『Westermarck effect』-my little Darling5- 中編
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 風呂は命の洗濯に最適だとミサトが言っていたのをアスカは思い出していた。じつに久しぶりの温泉で、中学生の時にシンジの家族と一緒に草津に行って以来である。露天風呂ということでは初めてである。腕や脚をグーンと伸ばせるのは気持ちがよかった。

 入浴は好きだが温泉である必要はない、とおりにふれて思ってはいた。しかしじつは温泉そのものも好きだったのだなと認識できて、なんだか嬉しかった。

 「日本に産まれてきてよかったわ?」

 心の底からそう思い、もうもうとなった湯煙の中でアスカは大の字にのびをした。

 すると、いっしょに入っていた伊吹マヤが喉を鳴らして笑った。アスカの容姿と今の言葉がちぐはぐだからに違いなかった。

 たしかにギャップはあるが、アスカが嘘を言っているわけではない。両親はドイツ系アメリカ人ではあるが、日本にいるときにアスカが産まれているのである。そのまま日本に住んでいて、アメリカにもドイツにも行ったことすらないのだ。二十歳までの国籍こそアメリカではあったが、そこが祖国であるという認識は皆無だったのだ。

 生活習慣という意味では、両親の影響で世間とのズレというのがありはする。それがわずかばかりのコンプレックスではあるが、自分が日本人であることにプライドがあるのは揺るぎのないことだ。

 

 すこし憮然とした表情をアスカがすると、マヤは口をおさえて謝った。

 「だって、アスカ先生みたいな白い肌って、羨ましいって思うじゃないですか」

 マヤの表情を見て、しょうしょう大人気なかったなと反省する。だから、自分の肌の色はすこしだけどうにかならないのかと思っているだが、そのことは黙っておいた。

 マヤは、ショートヘアであるがこれをボブにしたらまさに日本人形のような印象の女性だ。肌の色もそうだが、きめの細かさこそ羨ましい。マヤを見ていると、なんだか自分の造作は大雑把に見えてしまうのである。

 躬らの容姿を構成するパーツで、気に入っているのは脚線のみで気にならないのはブロンドだけである。ほかはどうにか作り変えられないものだろうかとおりにふれて思う。

 「でも、男の人ってマヤ先生みたいなきめの細かい肌のほうが好きだって聞いたことありますよ。チューなんかしてもらうんだって」

 だから、こう言ったのは皮肉でもなんでもなく素直な気持ちだった。

 ただ、こんな仄めかし程度のことでも性的な話題に過剰に反応してしまうようなマヤを困らせてやろうといういたずら心があったのも本当である。

 あんのじょう、マヤは唇の高さまで沈むと背中をむけた。顔が紅潮しているのは温泉の所為ではないだろう。まるで小学生だ。

 

 「先輩をからかうもんじゃないわよ」

 とアスカを嗜めたのは養護教諭の赤木リツコである。

 保健室の先生といえばおおむねどこの学校でも人気があるものではあるが、リツコの校内での人気はトップクラスだ。生徒に接している時の、凛としているさまとやわらかい物腰の切り替えが巧みだからであろうとアスカも納得する。自分より八つほど年上だが、肌に衰えもない。左の泣きホクロが知的なイメージを与えるから、格好もいいのだ。自分の年齢だとなまじ生徒と近いから、どうがんばってもリツコのような人気を獲得するのは無理だと思う。教師も人気商売にはちがいないが、養護とちがって厳しい先生という路線で人気を得られればいいのだから、そんなにくやしくはないと強がってはいた。

 

 「それにしても、今度の旅行は突然でしたね」

 マヤが話題を変えようとしているのはあきらかだった。紅潮はおちついたらしい。

 「夏休みなんだから恋人とバカンスに行けばいいのに、アタシと同じく淋しい青春を送っている方はいないかと思ったわけですよ」

 芝居じみた言いようでアスカは場をまぜっかえした。

 やにわに誘われても応じることができるのなら、独り身にちがいないのだと自虐もこめた決めつけである。

 そして、今度はマヤが小さな唇をへの字に曲げた。

 「男なんていいんです。私は、仕事に生きるんですから」

 「そんなこと言ってたら、レズだって噂になりますよ」

 アスカは、マヤを挑発する。彼女にはすでにそういった風評が生徒の中でささやかれはいた。ただ、マヤは男嫌いというのではなく、彼女の潔癖症なところがそういった雰囲気を纏わせているのではないかとアスカは洞察する。彼女と職員室で会話をしていると、言動のはしばしから感じられるのだ。男というのは、女にしてみれば未知の生物である。女が男にとってそうであるようにだ。自分と違えば、それを不純だと思えることもあるものだ。

 アスカにしても、シンジのことが理解しきれなくて右往左往しているのだ。身につまされることがらでもある。

 「噂されたっていいですよ。べつに」

 今度はすねたようにマヤは口を尖らせた。

 その様子を見ていて、リツコが含み笑いをする。

 「青春、なんて恥ずかしげもなく言えるのね?」

 ただ、挑発的な意味はないということはアスカにもわかった。そう言えるアスカの若さをうらやんでいるのである。

 たしかに、二十歳をまわってすでに三年である。社会人になってしまって世間のしがらみを気にせねばならなくなってしまっている状況で青春というのははばかられるのかもしれない。思い人があきらかに青春の真っ只中だから、そんな気分にもなってしまうのだろうか。リツコに指摘されてあらためて気付いた。

 

 リツコのその言葉には憂いがただよっていることになるのだが、同時にアスカはそれを勘ぐってもいた。リツコとしては、自分はそんなに若くないし枯れていて、せいぜい仕事くらいにしか興味がわかないという示唆のつもりなのだろう。しかし、三組担任で物理担当の加持リョウジとつきあっているのではないかとアスカはにらんでいた。

 生徒のあいだでも、当然だが職員室でも会話の俎上にあがることはない。それでも、加持先生が保健室への出入りの頻度が多いような気がするのである。そこで二人が談笑しているのをなんどか目撃もしているのだ。

