最期 |
最期
いつか、遠い日の優しい夢。
父親が頭を撫で、優しく抱きしめてくれた日の夢。
少女は嬉しくなって、父親の体をぎゅっと抱きしめる。
だが、不意に鉄の臭いが彼女の鼻を掠めた。
手にもぬめりとした感触が伝わる。
慌てて彼女は体を引き離し、父親を見上げた。
『・・・・・・ジ・・・ル・・・・・・』
水門より解き放たれた多量の水が、農地や家屋を飲み込んでいく。
シハラムの血に濡れた彼女の手が激しく震えた。
どうして、このようなことになったのか。
どうして、自分は、父親に武器を向けたのか。
どうして、どうして。
次から次へと湧き上がる疑問に対し、だが答えについては何も考えられなかった。
ただ疑問だけが浮かぶのだ。
どうして、どうして。
悲しいのか、悔しいのか、苦しいのか、辛いのか、自分ですらわからない感情が涙となって溢れ出る。
『ジ、ル・・・・・・』
シハラムが最後の力を振り絞り、その手を伸ばした。
だがその手は彼女の涙を拭うことなく力無く大地に落ち――
瞬間、彼女の耳から音が消えた。
水の音も剣戟の音も、仲間の声ですらも。
嗚呼・・・自分はなんと無力な・・・・・・
「・・・父上!!」
そこでジルは自分の叫びで目を覚ました。
柔らかな寝台の上で、窓の外からは可愛らしい小鳥のさえずりも聞こえてくる。
ここはダルレカ。
戦後の復興の最中のこの地で、彼女は暮らしていた。
あれからすでに数か月が経過しているのに今更何故夢に見たのか、しかもあのようにリアルな夢を。
彼女は自身の手を見てみた。
よく見慣れたただの働き者の手だった。
だが、寝汗のせいかそれとも夢で見たせいかまだ血で粘着いた感触が残っているような気がする。
もちろん気のせいである、とはわかっている。
過去の夢を見るなどと、自分は後悔しているのだろうか。
ジルは窓の外を見た。
少しずつではあるが元の姿を取り戻しつつある大地に、遠く農地を耕す人々。
大丈夫、自分は間違っていない。
そう自分に言い聞かせながらジルは目を閉じる。
だがそれでも、心で納得できない部分は確かにあって。
どうして、どうして。
考え事が堂々巡りの迷路に入りかけた時、部屋の戸を誰かが叩く。
『ジル、起きたか?』
「ハールさん?!
す、すみません!今すぐ着替えます!」
このままでは部屋から出られないと慌てて彼女は飛び起きいつものパンツルックに着替え始める。
いつもは男を叩き起こす側なのに、それほど自分は考え込んでいたのか。
着替えを終えジルは廊下へと飛び出した。
そこで隻眼の男がただ彼女を見下ろしていた。
「・・・・・・?
なんですか」
「いや」
ハールはそう言って彼女から視線を外すとそそくさと食堂に向かってしまった。
「ちょっ、待って下さいよ!」
彼女は慌てて彼を追いかけた。
別に、何が理由であった訳でもなかった。
たまたまいつもよりも目が覚めて、たまたま起きる気になっただけで。
いつも自分を叩き起こしに来る彼女が珍しく起きてないようなので簡単に朝食だけ用意して
彼女を起こしに行くために扉を叩こうとした時、その叫びがその向こうから響いた。
『・・・父上!!』
一瞬にして男の動きが止まる。
思い出されるのは、恩師の遺言とその死に様。
あの時、その体には剣とは違う大きな傷があった。
『どうして、どうして・・・』
どうして、と言いたいのは男も同じだった。
寒空の下、生き残ったのは男とあの娘を除いて5人ばかり。
――何故、自分はあそこで死ななかったのだ。
それを考え始めればキリがないくらいわかっていた。
誰かが生きて彼の願いを叶える必要があったのだ。
そして部下の前ではおくびにも出さなかった思いを汲み、それをも叶える必要が。
『どうして』
男は息を吐き出すとそれから2回ドアを叩いた。
「ジル、起きたか?」
いつも通りの声の調子で声をかける。
『ハールさん?!
