お面売り
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 親指で引っ掛けるようにギアを変え、体重を下に押し込むようにペダルを踏んだ。

 路面が後ろに飛ぶように過ぎ去っていく。

 国道ぞいの林の密度が薄くなって、木々の間から遠い連山が見えてきた。

 日光がTシャツ越しに肩を焼いて、少し暑かった。

 僕はさらにギア比を上げ速度をあげる。

 頬に当たる夏の風が強くなる。

 僕のシャツがぱたぱたとはためいていた。

 

 国道は城下町を出て西に向かっている。

 このまま、まっすぐに行くと連山を越えて、海に通じているらしい。

 ゆるい坂道の反対側に榊原の家が見えてきた。

 黒い幔幕が張り巡らされて、黒い服を着込んだ人たちが無表情に入っていくのが見えた。

 線香の匂いが、対岸の車線の端を行く僕の所にまで微かに漂ってきた。

 ふいに利香子ちゃんの事を思いだして、僕は奥歯を噛みしめる。

 榊原の様子を見てこようか、と一瞬思ったけど、やめた。

 やめて僕は立ち上がりペダルを思い切り踏んで、速度を上げて、ぐいぐいと坂を登っていった。

 

 榊原の家を通り過ぎると、国道は尾根にそって下っていく。

 目の前の景色が開けて、鮮やかな畑の緑や、光を反射して輝く田んぼが広がる平原が見渡せた。

 平原の真ん中に、こんもりした森があった。

 雛森という名前の森だ。

 あの森には女の子の浮浪児が居ると榊原が教えてくれた。

 僕はハンドルをしっかり握ると、雛森に向かう坂を一気に下って行った。

 

 

 国道を離れて砂利の脇道に入った。

 小石を跳ね上げて、しばらく行くと森の入り口が見えた。

 森の入口に古ぼけた掲示板が立っていた。

 白い紙に赤い印刷の忌夜の知らせと、珠姫神社の祭りのカラーのポスターが張ってある。

 マウンテンバイクを止め、掲示版を見た。

 お祭りの最終日が今日で、忌夜は明後日の日付になっていた。

 忌夜がお祭りの後にあるのはめずらしいな。

 

 忌夜というのは、この地方に伝わる風習で外出を禁じられた夜の事だ。

 周期とかは無くて、何回もある年もあるし、一回もない年もある。

 だいたい二ヶ月ぐらい前に、珠姫神社から、お触れが出る。

 二十一世紀だというのに意外と守られている風習で、城下町の人は忌夜には絶対に出歩かない。

 忌夜にはコンビニも閉まるぐらいだ。

 

 掲示板の横にマウンテンバイクを止めて僕は鎖をくぐった。

 中に入ると薄暗くて、森の独特の匂いがした。

 僕はうるさいぐらいのセミの声を体に浴びながら歩いた。

 木立の間を、涼しい風がざわざわと通り過ぎて、僕の汗が引いていく。

 ここら辺の森は下生えが少なくて見通しがいい。

 足元が絨毯みたいにふんわりとした腐葉土になっていて、しゃくしゃくと音を立てて土を踏んだ。

 

 榊原に教えてもらった楠の大木の方に進んだ。カブトムシを捕りに来たときに発見したと言っていた。

 雛森の大楠は外からも見えるぐらいの立派な大木だ。

 大楠の回りには木々が生えていなくて、ちょっとした広場になっていた。

 大楠の根本辺りに目をやると、確かにそれは居た。

 十歳ぐらいの小柄な女の子だった。

 樹の下に段ボールを引き、根っこを枕にして、こちらに背中を向けて横向きに寝ていた。

 ワンピースを着てるのだけど、あちこち泥がついて、木の葉のくずがまといついていた。

 寝ているのか微かに肩が動いていた。

 

 僕は女の子の近くに寄った。

 彼女は目をさまさなかった。

 段ボールの寝床のまわりには、パンの空き袋とか、カップ麺の容器とかが散らばっていた。

「おい、起きろ」

 僕は女の子に声を掛けた。

 女の子はビクッと肩を震わせると、目を開けて僕を見た。

 真っ黒な瞳だった。

 すこし怯えたような目をしていた。

「お前、名前は?」

 女の子は体をおこすと、顔をしかめて、首を小さく横に振った。

「うー、うー」

 なんだ、喋れないのか。

 それは逆に好都合かもしれない。

 僕はしゃがんで女の子の小さなアゴをつかんで顔を見た。

 うん、格好は小汚いが、顔立ちは整ってる感じだ。

 これなら綺麗に磨けば使えるな。

 女の子はうーうー唸りながら身をよじった。

「よし、お前、僕についてこい。良い思いをさせてやる」

「うーうー」

 女の子はイヤイヤをするように首を横に振った。

「お前みたいな浮浪児が文句を言うな」

「うーーー」

「お前はうーうー唸るから、これから、ウーと呼ぶ。早く立て」

「うーー」

 ウーは嫌そうな顔をした。

「今日は珠姫稲荷のお祭りだ、そこにお前を連れていってやる」

 祭りと聞いて、ウーの目の奥で何かがぴかりと動いた。

「美味しい物を食べさせてやるし、欲しい物は何でも買ってやる、だから僕の言うことを一つだけ聞け」

「うー……」

 ウーは迷うようにあたりに視線をさまよわせたあと、肩を落とし、溜息を一つ付くと立ち上がった。

「よし、素直だな、誉めてやる」

 僕はウーの頭をぐりぐりと撫でた。

「うー」

 ウーは半目で下をみて僕に撫でられるままにしていた。

 

 

 マウンテンバイクの荷台にウーを乗せる。

 ギアを下げ、ペダルを踏みこんで走り出す。

 僕の腰にウーの手の感触がして、すこしくすぐったい。。

 ウーはバランスの取り方が良い。昔、自転車に乗った経験があるのだなと思った。

 

 自転車は国道に出た。

 ウーを乗せたまま、僕は道を戻り、家に向かう。

 榊原の家を通り過ぎる時、読経の音が小さく聞こえて来た。

 

 坂を下りると旧珠姫藩の城下町が広がっている。

 大きな川が街の真ん中を流れ、東側に小さな天守閣の付いた城が見える。

 川が蛇行した下流の方の丘に、珠姫稲荷が見えた。

 ここからでも、遠く赤と白ののぼりが風にはためき、何か金色の物がぴかりと光るのが見えた。

 あの下で夏祭りが行われている。

 この地方では有数の大きな祭りで、縁日が参道一杯に出て華やかだ。

 今日は祭りの最終日で、夜には花火が上がる。

 

 城下の古い町並みの中を僕らは通り過ぎて行く。

 街は碁盤の目のように整然と細い道が連なり、割り掘りから水草の匂いが上がる。

 僕の家は街の西側の小高い丘だ。

 雛森のある平原を見渡せる高台に建っている。

 この高台は付き家老の屋敷があった場所だったらしい。

 廃藩置県で城を明け渡したひいひいじいちゃんが、家老の一族から土地を買い、屋敷を建てた。

 和風建築で、冬はあちこち隙間があって寒いが、夏は風が通って気持ちが良い。

 全室和室という訳ではなくて、僕の部屋や美鳥の部屋があるあたりは建て増しで洋風だ。

 

 僕は家の裏門に向かって、マウンテンバイクを走らせた。

 こんなよごれた浮浪児を連れて表門は通る事は出来ない。

 

 

