「九段坂恋歌のいる世界」第10章
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  第十章 九段坂恋歌、アゲイン

 

   *

 

 何か聞こえた気がした。幻聴の類かとも思ったが、振り返ると、眉間にシワを寄せた陸道香奈がいた。

 

「……聞いて、ます?」

 

「…………、えっ?」

 

 私がまともな返事をしなかったので陸道さんは深い溜息をついた。

 

「……聞いてなかった、んですね」

 

「ごめん。何?」

 

 少し申し訳ない気持ちで聞き返した。

 

「……帰らない、んですか? ……とっくに定時、過ぎてますよ」

 

「あっ、そうか。うん、帰る」

 

 私はそう言い残すと、つたない足取りで職場である受付を離れて行った。去り際、より一段大きな陸道さんの溜息が聞こえた気がしたが、私は振り返る気力がなかった。

 

 会社を出た私は、にわかに赤く色づいた街並みを行く。赤く色づく原因は、今日がクリスマスイブだから。どこもかしこもサンタの赤に、そのイルミネーションに輝いていた。

 

 それは毎年見る光景。日本という国は毎年飽きずにクリスマスを祝いたがる。クリスチャンでもないくせに。

 

 私はその光景に反吐が出る思いだった。どうしてそんなにクリスマスなんかで喜ぶんだろう。私はクリスマスムードになんて浸れない。クリスマスなんて大嫌いだ。

 

 そして嫌でも思い出してしまう。去年のあの日のことを。まるで昨日のように思い出す。

 

 丁度一年がたつ、九段坂恋歌との再会。これほど鮮明に覚えているのに、私は九段坂恋歌の顔を思い出せない。どんな顔をして再会に驚いて、どんな顔をして私と別れたのか、まったく思い出せない。

 

 私にとって九段坂恋歌という人物はその程度の人物だったというのか、それとも私は……。

 

 いや、とにかくクリスマスなんて嫌い。クリスマスにいい思い出なんて何もない。なのに街は、人は、みんなみんな浮かれてる。そんなの許せない。私独りが苦しむなんて許せない。

 

 私の思いはグルグル回る。回り回って、ドロドロと心に溶けて、どうしようもなくやるせない気持ちだけが私を締めつける。

 

「お〜〜い。嬢ちゃん!」

 

 苛立たしい気持ち。悔しい気持ち。ありとあらゆる気持ちが私の心を蝕む。私は拳を握りしめて、どうしようもない思いを抑えつける。

 

「嬢ちゃ〜ん。聞こえねぇのか?」

 

「えっ? ……あれ? ナシヤさん?」

 

 それはさっきの陸道香奈の時と同じ。私が気がつけば、いつの間にか声をかけられていた。

 

「おぉ、やっと聞こえたかい。嬢ちゃんにまで無視されたら、おじさんでも悲しいってもんだ」

 

 私がいつ、ナシヤさんを無視したっていうんだろう。しかし、辺りを見回せばそこはいつもナシヤさんが生活する公園であった。私、知らないうちに、こんな所まで帰って来たの?

 

「なんでぃ、嬢ちゃんが耳NYなんて、調子悪いのかい?」

 

「ううんん。全然」

 

 私は咄嗟に首を振った。

 

「そうかい。それならうちでケーキでもどうだい?」

 

「ケーキ?」

 

 路上生活者のナシヤさんがケーキとはこれなんぞ?

 

「おぅよ。それがよ。駅前のケーキ屋が昨日までにクリスマスケーキの試作品作ってたらしいんだが、バイトにやっても余るほど作ったつって、くれたんだよ。心配しなくても、まだ腐っちゃいねぇから、腹壊すことはねぇよ。おじさんももう既に食ったから折り紙つきだって」

 

「でも、いいんですか? 折角ナシヤさんがもらって来たのに」

 

 ホームレスの方から食料をもうらうなんて、これほど気の引けるものはあるだろうか。

 

「いいって、いいって。実はみんなにも分けて、まだ余ってんだ」

 

 みんなとは、同じ公園に住んでいるホームレス仲間のことだろう。それで余るとは、そのケーキ屋はどれだけ試作品を作ったのか。材料費もバカになんないだろうに、何考えてんだか。

 

 私は断る理由もなく、ナシヤさんの申し出を快く受け、ブルーシートの小屋にお邪魔した。まさかこんなところでクリスマスイブを祝うことになるとは人生わからないものだ。

 

 こんな真冬にブルーシートの家では寒いと思う人は多いだろう。実際、暖房の入った普通の部屋と比べれば寒いのだが、ブルーシートの内部は段ボールとガムテープで目張りされ、足下は何重にも週間の少年誌を敷き詰めることにより、結構暖かい。そこにストーブで暖をとれば凍えることのない空間だ。

 

 私は差し出されたクリスマスケーキ(試作X号)を遠慮なく頬張った。

 

「甘〜い。うん、これ美味しい!」

 

 クリスマスケーキと聞いていたので、もっと安物かと思えば、しっかり味のついた上等のケーキだった。これなら何個でも食べられそう。

 

「はは、やっぱり女の子はそういう顔してねぇとな」

 

「ふへ?」

 

 ナシヤさんの言葉に、私はケーキを口に入れたまま、疑問の声を上げた。

 

「嬢ちゃん、顔暗かったからねぇ。まるで目の前に核兵器の発射ボタンがあったら躊躇いなく押しそうな顔してた」

 

 何ですかその変なたとえは。私がそんなに切羽詰まって残虐非道なことしそうに見えますか。仮にそうだとしても、それでケーキ一個でコロッと変わるほど、私は単純じゃないんです!

 

 まぁ、本当に何かのボタンがあれば、ポチリと押したくなるのが人情ってものだけどね。

 

「よかった。ちょっとは元気になったみたいだねぇ」

 

「私、そんな変な顔してましたか?」

 

「変っていうか、この世の終わりみたいな顔かねぇ」

 

「そう……ですか」

 

「嬢ちゃん、まだ何か悩んでるのかい?」

 

「え、いや……、悩んでるというか……」

 

 前にナシヤさんに会ったのは夏の終わり頃だったか、あのときも私は九段坂恋歌のことについて悩んでいた。でも、そのときと今では少し状況が違う。以前は九段坂恋歌との関係に悩んでいた。でも今は九段坂恋歌という存在自体に悩んでいる。

 

「……嬢ちゃん。あのねぇ、今のおじさんにはこんなケーキが精一杯だけどね」

 

「いえ、そんな。ナシヤさんにそんな」

 

「黙って聞いて」

 

 私の言葉を遮ってナシヤさんが声を上げた。いつも穏和に話すナシヤさんには珍しい。

 

「……ごめん、驚かしちゃったね。でもさ、おじさんにはこれ以上は無理だけど、世の中にはもっと嬢ちゃんの力になれる人がいるはずだよ。そんなに悩んでいるなら、そういう人の所に行くべきだよ。それが嬢ちゃんのためになると思うんだ」

 

「ナシヤさん……」

 

「嬢ちゃん。困っているなら頼ればいい。人間独りじゃないんだよ」

 

 頼ればいい。それはどんなに心強い言葉なんだろう。誰かに頼っていいと許されることが、こんなにも嬉しいことだなんて、私は初めて知った。ちょっと全米で泣いちゃいそう。

 

「ありがとう。ナシヤさん」

 

 なぜナシヤさんはこんなにも私に優しくしてくれるんだろう。それに私が悩んでるのがどうしてわかるんだろう。よくわかんないけど、ナシヤさんの言葉は私の心によく響き、そして染み渡る。

 

 私は、すっと立ち上がった。それは行動を起こすという意思を示していた。段ボール造りの屋根に、そんな私の頭がこすれる。

 

「いいってことよ。どうすればいいか、わかるかい?」

 

「うん。予約が入っているから」

 

「予約? よくわからないけど、頑張って。今度こそ、嬢ちゃんの悩みがなくなりますように」

 

