ソロモンの青い鍵・2 |
ソロモンの研究材料が何故こんな所に捨てられているんだ? まさかこいつがこんな所にずさんに捨てられているから胞子が町中に散ってしまったんじゃ…こりゃあもう謝ったってすむ問題じゃないぞ。
俺は何があったのか予想もつかず呆然と箱の中の白いものを見ていたが、そんな俺にまたあの声が語りかけてきた。このか細くもしっかりとした声はまさかフェ・ラジカの声なのか?
『また助けられたな、ザドック…私はお前達がフェ・ラジカと呼ぶものの一つだ。お前達兄弟には何度も救われた…特にお前には感謝してもしきれない』
カビが喋るなんて…それも驚きだが、一体何故ゴミ置き場に放置されてるんだ? 俺はただ質問したかっただけだが、気持ちが高ぶっているのか廊下にまで響きそうな大声を張り上げていた。
「礼はどうでもいい! ていうかお前、何でこんな所に放置されてるんだよ? ソロモンはどうしたんだ? 町がフェ・ラジカの感染症で死んだようになっちまったってのに一体どうなってんだ?!」
声を大きくすると強制の意味を持つんだそうだ。だから脅迫する時やゴリ押ししたい時は大声を張り上げて相手を圧倒するといいんだと。マーケティングの講義で聞いたことがある…声を大きくするとすんなり意見が通るという不思議な心理を。
俺は別に脅迫したわけじゃなかったんだが、やはり半分怒鳴られたようなものだからかフェ・ラジカは申し訳なさそうに『ソロモンの事はもう少しあとでゆっくり話させてくれないか。それより町の事をお前に伝えたい』と言った。なんだか本当に辛そうな声だ。ソロモンは気になるが言うとおりにしてやったほうがいいかもしれない。
俺が話を聞く体制になったからか、フェ・ラジカは静かに語り始めた。
『落ち着いてよく聞いてくれ。今風邪の症状で倒れている者達は死なない。それは約束する。私の胞子のキャリアは絶対にフェ・ラジカの感染症に感染する事はない。フェ・ラジカは一つの体に一つだけしか展開する事ができないのだ。私の胞子を持つ者は別のフェ・ラジカに寄生される事はない。先に寄生したフェ・ラジカが作り出す微量の毒によって胞子が成長できないのだ』
風邪の症状で倒れているって…町の住民達の事じゃないか。
「てことは町に広がってるフェ・ラジカ症候群はお前の仕業なのか?」
俺の問いに対してフェ・ラジカは『そうだ』と悪びれもせずに答えた。ふざけるなよ、恩だの何だの言うくせにやることだけはちゃっかりやりやがって! あまりの不義理にキレかけた俺を抑える様に白い物体は矢継ぎ早に語り続けた。俺はせっかちなほうだが、どうもこのもちのほうがせっかちさにかけては上手らしい。
『だが大丈夫だ。あの胞子は不完全なものだから暫く安静にしていれば自然と外に排泄されて治る。運がよければ抗体が備わるだろう。…問題は鳥が運んできた別の株だ』
どうもこのフェ・ラジカは町の住人を助けるつもりでわざと毒の薄い不完全な胞子をばら撒いたらしい。要は今の風邪もどきの大流行はフェ・ラジカの病気に対するワクチンの副作用みたいなものなのか? そんな大事な事をあっさりと話し、そしてさっさと次の問題を提示するこいつは結構肝が据わっているらしい。俺がもちならもっと話を引っ張って俺は悪くねえって主張するけどなあ…そういうのには興味がないのか?
俺がすっかり毒気が抜かれてぼんやりしていたからか、フェ・ラジカは『知らないのか? 最近鳥があちこちで死んでいるだろう』と念を押した。本当に冤罪みたいなものには興味がないらしい。それはいいんだけど、こいつが悪くないのだとするなら怒りのぶつけどころを失った俺はどうすれば…と苦笑いすると、フェ・ラジカが『こら』と軽く注意してきた。話をちっとも聞いてないと思われたんだろう。カビのくせに人間様を仕切ろうとするなんて随分度胸があるな…
しかし言われてみれば確かに気にはなっていたことだ。自分の推理が全く違っていた事を正直に打ち明けつつ俺は尋ねた。
「てっきりあれはお前が殺したものだと思ってたけど違うのか? だってフェ・ラジカの病が流行り始めたのと鳥が沢山死ぬようになったのは大体同じくらいだったぞ」
俺はあの鳥もフェ・ラジカの症候群による死亡だと感づいてはいたが、どうも考えていたものよりずっと複雑らしい。別の株ってどういうことだ? なんだか敵視しているようだが、フェ・ラジカにとっては同種は仲間じゃないのだろうか? するとフェ・ラジカは物騒な事を言い出した。
『あの鳥の持つ株は危険だ。何かが違う…我々と同種のようで同種じゃない。我々は何もお前達を殺したいわけじゃない。できる事なら自然の中でのんびりと生きていきたかった。もしくはお前達の体に住まう雑菌のように人畜無害にそっと住まわせてほしかった。しかし結果はこうだ。その事は申し訳ないと思っている。ただ、鳥が運んできた株からは恐ろしい殺意を感じる…』
殺意がある殺人カビ…? このフェ・ラジカの様子を見ると確かに俺たちに危害を加えたくて感染症を引き起こしているわけではなさそうだ。ただ鉄を求めて住処を探しているようでもある。そんな彼等が危惧する殺意を持った妙なフェ・ラジカが鳥によって媒介されているというが、一体どういうことだ?
