恋姫無双SS 『単福の乱』 第二回(改訂版) |
恋姫無双SS『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』第二回
「――ただ、その通り名を『単福』《ぜんふく》と」
愛紗は、あくまで報告の延長として淡々と続けたのだが――
「ええっ!」
一刀は急に大きな声を上げた。それがあまりに唐突だったので愛紗の方が目を瞬かせた。
「ご、ご主人様?」
愛紗が声をかける。が、一刀は目前を凝視したまま、なにやら呆然としていた。
耳を澄ませると「なんでこんな時期で、しかも敵」「……が変わったのか?」というつぶやき声が聞こえたが、愛紗には何の事やら皆目見当がつかない。
仕方がないので、もう一度呼んでみる
「あのご主人様? いかがなさいましたか?」
「あ、いや……」
そこでようやく一刀は愛紗が見ていることに気づいたらしい。ぶんぶんと顔の前で手を振る。
「ごめん。ぼうっとしてた」
愛紗の方を向いて一言詫びた後、再び前を向いて独り言のように繰り返した。
「『単福』だもんな……そっか。なるほど、たしかに偽名くさいか」
「はい。ありえないとまでは言い切れませんが人の姓としては珍しいですし。また、私も諸国を回り、ずいぶん英傑の名も耳にしたつもりですが『単福』なる者については全く聞き覚えがありません」
「そうか。……いや、そりゃ、そうだろうな」
こくりと一つ頷いて、一刀はだまった。
「?」
愛紗にはそんな一刀の様子が不自然に思われたが、何となく聞きそびれてしまった。まあ、一刀が不意に早口になったり、愛紗たちの知らない言葉を使ったり等ということはある意味日常茶飯事である。
ただ、まるきり黙り込んでしまうのは珍しかった。愛紗はそれほどたいしたことを言ったつもりはなかったのだが。
「……」
単福。つかみ所の無い名前である。
たとえば「単家」という言葉がある。これは「権勢のない家柄、或いは寒門」の意味である。くわえて「福」はよくある名前だ。だからこそ愛紗も斥候の報告で「単福」の名を聞いた時、「偽名ではないか」と疑ったのである。
名乗る者の心底にあるのが謙遜か、それとも隠蔽かはわからない。勿論本当の名前である可能性もある。しかし、考えようによっては自分自らが「単家」出身であると――つまり、名のある家門や由緒ある家柄の出身で無く、とるに足らぬ一族の出身であると宣言するも同然の名乗りである。先祖を尊び家系を誇る世間常識から逸脱した振る舞い。否。むしろ、もとある名前を捨て去り、自分という人格を消してしまおうとする意図すら見える名乗りである。
英雄といわれる者は名こそ惜しむものである。愛紗がそうであり鈴々も又そうである。そんな彼女にとって「単福」なる人物は理解しがたい。そして、底意が見えないからこそ、その名乗りはいっそう不気味に感じられた。
しかし、それよりも、何よりも、気になることがある。
愛紗は小さく息を吐いて、それとなく、隣で沈黙したまま手綱を握っている主の横顔を見やった。
「……」
先ほどの、一刀のあの様子。
あれはまるで、「単福」の名に聞き覚えがあるように見えた――いや、その名に動揺し、恐れているかのようでさえあった。
恋姫無双SS 『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』
第二回 敵の名は単福《ぜんふく》
早朝。啄県――県城城内。政庁の中庭に面した回廊に、奥へに向かって歩く愛紗の姿があった。
夜明け前、少し雨が降ったようだ。庭の緑が潤みを帯びて空気も澄んでいる。空には朝雨の名残らしい灰色の雲がぽつぽつと浮かんでいたが、その向こうには、夜明け前の青と藍色の空が広がっている。
そんなさわやかな朝だというのに、空を見上げる愛紗の表情はどうも冴えなかった。
啄県守備隊が結成以来、初めての敗北を喫してから、一ヶ月。
一刀も、愛紗も、鈴々も、軍隊の再編成と滞っていた街の施政に走り回っていた。やらねばならないことは後から後から沸いてくる。出撃から完全撤兵までに十日間、その後の一刀の捜索に三日。指導者不在の半月はいろんなところにしわ寄せを作ったようで、帰城後の愛紗は一日の大半を苦情処理に費やすことになった。
黄巾党討伐にともなう戦後苦情処理自体は、今までもやってきたことだ。戦闘行為というのは多かれ少なかれ色んなところに負担をかける。税やら兵役やら街の治安やらそれぞれの分野でそれぞれに声が上がる。その声が内に籠もるのではなく、愛紗の耳に届く事自体は良いことだ。良いことなのだが、それにしても、苦情の数がいつも倍くらいになって、対応の後の疲れが6倍くらいに感じられたのは、やはり今回の戦が、完膚無きまでに負け戦だったせいだろう。