 それは祈るような言葉だった。ナシヤさんは私の幸を祈ってくれているのだ。自分は経営者からホームレスになった身であるのに、私なんかの心配をしてくれるナシヤさん。私にはろくなお返しは出来そうにないけど、受けた恩義は忘れない。

 

「うん。ありがとう」

 

 私はもう一度ナシヤさんに礼を言う。そしてブルーシートの小屋を後にした。

 

 私だって、ここしばらく自分が普通でないのは自覚している。九段坂恋歌という存在に、高校時代のことに、悩んで落ち込んでいる。私は落ち込んで見せることで、自分が落ち込んでいると振りまいて、無意識に満足していたのかもしれない。

 

 でも、ナシヤさんに言われ気がついた。問題を解決しないかぎり、私の悩みはなくなりはしない。私は私を助けないといけないのだ。

 

 

 

   *

 

 そこに足を運ぶのは半年ぶりで二回目のことだった。

 

 池袋駅から十数分歩いた所にある洋館じみたクラシカルな建物。クリスマスイブという日にもかかわらず、店の前には長蛇の列が出来ていた。それを見て少しうんざりしたのだが、私が訪れると、アシスタントらしき人が裏口に案内してくれて、私はイの一番で部屋に通された。

 

「あら、やっと来たの」

 

 ハーブの香りが立ち込める暗い部屋。ろうそくの灯りがすべての輪郭をぼやかせる。それはこの部屋の中が外とは別世界であるという証。それでこそ河渡キリエの占の館。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたわ」

 

 部屋の中央に用意された小さいテーブルには、既にこの部屋の主が座り、私の訪問を待ち構えていた。

 

「……どうして?」

 

 私がやっと出した声は、あまりにも弱々しい。ナシヤさんに後押しされてここまで来たものの、何だか気が進まないというか、私はここまで来たのにどうしようもなく躊躇いの気持ちに苛)まれていたのだ。

 

 河渡キリエの顔を見たら、何だか気が更に重くなる。部屋の空気が、まるで私を押し潰そうとしているようにさえ感じる。

 

「アンタ、私のメールにも返信してこないし。それに陸道さんが言ってたわ。この所、あんたの様子が特に変だって」

 

「……そう」

 

 私は自分のことなのに、さして興味がないといわんばかりの返事しか出来なかった。

 

「随分、顔もこけたわね。ちゃんと食べてる?」

 

 ゆっくりと首を振る。最近、食欲もない。今日食べた物といば、ナシヤさんにもらったケーキのみ。それも勧められて食べただけであって、お腹が空いていたわけでもない。恐らくナシヤさんに会わなければ、今日は何も食べなかっただろう。

 

 私の返答に河渡キリエは静かな相づちを打つだけだった。

 

「困ったら来なさいと言ったのは六ヶ月ぐらい前だったかしら。あのときはアンタなら、もう少し早く来ると思ったんだけど、私の見込みもはずれたものね」

 

「私は、……私はどうしたらいい?」

 

 その言葉に、私はどんな気持ちを乗せたのだろう。私には色んな思いがある。色んなことに困っている。私は人生に迷っているのだろうか。

 

「随分抽象的な言い様ね。まぁ、私は占い師だし、それは私に正式に占いを依頼するという意味かしら?」

「依頼すれば、助けてくれるの?」

 

 私は河渡キリエに、何を期待しているのだろう。彼女は私の飲み仲間で占い師。そんな彼女に私は何かを期待している。

 

「助かる、助からないはアンタ次第よ。そこは私の範疇外。私が出来るのは占いだけよ」

 

「そんな、無責任」

 

「そう、アンタに降りかかるものすべて、アンタの責任なのよ」

 

「私の、責任?」

 

「だから私は無責任にアンタを助けたりしない。私という主観で助けたとしても、別の見方をすれば、逆にアンタを追いつめかねないのよ。私は占い師。占い師は占いによってのみ、他人の運命にかかわれる。これは私の持論であり、私の生き方よ」

 

 そう断言する河渡キリエの目はすわっていた。

 

 占い師としての生き方。その言葉に重みを感じる。彼女は人生を賭けてまで占いという道に何を見い出したのだろう。

 

「じゃあ依頼すれば、私の運命にかかわってくれるの?」

 

 私の言葉は懇願するような、縋りつくような情けない色をしていた。それだけ私は迷い悩んで、どうしたらいいか、わからなくなっていたのだ。

 

「それは占いの結果次第」

 

「無責任、だね」

 

「そうよ。どこまでいっても、占い師は依頼者に対して責任をとることはないの」

 

 そう言い切られてしまって、私は顔を伏せた。助けを求めたのに、突き放された気分だった。困ったら来いと言っておきながら、河渡キリエも私を見捨てるのだろうか。

 

 すると、彼女はどこからとなくワインボトルを取り出した。それを乱暴にテーブルの上に置く。見ればどこかで見たことがあるようなラベルが貼ってある。前に河渡先生に飲ませてもらったことのある銘柄なのかもしれない。そして彼女はおもむろにコルクを抜いた。香料に満たされた部屋に新鮮なワインの香りが新たに加わっていく。

 

 突然、酒が現れたことに私は唖然として、彼女の動作を何も言わず見つめていた。

 

「飲む?」

 

「仕事中じゃないの?」

 

「仕事中よ。でも、人間飲まなきゃやってらんないこともあるわよ」

 

 静かに差し出されたワイングラス。私はそれを手に取るべきか迷ってしまう。

 

 私がもたついていると、河渡キリエは手酌でついで、一足早く口をつけた。彼女の喉に赤い液体が流れ込んでいくのを見て、私も恐る恐るにワインを味わった。渋く気高い香りが鼻腔をくすぐる。

 

「……私ね。仕事柄なのか、友人はいないの」

 

 唐突に切り出された話題に、私はどう答えたらいいのかわからなかった。占い師という客商売なら交友関係は広そうに思えるのに、それを本人は否定したのだ。

 

「占い師ってね。人の悩みばかり聞かされるの。人の弱い所、悪い所ばかり見せられる。だからね。みんな私を警戒するの。自分の弱みを知っている相手にまともに付き合いなんて出来ないわよね。みんな表面上には出さないけど、距離をとって私には近づいて来ない」

 

 そういうものなのだろうか。私は占い師じゃないんで、そんな実感はない。少なくとも私は、占い師だからといって、河渡キリエに特別な思いを抱いていない。

 

「それに加えて、私、テレビに出たりして有名だから、金持ってるだろうって、色眼鏡な奴ばかり」

 

 河渡キリエが金持ちなのは周知の事実。着る物から何から、一般人とは大違いだ。飲み屋に来るときも、ラフな服装といっても、そのジーンズはビンテージらしいし、アクセサリーだって見るからにお値打ち物だ。それに私だって飲み屋ではいつもおごってもらってばかりだから、人のことは言えない。

 

「だから、……私ね。飲み友達も貴重なの」

 

 その言葉の意味を、私はすぐに理解出来なかった。私が顔を上げて、彼女の顔を見るまで半信半疑だった。目と目が合った河渡キリエはいつもの妖しい口元だけの笑いを浮かべていた。彼女は私を友達だと言ってくれたのだ。

 

 私は恥ずかしさのあまり再び顔を伏せてしまった。

 

「私個人としては、アンタを助けたい。でも、私は占い師。占いしか出来ないし、してはいけない」

 

「私は占ってもらえばいいの?」

 

「それは自分で考えなさい」

 

 美しい響きのある声だった。広くはない占い部屋に、河渡キリエの力が満たされるよう。その言葉を彼女は幾度も、数え切れぬぐらい、多くの人に向けて言ってきたのだろう。それは確かに力ある言葉だった。

 

「私……、私を占ってください」

 

 決意なんて大それたものでない。でも、私は河渡キリエが向けてくれた厚意に答えるべきだと感じたから、そうしてもらう気になった。

 

 彼女に占ってもらったからといって、私を取り巻く問題がすべて解決するなんてことはないだろう。しかし、河渡キリエならなんとかしてくれる。そんな淡い期待が私の心を染めたいった。

 

 私の明瞭な言葉に、河渡先生は目尻を下げて、似合わない優しい目をした。

 

「OK! 過去を識り未来を語る東方随一の占い師、河渡キリエ。あなたの依頼を歓迎するわ」

 

 そして、すっと私の前に手を差し出した。

 

「えっ、何? 手相?」

 

「依頼料」

 

「お金取るの?!」

 

「前の約束は一晩の飲み代だったわね。このワイン、一本二十四万だから。あとは気持ち次第で上積みして頂いて結構。額によって、私のやる気が変わるから注意してね」

 

 高! そんなワインを気軽に開けるなんて! それより、やる気ってなんだ! 金で対応変えるなんて最低だ!