『宿主を殺すのは我々にとっても都合が悪いのだ。ずっと鉄を供給してくれる状態が一番望ましいからな』
確かにそうだよな…寄生虫もそうだが、殺人ナントカってのは殺意があるわけじゃないし、宿主を殺す事で得られるものなんてない。寄生する側からすれば不本意もいいところで、うっかり殺してしまうんだ。現に人間に長年付きまとい人間に最も適応したギョウチュウなんかは寄生されても死亡率が低い。代わりに寄生されやすい。もうはるか昔から繰り返されていたから、お互いよく分かっているんだろう。大変な事になってしまうのはごく稀の事故だ。
フェ・ラジカもそうしたものたちと同じなんだろう。何故いきなり人の前に現れ擦り寄ってきたかはまだわからんが、いずれはっきりするはずだ。だがそんな彼等も解せない事が起こっているらしい。
『しかしあの株は殺人をしたがっている…一体何故? そんな事をしてしまえば我々は敵視されて本格的にジェノサイドされてしまうというのに…まさか…グリモアで凶暴化されているのか?』
グリモア? グリモア…どこかで聞いた事があるぞ。確か錬金術師達の至宝だって聞いたことがあるが…こういうのはなんていうのかね。…ん…そうだ。一言で説明するとアレだ。突然聞きなれない言葉を耳にして言葉に詰まっていた俺は一呼吸おいてからフェ・ラジカに言った。
「グリモアって錬金術師たちが作る奥義書のことだろう? カビがそんなもんで凶暴化するのか? 錬金術は魔法じゃないぞ」
勘違いされる事が多いが錬金術と魔術は違う。魔術ってのは要は心理的なものごとを利用して人の心を操るものだろう? いまいち胡散臭いしアングラくせえしどうでもいいから知らんけど。錬金術は医学と科学の合いの子みたいなものであって、魔術みたいに曖昧なものじゃない。錬金術に心理学は含まれちゃいないからな。まして呪文や図形を描いて何かがぽんと出来上がるようなものでもない。ただ、過去に魔法使いと呼ばれていた薬師たちの技術を今に受け継いでいるからある意味では現代の魔法使いなのかもしれないが…
このフェ・ラジカもバカではないみたいで、俺の意見に対しこう反論した。
『それは分かっている。しかし、我々の構造と改造方法を知ることは出来る。我々はそこまで複雑な体をしているわけではない。グリモアの知識を使って悪意のある人間が愉快犯的に我々の仲間を改造したとしたら…』
グリモアは専門書みたいなものだ。もっと突き詰めた事もかかれている。それを読んで理解さえ出来れば俺でもその本に書かれていた物事に対してのエキスパートになれる。フェ・ラジカのグリモアを読んで理解できれば、この得体の知れない恐怖の殺人カビも取るに足らないおもちゃのように思えるのかも知れん。
でもそれはちょっとおかしくないか?
「出来るって、よくもまあ断言できるね。俺たちはお前の事知らないから困ってるってのに」
俺はそう言ってやった。だって本当のことだ。フェ・ラジカが一体何なのか分からないから恐怖の殺人カビとして恐れられているんだ。既にグリモアがあるならこんな大事にならない。
するとフェ・ラジカはしばしの沈黙のあと『やはりお前は知らないのだな』と少し苦しそうに言った。そしてまた沈黙をはさんで、意を決したように説明しだした。フェ・ラジカのいう事は俺にとってにわかに信じられない話だった。
『お前の兄は私の体を使ってフェ・ラジカの構造を徹底的に調べつくした。そして遺伝子のどこをどう組みかえれば行動を変えることが出来るということもな…君の兄さんはまさしく天才だ。彼は1ヶ月前に我々に関するグリモアを作り上げたのだ。…だが彼は心変わりしてしまった。フェ・ラジカを退治することに使うなら一回こっきりでグリモアの価値が失われると思った彼は、オリジナルのグリモアを持って研究所から失踪してしまったのだ。あの時感じた邪心は…錬金術師特有の禍々しい黄金色のきらめきのようだった』
失踪? そんな馬鹿な…あの研究勉学一筋のソロモンが、地位と名誉に目がくらんだって…?
『もしかするとソロモンはグリモアを悪用してフェ・ラジカを凶暴化させ、もっと大規模なパニックに仕立て上げようとしているのかもしれない。他の錬金術師達が研究している暇がないほど凶暴化させてしまえばそれだけグリモアの価値が上がる。…あの邪心は金に関するものだ。自分のグリモアの価値を高める為に工作しようとしているのだろう…悲しい事だが』
恩があるって言ってたくせにソロモンをそんな目で見ていたのかこいつは。酷い目に合わされたことは分かるし同情は出来るが、憶測だけで錬金術師を金の亡者扱いするこいつが許せなかった俺は「どうしてそんな事がいえるんだ?」と強く質問した。別にソロモンを庇いたかったわけじゃない。だがどうしても憶測で悪者扱いしているように見えて仕方なかったから、それが怒れたんだ。
だが、返ってきた答えに俺は絶句するしかなかった。
『私が凶暴化の最初の被験株だったからだ。彼は私の遺伝子に対しこの町を破壊するようにプログラムしようとした。何故ホームタウンを狙ったのか…それはアブラメリン家が控えているからだ。恨んでいるからではない。信用しているから狙ったのだ。最も信用できる錬金術師がいるから、被害を最小限に食い止めながら大規模なニュースにしてくれると考えたのだろう。しかし彼は失敗した。無理もない…私の体は度重なる検査・実験によってグリモアの想定外の遺伝子を持つ弱体化した異常個体だ。私が健全だった頃の記録がグリモアなのだ。正常なフェ・ラジカの全てが記されたグリモアの基準から外れてしまった私はグリモアの正の真理に沿うことが出来ない』
何てことだ…ソロモンはコイツを調査目的で半殺しにした挙句己の売名のために殺人鬼に仕立て上げようとしたのか。いくら人に取り付いてむごたらしく殺す殺人カビだったとしても、いくらなんでもそれは…酷すぎるだろう。
