『Westermarck effect』-my little Darling5- 後編
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 新学期が始まって、二週間。

 アスカのいない生活にもようやく馴染んできたなと、シンジは自分でつくった弁当を屋上で食べながら実感していた。

 食事当番が隔週から毎日になり、

 なしくずしに洗濯もやることになり、

 食材の買い出しからなにから自分がやるようになってしまっていた。

 こうまでになってしまった葛城ミサトのぐうたらぶりもどうかと思うが、抗議もせず状況に流される自分も同じだとシンジは苦笑する。

 

 そのシンジの表情をみとめた渚カヲルが、思い出し笑いをするのは心が疲れているきざしだよと言ったあと、

 「さいきんのシンジ君は、元気がないよね」

 と訊くまでもないとばかりに断言してきた。

 実感はないのだが、勉強いがいに家事のことですこしは疲れて見えるのかもしれないと無意識に頬から顎を撫でていた。

 「誰だって、元気なこととそうでないこととあるじゃないか。昼からの体育が持久走だっていうんなら、なえちゃうし」

 今日の放課後は綾波といっしょに映画を観にいく約束を取り付けているんだから、元気にもなろうというモノだ。

 「うん。シンジ君の横にはいつもアスカ先生がいて、そういうもんだって決めつけてたけど、そうでもなかったみたいだね」

 指でつくったファインダーでシンジを覗き見て、カヲルはにやりと笑った。

 同居していたことをカヲル君に気付かれたのかと思ったが、いまさらのことなのでシンジとしてはたいして焦ってはいない、つもりだった。にもかかわらず、この動悸はいったいなんだと思う。

 『惣流先生じゃなくって、アスカ先生って?』

 つい昨日まで、カヲルはアスカのことを自分と同じように惣流先生とよんでいたはずだ。

 シンジの動悸がさらに激しくなり、次に言いたいことが口をついて発ない。

 「カヲル君……」

 と、ようやく絞り出せた言葉も、カヲルによって遮られてしまった。

 「今日の放課後、僕、アスカ先生に好きだって言うことに決めたよ」

 まさに絶句し、シンジはそれきり棒を呑みこんだような表情をした。

 カヲルが人に対して「好き」というだけのことならば珍しいことではない。クラスじゅうの人間で、言われていない者の方がきっと少ないだろう。今となっては、リップサービスという側面よりも嫌いではないという意味合いで受け取っている人の方が多いし、シンジもそう受け止めていた。

 しかし今、カヲルが宣言した好きと言うことはその領域がまるで違うことだとシンジにもわかった。

 「でも、」

 「教師と生徒だなんておかしい? それとも歳の差かい?」

 またしても、シンジはカヲルに言葉を遮られた。

 お互いの社会的配置、年齢の差など実に些細なことだ。高校を卒業してしまえば生徒は、いち社会人になる。二十歳になれば、まさに責任をとらなくてはならなくなる。そして、五つくらい歳のはなれたカップルなど、この世にどれだけいることか。

 カヲルが理不尽な主張をしてるわけではないということは、シンジにもわかっていた。

 でも違うのだ。

 違うのだが、綾波レイを好きな自分がカヲルを止める権利などもっていない、とシンジは奥歯を噛みしめた。

 「カヲル君がそうしたいなら、そうしなよ」

 呑みこんでいる棒をはき出せないまま、シンジは俯いた。

 「アスカ先生が見えなくなったことと、君に元気がなくなったことは誰にでも簡単に因果づけることはできるんだよ。誤解もあるだろうけど。でも、気にはなるからね」

 シンジのことを親友だと思っている、それいじょうにシンジの気持ちがアスカ先生にむいていたんじゃないかって洞察ができたから、事前に伝えたのだとカヲルは続けた。まさにカヲルの誠意に違いなかった。

 その人の好きな存在が、その横にいるように見える。そんな超能力のようなものがカヲルにあるのか、シンジにはにわかに信じられない。それでも、どのみちカヲルを止める理由になどなりはしないし、その気もないはずだと思った。

 「僕には。わ、わからないよ」

 シンジはそう言ったきり、顔を上げられなかった。

 

 

 放課後の職員室に、カヲルが来たことをアスカは珍しいと思った。

 学級委員の仕事をさぼっているということではないのだが、教師とのパイプ役は委員長まかせにしているようで副委員長の彼がここに来ることなど今までにはなかったのである。

 ただ、クラス委員にたのんでいた仕事もなければ中間考査関係の雑務も片付いている現状で、なんの用事があってカヲルが自分を訪ねてきたのかアスカには想像できなかった。

 「今日、先生たち少ないんですね」

 「みんなで飲みに行くんだって。新学期の景気づけに」

 アスカは中間テストの作成を理由に、その飲み会を辞退していた。

 この飲み会じたい、近ごろ沈鬱な表情の多いアスカのために学年主任が設定してくれたというのがアスカには見え隠れしているだけに、塞ぎ込んでいて乗り気になれなかったという本音が言えるわけもなかった。

 お酒でたしょうでも憂さのはらせる大人を羨ましいと言ってから、カヲルはアスカに耳打ちした。

 「ここでは言いにくいことがあるんです。すぐでなくてもいいですから、廊下ででも、教室ででも」

 カヲルの言いようが切迫したものに感じられ、アスカは表情をすこし曇らせた。直感的には、担任には言いにくいクラス内の問題なのだろうと察する。担任よりも、歳の近い自分に最初に相談したいというのはわかるはなしだ。

 『いじめでもあるのかしら』

 うちのクラスにかぎって、などと言えばいささか呑気ではあるが、例外はあっても教師が気付かないからいじめとして成立するのもたしかなことだ。それもあるかもしれないと、アスカは覚悟を決めた。

 「これ整理しちゃうから、三十分後に教室でいいかしら?」

 

 

