美人に恋人がいないんだとしたら、みんな見る目が狂っている。ま、少し防御が硬そうな感じはするけど、普通に話せるし、優しそうだし……。眼鏡をかけて理知的な雰囲気を醸し出してるところが魅力的だし、その上スポーツしてますって感じに、陽に焼けてる。……何処に劣等な部分があるっていうんだ。
彼女に恋人はいる。……だから、深みにはまる前に脱出しよう。叶わないとわかっている恋ほど、悲しい恋はないんだから。
僕はそう決心し、深呼吸した。しかも腹式呼吸で。鼻腔から息を吸い込み、それを一気に腹へと押し込む。さらにその上の胸にも空気を溜め込んだ。これ以上吸えないほどに空気を吸い込む。その後、ゆっくりと呼気を吐き出す。細く長く、決して絶やさぬように。
……落ち着いた。とりあえず、落ち着いた。大丈夫。彼女には恋人がいるから、大丈夫。
何が大丈夫なのかは、自分でもよくわからなかったが、今は何よりも、自分の態度を重んじよう。僕は振り返って茶の間へと戻ろうとした。そこへ、二人の会話が耳に入る。
「それで、冴ちゃん。彼氏とは今、どんな感じなんぞや?」
日暮さんは、年の割に、かなりのお節介焼きで、特に人の恋愛になると、やたらと首を突っ込みたがる。しかも、そのときは決まって、みょうちくりんな言葉遣いに変わる癖がある。
「もう、付き合い始めて半年近くになるじゃろ。どうじゃ、どこまでいったんじゃ?」
この会話を聞く限りでは、日暮さんは、ただのセクハラ爺さんに他ならない。
「全く、日暮さんも好きですね。……相変わらず。」
彼女もそこらへんについては、よくご存知らしい。まあ、僕より付き合いは長いんだし、当たり前と言えば当たり前か。
「で、どうなんじゃ?」
「……隠すことのほどでもないから、……言いますけど。」
彼女はそこで一つ溜息。
「二ヶ月前に、別れました。」
「何だ、つまらん。」
「……。」
日暮さんのそっけない反応。それには僕も、彼女も閉口した。
「ほら、聡志も早くこっちにこんか。これから、冴ちゃんが、彼氏と別れた時の話を、きめ細かに話してくれるそうだから。」
「……はあ、誰が、そんなことを言ったんですか。」
うんざりしたように、冴子さんは呟く。良くあることなのだろう。からかわれていた初期のころは、ムキになって反応していたのだろうが、今ではもうそれを通り越して呆れているに違いなかった。
僕は、それに同調しながら茶の間へと戻った。壁に掛けられた時計は、三時二十三分を指している。
「そうですよ、日暮さん。あんまり立ち入ったことを聞くのは、失礼です。」
「二人とも固いの〜。」
「こういうときだけ、お爺さんにならないでくださいよ。まだまだ働き盛りなんでしょ?」
彼女もそれに応じて、こくこくと頷いた。これは、日暮さんが普段良く使っている言葉で、一種のスローガンみたいなものだ。彼女もそのことを知っているようで……、僕にはなんだかそのことが、少し嬉しく思えた。……しかし、これで僕の予想は大きく外れたことになる。つまり、彼女には恋人がいない。それを思うと、理由もなく、心が落ち着かなくなる。けれど、その事実に……安堵したのも、やはりまた事実だ。
僕は彼女に恋をしてしまった。……だけど、僕と彼女じゃ、……不釣合いだよなあ。
僕は心の中で溜息をついた。
「何、暗い顔をしとるんだ。聡志。ただでさえかび臭い本屋が、さらにじめじめするだろう。」
「そうですね、すいません。」
僕が心底謝ると、条件反射のように、急に彼女が吹き出した。僕は頭に、はてなマークを浮かべつつ、今の何か面白かっただろうかな、などと考えたが答えは出なかった。
「何でそこで大真面目に謝るの?雪村さん。」
彼女の声が部屋に、響く。綺麗だった。どんな音楽よりも美しい調べだった。
感情が表に出たとき、人は、必ず素の自分を、体現させてしまう。そんな中、僕の目に彼女の何も飾らない姿が映った。今まで見たどんなものよりも、鮮やかに、穏やかに、軽やかに……。そして、艶やかに。
「じゃあ、そろそろ私、お暇しますね。」
途中で日暮さんの奥さんも、仲間に加わり、四時過ぎまで四人で談笑し、ねたが尽きてきたころと、彼女は席を立った。
会話に加わっていながらも、僕の中では、革命の真最中だった。今までこれほどまで、人を好きになったことがなかったのが、その大きな要因だが、……、しかし彼女は、今まで僕の居た、ただの容れ物だった空間を差し替えてしまった。