凶暴化の改造が失敗して、それでこんな所に乱暴に捨てられていたのか…いくら情を捨て真実を追えというのが錬金術師だったとしても、やっていいことと悪いことはあるはずだ。例えカビだったとしても…カビだって生き物だぞ。カビはおもちゃじゃねえよ…
裏切りに近い惨い仕打ちを受けたにもかかわらず俺たちを命の恩人と見るのか。この殺人カビに何と声をかければいいのか分からなくてただ沈黙する俺を見かねたのか、白いもちは少しおどけた様子で沈黙を破った。
『グリモアが正しく使われるのであれば私は文句はない。グリモアの知識が広がり我々と生命体が共存できるならそれでいい。それに仮に私がソロモンを恨んでいたとしても、お前はソロモンではない。だからそんな顔をするな。…厳つい顔に辛気臭さは似合わないぞ』
ついにカビにすら顔についてネタにされる時がきたのか。…それよりもカビに逆に心配されちまったようだ。そんなにショックを受けた顔をしていたんだろうか。そりゃあまあ、ショックといえばショックだが…俺が被害者ぶってどうするんだ。こいつの言ってる事が本当ならこれからが大変なんだ。しっかりしなきゃな。
我に返った俺の口から飛び出してきたのは「辛気臭くねえよ。どうせそんなこったろうと思ってたさ。俺の兄貴なんだから高尚なはずはねえ」だった。気を使ってくれてるんだから一応礼くらい言うべきなんだろうが、何か開き直ってるとしか思えないことを…俺は一体何を言ってるんだか。
お互い気を使ってたところで話が進まん。その件についてはまた後で話をするとして、目の前に残された問題を解決させなければ。俺は箱の中のもちに尋ねてみた。
「しかし…お前の株のキャリアは無事だってのを信じるとして、鳥が運んできたっつう株はどうするんだ? 死骸から胞子が飛び散るはずだから、腐る前に鳥の死骸を焼いておいたほうがいいかな」
一応市の人間が都度処理しているはずだが、それでもまた増えているだろう。それに今は風邪もどきであるフェ・ラジカの病のせいで掃除も滞っているはず。いくらワクチンを接種している状態で伝染しないとはいえそれはまずい気がする。箱の中のフェ・ラジカも死骸の片付けには賛同するようだが、他にも何か問題があるようで難しそうに唸った。
『そうだろうな。だがどうも我々とは勝手が違う気がする…原生種ならそれでいいのだが、それだけですむとは思わんのだ。大きな株が一つ街中をさ迷っている…私の株が町を覆っている事に気づいて様子を見ているのかもしれない』
原生種…ってのは改造を受けてない普通のカビのことか。確か鳥が持っている株は改造された危険な株なんだっけ? カビの事は同じカビであるコイツが一番よく分かっていそうだから、素直に聞いておいたほうがよさそうだ。それにしても喋ったりお互いを察知したり随分高性能なカビだな…知能があるってレベルじゃないだろ、これ。
『この動きから察するに恐らくあの株は私の株が及ばぬ場所を見つけ出して人間に集団感染させようとしている。だがこの町に酷く執着しているようだ…町の外には出ずに町の中にあるであろう私の株が届かない穴を探している。キャリアのそいつを見つけ出して対処しなければ…』
町に固執しているという事はソロモンだろうか? こいつが言うにはこの町を狙っているらしいし、売名行為の工作ならカビに錬金術師の目の前で悪さをしてさっさと止めて貰ったほうがいいのだろうな。こいつの言う事を信じていないわけじゃないが、やっぱりにわかには信じがたいよ…あの勉学にしか興味のなかった気難しい学者の卵が売名工作を働くなんてさ…しかも命を軽んじてるとしか思えない酷い工作を…
『鳥達と違ってそいつはまだ生きている。…生かされているのかもしれない。キャリアは自覚症状がない感染者だ。凶暴な株はそいつを使って動き回りながら感染を広めようとしている。とにかくそいつを引き止めて隔離しなければ危険だ。鳥を片付けるより先にそちらを優先すべきだ』
フェ・ラジカに取り付かれても元気な人間ってのもいるのか…改造されているから自在に毒素を止めたり出したりできるのだろうか? それとも短時間でまだ発病していないだけだろうか? どちらにしても確かに放置するとまずそうだ。
俺は倉庫から外に出ると箱を階段の段に置いた。生きているものをゴミ倉庫に放置するわけにはいかない。コイツをどうするかは、まずはその危険な株のキャリアを保護してから考えよう。暫くはこの研究所は無人だろうから、驚かれる事もないだろう。
どう探すかはまだ決めていないが、恐らく人の多い場所にいるはず。思い当たる場所で怪しいやつがいないか探そうと大まかな計画を練りながら勝手口に向かおうとすると、『ちょっと待ってくれ』とフェ・ラジカが引き止めた。何事かと階段まで戻ると、白いもちのような物体はとんでもない事を言い出した。
『もし私の事を信じてくれるのなら、私をお前の体に住まわせてくれ。一時的でいい。もし何かがあったときお前だけなら守ってやれるはずだ』
そんな事を言われても…随分丁寧なカビだが殺人を出来る程の危険なカビだぞ。しかし、何かがあったときとはどういうことだろう? …実を言うと確かに俺もそんな気がする。何か危険なことが起ころうとしているような…予感がするのに非協力的だと大抵ろくな目にあわない。いちかばちかコイツに助けてもらおうじゃないか。
俺は箱の中の白いもちみたいなフェ・ラジカを掴んで取り出した。やっぱりふにふにとやわらかい。握る感触を少しばかり楽しんでいると、不意に薬指の付け根辺りにずきりとした重い痛みが走った。何事かと思う間も無く掌にあったはずの白い物体がずるずると小さくなっていく。いや、強引に皮膚を引き裂かれこじ開けられた左指の付け根からフェ・ラジカが侵入したのだ、俺の体内に。白いものがなくなると同時に痛々しくぱっくりと開いた傷口から血がまるで磨きぬかれたルビーのような丘を作り、それはすぐさま皺に沿って床に滴った。