 「リツコ先生は、青春っていうよりは女盛りって感じですよね」

 と、もちあげることで口が軽くなることを期待するが、いい男っていうのは基本的に売約済みだから、とさらりと受け流されてしまった。

 なかなかシッポをださないことをくやしく思うが、アスカにはこれいじょう追及できるだけのネタをもちあわせてはいなかった。

 じつは加持リョウジの所作はアスカの好みにヒットしているのである。シンジと出会うことがなかったとすれば、それなりにアプローチをかけていたはずだと思う。だから、幸せになってほしいと思っているのだ。

 いっけん昼行灯のふしがある加持には、リツコくらい隙のない女が似合うと思う。ポケポケっとしていたら、盛大に尻を引っぱたくのである。

 『私とシンジもそうなんだから』

 シンジは昼行灯というよりも優柔不断というほうなのだが、ゆえに決断力のある自分が似合うのだ。最近の綾波レイに対する行動力のほうが、シンジにしてみれば珍しいのである。

 

 などと思考をめぐらせていると、

 「ところで……まぁ、シンジ君なら大丈夫か。一泊だものね」

 リツコは、矢庭シンジのことを心配したが、言葉では取り消した。

 アスカは言葉を失った。

 リツコの口からシンジの名前がでてきた、その背景がわからないからである。

 同居がばれているようだが、どういった経緯なのか。これを弱みに、なにかを要求されるといった雰囲気でもないから困惑してしまう。

 「高校生じゃないですか。一泊ですよ」

 と、マヤは笑った。

 マヤまで、である。

 なにがどうなっているのやらわからなくなって、アスカはまさに湯にのぼせてしまったようになってしまう。自分の知らないところでなにがどう動いているのか、狼狽と焦燥が交互にアスカをおそった。

 「シンジ君と住んでるんでしょ。ミサトも」

 アスカのはっきりしない表情を見て、自分の勘違いかと思ったのかリツコが確認した。

 「そういえば、校長先生が言ってましたよね」

 マヤはリツコに同意を求めるようにした。

 この言葉がアスカに状況をおおよそ把握させてくれた。たぶん新学期初の職員会議かなにかで、学校職員らにはアスカとシンジの同居の告知がされたのだ。呆けていたのか眠っていたのか、自分のことにもかかわらずアスカは失念していたのだ。新任そうそう神経が図太いということでもある。

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 いっきに明確になった状況に、アスカは胸をなでおろした。

 同居のことを世間に悟られないようにするのはまだしも、同僚にまで隠しとおすことをそれなりに負担に感じていたからである。それに、リツコの言葉から導き出されることとしては、シンジへの気持ちも露呈しているかもしれないという懸念もあった。しかし、そこまではなさそうだと解かったからでもある。

 今晩はミサトがいないから、たしかにシンジはひとりである。とはいっても、あのミサトの素行を考えればいるもいないもたいした差異はないようにも思えた。まぁ、男の子のたかが一晩のことでさわぐほどのことではないということでもあろう。

 そうしているうちに、別のことが気になる余裕がアスカにでてきた。リツコが、シンジだけではなく葛城ミサトと同居していることまで識っているようだったからどういった縁なのか気になりはじめた。

 「リツコ先生は、ミサトのことをご存知なんですね?」

 「加持先生もそうだけど、大学が一緒だったのよ。言ってなかったわね」

 世間は狭いものだ。

 ミサトは生物工学部、リツコと加持は教育学部とばらばらではあったが、一緒によく遊んでいたのだという。当時からアスカのことは会話の中にたまにでてきていたから、識ってはいたのだという。そして、同じ学校の勤務になるとわかった時はそれなりに驚きもしたのだそうだ。聞いて想像していたとおりの容姿であったこと、そのわかりやすさにある意味あきれもしたと言われ、アスカは怒るよりも居心地が悪くなる。他にどんなふうに話題になっていたのか確認したいが、訊くことにも抵抗があった。なにを言われるかわかったもんではない。おねしょの話だのなんだのとされて、マヤ先生までいるのに余計な恥をかく必要はないと、他の話題をさがした。

 同時に、リツコと加持が親密に見える理由がわかったことですこし落胆もする。

 学生時代からの付き合いがあれば、二人ともああいった物腰にもなるのだろう。もっともそれが、二人のあいだに恋愛感情がないという証明にこそなりはしないが、なんだか肩透かしをくらったような気分になった。ひとの恋愛がどうのこうのと言っている余裕が自分にあるわけではないのだが、リツコ先生や加持先生くらいに素敵でいて、ひとり身でいることがひどくもったいないと思うのである。

 

 話題を変えてほしいところで、アスカはネタが用意できなかった。あせればなおさらである。

 そのタイミングでマヤが、新しい話題を持ち出した。

 しかし、それが救世主のように感じられたのはほんの一瞬であった。

 「もうひとりのミサトさん? いないなら、シンジ君、恋人をひっぱりこんでたりして」

 「!」

 思わずあげてしまうところだった声を、アスカは必死でこらえる。マヤを睨んでしまいそうになるが、どうにかがまんできた。忠告、むしろ警告をしてくれたのに恨みがましく思うのでは道理があわない。

 マヤとしては冗談のつもりだと思うが、シンジには前科があるだけにリアルすぎるのだと思った。

 『今日、綾波さんが来ていないってなんでいいきれるの?』

 なぜこんなに簡単な予想ができなかったのか。

 ミサトの業務シフト、今日の夜勤はわかっていたのである。

 躬らの迂闊さを呪いながら、アスカは前を隠すのも忘れて立ち上がった。

 同性でも見惚れてしまうような、まさに日本人ばなれしたスタイル、ひきしまった肢体が夏の夜気にさらされる。

 そのさまに、マヤは絶句して顔を両掌で覆った。次に背中を向ける。

 リツコはかすかに眉根をよせ、呆れかえった。

 「ちょっと、はしたないでしょ!」

 と、ゆっくりとアスカから目をそむけた。

 あられもない自分の姿に気づき、ちいさな悲鳴をあげてアスカは慌てて頭まで湯にもぐった。

 盛大にしぶきがあがったので、ふたたびリツコは閉口した。

 刹那、アスカは「急用ができました」と岩風呂から飛び出そうとした。まさに居ても立ってもいられないのだ。

 そのさまにリツコも慌てる。この旅行の幹事なのだから、落ち着いていてもらわなければ困るということであろう。アスカの手を掴んだ。

 アスカがそれを振り切ろうとしたのは一瞬だけだった。さすがに分別がはたらいたのである。学生の時までのように、自分のやりたいようにだけしていればいいというものではない。