 ふたりで映画館にむかうその時も、楽しいはずだ。

 綾波レイといっしょに歩いていれば心が躍って幸せな気分になれるはずなのに、そうではないことにシンジは焦燥と苛立ちがないまぜになった気分を抱えていた。心に錠前がかかったようなこの重さが、学校からの距離に比例して重くなっていくことに得心がいかない。

 とっさにシンジは、レイの掌をとってギュと握りしめた。

 レイは、抵抗もせず優しく握りかえしてきた。

 どういうシチュエーションを交えてどういった言い訳を用意してレイと掌をつなごうか、これまでずっとシンジは考えていた。にもかかわらず、今あっさりとできてしまっていた。映画館の暗闇の中で、などという姑息さも吹き飛んでしまって、自身、一種の肩透かしである。

 掌を繋いだことよりも、刹那に足早になったことにこそレイが動揺して不安を感じていることにもシンジは気付いていなかった。

 

 そして、大好きな女優のでている映画も、内容の半ばいじょうは頭にはいってきてはいなかった。

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 翌朝のシンジは、ひどいありさまだった。

 病気でこそなさそうだが、いかにも睡眠不足といった様子だった。

 とくに眠れていないことはなかったはずだ、とシンジ自身は思ってはいた。いつもより早く午後十時には就寝したし、眠れない理由などあるはずがないのだから。

 頭やらなんやらが重いというか熱いというか、ちょっと具合が悪いような気もする。しかし、これで学校を休んでしまったら負けたような気がした。認めてしまったことになるような気がして、絶対に学校に行かなくちゃならないと奮い立とうとした。

 『綾波に会えないじゃないか!』

 朝食の準備こそそれなりにできてはいるが、食パンのスライスがへんに蛇行している見て、ミサトが心配する。

 「中間テストがちかいのに、休めませんよ」

 学校を休むように言ったミサトに、シンジは力無く笑ってみせる。

 たしかに、ちょっとした寝不足なら学校に行くまでにどうにでも持ち直すだろう。シンジ自身もミサトも同じ見解にいたったから、学校には行くことになった。

 

 ミサトにしてみれば、アスカがいるのだし養護にはリツコもいるのだからどうにでもなるだろうと思ったのである。

 

 しかし、そのカラ元気も長くは続かなかった。

 学校には遅刻ぎりぎりで滑り込むも、ホームルーム中に席に着いていることすらできないありさまだった。担任が話をしているさいちゅう、糸の切れた操り人形のようにゆかに崩れ落ちてしまった。

 

 

 次にシンジが目を覚ましたのは、昼休み、カーテンで覆われた保健室のベットだった。

 脇にはレイとカヲルがいて、シンジが起きたのを赤木リツコに伝えた。

 「もう、今日は帰りなさい。夕べは、なにやってたの。早く寝なきゃダメよ」

 カーテンを払いのけて顔を覗かせたリツコは、すこし怒っているようだった。

 「あまりきつく言わなくてもいいじゃないですか。健全な青少年なら、眠れない夜もあるってもんです。不健康にもね」

 冗談めかしたことを言ってリツコの後ろから顔を出したのは、三組担任、物理の加持リョウジだった。

 とは言っても、次の日にここまで影響がでるようでは問題だなと続けて呵々と笑った。

 

 と、休憩時間終了の予鈴がなる。

 「また明日。シンジ君」

 とカヲルが立ちあがる。

 午後の授業がはじまるのだ。

 レイもそれに続くようにした。

 「あまり、心配かけないで! 今夜、電話するからね」

 すこし怒った口調だった。そして珍しく勢いよく掌を振った。

 「ごめん」

 シンジはゆっくりと掌を振って、力無くではあるが笑顔を見せた。

 

 「モテモテじゃないか、シンジ君。いい男の特権だな」

 パイプ椅子を反対にし、背もたれに肘をついて坐った加持が、ふたたび冗談めかして言った。カヲルにレイ、休憩時間ごとに二人も様子を見に来る生徒なんてこれまでずっと見たこともないのだそうだ。

 「朝から昼間まで学校で寝続けてる生徒もね」

 寝るために学校に来たのかと言いながら、リツコはトレーにのった梅粥をさしだす。いっしょにお新香とサラダもあった。寝不足なだけなのはわかっていたから、昼に一度はおこして食べさせるつもりだったのだという。

 「弁当、持ってきてます」

 「購買のよりはマシでしょうけど、消化のいいものにしときなさい。お弁当はミサトの晩ご飯にでもしておけばいいわ」

 遠慮するシンジをリツコは去なす。

 仕事とはいえ迷惑をかけたうえにここで断り続けるのはだだをこねているように感じられたので、シンジはお礼を言ってトレーごと受け取った。

 レトルトだったが、充分おいしかった。

 レトルト食品というと、シンジには同居人のミサトのことが連想される。

 そう言えばさっきのリツコ先生の言い回しを聞くと、どうも知り合いよりも深いあいだがらのようだ。友達のようなかんじだが、どういう関係なのかすこし気になった。訊けば加持先生と三人、大学の同期なのだとわかって世間の狭さと奇遇に驚いていた。

 「どうせ家のことはシンジ君に任せっきりなんでしょ。加持先生と結婚するんだから、ちゃんとしなさいってシンジ君からも言ってやって!」

 リツコが眉をすこしつり上げた。まるでミサトのお母さん、といった口調ある。

 三人が知り合いということもだが、ミサトが加持先生と結婚というはなしは寝耳に水である。

 ちょっと驚いた。

 こういう女性は結婚できない、というフォーマットのど真ん中にいるようなミサトならば、加持先生の前でどんな猫を被っているのだろうと思う。

 「タデ食う虫だよ。俺だって、女から見れば気に入らないところはあるさ。お互いおいおいに、だよ」

 加持がへんな庇い方をした。

 「つけいられるだけって、……まぁ、旦那さんが尻に敷かれてるくらいの方が家庭は円満だなんてはなしもあるけど」

 リツコはため息をつく。ごちそうさま、といったところだろう。

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 それにしても、加持先生とミサトさんが結婚ということならば今のままではいられないはずだとシンジは思いいたる。