特に今回は敵の本拠地を攻撃するために遠征した挙げ句に、負けたのであるからなおさらである。
「街に攻め寄せる程大きくなる前に、本拠地ごとつぶした方がよい。危険性が少ない」
という戦略上の理由はある。だが、この出撃前にはいかにも景気良く聞こえた言葉が、負けて帰ってきてみれば言い訳としても今三つくらいになってしまった。直接ではないにしろ、啄県の市民からは「勝ちを重ねる内に慢心するようになった」との言葉まで聞こえてくる始末。負けたのは事実なので、言い返す言葉もない。
取り繕わないでありのままに言えば、啄県は、天の御遣い・北郷一刀と二人の勇将が出撃するたびに勝つことで、戦の負担に対する不満を封じ、なんとか結束してきたのである。これは政《まつりごと》も同じで、街を守っているからこそ人々は一刀や愛紗たちの政治を受け入れている。周囲の村や町との協力関係も「精強不敗の啄県守備隊」があればこそ。交易や移住、新しい農地の開拓も安全の確保が前提となる――つまり逆に敗北して守備隊の実力に疑問が生じると、同様に政に対する信用も失われるのである。実は現状でも、いろんな事業が十分やりにくくなっているのだが、それでも今回は撤兵も成功し最低限の被害で啄県まで戻れたので、なんとか政も軍の再編も破綻せずにすんでいる。
(あの時、ご主人様が撤退を指示して下さらなかったら、どうなって居たろうか)
愛紗は溜息とともに、視線を欄干越しに庭へ落とした。すると丁度そこに兜が一つ、無造作に転がっていた。ヒビが入って使えなくなった物を誰かが置いていったものとおもわれるが――偶然ちょうどその位置が、馬上から見下ろした、あの夜の一刀の頭の位置に重なって……土砂降りの雨の中での事が思い出された。
愛紗の耳の奧に彼の声が蘇る。
『俺が逃げたら、まだ戦意が残っている奴も挫けるだろうがっ!』
あの瞬間、愛紗の体に震えが走った。
『一人でも多く、啄県に連れて帰るためだ! わかるだろ!』
おおよそ、人を怒鳴ると言うことのない人だったから、驚いたということもある。愛紗も彼に怒鳴られたことなんて、記憶にある限りアレが最初の経験である。だいたい一刀自身、戦に関しては愛紗の判断の方を正しいと考えているので、戦場で愛紗や鈴々の言うことに反対したことなど一度もなかった。それがあの時は違った。愛紗、この関雲長をして一瞬呑まれるほどの気迫で撤退を命じたのだ。
それで気づいた。
彼、北郷一刀は、戦の勝利よりも、啄県守備隊を――啄県の人を大事に思いながら戦いに出ていたのだと。
彼は自分自身を守備隊の「飾り」だと言っていた。「御輿」だとも言っていた。愛紗は彼がそう言う度に否定したが、兵の指揮もせず自身も武器を取らなかった彼はたしかに守備隊にあっては飾りの大将で、そしてそのことを、誰よりも一刀自身が自覚していた。自分が一人の敵兵も倒せないことも、兵士として役に立たないことも、自覚していた。
――なのに、あの夜、降りしきる雨の中で、彼は
「……」
彼は「自分が残って退路を守る」と言ったのだ。
北郷一刀は武人ではない。愛紗や鈴々のように、戦える人ではない。素直に現実を直視していた彼は、「飾り」という評価を甘んじて自身に認めていた。しかし、自分の身を守ることすら覚束ない彼自身のまま、それでもなお、啄県守備隊の全ての兵の命を背負って、そこに立っていた。
そのことが、愛紗にとってどれ程の衝撃だったか。一刀にはわかるまい。
愛紗にとって一刀は「守る」べき人だった。あの時も、正直なところ愛紗には、北郷一刀の安全しか見えていなかった。
彼は愛紗がずっと探していた「旗印」だったのだ。この人と一緒にいれば、きっと天下を覆う争乱を鎮めることができる。そう信じていた。一刀は愛紗の希望そのものだった。「乱世をおさめ、天下の庶人を救う」という大望をもつ愛紗には、その旗印である一刀の安全が一番大事だった。しかし、その一刀にとって大事だったのは啄県の、目の前にいる人々だったのだ。
少し考えればわかることだった。そんな人だからこそ、愛紗と鈴々は北郷一刀と行動をともにしているのだから。
なればこそ、その違いに気づいた時、愛紗は自分を恥じた。一瞬でも目の前の庶人を見捨てようとした自分が恥ずかしかった。そして、そんな一刀を敵の前に残していかねばならないのが、つらくて悔しくて、何も言えなくなって俯いた。