「なっ! 鬼! 悪魔!」

 

「古来より、卜占(ぼくせん)と幽鬼、悪魔の類は密接な関係にあるの。私たちはその声を聞いているのかもね」

 

「うわ、そんな誤魔化ししようとして。二十四万なんて大金あるわけないわよ」

 

「別に二十四万というお金が欲しいわけじゃない。それは正当な報酬であり、それだけ払う覚悟を持ってもらわないと。占いってのはそれだけの力があるの。毎日テレビでやっている血液型占いとは違うのよ」

 

 自らの占いに絶対の自信があるのか、河渡先生の言葉に揺るぎはない。彼女は本気で占いの力を信じ、本気でそう言っているのだ。

 

「何? 私の所に来るのに、用意してなかったの? 私の料金のことは知ってたでしょ。それともまさか、私がお情けでタダにするとでも思っていたの?」

 

 それは確かにそうだ。河渡キリエがそんな一銭にもならない人情を振りかざすわけもない。それは知っている。

 

「でも……」

 

「それなら、別のモノで払ってもらってもいいわよ」

 

「別の物? 体とか?」

 

「体でいいの? 前から一度アンタのこと……」

 

「冗談はやめて」

 

「それはいつものあなたに言うべき言葉だけど、今は冗談も聞けない精神状態なのね」

 

 冗談も聞けない。冗談も言えない。それは私なのだろうか。そんな私が存在する価値があるのだろうか。

 

「それで何で払えって言うの?」

 

「今、携帯持ってるわね?」

 

 河渡キリエが当然のことを聞く。

 

「もちろん」

 

「なら、アンタがコンパで溜め込んだアドレス。すべてもらおうかしら」

 

「そんなの欲しいの? コンパの女王にでもなる気? 別にアドレス教えるぐらい、いいけどさ」

 

「『教える』じゃないわよ。『もらう』の」

 

「どう違うのよ」

 

「『あげた物』は手元の残らないでしょ」

 

「まさか、私のアドレス帳を消せって!?」

 

「そうよ」

 

 赤い液体の入ったワイングラスを回しながら、河渡先生はさも当然といわんばかりの態度だ。

 

「そんなの!」

 

「出来ない?」

 

 出来ないかって? だってアドレス帳を消したら、誰にも連絡出来なくなる。現代社会で携帯のない生活なんて考えられない。

 

「別に、携帯電話自体を取り上げるわけじゃないから相手からは連絡が来るし、普段会っている人にはまた教えてもらえばいいだけよ。携帯を水にでも落としてデータが消えたとでも思えばいいの」

 

「そんな、だって」

 

「相手から連絡が来ないかもしれない?」

 

 私の心配が、まるで心が読まれたみたいに言い当てられる。

 

「アンタのことが必要な人は、きっと連絡してくれるわ。アンタ、自分の人望が信じられない?」

 

 人望? 私の人望? そんなもの、信じられるはずがない。それは私にあるはずのないもの。

 

「占わないなら帰りなさい。ここは占って欲しい人が来る場所なの。それにアンタはこんな所でぐずぐずしている場合じゃないんだから、自分のことで一杯一杯なんでしょ?」

 

 河渡キリエは私の現状をわかっているの? 私が何に陥っているのか、わかっているの? 私は彼女に何も言っていない。誰にも何も言っていない。それなのに河渡キリエは占いでそれを知ったというの?

 

「ねぇ、助けてくれるの? 占いで私を助けてくれるの?」

 

「さっき、責任云々の話はしたでしょ。私は私の信じることを成しているだけよ」

 

「私に占いを勧めることが信じることなの?」

 

「今の私にはそれしかないから」

 

 それしかない。良家の奥様で、億ションに住んでる河渡キリエがそれしかないなんて言葉を吐く。それは寂しい。私の存在と同じく、とっても寂しい気がした。

 

「……じゃあ、占って。私を占って」

 

 携帯を取り出してメモリーカードにすべてのデータを移した。そして本体のデータを全削除。その画面を河渡キリエに見せつけた。

 

 私からメモリーカードを受け取った彼女は大きくうなずく。

 

 すると、見る見るうちに河渡キリエの表情が失せていく。まるで存在自体が薄く希薄に、間延びしていくような感覚。

 

 そうして気づいた。今まで私と話していた河渡キリエは、私の飲み仲間の河渡キリエだ。そして、今私の目の前に表れたのが占い師の河渡キリエなのだと。初めて見た。

 

『何を占います?』

 

 普段よりも澄んだ声。口調も変わっていた。静かなのに聞き取りやすい。耳に直接ささやくように聞こえてくるのに力強い。その声に私の心は鷲づかみにされた。

 

 何を占ってもらうかの。私は考えていなかった。色んな知りたいことが私にはある。死んだ九段坂恋歌のこと。私の前から姿を消した九段坂恋歌のこと。そして彼女たちと私の関係。

 

 でも、それらのことを占い師に聞くなんて野暮。占い師に聞くべきことは一つしかないだろう。

 

「私がこれから何をすべきなのか。占ってください」

 

『あなたが何をすべきか……』

 

 そう復唱すると、河渡先生はテーブルの中央に置いてあった水晶玉に手をかざした。

 

 水晶玉の周りを二つの手が泳ぐ。河渡先生は目をつむっているのに、正確に薄皮を残すように水晶玉ぎりぎり触れるか触れないかの所をなぞっていく。

 

 そして河渡先生の目がゆっくりと開く。視点の定まらぬ瞳が水晶玉を見つめていた。

 

『あなたには失せものがあります』

 

 失せ物? 無くしたもの。そう言われたとき、瞬時に家出少女の顔が浮かんだ。

 

『あなたは失せものを取り戻さなければなりません』

 

「とり、戻す……」

 

『しかし、そのためには大きな代償が必要です』

 

 代償? もう既にアドレスデータを失った私に、これ以上何を失えというの?

