生存確認 |
人生とは雪崩のようなものである。
僕は、その雪崩に埋もれ、その後ずるずると這い出てきてあてどなく雪山をさ迷う遭難者のように、歩いていた。
目の前をなにか黒いものが横切った。
一瞬、その黒いものに二つの鋭く小さな光を見た。黒猫だった。
不吉だなあ、なんて思いながら、その実、それは他人事だった。
今より不幸になる気なんてあるはずもない。
黒猫は、民家の隙間に溶けるように消えていった。
脚が重い。腕が重い。体が重い。
重たくない箇所なんてない。表情はきっと果てしなく虚ろだろうし、御丁寧に服や手足には血まで付いてるから、見映えはばっちりだ、悪い意味で。
そんな僕の見た目すらも、うっすらと包み隠せる程度には、河原の舗装された道路は暗かった。
サイクリングロードと書かれた錆びた看板を掲げているその道を歩いている人間は、僕以外には見当たらない。
街灯が、ぽつりぽつりと等間隔に並んでいる。街灯を避けて歩いているのは、例えば、光に浴びて自分の汚れた姿を見るのを避けたかったわけじゃない。少しでも川に近付いて歩きたかった。さやさやと流れる川の音を聞いていたかった。風に揺れる草の音を聞いていたかった。虫が、その身に宿っている何か大事なものを留めようとしているように、しきりに啼いていた。街灯と違って、月灯りは僕だけを見ているようだった。
「留年」「浪人」「フリーター」
まさか、自分がなろうとは思っていなかった。
「言い訳があったら言ってみろ」
担任の冗談みたいに低い声を、思い出すだけで身震いした。その声が恐かったわけじゃない。いや、声も、表情も確かに恐かった。僕は担任を見て涙ぐんでいたほどだったから、恐くないわけはなかった。
ただ、最も恐かったのは、自分がたった一度の人生を棒に振ってしまったという事実が、だった。
雪崩が起きたきっかけは、ひょんなことだった。
出来過ぎていて、漫画かドラマのようでもあった。
校則で禁止されているアルバイトを隠れてやっている学生は多く、僕もその例に漏れなかった。
「あれ」
バイト中の僕に後ろからかかった声は、そんな、文字にしてしまえば二文字だけのものだった。
実際の雪崩が起きるきっかけだって、きっと、そんな小さな音だったりするのだろう。
高校を卒業するまで、残すところ三ヶ月を切っていた。
僕は、普通高校を卒業してすぐに就職する予定だった。こんなご時世に内定をもらっていた僕は、幸運だったはずだ。
ちょうど、アルバイト中のことだった。なんでもない飲食店のフロアで、僕の心臓はどくんと脈打った。
その声は、僕のよく知る人物の声だった。同い年で、クラスは違えど同級生で、他ならぬ僕の担任の愛娘の、加藤美咲だった。教師の父親によく似て、真面目な女子生徒だった。
加藤が父親に言ったのかどうか定かではない。
ただ、その一週間後、職員室に呼び出され、僕の停学処分が決まった。
足元に影が伸びた。
照らしているのは街灯じゃない。
――どっどっどっど。
心臓の鼓動を若干早送りにして、何倍にも増幅したような音が背後から聞こえた。それはバイクのエンジン音だった。心臓の鼓動という意味では、決して間違っていなかった。
振り返ると、バイクの乗り手はどうやら僕を照らしているらしかった。時間から見て白バイかとも思ったけど、光を放つそれはどうやら原付らしかった。眩しくて乗り手が分からない。僕が顔をしかめて、腕で光を遮っていると、バイクの乗り手は光を僕から逸らして、エンジンを切り、ゆっくりと近付いてきた。
はっと、息が詰まった。
ヘルメットを外したその人物が、街灯と月明かりに照らされる。
加藤美咲だった。
よく見れば、僕に負けず劣らず酷い格好をしている。服はところどころ破れているし、バイクはあちこちひしゃげていた。
加藤は僕に並ぶと、
「なにしてんのよ」
と言った。僕を見ていなかったけれど、恐らく僕に向けて言ったのだろう。
そっちこそ、と呟こうとも思ったけれど、なんと言えばいいのか分からなかった。色んなものが溜まっていることに気が付いた。
例えば、殴ってみたかった。それは、彼女が雪崩の原因であるかもしれないからだ。
例えば、叱責してみたかった。それもやはり、彼女が雪崩の原因であるかもしれないからだ。
