帰る場所
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一 

 路地の奥にチャカを弄り回す音が響いていた。

 万力でじわじわと締め付けるように、空気がきつく固く張りつめていた。

 月の光が人気の無い路上を照らしていた。

 光の照らさない路地の奥で、極道者が五人、しゃがみ込んでチャカをいじっていた。

 凶暴な獣が闇の底でうずくまっているような気配がする。

 舎弟の花田が、ブローニングのグリップを握りしめて目を閉じ、震えを止めようとしていた。

「無理に震えをとめるんじゃねえ」

「へ、へい」

 怯えたような目で花田は俺を見た。

「俺もこうだ」

 花田に手を見せた。

 俺の手も細かく震えている。

「カチコミの場が流れ始めたら、震えは勝手に止まる。無理して止めると体がかたまっちまう」

「へ、へい、兄貴」

「へ、牛岡は、なにしろカチコミのベテランだからな」

「……へい」

 横山の兄貴が俺を揶揄するように笑った。

 花田が困ったような顔をしてしゃがみ込んだ。

 カチコミのベテランなんざ、自慢にもならねえ。

 シノギが下手で、いい年をして荒事以外に使えねえ駄目ヤクザだってことだ。

 舎弟の白瀬が目を笑わせて俺を見た。

 奴は大学出で、ノミの店のシノギをまかされている。

「てめえら静かにしろ」

 真樹の兄貴の息が荒く聞こえた。

「わかってんな、俺が合図したら、それがどんな奴であれ、ありったけの弾をぶちこめ」

 へいとおうの間の発音で俺達は声を返した。

 相手はたった一人だと聞いていた。

 チャカ持った奴が五人も必要だとは思えねえが、絶対に殺さなければならない相手なんだろう。

 花田の歯がカチカチと小さな音を立てていた。

 路地に足音が聞こえてきた。

 ……軽い?

 これじゃ、まるで……。

 真樹の兄貴が手を上げた。

 ぎちぎちと音を立てそうなぐらい、場の圧力が高まった。

 俺は腰を少し上げて背中を丸めて前を見る。

 軽い子供のような足音が近づいて来る。

 足音が角にさしかかり、街灯の下に姿が見えた。

 歩いて来たのは、小学生ぐらいのガキだった。

 その場の全員が、重心を落としたまま固まった。

「撃ち殺せっ!!」

 真樹の兄貴が怒鳴ると同時にチャカを弾いた。

 ガ、ガキだぜ、これ。

 なんかの間違いじゃ……。

「は、はやくハジキやがれ、馬鹿っ!!」

 真樹の兄貴は倒れたガキに向けてチャカを乱射していた。

 横山の兄貴が、おずおずとチャカを弾いた。

 ……兄貴の言う事は絶対だ。

 俺も倒れたガキに向けてチャカを弾いた。

 ガキがミンチになっても、兄貴に逆らうよりはましだ。

 銃弾がガキの体をえぐっていた。

 弾が当たるたびに倒れた体が揺れていた。

 真樹の兄貴が慌ててマガジンを入れ替えた。

 ……なぜ、そんなに慌ててるんだ?

 どうし……。

 死人が歩くのを見たような違和感が俺を襲った。

 ガキから血があまり出ていない事に気がついた。

 服には沢山の穴が開いているが、血が噴き出してない。

 ガキは手を交差するように前に出して、頭を隠していた。

 鉛玉を何発も食らっているのに、ガキはゆっくりとゆっくりと動いていた。

「は、早く、弾を込めろっ!!」

 あたりが静まりかえっていた。

 俺たちは弾を使い切っていた。

 引き金を引く音だけが響いていた。

「早くっ!! 早くーっ!!」

 兄貴がマガジンを取り落とした。

 マガジンが女の子の近くに転がった。

 くすくすと笑い声が聞こえた。

 場違いな明るくて小さな笑い声だった。

「おまえたちは凄いな」

 ガキがゆっくりと立ち上がった。

 笑っていた。

 にこにこと笑っていた。

 血が少し出ていた。

 頬に穴が開いていた。

 俺たちは動けなかった。

 これはいったい?