だから、少しでも長くその感覚を味わいたくて、僕は自分でも驚くほどの積極性を見せた。そのくせ、何故こんなことが出来るのか、自分でも理解できなかった。この、女性が苦手な筈の僕が。
僕は少し遅れて立ち上がり、
「日暮さん、僕、そこまで見送ってきます。」
「おう。」
「はい、行ってらっしゃい。」
二人に声をかけてもらい、そうして、僕と冴子さんは、『黄金堂』の外に出た。
外は太陽が眩しい。少しむしむしするものの、もう蝉は鳴いていない。さすがに、もう秋である。来週には台風もやってくるのだ。
「いい天気ですね。」
僕は、彼女に声を掛けた。
「そうですね。」
他愛の無い返事。……ま、初対面だしな。
彼女は先を歩いていたのだが、振り返って、僕のことをじっくりと上から下まで見た。彼女には似合わない形容詞だが、それこそ舐めまわすように。
「本当に、雪村さんじゃないんですか?」
もちろん僕は雪村さんだが、彼女の望む、雪村さんでは、ない。残念なことだけど。
「違いますよ。……いくら似ていたとしても僕は、僕ですから。」
憮然とした口調になってしまったが、仕方ない。こうまで、問われると、さすがに僕も、そうならざるを負えない。意味の無い肯定よりは、強い否定が意味を成す。
「……そうですよね。ごめんなさい。」
僕の答に何かを期待していたのだろうが、その期待に応えることは出来ない。
「……きっと見つかりますよ。」
僕には、そんな気休め程度の言葉しか、かけることは出来なかった。
「ありがとう。」
さっきとは違う、苦しさと悲しみに溢れた笑み。その表情を見ることが、僕には耐えがたく、僕は目を落とした。
「……またのご来店、お待ちしております。」
「ええ。」
彼女のヒールの足音だけが、特別、僕の耳に響いた。僕は直感的に、彼女が、雪村恵吾に恋をしているのだと悟っていた。姉の恋人といっていたから、もしかしたら、その頃からずっと、だったのかもしれない。途中で寄り道したとしても、それは、本物の恋には至らなかったのだろう。ずっと、彼に恋をし続けていたから。
いろいろ想像は出来るけど……、おそらく彼女は僕と同じく、叶わない恋を追っているのだ、きっと。
彼女の背中は、どんどん小さくなっていく。
『黄金堂』の中に戻ると、日暮さんが、本の片付けをしていた。僕は黙って、それを手伝おうとする。そんな僕の肩に手を置いて、日暮さんは優しく、告げた。
「今日はもういいぞ。」
「えっ、でも。」
「失恋から立ち直るには、いっぱい泣けや。な。」
「……日暮さん。」
この人には敵わない。恋愛事情に関しては、誰よりも千里眼を持っている。いろいろな男女関係をこれまでにも見てきたのだろう。
僕はそんな人と知り合いになれて、本当に良かったと思った。
彼はにっこり笑った。そして、
「給料のことは心配するな。ちゃんと、引いといてやるから。」
「……。」
やはり、この人には敵わない。僕は改めて。日暮さんが商売人であることを認識した。
僕は、結局日暮さんのいう通り早めに帰宅した。僕の自宅は、『黄金堂』と同じ町内にある、ぼろアパートだ。これでも、奇麗好きな方なので、ちゃんと部屋の中は掃除しているし、花も栽培している。男の一人暮らしにしては、かなりの水準の高さだと思う。
僕は、襖の中に畳んである布団を引っ張り出し、そこに寝そべった。自然と涙が、零れ落ちてくる。しばらくは、彼女のことが忘れられないかもしれない。だが、いつかそれも、自然と、砂のお城が風化していくように、忘れていくだろう。
最後に見たのが、彼女の淋しそうな笑顔だったのが、凄く気がかりだが、……でも、もう会うことはないだろう。僕があの場にいる限り、彼女は、彼のことを思い出してしまうのだから。……彼の喪失感を、感じたくないなら、もう、会うことはない。
「……さようなら。」
誰に言うでもなく、部屋に独りごちた。
僕は、間もなく、意識をかなたへと飛ばし、眠った。
「雪村さん、止めていた歯車が、再度、動き始めました。」
眠りから覚めた私の眼の前に、耀子は立って、そう告げた。この深層世界の中で、彼女はたった一人の、存在だ。周りには、いつもと変わらず、ピンクの靄が掛かっている。
しかし不便なものだ。望んだこととはいえ、自分の体内に意識が二つあるというのは。しかも、実態であるはずの私が、こちら側にだけ存在するというのも、変な話である。
「雪村さん、本当にこれでよかったのですか?」
「ああ。」
もう、あの時に決めてしまったことだ。突発的だったが、今の私にはこれで十分だと思える。所詮、一人で二つの世界を持つことなど、到底、無理なことだったのだ。