 ふたりがいっしょに住むことになるのだから、それがどこであれ邪魔者の自分は出て行った方がいいはずだ。実家に帰るだけのことではあるが、来年の父親の動向によってはひとり暮らしがしばらく続くのかもしれない。父親の転勤を聞いたときから決めていたことではあるから、シンジとしてはいまさらといえばいまさらでもある。

 高校を卒業してまで、ひとり暮らしになることに父親が難色を示すとも思えなかった。自分の生活環境という意味において、ミサトさんの結婚というのはひとり暮らしのタイミングを数ヶ月繰り上げるという意味なのだとシンジは考えていた。

 「式とか旅行は年度末までお預けなんだが、来月の入籍でマンションにめぼしもついてるんだ。シンジ君もいっしょだからな」

 加持の申し出に、シンジはしょうしょう面喰らった。たった今、ひとり暮らしをするために心の整理をつけたところだからである。

 父親が日本勤務になって戻ってくるまではいっしょに住むべきだ、とミサトさんが言ってくれたのだろうか。ミサトさんが言いにくく思っていて結婚そのものを先送りにすることを言い出していたのだと仮定すれば、加持先生の方が言いだしてくれたのかもしれない。

 シンジは心底うれしく思ったが、やはりひとり暮らしをしようと思う。他にてだてが無く宿無しになるのだというのならともかく、なにも新婚さんの邪魔をすることはない。

 「でも、加持先生とミサトさんの赤ちゃんなら、はやく見たいって思いますよ」

 その言葉を聞いて微かに紅潮したリツコと顔を見合わせたあと、加持も照れ隠しにか膝を二回おおげさにたたいた。

 「おりょ。へんに気をつかわれちゃったな。それとも、アスカ先生が実家に戻ったようだが、そっちに転がり込むかい?」

 かろうじてお粥を吹き出しこそしなかったものの、シンジは激しく咳き込んだ。

 ミサトとの関係があれば、シンジがアスカとも同居していたことを知られていて当然である。シンジが狼狽したのは、アスカと同居することを加持から勧められるとは思いもよらなかったからだ。

 「なんで惣流先生なんです」

 リツコまで含み笑いをしているのが、シンジとしてはすこし腹が立った。

 シンジのふくれっ面を見て、加持は咳払いをした。

 「A組の渚カヲルと綾波レイ、倒れてた君の横にずっといたのはアスカ先生もなんだがな」

 シンジが保健室に担ぎ込まれて、いちばんに飛び込んできたのはアスカだった。血相を変え、まさに蒼白だったといってもいいさまだった。休憩時間ごとのカヲルやレイとはタイミングが違ったが、担当授業のなかった時間はずっと横に坐っていたのだという。

 そのアスカの様子に、副担任や幼馴染みであるということいじょうのものを感じとれないほうが鈍感というものであろう。

 もちろん、そこにシンジの気持ちの確認というものはふくまれてはいない。加持やリツコの勘がそうではないかとしているだけのことである。

 「僕だって自惚れることはできます。でも、惣流先生に応えちゃいけないんです」

 アスカとしては隠しているつもりなのかもしれないが、もともとが直情径行だからシンジは彼女の気持ちにおぼろげに気付いてはいた。その気持ちは嬉しくておもわず躍りあがってしまうのだが、冷静にならなくてはいけないとシンジは躬らを必死で戒めているのである。

 その口調にシンジの本心を悟ったらしい加持は、苦笑いしつつ肩をすくめオーバーリアクションをした。教師である自分が突っ走ってしまっているであろう君を説得しているのが本来の姿なのに、とでも言いたいのだろう。

 「アスカ先生の立場を気にしているのか?」

 「そんなんじゃ、ありません」

 わかってもらえないいららぎに、シンジはすこし声を荒げかけてしまった。

 やさしさが人を傷つけるとは映画やドラマではよく観るが、そういったことではない。

 人間というのは、生きていくなかでけがしてはいけない人ができてくるものなのだとシンジは信じている。

 シンジにとってのアスカは、真っ白で強くてやさしくて、まさにその対象だった。

 言わんとすることがつかめかけたような気がしたのか、加持は思案する顔をといて掌をうった。

 「男女相愛にして、肉欲にいたるは自然である。肉交なき恋は事実にあらず……って知っているか?」

 「国木田独歩でしょ。それ、高校教師の言うことじゃないわよ」

 リツコが加持の飛躍と言葉を叱った。

 伝わらないもどかしさにシンジは発狂したくなる。

 掌を繋いだりキスをしたり、セックスをしたりするとアスカがけがれるのだとシンジは言いたいのではない。むしろ健全なそれらは彼女を輝かせこそするとも思っている。

 肝要なのは、そこに至るまでの経緯なのだ。

 「僕の中にあるキタナイもので、アスカをよごしたくないんです」

 ならば綾波レイならよごしてもいいのかというと、そう言っているのではない。人をけがさないカップリングというものが男女間にはあるのだ。記憶の中にある母親にどこか似ている綾波なら、自分と付き合うことになっても汚れはしないとわかるのである。

 加持先生の相手はそれが結婚するミサトさんだったということだ。

 それは他人がわかることではない。躬らが、その異性とのこれまでのことを照らし合わせた時にわかることだと思うのである。

 

 心の営みだけで相手をけがしてしまうと考えているのなら、シンジ君は究極の潔癖症なんだとリツコは思った。肉体関係がけがすというのはよく聞きはするが、そうとまで言えるのはシンジがアスカをひじょうに大切に思っている証拠なのだろう。