 「すみません」

 そう言って、アスカはふたたび顎まで湯につかった。

 

 アスカをとめたとうの本人ではあるのだが、リツコはこの一連の彼女の所作をほほえましく思う。

 『本当に青春なのね』

 まるで恋愛小説か映画のようなアスカの振る舞いは、リツコにしてみれば本当に羨ましくまぶしいものだった。

 むろん、アスカの急用とやらが色恋沙汰であるなどと決めつけられるものではない。

 そんな気がする、というだけのリツコの一方的な思い込みでしかない。現に、伊吹マヤはアスカの挙動にそれをよみとってはいないようである。もっとも、マヤはとくにこういったことに鈍感ではあるのだが。

 アスカの意中は碇シンジだとみうけられるが、その意外さに驚愕はするものの、教師と生徒であるという、いわゆる倫理観で責める気にはなれない。好きになってしまったものは仕様のないことだし、そのことだけを非難してなんになるものではないのだから。

 碇シンジは今年で高校を卒業する。教師になるために大学の教育学部を希望していることまでは識っていた。その大学を卒業するころには、アスカを受け入れるだけの度量ができているだろう。いや、学生のうちに結婚ということだってあるかもしれない。

 もっともシンジの気持ちがどうなのか、ということまではリツコにはわからない。勉強とテストの点数との関係は、がんばりさえすれば報われるというしごく簡単な関係だ。ところが、その他のことがらはそんな方程式のようにはいかない。ことに恋愛となるとはまるでこのフォーマットが通用しなくなるのである。

 恋愛にもなにかしらのロジックがあって、それに則って努力さえすればむくわれるというものなのかもしれない。しかし、二十一世紀の今でもそのロジックは究明されてはいない。ならば、遮二無二にでもやれる時に必死になるべきではないのだろうか。それが、周りの迷惑を顧みないことであっても。

 リツコはそんな思考に至る。そして、過去だけでなく現在もうごけずにいる躬らとアスカを照らし合わせてしまっていた。

 「いいわ、なんとかしておくから行きなさい」

 自分でも驚いてしまうほど、リツコはアスカの背中を押すことにしていた。

 

 自分の愚行をいちどはとめたはずのリツコが刹那にそれを翻したから、アスカは自分の耳を疑った。

 幹事がその仕事を中途で放棄することなど、いい大人のすることではない。それも、その理由がきわめて個人的では見苦しく常識がないと非難されても仕様のないことだ。

 アスカは逆に躊躇してしまった。

 「いいんですか?」

 「よくはないけれど、女なら女のようにしなくてはいけないって言うんでしょ?」

 リツコの言いようは、今のアスカにはしごくまっとうだと思える。

 同時に、ひた隠しにしていたシンジへ気持ちに感づかれたようだということもわかった。この状況でリツコのこの言いようでもバレていないと思ってしまうのは、いささかのんきというというものである。

 「応援してくれれば、私はもっとがんばれるんです。わたし、いい女ですからね」

 細かいことを考えるのはやめることにして、アスカは今度はゆっくりと立ち上がった。どうでも、リツコは自分を応援してくれていると感じたからだ。

 「リニアでも、まだ帰れるでしょ」

 そう言ってから、あきれたようにそしてうるさいものを追い払うような仕種をするリツコにアスカは感謝した。

 帰ったからといって、今のアスカになにができるというものではない。そういった意味では職場の同僚に迷惑をかけるだけの所業であって、なんら建設的ではない。でも、こうもしなければ今夜は眠れそうにないのだから仕様がないのである。

 アスカは、もういちど礼を言うと飛び出していった。

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 アスカの背中を見送ったリツコは、次に伊吹マヤに目をやった。

 案の定、マヤは状況を掴みきれないといったおももちだった。ただアスカの切迫した物腰だけは感じとってはいるようで、幹事の中途退座を不快に思ってはいないようである。

 とはいえ事態を把握しきれないから、リツコと目があうとマヤは小首をかしげた。

 「なんです?」

 「女でいつづけることは、ものすごいエネルギーを必要とするってことよ」

 さすがに察したことの総てを話すことは憚られ、リツコはマヤを煙にまいてみせた。

 たとえマヤが潔癖症ではないとしても、教師であるアスカの行動原理がいち生徒の碇シンジだと識れば許さないだろう。しかし、惣流アスカは尊敬にあたいする教師なのだ。賞賛すべき気概をさらし、わざわざ評価をさげることはない。まるで矛盾するようだが、恋路というのはえてして倫理的なものではないということである。道ならぬ恋も、結婚や出産と続いてしまえば賞賛され、祝福されるものだ。刹那的で狭隘な器量しかないのが世間であり、そして身内ですらも無責任なものだということである。

 命みじかし、恋せよ乙女。

 『両親がいきなり日本にやってきて、それに会いにいかなくてはならなくなった、とみんなには説明しておけばいい』

 子供がいたずらをしている時のような心境になっていたリツコは、今の自分の行動に満足していた。

 

 

 脱衣所を出て足早に廊下をいく浴衣姿のアスカは、先方に担当クラスの生徒がいるのをみつけた。

 渚カヲル。

 シンジと同じくらいの背格好で長身ではない。浴衣に着られている感が拭えないほどに痩せぎすである。とはいってもいわゆるイケメンといった部類の容姿であり、女の子うけがいいだろうということは教員のアスカにも容易に想像できた。綾波レイと同じように線の細さを感じさせはするが、社交的な様はまさに対極である。容姿のことからしても同性から敬遠されそうなものだが、いつも彼の周りには男女問わず誰かがいた。クラスの副委員長というのはなるべくしてなった、といったところだ。

