まぼろしの はるのそら |
春の訪れを無邪気に信じていられたあの頃。
それはもう、遠くなってしまったはずの思い出。
鮮やかに染まった木の葉達がとりどりに舞い、森が彩られる季節。
それは森にとっては、あっという間に過ぎ去ってしまう風景。
いつの間にか木の葉のほとんどは舞うことを止め、地面を埋め尽くすじゅうたんへと姿を変えて。
吹く風が日々冷たさを増し、冬の訪れを伝える頃。
森の生き物達が冬への準備に大わらわなこの季節はまた、冬を越す事の出来ない虫達が、生命の灯を燃やしつくす季節でもありました。
――ひときわ冷たい風が吹くある日。
弱々しい陽の光が地面に降りそそぐ中、羽が欠けて身体中古傷だらけのやせた黒い虫が、大きな木の入り組んだ根元で風を避けるように丸くなって休んでいました。
彼の名はレイラ。
彼は生命の灯火が尽きようとしている虫達の苦痛を和らげ、そして看取るために森の中を旅していました。
旅なれた彼にとっても、冬を迎えるこの時期はことさらに辛いものでした。
日々強くなっていく寒さ。寒さと共に増す、彼の手を必要とする生命達。
やせたレイラの手にすがるようにさしのべられる、沢山の手。
毎日毎日彼らの手を取るうちに、レイラ自身も疲れと寒さで日を追うごとに身体が重くなってゆくのがわかりました。
ついにレイラは木の根元に座り込んでしまっていました。膝の上に顔をうずめると、自分が限界まで疲れきっている事をあっさりと受け入れ、どの辺で冬を越そうか考え始めました。森のことは良く知っていましたから、心の中で描くだけで風景は浮かびます。
すると不意に、頭の上から声が聞こえました。
「レイラ、レイラじゃないか?」
レイラが顔を上げると、大きな食料を背に乗せたアリがせかせかした足取りで近づいて来る所でした。
「精が出るな。準備は進んでるか?」
呼びかけに笑顔で答えて立ち上がろうとすると、アリはレイラを手で制して足を止めました。
「ああ、おいら達はこの先の木にコロニーを作ってるよ。そこで冬越しだ。……この間は仲間を看取ってくれてありがとな。みんなも感謝してる」
アリはぺこりと頭を下げ、そして心配そうにレイラの顔をのぞきこみました。
「だいぶ疲れてるみたいだけど……大丈夫かい?」
「大丈夫だよ、ありがとう。そろそろ俺も冬ごもりの場所探しだ」
レイラの答えにうなずくと、アリはよっこらせっと気合を入れて食料を担ぎ直しました。
「お礼にいい事教えてやるよ。おいら達のコロニーの近くに、でっかい岩が転がってる。あんたが冬を越すには丁度いいと思うよ。」
手を振りながらまたせかせかと歩きだすアリを、レイラは軽く手を上げて見送りました。
「さて、どうするか……」
大きく一つ息をついたその時でした。
いきなり吹いた強い風。落ち葉はカラカラと乾いた音を立てて地面をすべってゆき、真っ直ぐに立っていた太い木々さえも大きくしなります。
ふいに風の音に乗って、かすかに短い悲鳴が響きました。
はじかれたようにレイラは立ち上がりました。声のした方向を確かめようと耳を澄ます間にも、風は収まっていきます。レイラは風が収まりきらぬ内にと飛び出して行きました。風に向かって声の主を探して走りましたが、あっという間に風は止まってしまいました。
辺りを見回しながら、レイラは足を緩めました。方向は間違っていないはず、と。
見落とさないように、聞き逃さないように。
探す彼の耳に、小さな声が届きました。
立ち止まってみても、生き物の姿は見当たりません。
すると近くの大きな花の中から、今度ははっきり聞こえました。
「助けて……」
現れたのは小さなキチョウの姿でした。
思ったよりも軽い体に、抱え上げたレイラは驚きました。
彼が知っているキチョウは、すらりと背が高く優美な外見をしていました。けれど眼の前のは、彼女たちよりもずっとずっと小さかったのです。
そして、その顔も体に見合った、まだあどけないものでした。
「ちよっと! 早く降ろしなさい!」
声の響きも同じように、幼い少女のもので。
――季節はずれに生まれた蝶。
レイラはそのことに気づき、小さな蝶を地面に下ろしました。少女はレイラの膝ほどの姿しかありません。