『すまん。俺は愛紗に貧乏くじを引かせてばかりだ』
そんな時、彼の声が聞こえた。そして何か柔らかい物が自分の頬に当てられているのを感じた。
それが彼の指だと悟って、胸の奥で心臓がはねた。彼は精一杯手を伸ばして愛紗のほほに手を触れていた。
労るように、慰めるように、俯いていた愛紗を力づけるために彼は手を伸ばしてくれていた。
『ごめんな、愛紗』
それは果たして何に対しての詫びの言葉だったか。
愛紗には理解できなかった。むしろ詫びねばならないのは、ふがいない自分なのに。
そして思った。
どうしたらこんな時にこんな事を考えられるのか、と
愛紗は驚きを超えて呆れ、そして思った。
この人にこれ以上心配させたくない。いや心配させてはいけない、と。
愛紗はその一心で彼に頷き返し、手綱を握りなおした。
そして、一度背を向けた後は、振り返らなかった。
降りしきる雨の中を、歯を食いしばって、愛紗は馬を走らせた。
走りながら部隊長小隊長を見つけ、駆け行きながら隊員の点呼をとらせて、仮の集合場所を指示し、遅れた者がいればとって返して保護し、追いすがる敵兵をその都度木っ端微塵に粉砕して――そんな事を果てなく夜通し繰り返した。さすがの愛紗も心身共に疲れ切きった。しかし、その甲斐あってか、集合場所の平原には予想以上の人員が集まっており、それをみて初めて、愛紗は自分と啄県守備隊が敵の追撃を振り切ることに成功したこと悟った。先行する指揮官たちにも無事な者が多く、啄県守備隊は満身創痍で、全ての兵糧を失い大部分の武器や装備も無くし、それでも、人的損耗だけは最小限度にとどめ、かつ指揮系統すら保ったまま戦場からの撤兵を果たしたのだ。
奇跡のような退却劇。誰もが愛紗の奮戦を賞し、感謝するに違いない完璧な撤退戦指揮だったが、しかし、そこには愛紗が誰よりも無事を望む人間が、二人欠けていた。
志願者だけを連れて、小さな橋頭堡に立てこもった啄県県令・北郷一刀と、彼を守るために残った義妹・鈴々。
「すぐさまとって返し、残った県令殿と仲間を救出すべし!」と主張する守備隊幹部や部隊長たちをなだめ、けがをした将兵をいたわりながら、愛紗は啄県に帰還した。そして、みずからは軍装を解かず、城外に天幕を張って事後処理に当たった。逃げ遅れた守備隊の兵士の捜索。負傷者の治療と一時金の配布。etc.etc
やがて健在な指揮官たちを城内各場所に配置して黄巾残党の来襲に備えるなどの手配を終え、事後を県城の官僚たちに託し、結局、愛紗は街には一歩も入らないまま、来た道を引き返し味方兵の撤収と捜索を直接指揮して、やっと山中で、旅人に保護されている二人を見つけた。
「………」
出兵の期間は十日間だった。その後、事後処理に振り回される日々が三週間。
まもなく、あの敗北の夜から一月が経過しようとしている……
――と、気がつけば愛紗は、とうの昔に主の部屋の前に到着していた。
困ったことに何処をどうやって歩いてきたのか記憶にない。
愛紗自身も相当に草臥《くたび》れているようだった。
「……ええい。しっかりしろ関雲長!」
だめだだめだ、と愛紗は首を振り、主の部屋の前でひとつ、深呼吸をした。
なんといったか……ええと。ああ、そうだ。これは「まいなす思考」とかいうのだった。物事を悪い方へ悪い方へ考えると、良い考え自体浮かばなくなるからと、ご主人様が教えてくれた。だから愛紗は最近「ぷらす思考」で、ものを考えるように心がけていた。
そう。後ろ向きより前向き。前向きよりも前のめり。
そして、良い一日は良い挨拶から。
まずは元気に挨拶して、明るく話かけてみよう。
そんな風に気持ちを切り替えて、愛紗は扉の取っ手に手をかけた。
「おはようございます! ご主人様!」
と、ことさらに明るく清々しく声をかけて
「食事の前に、武術の軽い鍛錬でも、いか、がで……すか?」
……部屋の中に人の気配がないことに気づく。いや――
まあ――実は、予感というか予想というか。こんなことなんじゃないかなとは、思っていた。
「………失礼します」
律儀に声をかけて、愛紗は扉を開けた。そしてそのまま部屋の中には一歩も踏み込まず、室内を見回す。
整理された机の上。片づけられた椅子。軽く掃き掃除をされたらしい床。綺麗に畳まれた寝具。
愛紗は軽く目をつむった。
「……やっぱり、お休みになった気配がない」
ここしばらく、毎日でないにせよ、一刀が部屋で眠った形跡がないことがある。
「………」
別にどこかで夜遊びをしているとか、もっとすすんでどこかに通う女の家でもできたとか、そんなことを心配しているわけではない。