痛い。ビジュアル的にも痛々しいが、正直言って泣き叫びたくなるくらい痛い。それでも血の色からして気を利かせてか静動脈から入り込んだようだった。
手がしびれるくらい痛かったが、ある時を境にぱったりと痛みがなくなった。血はまだぼたぼたと滴り出ているが、多分フェ・ラジカが神経をどうにかして痛みを消してくれたのだろう。痺れは若干残ってはいるが、さっきよりはずっといい。
血はいつごろ止まるものなのかと思いつつ手の動きを確認していると、体内から声が聞こえた。
『ありがとう。私は必ずや約束を守る事を誓おう』
こうしてじかに声を聞いてみるとか細いのではなく女性的な声だということが分かった。口調は随分固いがもしかして女なのか? いや、カビだし雌株ってやつ? よく分からないけど。女か…仮に女だとするなら随分堅気な女のようだな。こいつが人間ならきっといい女だろう。
…まあ人間だったら俺とは無縁だろうけどな。理由は察しろ。
手の止血は一人じゃ出来ないからハンカチを握り締めて圧迫させるしか出来ない。異様な傷だから誰かに言えばどうやって出来た傷なのか知りたがるだろう。今の頭じゃごまかす事が出来そうもないから、もういっそ無視する事にした。今はそんな事をしている場合じゃない。白い床に赤黒い血が数的垂れているが、拭くのも面倒だから放置した。
俺は研究所を出てとりあえず市街に行く事にした。止血しながらの運転は簡単かと思いきや結構面倒だ。ハンドルを強く握っていないといけないし、そうするとブレーキが利きづらい。倒れないように注意しないとな…
凶暴な株が狙うところといったら人が密集しているところだろう。とはいえ今は恐らく人はまばらだろうな。命知らずの社会人たちが仕事の為に右往左往している事はあっても、恐らくとりたてて使命がない人間は家に引きこもっているはずだ。自衛の為、もしくは感染を広げない為。
感染を広げない為といえばエステルは無事なんだろうか。咳によって粉末状の痰が飛ぶといわれていることから面会拒絶されてしまったが、ノアデアのように単にちょっと風邪をこじらせた程度で無事ならばいいんだが…
俺の中に寄生したこのフェ・ラジカの株なら何の問題もないのだが、風邪が流行り始めたのと鳥がたくさん死ぬようになったのはほぼ同時期だ。様態が悪ければもしかするとこいつの胞子が感染する前に鳥が運んできた凶暴なフェ・ラジカに冒されてしまったかもしれない。だとしたらエステルはおろかご両親も危険だ。
ご両親は風邪のようには見えなかったが、俺が来たから我慢していたのか、キャリアとして胞子を持っているだけでまだ発病していないだけなのか、本当にまだどの株にもやられていないだけなのか…今となっては後者だけはやめてほしい。願わくばこいつの安全な株のキャリアであってほしい。でなければエステルの家は一家全滅の可能性が…
だってフェ・ラジカの病に対する有効な手立てがないんだぞ。カビだけを取り除く事は簡単なようで難しい。この殺人カビは通常は外から持ち込まれる。生物に感染すると痰の中の胞子を何らかの形で体内に取り込む事でも発病する。血液に取り付いて、体内の鉄を食らい、猛毒を分泌する。その毒は血管を通ってまたたくまに体を冒し、体中に腫瘍を作り出し、最終的には心臓が壊れて死んでしまう。発病してから数日でだ。
フェ・ラジカは寄生先を殺したくないようだから必死に共存しようとしているみたいだし、実際感染者は徐々に数週間キャリアとして生きながらえる事ができるようになってはいるようだが、かえって感染経路を増やしているから厄介なことこの上ない。
死んだように静まり返っている住宅街を走りながら、俺はふと思ったことをフェ・ラジカに尋ねてみた。体内のフェ・ラジカにどう話しかけていいものか困るが、誰もいないし…人が見てたとしても小声で呟いてれば独り言の多い奴程度ですむだろう。
「なあ…何で今まで喋らなかったんだ? フェ・ラジカは知能があるってのは知られてるんだ。お前みたいに喋るのであればこんな混乱は起きなかったんじゃ…これもやっぱりソロモンの改造のおかげなのか?」
するとフェ・ラジカは体内から直接語りかけてきた。
『私が喋る変り種というわけではない。私の声を聞く君が変り種なのだ』
俺が変り種? 少し遠慮がちに言っているが、多分俺をこれ以上混乱させたくないから言うべきか否か迷っていたのだろう。カビの癖に随分思慮深いこった。
フェ・ラジカは何故そう思うのかを静かに説明しだした。それは本当にカビの思考なのかと思うほど的確な指摘だった。言われてみればそうだよなあ、何で俺は…
『私の事を知らないはずの君が私の苦しみを察知して助けに来たところで変だと思っていた。君は我々の言葉を聞く事ができる変わった能力を持っているのだろう。錬金術師が立て続けに名のある功績を上げる事ができるのは、声なき声を聞く特殊なセンスを持っているためだという。本来人とは通信出来ないものたちと交渉することで真理の欠片を貰い、それを研究する事で大いなる結果を残すという…』
錬金術師はたくさんの奇跡的な研究結果を残す。科学者達が舌を巻くほどのその英知は単に一般人と着眼点が違うだけなのだろうと思っていたが、どうやら『物の声を聞く』という所謂聞き耳みたいな能力を持っているかららしい。御伽噺レベルの大昔の錬金術師は確かに動物や草木と会話する描写がある。中には天使や悪魔と交渉をしたという眉唾なものもあったはずだ。
人ではないものたちの声を聞けるのなら、彼等の知恵を借りて人間の知りえない新発見を見つけることは容易いだろう。だから世紀の大発見をしやすいのか…普通の人よりはしやすいというだけで頻発するわけじゃないが。漫画みたいに奇跡の大安売りは流石に錬金術師も無理だ。
…つまりアブラメリン家にもそういった超能力が伝わっていたというのか?