 相思相愛で、なんで二人が結ばれないのだろう。外的要因ではなく、内に障害があるのではあまりに不憫、というよりも滑稽と言ったほうがいい。

 「なんで、シンジ君はアスカ先生が汚れるって思うの?」

 心だけでけがされてしまうのなら、これまでに、そして今も自分はどれだけ人をけがしていることかとリツコは失笑したくなる。

 そして、けがさずにすむ相手がいるというその境界線はどこに存在するのか、単純に興味もあった。

 「僕はですね、産まれたときからずっといっしょにいるんです。なにもなくったって、ムラムラすることはあるでしょう」

 「ああ、そういうことね」

 泣きそうになっているシンジのそのたったひとことで、リツコの内にある総ての疑問が氷解した。

 軽いリアクションをしてしまったためか、シンジがすこし気分を害するのはわかった。シンジにしてみればしごく重要なことなのだから、すこし軽率だったかもしれない。

 「なんだ?」

 リツコがひとりで納得しているのが気になったのか、加持が脇をつつく。

 「人間の行動にはなにかしらの動機が必要だっていうのよね。シンジ君?」

 加持の方をむきながらも、リツコはシンジの方に質問を投げつけた。

 大好きなら抱きしめたくなる。その抱きしめることはむしろ肯定こそするが、その大好きに理由がないのではいけないというのだ。

 はなはだ厄介な思想にたどりついてしまったものだとリツコは思う。

 シンジが無言で頷いたのを確認したリツコは、あきれて溜め息も出なかった。

 「よくわからんな。動機のない行動が?」

 加持は加持で、あらぬ方向に勘違いをしてしまっているようだ。動機のない人間の行動などありはしないと思っているのだろう。それがその対象をけがしてしまう、ということなど想像もできないに違いあるまい。

 「好きになることに理由が必要かしら。好きになるために理由を探すことのほうが失礼なんじゃないの?」

 リツコは、鈍感な加持を相手にしないでシンジの説得に乗り出した。

 このままほおっておくことは、大人としてあまりにも無責任だとリツコは思ったのである。

 それほどひどい恋愛症候群なのだ。

 当人だけの被害だけですむのならまだいい。このままでは、シンジ君だけでなくて彼のことを好きになる女性までも不幸にすることになる。

 「理由は探しません。見えたもの、わかるものがあるから……」

 「そうやって、友達まで選りすぐる気なの?」

 シンジの反論をリツコはぴしゃりと畳み込む。

 なににおいてもそういうことはあるはずだ。人間は直感で動くことがあって、それを言及していたら人間は汚いだけの生き物だという結論しかでなくなってしまう。

 「……わかりません」

 シンジは、すこしうなだれた。

 強い口調だったわけではないはずだが、リツコはすこしキツイ言いようをしてしまったかもしれないと思った。とはいえ、自分は言えるだけのことは言えたのだと信じる。私情として収まってほしいカタチがありはするが、恋愛は勉強のように教えることのできるものではないのだ。

 「さ、帰りなさい。体調の悪い時に考えことをしても、後ろ向きになるだけよ」

 リツコは、忠告をした。

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 シンジを戸口まで送り出したリツコの背中を見てたのもしいと思うのと同時に、加持は自分がすこし情けなくなってしまった。

 「リッちゃん、お母さんみたいじゃないか」

 「やめてよ。歯痒くなれば、だれだってああするわよ」

 面倒見のいい人間は、自分の幸せを逃がしやすいということをどこかで聞いたことがあると思いながら、加持はそのことを口にするのをやめた。

 「シンジ君は、なにを悩んでいるってことなんだ?」

 代わり、というわけでもないがさっきからの疑問を訊く。一般的に男が女をけがすと言われるのは、同意のない性交渉、ほかには情欲の対象として見、それを気取られるということくらいしか加持には思いつかない。そのどちらのことを言っているわけでもなさそうだったシンジとリツコの会話にはまったくついていけなかったのである。

 要約するとね、と質してから、

 「性フェロモンにあてられたアスカへのこの気持ちは、本物じゃないんだ!」

 声色を作り、芝居じみた言いまわしをリツコはした。

 その言葉を聞いて、はじめて理解できた加持は笑った。

 シンジの思慮を嘲笑したわけではない。

 それは、若い時ならば性別を問わず大なり小なり誰だって思っていることだ。それを仕方がないと割り切っていたり気付かないふりをしているにすぎない。歳を重ねればなおそういうものだ。

 加持にだってそういう時期はあった。

 つまり、誰にでも経験があるであろうことに気付けなかった自分を嗤ったのである。

 つぎに、好きな女なら抱きしめてしまえばいいのだと口がすべってしまいそうにもなるが、またリツコに叱られるとわかるから加持はそれを黙ってただ笑った。

 「シンジ君はとんでもない罪を背負っているな」

 「今はアスカが決めることでしょ。アスカだって同じようなものよ。ベクトルが違うだけで」

 リツコは、嘆息してみせた。

 ふたりの不甲斐なさを青いとリツコは言うが、その実おとなでもかわりはしないだろうと加持は躬らをかえりみる。

 愛はこの世に存在する。

 きっと、ある。

 見つからぬのは愛の表現であり、その作法なのだ。

 そして、本当に愛していれば、かえって愛の言葉などしらじらしくて言いたくなくなるものだ。

 リツコ自身も、つらい恋をしているのかもしれない。自分のその不甲斐なさを痛感しているのではないかと加持はかすかに思えた。

 「ちかく、何かあるということかな?」

 加持も、午後の授業の用意をせねばならない。保健室を後にするその戸口でリツコの見解を訊いてみた。

 「シンジ君が意外と行動派で、あしたにでも、なんてことになっても驚きはしないわ。教師としては歓迎できないと言うべきなんでしょうけど」

 リツコの返事は飛躍してはいたがひどく明確だった。

 『違いない』

 加持は口のなかでそのままつぶやいてもいた。

 抑圧された感情は、いつかなにかしらのカタチで爆発する。それを知っていて止めないのは、指導者としての罪なのか否か。止めてしまうことも罪なのではないかと思えるは、シンジ君の苦悩に気付けなかったとはいっても彼と同じがわの人間のあかしなのかもしれないと加持は思った。