「驚いた。こんな小さな蝶を見たのは初めてだ」
「驚いたのは私もよ。あなたみたいなボロボロの虫、初めて見たわ。でも一応お礼は言うわ。助けてくれてありがと」
ただ一つ、小さな蝶が見た目と違ったのはその勝気な口調でした。
「あなた、お名前は?」
「礼儀を知らん奴だな。そういう時は先に名乗るもんだ」
「あら、だって私、名前ないんだもの」
「え?」
あっさり言われてレイラはまた驚きました。
「そりゃ、早く生まれた仲間達はお互いに名前を付けあったり出来るでしょうよ。他の虫達が勝手に付けたりするっていう話も聞いてるわ。でも私は仲間よりずーっと後になって生まれたから、仲間達はみんな蝶になって何処かへ行ってしまった後だったの。私も他の虫達と会ったけど、みんな『小さいの』とか『ちびすけ』とかしか言ってくれないのよね。それに今は、みんな冬支度で忙しいから相手にしてくれないし。でも、それが仕方ないって事は、わきまえてるつもりよ」
助け出す前のか細い声はどこへやら。
一気に話しきった蝶に、レイラは小さく笑いました。
「で、何であんなデカい花の蜜を飲もうと思ったんだ?小さい花の方が飲みやすいだろう?おしゃべりさん」
小さな蝶はレイラを真っ直ぐににらみつけました、しっかり腰に手を当てて。
「ちょっと!『おしゃべりさん』 はやめて!センスのかけらも無いわ!もちろん、小さな花の方が飲みやすいわよ。でも、一度大きくて綺麗な花の蜜を飲んでみたかったの。生きてるうちに、やりたい事はやるもんでしょ?『やせっぽちさん』?」
レイラは、ため息まじりに言いました。
「……俺の名はレイラだ」
「あら、あなたがレイラ?あなたが看取り屋さんだって事は、他の虫達から聞いてたわ。丁度良かった。探してたの」
「探してた? 俺をか?」
問いかけに、今度は返事がありません。レイラは少女の少し蒼ざめた顔色に気づきました。
レイラは少し考えると、小さな蝶がはまりこんでいた大きな花に片手を入れ、そして蜜をすくい、少女に差し出しました。
蝶は、はっと顔を上げて蜜とレイラを見つめました。
花の大きさに相応しいたっぷりとした濃い甘い香り。
レイラのやさしく、少し寂しげな眼差し。
「よ、余計な事しないで!」
少女は彼の手を振り払いました。
「私は自分の力でこの蜜を飲みたいの!」
けれどレイラは、振り払った少女の手をつかみました。
「じゃあお前は、この花の中に埋まって息も出来ずに、寂しく死んでゆくのがお望みって訳だ。それこそお笑いだな。……お嬢さん、あんたが何を考えようと自由だが、勝手に死に場所にされたり、せっかく作った蜜を粗末にされちゃ、この花もいい迷惑だろうよ」
低くなった声に、少女は声をつまらせました。
そして蜜を元の場所に戻そうとするレイラに、うつむいたままでつぶやきました。
「分かった……頂くわ……」
レイラは少女の横に腰を下ろし、蜜を差し出しました。すると少女は最初はおずおずと、やがて余程お腹を空かせていたのか、美味しそうに飲み始めました。
「……で? 俺を探してたって?」
飲み終えて一息ついた少女に、レイラは静かに問いかけました。
「誰か苦しんでる奴がいるのか?」
看取り屋のレイラを探していた理由は、そう考えるのが普通です。
「いいえ。用があるのはこの私」
でも少女はきっぱりと首を振りました。
「ねえ、私に名前を付けてくれない?とっても急ぐの。それもレイラ、あなたに頼みたいのよ」
「何で俺なんだ?」
予想外の申し出にレイラは面食らいました。
「だって私、冬はとても越せないもの。だから、あなたが適任だと思ったの」
事もなげに言ってみせた蝶。
冬の冷たい風が、少女の透き通るように薄くか弱い羽を揺らして通り過ぎていきます。
寒さに堪えきれず震える細い腕。
そして、決意を秘めた横顔。
――そう、レイラも気付いていたのです。
看取り屋として、今までにたくさんの生命達を見送ってきた彼は。
この小さな蝶が、春の日差しを浴びる事は無いという事を。
「お前…?」