例えば、……やめよう。僕が彼女に何も言えないのは、ともすれば、僕の表層には醜さしか残らないかもしれないからなのだった。下手をすれば、彼女の責任の外にまで口を出してしまいかねなかった。
担任に対する怒りだとか、加藤先生の悪口だとか、加藤の父親に対する皮肉だとか、――見当違いだとは分かっていつつも、やり場のない、どうすることもできない怒りを彼女にぶつけてしまいかねなかった。
ここで黙りこむ程度には、僕の理性はまだ残っていた。
しかし、やはり。
なんで、こいつがここにいるのか。こんなところにきたのか。それを聞かなければいけなかった。
偶然じゃないことくらいは分かる。加藤がわざわざバイクを駆って、いわゆる家出をした僕を捜しにきたのだろう、という想像を僕はしていた。その上で、「なぜここにいるのか」という質問を、僕は彼女に投げかけなければいけないと思った。
「なにしてんだよ」
そして僕は、彼女を追い返さなければいけなかった。
彼女を追い返すためならば、物理的な暴力も、精神的な暴力も、いとわない。
――僕は今日、死ぬからだ。
「分かるでしょ」
「……」
肯いたものか、否定したものか。
加藤も、真っ直ぐ僕を見ることはできないのか、街灯ばかりをちらちら見ていた。時折、僕が履いている少し破れたスニーカーや、僕の手の甲の怪我を見ては、再び街灯に視線を戻した。
僕は居心地が悪くなって、再び歩き出した。
加藤も並んで歩きだしたけれど、ごろごろと重たい音を立てるバイクは重そうだった。僕は、彼女の握るその重量を、彼女に対する罰であると思うことにし、いわゆる罪悪感というものは、乾いた喉の奥底に、時間をかけて落とし込んだ。
道路はだいぶくたびれていて、凹凸が多く、やや歩きにくい。
色んなものを責められているような気がした。
加藤が無言で僕の横を歩いていることですら、僕を責めていた。僕は、あろうことか死ぬ間際まで罪を重ね続けているのだった。
僕に罪があるとすれば、アルバイトをしていたことだろうか。それとも、そのあと落ち込んで、成績を落としたことだろうか。……そのときはまだ取り消されていなかった内定に対し、留年という決定打を放ったことだろうか。
思い返せば中学生のときのあれやこれやから始まっているような気もするし、小学生、いやさ、もっと前、僕の罪を数え始めたら、生まれた頃まで遡る必要性すらありそうな気がした。
こうしている間にも、僕は罪を重ね続け、その重さ分だけ加藤の体力を削っている。なんと、雪崩で被さった雪の重いことか。
「なんで、アルバイトなんてしてたのよ」
沈黙の重さに耐えきれなくなったのは加藤の方だった。
当然と言えば当然だった。僕は、いっそ、押し潰されることを望んでいる。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
街灯がうすぼんやりと見せた加藤の顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。
「他の奴に聞いてみろよ」
理由を無理やりひねり出したとして、「遊ぶ金欲しさに」以上のものが出てくるとは、加藤だって思っていないはずだ。家賃や学費を稼ごうなんて世知辛いことは、裕福な僕の家では考えつかない。僕はほんの数カ月前まで、至って幸福な人間だった。
理由なんて、ない。
「父さんだって、わざわざ停学にしなくたって……」
もっともな意見のようでいて、真面目な加藤には似合わない台詞にも聞こえる。
責任逃れのための台詞を吐きつついまにも泣きそうな顔をしているところに、加藤の人間性が滲み出ていた。
見ていて辛いだけだ。
「どこまで行く気?」
歩き続ければ自殺になるだろう。
そう考えて歩き出した僕は、いま、如何にして加藤を追い帰すかを考えていた。
だから行くあてなんてない。当然、加藤の質問に対する答えも持ち合わせていない。
「川、下るの?」
答えを探しあぐねている沈黙を、加藤は肯定と受け取ったらしい。
「乗りなさいよ」
加藤は再びエンジンを灯し、跨りながら顎で後ろを指した。
「なんでだよ」
「連れてったげる」
「いいよ、帰れよ」
流石に、おせっかいが過ぎる。
加藤のことは嫌いじゃなかったけれど、今回のことも含めて、好きになる要素は一つとしてなかった。