むしろ天の御遣いといえど、男の人なのだ。英雄色を好むなんて言葉もある。そのくらい在って当然、いっそ安心なくらいである。
「………」
――いや、それは望ましくない。あってはならないと言い切るつもりはないけれど、できれば、ウチのご主人様には、そうなって欲しくない。――けれど、自分の立場でそれはいかにも差し出がましくもあるような……ああ、なんだかコレでは帰りが遅い夫の浮気を疑う新婚の嫁のようではないか。――え! 自分がご主人様のよ、嫁。いやいやいやいやちょっとまて自分っ! いや、でもそっか嫁かあ………ああ、話がそれた。
それは、ともかく。
結成以来、破竹の勢いで勝ち進んできた彼らにとっての「初めての敗北」。
啄県守備隊が受けた衝撃は大きい。素人集団の啄県守備隊は勝つことで、勝ち続ける事で自信と矜持を身につけてきた。それが今大きく揺さぶられている。そして、それは程度の違いこそあれ、愛紗や鈴々たちにとっても同じだ。重く沈みがちな気持ちを日々の仕事や訓練で紛れさせているところがある。特に――
「………」
特に北郷一刀は、愛紗の目から見ても無理をしているように見えた。
政務に対する打ち込み方や武術の稽古に対するのめり込み方が以前とは違ってきている。昔の愛紗なら喜んだだろうが、今はなんだか不安になってくる。
その気持ちの変化が何に由来する者かはわからない。わからないけれど、今の一刀を見ていると心配で仕方ないのだ。
熱心に政務に取り組んでくれるのはうれしいし、武術の稽古を一緒にするのは楽しい。
見かけよりも、まじめで、勤勉で、責任感も人並み以上にある愛紗の「ご主人様」は、戦時下の政や敗北した軍の再編に走り回っている部下や街の人々をほっぽらかして、夜遊びに出かけたりしない。気晴らしや休息を勧めても、目の前の事を済ませてから、と断る少年である。
だから、わかっている。
「………」
彼が――北郷一刀が今、自分自身の力不足に深く悩み、眠れぬ夜を過ごしていることは。
「………」
自分たちは、啄県という小さいながらも一つの街の施政を預かる身となった。
愛紗や鈴々はもちろん、彼も不慣れなりに勉強して努力して、少しでもいい県令であろうと毎日つとめている。
でも………脳裏にあの炎と豪雨の夜が蘇る。愛紗に背を向け、炎を睨み付けているあの『背中』が。
その後ろ姿を思い出すたびに愛紗は胸を締め付けられるような気分になる。今の愛紗には、一刀が何もかもを一人で背負い込んで、重荷に耐えようとしているように思えてならない。
そして、愛紗はそんな一生懸命な彼を心から「支えたい」と思っている。負担を軽くしてあげたいし、悩みがあればそれを解消したいと思う。
でも、いかんせん、彼女も武辺の人間で、限界がある。軍隊の編成や兵糧ならまだしも、街の施政や税収のことは一から十まで門外漢で一刀の相談に乗りきれない。むしろ、この分野では、一刀の方が政の基本に通じているようで、彼女の方が相談に乗ってもらっているような有様である。
――愛紗は唇を噛んだ。
武器を持てば万軍でも恐れない。守れと言われればどんな強敵からもきっと守きってみせる――でも。
「私では、ご主人様を助けてあげられないだろうか……」
彼が悩み苦しんでいるのは、自分が戦いに引き込んだせいなのに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「夜が明けちまった、か……」
一刀は剣を下ろして素振りをやめ、汗を拭った。
愛紗が一刀の居室の扉を開けていたちょうどその頃、当の一刀は政庁の外にいた。
積まれた書巻に目を通す内に、気がつけば夜半までかかってしまった。何となく中途半端な気分で横になる気になれず、そのまま気晴らしに散歩でもするかと外に出た。
手にした剣は守備隊の備品である。歯止めをしてある稽古用だが、当然本来の武器と重さは同じなので、素振りをするのに不足はない。
良い場所があれば少し鍛錬をするつもりだったが、雨に降られてしまい、手近な東屋で雨宿りすることになった。
雨はひとしきり降り続いて、一時間ばかり前にあがった。素振りを始めたのはそれからである。
「………」
雨が降ると思い出す。というか、忘れられるほど、昔の話ではない。
あの敗北から二週間。闇から響く鬨の声を、夜襲の炎を、我先に逃げ散る味方兵を、夢に見なかった夜はない。
「戦場」という怒濤ような狂奔の中に一度でも身を置けば、自分がどれ程小さい存在なのかを思い知る。