 「奇遇、ね」

 いそいではいたのだが、無視するというわけにもいかずにアスカは掌をあげた。

 家族旅行で来ていて、今日は一碧湖で釣りを楽しんできたのだとカヲルは言った。明日は、伊豆シャボテン公園や大室山に行くのだそうだ。

 「シンジ君は、いっしょじゃないんですね」

 副委員長らしく“適切な報告”をした後、カヲルはシンジのことをうかがってきた。

 彼のどういった思惑がここでシンジの名前をださせたのかつかみあぐねたアスカは、訊きかえすのもへんだろうと感じて、聞こえていたような聞こえていなかったような返事をした。副委員長ではあるが、扱いにくい生徒だというのがアスカの認識なのである。

 「三年生の担任で旅行なのよ。お風呂、今なら加持先生たちもいるわよ」

 隠す必要はないが積極的な公表も避ける、というのがシンジと同居をする条件なのだ。

 「惣流先生の横になら、いつもシンジ君がいるような気がしたんですけど」

 アスカの言葉を受け流しつつカヲルは溜め息をつくように残念がった。いっしょの旅館なら、カードゲームでもしようと思ったのだそれが必然であるという。

 同居の事を察っていて、脅されているのではないかという推測もできた。

 しかし、世間を得心させられる弁明は用意できてはいる。お互いの両親の関係、立場や状況、そしてミサトを含めて三人で暮らしているというのは非常に有利にはたらくはずである。

 聡明なカヲルが、それに気づいていないなどということはないだろう。

 そうはいってもアスカは言葉を失いかける。さぐるように言葉を選んだ。

 「なにが、碇君なの?」

 「僕はシンジ君が好きですし、ですから先生のことも好きだってことです。絵になるっていうのは、こういうことでしょう」

 指でカメラのフレーミングをするようにしたカヲルは、そこから片目でアスカを覗き込んだ。

 そういうカヲルの目には、指のフレームごしにいったいなにが写っているというのか。

 意味がわからないとは思ったが、アスカはカヲルを言及するつもりはなかった。同居がばれているわけではなさそうだと判断できたからであるし、薮をつつかなくたっていい。なにより早くマンションに帰りたかったからである。

 「じゃあ、先生、急ぐから」

 カヲルの方をポンとたたくと、アスカはさきを急いだ。

 

 

 肉欲を知らない動物はいない。

 そして、それを純化するのは人間だけである。

 だから、シンジは躬らを嗤いもする。

 いかに美辞麗句で飾ろうとも、こうして綾波レイに会ったのは保護者の目を盗んでのことである。そして、それは性フェロモンに導かれたにすぎないのではないかと思えば、自嘲もするのである。

 綾波を好きなんだと思う。

 恋なのだと思う。

 それも、しょせんは性欲の為の布石にすぎない。自分がそんなふうに考えてしまえることも嫌だった。

 でも、

 自分の両親はどうだったのか。

 公園で昨日みかけた恋人たちはどうなのか。

 こうして会うことが生殖活動の理由づけであると、この気持ちは肌の接触が生み出した勘違いにすぎないとしても、それによって自分がここにいるのならそれでいいじゃないかと思いたいのだ。

 自分は潔癖症ではないはずだ、とシンジは唇を噛む。

 綾波が自分のことをどう思ってくれているのか、シンジにはわかりはしない。でもこんなことを考えることじたい、彼女に対して失礼なのではないかと思えて、これいじょうこのことについて考えるのをシンジはやめることにした。

 

 レイトショーの映画館は思いのほか混んでいなくて、スクリーンの前にはシンジとレイ、他にぱらぱらといるていどだった。

 こんな時にまで学校指定のブレザーを着てくるレイに面喰らうも、シンジは彼女が付き合ってくれたことが嬉しかった。

 午後十一時に終了などという遅い時間の映画に誘ったのは、べつに疚しい気持ちがあったわけではなくてデートに誘う口実をひねり出すのにまごついたからだ。前にレイがこの映画の原作を読んでいたのをシンジは覚えていたのである。

 映画館の暗闇のなか、スクリーンの明滅に照らし出されるレイの横顔はシンジが見惚れるのに充分な美しさであった。

 ちいさな唇。

 高すぎない鼻。

 このまま独り占めできてしまえればどんなにいいだろうとシンジは思う。

 スクリーンを観つづけていられるほど冷静ではいられない。

 やっぱり自分は綾波に恋をしているのだと、シンジは再確認していた。

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 遅い時間だから家まで送ろうとするシンジを、レイは小さく遠慮していた。

 家までたいして遠くないからひとりで帰られるというのである。それでも危険だからといちどはくいさがったが、二度目に断られた時にはシンジも引き下がった。しつこいのも、嫌われるかもしれないと思えたからである。

 ほんとうなら、二十四時間営業のファミリーレストランにでもはいりたい。コーヒーでも飲みながら映画のことでも話したいとも考えていたが、あまり遅いのでは綾波の両親が心配する。そうなると、両親から彼女にどのような圧力がかけられるのかが心配にもなってやめた。

 レイの気持ちもわからないままに自分をロミオに見立てるのは、いささかあつかましいとシンジは苦笑いをかくす。それでも、シェイクスピアの悲劇のようになるのはごめんだと思うのだ。

 

 たまには違う服の綾波も見てみたい、と言うのは彼女に対して失礼なのかどうかとシンジが思いをめぐらせているうちに、レイはにべもなく背を向ける。

 「さよなら」

 その挨拶は、相変わらず呟くようだった。

 突き放すような感じですらあった。

 瞬間に湧き上がってきた喪失感に、シンジはレイを後ろから抱きしめたくなる。それを必死でこらえ、ただ「うん」とだけシンジは反した。

 お尻のポケットのマナーモードにした携帯電話がなんども鳴ってることに、シンジは気付かなかった。

 

 

 伊東温泉の宿から慌ててリニアで帰ってきたのはいいが、アスカを出迎えたのは誰もいないマンションだった。動揺がアスカをさいなむ。鍵は持っているのだから中に入ればいいのだが、それができずにドアの前でシンジを待たずにはいられなかったのも、ただアスカの焦燥がさせただけである。今日はもう帰ってこないかもしれないのに、だ。

 今ごろ綾波レイとどこかでデートをしているのだろう、というのはアスカのなかで決定事項のようになってしまっていた。

 そうでなくても心配だ。こんな時間まで帰ってこないことなど、社会人だってそう毎日のことではない。高校生にあってはならないことだ。と、アスカの保護者のぶぶんも心拍数をはやめてしまう。