彼女の家から逃げ出した日。私は、自分の過去を、手にすることから、逃れようとした。そして、変わることを恐れた。だから私は、その全てを、私の内側に押さえ込み、新たな私を、雪村聡志を、外側に作り出した。特にモデルはいないのだが、出来るだけ私に似ないようにした。
言ってしまえば、今の私は多重人格といえなくも無い。だが、それとは、徹底的に違うのが一つある。それは、私、雪村恵吾が、表面に出ることは、無いということだ。だから、誰にも、もちろん、『彼』にも気付かれる心配は無い。
あくまでも私は、彼が眠っている間だけ、心内で活動することができる。またそれは、私が、『永遠』を手にしたことの証明でもある。この深層世界でだけの永遠。それを私は手に入れた。彼女のいるこの楽園を。
この世界には、私と彼女の二人しかいない。かつてお互いを愛し合ったもの同士の二人しか。そのためか、私は失っていた記憶を全て取り戻すことが出来た。そう、全ての記憶を。彼女との出会い、生涯の別離、傷跡の謎、そして、プロテクトについても全部。私の記憶は一本の線につながり、全ての時を元に戻した。彼女への愛も、全部取り戻したのだ。
「雪村さん、あの、」
しかし、私が元に戻ったからといって、死んでしまった彼女をどうにかできるというものでもなかった。
私は優しく、耀子を諭す。
「耀子、だから、いつものように呼んでくれて構わないと、毎回言っている。」
「あ、ごめんなさい。どこか、丁寧語が癖になっちゃっているみたいで。」
彼女は、なかなか、前のように雪村君とは呼んでくれない。それだけの年月がなってしまっているということか。もう、五年という月日が流れているのだ。……やはり、年月は人を変えてしまう。
「私も変わってしまったのかな。」
「いえ、そんなことは無いです。雪村さんは……、あ、ごめんなさい。雪村君は、いつもと変わらないよ。五年前から、ううん、私と付き合ってから、ずっと私のことを見ていてくれた。……私がいなくなっても。」
「だが、記憶を失った時は……。」
当時のことを思い出すと、といっても、一月ほど前のことだが、未だに心に罪悪感が走る。意識の中にいながら、心が痛むというのも変な話だが。それはともかく、
「随分と、酷いことを言ったよな。」
「いいんですよ。……今、こうして一緒にいられれば、私は幸せだから。それに……。」
彼女が私の右手の甲を見た。意識の中とはいえ、その身体は細部まで正確だ。
「その傷跡を付けさせたのは、私だから。」
「いや、それは、」
「いいの。最後まで言わせて!」
彼女が叫ぶ。私の胸に顔を押し付けてきた。私の着ているシャツを両手で掴み引っ張る。
「ごめんね。……雪村君。あんなに悲しませて。私、心の中でいつも一緒にいたのに、何もして上げられなかった。」
「いいんだ、耀子。あれは私が、」
シャツを引っ張る手に力がこもる。
「そうやって、何もかも抱え込まないで。……私達、二人で一つなんだから。」
「……ああ。ごめん。」
私は、彼女の背中をさすった。
胸から嗚咽が聞こえてくる。苦しんでいたのは私だけではない。彼女だって、それは同じだったのだ。
「……これからは、ずっと一緒だ。」
「……うん。」
胸の中で、彼女が頷く。
彼女の顔が横を向いて、その耳が私の胸に当てられた。
「雪村君の、心臓、動いてるんだね。」
彼女には久しい、心臓の音。
「大丈夫、もう何処にも行かないよ。耀子も何処にも行かせない。」
「……ありがと。」
私達は強く抱き合った。かつて、あの世界で抱き合ったように、ずっと、ずっと………。
『彼』が目覚めてしまうまで、ずっと、ずっと……。
私が、私であるために、ずっと、ずっと……。
半
彼女との初夜から数週間が経ち、私は再び彼女の家に招かれた。今度は、正式に恋人として、彼女の両親に紹介するということが目的であった。
彼女の両親からの希望だそうで、彼女は済まなそうに申し出たが、私は大歓迎だった。要するに、困難は早めに乗り越えておくべきだということである。もちろん彼女の両親に反対されたからといって、彼女と別れる気にもならなかったが。
と、数週間前はいきがっていたものの、やはり、本番直前となると緊張する羽目になってしまった。
私は直立不動のまま、彼女の家の門の前にいる。その隣には白のワンピースに身を包んだ耀子が立っている。
「雪村君。そんな緊張しなくていいよ。これからプロポーズをしに行くわけでもないのに。」