 どのみち、二人が決めることである。

 右の靴は左の足には合わないものだが、双方なければ一足とはいわれないのだ。

 

 

 廊下は走らない。

 古今東西、学校に限らずあらゆる建物がそうであろうが、にもかかわらず、アスカは保健室までを息があがるほどに走っていた。

 廊下の最終コーナー。その一歩てまえで立ち止まると、アスカはみだれはじめていた呼吸を調えようとした。

 目を覚ましたかもしれないシンジに対しても養護のリツコに対しても、自分が取り乱しているように思われるのは嫌だからである。

 

 アスカとしては、自分が実家に帰ったことと今日のシンジの体調不良に因果関係があるとは思いたくはなかった。

 一緒に暮らしていた時、べつにシンジの健康管理をするというほどのことをしていたわけではない。ほかの家庭でもだされているような食事をつくってだしていた。洗濯をしていた。それだけである。しかもそれらは交替制であって、シンジもやっていたことではあるし、一方的なことではない。

 だから、ミサトはいったいなにをやっていたのか、と口のなかで何回も悪態をついているである。

 こういう事態を予想できなかった自分の迂闊さを呪いもするが、やはり怒りはミサトにむいていた。

 ミサトを追及するためにアスカは携帯電話をなんどもコールしてもいたのだが、電源が切られているのか梨の礫であった。

 連絡のとれない不良保護者をかまう余裕もけっきょくなくなっていて、アスカは暇や口実をつくってはシンジの眠っている保健室にでいりを繰り返していた。

 

 そして、五時限目の休憩時間の保健室前には包帯姿の綾波レイがたたずんでいた。

 普通に考えてみれば意外ということでもないのだが、アスカは驚いて思わず目を反らしてしまうところだった。

 どうにか反らさなかった視線は、ぴたりと重なる。

 その刹那、レイは肩で息をした。

 「碇君なら、帰りましたよ」

 いっけん、相変わらずの風に溶け込みそうなレイの声ではある。しかし強く突き刺さってくるようにも聞こえ、アスカは内心みがまえていた。

 「そうなの」

 おそらくは正午からの休憩時間に帰ったということなのだろう。その時間は校長に喚ばれ、転居の経緯を話していたことを思い返していた。

 そして、じゃあと踵を反す。

 シンジのいない保健室になど用事などない。帰っていく時のシンジの様子をリツコに訊きはしたかったのだが、レイがいるのが引っかかるのでやめておこうと思ったのである。

 「生徒の私なら教師に対してずるくもできますし、負けませんよ。でないと、碇君まちがっちゃうもの」

 レイは、目を伏せるそぶりも見せなかった。

 今日いちにちの自分の行動を見られてしまえば、気取られもするだろう。それが綾波レイならば当然だと思えた。そして同時に、やっぱりこの娘もシンジのことが好きだったのだと思い知らされた。

 それならば、これまでいじょうに頑張らねばなるまい。宿敵がいて、それが誰なのか明確になっている。そしてむこうもこちらを障害と考えているとうことまでわかったのだ。それならばやり方を考えることもできるはずだとアスカは覚悟をきめた。

 女による男の奪い合いは、男が女を奪い合うのよりも静かではあるが苛烈なのだ。

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 卑俗な行為ほど、そうと自覚していても抑制するのは容易ではない。

 なぜならば、そうした行為は原始的な悦楽を満足させるからに違いからだ。

 なればこそ、人間はそれらを抑制しなくてはならない。

 シンジの考えはそうである。

 自己の堕落を言及するのではない。周囲への配慮のことであり、気概をいうのである。

 そうでなければ、だれかれを傷つけ、けがしてしまうに違いないからだ。

 

 帰宅し室内着に着替えたシンジは、ベッドに腰掛けた。

 体調はよほど問題はないはずだ。本当にただの寝不足なのだ。翌日に倒れるほどにゆうべ寝付けなかったのは、寝つきがいい自分にしてはめずらしいことだとシンジは思う。ひとむかし前にあったという熱帯夜というのはひどく寝苦しかったらしいが、同じなのだろうか。ミサトの世代でも、物心ついたときには熱帯夜というのは過去のことになっていたと聞いたが、いったいどんな夜だったのだろう。たいして興味もないのに、ふとシンジはそんなことを脳裡をかすめさせてもみる。

 ミサトさんは今日は帰ってこない勤務シフトだから、食事を作る必要もないだろう。

 冷蔵庫に巨峰がはいっていたから、それを食べて済ませてしまおうとシンジは考えた。

 身体が本調子でないときは、果物を食べておくのがいいとレイが言っていたのを思い出していたのである。へんに加熱処理をされたものよりも、糖分を吸収しやすく内臓に負荷がかかりにくいのだそうだ。ベジタリアンであるレイの言い分がどこまで正しいのかは検証しないといけないのだろうが、どのみち今晩は食欲はあっても料理をする気分にはなれなかった。

 

 シンジはほっと溜め息をつく。

 赤木先生の言うこともわかる。

 自分の言い分を友人関係に適用すれば、ただ直感で友達を選ぶ、つくることはいけないということになってしまう。

 頭がいいから、

 漫画を貸してくれるから、

 宿題を見せてくれるから、

 そういった理由が必要だということになる。

 たしかにそれらがなくても友達は友達のはずなのだ、とわかってはいる。

 カヲル君がアスカに接近しはじめたといっても、彼が友達であることにはかわりがない。

 友達だけではない。打算や状況だけで人間関係ができてゆくわけではないのはシンジにだってわかっている。

 『渚カヲル』

 昨日、カヲル君はアスカに好きだと告白すると言った。

 本当に言ったのだろうか。言ったとしたら、アスカはどういった返事をしたのだろう。

 綾波レイが好きならば気にかける必要もないはずのことだ。身内といっても差し支えのないアスカのこととはいえ、友人であるカヲルのこととはいえ、それがいつまでも頭からはなれないことがシンジには気持ち悪かった。