 

 携帯電話をなんどか喚んではみた。コールはしているのだが、出てはくれない。

 ミサトには行き場所を言って出かけているのではないかと、彼女の電話を喚んではみたがこちらもなしのつぶてだった。

 地面に携帯電話をたたきつけたい気持ちになるも、逆にかかってくるのではないかと思い至ればそれもできなくなってしまう。

 『なんで、こんなに苦しいんだろう?』

 人を好きになるというのは、もっと楽しいことではなかったか。ずっとずっとそうだと信じていたし、これまでの恋はそうだったと思い出す。なんで、シンジのときだけこうなってしまったのか。

 アスカは、親指の爪を噛んだ。

 

 

 それがいいところなのかどうかはべつとして、恋をするというのは足音だけであの人だと気づけることなのだとアスカは識った。

 俯いていて視界に入っていないはずのシンジを、アスカは感じることができて面をあげる。

 

 二人の視線が合い、同時に「お帰りなさい」と言っていた。

 

 シンジは、なんで伊東から帰ってきているのか訊こうとした。しかしアスカはまるでそのことを斟酌せず、つんけんと言い放ってきた。

 「ケータイ」

 「……あ、」

 はっとなったシンジは、尻のポケットから携帯電話を取り出し、面喰らう。分刻みの着信遍歴が二十五件、アスカの携帯電話から矢のようにはいってきていた。

 決められてこそいないのだが、まさに門限を破ったことを両親に咎められる娘の心境をシンジは理解した。保護者のいない状況で好きに遊びまわるのは甘美ではあるが、ゆえに罪悪感は比例する。鞘当てを嫌忌すらするシンジにしてみれば、罪悪感いじょうに失敗したという心裡が支配的だった。

 映画館をでてすぐにマナーモードを解除すれば、すこしは状況がよかったかもしれない。そう思うと悔やまれる。レイとのひと時を邪魔されたと思えば、それがアスカだとわかればなおさら腹も立っただろうが、こんな事態にまではならないように取り繕うこともできただろう。

 アスカが伊東から帰ってくると予想できると思えるほうがおかしいが、どうあれ、叱られてしかるべき状況である。

 シンジは覚悟を決めた。

 

 門限を決めていたわけではなかった。

 むろん、校則でそれがあるわけでもない。

 しかし、未成年の深夜徘徊で補導されていてもおかしくなかった状況は、シンジを追及する理由としては充分だった。

 そんな自分とて、他聞に漏れず高校生の時には夜遊びなどはちょくちょくやってはいたのだが、それを棚にあげられるのが保護者というものであるし、この場合は嫉妬である。

 そして火のような叱責の末、つい本音が飛び出した。

 「どうせ、綾波さんといっしょだったんでしょ」

 その無思慮に口をついて発た言葉は、シンジを挑発しているのとかわらなかった。つぎに口をおさえていたが、もう遅い。冷静になってさえいればシンジを刺激することくらい気づけていたはずで、その反応を待つまでもなくアスカは悔恨にさいなまれた。

 綾波レイといたこと、そんなことで叱られることを理不尽に感じないほうがおかしいのだ。

 「綾波は関係ないだろ!」

 シンジの口調が尖った。

 上下関係を忖度しないさまは新年度いらいのことであり、それだけシンジが本気で怒っているのだとアスカにもわかった。

 綾波レイに対して真剣だということのあらわれなのだろう。

 そんな絶望的な思惟が脳裡をかすめた。

 遅かれ早かれ事実を突きつけられるのだから、伊東からとんで帰ってきたことを後悔はすまい。

 どだい無理があったのだ。五つとはいえ二十歳前の五つ差は大きい。三十路をすぎてからならばそうでもないだろう。それでも、まさにその時までにシンジを他の女に奪われないなどという保証はないのだ。恋のチャンスは、熟れている時にもがなければならない果物のようなものだ。いちど地に落ちたら二度とチャンスはないだろう。

 そして、《ウェスターマーク効果》である。

 『近すぎたのね』

 心の底から悲しい時には涙も出ない、という言葉を聞いたことがある。

 本当だったのだなと妙に冷静にもなっていたが、アスカは「つぎからはこんなことは無いようにね」と口の先だけで教師らしく最後の注意をした。

 喉から声を出したら、やっぱり泣いてしまいそうだったからである。

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 伊東から帰ってきてからのアスカのことを、ミサトはとても直視できなかった。

 季節柄よろしく、まるでセミの抜け殻のようになってしまっていて覇気のようなものがまるで感じられなかった。とくに、シンジが帰ってきている時のアスカは目も当てられない。

 もともと強がりのきらいがあるアスカだから、これくらいのほうがちょうどいいと無理矢理に思わないでもない。だが、内側にある苦痛を他人に悟られるほどにアスカは迂闊ではないと識っているだけに、わかってしまえるミサトにはつらいのである。

 アスカと長い付き合いのある人間であれば彼女の胸中を斟酌できると意識できるから、今のシンジの態度に半ばは得心ができない。そこからの苛立ちもある。ただ、ここでアスカの身方をしてしまうのは、自分が同じ女だからというだけであって他のよりどころがないとわかるから、一方的にシンジを追及するのもフェアではないという理性もはたらいていた。

 

 明日から新学期である。

 新学期になればすこしはこの状況が緩和されるかと待ちつづけはしたが、とうとう我慢しきれずにミサトは絶叫してしまった。

 無言の夕食がこうも続くことは、健康的ではない。なんでもおいしく食べることのできるはずの自分の舌が、よもやまずさを感じるようになるとは思いもよらなかった。

 「あんたたち、そこになおんなさい」

 食事を終えて個室に引き上げようとするシンジの首根っこをつかまえたミサトは、テーブルのわき、絨毯の上に座らせた。食事中だったアスカにもおなじようにさせた。

 「やりたいことがあるんだよ」

 新学期に向けて用意があるとシンジがたしょうの抵抗をしたが、にらみつけて黙らせ、自分はその前で腕を組み仁王立ちになる。

 「どうしてこういう事になっているのかわかっているなら、張本人がどうにかしようっていうのはないわけ」

 仔細はともかく、二人のあいだになにかしらの悶着があったのだろうということは明らかである。すべてのことはなるようにしかならず、努力の結果でそうなったのならば、反省点はあってもそれを受け容れるしかない。喧嘩こそそういうものだ。それに対してすなおにならないと、このように周りの人間を巻き込んでしまうのだ。