「桜庭! 桜庭は居ないのか」

 ウーの手を引っぱって、廊下を歩きながら、僕は桜庭を呼んだ。

「はい、若様」

 桜庭は洗い物をしていたのか、台所の方から手を拭きながら歩いてきた。

 桜庭は僕たち兄妹の付き女中だ。

 一昨年、ばあやが隠居したので、父さんが探してきた。

 桜庭家というのは、旧藩では平の馬廻り役で、まあ、殿様の息子と娘の世話をするには少々家柄が悪いのだけど、二十一世紀にそんな事を言っていてもしかたがないと、父さんは桜庭を雇った。

 大学出たてなんで、大丈夫かなと僕は思っていたけど、桜庭は気働きをするたちで、家事の腕も良いし、みんなに気に入られた。特に美鳥が桜庭に懐いているので僕的には何の文句もない。

「桜庭、こいつを風呂に入れて、妹の浴衣を着せろ」

 桜庭は何の事かわからないようで、不審そうな視線をウーにやった。

 ウーを見た瞬間、桜庭は背中にカエルを入れられた時のような顔をして固まった。

「わ、若様……、こ、これは……」

「汚くて驚いたか、ウーだ。これを綺麗にしろ」

「うー」

 ウーが桜庭を見上げた。

 桜庭は胸に置いた手を下ろし、真剣な表情をして僕を見た。

「若様、これは、雛森の娘ですね」

「そうだ、雛森の大楠の下で拾った」

「今すぐ、楠の下に、これを返して来て下さい」

「なんでだよ」

「これは人が関わってはいけない……。呪われた者です」

 なんだ? いつもの桜庭らしくもない。

「こいつが何か知ってるのか」

「そ、その、これは……」

「うーっ!」

 ウーが一声唸ると、桜庭はビクッと肩を震わせた。

「おまえは何を威張ってるんだ」

 僕はウーの頭をうしろからぽかりと軽く叩いた。

「うー……」

 桜庭がひっと息を呑んだ。

 なんだ、そのライオンの口に頭をつっこんでる子供を見るような目は。

「とりあえず、こいつにやってもらわないといけない事がある。慈善事業だと思って、洗浄しろ」

「ぼっちゃま、その、私はやはり……」

「うーっ」

 ウーが桜庭の顔をみて唸った。桜庭はそれを聞くとうなだれた。

「お前偉そうだぞ。桜庭は僕の女中だ」

 ぼかりとウーの頭を叩いた。

「うー……」

 うーが口をとがらせて僕の方を見上げた。

「わ、わかりました、でもあまり深入りはしないでください。雛森の者は普通の人間と違うんです」

「違う? 魔物とでも言うのか、馬鹿馬鹿しい……」

 一瞬で、その場の空気が変な感じに固まった。

 ウーは知らんぷりをするように上を向いた。

 桜庭は下を向いて額に手をやっていた。

「……なんでもいいから。とにかく、こいつを洗浄して、浴衣を着せて、僕の部屋まで持ってこい」

「……はい、若様」

「僕はお母様に挨拶をしてくる」

「わかりました。……うーさん、こちらへ」

「うー」

 ウーは桜庭に手を引かれて浴室の方へ消えた。

 

 

 きゅっきゅと僕が歩くとともに廊下が軋んだ。

 安い作りだから、ではなくて、うぐいす張りという工法なんだ。

 曲者の進入を知らせる警報にするために、わざと音が出るように作ってあるらしい。

 お母様が寝ているといけないので、僕はなるべくゆっくりと音を立てないように歩いた。

 ここ一週間、お母様は床についている。

 妹も体が弱いが、お母様も体が弱い。

 珠姫の女は柳腰で体が弱い。

 江戸時代のころからそんなふうに言われていたらしい。

 うちの女たちの健康は、この地方の伝統にのっとった風俗なのだ。

 お父さんはそう言って笑い飛ばそうとしていたけど、寝込んでいる家族がいる家の透明な静けさのような物は拭いきれてはいなかった。

「晃です。はいります」

「はい、おはいりなさい」

 障子の向こうからお母様の柔らかい声がした。

 僕は、静かに部屋に入った。

 正座をして、お母様に頭を下げた。

 お母様はカーディガンを肩に掛けて、体を布団から起こしていた。

 僕の顔を見てにっこり笑った。

「今日はどうですか、お母様」

「だいぶ良いですよ。明日には起きあがれると思います」

 僕は少しほっとした。

 お母様が床につかれていると、何となく家中が暗い。

「美鳥も寝込んでいるそうね」

「はい、桜庭が見ています。お医者さんによると風邪だそうです」

「そう、元気なのは晃さんとお父さんだけね」

「早く元気になってください」

 お母さんは返事をせずに、ふんわりと笑った。

「今晩は珠姫さまの祭りの最終日ね、晃さんはだれといらっしゃるの?」

「美鳥と行くつもりでしたけど、熱があるので、クラスの誰かと行きます」

「榊原くんと……。あ、そうね、あそこのお家は今……」

「はい、明日、榊原家にご焼香に行きます」

「ええ、それが良いわね。桜庭さんに喪服を出してもらってから行くんですよ」

「はい……」

「もう、利香子ちゃんには会えないのね……」

「はい」

「最近は悲しい事ばっかりね……」

 お母様は庭の方へ目をやって、深く一つ息を吐いた。

 障子の下のガラスから見る庭は、夏の日差しで緑に輝いていた。

 庭の景色は、痩せたお母様の頬の尖り方と対照的で、僕は知らない間にうつむいていた。

 

 

 お祭りでお使いなさいと、お母様が五千円をくれた。

 ウーを接待する予算が増えた。

 お金をポケットに入れると、僕はそのまま、濡れ縁から庭にでて、倉に向かった。

 大きい鉄の錠前を開け、倉の中に入ると、埃くさい特有の匂いがした。

 箪笥階段を上がり、二階に昇る。

 二階の隅には刀箪笥がある。

 小さな窓から日差しが入って桐の木肌が灰色に見えた。

 この中には先祖伝来の宝剣が何本も入っている。

 僕は下の引き出しを開き、自分の守り刀を取り出した。

 鈍色に鶴の刺繍がある刀袋を開き、懐剣を手に取った。

 黒の漆塗りのこしらえで、菱巻の柄が手になじむ。

 少し力を入れると、音もなく鯉口が切れて、静かに光る刀身に僕の顔が写った。

 刃紋が柔らかく波打っていた。

 この懐剣は、先祖が豊臣秀吉から賜ったという村正の懐剣で、代々御子柴家の嫡子の守り刀として伝わっている。

 僕は静かに刃を納めた。

 静かな倉の中で、カチリと懐剣が鳴いた。

 

 懐剣をポケットに突っ込もうと思ったのだが、思いの外大きい。

 全長が三十センチほどなので、半分ほどポケットからはみ出してしまう。

 腰にさして、桜庭に見つかるとうるさいしな。

 辺りをみまわすと、紫地の風呂敷があったので、懐剣を包んだ。

 これでぱっと見は懐剣とは解らないだろう。

 階段を降り、戸を閉め、鍵をかける。

 片手に提げた懐剣入りの包みが、ずしりと重い。

 