プロポーズ、その単語にからだがビクンと反応する。
「だから、そう過剰な反応を示さないように、ね。」
彼女は、私をなだめるように、にこっと笑った。彼女のきわどいジョークに少し落ち着く。だが、緊張はなかなか解けない。
「でも、ちょっと嬉しいかも。」
「えっ?」
「だって、こんな緊張してる雪村君、見られるなんてさ、なんかラッキーでしょ。普段、どうしたって、緊張してる雪村君なんて見られないもん。」
「……そうか?」
思い当たる節がないことを確認する。確かにこの緊張度は異常かもしれない。やはり……、
「やはり、君に幸せになって、欲しいからなのかもしれないな。」
「ん?なんか言った?」
「いや、何も。」
私の呟いた言葉は、どうやら、彼女には聞こえなかったらしい。……良かった。自分で言って少し恥ずかしさを感じる。事実だが、かなりくさい台詞には違いない。
「あ、そうだ。緊張解く、おまじないをしてあげるよ。」
唐突に彼女が、切り出した。だが、この年でおまじないというのも、いささか抵抗がある。
「……私はそういうのを、信じないタイプなんだが。」
まあ、実際そうなので、断るにはこれが一番妥当な答だろう。
「まあまあ、必ず効くやつだから。ある心理学者が、なんて言ったかな?まあ、いいや。何とか実験の最中に発見した方法でね、八割の人に有効なんだって。だからさ、物は試しってことで、ね。」
私はこの笑顔に弱い。耀子の笑顔には、彼女を愛する限り、一生頭が上がらないだろう。……不満は全くないが。
「それなら、まあ。」
と、私は了承した。
「じゃ、眼をつぶって。……あ、時間、大して掛からないから、安心していいよ。」
言われたとおり私は目をつぶった。催眠療法だろうか?
足音で、彼女が私の前に立っているのを察知する。まさか、喝っとかいって、頬を叩いたりなんかしないだろうな。私はそのシーンを想像して苦笑する。
「何が、可笑しいの?」
彼女のきょとんとした声。
「いや、なんでもない。」
「そう、……じゃあ、行くよ。」
「ああ。」
しばらくして……。
成る程、これなら、緊張も引くよな。
私はそんな冷静な感想を抱きながら、目を開いた。彼女の頬が赤みを帯びている。少し恥ずかしかったのだろう。それは、そうだろうな。どんな言葉で言い繕ったとしても、いや、この場合は、おまじないでいいのかな。
「雪村君、もう、大丈夫?」
「ああ。かなり大丈夫だ。」
「これ終わったら、お返し頂戴。」
「ああ、……たっぷりとな。」
私は、少し、言葉に感情を込めて、色っぽく演出してみた。
「雪村君……。似合わないよ。それはちょっと。」
「やっぱり?」
二人して笑った。もう、先程までの緊張は何処に行ってしまったのか。私は今、自分の隣にいる彼女を、とても心強く感じていた。私達は、一緒に霧下家の玄関の扉を押し開けた。彼女の香りを含む風が流れ込む。その空気が、私の頬を涼しくした。
「おじゃまします。」
「ただいまー。」
少し、硬くなった私の声と、家に帰りすっかりくつろぎモードの彼女の声とが融合し、霧下家に響いた。私達は玄関で、家族の反応を待った。
一番最初に現れたのは、髪を結い上げた五十代前後の女性だった。廊下の奥からエプロン姿で、こちらへ向かって歩いてくる。その表情は温和で、幼い日に失った母を思わせた。彼女が耀子の母親なのだろう。その後ろには、とぼとぼと暗い影が……、否、男性の姿が、ついてきているのが見えた。彼女の父親、だろうな。
眼鏡をかけており、今はラガージャージの私服だ。彼の職業が何なのかは知ることはできないが、中肉中背で背広を着れば、立派な商社マンに見えるに違いなかった。
落ち込んでいる理由は、はっきりと説明することこそ出来ないが、大方の予想はつく。
「雪村さんですね。どうぞお上がりください。もう、夕飯の仕度が出来ていますから。……飲み物は、なにがいいかしら?日本酒?麦酒?それとも、ウイスキー?ワイン?」
「お母さん、そんなの後でいいじゃない。ほらほら、それよりも、雪村君に早く入ってもらおうよ。」
「それもそうね。それじゃ、お父さん戻りましょうか。」
「あ、ああ。」
奥さんの言葉に、心淋しく、相槌を打ち、奥へと引き返す親父さん。……そういえばここの家族は、女三人に、男一人。昔はともかく今となっては、さぞかし、肩身の狭い思いをしているのだろうな。
私は履物を脱ぎ、親父さん、奥さん、耀子の後に続いて奥へと進んだ。するとそこへ、ドタドタドタ、という足音共に、廊下脇にある階段から、一人の女性が飛び出してきた。