「子供の形のものに、ためらいも無く弾をぶちこめるなんて、すごい」

 澄んだ金属音を聴いた。

 ガキの体から弾丸がこぼれて、アスファルトに落ちる音だった。

 これはいったい、なんだ?

「死ね」

 真樹の兄貴が悲鳴を上げて、チャカを乱射した。

 発射光で、それはコマ送りのように見えた。

 犬みたいな頭をしていた。

 巨大な筋肉の束が動いていた。

 小さいガキだったのに、一瞬で真っ黒な巨人に化けた。

 上から押し潰されるような威圧感があった。

 真樹の兄貴の首に化け物がかじりついた。

 真っ白な歯が動き、真っ赤な血をあたりにまき散らした。

 横山の兄貴が泣きそうな顔でチャカを魔物の方へ向けた。

 黒い風が閃き、チャカごと兄貴の手首がちぎれ飛んで壁にぶち当たり鈍い音を立てた。

 悲鳴を上げていた。

 怖い物無しのヤクザの群が絶叫していた。

 俺の胸もブルブルと震え、かん高い女のような悲鳴を上げていた。

 気がつくと足元に地面が無かった。

 何かに腕を思い切り殴られた。

 腰を強打された。

 がはっと息を吐き出すと、俺は地面にひっくり返っている事に気がついた。

 頭を上げると、真樹の兄貴の首が血まみれになって月を睨んでいた。

 悲鳴と怒声と、何かが壊れる音、何かを噛むような音、砕けるような音がした。

 真っ黒な風が旋回して、白瀬の両腕が抜けた。

 花田の体が人形のようにバラバラにされるのを見た。

 涙が出ていた。

 息が荒くなっていた。

 恐怖でがちがちと音を立てて歯が鳴った。

 かがみ込んで地面だけを見つめた。

 何が起こったのか理解出来なかった。

 左手が変な方向にねじ曲がっていた。

 不思議と痛みは無かった。

 鉄錆のような血の臭いが充満していた。

 うそだ!

 うそだ!

 うそだ!

 あんな物が居る訳ねえ!

 化け物なんかはテレビの中に居るものだ。

 嘘か冗談に決まってる。

 あたりが静かになった。

 目を上げると黒い影がのっそりと俺の前に立っていた。

 俺は絶叫した。

 きな臭い味が喉の奥一杯に広がった。

 逃げようとして立ち上がり、恐ろしい物に背を向けた。

 重い物が足に当たり、俺はひっくり返った。

 鼻が焼けたように痛み、血の味を感じた。

 うつぶせになった俺の背中に重い物がのしかかって来た。

 首筋に温かい湿った息が掛かった。

 濃密な血の臭いがした。

 喰われる。

 喰われる。

 喰われる。

 助けてくれっ。

 誰か助けてくれっ!!

 

「あれ? おまえ?」

 急に背中に掛かった重さが減った。

「……ま、良いか」

 ガキの声が耳元で聞こえた。

「おい、立ちな」

 俺は震えながら四つんばいになった。

 全裸のガキが俺の前に居た。

 体中が血で真っ赤だった。

「ちょうどいいや、教えて、誰に頼まれたの?」

「し、しらねえ」

 ぴくりとガキの手が動いた。

「ほ、本当だ、真樹の兄貴が俺たちを呼び出しただけなんだ。俺たちは何もしらねえんだよ」

 ガキがしぶい顔をした。

「ただのヤクザ?」

「あ、ああ」

「真樹とか言う奴に命令を下すのはだれ?」

「そ、それは……」

「殺すぞ」

「く、組長か代貸か……」

「そうか」

「まず、シャワーのある場所に連れて行って。それから服を買ってよ。その後にお前の組に行こう」

「く、組に行ってどうするつもりだ」

「関係がある奴を全部殺す」

 ガキはにこにこと笑った。

「終わったらお前も殺すよ」

 目が細くなって、楽しそうだった。

 頭の中が真っ黒に塗りつぶされた。

 こいつはやる。

 絶対にやる。

 膝が震えていた。血が顔から引いて、ねばい汗が流れるのを感じた。

「お、お前はいったい、なんなんだ?」

「犬子」

 魔物は一言だけ答えた。

 