 自分の部屋に戻り、僕は懐剣をリュックにしまった。

 ぱたぱたと廊下から足音がした。

「若様、入りますよ」

「ああ」

 ドアを開けて、桜庭とウーが入ってきた。

 ぱっと部屋が明るくなったような気がした。

 ウーは赤い矢絣に団扇の柄の浴衣を着て、髪にかんざしを挿していた。

 風呂に入って綺麗になったウーは別人みたいに可愛かった。

「へえ、馬子にも衣装って所だな。可愛いぞ」

 とりあえず、ウーを誉めたたえるために、頭をぐりぐりと撫でてやった。

「うー」

 うーは嬉しそうに目を細めて唸った。

「元々はすごく綺麗なんですから、磨き甲斐がありましたよ」

「桜庭も良くやった」

 背伸びして桜庭の頭を撫でてやった。

 桜庭はくすぐったそうな顔をして微笑んだ。

「ウー、来い、妹の美鳥に紹介してやる」

「うー」

 僕の部屋をでて、隣の美鳥の部屋にウーを連れていった。

 美鳥はベットの上で目を閉じていたけど、僕たちが入ってきたら薄く目を上げて、上体を起こした。

「寝てろ美鳥」

「だ、大丈夫ッ……」

 美鳥はかなり強い咳をした。

 頬がリンゴみたいに真っ赤だった。

 額に手を当ててみる。かなり熱い。

 美鳥はふうふうと荒い息をついた。

「寝てろって」

「うん」

 美鳥は渋々頭を枕に付けた。

「その人誰?」

「ウーだ」

「ウーさんこんにちわー」

「うー」

 ウーのうなり声を聞いて、おやという感じに美鳥の眉が上がったが、そのままにっこりと微笑んだ。

「おにいちゃんの恋人?」

 おませな事を言うな。

「まあ、そんな所だ」

 美鳥はウーの浴衣を見て、目を閉じてふうと溜息をついた。

「私もお祭り行きたいな」

「今年は我慢しろ、来年、お父さんとお母様と僕と、家族みんなで行こう」

「うん、約束だよ」

「ああ」

 ウーが枕元にしゃがみこんで、美鳥の頭を優しく撫でていた。

 美鳥は目を閉じてされるままにしていた。

「ウーさん綺麗ねー。お兄ちゃんと同じ学校?」

「うー」

 ウーが首を横にふった。

「そうなんだ。お兄ちゃんをよろしくお願いしますね。お兄ちゃん威張りんぼだけど、根はいい人だから」

「うるさい、なまいきな。僕がウーをよろしくするんだ」

 美鳥はそれを聞くと、くつくつと笑い、笑いの最後で咳が出て、コンコンと体を折った。

 咳をしている美鳥の背中を、ウーが心配そうな顔でさすっていた。

「お祭りでなにか買ってきてやるよ、なにが良い?」

「うーんと、うーんと、ひよこ」

 はあ?

「ひよこなんか駄目だよ、大きくなると困るぞ」

「なんでも買ってやるって」

 僕は溜息をついた。

「わかった、ひよこな」

 美鳥の顔が輝いた。

「うん、約束だよ!」

 桜庭の仕事がまた増えるな。

 

 開け放した窓から風が吹き込んで、レースのカーテンを生き物のように揺らしていた。

 遠くから祭囃子が小さく聞こえていた。

 美鳥には利香子ちゃんが死んだ事をまだ教えていない。

 二人はすごく仲が良かったから、どんなに悲しむ事だろうか。

 風邪が治ったら、告げよう。

 そう僕は思っていた。

 

 

「いや、僕はこのままでいい」

 畳んだ紺の浴衣を前に、桜庭がむっとした顔をした。

「駄目ですよ、お祭りなんですから、浴衣を着て下さい。ウーさんと釣り合いません」

「うー」

 浴衣なんか着たらリュックが持てないだろう。

「財布とかは、どうするんだ?」

「袂に入れていただくか、あ、ちょっとまってください」

 桜庭が部屋を出た。

 ウーは僕の部屋の真ん中でお人形みたいにちょこんと座って、部屋の中をめずらしそうに見ていた。

 桜庭が、どこからか薄緑の信玄袋を持ってきた。

「殿方の浴衣にはこれです」

 ウーがおそろいだと言うように、ニコニコ笑いながらウサギ柄のピンクの巾着を前に出して揺らした。

 馬鹿馬鹿しい。

 なんで女どもは着る物とかにこだわるんだろうか。

 うっとおしいことだよなあ。

 桜庭に手伝ってもらって、浴衣を着た。

 ふわりと樟脳の匂いがして、ウーと会った楠の木の匂いを思いだした。

 僕が浴衣を着終わると、女ども二人が歓声をあげた。

「ぼっちゃま、素敵ですよ」

「うるさい」

「うーうー」

「だまれ」

 リュックから信玄袋に、財布と懐剣入りの風呂敷つつみを移した。

「お小遣いは大丈夫ですか?」

「お母様にもらったが、沢山あっても困らない」

 僕は桜庭に向けて手を出した。

 桜庭は笑って、小さく畳んだ五千円札を僕の手に乗せた。

 これでウーの接待予算は一万円だ。

「よし、では、ウー、行くぞ」

「うー」

「楽しんで来てくださいませ」

「うむ」

 ウーの手を引っぱって、廊下を歩いた。

 玄関には、女下駄と僕の下駄が揃えてあった。

 下駄を履くと、カラコロといい音がした。

 桜庭が深く頭をさげていた。

 僕たちはお祭りに出発した。

 日が落ちかけていて、西の空が真っ赤に染まっている。

 庭越しに母屋を見ると、こちらを見ていたお母様と窓ガラス越しに目があった。

 僕が頭を下げると、お母様はにっこりと笑ったようだった。

 

 

 僕たちは二人分の下駄の音を連れて、長い坂を下りていった。

 だらだら坂を下りて、勝来橋を渡って、すこし丘に昇ると珠姫神社だ。

 ここからでも境内に並んだ夜店のにぎわいが見える。

 夕日に染まって赤い人々がアリの大軍のように蠢いていた。

 ウーは巾着をぶらぶらさせながら歩く。

 世の中は不公平だなと思った。

 立派な家に生まれた美鳥がお祭りに行けないぐらい体が弱いのに、森に寝泊まりするような卑しい身分のウーがこんなにも元気だなんて。

 勝来橋を渡り、神社に近づいていくと、人の群が増えていく。

 浴衣のお姉さんたちや、甚平のおじさんが右往左往し、提灯が光り、祭囃子が響いていた。

「ウー、はぐれるなよ」

「うー」

 ウーの手を握って、引っぱるようにして僕は進んだ。

 祭囃子が大きく聞こえ、屋台であふれているような参道を進む。

「何か食べたい物があるか?」

「うーっ!」

 ウーはじゃがバターの屋台を真っ直ぐ指した。

 そんな、最初からお腹にたまるような物を……。

 やっぱり森で寝泊まりするような女は、お祭りが解ってないなとは思ったが、約束なので買ってやった。

「チーズは掛けるか?」

「うーっ!」

 ウーは激しく頷いた。

「おじさん、チーズのかかった奴と、掛かってない奴を下さい」

「あいよう」

 おじさんはジャガイモにマーガリンをつけ、その上にチーズソースをトロリと掛けて僕に渡した。

 ほかほかのジャガイモの良い匂いがした。

 僕はじゃがバターをそのままウーに渡した。

 チーズのかかってない僕の分を受けとって、ウーの方をみると、ポリエチレンの器からじゃがいもが無くなっていて、ウーがぺろりと舌なめずりをしていた。

 あれ?