「知ってたのか、とでも言いたそうね。――当たり前よ。このちっぽけな身体が冬の寒さに耐えられるなんて、自分でも思ってないわ。ただね、それでもせめて名前があれば一羽のちびの蝶が死んでも、みんな少しは長く覚えてくれるでしょ?だから……」
レイラはため息をついて、首をゆっくりと横にふりました。
「……あいにくだな。知っての通り俺は、気の利いた名前をつけるセンスは持ち合わせてないよ、お嬢さん。他の蝶……あんたの仲間に名前を付けてもらった方がいいんじゃないのか?たぶん日当たりのいい所に」
「冗談じゃないわ!こんな姿で仲間と会うなんてまっぴらよ!」
少女は、レイラの言葉を強くさえぎりました。
にらみつけるようにレイラに向けられた眼差し。
けれどみるみる内に溢れ出す、涙。
小さな蝶の表情に宿るのは、きっと怒りよりも強い想い。
レイラは真っ直ぐに、少女を見つめました。
しっかりと大地に両足をふみしめてはいるけれど、今にも風に飛ばされそうな細く、小さな身体。
負けまいとするかのように、ぎゅっと握り締められた両手。
もうとっくに涙でいっぱいなのに、それでも泣くまいとしている大きな眼。
ふっと微笑みを向けると、レイラは小さな蝶を抱き上げました。
「ここは寒い。移動しよう」
子供のように抱き上げられた小さな蝶は、駄々をこねるように身をよじり、レイラを両手で叩き、何とか降りようとしました。
「子供扱いしないで、自分で行けるわよ! 今までも独りで生きて来たんだから!」
どれだけ暴れられても、レイラは少女を降ろそうとはしませんでした。
「なぜそこまで突っ張るんだ?そうやって強がっても、ますます苦しくなるだけだぞ」
「別に苦しくなんか……」
「ない、とは言わせない。じゃなかったら、わざわざこの俺を探したり、ましてや、名前を付けてもらおうなんて思わないはずだ」
「わかったわ! もう言わないわよ、悪かったわね!」
少女は叫び続けました。怒鳴っているようにも、泣いているようにも聞こえる声で。
そして急に少女は黙り込みました。
レイラの肩をつかんだ小さくて強い手。やがてしぼりだされた声は、何かを必死にこらえているようでした。
「……私は……一生……春の光がどんなだか知らないままなのよ……」
ぽつりともらされた、小さな小さな言葉。
でもレイラは、決して聞き漏らしませんでした。
レイラは歩きながら、腕の中の小さな蝶をちらりと見やり、そしてその背中をやさしく叩きました。
「俺が、どこへ向かっているかわかるか?」
言われて少女が辺りを見渡します。
「俺ももう、冬ごもりの場所を探さないといけなくなっていてな」
「え、あなたでも……?」
「ああ。正直俺も、この寒さと疲れが辛くなってきた」
少女は目を見開いて、レイラを見つめました。
「意外か?」
問いかけに、蝶は大きく頷きます。
「俺も、こんな想いを誰かに話すことがあるとは思ってもみなかったんだが」
レイラは自嘲するような笑みを浮かべました。
「確かに俺は冬を越すつもりだが、冬の寒さは厳しい。一歩間違えば俺だって、春の光を浴びるまでにお陀仏だ。……何しろ、ご覧の通りの身体だからな」
小さな蝶は、はっと息をのみました。
レイラのぼろぼろの羽。
傷跡が無数に走る身体。
そんな彼の姿は確かに、他のどの虫とも違ったものでした。
「幼い頃は、俺も当たり前のように春を迎えていた。それが当たり前だと思っていた」
淡々と歩きながら、レイラは続けます。
「でもこんな身体になって、旅をしながら沢山看取って来て、そうじゃないと知った。森には同種の奴もいるが、俺は異端者だ。生き方も、外見も全く違う。友人もいるし、自分で選んだ道だから後悔はしていないが、正直、辛いことや苦しい事も多い」
そばに大きな岩の転がった場所で、レイラは立ち止まりました。
「えらそうなことを言っているが、結局俺も、お前と似たようなものなのかもな」
そっと少女を抱えなおします。
「行くところがないのなら、ここにいるか?」
「ここって?」
「冬を越すには丁度いいと、友人が教えてくれたんだ」
「でも、私は……」
それ以上は言わせず、目を伏せた少女の顔を覗き込んで。
「一緒に冬を越せばいい」
「い、いいの?」
「ああ」
「でも、嫌じゃ、ない?」
「嫌な理由が、何かあるか?」