 

『あなたにはそれを失わなければ何も出来ない』

 

 どうしてもその代償とやらを支払わなければならないと言うのか。

 

「私はどうすればいいんですか?」

 

『探しなさい。あなたは失せものの在りかを知っている。知る手がかりも持っている』

 

 手がかり? 一体何のことかなのか。

 

『道しるべは再会と別れ……。見つけなさい。あなたのなくしたものを』

 

 

 

   *

 

 占いの館を出た私は、釈然としない思いだった。

 

 河渡キリエの占いでは、当然のことを言われただけだった。『なくしたものを見つけろ』。そんなこと、言われなくてもわかっている。当たり前のことしか言ってくれなかったあの占いに、ほんとに何十万という価値があったのか疑わしい。

 

 本当にこんなものが連日行列が絶えない河渡キリエの占いなのだろうか。私は騙されたのではないのかという思いにもかられてしまう。河渡キリエが『運命にかかわる』『占いには力がある』と断言したのに、拍子抜けとしか言い様がない。

 

 けれど、言ってもらったからこそ、私はやるべきことを成そうという気になってくる。私がこんなにも悩みを抱く原因。私の前から姿を消した家出少女の九段坂恋歌を見つける。それが一番の解決だ。

 

 九段坂恋歌を見つけ、どうして九段坂恋歌を名乗るのか。高校のクラスメイトだった九段坂恋歌とどういう関係なのか、問いただせばいい。そうして、あの死んだ九段坂恋歌のことを聞けば、私と九段坂恋歌の関係がはっきりする。

 

 私は街を行く足取りを速め、家出少女の九段坂恋歌を探し始めた。探すと言っても、私は彼女の居場所を知らない。実家がどこにあるのかも知らない。それでも街を歩き周り、彼女の姿がないか探し回った。駅前、スーパー、商店街に公園。あちこち足を棒にして探し回った。しかし、そんな簡単に見つかるはずがない。三ヶ月前に消えた少女がそんなに簡単に見つかるはずがない。

 

 もうこの街にはいないのだろうか。どこか遠くの街に行ってしまったと考えるのが普通だ。彼女にこの街にこだわる理由なんて……。

 

 ふと、空を見る。十二月の夜空は天高く。空にオリオンの姿が浮かんでいる。

 

 クリスマスイブの夜も更けてきた街は、一斉にクリスマスを祝おうと待ち構えている。そしてあの駅のホームで九段坂恋歌と再会して、丁度一年がたつ。

 

 あの再会は何だったの? あの再会がなければ、私はこんな思いをせずに済んだの? 歯がゆい思いに、私は苛つきを覚える。そしてその感情が、更に先日会った今世真理子のことさえも思い出させる。

 

 九段坂恋歌を覚えてないとバカにした彼女を私は許せない。九段坂恋歌の墓の前に彼女を連れて行って謝罪させたいぐらいだ。だから絶対、九段坂恋歌の……。いや、そうか。

 

 九段坂恋歌は私の高校のクラスメイトだ。だったら高校に問い合わせれば、少なくとも高校時代に九段坂が住んでいた場所はわかる。そこが実家なら……。

 

「え……」

 

 私はやっとそのことに行き当たった。もしかしたら、わかっていたのにその事実から目を背けていたのかも知れない。

 

 九段坂、珍しい名前。

 

 九段坂恋歌を既に探していた私。

 

 あのときは、家出少女の九段坂恋歌の実家を探そうとしていた。偽名ということを失念したまま、私は探偵に依頼して九段坂恋歌を既に探していたのだ。

 

 

 

 乱暴に扉を開け放った私は、煌々と明かりがついた室内を見回した。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁぁ」

 

 全速で走って来た私は、肩でする大きな息を隠すことは出来ない。私の入室に気づいたのか、部屋の奥から人が現れた。

 

「いらっしゃいませ、何かご依頼で……、なんだ、お前さんか」

 

 私を視界に収めた男は落胆の声を出す。そこは深隠探偵事務所。私が九段坂恋歌の実家を探すように依頼した探偵社だ。こんなクリスマスイブという日にもかかわらず、彼は事務所で一人仕事をしていたようだ。

 

「そんな血相を変えてどうしたんだ。今更、金返せとか言うんじゃないだろうな」

 

 私の慌てぶりに、逆に冷静な様子で、深隠純一は飽き飽きしていると言わんばかりの態度だった。

 

「アンタに調べてもらったでしょ。アレ覚えてる?」

 

 アレとはもちろん、九段坂恋歌の実家を探すという依頼のこと。

 

「そりゃもちろん。こちとらそれで飯食ってるんだから、どんな依頼であ」

 

「ごたくはいいの!」

 

 私は悲鳴のように甲高い声を出した。それに深隠探偵は眉をひそめた。

 

「本当に何か……ありましたか?」

 

 私は深隠探偵の質問に答えず、彼を見すえるだけだった。

 

「……はいはい。俺たちの仕事はクライアントのプライベートには踏み込まないのが鉄則。それで、あのときの調査の何が聞きたい? キャンセル料はもらったから、アフターサービスぐらいはやりますよ。これも仕事の内」

 

 慇懃になりきれない深隠探偵に、私は問おうとした。しかし、何と聞けばいいのか瞬時に言葉が見つからず、私は唾を飲み込んだ。それでも私は問わねばならない。ゆっくりとだが確実に、私は言葉を紡いでいった。

 

「あのとき……、九段坂恋歌を、探してもらったわよね」

 

「そういう依頼でしたから」

 

「それで、私がここに来たとき、確かアンタはこう言った。『九段坂恋歌なんて変な名前の女はいない』って」

「そうですね。そんなことも言った気がします」

 

 数ヶ月前のことで記憶に自信がないのか、深隠探偵は言葉を濁した。

 

「あれは本当?」

 

「本当かと聞かれても」

 

「『いない』ってどういうこと?」

 

「どうと言われても、俺は調べた結果を言っただけで、それを判断するのはクライアント次第さ」

 

「それ、どうやって調べたの? どうして『いない』と言えるの?」

 

「それは企業秘密……と言いたいとこだが、秘密にする程でもないか。世の中には便利なデータベースがあってね。住民登録をしていれば、直ぐに検索出来る。なんらかの登録漏れがない限りね。それに登録されてなかったって話だ」

 

「それってお役所のなんたらネットって奴?」

 

「まぁそんなもんだと考えてもらっていい。俺が利用したのは非公式な、一般的には存在が知られていないアングラなデータベースだがな。役所ってのは横割り縦割りで、なかなかそういう便利さはないさ。個人情報保護とかもうるさいしな」

 

「それって死んだ人間も検索出来るの?」

 

「ある程度は」

 

「ある程度ってどの程度よ!」

 

 回りくどい深隠探偵の言葉に私は言葉を荒立てる。そんな私に対して彼はペン回しをしながら、事もなげに答えた。

 

「何十年前に死んだ奴とかは、さすがに無理さ」

 

「じゃあ、一年前に死んだ人は?」

 

「それなら、ほぼ生きている人間と同じように検索出来るさ。逆に死んだことが反映されていない可能性の方が大きい」

 

「それでも……、九段坂恋歌という人間は、いなかったのね」

 

「俺の調べた限りでは。もちろん登録漏れや、不法入国者など、そのデータベースだけでは調査として不完全なのはわかっている。なので多方面から調べた、その総合的な結果だよ」

 

 深隠探偵の答えに私は拳を握りしめた。

 

 まさか本当に九段坂恋歌がいないというの? 今世真理子が覚えていないと言った。深隠純一がいないと言った。本当に、本当に九段坂恋歌はいなかったの!

 

「……ねぇ、そのデータベースって、戸籍は関係するの?」

 

 私はもう、その質問の結果がわかっていたのかもしれない。それでも問わずにはおれなかった。

 

「もちろん」

 

「戸籍って違法に買うことも出来るのよね?」

 

「行く所に行けば、の話だがね。俺はそんなもん扱ってないさ。なんせ清く正しい探偵だからな」

 

「そんなことはどうでもいいの。そういう違法に買った戸籍については、そのデータベースってどうなるの?」

 

 私の言葉に少しむっとした様子だったが、深隠探偵は直ぐに表情を正して答えた。

 

「その違法に入手した戸籍とやらでも、実際に戸籍登録されていれば俺は探して見せるよ」

 

「それじゃあ、九段坂恋歌という戸籍もなかったと言うの?」

 

「俺の調べた限りでは、な」

 

 それじゃあ、あの家出少女が買って来たと言った戸籍もなかったの?

 

 そんなもの元から存在しなかったの? あの少女が嘘をついていたの? 何よそれ! 何なのよ!

 

 私はたまらず、探偵社を飛び出した。

 

「おい! 一体何なんだ!」

 

 深隠純一のそんな言葉は、私の耳に届いていなかった。

 

 くそ!何よ! 何なのよ!

 

 みんなして、私をバカにして!