 ウーが物欲しそうな目で僕のじゃがバターを見ていたので、渡してみた。

 ガガガと三挙動で大きなジャガイモが、ウーの口の中に消えていた。

 ……こいつ、ひょっとして、もの凄い食いしん坊さまでは……。

「う、うー」

 ウーが恥ずかしそうな表情を浮かべて、僕の顔を見た。

「まあいい、おごってやるから好きなだけ食べろ」

「うーっ!」

「なんでもおごってやるし、なんでも買ってやる、そのかわり、あとで僕の頼みを一つだけ聞いてくれ」

「うー……」

 ウーはちょっと困ったような顔をして目を泳がせた。

「たいしたことじゃない、ちょっと怖いかもしれないが、我慢してればすぐ終わる」

「うう……」

 ウーは下を向き、口を尖らせて頬を赤らめた。

「いいな」

 ウーはちょっと僕の方を見て、恥ずかしそうな顔をした。

「う」

 そして、小さく頷いた。

「よし、契約成立だ」

 ウーは妙にキラキラした目で僕を見た。

 ちょっと可愛いなと思ってしまって、僕はウーの頭を撫でてしまっていた。

 

 女の子というのは、あまり物を食べないという生き物だと僕は思っていた。

 そういう意味では、ウーは女の子というカテゴリーに入らない。

 なんだか、見ていて爽快になるぐらいの勢いで食べる。

 さすが貧民の面目躍如という感じだ。

 焼きそばを二皿食べ、たこ焼きを二舟食べ、お好み焼きを二枚食べ、かき氷をかきこみキーンとしたのか頭を抱え、フランクフルトを三本噛み砕き、チョコバナナを二本飲み込むように食べる。

 よく食べるなあと呆れながら、僕はウーと一緒に屋台を制覇して回った。

 夜がだんだんと更けていき、稲荷の森の奥が真っ黒に変わり、空がじわじわと紺色を増していく。発動機の音がリズムを刻み、オレンジに光る提灯の横についた拡声器から割れたお囃子がながれ、人のざわめきが波音のように打ち寄せて、夜は更けていく。

 

 ウーが、お面売りの屋台で立ち止まった。

 アニメのお面みたいな物が欲しいのか? と思ったが、ウーの視線はお面が並べてある列の一番上にあった。

 一番上の列には、和紙を固めて作った狐の面があった。

「うー」

 ウーが屋台の柱を触った、その瞬間、全部のお面がゆらゆらと左右に蠢いた。

 屋台のおじさんがびっくりして蠢くお面の方に振り返った。

 ウーが柱から手を離すと、風に舞い上がったようにお面が辺りに散らばって飛んだ。

 屋台のおじさんが泡を喰って、参道に散乱したお面を拾い始めた。

「風かあ?」

 お面屋台上の方に、ただ一つだけ、和紙の狐面が残っていて、ウーは真っ直ぐにそれを見ていた。

「お面が欲しいのか?」

「うーうー」

「おじさん、そのお面ください」

 おじさんは飛び散ったお面を並べるのに大忙しで、あのお面を買うのにしばらく待たされた。

「ほら」

 やっと手に入った狐面をウーの顔に被せてみた。

 狐面でウーの顔が隠れた瞬間、僕の手の平にザワザワしたよう毛皮の感触がして、狐面が生き物のようににたりと笑った感じがした。

「うー」

 ウーが僕の手を押しのけてお面を外し、頭の横につけた。

「うーうー」

 ウーは嬉しそうだった。

 狐面を頭の横に着けたウーは、お祭りのポスターの子供モデルみたいに可愛かった。

 ウーは足首だけでぴょんぴょん跳ねて石段を登って行く。

 僕は笑いながら付いていった。

 

 お面を被ったウー。

 僕はウーの事を何も知らない。

 お面の下の素顔も、僕にとってはお面と変わらない。

 浮浪児の女の子。

 親はどうしたのか、なぜ雛森に寝泊まりしているのか解らない。

 桜庭は呪われた者とか言っていた。

 ウーは言葉を喋れないから詳しい事情もわからない。

 でも。

 僕だってお面をつけている。

 お兄ちゃんのお面。若様のお面。子供のお面。

 その場に応じてお面を付け替えて生活している。

 誰だってお面を付けて歩いている。

 ウーに限った事じゃない。

 ほがらかな善人の仮面の下に、毒蛇のような素顔を隠してる奴だって居る。

 それに比べればウーは素顔から善良な阿呆だと解るので、ずっとましなのかもしれない。

 ニコニコ笑ってトウモロコシを囓ってるウーを見ながら、僕はそんな事を考えていた。

 

「たのしいか?」

「うーっ!」

 凄く楽しいらしい。

 僕は頬が緩んでいるのを感じた。

 ちえ、可愛い子とデートしてデレデレになるだなんて、お父さんに見られたら笑われるぞ。

「あらーん。若様が女連れだ」

 振り返ると、同じクラスの佐竹が居た。

 Tシャツにサスペンダーでキュロットを吊すという祭りっぽくない普段着で、佐竹はイカ焼きを囓っていた。

「ほっとけ」

「あらあら可愛い子ですこと、家臣の娘なの?」

 佐竹はニヤリと笑った。

 佐竹は地元の人間ではない、東京から来た新聞記者の娘だ。

 環境保護とか、女権拡大とか、色々進歩的な事を言い出すので、僕はこいつが苦手だ。

「うー?」

 ウーが佐竹の方を見た。

 トウモロコシのカケラが頬についていたので、手ぬぐいをだしてウーの頬を拭ってやった。

「んま、お熱い事」

「なにか他に欲しい物はあるか」

 僕は佐竹を無視して、ウーに聞いた。

「うー」

 ウーはきょろきょろと屋台を見まわした。

「あのさ」

 佐竹が固い声を出した。

 僕は振り返った。

「榊原君、祭りに来てたよ」

「え?」

 嘘だろ。

「見た」

「どこでだ!?」

「あっち、死人みたいな顔して歩いてたよ。若様にご一報と思ったのだけどね」

「わかった。ありがとう佐竹」

 ウーの手を取って、佐竹の教えてくれた方に向かった。

 振り返ると佐竹と目があった。

 佐竹は小さく首を振ると、目を逸らして人混みの中に消えた。

 

 

「商売の邪魔なんだよなっ!」

 リンゴ飴の屋台の前で騒ぎが起こっていた。

 榊原が真っ白な顔色でうつむいて立っていた。

 屋台のおじさんが、榊原に向かって怒鳴っていた。

 僕は榊原の近くへ人ごみを分けて寄っていった。

 榊原の肩がブルブルと震えていた。

「どうした、榊原?」

「あ、あんた友だちかい? この坊主、黙ったまま屋台の前で立っててさぁ、こまってんだよ」

 榊原の焦点があっていない目が、僕の方に向いた。

 顔が歪んだ。

 涙がぽろりと頬を伝うのが見えた。

「若……」

「どうした?」

 僕は榊原の肩に手を置いた。

「リ、リンゴ飴、買いにきたんだ」

「……お供え?」

「う、うん、利香子、利香子はリンゴ飴が好きだったから……」

 去年の夏、利香子ちゃんが頭に大きなリボンを付けて、白い金魚柄の浴衣を着て、リンゴ飴を頬張っていた絵が浮かんだ。

 きゃいきゃいとした利香子ちゃんのはしゃいだ声が今も聞こえて来そうなほど、そのイメージはくっきりと僕の頭の中に浮かんだ。

「リンゴ飴を見たら、いろいろ思いだして、それで……」

 胸が一杯になって喋れなくなってたのか……。

「どうしたんだ?」

 屋台のおじさんが出てきて、僕たちを心配そうに見て言った。

「こいつの妹、一昨日死んだんです」

 おじさんの表情が曇った。

「そうだったのかい」

「リンゴ飴を供えるために買いに来たみたいです」

「う、うん」

 榊原は両手で顔を覆った。

「そりゃあ、ごめんなあ。おじさん解らなくてよ。……わるかった」

 おじさんがはちまきを解いて頭を下げた。

「きょ、去年もここで、僕と利香子は……」

「……もしかして、白い金魚の浴衣の子かい?」

「ええ」

「そっか、可愛い子だったんで覚えてるよ。そうか、死んじゃったのかい……」

 おじさんの声が震えた。目を見ると涙ぐんでいた。

「榊原、幾つ買うんだ」

「み、三つ」

「お金は?」

 榊原は握りしめていた拳から、小さく畳んだ千円札を出した。

「わかった、おっちゃんからもお供えだ、六つもってけ」

 おじさんははちまきを締め直して屋台に入った。

「僕からも、これで買えるだけ」

 僕は桜庭にもらった五千円札を屋台のカウンターに乗せた。

「わかったわかった。もう、今日は商売はいいや。作っただけもってけ。焼ける物だからお棺に入れられるだろ」

「若、若、ありがとう」

「何を言ってるんだ。利香子ちゃんは僕の家族も一緒だろう」

 うんうんと頷いて榊原は拳でごしごしと涙を拭った。

「一人で持てるか? 僕は人と来てるから」

「私が持つわ。若様はデート中ですしね」

 いつの間にか佐竹が後ろに来ていた。

 榊原が、はっとするように顔をあげ、僕の目を見た。

 