『君はアブラメリンの血を引くのだろう? もしかするとアブラメリンの英知をソロモンが、アブラメリンの超能力は君が受け継いでいたのかもしれないな。君は自分では錬金術師ではないといっているようだが、錬金術師の才能は間違いなくあるということだ』
俺たちは一卵性の双子だ。能力を二分していたといわれてもまあどうにか納得はできる。能力を均等に分けられていたならソロモンは今ほど賢くはないだろうが、俺はきっとほどほどの頭を持っていただろう。そうやって生まれてこれば俺たちはここまで不仲にならなかったかもしれないし、アイツも道を踏み外す事もなかっただろうにな…
いや待て。という事はソロモンにはこいつの声が聞こえない可能性があるってことか? あんな死にそうな声をあげてるのによくものうのうと寝てられると思ったモンだが…ヤツにとってこいつの悲鳴が聞こえないのなら汚いまま放置して死ぬ目にあわせていたと気づかないのも無理はない。普通ならカビが綺麗好きだなんて思わないだろうし、肉片を取り除いたら折角捕獲した株が死んでしまうかもしれないと思うだろう。こいつらはタンパク質を食っているわけじゃなくて鉄を食ってるんだから、死肉なんて無用のシロモノってのは言われてやっとそういえばそうだなと分かるくらいだ。
「ソロモンはお前の声が聞こえなかったから苦しむお前を他所に暢気に寝ていられたんだな…」
そう呟いたものの、俺はもっと違う事を想像していた。
俺の力がソロモンに宿っていれば…こいつの声なき声が聞こえたなら、数々の非道な実験を思いとどまったかもしれない。きっと永遠にグリモアは完成しなかっただろうが、別の解決策が見つかったかもしれない。俺たちにとってもフェ・ラジカにとってもそれが一番良かったんじゃないかという気がする。
何故錬金術師の超能力が錬金術師に興味がない俺に遺伝しちまったんだろう…ソロモンが英知と力を兼ね備えた完璧な錬金術師ならば…俺が力を横取りしなければ…
気持ちが沈むと考える事もネガティブになってくる。俺らしくも無く色々考えていると、フェ・ラジカが語りかけてきた。
『対象物に無用の同情心を持たずただ真実を追究すること。それが錬金術師の心構えだ。ためらいは時に対象物に無用の苦しみを与えるからな。…お前の力を仮にソロモンが持っていたとしても私はグリモアの材料になっていただろうし、お前がアブラメリンの能力を継承していなければ私は当の昔に朽ち果てていたか、そうでなければ…凶暴なフェ・ラジカによって町の住民は全滅していただろう。お前もフェ・ラジカに感染して死んでいたはずだ。だから最良は今このときだ。…現実の今なのだ、ザドック』
思っていることが分かるのかな…俺はまたしてもカビに心配されちまったようだ。恐怖の殺人カビに寄生されてるってのに、それに励まされるなんてつくづく変な人生だ。
『お前が私の声を聞きつけてくれたから…良質の鉄分を…血を分けてくれたから予防策がとれた。お前が私の話を聞いてくれなければ絶対に出来なかったことだ。私は錬金術師の力を持ちながら錬金術師ではないお前がいてくれたことに感謝している。…だからお前が悩む必要はない。大丈夫だ』
俺が俺自身の存在を否定する事が許せないのか、フェ・ラジカは随分ストレートな言葉で俺を慰めた。なんだか随分優しいやつだ。現在の宿主だから多少媚を売ってるのかもしれないけど。
しかし言葉が分かると殺人カビも可愛く思えるものだな。錬金術師がとりわけ自然科学を愛する気持ちも分からなくもない。知能があるという噂は確かにあったが、ここまで人間的で優しい性格をしているとは思っていなかった。こいつが特殊なのか、それとも元々性根が優しい生き物なのかは分からん。他の株と会話する機会があればそれもはっきりするだろうが…
そう考えた時俺ははたと気がついた。最高のフェ・ラジカ探知機が身近にある事に。
「ってことはさ…俺ってもしかしてお前とは別のその凶暴な株の声も聞こえるのか?」
この力が特殊なものだとするなら俺はフェ・ラジカを人一倍発見しやすいはずだ。だが、フェ・ラジカは申し訳なさそうに小声でツッコミを入れた。
『確かにお前なら我々の声を聞けるだろうが…人と同じで喋る相手がいなければ喋らないぞ。宿主が錬金術師でお前と同じようなセンスを持っていない限りはしっぽを出さないはずだ。無言でも分かるのは…私が死に掛けていた時にお前が察知したように、相手が何かのっぴきならない状態になっているときにその激情を察知する事はできるかもしれない。しかし我々がそんな状況になっていたら、宿主はもっと大事に至っている事になるぞ』
つまり宿主である人間が危機的状況に陥っていない限り俺の能力は役立たずってことか…確かに喋る相手がいないのに喋るなんてバカみたいなことしないわな。
俺では見つけられそうもないってことか…困ったな、どうしよう。町は確かに異様に静まり返っているが、全く人がいないわけじゃない。マスクをかけたり、げほげほいいつつも外に出てる人がいたりする。あぶねえなあと思うが、俺の体内にいるフェ・ラジカの胞子によるものなら風邪よりも安心できるものだろうな。
だから必ずしも外に出てるからこいつだ、と断定できない。見ず知らずの人に話しかけまくるわけにもいかないし、どうすればいいんだろう…
早速袋小路にはまった俺は、途方にくれてブレーキをかけた。そのまま自転車のペダルに足を引っ掛けて呆然と周りを見回していた。畜生、せめて目で見て感染者が判るような能力があればいいのに…アブラメリンの血は役にたたねえな。
内心錬金術師の血に対し毒を吐いていると、何か声が聞こえてきた。フェ・ラジカの声とも違う。だが人間の声でもない。この聞いたこと無い変な声は何だ? 耳を済ませて辺りをうかがっていると、今度はかなり近いところで声が聞こえた。
「カビは確かに何も無ければだんまりを決め込むでしょうね。だったら何かリアクションを起こさせてみればいいんじゃないですか?」
えらく近いところから…よくよく見ると俺の服に黒いものがついてる。一瞬何なのか分からなかったが、そうか…これ蚊だ。蚊が…喋ってるのか? 俺はきっと目を白黒させつつ蚊をガン見してただろうな。しかし蚊は臆する事無く喋り続けた。
「私は恐らく貴方がお探しの人間を知っていますよ。信じるか信じないかは貴方自身がそのリアクションを見て判断すればいいかと」
「蚊がしゃべっとる…俺の力はカビだけじゃなかったのか」