 

 そんな悪態ばかりが頭を回り、私は冷静さを見失っていた。無我夢中で街を駆け抜けていた。どこに行くわけでもない。目的地なんてない。でも、私は行かなくてはならない。その場に留まりたくない。私は逃げ出したのだ。逃げ出したいのだ。

 

 現実なんて見たくない。私は現実逃避に生きる女だ。いつもふざけて楽しいお喋りに明け暮れる、そんな女のはずだ。なのに何だ、この有り様は。

 

 高校時代のクラスメイトだと思っていた九段坂恋歌がいない。九段坂恋歌がいないのなら自殺することだって出来ない。

 

 何なのよ! 何なのよ! 去年、私が会った九段坂恋歌って、誰なのよ!

 

 家出少女の九段坂恋歌だって、私に嘘をついたの? 書類上、九段坂恋歌になったんじゃないの? ほんとに何なのよ! 九段坂恋歌って何なのよ!

 

「どこへ行く、女」

 

 それはひどく冷たい言葉だった。私を無機質な刃物で刺すような、そんな敵意を感じる言葉。そんな禍々しい言葉を私は無視出来ずに立ち止まる。

 

「……HG」

 

 私の前に再びあの黒ずくめの男が立ちはだかっていた。その姿は毎度変わらない真っ黒の背広にサングラス。本当に見ただけで神経逆撫でにする男だ。

 

「邪魔よ、どきなさい。今はアンタなんかにかかわっている暇ないの、HG!」

 

「そう邪険にするな。私はお前の味方なのだからな」

 

「味方? アンタが? 私の?」

 

 その割には、態度があまりにも攻撃的に感じる。私はどこをどう解釈してもHGが私の味方だなんて思えない。

「そう、私はお前のためを思って、何度もお前に警告しに来たのだよ」

 

 私にちょっかいをかけに来ていたのが警告だと言うHG。意味がわからない。

 

「やっと、自覚したな」

 

「じ、自覚……。何のことよ」

 

「とぼけても無駄だ。私はお前のことなら何でも知ってる」

 

「このストーカーっ!」

 

「違うというに!」

 

 犯罪者呼ばわりに慌てる辺りは、やはりHGといった所。しかし、今の私はこいつをいじって遊ぶ余裕はない。

 

 その私の様子に、HGの目元が笑う。サングラスで見えないはずの目が笑っていた。

 

「なんと言ったかな。そう、九段坂、恋歌……だったか。妙ちくりんな名前をつけおって」

 

 HGが恋歌の名前を口にする。

 

 どうしてこいつが知っている。そんな疑問より先に、HGが口にすることにより恋歌の名前が汚された。そんな怒りが湧いてくる。

 

「アンタは何を!」

 

「そんな人物いないとわかったのだろう?」

 

 HGの言葉にドキリとする。私が否定したいことを言葉にされて、私はあせりを隠せない。

 

「ど、ど、どうして、アンタまでそんなこと言うの!」

 

 私の動揺ぶりをHGは鼻で笑った。

 

「だって、私は会ったもの。一緒に暮らしたもの。九段坂恋歌は絶対いたんだから!」

 

「なら、それを証明する者は?」

 

 へ? 証明? 一瞬、HGに何を言われたのか、わからなかった。

 

「お前以外に九段坂恋歌に会った人間はいるのか?」

 

「そんなの! もちろんいる……、はず」

 

 私が勢い任せで放った言葉は、語尾が弱々しい。

 

「ははっ、ははははっはははっははははっは」

 

 そして、私の言葉を聞いたHGが笑い出した。

 

「どうして笑う!」

 

「必死だな。しかし、もうわかっているのだろう。そんな抵抗むぎゃ!」

 

 私はHGをぶん殴った。本気の本気で、グーで顔面を殴った。拳の皮が剥け、血がにじむ。それでも私は拳が痛いとは思わなかった。痛いのは拳じゃない。私の心が痛んでいる。

 

 一撃で昏倒したのだろう。HGはピクリともしなかった。

 

 私は無我夢中で逃げ出した。HGの顔なんて一秒たりとも見ていたくなかった。

 

 街の風景が流れていく。私が駆け抜ける街は忙しく人が行き交う。なのに九段坂恋歌の姿はどこにもない。どこにもいない。

 

 どこにいるの恋歌。私はアンタを、アンタを……。

 

 私の瞳は涙を溜めていた。いっそ、大泣きした方が楽になる。でも泣くには何かが足りなかった。

 

 私は泣き出すことも出来ずに街を彷徨っていく。

 

 誰も私を助けてくれない。誰も私に手を伸ばしてくれない。どうして私ばっかりこんな目にあわないといけないの。

 

 私が何か悪いことした? 私は何もしていない。私は何もしていない。私はずっと何も出来ないで来たのに!

 

 私は天を仰ぎ見ていた。いや、何も見ちゃいない。

 

 ただ、走り疲れて、一歩も動けなくなって、こうして天を仰いでいるだけだ。先程見えた空に輝く星座もどこかに沈み、今私の視界を占めるのはただ光るだけの星々。都会の光害に遮られ寂しい限りの星空を見上げるだけ。

 

「何を見ているの、おばさん?」

 

 その声に驚いた。ただ純粋に驚いた。

 

「……天井、翔太」

 

 そこには空を見つめる少年、天井翔太がいた。あちこち走り回った私には、今いる場所すらわからない。私が住む街のどこかなのだろうが、天井翔太が空を見る空き地でもなければ、天井翔太の家も遙か遠くだろう。それなのに天井翔太がいる不思議。

 

 さっきはHGにも会ったし、なんだか今日はオールスターな感じだ。どうしてこんなに私が苦しんでいる日に限ってみんな現れるんだろう。私を嘲笑いに来たっていうの?

 

「どうして、こんなところに……いるの? もう夜遅いから、……早く帰りなさい」

 

 私は絞り出すように、必死に冷静になろうと声を出した。なのに天井翔太は私の言葉なんか全部無視するかのように近づいてきた。

 

「空、何が見えるの?」

 

 それはいつも私が翔太くんにする質問だ。なのに、逆に私が問われてる。それは不思議な感覚だった。

 

「空……」

 

 私は空を見ていたわけではない。ただ、何も考えたくない。そんな思いで、天を仰いでいただけなのに。

 

「空に何かあった?」

 

 再び天井翔太が聞いた。私にその答えはない。

 

「何にもないでしょ?」

 

「…………うん」

 

 翔太くんの言葉に私はうなずいた。いつも空を見ている少年自身が、何もないと言ったことがすごく自然に感じられてしまった。

 

「空には何もないよ。空は空だよ」

 

「……そうだね。空は空ね」

 

 私の言葉に満足したのか、翔太くんはいつも無表情な顔で、無理矢理笑ってみせた。

 

「上ばかり見ていると疲れるよ」

 

「そうね。首が凝りそうね」

 

「だったら、前向いたらいいよ」

 

「前?」

 

「そう前。前を向けば色々見える」

 

「何が見える?」

 

「さぁ? 少なくとも空を見るより健康的だと思うよ」

 

「じゃあ、翔太くんはどうしていつも空を見ているの?」

 

「どうしてだろうね?」

 

 逆に問われた。自分でもわからないということなんだろうか?