全力で追い返しにかかる。
「顔見たくねえんだよ」
「後ろに乗ってれば、顔見えないでしょ」
「触りたくねえ」
「私に触らなくても後ろに掴む場所あるわよ」
「そうじゃねえだろ……」
喋るのに疲れ、僕は草むらに腰を下ろした。
「汚いわよ」
「今更」
すでに泥だらけで、綺麗にする気なんてどこかに落としてきてしまった。
「いいから、乗りなさいよ」
「なんでそんなにしつこいんだよ」
加藤は黙ってしまった。
いつの間にか加藤は僕の顔を直視しており、どうしたものかと思案しているような表情を見せる。こっちが、だ。なんでこいつは執拗に僕に関わってくるのか。
謝罪なんてまっぴらだし、そもそも僕の知っている加藤は間違っている人間に「間違っている」と断言し、それによってどうなろうと決して謝罪するような人間ではなかったはずだ。だから、今日の加藤はいちいち異常で、癇に障った。そのうえで、静かに理性を保ち続けている僕自身が、なによりも異常だった。
なんともおかしな夜だった。
「アンタ、結構カトウセンセイのこと好きだったでしょ」
突然何を言い出すのかと思えば。
「好かれたいと、思ってたんじゃないの」
読心術でも心得ているのではあるまいかとすら、僕は思った。この暗がりでも、僕の動揺はやすやすと加藤に伝わった。
とても居心地が悪く、気分が悪い。
内臓を吐きだして死ぬ、なんてことが起きてもおかしくないような気さえした。それを望んでもいた。
加藤先生の真面目さや率直さは確かに好きだったし、僕はそういう教師に好かれたいと思っていた。それは、紛れもない事実だった。
だから、成績が上がったときや、内定が決まったとき、僕は加藤先生に喜んで貰えたときに無上の喜びを感じたのだ。
「父さんのこと、聞きたくない?」
加藤は、エンジンを一回唸らせた。
乗れと言っていた。
僕は、小学生が口を尖らせて不満を訴えるような表情をしていたかもしれない。足元の草を無造作に千切り、手を開いて捨て、立ち上がった。
バイクに、乗った。
月は、雲に隠れていた。
*
ぼぼぼぼっ、と音を鳴らしながら、バイクは真っ黒な闇をライトで掻き分けるように進んでいく。
時折、ぼすんと揺れるのは、道路にガタがきているからだろう。ひび割れや、穴があいているのかもしれない。いずれにせよこの暗がりでははっきりとしたことは分からないし、分かったとしていち高校生の僕がどうこうできる問題でもなかった。
これから死のうという人間が考える問題でもなかった。
「父さんは、アンタのことそこまで好きじゃなかったみたいよ」
走り出して、開口一番これである。
加藤はどうしようもなく加藤であり、僕はようやく本当の加藤に会ったような気がしていた。
加藤の言葉に落胆を覚え、目の前の背格好に懐かしさを覚え、僕は最終的に、今手を離したら死ねるだろうか、なんてことを考え、きっちり法定速度では怪我程度だろうな、と結論付けた。
「なんでだよ」と頭の中で呟いて、「……まあ、そうだろうな」と、やっぱり頭の中で呟いてみる。
加藤先生はやっぱり真面目な人間が好きで、僕はどちらかと言えば、あまり真面目な生徒に見られる方ではなかった。成績は良くないし、遅刻や欠席も、なくなりはしない程度にはしていた。数字で表すと、実際大したことではなかった。けれど、教師という立場から見て、不真面目さが目立つように見えたのだろう。印象なんてものは、大抵数字の外にある。一度思ってしまえば、そうでないものもそういう風に見えてくる。そういう印象というのは、一度はりついてしまうとそう簡単に取れはしない。覆水盆に返らずという言葉にもあるように、一度やったことは、良いも悪いもそこに残る。どうしようもなく、その人を表してしまう。
その点、僕はどうしようもなく加藤先生の敵だった。
実際、敵になる気なんてなかったとしても。それどころか好意を抱いて接していても、端々から出るものから、相手はより多くの、もしくは違ったものを読み取ってしまうことだってある。僕が気を抜いたほんの少しの不真面目から、僕の全体像を想像されてしまう。
実際、そういう印象が人間関係の全てだったりもする。
そういう印象で人生を左右される人だって大勢いるだろうし、むしろほとんどの人がそうだろう。