まさしく、あの夜の一刀は、只の無力な子供だった。
愛紗や鈴々と比べて自分はどうだ、なんて、一度も思わなかった。相手は三国志最強クラスの武人だ。比べることすらばからしい。自分にできる事なんてたかがしれている。自分は御輿だ、と割り切ったつもりだった。余計な口出しはすまい。愛紗たちの、それから街の人たちの役に立てるなら、御遣いのマネでもなんでもしてやろう――と、そう思っていたはずだった。
でも、気づいてみれば。
北郷一刀という人間の中にも未熟な自尊心があって、それが時々顔をだしては、責めさいなむのだ。
自分はもっと、何かをできる人間でなければいけないのではないか。せめて愛紗たちの邪魔にならないように、ではなく、少しでも、どんな些細なことであろうと、助けになるような自分でなければならないのではないか。
一度そう思うと、矢も立てもたまらなくなって、気がつけば真夜中に目を覚まして、そのまま夜明けを迎える事がある。
「………無様だな」
漏れてくるのは自嘲の笑みだけである。
今まで割り切れていたものが、割り切れなくなったのには理由がある。勿論、夢にまで見る先日の敗北のこと――そして、愛紗から聞かされたあの名前。
「単福………か」
他でもない。啄県を脅かす黄巾くずれの武装集団――その首領の名前が気にかかって仕方ないのである。
北郷一刀はその名を記憶していた。
この世界に来てから出会った愛紗と鈴々――関羽や張飛らの英傑。そして未だ相まみえぬ劉備や諸葛孔明、あるいは曹操といったいわゆる三国志のメーンキャストではないが、単福なる人物も又、三国志中の人物である。
別に目立つ存在ではない。エピソードも少ない。史書に正式な伝が立っているわけでもない。創作の『三国志演義』では短い期間の登場ながら、印象的なエピソードが立て続けにある――が、でもやはり短い事には違いなく、中盤以降出番が無くなると、物語的に居ても居なくても良い人になって死に場所も時期も明らかではない。
その人物が物語に登場するのは、劉備とその一党が荊州の劉表の元に身を寄せていた時の事である。
劉備が駐屯していた新野に一人の処士がやってくる。街を放歌吟行する彼に興味をもった劉備は、この処士を城に招き、その学識と見識を認めて自軍の指揮を託した。
「単福」と名乗るこの処士は、先ず軍の調練に才能を示し、新野の劉備軍を理論的に再編、鍛え上げていった。その噂を知った曹操軍の曹仁が荊州に侵攻すると、単福は寡兵の劉備軍を率いて逆撃、これを粉砕。曹仁は再び戦力を増強して攻めかかるが、単福は曹仁が組み上げた陣形の弱点をついて再び潰走させる。
この時、曹仁が用い、そして単福が弱点を看破して打ち破った陣形が『八門金鎖』。
つまり、周囲に関羽と張飛、趙雲といった一騎当千の武将を揃えながら、どうしても飛躍できなかった劉備が、初めて幕下に加えた戦術戦略面の参謀、『軍師』がこの単福だったのである。
おそらく――逃亡中、一刀が感じた既視感の原因は、コレだ。
あの七日間の攻防で、敵に今までにない一体感や連携を感じた。相手の意表をつく意外性がある一方、一貫した方針にしたがって規律正しく動いているようでもあった。
今にして思えばその全てが、敵に軍略に通じた優れた知性の存在を示しているように思える。たとえば陣形の選択にしてから劇的に変化していた。
その陣形――『八門金鎖』は破壊力のある攻撃的な陣形だが、柵や旗を多用する複雑な陣形でもあり、一朝一夕に使えるものではない。このような敵と対する場合、定石から言えば、相手の不慣れに乗じて先手をとり、速度で圧倒するにしかず。それが――啄県守備隊が得意としてきた『車掛かり』を、よもやよりにもよって八門金鎖であれほど巧みに防御されるとは思わなかった。
陣形とは兵を論理的に配置する事によって、軍に特性を与えることを本義とする。攻撃力に特化した陣形、防御に相応しい陣形、移動速度に優れた陣形と様々である。そして、速さと堅固さ、攻撃力と防御力、など相反する目的は両立できない。練度によるが、攻撃向きの陣形は防御に適さず、防御向きの陣形は攻撃に適さない――にもかかわらず、敵は啄県守備隊最強の攻撃型陣形・車掛かりを同じく攻撃型陣形の八門金鎖で防御したのである。
これまでの黄巾との戦いもけっして楽ではなかったが、ここまで手玉にとられたことはない。何しろ戦の定石が通用しないのだ。さらにそこまで計算されていたとは思いたくないが車掛かりは啄県守備隊の得意の戦法だった。ここぞという勝負処ではこの陣形で勝ってきた。いわば「必殺技」だったのだ。それを打ち破られたのだからダメージも二倍三倍である。