 迷惑である。

 「ワケわかんないよ。僕がなにをしたのさ」

 とぼけているのか、シンジは立ち上がろうとする。あきらかに逃げの体制であり、ミサトはその額に掌を当ててもういちど抑えつけた。いつもなら、こういったときにアスカのほうこそが反抗的なのだが、そうではないことがすこし気になった。

 「どうにもならないなら、アスカには出ていってもらうことになるわね」

 こうは言ったが、腹立ちの延長上のもので本心ではない。

 未成年のシンジを放り出すと言ったところで信憑性にかけてしまい脅し文句にはならないから、アスカの方を名指しただけだった。

 が、意外な返事がそれこそすなおにアスカの口をついて発た。

 「わかったわ。明日には、家に帰るから」

 当然、面喰ってしまったミサトは言葉を詰まらせてしまう。

 明朝には引っ越し業者を手配するというのをミサトが引き止める間はなかった。

 アスカが立ち上がって個室に引き上げていくのを抑えつけることもできず、ミサトは呆然としてしまっていた。

 よもやこうなるとは思わなかった。シンジとのことがあればこそ、アスカが承諾するはずがないというのは完全な読み間違いだったのである。後悔先に立たずとは言うが、ここにきてシンジとの間にあったことの重要度がずいぶんと高いことがわかって自分の軽率さを呪った。

 シンジにしてみても、すんなり出ていくと言ったのには驚きを隠せなかったようだ。なにかがあってギスギスしているとはいえ、憎みあっているわけではないのだからシンジも自分がアスカを追い出してしまったような気持ちになっているのかもしれない。

 故に、これでシンジがアスカを止める行動にでることで、二人のあいだが修復されることをミサトは期待した。

 しかし次の日になるまで待っても、けっきょくシンジがアスカを止めることはなかった。

 

 

 新学期初登校の足取りは思いのほか軽いのではないか、とシンジは驚いていた。

 シンジの高校生活最後の夏休みは、これといって大きなイベントがあったわけではない。

 こう言ってしまうとずいぶんと後ろむきな印象はあるが、大きなイベントがなかっただけで、充実していたと言うべきだろう。

 大学受験の追い込みの前段階として充分に勉強はしたつもりだ。

 アルバイトで小金を稼げたから携帯音楽プレイヤーの修理もできたし、携帯電話の使用量半年分の振り込みもできた。

 綾波ともなんどか会って食事やウィンドウショッピングが楽しめた。もちろん図書館も。

 そして夕べ、アスカとの同居が終わった。

 

 あの場で、アスカが出て行くと言うとはシンジも思わなかった。いつものアスカならミサトの理不尽に噛みついているはずだから、シンジですら肩透かしを喰らった気分だ。

 驚いた一瞬の表情をアスカに見られてはいないと思うが、声をあげてしまいそうになるところをどうにかこらえた瞬間でもあった。

 『今晩いなけりゃ、あれっきりだったんだよね』

 今朝、食事後シンジはニュース番組を三十分ほど観てからマンションを出たが、アスカは台所仕事を手早く済ませてさっさと出かけてしまった。今晩アスカが帰ってこないということは、エプロン姿のアスカを見るのはさっきので最後だったのだ。明日からのアスカは、スーツ姿のみということである。

 

 今日は始業式だけだから、生徒は正午には下校できる。

 教職員は明日からのことで仕事があるのだろう。とはいえ、昼から引っ越し業者がマンションに来るのだから、いったん抜け出すというかたちででもアスカはもう一度マンションに来なければなるまい。

 自分としては居合わせても気まずいということはないつもりだが、アスカにとってはどうなんだろうかとシンジは考えていた。今朝の朝食時には相変わらずミサトは居心地が悪そうだった。

 『知るもんか』

 無思慮にアスカを挑発したのはミサトであって、意外な顛末とはいえ撤回しなかったのもミサトである。

 それに、ミサトが刹那的感情で出て行けといったのは明白なわけで、まにうけたのはアスカなのだ。

 むしろ自分は騒動に巻き込まれた被害者という位置付けであって、気に負うべきことではないとシンジは躬らに確認していた。

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 朝のホームルーム前。

 教室後方の席のシンジは、前方窓際の席の綾波レイの背中を盗み見るように頬杖をついていた。

 そこに、渚カヲルが声をかけてくる。

 「やあ、夏休みは堪能できたかい。シンジ君」

 シンジの正面でかがむと、同じように頬杖をついた。相変わらず、涼しげな微笑みである。

 顔が近づきすぎたのでシンジはすこし慌てたが、悪い気はしなかった。もう少し綾波のことを見ていたいとも思いはしたが、あとは下校する時にでも声をかけようと思う。

 

 渚カヲルは、シンジにもつかみにくいところのある少年である。

 今年になって初めて出会った転校生の彼は、出し抜けに「君みたいな子が好きなんだよ」とシンジに言ったのである。それも教室、他にたくさんのクラスメイトがいる中で、である。

 教室の半分、とくに女生徒たちはいっせいに言葉を失っていた。カヲルのそのアドーニスのような雰囲気に惹きつけられ、彼の言葉に耳をそばだてていたからである。

 面と向かい、公衆の面前で、それも同性に好きだと言うその精神構造や嗜好を疑いはしたが、洒落っ気なのだろうとすぐに想像したからシンジもカヲルが好きになった。

 

 「受験を控えてるのに堪能しただなんて。アルバイトと勉強だけに費やされましたよ」

 芝居がかって、夏休みの悲哀をシンジは訴えた。

 カヲルとは二度の出校日いがいにも二回ほど会って簡単な近況報告らしきことをやっている。これといって新たに言うようなことはシンジにはない、というのが本当のところである。四月から気になりだしていた綾波レイと、なんどか会ったこといがいは。