す、すみません!今すぐ着替えます!』
それから部屋からクローゼットなどを開ける音が響いてきた。
いつもの彼女に笑みが浮かび・・・すぐに消えた。
彼女は、父親を望んでいるのだろうか?
いや・・・・・・本当に彼女が望んでいることを、自分は知ってはいるのだが。
こういう時、どうすれば良いのかよくわからない。
それでなくとも、相手は難しい年頃の娘だ。
幼い頃からずっと世話してやってきた少女ではあるが、それでも、わからないことだらけである。
「お待たせしました!」
そう言って件の娘が飛び出してきた。
男はじっとその顔を見る、少なくとも腫れるほど泣いてはいないらしい。
「・・・・・・?
なんですか」
「いや」
それだけ言って、先にずんずんと食堂に向かった。
後ろから彼女が追いかけて来る気配がした。
ただパンにジャムを塗っただけの質素な食事もすぐに食べ終わり、ジルは皿を片づけていた。
ハールはコーヒーを飲みながらそれを横目で見る。
少しぼうっとしているようだ。
「・・・おい、ジル」
「な、なんですか」
ティーカップを取り落としそうになりながらジルが応える。
「お前、何か夢でも見たか?」
たらいに溜められた水にカップの沈む音がした。
「・・・声、聞こえました?」
「・・・ああ」
それだけ言うと彼女は皿洗いを中断し、男の横に坐った。
「・・・・・・最初は、楽しかった頃の夢なんです。
私はうんと小さい子供で、でも父上に抱きつくと・・・手に血がべったりとついて、あの時の戦いに場面が変わるんです」
今でも、鮮明に覚えている。
自分は、私は、自分の手で、この手で父を殺した――!
「他の誰かの手で殺されるのが、嫌だったんです。
でも・・・・・・もっと、なにか他のことができたかもしれないのに」
例えば、シハラムの元に戻り共に散ることもできたはずだ。
勿論それで彼が喜ぶはずもないことがわかっていても。
「今更、なんで夢に見るんでしょうね。
いっそ・・・忘れられたら良かったのに」
ジルの顔が歪む。
いっそのこと忘れられたら楽だったのに。
そう呟いた彼女は、次の瞬間男に強く抱きしめられた。
「馬鹿なこと言うんじゃねぇよ。
お前が忘れたら、誰がシハラム殿のことを思い出すんだ」
その死に様を、最期を。
ジルはただ抱きしめられるまま、腕をだらりとしたままだ。
「思い出せよ。
シハラム殿はなんて言ってた」
『行け。
・・・・・・ジル・フィザット!』
「己の信ずるまま・・・・・・進むがよい」
そうだ、あれがベストかはわからないが・・・これが自分の信じた道だった。
父が背中を押してくれた道だった。
「辛くてもな、忘れちゃいけねぇことなんだよ」
更に強く抱きしめられる。
男の心臓の、生命の鼓動が聞こえる。
彼女に幾ばくかの勇気が湧き上がった。
「なぁ、ジル」
彼女の腕が怖々と男の背中に回される。
これからも幾度となく、あの夢は彼女を襲うだろう。
ジルは、乗り切れるだろうか。
「シハラム殿を討ったのがが他の誰でもなく、お前で良かったと思ってる」
だからだろう、争いの後のダルレカで大地に倒れるシハラムの死に顔が安らかに見えたのは。
「少なくとも、俺はな」
「・・・はい」
小さな声が下から聞こえた。
どれだけ言葉を重ねても、きっとジルは悩むだろう。
だがそれで良い。
命とは元来そういうものだ。
「お前はちっと休んでろ。
皿洗いぐらい普段寝てる分やってやる」
「はい、でも・・・・・・もう少し、このままでいさせてください」
「・・・そうだな」
ジルの細い肩を抱く。
少しでも、彼女の力になるように。
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暗い話です。過去作品より。 | ||
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