天候や地形――それ以上に心理戦。こちらの困惑も疲労も狼狽も気のゆるみも全部一切合切、敵に読まれたとしか思えない。
思えないが
「……できるのか? そんなことが」
未来の知識を持っている一刀は単福の名前も正体も知っている。にもかかわらず、何の手も打てない。打開策も見付けられない。大体、この世界の「単福」がそこまでの怪物なら、とてもではないが今の啄県守備隊ではかなわない。その気持ちが、どうしようもない焦りを連れてくる。まったくこんなことなら、いっそ何も知らない方がよかった。
「…って、何考えてんだ、俺」
考えても仕方ない事ではある。
一刀は 自分が知っている歴史や小説の範囲でしか「単福」を知らない。半ば創作のような人だから、歴史上の実像もわからない。だから、単福の名前が出た時に、愛紗に向かって誤魔化すことしかできなかった。
それから――まあ、これは一刀の勝手な思い込みなのだけれど、単福は最初から劉備の味方だったこともあり、一刀的には何となく出てくるときは無条件で味方になってくれそうな人だったこともあって、いきなり敵として、それもどこかの軍師でも放浪の隠者でもなく、村を焼き、街を襲うような山賊の親玉として名前を聞かされたのが、はっきりいって、ショックだった。
長い長い三国志演義の中に少ししか出てこないにもかかわらず、一刀は単福のことをよく知っていた。
物語の中の単福は、強きを挫き弱きを助ける義侠の人で、劉備とも深い信頼関係で結ばれた実直な人として描かれていた。一刀は「単福」が偽名であることも、その正体も――そして何故その軍師が劉備の元を去ったかと言うことまでも知っていた。
ついでに、この軍師の、およそ軍師らしからぬ一面についても。
ぶっちゃけ、一刀にとってはかなり好きな部類の登場人物の一人だった。出会えるものなら会ってみたいと思っていたくらいに気に入っていた。それだけに――ちょっと堪えた。
小説の印象では劉備より年下で諸葛亮よりも年上。愛紗や鈴々の例もあるので断言はできないが、もしこの世界に彼がいるとすれば、きっと自分と年が違わないか、少し下くらいで――
「………」
一刀は頭を振った。
埒もない事ばかり、頭に浮かんでくる。
自分が知っている三国志の知識が役に立たないことくらい、愛紗と鈴々――関羽と張飛が女の子だという時点で明らかだ。ヘンな妄想は捨てて、単福を倒す方法を考えなくてはいけない。
一刀は再び剣を握り、正眼に構えた。
そして素振りを再開しようとした時――
「おはようございます――県令様」
と、よく通る綺麗な声がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一度、正眼に構えた剣を下ろして振り向くと、そこに予想通りの人物が立っていた。
無地の一重に黒い帯を締め、風通しの良さそうな黒い上着を羽織った涼やかな装いの女性。肩に届かないくらいの長さで潔く断たれた癖のある黒髪が、黒檀の細工物のように小作りな白い顔を縁取っている。
山中を彷徨していた一刀と鈴々を助けてくれた旅人の――小夜里《さより》である。
「ああ、おはようございます。小夜里先生」
『先生』の一言に、小夜里は眉をひそめた。
「いいかげん、『先生』は止してください。県令様」
「ん? 小夜里先生は、みんなの先生じゃないですか?」
「子供たちにとってはそうかもしれませんが、貴方様の師ではありません。第一、啄県の県令ともあろう御方が一介の書生を先生呼ばわりなどと礼法に反しています」
「そっちが『県令様』をやめてくれたら、俺も『先生』をやめますよ?」
一刀の軽口に、小夜里はむうう、生真面目に眉をつり上げた。
儒教の道徳を大切にする彼女は序列を尊び礼儀正しい。その規範で言えば一刀は啄県の県令で天の御遣い――もっとも重んじなくてはならない相手、ということになる。故に彼女は一刀に礼を尽くし、反対に、一刀が自分に対して敬語を使うのを嫌うし、敬称を付けられるのも断る。
一方、一刀にしてみれば、小夜里は命の恩人で、少しではあるが年上。感謝と尊敬の念から、敬意を表したいのである。現代人で学生の一刀は、もとより成り行きで背負い込んだ県令の地位や、天の御遣いの虚名には価値を見いだしておらず、誰であろうがそれを理由に『礼』とやらを尽くされるのは居心地が悪い。ましてそれが自分と鈴々にとっての命の恩人となればなおさらである。