 

 考えるのはしばらくよそうとシンジは思う。レイが電話をしてくると言っていたし、食事をしたかったからだ。

 

 軽すぎる食事を終えると、玄関のチャイムが鳴った。

 シンジが無思慮にドアを開けると、そこにレジバックを手にしたアスカが立っていた。

 たぶん、自分が今いちばん会いたくないのがアスカのはずで、ドアスコープを覗かなかったことをシンジは後悔した。ベッドであれこれと考えているあいだ、まるで時計を気にしてはいなかったが、もうアスカが帰宅するような時間だったのだ。

 「心配になれば来るでしょう。ミサトはちゃんとやってくれてるのかって、気になるじゃない」

 シンジの表情をよみとったからだろうか、アスカは言い訳っぽいものの言いようをした。

 「もう大丈夫ですし、ミサトさんの所為じゃありませんから」

 帰ってくださいと、シンジはドアを閉めようとする。誰の所為で寝不足になったのか、という言葉が脳裡をよぎるのが不思議だった。

 「ちょっと待って、ご飯まだでしょ。作りに来たんだから」

 アスカはすらりとしたスーツパンツの脚をドアに挟み込んだ。

 すこし抗いかけたが、あまりに子供っぽいと思ってシンジは諦める。が、そこで携帯電話が鳴った。

 アスカを無視するようにしてでると、綾波レイからだった。

 レイが電話をすると言っていたのを思いかえしながら、それでもシンジは驚き、そして心を躍らせる。

 ひと呼吸おいてから「綾波?」と、シンジはアスカに聞こえる声で応じた。どこかで食事がてら会わないかと誘われたので、すこしおおきめの声で快諾もした。

 その間、アスカの顔を見ることができなかったからどんな表情をしていたのかシンジは知らない。

 知りたくもないし、知る必要もないと思っていた。

 「今から出かけますから。ここ、もう先生のウチじゃないんですよ」

 自分でも信じられないくらい残酷な言葉が口を付いて発て、シンジはそれきり言葉を失う。すこしだけアスカの顔を見たが、すぐにそむけた。視線を合わせることは、とてもできなかった。

 「そうね」

 アスカは、つぶやくように言うと小さくなった背中をむけた。

 心配してくれているアスカをこれだけ邪険にできればたいしたものだと、シンジは自嘲する。

 傷つけることの方がけがしてしまうよりも数倍ましだと、シンジは内心で開き直る。そして、もうアスカのことを見てはいけないのだと、シンジは心に誓おうと思っていた。

 

 

 シンジが綾波レイとの待ち合わせに指定したのは、ファミリーレストランだった。

 まだ遅い時間ということではないが、陽が落ちてからの子供の行動に大人たちは過敏である。ファミリーレストランというのは、そういう意味では印象のいい部類になっていて、チェックのあまい場所でもあった。もっとも、そのことをとりちがえた連中の溜まり場になってしまったような店もあって、中高生が補導されるなどということも年に何度かはありはする。

 そのてんではこの店は大丈夫だった。

 まさに家族づればかりで、ちいさな子供たちの声も聞こえる。

 ウィンドウ側、二人用のテーブルについたシンジとレイは、スパゲティを注文した。

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 レイは、いつもの学校指定のブレザーではなく真っ白なサマードレスを着ていた。胸のところがすこしおおきめにあいていて白い肌がまぶしい。短い髪の毛が、露出した細い首をさらに強調していた。

 雰囲気が違いすぎるからか、シンジは目のやり場に困ってしまう。

 「ひとりで帰れたから、時間も経っているし大丈夫だと思ったの」

 シンジの体調を気にしてはいたが、顔が見たくなるとわかっていたから帰る時にアポをとったということらしい。シンジには嬉しい言葉だった。

 「あしたは普通に学校に行くよ。テストも近いしね」

 ぎゅと胸のまえで拳をつくってみせ、シンジは微笑んだ。

 「へんじゃ、ないよね」

 レイは紅潮した顔をあげて、ドレスの襟足を細い指でなぞった。

 普段からあまり着ていないうえに、目のやり場に困ったシンジの視線が落ち着かないから、レイとしては気になったのだろう。

 店の脇で待ち合わせ、さいしょに気のきいた言葉で誉めるべきだったとシンジはすこし後悔する。こういうところをスマートにこなせないといけないはずなのだ。

 加持先生やカヲル君ならどんな言葉で誉めるんだろうと考えつつも、けっきょくありきたりに似合っているよと言うので精一杯だった。

 「学校のばかりじゃなくて、そういう可愛いの、いっぱい着ればいいのに」

 この二言めは、自分なりにうまく言えたとシンジはひとり悦にいる。

 「自信がなくって」

 このドレスを着るのにずいぶん勇気を搾り出したのだろうということが、このレイの言葉からシンジにもわかった。

 本当に似合っていた。

 白は儚げな綾波を象徴する色だと思う。

 綾波はこの姿を家族にしかまだ見せてはいないのではないだろうか。それいがいでは自分がいちばん最初にこの姿を見たのではないかとシンジは判断できて、それが嬉しかった。

 アスカなら極彩の明るい色が似合う。

 特に赤、ピンク、レモン色なんてのも似合うのだ。

 とくに大学に行くようになったころからアスカはスカートをはかなくなったが、それ以前は、ドレスもよく着ていたのである。

 