「わっ!どいてー。」
急に現れた彼女に、私は当然反応できるはずも無く、彼女の思い切りのいい体当たりをもろに食らった。
「ぐっ!」
壁を支えにして、何とか衝撃を吸収する。ぶつかってきたのが体全体だったため、局部的なダメージは無かったものの、私は背中をしたたかに打ちつけた。肺にダメージがいったのか、少し咳き込んだ。
「雪村君!大丈夫?」
「……何とか。」
私は背中をさすりながら答えた。
「こら、冴。いつも、階段は駆け下りるな、と言ってるでしょ。はしたない……。大丈夫でしたか。雪村さん。」
「ええ、特に外傷もないようなので。ところで、……大丈夫?」
私に向かって突っ込んできた女性、彼女は冴と呼ばれた。ああ。……冴子さんのことか。耀子から、彼女に妹がいることは聞いていた。とても仲がいいとも聞いている。
私は、突撃してきた彼女の体を引き剥がす。すると、眼鏡をかけた可愛らしいショートカットの顔が覗けた。
「あ、えーっと、はい。いたって健康です。眼鏡も、特に問題は、ありません………。それと、えー、ごめんなさい。ちょっと、いつもの癖で。いつもは、廊下ドンピシャリで止まれるのですが、今日に限って人がいたもので、といっても、別にあなたのことが邪魔だったと言うわけではなく……、」
その後、彼女は口をしばらくもごもごさせたが、どんどん声がデクレッシェンドしてしまったために、残念ながら聞き取ることは出来なくなってしまった。
「ごめんね、雪村君。冴、もっと、気をつけてよね。」
耀子がそう言って妹をたしなめる。
「いや、私は大丈夫だから、そのくらいにしておいてあげて。あの、冴ちゃん……でいいかな?冴ちゃん、あんまり気にしなくていいからね。」
「はい……。ごめんなさい。」
「じゃ、行こうか。」
「……はい。」
耀子の話と違って、単に活発というだけではないらしい。初対面だからかもしれないが、とても話に聞いていたものとまったく逆の、おとなしい印象を受けた。頬が真っ赤に染まり始めた。
それにしても、『冴ちゃん』は少し馴れ馴れしかったかもしれない。まあ、いいか。本人の了解も得ているし。
廊下を抜けて、リビングルームに出る。この前麻婆豆腐を食べたダイニングテーブルには、数々の料理が、所狭しと、並べられていた。
「……凄い。」
正直な感想が口から、零れ落ちた。
ふと、あのときのことを思い出す。……麻婆豆腐を食べて、それから、……まずい、これ以上思い出すのは危険だ。確実に赤面してしまう。
私は、誰にもそれが悟られないように、俯いた。
「はい、雪村さんはこの席へ、どうぞ。みんなは、いつも通り座ってね。」
奥さんの声に反応して顔を上げる。
「あ、はい。すいません。」
どうやら、その声の調子が少しおかしかったようだ。
「……何か嫌いな食べ物が、あったかしら?」
眉を下げて、彼女は呟いた。
「いえ、平気です。好き嫌いは、特にしませんから。」
「そう、それは良かったわ。」
私が慌てて言うと、奥さんはにっこりと微笑んだ。この微笑みは、耀子にもちゃんと遺伝されている。
そんなことを考えていたら、奥さんは今、思い出したような顔をして、こちらを向いた。
「あ、麻婆豆腐があったほうが、良かったかしら。」
と意地悪い言葉が。この人はなかなかのやり手である。私と向かい側にいる耀子の顔が、瞬時に赤くなった。
「?」
「?」
台所事情を知らないのだろう。親父さんと、冴ちゃんは、ハテナマークを顔に浮かべながら席についた。私達もそれに習い、顔を俯けたまま、着席した。遅れて、エプロンを片付けた、奥さんも着席した。
「それじゃ、乾杯にしましょうか……。といっても、私達の名前、雪村さんは知らないわよねえ。」
私は頷く。ということで、食事の前に、お互いの簡単な自己紹介を済ませることにした。
まずは、私から……。
「私は、雪村恵吾と申します。この度は、会食にお招きいただき……、」
「雪村君、いいよ、そんな形式ばらなくても。」
「いいのか?でも第一印象は大事……。」
「気にしなくていいわよ。もっとフランクに行きましょ。」
せっかく用意してきた自己紹介文だったのだが、あっさり彼女に止められてしまい、そのうえ、奥さんにまで。
「それに、こっちは、雪村君のことよく知ってるから。……よーくね。」
奥さんは言葉を続けて、意味深な視線をこちらに送る。それを受けて、私は耀子の方を見た。だが、耀子はこちらと視線を合わせようとしない。……耀子は家族に一体何を吹き込んだんだ?