 

「タオルとか無い? ベタベタで気持ち悪い」

 俺は乗ってきたベンツのトランクを開けた。

 兄貴のゴルフ用バックにバスタオルが入ってた。

 それを渡すと犬子はごしごしと体を拭った。

 あっというまにタオルが真っ赤に染まった。

 俺は恐怖で吐き気がしていた。

「し、死体は?」

「気にしない、仲間がかたづけるよ」

 犬子は裸のまま助手席に乗り込んだ。

 俺の左手がねじ曲がっていた。

 運転ができねえ。

 でも運転しねえと殺される。

 でも運転できねえ。

 ドブに落ちた犬みたいな気持ちが湧き上がって、鼻の奥がきな臭くなった。

 犬子が出てきた。

「ああん? 腕、脱臼してんの?」

 だめだ、もう殺される。

 犬子は俺の左手を取ると、ぶんと振った。

 肘から鈍い音がして、激痛が走った。

 俺は呻いた。

「早く運転してよ」

 腕が真っ直ぐになっていた。

 鈍痛で肘が痛いが、動かせる。

 おれは大きく息を吐いた。

 すこし涙が滲んでいた。

「す、すまねえ」

「気にしない、古武道やってたから慣れてるんだ」

「子供ってわけじゃないのか?」

「お前は幾つなの?」

「三十八だ、牛岡だ」

「ちょうど二十才下だよ、牛。はやく出して」

 その姿で十八なのか。

 小娘は小娘だが……。

 俺はキーを回し、アクセルを緩く踏み込んだ。

「あ、あんたはなんで、あんな……」

「知らない方がいいよ、牛」

 俺は唾を飲み込んだ。

 犬子は手で、銃弾の穴をひっかいていた。

 ポロポロと弾丸が穴からこぼれ落ちた。

「前を見る」

「す、すまん」

 銃弾の穴が一瞬で塞がって、犬子の肌がすべすべになったのを、俺は目の端で見た。

「あ、あそこでいいや、止めて、牛」

 寂れた銭湯の隣りにコインシャワーの看板が掛かっていた。

 俺は車を止めた。

 犬子がこっちに手を出していた。

「金をくれない? 財布拾うの忘れてた」

 俺は内ポケットから財布を出した。

 一万円札をまとめて取りだした。

「万札なんか使えないよ、馬鹿。小銭くれ」

「す、すまん」

 万札を戻して、小銭をありったけ、犬子の手の平に落とした。

「ありがとう」

 犬子はにっこり微笑んだ。

「逃げたければ逃げても良いよ」

「え?」

「組に電話して待ち伏せの用意してもいいし。組長を逃がしてもいい。なんでもやっていいよ」

 笑っていた。

 犬子は笑っていた。

「逃げても、隠れても、いつか殺すから。お前たち全員」

 脂汗が頬を伝うのが解った。

「お前が逃げても、今晩、お前の帰る組は無くなる。お前がどこに逃げても、私はずっと追っていくから。たぶん一年と逃げられない」

 犬子の目が笑っていない。

 本気で言っているのが解った。

「お前達は私に引き金を引いた瞬間に死んでる。今も、お前は死に続けているし、お前の組の組長も死に続けているし、組員も死に続けている。ちょっと早いか遅いかの違いだから、おまえが今、逃げても私はかまわないよ」

 犬子がコインシャワーに向かって歩いていった。

 膝が震えていた。

 電話……。

 携帯電話。

 手が震えていた。

 組員をかき集める。

 犬子を押し包んで殺す。

 だめだ、何度考えても、あの黒い巨大な姿に殺される映像しか浮かばない。

 真樹の兄貴があんなに怯えていたのも……。

 カチコミが得意な奴を五人も集めたのも……。

 何とかして、犬子を殺す方法を……。

 逃げればどうだ?