 若は利香子が死んだのに、お祭りを楽しめるのか、という非難の色がかすかに見えた。

 僕は榊原の目をきちんと見つめかえした。

 榊原はじっと僕の目を見た。

 

 非難の色が消えた。榊原は小さく頷いた。

 

「なにか理由があるの? 聞きたいわね」

 僕は佐竹を睨んだ。

「佐竹には関係ない。でも榊原を家まで頼む」

「若様は勝手よねえ」

「殿様は勝手な物と江戸時代から決まってるんだ」

 僕はウーを目で探した。

 ウーは屋台の間で背中を丸めてイカ焼きを囓っていた。

 

 ウーの背後に街の灯りが見え、その向こうに小高い丘が広がっていた。

 中腹あたりに四角い建物がある。

 あそこは病院だ。

 夜の丘に白くたたずむ病院は、墓石のようにも見えた。

 信玄袋の中の懐剣を布越しに確かめる。

 手に固い菱巻の感触が伝わり、少しほっとする。

 僕の胸がどきどきしてるのは、ウーがほんの少し可愛いから、だけではない。

 

10

 

 少し歩き疲れたので、境内のベンチでウーと並んで座って休んだ。

 屋台のおじさんがくれたリンゴ飴をウーに渡した。

 僕もリンゴ飴を囓る。

 小さくて赤くて甘酸っぱいその味は、もう会えない親友の妹の顔をいやでも思い出させた。

 前歯の裏にくっついた水飴を舌で舐めた。

 晃にいちゃま、と小さい利香子ちゃんは僕をそう呼んでいた。

 榊原家は旧藩の家老職を何人も出している名家で、僕の家とは家族ぐるみでの付き合いだった。

 シャリシャリと甘酸っぱい中のリンゴを囓る。

 胸が苦しい感じになる。

 家族でない僕でさえ、こんなに苦しいのに、利香子ちゃんを失った榊原の苦しみはどんなだろう。

 美鳥が死んだら、僕は榊原よりも取り乱しそうだ……。

 溜息を一つ付くと、頭を誰かに触られた。

 横を見ると、ウーが優しく微笑んでいて、僕の頭を撫でていた。

「やめろ、男の頭を気安くなでるなっ」

「うー」

 体裁が悪いのでウーの手を乱暴に振り払うと、ウーはちょっとふくれっ面になった。

 生意気だぞ貴様。

 ウーが僕の方へしなだれかかってきた。

 重い。

 なにすんだ、こいつ、と思って辺りをみると、境内の中はカップルで一杯で、僕らと同じようにイチャイチャしていた。

 むう。

 まあ……、いいか……。

 肩に伝わるウーの体温はそんなに悪くないし。

 僕の手を握るウーの手の冷たさも悪くはない。

 僕の肩にウーの頭があって、頬に細い髪がさらさらと当たる。

 樟脳の匂いとシャンプーの匂い、石けんの匂いがする。

 

 とん。と乾いた音が河原の方でした。

 ひゅるると風切る音がした。

 どどんと大きな音が頭の上で広がる。

 色とりどりの光が頭上で破裂した。

 パリパリと細かい音が光って、小さく細くなって消えていった。

「うー!」

 ウーが歓声のうなり声を上げ空を見て立ち上がった。

 花火が何発も、重なりながら夜空に広がる。

 地に響く発射音と、風を切る音、空で爆発する音。

 音が重なり合い、光りが混ざり合い、空を染め、山を染め、ウーの頬を染める。

 景色を鮮やかな色に染めて花火は広がる。

 祭りに来た人々が一様に空を見上げ、歓声をあげていた。

 リンゴ飴を沢山抱えて帰る榊原と佐竹にも見えるだろうか。

 美鳥やお母様も家でこれを見てるだろうか。

 お父さんは会社でこれを見てるだろうか。

 空一面に色とりどりの花が咲き乱れ消えていった。

 もうすぐ夏祭りが終わる。

 

11

 

 人混みがだんだんと減っていき、熱気がしぼむように境内は少しずつ寂しくなる。

 でも、僕は祭りの後のさびしさがそんなに嫌いではない。

 屋台の片付けが始まり、人の群が参道を降りていくのが見えた。

「じゃあ、ウー、ちょっと付き合え」

「うー……」

 ウーは頬を染め恥ずかしそうな顔をしてこっちを見た。

 ……。

 なんでそんな顔なんだ?

 なんか勘違いしてるっぽいな。

 なんだろうか。

 僕はウーの小さい手を引いて参道を降りていく。

 カラコロと下駄の音を二人で響かせて夜道を行く。

 駅に向かう道をはずれると、人の流れはだんだんと少なくなっていく。

「うー?」

 どこいくの? という感じにウーが唸った。

「もうちょっと向こうだ。だまって歩け」

 街の中央に掛かる珠姫大橋を渡り、夜の街を西に向かって歩いた。

 坂を上がっていくと墓石のような病院の建物がだんだんと大きくなる。

 

 少し迷い、が出ていた。

 僕たちが助かるために、ウーに迷惑を掛けていいのだろうかと、迷った。

 でも他に手はない……。

 妹を助ける為だから。

 森の中に住む浮浪児だから良いんだ。

 いい目を見させてやるから問題ない。

 そう考えて、僕はウーを拾ってきた。

 今はウーの手を引きながら、それが本当に正しい事なのか迷っている。

 ……でも、他に手はない。

 

 病院の玄関に着いた。

 教えてもらった裏口から僕たちは中に入る。

 人気のない裏口で、スリッパに履き替えた。

「うー?」

 ウーがあたりを見まわしておどおどしていた。

「もうちょっとだ」

 階段で半地階に下りる。

 夜の病院は誰も居なくて薄暗かった。

 僕らの足音が、オレンジ色のライトに照らされた廊下に響く。

 結構長い廊下。トンネルみたいだ。丘の中にめり込んでるのかも知れない。

 突き当たりに黒くて大きなドアがあった。

 院長室とドアにプレートが掛かっていた。

「う? う?」

 ウーが僕の袖を引っぱった。

「ここだ」

 それを無視して僕は院長室のドアを開けた。

 

12

 

 院長は大きな机の向こうから、作り物のような笑顔を僕に向けた。

「時間通りですね、御子柴君」

「はい」

「おや、妹さんではないようですが」

「妹は熱をだして寝込んでいますので、遠縁の者を連れてきました」

「うー?」

 ウーが僕の後ろで当惑したような声を出した。

 僕はウーの肩をつかんで前に押し出した。

「ふむ、なかなか可愛い子ですね」

 院長は気持ちの悪い笑みを浮かべて立ち上がり、ウーに近づいた。

「とりあえず、この子で我慢しておきますが、次は妹さんも連れてきてくださいね」

「はい」

「うーっ!」

 院長にアゴをつかまれて、ウーが叫んだ。

 悲しそうなウーの目が僕を見ていた。

 そんな目で、僕を見るなよ。

 しかたが無いんだ。

「しゃべれないのかい? それは都合が良いね。女の子はおしゃべりだからねえ」

 