「……!」
小さな小さな蝶は、レイラにぎゅっとしがみつきました。
そして、激しく泣き始めました。今度は堪えることもしないで。
陽の光を浴びて、きらきらと輝く涙。
澄み切った涙はまるで、少女の今までの苦しみや強がり全部洗い流してくれているようでした。
一際日当たりの良い木の根元に腰を落ち着けると、レイラは泣きじゃくる小さな蝶を温めるように抱き寄せて、ずっと黙っていました。
しばらくして気持ちが落ち着いたのか、レイラに寄りかかって丸まっていた少女は、涙をふきながらつぶやくように話し始めました。
「実はね、他の蝶のように美しかったら良かったのにって何度も思ったの。仲間達とも会いたいって思ったわ。でもね、この姿で華やかな仲間の所へ行って、笑いものにされたり同情されるのはいや。それじゃ、私は一生みじめなままだわ」
「俺の眼から見れば、その小さな身体で、ちゃんとそこまで成長出来たお嬢さんの方が、普通の蝶よりずっとすごいんだがな」
レイラは小さな蝶に眼をやり、苦笑しました。
「……正直、あんたを見た時は驚いたよ」
丸まったまま、少女は両手を口に当てて嬉しそうにくすりと笑いました。
「そうだったら、とっても嬉しい!……私ね、他の仲間達は春の空が見られるのに、何で私は、って哀しくて、くやしくて……さびしかった。でも考えたら、仲間達だって、他の虫達だって、永遠には生きられないのよね。結局最後には、みんな同じ所へ戻っていくの」
レイラは、今まで看取って来たいろいろな虫達を思い出しながら、寂しく微笑みました。
「……そうだな……」
「ね、レイラ。私、やっぱり冬は一人で越すわ」
「そうか」
ぽつりと落とされた、少女の言葉。レイラもそれ以上は何も言いませんでした。
レイラの膝に顔を預け、小さな蝶はまぶたをこすり始めました。
「……でも今は、少し疲れちゃった。レイラと会って安心したのかも。だって、ずっと探してたんだもの」
「少し寝た方がいい。その間に出来るだけいい名前を考えておくから。思いついたら、その名前で起こしてやるよ」
その言葉に、少女はレイラの膝からばっと顔を上げました。
「あら、変な名前を付けたら許さないわよ。他の蝶のような大げさな名前も嫌。私には似合わないもの」
彼女に戻った勝気な口調。
レイラが思わず笑みを漏らすと、蝶もくすくすと笑いました。
そして、再びレイラの膝に頭を乗せると静かに言葉を続けました。
「でも、きっと……私に名前が付いたら、レイラも、仲間達も、他の虫達も、空や、風や、地面や、星や、そして花や草達の中に……私を見つける事が出来るわね……」
語りながら、蝶は段々とまどろんでいきました。
「だって私達もみんな、そこから生まれたんだもの……」
まぶたが落ちきる前に彼女が浮かべていたのは、やわらかな笑顔。
眠った少女の頭をなでながら、レイラはしばらく外を見つめていました。
冬を運ぶ風。
大きな岩と木に守られた、この場所にも伝わる、凛とした空気。
太陽は澄んだ空気を通して、弱くても確かな光を届けて。
陽のぬくもりをそのまま胸に包んでおけたら、そう思ってしまう程冷たい風。
ふとレイラは微笑んで。
そして、一つの名前をつぶやきました。
小さく、でもはっきり響いたレイラの声を、気まぐれに吹き込んだ風がさらって持っていきました。
風はもしかしたら、冬支度に忙しい蝶達や虫達、そしてあらゆるものに、小さな小さな蝶の、出来たての名前を
伝えにいったのかも知れません。
……冬が始まる前に。
説明 | ||
死んでゆく虫達を看取りながら、森を旅をしている黒い昆虫のレイラと、幼いまま成虫になってしまったキチョウの少女のものがたりです。 ものがたりの後、2人(?)がどうなったかも、皆さんのご想像にお任せです(^^ゞ。 春を迎えられたかも知れないし、そうじゃなかったかも知れまへん。 私のつたない原文を、みわ・なるきさんが改訂・演出して、きちんとした「ものがたり」にして下さいましたv。多謝であります。どうもありがとう。 |
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