 ねぐらに帰って、金をかき集めて、飛行機に乗って、遠くへ、北海道とか。

 逃げる、逃げる、ヤクザをやめて、息を詰めて隠れて、逃げる。

 何時か黒い影が俺の所へやってくる事に怯えて、ドブ鼠のように逃げまわる。

 ぬるぬると汗ばんだ手でハンドルを握る。

 キーを回せば、逃げられる。

 だが……。

 奴から逃げ切れるのか。

 恐怖が俺の心臓を握りしめ、ぶんぶんと振り回していた。

 吐き気が戻ってくる。

 キーを回せば。

 だけど。

 奴が追ってくるから。

 死が追っかけてくるから。

 扉を開けて裸の犬子が入ってきた。

 石けんの匂いがして、頬が赤くなっていた。

「逃げなかったの?」

「あ、ああ……」

「馬鹿だね」

 あきれたように犬子は言って、真新しいバスタオルで髪を拭いた。

「車を出して。次は服ね」

「わかった」

 俺はキーを回した。

 さっきは凍り付いたように回せなかったキーが、軽く回って、エンジンが動き出した。

 犬子は上機嫌そうに鼻歌を歌っていた。

 なんとなくすっきりした感じもあった。

 暗い路上にライトの光輪だけが映る。

「なあ」

「んー?」

「駄目なのか。もう、わびを入れても止められないのか?」

「わびねえ。そういうのは交流できる関係でするものだよね。ヤクザと魔物で手打ちはできないな」

「魔物、なのか? そんなのが居るのか」

「夜の世界にはいろんなのが居る。人の世界と接触はあまりないんだ」

「だけど、一家皆殺しなんて……」

 犬子はげらげら笑った。

「甘いね。お前達は私に銃弾を山ほどぶちこんだんだよ。どこの阿呆が立てた作戦か知らないけど、こんなのが流行ると面倒なんでね。見せしめに皆殺しにさせてもらう」

「た、頼むよ、なあ……」

「ヤクザなんでしょ、気っ風の世界だ。女々しい事言わないで、あっさりと死にな」

 死にたく無かった。

 俺が生き延びる為なら、組を売っても良かった。

 でも、駄目なんだと解っていた。

 助手席に乗った子供の形をした死は、俺たちの心臓をわしづかみにしてるんだと解っていた。

 俺は量販店の立体駐車場に車を乗り入れた。

「どんな服が良いんだ?」

「可愛いの買ってきて。一瞬、騙せるから。あと、パンツ」

 俺は溜息をついて、/

ドアを閉めた。

 