 嫌な噂が、この街の子供の世界に流れていた。

 古閑森病院の院長はちいさい女の子に悪いことをするという噂だ。

 肉親が古閑森病院に入院すると、院長から子供に電話が掛かってくる。

 内容は脅迫だ。

 妹を病院に連れてきて下さい。断ると、入院中の家族が死にますよ。と。

 大人に相談しても家族は死にますよとも言うらしい。

 そして、それは噂ではなくて、本当に榊原に起こった。

 榊原の所に院長から電話が掛かってきたと、後で聞いた。

 おばあちゃんが死にますよと。

 

 榊原はおばあちゃんが大好きだった。

 でも、利香子ちゃんも大好きだった。

 あの頃の榊原は、死んだ魚みたいな目をして、雲を踏むように歩いていたのを思い出す。

 僕はその時、榊原がどうなってるのか、凄く心配で、でも何も相談してくれない事に腹を立てていた。

 

 榊原は一人で思い悩んで、利香子ちゃんを院長の所に連れていった。

 餌食になった女の子は元気がなくなるけど、死にはしないという噂だった。

 おばあちゃんを救うためだと自分に言い聞かせて、榊原は利香子ちゃんを病院へ連れて行った。

 

 三時間ほどして迎えに行った榊原は、利香子ちゃんを一目見て、取り返しのつかない事になった事に気づいた。

 綺麗な物が砕け散って、もう元には戻らないんだと、利香子ちゃんの光の無い目を見てそう思ったと言ってた。

 利香子ちゃんはロボットのように無表情で、目がガラス玉みたいに凍っていたと言ってた。

 その夜、利香子ちゃんは小学校の屋上から飛び降りた。

 僕が殺したんだと榊原は僕の前で泣いた。

 昨日の事だったのに、もう随分昔みたいな気がする。

 

 そして昨日の夜、僕の所に電話が掛かってきた。

 院長からだった。

「美鳥ちゃんを明日の夜、お祭りが終わったらつれてきて下さい」

 優しくて柔らかい声だった。

 真心の籠もった言葉を掛けるような声だった。

「断ると、あなたのお母さんが死にます」

「誰にも言ってはいけませんよ。誰も取りあいませんし、お母様が死にます。美鳥ちゃんも死にます。お父さんも死にます。君は死にません。一人で苦しみます」

 美鳥をつれていっても、つれて行かなくても、僕の大事な物が破壊されるんだって解った。

 そして僕は決断した。

 榊原から聞いた、雛森の女の子を美鳥の代わりに連れて行こうと……。

 

13

 

 ウーの目が傷ついたような色を浮かべていた。

 僕を見た。

 やめろ、そんな目で僕を見るな。

 我慢するんだ、すぐ済む。

「いいこにしていなさい。大丈夫怖いことは無いですよ。ちょっと痛いかもしれませんけどね」

 院長は太った体を揺すって笑った。

 真っ赤な唇がてらてらと濡れて光っていた。

「大丈夫、がまんしていれば、すぐ楽しくて気持ちよくなりますからね」

「うーっ!」

 ウーが暴れていた。

 でも、大人と子供では勝負にならない。

 院長はウーが抵抗するのも楽しんでいるようだった。

「じゃ、じゃあ、僕はこれで」

「はい、またね、御子柴晃くん」

「うーーっ!!」

 ウーの浴衣の帯が解かれた。

 真っ白なウーのお腹が見えた。

 

 僕は、もう少し待つつもりだった。

 もう少し院長がウーに気を取られるまで待つつもりだった。

 

 真っ白なウーのお腹を見た瞬間。頭の中が沸騰した。

 ウーを囮に連れてきたのに意味が無かったな、と心の冷静な部分がそう思っていた。

 

 僕は信玄袋に手を入れた。

 風呂敷の隙間から手を入れて、懐剣を引き抜いた。

 白々と光るその刃はとても綺麗で、澄んだ灰色をしていた。

 刃を上にしてしっかりと柄を握りしめ、僕は院長目がけて突っ込んだ。

 

 ウーの目が丸くなって僕を見ていた。

 彼女の横頭に付いた狐面がうなずくように縦に揺れた。

 

 村正の懐剣と僕は一体になった。

 只一本の刃と化して、僕は院長に突進した。

 怒りは無かった。

 感情は揮発していた。

 ただ逆上があって、前に突進する力になり、何も考えず、頭の中を真っ白な刃で満たし、院長の背中に激突した。

 

 マーガリンに指を入れるぐらいに、あっさり懐剣は院長の背中に刺さった。

 抵抗がなかった。

 息を吸って、腰を引き、懐剣を抜いた。

 もう一度、渾身の力を入れて刺した。

 今度は手応えがあった。

 手に重みのような物が伝わった。

 

 時間が妙にスローモーになって、部屋の中から色が消えた感じがした。

 ウーのはだけた浴衣だけが妙に赤かった。

 

 浴衣だけ?

 

 体が強ばった。

 院長の傷から、血がでてこない。

 

 院長に接している僕の肩が体温を伝えてこない。

 

 上を見ると、院長が表情のない目で僕を見下ろしていた。

 

 心臓の鼓動が僕の胸を震わせた。

 なんだ、これは。

 

 院長の目の色が琥珀色に変わり、瞳孔が縦に細くなった。

 

「さすがは、藩主御子柴家の子供と言いたいですが」

 院長は腕を振った。

 僕の頬に熱い物が生まれ、背中に衝撃があって、天地がひっくりかえった。

「残念ながら、死んでいる私をさらに殺すことはできません」

 床に這って僕は院長の巨体を見上げた。

 

 これは、なんだ?

 化け物?

 

「私は言うことを聞かない子供は嫌いです。じっくりと嬲り殺してあげましょう」

 体が震えていた。

 血の気が急速に下がっていくのを感じた。

 体温が冷える。

 僕は恐怖していた。

「病院というのは便利な施設です。御子柴君は今晩、たちの悪い暴漢と喧嘩になり、殴り殺された。そういう診断書を幾らでも作れるんですね」

 院長の足が動くと、僕のお腹に熱い衝撃が生まれた。

「ウーッ!! 窓から逃げろっ!!」

 院長の手がウーから離れていた。

 ウーの後ろには窓があった。ここは半地下だから、すぐ逃げられる。

 僕は院長の足にしがみついた。ぶよぶよして気味の悪い感触が手に伝わってきた。

「ははは、では、まずはあの子を御子柴君の目の前で殺してあげましょう。それがいい、それがいい」

 院長は足を振って、僕を床に転がした。

 もの凄い力だった。

「ウーッ!! 逃げろーっ!!」

 

 ウーははだけた浴衣の前をあわせもしないで、じっと立っていた。

 すくんでるのか? と思ったが、違っていた。

 ウーは僕の方を見て、ふんわりと微笑んでいた。

 

 心配ないと言うように、胸の前でひらひらと手を振ると、ウーは狐のお面をすっぽりと被った。

 

 ドンッと部屋が揺れた感じがした。

 部屋の空気が異様な物に変化していた。

 狐面を被った女の子が立っているだけなのに、まるで、猛獣の群が居るような気配が部屋の中に満ちた。

 ウーのまわりの空気が、ぐんにゃりと陽炎のように歪んでいた。

 紙で出来ているはずの狐面が生々しい質感で顔をゆがめ嗤うのを見た。

 

 院長が後ずさりをした。

 

「お、おまえは……、空蝉の……」

 ウーは答えない。

 ただ、荒い獣のような息づかいだけが聞こえた。

 