 

「もう夜遅いから、帰りなさい」

 

 子供相手に少し喋ったからだろうか、今度は冷静に落ち着いた声で言えた。いくらクリスマスイブでも、小学生がこんな夜中に出かけては色々問題がある。

 

「わかってる。もう帰るよ」

 

 天井翔太が妙に素直だったので、私は拍子抜けした。しかし、翔太くんが次に起こした行動にはびっくりした。翔太くんは有無を言わせず私の手を握ると、私を引っ張って歩き出したのだ。

 

「何? 何? 何なの、翔太くん?」

 

「帰るんでしょ?」

 

「え? そりゃ帰るって、私も帰れって?」

 

 その質問には答えず、翔太くんは力強く歩いていく。小学生とはいえ、さすが男の子ってことだろう、その力に私は感心した。

 

 知らない街並みを翔太くんに連れられて歩いていく。翔太くんは道を知っているようで、迷いなく、ある方向に私を引っ張っていく。

 

 もう夜遅い道。静けさ漂う中、私は手を握られたまま翔太くんに従った。そういえば、相手は子供とはいえ、男と手を繋いで歩くなんて初めてだった。そんな事実に私は苦笑する。

 

「おばさん。何笑ってるの?」

 

「ナイショ」

 

「どうせろくでもないことだろ?」

 

「そんな感じ」

 

「だろうね」

 

「おばさん」

 

「何?」

 

「ないものはないで諦めて、今あるものを大切にした方がいいよ」

 

「何それ?」

 

「忘れたの?」

 

「忘れって……あっ」

 

 そうだ。ちょっとニュアンスは変わってるが、それは私が翔太くんに伝えた九段坂恋歌の言葉だった。

 

 そういえば、私が話をしても、ほとんどの人間には興味を示さなかった家出少女の九段坂恋歌が、天井翔太には珍しくかかわろうとしたのだ。天井翔太と九段坂恋歌には、何か感じるところがあったように私は思う。

 

 もしかして、もしかすると。

 

「翔太くん、恋歌がどこにいるか知ってる?」

 

 天井翔太なら知っている、そんな気がした。

 

「レンカ?」

 

 それなのに、翔太くんは疑問の声を上げた。

 

「私の家にいた女の子のこと。前に話したでしょ」

 

「ああ、そういうことね」

 

 翔太くんの納得の声に、彼がちゃんと覚えていたことを知る。

 

「どこにいるか知ってる?」

 

「いつもいる場所にいるよ」

 

 えっ? いつもの場所? いやそれよりも、天井翔太は本当に九段坂恋歌の居場所を知っている?!

 

「いつもいる場所? それってどこよ!」

 

「探したんでしょ? ほんとにいなかった?」

 

「さ、探した?」

 

 そりゃ、あっちこっち探したわよ! それでいないから!

 

「もう一度よく考えて見て、彼女がどこにいるのかを」

 

「教えてよ。恋歌はどこにいるの?」

 

「たぶん、直ぐ見つかるよ」

 

 そう言うと、翔太くんは私の手を放した。気がつけば、そこはいつか翔太くんと別れた三叉路だった。

 

 ここまで来れば私も知っている場所。ここは翔太くんとお別れをする場所。

 

「頑張ってね。おばさん」

 

 それだけ言うと、天井翔太はあっさり帰っていった。今日の彼はどことなく不思議な感じがする、浮世離れした独特の空気があった。

 

 それはよくよく考えてみると、私が翔太くんと初めて会った頃、彼がまとっていた空気に似ていた。最近は薄れていたその雰囲気が、今日感じられたことに私は意味を感じてしまう。

 

 まさかとは思ってしまうが、彼は私を探しに来てくれたのではないか。そんな甘っちょろい考えが頭を掠める。もしそうだとしたら、翔太くんが口にした言葉はどうなるの? 彼の言葉を、私は信じていいの?

 

 でも、『いつもの場所』なんて言われても、私にはどこかわからない。いつも九段坂恋歌がいる場所ってこと? そんな、私はあの少女について何も知らないのに……。

 

 そう、私は九段坂恋歌のことを何も知らない。彼女がどこの誰かも、私が部屋にいない昼にどこに行っていたのかも。私が部屋に帰ると恋歌がいた。それだけなのだ。

 

「……いつもの、場所」

 

 私は恋歌と、私の部屋以外で会ったことがない。

 

「私の部屋……なの?」

 

 でも、恋歌は私の部屋からいなくなった。だから私の部屋にいるはずがない。それなのに私は走っていた。私の部屋に向け、駆け出していた。

 

「恋歌! いるの! 恋歌!」

 

 私は乱暴にドアを開け放つ。そこは真っ暗な部屋。無人の私の部屋。ワンルームの小さい部屋に私の声だけが虚しく響く。

 

「やっぱり、いるはずが……」

 

 九段坂恋歌はいるはずがない。そう言葉にすると、彼女の存在自体を否定することになる。それが無償に恐かった。

 

 九段坂恋歌がいない。そう何人にも言われた。九段坂恋歌がいる証拠がないと言われた。そんなはずはない。彼女とこの部屋で一緒に暮らしていたのだ。この部屋にはその証拠がいくらでもあるはずだ。私の高校の卒業アルバムはなかったけど、家出少女が残した形跡はあるはずだ。

 

 それなのに、いくら探してもない。何もない。どれだけ探しても、もうあの少女が消えて三ヶ月はたったとしても、何もない。少女が使った物もない。少女が着ていただろう服もない。この部屋からも、九段坂恋歌がいた証拠が見つからない。

 

 そんなはずはない! 九段坂恋歌がいないなんてあり得ない。

 

 そうだ。金塊! 彼女が持ってきた金塊は私が厳重に保管してあるはずなのだ。換金することもなく私が預かっていた金塊なら、今も屋根裏にあるはずなんだ。大慌てでコタツを動かして台とすると、私は天袋を開け、その中の天井の板を外した。

 

「あっ……」

 

 私の声が喉から漏れた。

 

 覗いた天井裏はうっすらほこりが溜まり白く色づいていた。そしてやはり何もない。ここに隠したはずの金塊も、それを置いた形跡もない。もう何年と放置され降り積もったほこりがあるだけ。

 

「嘘よね? 嘘なんでしょ! ねぇ、嘘だと言ってよ!」

 

 私の体は力無く崩れ去る。

 

「ねぇ、どうしてよ。どうしてみんな私をいじめるの! 私、悪いことしてないのに! 私は! 私は……」

 

 どれだけ声をあげようと、私の気持ちは晴れはしない。

 

 私が何か間違ったことをしただろうか? どうして私ばかりこんな目にあわないといけないのだろうか?

 

 ねぇ、どうして? 私って何? 私はただ、楽しく生きたいだけなのに!

 

「往生際が悪いのは、あなたの悪い癖ですね」

 

 とても懐かしい声に聞こえた。たった三ヶ月聞いていなかっただけなのに、その声がとても愛おしく聞こえた。

 

「…………恋歌」

 

 目の前に恋歌がいる。私の前から消え去ってしまったはずの恋歌がいる。

 

 いつの間に現れたのだろう。あの日のまま、まったく変わらぬ姿の恋歌が私の前に立っていた。

 

「なんて顔してるんですか。折角のメイクがぐちゃぐちゃじゃない」

 

「……恋歌」

 

「はい」

 

「恋歌っ!」

 

「何です。そんな私の名前を連呼して。恥ずかしいじゃないですか」

 

「どうしてここにいるの!?」

 

「私はここ以外に居場所がないって言いませんでした?」

 

「言った。違う。どうして?」

 

「どうしてとは、何を問うているのですか?」

 

「全部!」

 

 私の言葉に恋歌は笑いをこらえる。少女の愛らしい顔がにこやかに微笑む。

 

「ほんとあなたって人は、欲張りなんだから。でも駄目ですよ。あなたは選ばないといけないんですから」

 

「選ぶ。何を言っているの?」

 

「はい。だから消えたはずの私がまた見えるんです」

 

「見える……」

 

「もう充分わかったでしょ。どれだけ現実を見ないふりをしても、私が実在しないということは」

 

 私は恋歌の言葉に面食らってしまう。色んな人に言われてきたが、よもや本人にまで否定されるとは思っていなかった。

 

「そんな……。だったら、何なの? アンタは一体何なのよ!」

 

「まだわからないんですか?」

 

「何がよ!」

 

「色んな人に諭されて、教えられて。それでも気づかないふりを続けるんですか?」

 

「何……よ」

 