 子供服売り場なんざ、生まれてこの方入ったことが無い。

 俺が子供服を手にとって見ていると、ヤンキーなママさんという感じの女が睨んで通り過ぎた。

 弾をぶち込む前に犬子が着ていたようなワンピースと子供用パンツを買った。

 犬子が裸足だった事を思いだして、靴売り場に行った。

 サイズがわからねえ……。

 サンダルなら大丈夫だろう。

 ひまわりが付いたサンダルを俺は買った。

 ガキか……。

 ……あの女がガキが出来たって言ったのは雪の日だったな。

 面会場で泣いていたな。

 俺はあの時、懲役をくらっていた。

 強い口調で、あの女に堕すように言った。

 俺の子かどうかわからねえとまで言った。

 ムショから出てきた夏の日。

 ヤサには、女はもう居なかった。

 書き置きもなにも無かった。

 二人で住んでいたヤサは、ただ、空っぽだった。

 えくぼの可愛い、優しい女だった。

 もしもあの時。

 生むように言ってたら。

 ヤクザをやめて、あの女と所帯を持ってたら。

 たぶん、貧乏で苦しい生活をしていただろう。

 俺が生まれ育った家みたいな。

 でも、それでも。

 気の狂ったガキの魔物にとり殺されるような人生よりは……。

 ずっと……。

 ベンツに戻ると犬子は寝ていた。

 目を閉じて丸くなって寝ていた。

 あんなに残忍で凶悪な魔物なのに、寝ている姿は無垢な感じで、俺は少し見とれた。

「買ってきた?」

 犬子が細く片目を開けて言った。

「ああ」

 犬子の伸ばした手に紙袋を渡した。

 ビニールを八重歯で噛み破って犬子は着替えた。

「牛のくせになかなかセンスいいじゃんよ。

 ぎゃー、なんだよ、このサンダルー」

 犬子は笑った。

「に、似合うかと思ってさ」

 サンダルは犬子の手元で、キューキュー音を立てた。

「うひゃひゃひゃ、馬鹿みたいなサンダルだー、普通選ばないよ、こんなのー」

「そ、そうか」

 犬子はダッシュボードにサンダルを押しつけてキューキュー言わせていた。

 うひゃうひゃ笑っていた。

 気に入ったようだった。

 犬子の笑い声を聞いていたら、なんだか俺も嬉しくなってきた。

 犬子は笑いすぎで出た涙をぬぐうと、すっと表情を消した。

「そろそろ、行こう、牛。組に回して」

「わ、わかった……」

 

 