「陣地、雛森の陣地はどうしたのだ」

 ウーは答えない。

 狐面があざ笑うようにニヤニヤと嗤う。

 

 院長がひゅうを音を立てて息を飲み込んだ。

 恐怖していた。

「お、お前は勘違いをしている。これは、この地方独特の支配の形で……」

 ウーは答えない。

 焦げ臭い匂いが漂った瞬間、ボッと音を立てて、ウーの後ろに蒼白い炎の玉が幾つも生まれた。

 

「合戦、合戦はどうするのだ、私を殺したら、連合は我が眷属の合力を受けられぬ! 合戦に負けるぞっ!」

 狐面の口が開いた。真っ赤な長い舌がたらりと垂れた。

 かかかかか、と乾いた笑い声がした。

 ウーの返事はそれだけだった。

 

「やめろっ! 馬鹿なっ! 人を食っていたわけではないぞっ!! 精気を食らっていただけだっ!!」

 

 ウーが手を上げ、院長を指さした。

 その瞬間、蒼い炎が部屋の中を乱舞し、院長に襲いかかった。

 蒼い劫火にまとわりつかれ、院長は大きな口を開け、無音の絶叫を放った。

 髪を焼いたような、嫌な匂いが辺りに充満した。

 みるみるうちに院長の体に火が廻り真っ黒になっていった。

 蛇のようにのたうち回り、院長の体が焼き切れバラバラになっていく。

 もの凄い炎なのに、熱気はまったくこちらに伝わって来なかった。

 バチバチと燃える音だけが響き、しばらくすると院長は一抱えの灰になった。

 床には焦げ後一つ無かった。

 

 ウーの手がお面をつかんだ。

 手に腱が浮かんでいて、強い力で面を引っぱっているのが解った。

 むしり取るようにしてウーは面を外した。

 僕は茫然となって彼女を見ていた。

 

 ウーはぱたぱたと裸足で歩み寄ってきて、院長だった灰の中に手を入れた。

 灰の中から懐剣を引き出すと、ぱたぱたと僕の方に来た。

「うー」

 にっこりと笑って、ウーは懐剣を僕に差し出した。

 懐剣は焦げた痕跡一つ無かった。

「あ、ありがとう」

「うーうー」

 僕は懐剣を受けとって、鞘に納めた。

 頭が痺れたようになって、事態をどう受け止めていいか解らなかった。

 しかたがないので、とりあえず、ウーの浴衣の前を合わせ、帯を締め直してやった。

 白いお腹は目に毒だ。

 まあ、何となく乱れているが、ほどほどに浴衣はまとまった。

 

14

 

 病院から外にでると、ぽっかりと満月が山の上に昇っていた。

 風の吹く中を、二人で歩いた。

 病院の丘を降りると、道は二つに分かれていた。

 僕の家に方に行く道。

 雛森の方に行く道。

 ウーは立ち止まった。

「うー」

 彼女は雛森への道を指さした。

「もう、帰るのか?」

「う」

 ウーは頷いた。

 

 なんだか、色々聞かなければならない事があった。

 お前はいったい何者なんだ?

 院長はなんだったんだ?

 でも、ウーに聞いてもしょうがないことだ。

「色々ありがとう。かたじけない」

 僕はウーに頭を下げた。

 本当は美鳥を連れてきて、囮にして院長を刺すつもりだった。

 でも、昨日から急に美鳥が寝込んでしまって、その手はつかえなくなった。

 苦肉の策で、榊原から聞いた森の女の子を囮に使うことにして、ウーと会った。

 ウーと出会えて良かったと思う。

 ウーは僕と美鳥の恩人だ。

「うーうー」

 ウーは首を横に振った。

 僕はウーの頭を撫でた。

「う」

 ウーが耳をかしてという感じに、指を動かしたので、かがみ込んだ。

 指で顔を回されたと思ったら、唇と唇が合わさっていた。

 月だけがそれを見ていた。

 

 ウーは笑って、体を離し、手を小さく振った。

「さよなら、ありがとう」

「うー」

 ウーは浴衣の袂を振りながら雛森の方へ走って行った。

 森の重なる闇の中へ道は続いていて、ウーの浴衣の赤が溶けて行った。

 僕はずっとウーの去っていく方をみていた。

 

15

 

 一夜明けた。

 僕はぐっすりと寝た。

 昨日の事が夢でない証拠に、僕の懐剣は脂のような物で曇っていた。

 桜庭が裏門で、乱雑に畳んだ赤い浴衣を見つけた。

 物干しに洗濯して出しておいたウーの服が、かわりに無くなっていたそうだ。

 浴衣の上にはボール紙の箱が置いてあり、その中でひよこが一匹ぴよぴよ鳴いていた。

 下手くそな字で「美鳥ちゃんへ」と書いてあった。

 

 僕は利香子ちゃんの葬儀に行った。

 黒い背広が窮屈でうっとおしい。

 粉みたいなお香を上げて、利香子ちゃんの遺影を拝んだ。

 お棺の窓から見える利香子ちゃんの顔は安らかそうに眠っていた。

 精進落としの会場でおじさんやおばさんが、古閑森病院の院長が死んだ話をしていた。

 話している大人から、ほっとしたような雰囲気が漂うのはは気のせいだろうか。

 何年、やつはああいうことをしてんだろう。

 精気を喰うとか言ってたな……。

 この街の女の人が体が弱い人が多いのは、奴のせいだったのかもしれないな。

 

 榊原の部屋に行った。

 榊原は僕の顔をみてたとたん、くしゃくしゃに表情をゆがめて、泣いた。

「泣け」

 泣いて、利香子ちゃんを送り出してやろう。

「あいつを、利香子の仇をうってくれたのかっ」

「僕じゃない」

「嘘だ」

「なにか関係していたとしても、僕は言わない。結局は失敗だったしね」

「何があったんだ」

「言う必要はない。不正が正された。それだけの事だ」

 榊原は泣きじゃくった。

「あとはちゃんと悲しんで利香子ちゃんを送りだしてあげよう」

 榊原は泣きながら、何度も何度も頷いた。

 

 お葬式の帰り道、佐竹が僕の後ろに付いてきた。

「若様は色々大変ですこと」

「藩主の勤めだ。大したことではない」

「馬鹿殿」

 ぼそっと佐竹が毒づいた。

 黒いワンピースを着た佐竹は、いつもよりちょっとだけ可愛いかもしれないと思ったが、口にも顔にも出さない。ほら僕は侍だし。

「お父さんにさあ、あの噂調べてって、この前、頼んだんだよ」

「へえ」

 佐竹の父さんはよその県から来たよそ者の新聞記者だから、記事に出来たのかもな。

 今となっては意味がないが。

「お父さんは言ったの。それを調べ始めると、必ずその記者は死ぬ事なんだって。だから駄目だと言ったんだ」

「そうか」

 新聞記者も頼りないな。

「ちょっとお父さんの事幻滅した。でも、お父さんはこうも言ったんだ。まず家族が死んでいくらしい、だから私はその噂に関して手をだす訳にはいかない。お母さんとお前を失うのは死ぬよりもつらいからだって」

 奴は不可侵だったんだな。

 家族を質に取られて動ける人間はそうは居ない。

 佐竹は僕の前に回った。

 僕の手を取って、じっと目を見つめて来た。

「もう、そういうことは起こらないの?」

「起こらない。よそから来たとびきり馬鹿な稲荷の化身みたいな奴が悪党を退治した」

「……本当の事?」

「殿様は嘘ばっかり付くから信用しては駄目だ」

 佐竹は肩をすくめた。

「今晩は忌夜だそうだ。外にでるなよ」

「まったく田舎はお化けとか迷信とかが一杯でいやんなっちゃうわ」

「この街が嫌いなのか?」

「意外に好き。博物館みたいで面白いし。封建制度が残ってたりするしね」

「それは何よりだ」

「あの、お祭りに連れていた綺麗な女の子は彼女?」

「あー、なんだろ。というか、なんでそんな事聞くんだ」

「えっ、い、いや別に意味とかはありませんよ、若様」

 佐竹は慌てて顔の前で手を振った。

 女の子って、時々こういう意味のわからない質問するよなあ。

 