僕の場合も、もしかしたら、そうだったのかもしれない。
きっと、案外、人生ってのはそういうものなのかもしれなかった。
腑に落とす他なかった。
アルバイトを隠れてしていたという事実は、そんな油断の一つだった。
加藤は口を閉ざしていた。静か過ぎるくらいだった。
いつもだったら、皮肉の一つでも言ってくるはずなのに。
流石に堪えた、ということだろうか。
知り合いの未来を閉ざす形となってしまったということに、少なからず何か思うことがあったのだろうか。むしろそれが、自然な心理だろうか。
*
もしも一つだけ願いが叶うならば、世界で最も楽な死に方を望むだろう。
そんなことを考えながら、僕はヘルメットの下から風になびく彼女の髪を見ていた。
正面からトラックでも走ってこないだろうか。そうしたら、僕はバイクから飛び降りてトラックに飛び込むことができるだろうか。……そんな死に方ができるならば、河原を歩くなんて悠長な真似はしていないだろう。どこかのビルから飛び降りたほうがよっぽど手っ取り早い。
早い話が、僕は躊躇しているのだろう。
何も考えないでふらふらと歩いていれば、そりゃあ、階段から転んで落ちたりもする。ずきりと手の甲が痛んだ。血は、まだ固まらないでじわりと染みだしている。
これ以上熱いものなんてこの世に存在しないのではと思うほど、傷口が熱い。
そのくせ、僕の頭の中は冷え切っていた。
加藤に触れないようにしているのは、そんな僕の血や泥が付かないようにとの配慮ではなく、「触りたくもない」と言った手前の意地だった。
「死のうって考える気持ちが、私には分からないよ」
つくづく、加藤は唐突で、直球で、真実を突いてくる。
「仮にカトウセンセイがアンタを突き放したとしても、見放したとしても、それだけが全てじゃないでしょう。アンタを見てた、大勢がいるでしょう。期待してた大勢、そんな沢山を、捨てるってことがどういうことか、この年で、いちいち言われなくても分かるでしょう」
そしてどこまでも果てしなく、正論だ。
いちいち言われなくても分かる、ということが分かるなら、いちいち言うなと言いたいところではあるけれども、どうしようもなく加藤は正しい。そして、どうしようもなく僕は間違っているのだった。
強いて言えば、本当に大勢いるか、という点くらいが、加藤の言葉の穴だった。
そんな穴の存在を示唆する気すら失せるくらい加藤は正しい。
どうしようもなく、加藤は加藤だ。
「恨んでる?」
「別に」
即答してやったけれど、それでわだかまりが解消するはずもなかった。
僕がすでにこの世界をどうでもいいと思っているように、加藤の言葉もなんだか投げやりなように感じた。
バイクを繰りながら、時折加藤は口を開いた。
クラスメイトとやった花火のことだとか、体育祭のことだとか、文化祭のことを、鼻歌でも口ずさむように加藤は喋った。
その間、川は緩やかに蛇行していき、いくつもの橋を超え、僕らは段々と下流に向かっていった。日付はとっくの昔に変わり、隠れていた月は再び僕らを照らしていた。
途中、一台の軽自動車とすれ違ったけれど、僕はそれを横目で睨みながら走り去った。衝動というほどのものは湧いてこなかった。僕の右手はしっかりとバイクの荷台を握っていた。
道は、度々様子を変えた。
がたがたと凹凸の激しい道があったかと思えば、最近舗装し直したばかりなのか滑るように伸びた道もあった。桜並木があったかと思えば、住宅の脇をすり抜けていくような道もあった。
次第に加藤の口数は減り、僕の罪の意識もいつの間にか薄れていた。闇に溶け、川の音に流されていった。月に照らされたのはちっぽけな二人の影と、それらを運ぶバイクだけだった。
僕らは何を目指して川を下っているのだろうか。
答えてくれるものは何もなかった。
「ねえ」
加藤が急に神妙な声を出したので、僕は促すように「なに」と呟いた。その意図が表層に現れたか、発音に出たか、……加藤に伝わったのかどうかは分からないけれど、加藤は呟いた。
「私、大学落ちた」
「……はあ?」
間抜けな声が出てしまい、しまったと思った。加藤にとっては真面目な話だ。
当然、加藤が大学に落ちたことくらい知っている。
しかし、如何せん「知ってるよ」と言うわけにもいかない。