蚊は有益な情報を知っているという。しかし俺は驚きのあまりトンチンカンなことを口走り続けた。今までは普通に害虫と思って、見つけ次第叩き殺していた虫が喋っているのだから俺の気持ちも分かってもらえるだろう? しゃべるはずの無い虫が俺に話を持ちかけてきてるんだぞ。
だが蚊は驚く俺を見越してか、随分冷静に説明を始めた。
「貴方はアブラメリンの血を持つ人ですよね。人は皆万物の声を聞くことは出来るのですが、いつしか自然の声を聞かなくなりました。自分たちの文化の意思疎通手段が複雑化したからでしょう。あまりに複雑化しすぎて同じ人間同士ですら言葉が通じないこともあるんだとか…大変ですね。しかし貴方がたアブラメリンの者は世界の雑音にも耳を傾ける事ができる古来からのセンスを持っているのです。人々はそのセンスを交信術…神通力の一種として畏怖しているようですがね」
この超能力は本来は誰でも持っているものらしい。よくある設定だなあと思うが、それが俺の前に現実として寄越されると話は別だ。そんな馬鹿な…
「アブラメリンの錬金術師はこの力を使って自然から英知を受け取り、人間達に教えていました。自然はフェ・ラジカだけで構成されているわけではありません。聞く体勢が出来ていさえすれば、こうしてただの虫けらとも話ができるのです」
簡単に言えばアブラメリン家は聞き耳頭巾を生まれながらに被っている一族ってことか? 俺は自分の血族に対してさほど興味が無かったし、俺自身錬金術師じゃないからよくは知らん。でも現実に俺がこうして虫と話が出来るのだから、嘘ではないんだろう。
それにしても自然界のものは皆人間以上に知的そうだな。こいつらから万物の英知を聞いて錬金術師として富を築いたってのは今までなら信じられないが、今なら信じられそうだ…物知りそうな蚊なら色々知っていそうだ。俺は早速尋ねてみた。
「さっきキャリアを知ってるって言ってたよな? 教えてくれよ」
しかし、物知りな蚊は抜け目無くこう返してきた。
「いいですよ。ただし無償でとは参りません」
何だよ、虫の癖に…しかし何がほしいんだろう? でもどうせ虫だし、たいしたものをほしがらないだろうと「蚊が金をほしがるわけ無いだろうしな…一体何がほしいんだ?」と割と肯定的に交渉してみると、ごもっともな物をほしがられた。
「血をください。アブラメリンの血ならばさぞ優秀な子孫が残せる事でしょう」
なるほどね。血なら別に痛手にはならんな。俺の血と引き換えに住民の命が助かるなら安い買い物じゃないか。アブラメリンの錬金術師達もこんな感じで相手の要求を呑みながら万物の真理の欠片を得ていったんだろう。
しかし蚊といえば病気を持っていることで有名な害虫だ。「病気とか持ってないだろうな…」と少し渋ると、蚊はいかにも心外と言った調子で語り始めた。
「人に病気を媒介するとはいいますが、我々は空飛ぶ注射器ではありません。例えばマラリア。マラリア原虫を持った蚊は非常に短命です。そして正常に卵を残す事ができません。持っているのではなく寄生されているのです。人と同じくマラリアに感染していると考えればお分かりでしょうか。風邪にかかった人間が側にいると風邪をうつされるのと同じで、病気の蚊に食われるから人は病気になるのです。私は病気持ちに見えますか?」
まあ…元気そうだよなあ。心配する必要は無いって事かな? 最近冷えてきた事だし、そう変なものから血を吸ったりはしてないだろう。じゃあどうぞ、と手の甲を差し出すと、体内からフェ・ラジカがまったをかけた。同じく血を食う…まあこっちは血の中の鉄分を食うカビなんだが、とにかく同じく血を必要とするものとして気がかりな事を指摘した。
『それを言ったらザドックのほうが危険だぞ。今のザドックはフェ・ラジカのキャリアだ。フェ・ラジカは体に鉄分が含まれていればそれを食らいつくす。お前のような虫でも感染するかもな。もっとも、私は弱体化した株だから原種株に比べればかなり毒性は薄いが』
どうも殺人カビは殺人どころか殺虫も可能らしい。今の俺は簡単に言っちまえば血管の中がカビてるようなものだ。その状態の血を飲めば危険だといいたいのだろう。すると蚊は意外な事を言い出した。
「それでしたら大丈夫です。私はこう見えて高齢でしてね、あと1回卵を産めば恐らくもう生きてはいけないでしょう。次世代を天に任せるために質の良い血を探していたらいろいろ知ってしまいましてね。折角ですから錬金術師と交渉してみようとこうしてはせ参じたのです。短時間ならばあなた方は私を食うことは出来ても、卵には寄生できまい」
寿命が短い生き物は死に対する覚悟の決め方も実にスマートのようだ。自身が病んで死ぬ事より、アブラメリンの血の恩恵に賭けたいようだ。俺は昔から普通に虫に刺される事はあったし、苦労して血を吸い取ったって何か起こるとは思わないんだが…きっとその事を言っても決心はゆるぎないんだろうな。単に知らないだけで今まで俺を襲った虫も実はコイツと同じように未来に願をかけながら血を持っていったのかもしれない。
俺は改めて黒い虫の側に手をかざして「いいけど痒くするなよ」とお願いすると、蚊は手にそっと飛び移りながら「それは貴方の心持次第です」と言った。そういえば蚊のかゆみはアレルギー反応だっけか…つまり自分自身の問題だ。でもそんなのどうしようもないぞ。
手の甲に移った蚊は静かに俺の血を吸い始めた。いつもならこんなシーンを見る前に叩き殺してしまうんだが、手際のいい吸血っぷりに俺は自分の血が吸われていることも忘れて感心しながら見守っていた。本当にまるで医者の注射のように静かに、確実に血管を探り当てて血を吸っている。
じわじわと腹が赤く膨らんでいくのを間近で観察していると、蚊はそっと口を俺の体から離した。野暮ったい行動が一つもない。まさに一切の無駄の無い機械的な動きだ。まだ患部は赤くもないし膨らんでもいないからか、本当に刺されたのかと疑いたくなるほどだ。そうか蚊に刺されてる最中は痒くならないのか…
蚊は満足そうに再び俺の体に飛び移ると、「アブラメリンの血をいただきました。ではお教えしましょう」とあっさりと口を割った。
「モイナ町ミモザ通りにある遊歩道の側にある小道から入った住宅地。古くからの住宅街ではなく最近出来たアパートが立ち並ぶ綺麗なほうです。そこにいたセールスレディから貴方と同じ臭いを感じました。貴方と同じく微弱の…恐らく人間では分からないでしょう、カビの臭いがするのです。