16

 

 ちょうど桜庭が車で通りかかったので、佐竹と別れて乗っていく事にした。

 家のアウディの後部座席に荷物が一杯あって、桜庭が買い物帰りだと解った。

「今晩は忌夜ですから、ちょっと買い置きしてきたんですよ」

「そうか」

 車の窓から雛森のこんもりした森が見えた。

「まだ、あいつは居るのかな」

 僕は大楠を目で捜した。

「若様、もう、ウーさんには関わらないでください」

 桜庭が静かに言った。

「わかってる」

「人が関わってはいけない事があります」

「桜庭に幾つか聞きたい事がある。話せるか?」

 車の速度が落ちた。桜庭は黙って路肩に車を寄せて止めた。

 車内に小さくエンジンがアイドリングしている音だけが響いていた。

「……本来は、知らない方が良いんです、我々の事など知った所でどうなる物ではありませんから……」

 桜庭はハンドルに手をかけてじっと前だけを見ていた。

「今回は美鳥さままで狙われました。思いもよりません事で、申し訳なく思っております。お詫びにもなりませんが、私の答えられる範囲で、逆さまのご質問にお答えします」

 なんだか、急に桜庭が違う存在になったような気がした。

 いつものほがらかで優しい彼女ではなくて、なんとなく陰気で怖い感じの桜庭がそこにいた。

「おまえたちは何なんだ?」

「昔々、ちょっと人と違う能力を持つ者共が居たと思って下さい。それらの人たちは数が少ないので、迫害を怖れ、歴史の影に隠れて、夜の社会を作っているんです」

 それが魔物か……。

 一応、人の範疇には居るんだな。人と猛獣のようにまったく隔絶した存在ではないみたいだな。

「院長はなんなの?」

「二百年前にこの地方の夜の部族に名君が生まれたと思って下さい。それは素晴らしい主君で、数々の偉業を成し遂げ部族を大きくしました。この地方の大名と組んで、人との共存共栄を目指し、それは成功しました」

 はあ、院長の先祖は凄かったのか。

 子孫の院長はなんか変態親父だったけどな。

「何時から、かのお方が狂い始めていたのかは解りません。主君は他人の精気を食べ寿命を延ばす術を身につけられました」

「人は二百年も生きられないよ」

「普通でしたらそうですが、我々は色々と天地の理を曲げる事ができるんです。

 院長本人が偉い人だったのかよ。

 あのざまで。

「たぶん術によって、生を引き延ばした事が精神を蝕んでいたのだと思います。昔のように十年に一度程度でしたら目もつぶれますが、だんだんと頻度が上がって毎月のように子供を攫うとなると……」

 頻度がだんだんと上がってきたのか。

 あいつに懐剣を刺しても血がでなかった。体温も氷みたいに冷えていた。

 死人を殺すことは出来ないと言っていた。

 あいつの自前の命というのは、名君の才と共にとっくに燃え尽きていて、残ったのは執着と、ただ死ぬまいという邪な願いだけだったのだろう。

「この国の女性の体が弱いのは……」

「それは……。わが君のせい、でもあります……」

「お母様も、やっぱり……」

 桜庭は黙して答えなかった。

 否定していないというのが答えなんだなと、僕は思った。

「ウーに罰とかは?」

「ご安心ください、あの子は不問となりました。本来は我々がすべきことを若とウーさんがやって下さいました。ご迷惑をおかけして……」

 そうか、ウーは大丈夫だったか。

「ウーはどこの子なの?」

「それは私たちにも解りかねます。合戦の連合側の兵なので」

「そういえば、合戦て、なに?」

「複数の団体があると、時に衝突があります。夜の民に紛争がある場合、合戦場と呼ばれる場所に二派が入り一晩、戦って決着をつけるんですよ。この珠姫藩は古来からの合戦場だったのです」

 なるほど、忌夜の通達で一般人の出入りを無くしてから、魔物さんたちが合戦をするわけか。

 妖怪決戦スタジアムだな。

 ウーの所が巨人軍で、もう一派が阪神、桜庭たちは球場管理会社みたいなものか。

 巨人軍選手が休日に、悪いことをしていた球場経営の社長を殴ったみたいなものだ。

「解ってしまうと、思いの外、庶民的な事なんだな」

「まあ、夜の世界と言っても、人のやることですから」

「こういう事を僕に喋っても大丈夫なの? 僕がお父さんに告げ口したりしたら」

「御子柴様は我々の事をご存じですよ」

「そうなの?」

「ええ、市長さんとか、警察署長さんとか、社会の上の方に居る方には知られております。若様も将来は知ることですから、今少々語ってもかまわないと、長老会からの通達がありました」

 

 なんとなく、腑に落ちた感じがあった。

 僕が、強い決心をして動いたから院長を倒すことが出来た、という訳ではないのだろう。

 ウーが居なかったら僕は死に、美鳥は遠からず院長の毒牙に掛かっていたはずだ。

 

 僕は、珠姫稲荷さまが院長へ罰を当てる神事の上に乗っかって動いていたのかもしれない。

 雛森に一歩入ったあの時から神体の道行きが始まったのだろう。

 神体は洗い清められて、祭りで供宴され、面を授かり、悪の元に着きこれを葬る。

 ああ、そうだ、お祭りが終わってから、本当の意味での神事があったのだ。

 

 桜庭はアクセルを踏み込み、車を発進させた。

 僕は遠くなる雛森を目で追った。

 木立の奥に一瞬、ウーの後ろ姿を見たような気がする。

 

17

 

 美鳥がひよこの入った箱を持って歩いているので、廊下がぴよぴよとうるさい。

「桜庭さん、今晩は居ないの?」

「ええ、用事がありますので、私は実家で忌夜をむかえますわ」

 桜庭はよそ行きに着替えていた。

 馬子にも衣装だな。と思った。

 ちょっと桜庭に失礼か?

「あの子に会ったらよろしく言っておいてくれ」

「何をおっしゃっているのか解りませんが。伝えておきます」

 桜庭は微笑んだ。

 

 夜半、家から見える野原に一面の狐火が灯った。

 ゆらゆらと動いていた。

 僕が廊下の窓からそれを見てるとぴよぴよひよこの鳴く声が近づいてきた。

 美鳥がパジャマでひよこの箱を抱いて廊下を歩いて来た。

 僕が外を見ているのに気がつくと、なになにという感じに背伸びして窓を覗きこんだ。

「うわあ、綺麗」

 街の夜景のように、無数の狐火が平原に広がって動いていた。

 青くてもの悲しいような色をしていた。

 雛森の辺りから小さな狐火がびっくりするぐらいの速度で真ん中目がけて走っていた。

 ウーかな? とも思った。

「あの炎の下にさ」

「うん」

「友だちが居るんだ」

「狐さんの友だち?」

「そんな感じかな」

 狐火はあちこちで動き、点いたり消えたりした。

 桜庭もあの下にいるのか。

 

 その後、僕はウーに会うことは無かった。

 珠姫藩にはその後も忌夜が来て、桜庭は実家に泊まりに帰る。

 

(了)

説明
犬子が出てこない狗張子物。ヒロインはウーさんです。
田舎の感じとか、お祭りの夜のいかがわしくてわくわくする感じとか。
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