 俺は組に向けてベンツを転がした。

 ときどき、犬子のサンダルの音が車内に響いていた。

 組の近くの路上にベンツを止めた。

 俺はベンツを降りた。

 犬子も降りてきた。

 キュウキュウと犬子が歩くたびに間抜けな音が人気の無い道に響く。

「組はどこ?」

「そこだ」

 ビルの一階に組の事務所があった。

「先に入って、後から付いていくから」

「わ、わかった」

 俺は組のドアを開けた。

 応接室で代貸しがゴルフクラブを素振りしていた。

「おお、牛岡、帰ったか。真樹はどうした?」

「あの……」

「組長さんはどこですかー?」

 犬子が、俺の後ろから弾んだ子供声をだして代貸しに聞いた。

「あん、なんだこの餓鬼は?」

「なんだちがうのか。ほら、牛、とっとと行け」

 犬子に押されて俺は中に入って行った。

「おい、ちょっとまて、牛岡! 他の連中はっ!」

 事務所の奥に入った。

 オヤジと音田の兄貴が居た。

「おお、牛岡、帰っ……」

 オヤジは犬子の姿をみて血相を変えた。

「おい、牛岡、この餓鬼はなんだ」

 代貸しが事務所に入ってきて聞いた。

「ああ、組長さんは解ってるみたいね」

 組長は犬子をじっと見つめて動かなかった。

「おい、餓鬼おめえ」

「だ、代貸し……」

 犬子が代貸しのハラに肘を打ち込んだ。

 ロッカーを巻き込んで代貸しは部屋の隅へ転がった。

「言え、組長。いったい誰が頼んだ?」

「う、牛岡てめえっ、何を連れて来たっ!」

「……魔物です」

 きひっと犬子の笑い声が聞こえた。

 犬子は肩ひもをずらしてワンピースを床に落とした。

 パンツを脱ぎ始めた。

 ……服が血で汚れないように、脱いでいるのか。

 犬子は脱いだ物を机の上に投げた。

 サンダルも脱いで大事そうに、その上にそっと置いた。

 犬子を包んでいる空気が液体のように歪んで見えた。

 猛獣の気配が事務所の中に充満していた。

「おい、餓鬼、シャブでも喰って、お、おかしくなってんのか」

 音田の兄貴が犬子の近くに来た。

 兄貴の肩が細かく震えているのが見えた。

 自分で言った言葉を、少しも信じていないのが痛いほど解った。

「答えろ組長。誰に頼まれた?」

 犬子は兄貴の方を見もしなかった。

「おいっ!」

 兄貴が犬子の肩に手をかけようとした瞬間、びゅっと風の鳴る音がして、兄貴の手首が無くなっていた。

「答えろ」

 組長の顔色が紙のように白くなった。

「た、頼まれただけだ、頼まれただけだ、俺たちは関係ねえ」

 犬子の足元で音田の兄貴が手首を押さえ悲鳴を上げてのたうち回っていた。血がホースでまき散らすように、床に跳ねて、俺の靴に掛かった。

「うるさい」

 犬子が手を振り下ろすと、音田の兄貴が静かになった。

「誰に頼まれたの?」

「し、しらねえメガネの男だ、へらへらしてやがった。あんたみたいな雰囲気の」

「どこから回ってきた話かな?」

「と、飛び込んできたんだ、い、一千万、前金で、女の子を一人殺して欲しいって」

「ずいぶん安いね」

「や、やばいとは聞いたが、そんな、そんなまさか、女の子が、そんな」

「馬鹿だね、一千万で組一つ潰しちゃうなんて」

 魂が抜けたよな顔でオヤジは席を立った。

 犬子の前によろめき出て、力が抜けたように膝を付いた。

 頭を血まみれの床に強く押しつけた。

「ゆ、許してくれ。な、俺たちは知らなかったんだ。頼む、頼むよ」

 オヤジが土下座していた。

 無理だ。

 オヤジ、無理なんだ。

 これは人の話をきく代物じゃねえ。

 俺の膝ががくがくと震えた。

 回ってるコンクリートミキサーに手を突っ込んだら、手は無くなるんだ。

 言葉なんか何の意味もないんだ。

「駄目」

 甘い笑いを含んだ声で犬子は言った。

 犬子が手を振り下ろすと、オヤジが絶叫した。

 血飛沫がホースで撒いたように飛びちった。

 オヤジの首が半分もげて、床にたれさがっていた。

 犬子の両手は不自然に長く太くなり、真っ黒な毛皮が生えて、かぎ爪が伸びていた。

 犬子が振り返り、俺の方に来た。

 びくっと体を震わせた俺を見て、犬子はにんまり笑った。

「牛は最後最後」

 歌うような口調で犬子はそう言うと、俺の横を通り過ぎて、代貸しの方へ向かった。

 俺は振り返る事もできなかった。

 俺の後ろで風を裂く音がした。

 絶叫。

 血が床にまき散らされる音。

 金臭い血の匂いがむっと俺を包んだ。

 はあはあと犬子の荒い興奮したような息づかいが後ろで聞こえる。

「何だ、今の声……」

 部屋住みの進藤がドアを荒々しく開け、そのままの姿勢で固まった。

 進藤の後ろに五、六人の部屋住みが居たが、同じように息をのみ動きを止めた。

「う、牛岡の兄貴、こ、これ?」

 俺の横を風が通りすぎた。

 かぎ爪が進藤を襲った。

 顔がすだれのようになって、胸から血を出し、進藤は倒れた。

 風はそのまま部屋住みの奴らを回転しながらバラバラに切り刻んで行った。

 頭の中が痺れて考えがまとまらなかった。

 濃密な血の臭いに酔ったようになっていた。

 犬子は奥に姿を消した。

 あたりは静かになった。

 

 奥から時折、絶叫と怒声と何かが壊れる音がした。

 俺は凍り付いたように立ちすくんでいた。

 何も出来なかった。

 その場から一歩も動けなかった。

 俺は、俺の居場所が死に絶えて行くのを見ているしか無かった。

 死の塊が猛威を振るうのを止めるすべが無い。

 足掻くことも出来なかった。

 今はビルの屋上からダイブして、地面が近づいてくるのを見ているようなものだと思った。

 俺は殺しをしたことがある。

 俺のチャカで死んでいった奴がいる。

 借金で追いつめられた奴を始末したこともある。

 死ぬ奴ってのは、どこか彼岸を見るような目をしていた。

 俺の目も、あの彼岸を見るような色のない目になっているのだろう。

 奥から血で真っ赤に染まった犬子が帰ってきた。

 俺と目が合った。

 犬子は目を笑わせた。

「まったく、飛びこみじゃ、誰が頼んだか解らないじゃんなあ」

「あ、ああ」

 犬子は顔にべっとりと付いた血を拭った。

「ぜ、全部殺したのか」

「ああ、姐さんも子供も全部殺した」

 優しい姐さんの顔と、やんちゃだった、ぼんの顔が浮かんだ。

 本当に容赦がないんだな。

「命乞いしないの?」

「したら助けてくれるのか?」

「駄目」

「だったら、い、いい」

 俺は目を細めた。

 口を笑いの形に歪ませようとした。

 泣いてる顔。に見えるかもしれないなと、思った。

 犬子はふんわりと微笑んで、小さくうなずいた。

 衝撃が発生して、天井の灯りが大きく見えた。

 胸板に高熱の塊が生まれた。

 膝がピリッとしたと思ったら電撃のように激痛が爆発し

 痛い、痛い、殺すならひと思いにやってくれっ!