「私は九段坂恋歌。それ以上でもそれ以下でもないのです」

 

「九段坂恋歌は私の高校の」

 

「クラスメイトだった?」

 

 私が言うべき言葉を先に言われ、私は言葉を失う。そもそも九段坂恋歌という名は、私のクラスメイトの名前だったはず。

 

「そうです。私はその九段坂恋歌」

 

「ち、違う。九段坂恋歌はアンタみたいな子供じゃ」

 

「見た目にどんな意味があるんですか?」

 

「意味って!」

 

「私はあなたしか見えないのに?」

 

「な、何言って」

 

「私はあなたと以外、誰とも喋れないのに?」

 

「……」

 

「私はあなたが作り出した幻影なのに?」

 

「……やめて」

 

「九段坂恋歌はあなたが現実から逃避するために作り出した存在」

 

「お願い……やめて……」

 

「高校時代。まわりからいじめられ、無視されたあなたは、現実から逃避して自分の心の中に身代わりを作り出した。いじめられているのはその身代わり、そいつは無口で根暗で、いてもいなくてもわからないような奴。だから無視されるのは当たり前。無視されているのはそいつ」

 

「やめてっ!」

 

 私は耐えきれずに逃げ出した。何度目の逃走だろう。私は逃げることを躊躇わない。何度だって逃げてやる。私は探していたはずの九段坂恋歌の前から逃げ出したのだ。

 

 もう嫌だった。何もかも嫌になった。どうして私がこんなに苦しめられなくてはいけないのか。

 

 私は嫌なんだ。苦しいことも、悲しいことも。

 

 楽しければいいじゃない。気楽に生きられるならそれに越したことはない。それなのに、みんな私をいじめる。早く気づけと、早く現実を見ろと言う。どうして私ばっかりこんな目にあわないといけないの。

 

 部屋を飛び出した私は、街を無様に逃げ回っていた。九段坂恋歌さえ私をいじめるなんて、もう私に安楽の場所はない。

 

 何の考えもない。ただただ居場所を求め、駆け回る。もう夜は更け、黒い深々とした夜が私の体を凍えさせる。クリスマスのイルミネーションが苛立たしい。私がこんな目にあっているのに、街は煌びやかに光ってやがる。ほんと私をバカにしてる。みんなみんな、私をバカにしてる!

 

「もう、嫌」

 

 白い吐息と共にそんな言葉が漏れる。

 

「嫌なの! 苦しいのも寂しいのも!」

 

 ぼろぼろと涙が落ちる。

 

 ずっと気を張って生きてきた。頑張ってきた。どれだけ寂しい思いをしても、悔しい思いをしても、歯を食いしばって生きてきた。みんなに無視されて、誰も友人が出来なくても、ずっと独りで頑張って乗り越えたのに、折角、暗い過去を隠して生きてきたのに、どうして私をまたいじめるの!

 

「はははは。私なんて、私なんて……」

 

 クリスマスイブの夜、行き交う人はカップルばかり。たった一人で街を彷徨うなんて私ぐらいなものだ。

 

 私は世界で独り。そんな恐怖がまた私に襲いかかる。散々耐えてきたのに、それでもまだ私を苦しめる。いくら探しても、この街に私の居場所はなかった。

 

 そんなの当たり前だ。私に唯一無条件に優しくしてくれる九段坂恋歌までが私を追い詰めるのだ。もうこの街に、私に居場所なんてない。

 

 私はこの街から出て行かなくてはならない。高校卒業で地元から逃げ出したように、また私はこの街から逃げ出さなければならないのだ。未練なんてない。私は私をいじめる人のいない場所に行かないと生きていけない。もう苦しいのは嫌なんだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 私の白い息が強い風に飛ばされる。階段を駆け上がったせいで、少しの目眩が私を襲っていた。

 

 この街にはいたくない。それだけの思いで、私は駅へと来ていた。たった今、電車が去ったのだろうか、ホームは人影がなく閑散としていた。走り回って疲れ果てた私は力無くベンチに座り込む。

 

 早く電車来て。早く、早く。早く私をどこかに連れて行って。私をどこか、誰も私をいじめることのない。安らぎがある場所に。そう私が願っても、電車は現れない。早くしてくれないと、私、私。

 

「どこへ行くんです?」

 

 顔を伏せた私の耳元で声がする。視線を向けずとも誰かわかる。間違うはずもない。

 

「……恋歌」

 

 いつの間にか、ベンチでうなだれた私の前に恋歌が表れていた。

 

「どうして、……私を追って来るの?」

 

「何を言っているんです。私はあなたが作り出した幻。私はいつもここにいるんですよ。いつもあなたの隣に」

 

 いつもいる。そうか、これが天井翔太が言っていたことなんだ。

 

 九段坂恋歌はいつも私の側にいる。天井翔太には九段坂恋歌が見えていたのかもしれない。彼は何かが見えるって恋歌が言っていた。その恋歌は私の目の前で飄々とホームを吹き抜ける風を感じていた。

 

「ここ、懐かしいですね」

 

「えっ」

 

 恋歌の言葉に顔をあげる。九段坂恋歌は私の隣の席を一つ空けて、同じベンチに座っていた。

 

 その情景に私の感情が凍りつく。まさかここは、そんなまさか!

 

「一年前と同じですね」

 

 一年前、私が九段坂恋歌と再会した場所。彼女とたわいもない話をしたベンチ。私はなんて場所に座っていたの!

 

「ここは、一年前にあなたが九段坂恋歌と決別した場所。ほんと、あの時に完全に九段坂恋歌を消しておけばよかったんです。そうすれば、あなたはすんなり新しい生活に馴染んでいったはずなんです」

 

 そんな言葉が恋歌の口から語られて、私は信じられない思いだった。

 

「……もし、もしそうなっていたら。アンタはどうなるの?」

 

「もちろん、あなたの前には表れなかったでしょうね。必要ないですもの」

 

「ダメ! そんなのダメ! 恋歌がいないと私ダメなの!」

 

 縋りつくような私を、恋歌は悲しい目で見つめた。そして彼女の手が私の頭にそっと触れる。しかし、その感触はまったくない。手の重みも、木枯らしに晒された指先の冷たさもない。

 

 本当に彼女は存在しない幻。私だけが見る夢のようなもの。そう言われても私は反論する言葉が見つからない。私が撫でたはずの恋歌の頭も、抱きしめたはずの恋歌の体もすべてがすべて存在しなかったなんて、そう言うの?

 

「ねぇ、あなたにとって高校時代の九段坂恋歌ってどんな存在だったの」

 

 改めて問われるとすごく困る。

 

 高校のクラスメイトだった九段坂恋歌。私の友達というわけでもなく。話をした覚えもない。無口で根暗で、クラスではずっとはみ出し者だった。教室ではずっと独りで、ずっと耐えていた彼女。私は彼女を見て安心するのだ。私は彼女よりはマシだ。彼女みたいにならなくてよかった、と。

 

「そう。九段坂恋歌こそ、あなたの心中の身代わりの名前」

 

 私の心を読んだみたいに。いや、恋歌が私の心が生み出した産物なら、私の心を知っていて当然だ。

 

「……ちがう。私はいつも楽しいお喋りが好きな」

 

「そう言い聞かせて、無理に演じてきた。高校を卒業してから自分を偽って、新たな人生を送ってきた」

 

「…………ちがう」

 

「だから九段坂恋歌はいらなくなった」

 

 九段坂恋歌がいらない。私はそんなこと思ったりしない……、はずなのに、恋歌の言葉が胸に染みた。

 

「だからあなたは九段坂恋歌を処分した。自殺したと思い込むことによって、九段坂恋歌を殺して消したのよ。九段坂恋歌を消すのに、高校を卒業してから六年も時間がかかったのが、あなたらしいというか何というか」

 

 そんな、私が殺したというの。九段坂恋歌を私が殺したの!