だから一刀としてはせめて学校の先生に対する程度の敬意は受け入れてもらった上で、小夜里自身からはもう少しフランクな扱いをしてもらいたいと、機会を捉えては働きかけているのだが。
――ややあって、小夜里の方から
「申し訳ありません。その儀はお断りします」
と非常に残念な返事が返ってきた。
「残念だなあ」
と一刀が言い返すと、小夜里は目元から力を抜き――変わりに不信感一杯の半眼になった。
彼女は、そのじっとりとした「疑惑を追求せずにはおれぬ」という目で
「県令様は、女性と見れば誰にでもそのように声をかけていらっしゃるのですか?」
等と剣呑な口調で詰問してきた。
「…………そんなことはないデスヨ」
一刀は答えた。ただしヘンな間があった上に目をそらして空々しく素振りを再開したので、小夜里は半眼のままだった。
つくづく、真面目なヒトである 愛紗も真面目だけど、小夜里はまたちょっと違うのだ。実体験で違いを味わってみたいとは思わないが。
――と、そんな益体もないことを考えながら、一刀は素振りを繰り返した。
小夜里は続けて追求するつもりはないらしく、東屋の柱の側に立って、一刀の素振りを眺めている。
ギャラリーが居るとハリが出る――といいのだが、素振りに関して言うと最近どうもしっくりしないものを感じている。はやく『こちらの世界』の剣や防具になれたくて毎日欠かさず素振りをしているが、どうもイメージ通りに行かない。何となくギクシャクした素振りになっている。
それでも一刀は振り続ける。新しい事に挑戦すればそれなりに無理がでるのは、部活動などの経験則としてわかっている。だからあえて筋肉痛が起こるくらい過負荷を掛けて回復させると言う方法で筋力をつけるつもりだった。
幸い痛み止めについては、愛紗や小夜里が良い漢方薬を紹介してくれたので、飲み薬にも塗り薬にも不自由していない。テーピングのテープや冷却スプレーでもあればもっと過激に稽古できるのであるが、万が一疲労骨折などになると治療の仕方もわからないので、その辺りは自制していた。
一刀の稽古がワンセット終わったところで。
「失礼ですが、どちらで剣を学ばれたのですか?」
と声が掛かった。
思わず一刀はどきりとした。
実は小夜里の声は一刀の高校の先輩によく似ている。見かけも、口調も違うが誰に対しても丁寧なところや声の質が似ている。
一刀は多少狼狽え気味に
「えっとその。以前居た場所で少し」
などと答えた。
「最近思うような稽古が出来なくて……ぎこちなくて恥ずかしいです」
狼狽もあるが、ぎくしゃくとした素振りを見られて照れくさかったので、適当にごまかして頭をかく。
「それは残念ですね。ずいぶん長く稽古をしておられるのでしょう? どの振りにも基本となる形《かた》が出来ています」
微かに首をかしげると、それは楽しそうに小夜里が微笑んだ。剣術の心得があるらしい。
一刀も少しうれしくなった。何しろ愛紗や鈴々との稽古では一方的に非力さばかりを思い知る事になるので、微妙な表現ながら、褒めてもらえたのは久しぶりである。
「物心ついた時からやってはいるんだけど、どうも最近ぴんと来なくて――鈍っているのかな」
だから油断したとは言わないが、何となく言外に「いつもはもう少しましなんだ」と臭わせるような言い方をしてしまった。見苦しいななどと一刀は思っていると、小夜里はゆっくり首を振った。
「いいえ。その剣は貴方が持つには重すぎるのです。『以前いた場所で』とおっしゃいましたが、その時はもっと軽い剣を素早く、また数多く振る稽古をされていたのではありませんか?」
「え? ――いや、軽いといえば、たしかに……」
一刀は思わず自分の手のひらを見直した。たしかに彼は主として竹刀と木刀で稽古をしていた。
現代剣道はいかに早く鋭く攻撃するかに重きを置き、手数も多い。竹刀も木刀もそれを想定した稽古用具だ。それは剣道が盛んな鹿児島出身で実家が代々剣術を受け継いでいる一刀であっても、例外ではない。
そのまま自分の手のひらを見ている一刀に対して、小夜里はさらに言葉を続けた。
「しかし問題は力の有無ではありません。重い武器を扱うには重い武器を扱うための、軽い武器を用いるのなら軽い武器を用いるときの。それぞれに適した『剣理』というものがあります。これはどちらかが優れているとか、重い剣が使えれば軽い剣も同様に使えるとか、そんな単純なものではありません」
大刀には大刀の、匕首には匕首の――大雑把に言えばそういう違いかもしれない。――一刀自身がやっていた現代日本の剣道を思い出せばいい。たとえば日本刀とフェンシングのサーベル。斬りつけるということでは同じはずなのにあれほど形状も使用法も異なる。いや、理想論を別にすれば、試合に使う竹刀と形《かた》に使う木刀ですら、日本刀と同じようには振れないものだ。