 などと思考をあそばせていると、注文した品がでてきた。

 シンジがアラビアータで、レイがペペロンチーノである。

 肉という肉が死体に見えてしまうレイに気をつかって、そのように注文していた。

 麺にすこし火がとおりすぎているな、とシンジは思ったが、ファミリーレストランならこんなものだろう。それよりも、ソースのできがとてもすばらしかったことに感心していた。

 とはいえ、もうすぐひとり暮らしになるなら誰に食べさせるわけでもない料理のことを考えても意味がないかな、と思う。躬らがつくってひとりで食べるものに、そんなに執着する必要もない。

 

 見ると、レイはスパゲティをフォークに巻き取るのに苦戦していた。持ち上げるとフォークの先からほつれておちてしまい、だらりとたれさがってしまう。フォークの先に全神経を集中して、幾度と挑むもうまくいかない、というかんじのようだ。

 アスカはこのあたりをじつに巧みにこなす。しょうしょう行儀が悪いが、テレビを観ながらという無意識の状態でもするすると巻き上げてひょいひょいと口に運んでいく。

 それに比べれば自分もけっして上手くやれるほうではないが、助言をしようとシンジは思った。

 「たくさん巻かないように。それから、スプーンを使えば。ネ」

 と、シンジは脇のバスケットに入っているスプーンを取り出すと、左手に持ってスパゲティを巻くフォークの先に添えた。ほつれていってしまう先を押さえ込むようにしたのである。

 そして、バスケットをレイのほうにおくる。

 レイはおずおずとスプーンを取り出すも、いちどシンジと見比べるようにした。

 「でも、碇君は使ってない」

 「決まりなんかないよ。僕は、面倒だから使わなかっただけなんだから」

 ヨーロッパ起源の料理には、なにやら式やらどこどこ方式とかテーブルマナーに流派のようなものがあって、こうやってスプーンを使うのをタブー視する場合もあるらしい。とはいえ、そのじつ食べやすければなんでもいいとシンジは思うのだ。

 極論ではあろうが、食べやすいというのであればスパゲティだって箸で食べればいい。ただ、箸では蕎麦のように啜りあげることしかできないし、おおよそスパゲティに使われるソースは粘度があって啜りあげるのにむかないから、けっきょくフォークのほうが食べやすいというだけのことなのである。

 ナイフを使って短めに切ってそれをすくって食べるのだってありなのだ、と前にアスカが言っていたことをシンジは思い出していた。

 

 レイは、シンジに言われたようにやって、上手く食べることができた。

 『そのうちスプーンを使うのが面倒になるかもしれない』

 そう言おうとしたタイミングでレイの口からこぼれた言葉に、シンジは頭を強打されたような気持ちにさせられた。

 「惣流先生の時ようには教えてくれないのね」

 夏休みの終わりごろ、蕎麦屋でアスカが箸の使い方に四苦八苦していた時のことを言っているのだとすぐにシンジにもわかった。あの時は惣流先生の指に触れてまでしたのに、私には目の前で実演するだけなのかとレイの目は問い糾しているのだ。

 単純に可愛い嫉妬なのだと思えれば、シンジはここまでの衝撃を受けはしない。必死で弁解して機嫌をとろうとするだけのことである。むしろ、もっと愛おしいとさえ思っただろう。

 「綾波レイ」

 シンジは、言葉を失った。

 綾波のことも好きだ。そして、アスカに対する好きとはまた違う。触れたい優しさを感じるのだ。甘えたい優しさだともわかる。

 アスカのことは好きだ。

 自分にとっては、よごしてはいけない触れ得ざる存在である。

 アスカが、恋人と歩いていればきっと嫉妬する。

 でもこれらの感情は、優柔不断というのとは違うのだと自分では思いたかった。

 街でいい女とすれ違えば、「今のオッパイでかかったなぁ?」とくらいは男なら言うものである。アイドルタレントに恋人が発覚したり結婚したりすれば、少なからずがっかりするものだ。それがたまたま近くにいただけ、ということのはずなのだ。

 「碇君。私、シンジ君のこと好きよ。抱きしめてほしい……」

 フォークとスプーンをテーブルにおいたレイは、まっすぐそう言った。

 シンジは、それに無言で肯いた。

-7ページ-

 

 外国語科教師のアスカは、英語もドイツ語も堪能である。

 容姿のこともあって誤解されがちだが、それらの言葉はアスカの頭の中ではいちど日本語への置き換えをする必要があった。あくまでも第一言語は日本語ということだ。日独ハーフの母親が日本語が堪能だったことや、普通に日本で育ったということでもある。

 年甲斐もなくロマンチストだと笑われようとも、今にして考えればシンジとすこしでも近い関係でいたいという無意識の結果なのだとも思える。

 でも、なんでシンジの幼馴染みなんだろう。

 《ウェスターマーク効果》なんて信じたくなかった。

 現に今でもシンジを忘れられそうにない自分は、まさにそれの例外である。

 いっそ新学期からの知り合いだったら、今頃は幸せだったかもしれないのに。

 アスカの妄想は、暴走する。

 

 たまたまアスカはひとり暮らしをはじめていたが、いっしょの家に住んでいて振られたとなればそこでの居心地は最悪であろうと思う。

 同じように、自分を振った相手に教鞭をとらねばならないという心境は最悪だった。

 おまけに、副担任である。

 さらに、クラスには接近してきた渚カヲルもいるし、宣戦布告してきた綾波レイもいる。

 今朝のホームルームは担任にでてもらい、自分は職員室にひきこもることもできた。

 しかし担当教科ではそうはいかないから、教室にむかう足取りはおもい。

 副担任を降ろしてもらえないものか、外国語科担当のクラスを変えてもらえないものかとアスカは考えはじめていた。

 とはいえ、そんな気持ちのままでは生徒たちに失礼だと思い直し、アスカはいつものように元気に扉を開けた。

 