「ああ、……残念だったな」
何と言えば良いのか。
何と言って欲しいのか。
急にそんな話を振られても、対応に困る。しかも、よりによって僕に、だ。僕のせいだとでも言いたいのだろうか。お前があんな、内定取り消しなんて不祥事を起こさなければ、精神的に乱されることもなく大学にも受かってたはずだ。お前のせいだ、とでも言いたいいのだろうか。僕だって、高校三年生にもなって留年するとは思わなかったよ。……もしも加藤が「お前のせいだ」と言ったなら、僕は、加藤を道連れにしてトラックに飛び込んでやろうと、あり得ない想像をした。
「私、大学、落ちたんだよね」
「……ああ」
気まずい沈黙が、再び押し寄せてきた。
それは、バイクの速度で逃げ切れるような代物ではなかった。今度は僕が痺れを切らす番で、
「大学だろ。来年があんじゃんか」
と、イマイチ気持ちの入らない言葉を投げた。
「それ」
「は?」
「それよ」
なにが。
「たった、それだけでいいの」
「何がだよ」
「人の生きる理由なんて、そんなもんだって言ってんの」
加藤の口調は時折父親――先生に似ていて、そんなところが嫌いでもあり、好きでもあった。
「あんたがその言葉をどんなに投げやりに放ったとしても、適当な言葉だったとしても、それを、私みたいな受け取り方をする人だっているのよ。たったそれだけの言葉で、「また来年頑張ろう」って思う人だっているの。言葉は、必ずしも発する側の考える通りに伝わるとは限らないのよ」
よく分からない。
加藤が、僕の言葉から何を受け取ったというのか。
「よく、分からん」
「私の生きたいと思う理由なんて、アンタの応援だけで十分だってこと」
声が少し震えていた。
道路は凹凸が多かったけれど、加藤のハンドルを握る手はしっかりとしたものだった。
「なのにさ」
速度を落とすと、エンジンの呼吸も静寂に溶けそうだった。
「なんでアンタは、そうやすやすとそういうのを、捨てられるわけ?」
「そういうのって……うおっ」
急に加藤が速度をあげたため、僕は慌ててバイクにしがみついた。
「そういうのって、お前が、俺に捨てられちゃ困るようなどんなものを持ってるってんだよ」
「それは、……とにかく、あるのよ。そういうものが」
「わけわかんねえよ」
「例えば、私がある人に、捨てて欲しくないものがあるとしたら、その人は、それを捨てないように頑張れるかもしれないでしょう。その人はまたある人にそういう期待を抱いてて、そうやって、繋がってく。そうやって、生きていけるんじゃないの」
とっさに、霞か、唾液か、何か分からないものが喉に詰まり、僕は答える機会を逃した。
「あんたは、生きたくないの?」
聞いていると正しいような気がしてくるから、加藤の話は厄介だ、僕は、ますます居心地を悪くした。汗は鬱陶しく、僕は目の前の少女をやっかんだ。
「生きたくないわけ、ねえだろ」
「じゃあなんで」
それは。
何をやるにも、周りの眼には真面目に映らない人間がいるとして、そんな人間に、人は何を期待するというのか。
期待する人間がいたとして、その期待はどんな期待だろうか。
想像するのも嫌だったけれど、そういう想像こそが人間の本性だと、僕は時折思う。
「私が期待しても、意味ないか」
「どういう……」
「私は来年、大学受験して合格するから、アンタも頑張りなよって、言ってんの。そういうの、誰が言うかで、変わるでしょ。だから……さ、」
ぼぼぼ、というバイクの音にかき消された。
にわかに速度が上がった気がしたし、エンジンの音も大きくなった気がした。けれど、僕の位置からメータを覗くことは叶わなかった。
街灯の間隔が短くなったのか、月明かりが増したのか、道がさっきよりもはっきり見える気がした。
加藤が何を言いたいのか。
いつもは率直な加藤が、今日は本当に、珍しく、異常なほどに、口ごもった。
けれど、それらの言葉を僕は、これまた異常なほどに真摯に受け取った。
僕の意思が表層に現れないように、言葉が常に明後日の方向に放られてしまうように、僕が受け取った加藤の言葉も、加藤の意思とは違うのかもしれないけれど、真意は確かめようもないけれど。
僕は少しだけ、慰めてもらったようだった。
*
「あ」
加藤が声を上げたものだから、僕はまた、心を読まれたのかと思った。僕の手がぴくりと蠢いた。
前方、遠くの方に、光が見えた。その向こうには大きな橋が見えており、橋の上を何台かの車が走っていた。
前方の光に、加藤は声をあげたのだろう。
そのゆらゆらと揺れながらこちらへ向かってくる光は、自転車のようだった。静まり返った深夜。こんな時間に走っている自転車。乗り手は、僕らのような迷子だろうか。それとも。
嫌な予感は当たるもので、自転車の乗り手は四角い帽子を被っていた。ゆるゆると漕がれる車輪が、街灯の傍を通る度に鋭く光った。
近付いてきて確信する。
警官だった。
――にわかに、加藤が速度をあげた
背中から緊張が伝わってきた。
警官は、僕らの方を見向きもせずに走り去っていった。気が付いてすらいないみたいだった。
……加藤が、橋の手前でゆっくりと速度を落とした。そのまま、走るのを止めた。
「気付いてなかったみたいだな」
別に、何かを止められるわけじゃない。
僕らは既に十八歳を超えているし、二人乗りは注意される対象なのかもしれないけれど、免許を持っていない僕は細かいことを知らない。警官に呼び止められたとして、特にやましいことなどなかった。強いて言えば、これから死のうという気持ちに、空気の摩擦力程度の抵抗がかかるくらいだ。
振り返り、すでに姿の見えなくなった警官の方を見た加藤の表情は、虚ろだった。僕が一人で彷徨うように歩いていたとき、こんな顔をしていたのかもしれない。そう思わせる表情だった。
加藤がバイクのエンジンを切った。
僕が不思議に思いながらも地面に足をつけると、加藤はバイクから降りて、ヘルメットを外し、川の方へと歩いていった。
「なんだよ」
僕が声をかけても一向に加藤が立ち止まる様子はなく、僕は加藤の後を追って、河原へと降りていった。川のせせらぎは、上流も下流も変わらず響き続けていて、川に映る月も、どこから見ようと変わらず在り続けていた。
石が連なる河原を、加藤はゆっくりと歩いていった。
立ち止まり、僕が追いつくと、加藤はどこかを見ていた。空ではなく、川のあたりを見ているようだった。何を見ているのかまでは分からなかった。あたりを照らすのは月明かりだけだった。遠くを走る車のエンジン音が聞こえた気がした。バイクで走ってきたせいか、少し肌寒かった。
「ねえ」
加藤の呼吸音すら聞こえてきそうなほど静かな夜だった。
「死んだ瞬間のことを、覚えてる?」
加藤を見た。
唾を飲み込んだ。
唇を舐め、鼻で息を吸い、肺は内から胸を押した。
掌には、汗が滲んでいた。
「なんだって?」
「死んだ瞬間のことを、覚えてる?」
機械で再生したように、一度目も、二度目も、全く同じ音に聞こえた。
川の流れが目に焼きついた。
「私は死んだ瞬間のことを覚えてる」
「俺は死んでない」
「ううん、違う。死んでる」
「脚だって、影だってある。今ここにいる、生きてる!」
「ええ。私はバイクに触れるし、歩けるし、息が吸える。痛みもないし、そうね、まさしく、ただバイクで転んだだけのような傷しかない。でも、死んだのよ」
僕にも、階段で転んだだけのような傷しかない。
……転んだ後の記憶しかないのにだ。
「ただ、あの警官は、私たちに気が付かなかった」
「根拠が薄すぎやしないか」
「私は覚えてる。私が君を避ける瞬間も、その私にトラックが衝突する瞬間も、覚えている。そのトラックに君が轢かれる瞬間でさえも、私はこの目で見ている」
「冗談じゃない」
覚えているわけがない。
そんなことはなかった。
だって、僕は、覚えていない。
僕は確かに生きている。
確かになぜ自分が怪我をしたのか、その記憶は曖昧だ。絶望して、家を出たのも覚えてる。怪我も、した、気がする。ただ、気が付いたら河原を歩いていた。でも、
「根拠がないだろう」
「擦れ違った車の運転手も、警官も、私たちには気が付かなかった」
「そんなの、確かめようがないだろう」
「じゃあ、確かめてみる?」
加藤を視た。
目眩がした。
頭に当てた手には確かに感触も体温もあった。
ただ、恐ろしく世界には現実味がなかった。
河原に佇む僕らには、川の音も、月の光も、現実離れしているように思えた。
加藤は河原を離れて橋の上に登った。僕はその後に続いた。車道と歩道の別れた道路で、昼間は車の通りも多そうなくらい広く大きな橋だった。
偶然にも、そこに自転車がきた。歩道をゆっくりと漕いでいる。灯したライトがゆっくりと僕らに近付いてくる。
加藤は無言で、その自転車の前に立った。
僕はその時気が気でなかった。
なにしろ加藤は、自殺でもするんじゃないかという顔つきで、立ち姿も、何もかもが、静謐だったからだ。
「すみません!!」
加藤が声を張り、体を広げて、自転車の前に立った。
――自転車は、全く速度を落とすことなく通過した。
加藤の身体を通過した。
加藤の髪は風に揺れていて、脚はしっかり橋を踏みしめていて、にもかかわらず、世界が歪んでしまったかのように、自転車は加藤を通過した。乗り手は、僕らを見向きもしなかった。
……僕は、ああ、と溜め息をついた。
そうか。
そうか、僕は死んでいた。
やけに現実味のない最期だった。今はなんだろうか。ロスタイムだろうか、延長戦だろうか。いずれにせよ、加藤に何かを救われたような気もするし、余計なことを吹かれたような気もする。
受け入れがたいことであるような気もしたけれど、今更逆らう気もしなかった。
むしろ、実際のところ、僕は不安を感じていたのだ。死ぬということに。死んだ人間の周囲がどんな重荷を背負わねばならないのか。
雪崩に潰された人間の周囲にも、雪崩の影響は少なからず出るものだ。
僕が起こした(ということになるのだろう)雪崩は、一体どれだけの人に迷惑をかけるのだろうか。不安だった。
それらが、すっと、針が抜けるように楽になった。
ひょっとしたら、これにこそ、僕は罪を感じなければいけないのかもしれない。これこそ、僕の最大の罪なのかもしれない。これ、とは、雪崩を起こした僕こそが、最も救われているという点だ。今僕は、自身の身体に恐ろしいほどの軽さを感じていた。
今まで散々重かった手足が、自分のものではないみたいだった。
「じゃあ、良いんだな」
「良いって?」
「いや、よく、分からないけど、……全部、良いんだ」
「……幸運だったね」
幸運かどうかは分からないし、「死」というものに元来幸運なんてものはないと思う。けれど、幸運だった。
加藤は率直で、それは到底正論とはかけ離れていたけれど、少なくとも僕一人にとっては正しかった。
加藤はバイクのところまで戻った。
僕らが道を歩けるように、橋の欄干に触れることができるように、小石を川に投げられるように、さも当然のように、僕らはバイクに触れた。
「乗りなよ」
「なんでだよ」
僕は、少し微笑んだ。
「どっか行こう」
「良いけど。どこに」
「とりあえず、下流」
もしかしたら、初めに僕にバイクに乗ることを勧めた時から、加藤自身が下流を目指していたのかも知れないと思った。
「その後は?」
「知らない。いつか、燃料がなくなっちゃうしね」
加藤がヘルメットを付けながらバイクに跨る様は、少しだけ笑えた。もう死んでるのに、だ。
そして僕が後ろに跨ろうとすると、加藤は手で待ったをかけた。
「なんだよ」
「行く前に、どうしても言わなきゃいけないことがあって」
「……なんだよ」
加藤は一度深呼吸して、たっぷり間をとった。
「ごめん」
……そして、僕は肯き、バイクに跨った。
加藤は思い出したかのようにもうひとつヘルメットを取り出し、僕に手渡した。
見上げると、空の端がうっすらと滲んでいた。月が、雲とともに白んでいた。
世界は確実に回ろうとしていて、僕らはどこへともなく行こうとしていた。
僕らは伝えようとして伝えられず、受け取ろうとして落としてばかりいる。
僕がバイクに跨って、加藤の肩に手を置くと、加藤は静かにアクセルをふかした。
――僕らはゆっくりと、進み始めた。
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オリジナル短編小説です。 | ||
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コメント | ||
ありがとうございます。(yui0624) おー、良いッスね、加藤のキャラがすき。(うーたん) |
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