多少なりとも剣が使えるが故の「固定観念」というべきだろうか。一刀は身を以てそれを体験しているのに、今の今まで、全くその事に気付かなかった。
「貴方が今やっている稽古が無駄とは思いません。いずれはその剣の使い方にも慣れますし、慣れさえすればその剣の扱い方、いわゆる戦術や技術も学べます。
しかし、貴方には、すでに身に付けている技の基礎があるのです。それを無視して、合わない武器で一から練習し直すのは時間もかかり、体にも負担になります。重い武器の使い方を一から学ぶか、それとも今ある基礎にふさわしい軽い剣を探すか。せめて、どちらかに方針を決めて、そしてその後、稽古を再開するべきではありませんか?」
なるほど、と一刀は思った。
この時代の武器は一刀の感覚ではナタに近い。分厚く、重く、日本刀に比べれば切れ味も鈍い。筋力や体力は別にして、日本刀の使用を前提とした現代剣道の技術が役に立たないのは当たり前。なのに自分は無意識のまま剣道の延長で素振りをしていたような気がする。
「そ、そっか」
一刀は目から鱗が落ちたような心持ちで、
「あ、ありがとう」
と、礼を言った。
小夜里は「いえ、どういたしまして」と綺麗な姿勢で一礼し、歩き去る。
「…………………あ」
しばらく考えて、一刀は事の重大さに気付き愕然とした。
剣道も竹刀もこの時代には存在しない。――なのに、小夜里は素振りを見ただけで一刀がやっていた稽古を言い当て、両方の時代を知っている彼が全く気付いていなかった「盲点」を指摘したのだ。
これは尋常ではない。少なくとも余程「剣術」の理に詳しくなければ、思いつく事すらできないだろう。それを、こうまで明確に語り、なおかつアドバイスまでした――したということは。
そんなことが出来るということは。
小夜里が『剣術』『剣理』に非常に通じているということである。
「あ、――あのっ!」
どくん! と心臓が跳ねたような気がした。急に血流が増したような錯覚があって、急に頭が痛くなってきた。
どくん! どくん! どくん!
脳が酸素を必要としていた。ジグソーパズルをピースが足りまま無理矢理組み上げるような感覚がある。何の根拠もない思いつき。あまりに材料がたりなすぎて、これ以上は推測すら組み立てられないけど。それでも――それでもなお、一刀の脳裏には、三国志演義に登場する、ある『英傑』の名前が浮かんだ。
ただの偶然かもしれない。ただの思いこみかもしれない。しかし一度「もしかしたら」と思ったら、もう止められなかった。
一刀の脳裏に浮かんだその「英傑」は、義侠心と知略を備えた軍師であると同時に、『撃剣』の達人だったのだ。
一刀は思わず声をかけた。
「待ってください!」
小夜里は立ち止まり、振り返った。
一刀は構えをといて剣を右手に持ち替え頭を下げた。剣道の礼だが他に敬意の表し方も思いつかない。
小夜里もまた、きちんとこちらに正対して、綺麗な自然体になった。「大切な話があるらしい」と一刀の態度から察したのだろう。その佇《たたず》まいに、一刀はかつて実家の道場や聖フラチェスカの剣道部で見てきた剣道の達人たちを思い出した。そして何より「主将」。
あの恐ろしい位に強かった先輩も立ち姿がとても美しかった。
剣の上手はまず立ち姿に優れる。一刀は小夜里が剣に関してかなりの修練を積んでいることを確信していた。
そして、それ以上、今は確認できない。確認する方法がない――そして、おそらく確認すべきでない。
だから……たぶん、これがベストの選択。
「先生――」
そう呼び名を改めて一刀は大地に着座し、右手の剣を体側において、背筋を伸ばして正座した。
「お願いします。俺に――剣をおしえて下さい」
北郷一刀は自分が知っている限りの礼を尽くして、目の前の『剣士』に教えを請うた。
黒髪の剣士は、その一刀の姿をみて「にこ」と軽く微笑んだ。やわらかい、あたたかい、微笑み――そして
「お断りします」
シークタイム・ゼロ・セコンド。電光石火の「ごめんなさい」が返ってきた。
単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話― 第二回 敵の名は単福《ぜんふく》 完
――第三回「とりあえず、三顧の礼で頑張ってみた」に、つづく
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