 アスカは教壇に立ってクラスを見まわすも、生徒と目を合わせられなかった。

 教室がひどく広く感じられるくせに、シンジの席との距離が異常に近く感じられた。

 ただ欠席者がいないのことだけはわかり、口頭でのみそれを確認した。

 いつもは教科書を読みながら教室を縦横無尽に歩き回り、居眠りしている生徒をこづいたりもするが、黒板の前からはなれることはなかった。

 不覚にも渚カヲルと視線が合ってしまう。微笑んできたが、気付いてないふりをきめこんだ。

 

 「じゃぁ、これ。誰か訳して」

 

 “The person afflicts the person.Therefore, the person should be nice. ”

 

 英文を黒板に書き込んだアスカは、深呼吸をした。それから意を決するように生徒たちを見まわした。

 挙手をさせたいじょうは、その目を見ねばならない。出席簿から指名する方法もあるが、それはアスカの心情に反しているのだ。そのうえで指名するし、手を挙げない生徒に答えさせようともする。

 その時には、目を見なければならない。

 窓際の綾波レイは、ふと視線をそらした。

 碇シンジは……、

 アスカがまだ誰も指名していないにもかかわらず、勝手に立ちあがった。

 「人は人を苦しめてしまう。だから、人は優しくならなければいけない」

 制するまもなくシンジは答えてしまう。

 正解ではある。

 それはいいが、スタンドプレーのようなことはやってはいけない場だ。

 「はい。でも、私がさす前はダメよ」

 そう窘めたアスカは、シンジに席に着くように促そうとした。

 しかし、しかられたのも意に介さない様子でシンジは胸に掌をあてた。それを見たアスカが、なんだろうと思っていると引き続いてシンジは大きな声でしゃべり出した。

 「どう表現したらいいのかわからないけれど、これだけは云わなくてはいけないのだ」

 どこかの文章を訳しているかのようなシンジの口ぶりだが、それはどこにもない。シンジの頭のなかにだけあるのだというのことはアスカには明白だった。

 教科書にそれを捜そうとする者、不審なものを見る目つきでシンジを見る生徒もいた。

 「ちょっと!」

 アスカは、シンジを止めにかかるが、

 「アスカ」

 「……なに?」

 久しぶりに、シンジに名前を呼ばれてアスカは思わず普通に返事をしてしまった。

 シンジはいったいなにをしようとしているのか、アスカにはかいもく見当がつかない。止めようとしたその出端をくじかれ、すっかりペースを奪われていた。

 シンジが胸に当てていた掌を机に降ろし、それからおおきく息を吸い込んだように見えた。

 

 「好きです」

 

 「……ハイ」

 

 アスカは、シンジと重なった視線をそらせなくなっていた。

 持っていたチョークを落としてしまう。

 水をうったように教室は静まりかえった。

 誰も彼もが、どうリアクションをしていいのかわからないのだろう。

 

 しかし、一分も経たずして静寂はやぶられた。

 「おめでとう!」

 と、渚カヲルが席を立ったのだ。

 そして、まさに祝福するように拍手をしはじめた。

 

 そうすると、ひとり、またひとりと生徒たちが席を立ち、拍手をはじめた。

 クラス中に困惑とも歓喜ともとれる声が乱舞する。

 その中、カヲルはシンジの後ろに回ると背中を軽くたたいた。

 まさにそれに押し出されるように、シンジは教壇にむかって踏みだす。

 アスカに掌を伸ばした。

 

 泣けばいいのか笑っていいのか、ただわからずアスカもシンジにむかって掌を伸ばした。

 『私も大好きヨ』

 シンジに掌をとられたその瞬間、アスカ胸がいっぱいなってしまって言葉が口を付いて発せなくてもどかしかった。

 求めていた人からのほしかった言葉が、こんなタイミングでこんな場で聞けるとは思いもよらなかったのである。

 顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、アスカはシンジの掌を握りかえした。

 

 END

 

 

-8ページ-

 あとがき

 

 まず、

 これを読まれているということは、最後まで読んでいただけたということでしょうから、そのことに何より感謝もうしあげます。

 

 hikaru名義でどこかのサイトに投稿させていただいていたものを加筆修正しました。

 どこか、と不明になってしまっているのは、半年ほど前に愛機のMacを盛大にクラッシュさせておりまして、URLを紛失してしまったからです。作成したデータはバックアップがあって助かったので、加筆修正といったことができるたのです。

 そのサイトでは、LASな方々からはかなり不評で「吐き気を催した」という人までいたという代物です。

 LASとは無関係なところからの感想も「終わり方がいきなりで不自然だ」とさんざんでした。

 しか?し、今回の加筆修正でもそういった意見に対応して直したということはありません。読みにくそうだと思えたところを直したり、削ったりしただけです。

 だって、どこがそういった感想を持たれる要因か解らなかったんですもの!

 

 ことさらLASにこだわりがあるのは、(地味に過激なカットが一瞬ありはしましたが)原作ではついにくっつききらなかったということが第一です。他のキャラクターとシンジ君がくっつくというのにリアリティを感じないということもあります。

 漫画の方ではどうなんでしょう?

 新劇場版の破ではレイよりも強力なマリがでてきましたが、屋上シーンでどぎまぎさせられつつも≪ビーストモード≫からシンジを諭すシーンまでを観て『こりゃあ無いわ』と安心していたりします。レイを助け出せた時点でレイとも無いのは明確になり、LASな私としてはひと安心です。

 劇場版Qでは、≪適合者三姉妹≫がなにをしでかしてくれるか楽しみですね。

説明
ラストです。
エヴァンゲリオンのキャラクターを使った二次創作。
本編のスピンオフではなく、いわゆるパラレルワールドものです。
ある日、高校教師のアスカは教え子で幼馴染みのシンジに恋をしていることに気付いてしまった。

hikaru名義でどこかのサイトにアップしたものを加筆修正しました。
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エヴァンゲリオン アスカ シンジ レイ 綾波 カヲル  LAS 

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