 腕が引きちぎられる感じがして、俺は泣き声を上げた。

 蛍光灯が大きく見えて、ぱつぱつと血が落ちてくるのが

 犬子の顔が見えた。

 遠い目で俺の顔を見ていた。

 まるで、ずっと覚えていようとする時のように。

 

「さよなら、父さん」

 

 え?

 胸に衝撃が発生して俺の意識は闇に包まれた。

 

 

 縁日の仕切に犬子が付いてきた。

 金魚の柄の浴衣を着ていた。

 俺の買ってやった、ひまわりのサンダルをキューキューいわせながら後ろについてきた。

「ねー、お父さん、わたしこのサンダル好きだよ」

「なんでだ?」

「お父さんが初めて買ってくれたサンダルだもん」

「そうか、犬子はお父ちゃん好きかい?」

「うん大好きだよ、お母さんも大好き」

 

 キューキュー

 キューキュー

 キューキュー

  キュウキュウ鳴っていた犬子のサンダルは発信音みたいな音に変わった。

 

 あのアマは堕さないで勝手に生みやがったのかと毒づいた。

 でもそれで犬子が生まれたなら良いのか。

 あれは良い子だしな。

 可愛くなったなあ。

 綿飴を買うか、たこ焼きか。

 たこ焼き名人の屋台を俺は知ってるぜ。

 

「先生、意識が戻ったようです」

 

 気がつくと病院に居た。

 足はあった。手も両方付いていた。

 滅茶苦茶に砕かれていたが、治ると医者は言っていた。

 組は全滅したと、聴取に来た刑事に聞いた。

 抗争で爆発物を投げこまれた。という事になっているらしい。

 ニュースでやっていた。

 俺は一人きりになった。

 若い頃と同じだ。

 あの女と暮らしていた頃。

 盛り場で呼び込みをやっていた頃と同じだ。

 医療費はどうしたもんかと頭が痛い。"

 犬子が手加減してくれたのかどうかは解らない。

 色々話したから情が移ったのかもしれない。

 別れ際に犬子が変な事を言うから、妙な夢を見たんだ。

 たとえ、あいつが本当に俺の娘だったとしても、生まれた事も知らなかった奴が、父親面するなんざ、ちゃんちゃらおかしい話だ。

 もう二度と会えないだろう。

 今でもあの子は、夜の底を歩いているのか。

 血まみれになりながら。

 目だけギラギラさせて。

 キュウキュウと、あのサンダルを鳴らしながら。

 

 何とか歩けるようになったので、退院した。

 医療費を聞きに行ったら、払われていると知った。

「三十万ほど返金されます。お子さんが来ましたよ。可愛いお子さんですね」

「……ええ、良い子でね……」

 松葉杖をついて、ねぐらに戻り。

 俺は泣いた。

 あちこちの組から盃を交わさないかと言われたが、断った。

 荒事はこりごりでさあ。

 と言うと、苦笑しながら引き下がってくれた。

 

 トラックの運転手を始めた。

 派手だったヤクザの頃が夢のようだった。

 たいして金は稼げないし、遊べない。

 だけど、心は平穏だった。

 こんな穏やかな日々は生まれて初めてだと気が付いた。

 いつか犬子が疲れた時に帰って来る場所を作りたかった。

 まっとうな生活をしていたら何時か、犬子は帰ってくるかもしれない。

 そんな甘い期待があった。

 今も犬子が帰ってくる気がする。

 ドアを開けて「今日、泊めてくれる?」

 そう言って入ってくる。

 そんな日は絶対に来ないのを俺は知っている。

 だけど、俺は、今もずっと、安アパートの一室で、俺の娘が帰ってくるのを待ち続けている。

 

(了)

説明
犬子先生がいろんな体液をぶっかけられたり、いろいろぶち込まれたりします。

狗張子シリーズの承前短編で、先に登録した二作に比べて荒ぶる犬子先生が出てきます。バイオレンスです。
この後、二三作あって、朗らかに成ってから、サトシ、サガシモノと続いておりますな。
(彼氏ができたんすな)
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