しあわせ坂の大石姉妹(1)
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 人生において、ロクでもないことが起きるときというものは、前回のロクでもないことは、いつで、どんなことだったっけ? と、穏やかな毎日が続いた頃、突然にやってくるものである。一言でくくれば、災難は忘れた頃にやってくる、であろう……先人は上手いことを言ったものだ。高校二年生に進級して二か月たつ天馬(てんま) 歩(あゆむ)の持論である。

 

 

「……おはよう……天馬君……」

 おずおずと天馬(てんま) 歩(あゆむ)を呼び止める女子生徒の声が、背後で聞こえた。

 歩は、それまで瞳を輝かせ、つくばで研究員として働く父から借りているノート型パソコンのディスプレイから顔を上げ、振り返ると、大石(おおいし) 栄利香(えりか)がうつむき、上目遣いで立っていた。

 歩は、顔を隠すほど長い前髪をかき上げ、栄利香を見つめた。どうにも辛気くさいクラスメートだった。

 歩の前髪が長いのは、何かの新進気鋭のクリエイターを気取っているわけではなく、散髪したいのも山々だが、趣味の宇宙工学に関連したことをあさっている間に、ついつい身だしなみが一日延ばしになっているのだった。

 これをのぞけば、歩は美形、とまではいかなくとも、日本人にしては目鼻立ちはくっきりとしており、それなりに下級生の女子からは人気のある存在である。

 歩は、学生カバンを持つ栄利香の両手ががたがたとふるえていることに気づいた。彼女にとって、歩に声をかける、ということは、正に清水の舞台から飛び降りるようなことだったのだろう。

 歩も栄利香も横浜市立恵台(めぐみだい)高校の二年A組の生徒である。

 歩は、左胸にごちゃごちゃとしたエンブレムが縫いつけられた濃紺のジャケットに白いワイシャツ、赤いネクタイをだらりと結び、裾のすり切れ始めたグレーのズボンという制服姿である。

 栄利香も同様のジャケットに白いブラウスで、赤いネクタイをきちんと結んでいる。濃紺のプリーツスカートは、ウエストで丸めて丈を短く見せたりすることはなく、校則に定められたとおり、きちんと膝が隠れるまでの長さである。

 女子高生のスカート丈はミニが主流のこの時代、校則をやかましく言わない公立校にあって、栄利香の存在は珍しく、教師達からは一目置かれているが、クラスメートからは、存在感の希薄さから透明人間と姓の大石を足して二で割り、「透明石(とうめいせき)」のあだ名がついている。

 そういった「透明石」に、新学期も落ち着いた六月のある朝の登校中、突然に呼び止められたことに、歩は意外な思いを感じながら、

「お……おう、おはよう」

 クラスメート同士らしく気さくに返した。二人は横に並んで通学路の一部であるだらだら坂を上り続けた。

 このだらだら坂は、しあわせ坂と呼ばれ、山々の青い稜線が間近に迫るなど、眺めはいいが、公共交通機関がなく、生徒や父兄からは評判が悪い。

 悪くとも、この不景気に公立校が便のいい市街地に建てられるわけはなく、不便な隣の藤沢市に接するような市域でも外縁部の、しかも山の上にしか敷地はとれない。

 これは公立校に限らず、私立校でも同様らしく、恵台高校の向かいに栄朋(えいほう)学園中等部・高等部というお嬢さま学校がある。

 したがって、平日の午前八時三十分前後の通学時間帯には、しあわせ坂は恵台高校と栄朋学園の生徒がぞろぞろと上っていく光景が拡がるのだった。

 そもそも、しあわせ坂に続く恵台という地名は、江戸時代は藤沢市にある霊験あらたかな神社への参詣が流行したものの、江戸側からでは長い急坂を超えねばならず、行き倒れが相次いだ。

 そこで、坂の傾斜をゆるやかにする工事が繰り返され、竣工時に語感のいい地名をつけようとした際に、この辺りを治めていた名主の娘が、幸せへ繋がる坂として「幸坂」としたのだが、「コウザカ」「サチザカ」と誤読されることが多く、不便になり、「しあわせ坂」と表記を統一したそうである。

 ついでに、しあわせ坂を上りきった広大な山頂は、恵台と呼ばれるようになった。こちらは読み違える者も多くない、という理由から漢字表記のまま現在に至っている。

 歩は、ふと端正な栄利香の横顔を見た。

 栄利香は、たおやかと言えば聞こえはいいが、頼りなげであった。肩をすぼめ、猫背になって、うつむき加減にとぼとぼと歩くのがくせになっているらしい。

 しかし、よく見れば、学生らしいボブと呼ばれるショートヘアは清潔感があるし、身なりもきちんとしている。加えて、黒目がちで小顔といったかわいらしい顔立ちをしているにも関わらず、「透明石」ではもったいない……歩が思っていると、栄利香は歩の視線に気づき、顔を上げ、