 「僕はねぇ、伊東に家族旅行したんだよ」

 伊東という地名にシンジは静かに反応してしまう。

 一碧湖、シャボテン公園に大室山となかなかの強行軍だったがなかなか楽しかったというカヲルの言葉を耳にしながら、シンジには予定を変更して帰ってきたアスカが玄関口で待っていたことが思い返されていた。

 「温泉には行ったの?」

 「そりゃあ、伊東だからねぇ。そういえば、先生たちと旅館が偶然いっしょだったんだよ」

 カヲルは、三年生の担任らと男湯で背中を流し合ったことを話してくれた。教師と生徒の関係なら、だいたい近づこうとしないのが普通の生徒というものなのだが、カヲルのこういった社交的なところがシンジには羨ましく関心もした。

 「僕なら知らない顔をしちゃうけど」

 「袖触れあうもたしょうの縁。それも知り合いなら、きっと大きな縁なんだよ。

 惣流先生も来てたんだから、君も来ればよかったのに?」

 ドキリとするようなことをさらりとカヲル言われ、シンジはどうやってこの動揺を隠そうかと考えた。同居して家族のようにしているのだから、家族旅行にすればよかったのだ、というふうに聞こえないこともなかったからである。

 本日づけでアスカとの同居は終わりだ。終わりであるがゆえに今さらそのことを公表する必要もない。だからといって隠すこともないのだが、カヲルのどういった洞察がこういうことを言わせるのかシンジにはまるで想像ができなかった。

 とはいえ同居のことがばれているはずもないのだから、シンジはカヲルの言葉を普通に笑いとばす。

 「ふたつの偶然は重ならないよ」

 同じ日に、教師とカヲル、シンジの三つのパーティーの宿泊先が重なることなどありえはしない。それが普通の認識である。

 「まさか。……必然だよ」

 カヲルはそう言って人差し指をチッチッチと目の前で振り、口端をもちあげてみせた。

 

 相変わらずカヲルの言うことは突飛だと思い、どういう意味なのかシンジが訊こうと思った間合いで担任と副担任のアスカが教室に入ってきた。

 カヲルは踵を反して席に戻っていってしまったので、シンジは置き去りにされたような気分になる。

 口の内でかるく「なんなんだ?」と悪態をつきつつ、シンジはアスカの物腰が教室よりもはるか遠くを見ているように感じられて、気になった。

 刹那、クラス委員による号令がかかる。

 つぎに担任が今日の日程を説明しはじめたのを片耳に入れながら、シンジはカヲルの言ったことの意味を考えてはじめていた。

 先生たちと宿がいっしょになったことを偶然だとカヲルは言ったのだ。シンジまでもがそこに居合わせた途端、それが必然になるというのでは道理が合わないはずだ。そして、必然というのは図書館で綾波と出会えたような、そういうことをさすのだと思う。

 シンジは、窓際の綾波レイの背中をもういちど見た。

 

 

 始業式は終わった。

 下校時、シンジは図書館にでも寄って帰ろうとレイに声をかけたが、用事があるからと断られてしまった。さらに重なるもので、カヲルにも用事があって付き合えないと言われてしまい、シンジは困ってしまう。

 このまままっすぐマンションに帰ることに抵抗があったから、シンジとしてはどこかで時間を潰したかった。引っ越しをするアスカと鉢合わせになってしまうことは明白で、どう言って送り出したものか、シンジにはわからなかったのである。

 アスカが出て行くことになってしまった一因が自分にあるとわかるからこうなってしまう。

 だが、追い出すようなことになってしまったことも、その前に喧嘩のようなことになってしまったことについてもシンジは謝る気になどなれなかった。

 そもそも深夜徘徊のことは注意されても、綾波レイといっしょにいたことをなんで非難されなくてはならないのか、納得がいかないのである。担任だ保護者なのだといっても、交友相手を吟味する権利はない。まして、クラスメイトを好きになっていけないというなら、総ての学校を男子校、女子高というふうに分けるように運動しはじめることをさきにするべきだ。

 ここにきてアスカのことを考えてしまっている自分に苦笑するも、シンジはアミューズメントセンターで時間を潰すことにきめた。

 

 

 年上の女としてずるいことをやってしまったというのはわかっているし、その実まだやりつづけようとしている自分にかすかな嫌悪感を抱きつつ、アスカは嘆息した。

 たしかに自分のほうが年上だ。先におばあちゃんになってしまう。そういう意味で綾波レイとわたりあえる自信はない。とはいえ、卑屈になってもなかった。

 あきらめかけてはいたが、まだやりようはあるのではないかとアスカは考えていた。

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 『まぁ、ひき止めに来てくれるなんて期待するのはお姫様症候群なのかもねぇ』

 このマンションから出て行くとなれば、シンジも狼狽して行動をおこしてくれるのではないかというのがありえるのではないか。今シンジが引き止めてくれればそれがいちばんいいのだが、そこまでは期待しない。

 ただ、接点が学校だけになり、それもほぼ一方的な関係になってしまえば、一日いちにちとシンジの中で自分のしめるウェイトが増すのではないかというのがアスカの見解であり希望である。まがいなりにもこれまでは押しつづけてきたわけだから、ここで一気に引いてみるのも駆け引きとしては有効なのではないかということである。

 だから昼から引き上げると広言しつつも、実際にはこうして夕方にしたのもそういうことなのだ。

 シンジは自分が引き上げるまでは帰ってはこないだろうというのは、想像に容易い。帰ってきたところと、自分が出て行くタイミングが一致すれば、印象的な演出になる。

 どのみち、始業式後の残務をこなせば、この時間がいちばん都合がいいのである。

 二十歳をまわった女がやるにしては、ずいぶん稚拙なのかもしれないと思わないでもないが、相手が二十歳前ならばこれもありだろうとアスカは手前勝手な納得もする。

 

 しかし、このアスカの策は想定外の事件によってもろく崩れ去ってしまった。

 シンジが夕方にすら帰ってこなかったのである。

 アスカの携帯電話が鳴る。

 それは学校からで、シンジが警察に保護されているという担任からの連絡だった。シンジがアミューズメントセンターで喧嘩をしたというのである。

 

 