フェ・ラジカは悪臭を放つタイプのカビではありません。食用キノコのように芳しい薫りを持つカビです。人間には薫りは分かりませんが、こわく的なその微弱な体臭は人々を魅了します。フェ・ラジカの感染者が黒死病のように恐れられ見捨てられないのはフェ・ラジカの薫りによって死を超越した好奇心を周囲の人間に与えるから…
アパートの住人たちはフェ・ラジカに恐怖していますから元々招かれざるセールスレディである彼女の訪問に対しても堅くドアを閉じていますが、ひとたび顔を合わせれば話を聞かずにはいられなくなるでしょう。長い間対面して話を聞いていれば必ずその間に彼女のフェ・ラジカに感染しましょう」
極めて死亡率が高いフェ・ラジカの感染症になっても献身的に周りが混乱せずしっかり看病する理由は、どうやら人間の美徳だけではないようだ。臭いで人の心を操っているという新事実に驚きを隠せないが、確かにもっとパニックになってもいいのにと思っていたし、裏にはそうした感情をコントロールする危険なものが潜んでいるといわれても納得できる。
俺もフェ・ラジカと対面した時妙に冷静な部分があったが、もしかすると感知できないフェ・ラジカ本来の薫りで大胆になっていたのかもしれない。
「彼女はよく咳き込んでいます。恐らく今日の仕事中に感染したようです。彼女もフェ・ラジカを警戒していますが、そうした事から他人事のようにしか思っていないようです。自分の症状は季節の変わり目の風邪か何かだと思い込んでいます。自分が既にキャリアであることには気づいていません。唾に混じった膿は確実にアパート周辺を冒しています。しかし新しいアパートで通気性もよくフィルター設備が良いので直接対面しなければ安全です」
今は丁度秋口で、かなり冷える日と暑い日が交互に入れ替わって風邪を引きやすい季節だ。外を歩き回るセールスレディが勘違いするのも無理は無い。同時に今日外回りをしていた最中にフェ・ラジカのキャリアになったのであればマスクも何もしていないはず。仕事柄マスクは出来ないんだろう。そのせいでキャリアになったのは可哀想だが、今となってははた迷惑な話でしかない。
「ボブカットで成人女性としてはやや小柄な妙齢の女性です。やや地味な黒いスーツを着ていましたが、寒さから身を守る為にマフラーを装着していました。渋い黄色のマフラーです。彼女を見たのはセキュリティが強い事を売りにしていた女性専用アパートですから、化粧品の訪問販売をしている彼女にとって格好の狩場なのでしょう」
特徴から察するに可愛らしい感じの女性のようだ。だが今は恐怖のフェ・ラジカのキャリア。彼女が仕事を頑張れば頑張るほど危険な株が人々を蝕んでしまう。早く彼女を住宅街から引き離して然るべき対処をしなければ、大規模な感染ルートが確立されてしまう上に彼女が毒に耐え切れずに死んでしまうだろう。
それにしても、何か聞き覚えのある場所だな…
「モイナ町で新しい女性専用のアパート…俺そこ知ってるかもしれん」
マサース市モイナ町…俺のホームタウンだ。つまりソロモンのホームタウンでもある。この辺は昔から住宅街が多くて、田舎の割に交通事情に恵まれた町だ。それに目をつけた連中が我先にと荒地やだだっ広い畑を潰して綺麗なアパートやマンションを建て始めた。だからモイナ町は田舎っぽい町並みの中にやたら近代的なマンションが立ち並んでいるという妙な外観になっている。
交通事情に恵まれているからか、近辺の企業に勤める社会人や大学に通う学生が好んで住むベッドタウンにもなっている。そういった連中の中に俺の友達が結構いるが、その中にかなり遠方から大学のために単身この町に移り住んだのがいる。ジュディスという女だ。何となしに入ったクラブの活動でたまたま顔を合わせてから仲良くなった。彼女は19年一度としてできた事が無いが女友達なら意外に多い俺って色々悲しいよな。男の自信を無くすわ。
蚊に礼を言って飛び立つ姿を見送った俺は、自転車を走らせながら携帯でジュディスに電話をかけた。ながら電話はよくないが、特別な状況だしその辺は目をつぶってくれ。
ジュディスの親は心配性らしく、娘が危険な目にあわないようにと学生の住むアパートにしちゃいやに高い女性専用のアパートの一室を借りたそうだ。女性しか入れないから気が楽かと思えばそうでもないようで、「騒音とかゴミの出し方とかに神経質な人がいるのよ。気に入らないとわざわざ部屋に来て文句言われるし。こっちは規定どおりにゴミ出してるし騒音だって気をつけてるのに…なんだか気が疲れちゃう」と嘆いていた。女は女で大変らしい。女じゃなくてもいそうだけどな、そういうの。
何度目かのコールの後ジュディスが出た。彼女は独りで頑張っているからか健康には特に気をつけているようで、マスクを装着してどんな時もうがいを欠かさない。そのおかげか町がこんな状態でも元気な状態だ。普通どんなに気をつけていても家で気を緩ませてフェ・ラジカの胞子を吸い込むはずだが、家が新しくてフィルター機能が備わっているからか、フェ・ラジカの胞子が部屋にまで来ないようだ。彼女は花粉症らしく、そのせいかいつも外套を部屋に持ち込まない。だから服に付着した胞子を吸い込まないのかもしれない。
「ザドック? 一体どうしたの」
大学が閉鎖されていて暇だったのか、寝ていたらしい。寝ぼけた声が聞こえてきた。もしかして違うアパートなのかなと思いつつ、とりあえず気になる事を訊いてみた。
「お前んとこに訪問販売員が来なかったか? 化粧品とかなんかの」
「来てないよ。でもどうして?」
蚊が女性用アパートでキャリアを見たのは一体いつの話かは分からん。だが、モイナ町の女性用アパートといったらジュディスのアパートくらいしか思い当たらない。仮に違ったとしても、化粧品の訪問販売員なら必ず来るはずだ。単に寝ていて呼び出しが気がつかなかっただけかもしれないが、それでも俺は指示した。
「もしそういうのが来ても絶対にドアを開けるなよ。もし出来るなら販売員をドアの手前にひきつけておいてくれ。あとは俺がどうにかする」
どうにかする、といわれてジュディスは混乱したらしくしきりにえっ? えっ? と声を上げていた。説明が足りなくてよく分からないといった様子で俺にきき返してきた。
「どういうこと? 意味分からないよ。その人がどうかしたの?」