「ねぇ、毎朝、パソコンで何を調べているの?」

 歩に尋ねた。歩は、ノート型パソコンのディスプレイを閉じながら、

「国内外の宇宙開発のニュースをチェックしているんだ。そういうの、好きだから。最近のところでは、二〇一四年に有人での飛行試験を計画していたスペースシャトルの後継機オリオンの開発がまた延期になった、とか、二〇一〇年九月で退役するはずだったスペースシャトル五番機のエンデバーに続き、六番機のホライズンの運用を続ける、とか、国際宇宙ステーションの日本の実験棟きぼうに、新たに醍醐(だいご) 優(まさる)という宇宙飛行士が、ロシアのソユーズ宇宙船で着任した、とか。あ、こんな話、女の子には興味ないよな」

 いい気になってまくし立てていた自分に、一年生のときクラスメートから「宇宙オタク」のあだ名をつけられたことを思い出し、歩は苦い思いで口を噤んだ。

 しかし、栄利香はにこりと微笑み、

「天馬君、そう言ったの好きだよね。あたしは頭が悪いから何をやっても全然、駄目で」

 寂しそうにうつむいた。歩は、大石って、何でこんなに自分に自信がもてないんだろう、と栄利香の今までの人生を思ったそのとき、

「栄利香ちゃん、彼氏にはちゃんと朝のご挨拶できたの?」

 歩と栄利香の頭上五メートルほどの高さに、横柄に腕組みをした栄朋学園高等部の制服である濃紺に緋色の三本線が入ったセーラー服を着た女生徒が音もなく浮かび、長くつややかなロングヘアーを、やや暑さを感じるようになった六月の風を受け、優雅にたなびかせていた。

 歩は目を見開き、宙に浮き、余裕綽々(よゆうしやくしやく)に薄笑いを浮かべた女生徒の顔を見ると、「透明石」の異名をとる栄利香その人であった。

 しあわせ坂を上っていく登校途中の学生達も足を止め、ざわめき始めている。

 歩は激しく混乱し、栄利香を振り返ると、

「あいつ、誰だ! 何で、大石が二人いるんだ! どうやって浮いているんだ! いや、それ以前に大石、お前は何者だ! 普通の……」

 矢継ぎ早に問い質(ただ)した。栄利香は歩から目を逸(そ)らせると、深くうつむいた。中空に浮き、栄利香とはそっくりながら、性格正反対の謎の少女は、ゆっくりと栄利香と歩の前に降下してくると、

「あらぁ、駄目じゃない、栄利香ちゃん。彼氏にはちゃんとお話ししておかなくちゃ。夕べはさんざん予行演習につき合ってあげたのに」

「だから、これから話そうと思っていたのよ。頼んでもいないのに、余計な口出ししてこないでよ!」

 栄利香は目を逸らせたまま顔を険しくさせると、自分そっくりさん少女に言った。栄利香の瓜二つ娘はむぅっとし、

「何よ、心配して応援にきてあげたのに! ところで、あんた、パイナップルジュースは買ってきたの?」

 不意に話題を変えた。歩はきょとんとして、

「パイナップルジュースって、何の話だ?」

 謎の闖入お嬢さまと栄利香のどちらともなしに尋ねると、

「この子ね、あたしが楽しみにとって置いたパイナップルジュース、飲んじゃったんだよ」

 栄利香のコピペ少女が、わずかに宙に浮かびながら歩に答えた。よく聞いていると、声まで同じである。栄利香は、複製栄利香の手首を引っつかんでしあわせ坂に立たせると、

「だから、飲んじゃったものは仕方ないじゃない。第一、あれはあんたのパイナップルジュースじゃなくて、家族のパイナップルジュースとしておかあさんが買ってきたんだから、欲しいのなら、自分で買ってきなさい!」

 自分の影武者もどきを一喝した。歩は身なりは違い、性格は正反対であっても、同じ顔をした人間同士が怒鳴り合っている光景に、ホラーかサスペンス映画の劇中に放り込まれたような思いを感じ、言葉を失った。

 栄利香のコピーお嬢さまは、こめかみに青筋を立てると、

「何さ、バカ! 少し、頭を冷やしてこい!」

 叫ぶなり、栄利香を歩へ突き飛ばした。その一瞬、歩と栄利香の体はふわりと中空に浮かんだ。何が起きたのか知る暇(いとま)さえ与えられず、歩と栄利香の眼前から見る見るしあわせ坂が遠去かり、横浜市域や首都圏湾岸部も瞬時にして二人の眼前から急速に遠のいていった。

 周囲で登校中の学生達ばかりか、とおりがかりのおとな達の悲鳴がわずかに歩の耳に届いた。

 大地が俺と大石だけを残し、高速移動したわけじゃない、俺たちが(どうやったのかは解らないが)スペースシャトルの打ち上げ並みの凄まじい推進力で、宇宙空間に、殆ど何の装備も情報も知識もないまま、放り出されたんだ……歩は常識外れの現実を突きつけられ、歯ががちがちと鳴るのを止められなかった。

説明
天馬 歩(あゆむ)は宇宙開発に興味をもつ高校2年生。
普段通り登校していると、クラスで存在感の全くない「透明石」の異名をとる女生徒・大石栄利香に声をかけられる。
同時に、栄利香そっくりの女学生が頭上に現れて……
小市民の新シリーズ、始まり始まり。
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天馬歩 大石栄利香 大石栄留那 低軌道 宇宙開発 国際宇宙ステーション 大気圏再突入 新世紀の子供達 

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