 いい男というのは女をふりまわすものだ、とは聞いたことがあるが、自分とシンジの関係をあらわすのにこれほど適切な言葉はないとアスカは思った。

 小さな時には身の回りの世話をさせられ、

 手作りのにがい卵焼きを我慢して食べてくれて、

 友達の旅行をキャンセルしていっしょに家族旅行をし、

 クラスの副担任になり、

 同居し、

 そして、その同居をやめようとしている。

 総てがシンジに起因することだ。

 警察に向かうタクシーの中で、アスカは唇をかんだ。

 

 この件で、シンジが綾波レイといっしょだったことがアスカの心をかき乱してもいた。

 警察でシンジの顔を見たら、自分はどんな反応をしてしまうだろう。

 それが恐かったから、レイが運ばれた病院に自分が行き、シンジのいる警察には担任の方で行ってもらおうと言いかけたほどだ。とはいえ、警察と病院とのそれぞれの所在地、自分がシンジの実質の保護者でもあるというところも考慮したから、アスカが警察に向かっているのであった。

 

 アスカが警察の少年課に赴いたときには、取り調べはすでに終わっていた。

 部屋の出入り口に近いところにあるテーブルを挟んで坐っていた、担当官とシンジが血相を変えたアスカを迎える。

 夕方で職員の帰宅がはじまっているとはいえ、残務処理をする人たちで部屋の中は騒がしい。余計な仕事が舞い込んでさぞ担当官は機嫌が悪いのではないかとアスカは想像したが、挨拶をしてきたようすではそうでもないと知り、すこし気持ちがらくになった。

 なにがあったのかすぐにでもシンジを問い質したかったが、状況的に非難するようにしかならないと思い、アスカは挨拶を反しながらシンジの横に坐り、担当官に状況をたずねた。

 事件が起こったのは学校からいちばん近いアミューズメントセンター前で、綾波レイが他校の生徒に絡まれているのをシンジがとりなしに入り、けっきょく喧嘩になってしまったのだという。

 闖入者に殺気だった生徒のひとりがレイを突き飛ばす。

 それを目の当たりにしたシンジが逆上した、ということだ。

 綾波レイが病院に行っているのは、突き飛ばされ転倒するさいの掌のつきかたが悪かった為に骨折し、そのうえ頭をうったからである。

 シンジやレイが被害者であるというのはいくらかの目撃証言からもあきらからしく、お咎めらしいお咎めもなかった。

 

 最後に担当官から気をつけなさいとは言われたが、この場合はシンジにではなくレイにたいして言うことだろうとアスカは思う。絡まれて困っている友達……を見捨てるというわけにはいかないではないか。すこしかんにさわったが、アスカは抗弁するのはやめておいた。状況を引っかき回したところで、なにひとつ好転するわけではない。

 そして、むしろレイに対する理不尽な怒りこそこみあげてくるのだが、それにしたって彼女を責めるのではシンジが可哀想だ。

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 二人が警察署を出たタイミングでアスカの携帯電話が鳴る。

 病院の担任からだった。

 レイの様子は問題はないとのことだ。ただ、頭をうっているので今夜は病院に泊まるということだった。

 それをきいたシンジは、安堵したようだった。

 「お見舞いに行く?」

 「明日、学校に来られなかったらでいい……です。あわせる顔がありませんし」

 通例に倣ってアスカはシンジに訊いたのだが、微妙な返事をされてしまって苛ぐ気持ちが増す。ただ行かないというのであればそれでいのだが、あわせる顔がないという言葉をどう解釈すればいいのかアスカは思考をめぐらす。こういった事件は、男女の信頼や絆を強めてしまうものだからだ。

 胸をかきむしりたい衝動をアスカは必死で抑えた。

 

 「じゃあ、私、こっちだから。明日、ちゃんと来なさいよ」

 この場はいろいろを考えるのをやめ、アスカはシンジの肩をぽんと叩いた。

 警察署から歩いてきて、この交差点がアスカの実家と今まで住んでいたマンションの岐点なのである。

 引っ越し業者に実家の鍵を渡して荷物だけは運び込んでもらっていた。鍵は予備をもっているし、あした受け取りにいけばいい。

 シンジがすこし狼狽しているようにも見えたが、これは自意識が過剰というものだろう。昨日までと今からが違えば、誰だって戸惑うものである。

 シンジは無言でこくりと肯くと、掌をあげた。

 アスカも同じようにして、すぐに背中を向けた。

 泣きだしてしまいそうだったから、いや、泣いてしまっていたからである。

 これではまるで子供みたいだ、とアスカは何度もなんども袖で涙を拭いた。

 

 

 翌朝、いちばんに来ているでだろう綾波レイをめあてに、いつもより早くシンジは学校に来た。

 予想どおり、レイは窓際の席について本を読んでいた。

 シンジに気付いたレイは、小さく肯くとあらためて立ちあがった。そして、あいかわらずの細い声で昨日の騒動のことを謝った。

 「昨日は、御免ね」

 「僕はいいけど、たいへんなことになったね」

 レイは、頭に包帯を巻いて左腕はギプスをつけて肩から吊っていた。

 腕の骨、手首に近いところに罅がはいってしまったということだ。頭の包帯はすこし大袈裟に見えるが、切ってしまっただけで他には問題は無いとも言った。

 今朝の段階で失敗するとこのさき綾波と気まずくなってしまう、ということを懸念していたシンジは、まずまずの雰囲気に手応えのようなものを感じて満足した。

 きのう図書館に行こうという自分の誘いをことわった理由、その用事というのが気にはなった。ことわられたあげくに、偶然にでも居合わせればなおさらに気になるものだ。とはいえ、言及はしないでおこうと思う。立ち入ったことともなれば、嫌われてしまうのを避けたいと考えたのだ。

 

 今日の放課後こそどこかに誘おうとシンジは思ったが、昨日の今日というのもなんだか憚られた。

 

説明
エヴァンゲリオンのキャラクターを使った二次創作。
本編のスピンオフではなく、いわゆるパラレルワールドものです。
ある日、高校教師のアスカは教え子で幼馴染みのシンジに恋をしていることに気付いてしまった。

hikaru名義で別のサイトにアップしていただいたものを加筆修正しました。
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