「それじゃあ、お姉ちゃんは飛ばすとして、私から行きます。」
そういって、こちらに笑顔を向けたのは、もちろん冴ちゃんだった。彼女のことは知っているが、無下にあしらうのも失礼と言うものだろう。
「私はお姉ちゃんの妹の、霧下冴子です。……えっと、さっきは失礼しました。お姉ちゃんをこれからも、末長くお願いいたします。」
「ちょっと、冴!」
向かいにいる耀子が、隣の冴ちゃんに向かって、吼える。それに対して、冴ちゃんは、声を立てて笑っている。本当に仲のいい姉妹だ。
「次は私か……。」
そこに暗い低い声が、なぜかはっきりと私の耳へ、飛び込んできた。
私はゆっくりと左を向く。……そう、その声は、私の隣に座っている、一家の柱である、耀子の父親から、発せられたものである。
彼もこちらを向き、弱々しく微笑む。まるで、何かの病気に冒されているようだった。
「……ああ、すまんね、こんな顔で。……ちょっと、ダイエット中だったもので、二、三日小食にしていたものだから。」
「はあ。」
成る程。確かに身体は中肉中背でも、頬はこけている。ダイエットに成功したということだろうか。五十キロぐらいの体重しか無さそうだ。
「私の名前は、霧下要だ。……『かなめ』は要点の『要』の一文字。」
かすれるような声が、彼の口から少しずつ漏れてくる。
「本当に大丈夫ですか。かなり、辛そうなのですが。」
「……多分、平気だ。これから、豪勢な食事を食べることだしね。」
そう言う、要さんだったが、その笑みは弱々しい。
「それでは、最後に私ね。」
私は何故か上座に座っている奥さんのほうを見た。彼女は微笑んで、
「私は、霧下順子。この一家の当主だから、よろしくね。雪村さん。」
「……それは、つまり、霧下家は母権社会ということですか?」
「そういうことになるかしら。フフッ。」
嬉しそうに話す彼女は、確かに権力者の器であった。私は背筋に微かだが、寒気が走ったのを敏感に感じ取っていた。
「それじゃ、みんな飲み物は何がいい?希望を言って。それが無ければ乾杯は出来ないものね。」
「ビール。」
間髪いれずに発言したのは、要さんだった。が、
「駄目。」
やんわりと、だが、即座に却下したのは、順子さんだった。要さんも、特に張り合うこともせず、小さく、だが、とても残念そうにわかったと口にした。……確かにこの家は母権社会だ。
「私、ワイン。」
冴ちゃんが未成年ながら、アルコールを注文する。
「私もね、お母さん。」
「ハイハイ、……雪村さんは?」
「あの、」
「はい?」
「今、凄く理不尽なところがあったような気がするのですが……。」
順子さんはにっこり笑った。
「ここでは、私が法律です。」
「はい……。」
ごもっとも、としかいいようが無かった。
ワインが四つのグラスに注がれ、各人の前に置かれた。僕の隣の男性だけ、烏龍茶だったが、法律で決められたことだ、文句をつけるわけにはいかない。
私達は、グラスを掲げた。
「乾杯!」
五つのグラスが唱和する。楽しい会食が始まった。
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