 

「でも、それは間違いじゃない」

 

「え?」

 

「元々存在しない九段坂恋歌が消えることはすごく自然なこと」

 

「だったら」

 

「なのに、あなたは泣いてしまった」

 

「私が泣いた……?」

 

「九段坂恋歌が死んであなたは泣いてしまった。いなくなって当然の者が消えて泣いた。いらないはずなのに、あなたは九段坂恋歌を欲してしまった」

 

「私が九段坂恋歌を求めた?」

 

「そう、それこそが私。九段坂恋歌」

 

「あなたも九段坂恋歌……」

 

「そう。正真正銘、私も九段坂恋歌。あなたが欲っした幻影の一人」

 

「本当に、本当にそうなの……」

 

「私はあるはずもない設定で、無理矢理一緒に暮らそうとしたあなたの妄想よ」

 

「そんなだって、……私、アンタを追い出そうとしたじゃない!」

 

「そうね。それはあなたの心の葛藤だった」

 

「葛藤?」

 

「あなたはちゃんと気づいていた。私が不自然な存在だって。それなのに目を背けていただけ。だからあなたは無意識に私を排除しようと試みた。しかし、あなたはまた泣いてしまった。私から卒業しようとして失敗した。だから再び私が現れた。ここ数ヶ月は頑張っていたみたいだけど。そろそろ限界」

 

「何よ、……それ」

 

「現状は理解出来ましたか? ならここで問題です。このところ、頑張って私を消していたあなたが、どうして今、私とこんな話をしているのでしょう? どうして私が表れて、事情を説明しているのでしょう?」

 

「恋歌待って、私」

 

「待てません。もうわかっているのでしょう? あなたは今、二択を突きつけられているのです」

 

「二択……。絶対間違ってはいけない二択……?」

 

「そう二択です。考える時間はまだ少しならありますよ。と言ってもそれほど待つことも出来そうにありません。あと一時間もしないうちに日付が変ってしまう。もうすぐクリスマスです。一年前、私を消し去ったあのクリスマスがまた巡って来る。丁度いいでしょ? 九段坂恋歌はクリスマスに消えるものだっていうの、何んだか素敵じゃない」

 

「恋歌が消える?」

 

 自らが消えてしまうかもしれないというのに、恋歌の顔には不安の色はない。それは元々存在しないはずの者が持つ宿命のようなものなのかもしれない。

 

「さぁ選んで! 私を完全に消して、まっとうな世界に戻るか! 私を残して、だらだらと現実逃避の世界に逃げ込むか!」

 

「それが、私の二択……」

 

「さぁ 選んで!」

 

 恋歌が私に突きつける。どちらか一方を選べと突きつける。

 

 幾度もなく私の心を揺り動かした駅のホーム。冷たい風が私たちを吹きさらす。

 

 私はどうしたらいいの? そんな二択を突きつけられて、一方を選べって。そんなのわかんない。どうして私がそんなことしないといけないの。誰か助けてよ。そう心で求めても誰も助けてくれない。目の前の九段坂恋歌でさえも、私を助けてくれない。

 

 世界がぐるぐる回る。私を追いつめようと、世界が歪んで押し潰れる。私は吐き気を覚えて嗚咽する。なのに状況は好転なぞしてくれない。

 

 そんな緊迫した状況で、乾いた電子音が鳴った。電話だ。私の携帯電話が鳴っている。

 

「出たら? 今のあなたと現実のつながりですよ」

 

 恋歌の声は妙に優しかった。まるで、それがこの世界で最後の会話だからと言わんばかりに。

 

 現実とのつながり。この電話の相手は私の現実。虚構の存在である九段坂恋歌と相対する存在だとでもいうのだろうか。しかし、アドレス帳をすべて削除してしまったので、一体誰からの電話かわからない。携帯電話のディスプレイには相手の電話番号だけが表示されていた。

 

 この電話に出てしまっていいのだろうか? 恋歌に促されたことで、逆に不安に感じてしまう。それでも、私の指は受話ボタンに伸びていた。

 

『先輩〜。生きてますか〜』

 

「数子……」

 

 その声は、紛れもなく会社の後輩である迷時数子だった。なんだか、数子の声が懐かしく思えた。

 

『やっと〜残業〜ぅ終わったんですよ〜』

 

 時計を見れば、もう日付変更目前になっている。忙しい部署にいる数子は毎日のように、こんな時間まで残業をしているのだ。

 

『先輩〜ぃ元気ないって〜。香奈ちゃんから聞いたんです〜』

 

「陸道さんに……」

 

 数子が陸道香奈をちゃんづけで呼んでいるなんて初めて知った。確か二人は同い年だ。

 

『先輩いつも〜無理して明るく〜してるから〜。でも〜いいんですよ〜。みんなわかってますから〜、先輩が〜いつも頑張ってるって〜』

 

 そうだ。私はずっと頑張ってきた。

 

 ずっとずっと独りで頑張ってきた。

 

 それを、迷時数子は知っていたというの?

 

 見ていてくれたというの?

 

『あ〜、十二時〜すぎました〜。先輩〜ぃ、メリ〜クリスマスです〜』

 

 脳天気な数子の言葉に、どうしてだか、私は瞳に涙を溜めていた。迷時数子の何気ない言葉が、どうしてこんなに嬉しく思えるのだろう。

 

「数子……。ありがとう。それと、メリークリスマス」

 

 その後、退社準備で慌ただしく電話を切れたとき、私は完全に泣き出していた。さっきまでの苦しみに耐える涙とは違う。もっと別の涙だった。

 

「おやおや、泣き虫さんですね」

 

「恋歌……、私、どうしたらいい?」

 

「選んでください。それだけです」

 

 選ぶ。私の生き方を選ぶ。私はこれまで現実逃避を繰り返してきた。ずっと楽だったらいい、苦しいのは嫌だと逃げてきた。

 

 九段坂恋歌を消せば私はまっとうな世界に生きていける。ずっと独りだった高校時代に、どれだけ願っても手に入れられなかった普通の世界。

 

 普通に会社に行って普通に生活を送る。そこには数子や陸道さんがいる。飲み屋に行けば河渡先生も私の相談を聞いてくれる。周りの人間と普通にお喋り出来る生活が待っている。もう九段坂恋歌のためにと部屋に引きこもることもない。

 

「私は、私は……」

 

 九段坂恋歌は私が作った幻影だった。私が現実から逃避するためだけに作り上げた、誰にも見えない偶像。

「私は九段坂恋歌を……」

 

 一度は殺してしまった相手。それでも求めた存在を私は。

 

 唇が震えていた。その言葉がしっかり口に出来たのか疑わしい。それでも、私の唇は動き、突きつけられた二択に答えていた。

 

 

 

 私は、今まで本当に逃げてばかりだった。九段坂恋歌という存在に守られ、私は傷つかないようにと逃げてばかりだった。だから、こんなになるまで、恋歌自身から二択を突きつけられるまで、ずるずると来てしまったのだ。

 

 それでも、私は選んだ。一つの未来を選んだ。その答えが間違いなのか、正しいのかは関係ない。今まで逃げていた私が、一つの道を選んで進むと決めたことに意義があるのだと信じている。

 

 その日を境に、私は悩むことがなくなった。暗く沈んでいた私は、これまでの明るく楽しい生活に戻っていった。私の中で、引っかかっていたものが消え去り、本来の私に戻ったのかもしれない。もう、私の中に後ろめたい気持ちはなくなっていた。この現実社会に正々堂々と向き合っている。

 

 その朝も、いつものように慌ただしく身支度を整え、私は部屋を飛び出していく。私を受け入れてくれるこの優しき世界に。

 

 そう、九段坂恋歌はまだここにいる。

 

「いってきます、恋歌☆」

 

 

 

                 了

 

説明
ケータイ小説をイメージして書いた軽い作品です。軽い気持ちで読んで頂ければ幸いです。この第10章が最終章です。
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