言うべきか言うべきじゃないか。全てを隠して協力を得るのは難しいだろう。俺はアブラメリンの錬金術師の家柄だから、はっきりと事実を伝えた上で心配する必要は無いと念を押せばパニックは起きないはずだ。錬金術師はこういう奇妙な事件を解決する専門家というのが一般人の見方だからだ。陰口を叩かれながらも信頼されているのはそういう側面があるからだ。俺自身は錬金術師じゃないが、家の名前が信用性を高めるはず。
「そいつは殺人カビの感染者だ。アパートの部屋はフィルターが充実してて胞子が入ってくる事はないが、ドアを開けて対面すればお前はほぼ確実に殺人カビの餌食になる。そこの住人は皆そうだ。住人と連絡が出来るならできるだけ伝えてくれ。殺人カビの事は伏せてもいいが、絶対にドアを開けるなってな」
無理なお願いなのは承知の上だ。住人に協力を得た上で殺人カビに対する100パーセントの抗体を持った俺がセールスレディを保護して、その後うちの研究所に連絡して消毒してもらえばいい。それまで辛抱してもらうしかない。
日頃住人に対する愚痴が多いジュディスはいきなり住人と連絡を取り合えと言われて酷く狼狽しているようだった。何かしらわめいていたようだが、俺はその内容を把握できなかった。突然頭の中の血が一気にざっと引いたかのように白く冷たくなって、前を向いているはずなのに何も見えなくなったのだ。自転車をこぐことも出来ず、俺はたまりかねて自転車を止めてハンドルにもたれかかるようにしてうなだれた。
気持ち悪い…耳もまるで中から圧迫されたかのように物音がうっすらとしか聞こえない。肩から下がしびれるようでいうことを聞いてくれないようだ。
小さい頃似たような感覚を感じたことがある。小さい頃は顔に似合わず貧血気味で、よく立ちくらみを起こしていた。成長したら貧血も収まってそういった現象はよほど疲れたときにしか感じなくなったが、まるで十年分の貧血が一気に現れたような感じだ。
蚊に血を吸われたからか? と思ったが、そんなはずない。ほんのちょっとの血じゃないか。蚊で貧血になるなんてバカげている。では何故…と考えて、すぐに思い当たった。
頭を低くしていたら次第に容態はよくなったのか、携帯から女の声が聞こえてくるのをどうにか拾うことが出来た。ジュディスは色々ごねていたが、結局自分で最良の方法を考えたらしい。まだ少し慌てているようだが、ちょっと誇らしげに俺に言っている。
「ねえきいてる? あの、あのさ、こういう時は大家さんに連絡すればいいんだよね! 大家さんいい人だし、皆に言ってくれるよね! 緊急事態って連絡すればザドックも入ってこれるはず。でもザドックは大丈夫なの? 感染したらやばいんじゃない?」
なかなか収まらないめまいが俺の力を奪うようだ。俺は必死に体を起こしながら出来るだけ声を大きくしてジュディスにいった。怒鳴ってるわけじゃない。これくらい出さないと聞こえない気がしたからだ。
「錬金術師の知識があるから大丈夫だ! ともかく頼んだぞ!」
錬金術師。こういう事態には欠かせない存在だ。俺は錬金術師の家の出というだけで錬金術師じゃないし、知識もあるわけじゃない。それでもそうでもいってやらないと安心させられないと思った。嘘もナントカっていうじゃないか。…本当は俺自身に対する激励でもあるんだがな。錬金術師の家の人間なんだから大丈夫だって奮起しなきゃ恐ろしくて何も出来ない気がする。
今すぐ親父の事務所に連絡して全てを任せれば楽なんだろうが、何故かそれは嫌だと思う気持ちがあった。ソロモンの裏切りを伝えるのが恐かったからかもしれない。どうしたっていずれは発覚するのだから、無理せずに伝えればよかったな、と今では思うが…
震える手で携帯をしまう俺を見かねたのか、フェ・ラジカが心配そうに俺を励ました。
『焦るなザドック…そんなに遠い場所じゃないのだろう、今は友達を信じて慎重に進め。君の友達は必ず周辺に根回ししてキャリアをひきつけておいてくれるはずだ』
コイツは悪いやつじゃないし、フェ・ラジカが体内に根を張っている状態だと別のフェ・ラジカに感染しないという特色があるというのなら、コイツが体内にいる限り俺は絶対に改良種のフェ・ラジカの胞子にやられないってことだ。いつ消えるか分からない芽吹かない胞子と違ってこの効力は確実なものだろうな。
だが、フェ・ラジカは鉄を食い猛毒を分泌するカビであることには変わりない。いくら弱体化した株とはいえ寄生されている間血液内の鉄を食われ続け猛毒を体内に放出され続けている。外に感染を広めないようにしてくれているのか、咳は出ていない。だが、これ以上体内にヤツをしまい続ければどうなるかは分からん。
俺はよくながら運転をするが、普段ならバランスを崩してよろめいたり急ブレーキしたりはしない。確かに気持ちが動揺しているから普通じゃないのかもしれないが、さっきのめまいはそうした気持ちから来るものではないはずだ。俺は皆と違って胞子ではなく成長した株を持ってる。今の状態のままいれば100パーセント他のフェ・ラジカの胞子の被害にあわないが、100パーセントの確率でフェ・ラジカ症候群が発症する。
俺は自転車を起こしながら深いため息をこぼした。頭の中が回って平衡感覚がうまくたもてないような変なふらつき感がまだ残っている。体が重い。体が急に冷えたような感覚が戻ったと思ったが、今度は逆にぶわっと熱くなるような妙な感覚が体を余計重くさせる。寒いのか熱いのか分からない妙な倦怠感に戸惑いながら顔をぬぐうと、気持ち悪い脂汗が手をぬらした。冷たいものが飲みたい…だが今は水を買いに行く暇なんてない。
早くキャリアを保護しなければ…危険な株のキャリアである相手にタイムリミットがあるように、安全な株のキャリアである俺にもタイムリミットがあるんだ。
説明 | ||
その2です。題名が全部同じだと同じもの投稿されてるように見えないことも無いからナンバーふってみました。これで私も混乱せずに済みますね。私頭よくね? 最初からそうする人が頭がいいんですってツッコミいれると頭がはじけた後に華麗に転生して降臨するからやめておきましょうよ。ね。 | ||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
291 | 275 | 0 |
タグ | ||
オリジナル | ||
MHKさんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |