四百年間の願い事・平成編(1) |
平日の午前中にも関わらず、参詣者で賑わう金龍山浅草寺の本堂に足を踏み入れると、すぐに外陣の天井を見上げた。
天女が華麗に舞う『天人散華の図』にはさまれ、雲間から猛る龍が、長大な姿のほんの一部を垣間見せた『龍の図』がある。山号にふさわしい勇壮な絵であったが、長谷川基樹(はせがわもとき)が求めている作品ではなかった。
……慶長十五年二月に長谷川等伯が描いた天井画とは、どんな作品であったのか……旧堂は慶安二年(一六四九)の再建であり、昭和二十年(一九四五)の東京大空襲で焼失している。現在の堂は、昭和三三年(一九五八)に再建された鉄筋コンクリート造である。
旧堂でさえ、等伯が腕を振るった年次より三十九年も前の再建であるのだから、等伯の作品が平成二十年八月の今日、目にできなくて当然であった。
基樹は、東京芸術大学美術学部美術研究科油画研究室を優秀な成績で卒業していたが、どこにも就職せず、既に四年が過ぎていた。
芸大を出ている、といっても就職先は国家公務員、都市銀行、証券会社、商社、マスコミなどで、自分が学んできた学問を活かせる分野とはほど遠かった。
しかも、社会に出る際、問われることは、就労する意欲と能力があるかどうか、よりも、入職入社したい先に知人がいるか、有力な縁故があるかが重要視される。
基樹の父は京橋で美術商を営んでいたが、経営規模が小さすぎ、美術業界ではとても縁故とはならなかったことに加え、父の他人を頼るような縁故を嫌う性格から、結局、基樹は就職浪人となったのだった。
基樹は社会に出る前から挫折を味わい、社会へ憎しみにも近い感情を抱き、選挙権を持って六年が経っていても、一度も投票には行かず、それが自分にできる国に対するせめてもの反抗と考えている。
そうした歳月を送りながらも、基樹はただ一つ、龍の絵を存分に描いてみたい、という思いがあった。
それは、芸大に在学中、国宝にも指定され、長谷川等伯の筆になる『松林図屏風』に強く惹きつけられ、調べている中で、京都の本法寺に伝わり、等伯が語った絵画を中心に種々の見解を書き綴った『等伯画説』に、実は追補があることが解ったのだった。
この追補とは、慶長十五年二月(一六一〇年三月)に、等伯が徳川家康の招きにより、江戸へ下る途次、病にかかり、到着後間もない二十四日に亡くなり、江戸円通院に葬られた、とする従来の記録を改めたものであった。
正しくは、等伯は無事、江戸に到着し、浅草寺の本坊である伝法院の書院の一間を与えられ、後に『松林図屏風』に改められる襖絵を描いたこと、そして浅草寺本堂の天井画に飛翔する龍の水墨画を描いた翌早朝、急死したとする内容で、少なくとも江戸に到着して十日前後は活躍していたことになる。
しかも、この約十日間、陽菜(ひな)と名乗り、人間の姿に変化(へんげ)した白真珠色の龍神と深く関わりをもった、というおとぎ話のような脚色が加えられている。
……本当におとぎ話なのだろうか、追補も『等伯画説』を認(したた)めた日通という者の手によって記録されたことは、筆跡から明らかだった……
基樹は外陣を出て、基壇に設けられた階段から右前方を見ると、浅草迷子しらせ石碑の傍らに、純白のワンピースにたおやかな身を包んだ若い女性が、人待ち顔に佇んでいる姿が目に映った。
この石碑は、左側に「たづねる方」、右側に「しらす方」とあり、張り紙によって互いの存在を知らせ合ったものである。本来は、安政の大地震での犠牲者を弔うために建てられたものであるが、迷子、尋ね人探しに利用されるようになった。
猛暑に関わらず、大変な人出を見せる境内で、女性の周りだけ空気の質が異なるように見える。基樹は普段、持ち歩いているスケッチブックを開くと、乙女の後ろ姿をスケッチし始めた。
白いワンピースの裾や半袖の袖口にはフランス製と思われる精緻なレースがふんだんに使われ、胸元やポケットにも可憐なリボンがあしらわれ、それなりの家柄の娘らしいことが窺い知れる。髪は長く艶やかで、わずかな風にも美しく翻っている。
「こっち、見てくれないかな?」
基樹が呟くと、まるで聞こえたかのように女性は振り返った。
目鼻立ちが整った美しい顔で、歳は二十歳前後に感じられた。
このとき基樹の脳裏に、ふと『等伯画説』の追補に記された一文が蘇った。
……浅草の裏店に住む子供たちから足蹴にされていた幼い女の子を等伯が保護し、名を尋ねたところ、陽菜(ひな)と答え、表記の仕方まで言えたという。その後、鶴という裏店の住人が陽菜を行水させたところ、公家か大名家の姫君と見まごう気品が窺えた……
「まさか……陽菜が?」
基樹が、陽菜が時代を超え、江戸初期から平成に現れたのだろうか、と考えたとき、不意に基樹のジーンズの中で携帯電話が鳴った。
スケッチに集中している最中に電話が鳴り、基樹がむっとして応答すると、父からで、
「基樹、ちょっと会社まできなさい」
一方的に言うと、ぶつりと音を立て、通話を終えた。ますます基樹は腹が立った。スケッチを続けようと、基樹は精悍な目を女性へ向けたが、女性の姿は既になかった。
京橋に建ち並ぶ、何ら変哲のないオフィスビルの三階にテナントとして入っている帝国美術堂の社長室へ苛立つ思いで、足を踏み入れると、基樹は、執務机に向かい、電話をかけている父の大志(ひろし)を見るなり、
「父さん、デッサンやスケッチは勿論、俺が筆を動かしているときは話しかけないでくれ、と言っているだろう!」
声を荒げたが、父は顔色一つ動かさず、
「残り五体の納品を急いでほしい。龍上観音は日本でもかなり人気があり、限定十体の受付だったが、第二期販売としてもう十体、発注しようと考えている」
受話器を耳に押し当て、経営者らしい先々を見据える目で電話の相手に言った。
龍上観音は、『木の宝石』と珍重される緑檀から、傅(かしず)くような龍の背上に慈悲深い表情の観音菩薩が立つ姿を精緻に総手彫りした秀逸な置物で、その作者は基樹の母の王 偉(ワン イー)だった。
偉は、福建省出身で、北京在住の数少ない女流工芸美術大師の一人であった。国家主席から賞賛されること二度に及び、上海で催される中国工芸美術大師展覧会において出品作が常に金賞に輝いている。
基樹は、父が手にしている受話器を指さし、
「母さんから? ちょっと変わってよ」
五年前、父と離婚し、北京へ帰り、彫刻に専念している母と久し振りに話せることを喜び、言ったが、父はビジネスの話だけを終えると、電話を切った。基樹はかっと腹を立て、
「父さん! 電話を替わってくれと言っただろう! 聞こえなかったの!」
思わず大志を怒鳴った。 あまりの剣幕に、秘書室の女性社員と秘書室長が分厚いドアをわずかに開け、室内を窺ったが、大志は「大丈夫だから」と目で合図すると、女性社員と秘書室長は静かにドアを閉めた。
大志は執務机を離れ、応接用のソファに腰を下ろすと、
「基樹、お前はいつまでぶらぶらしているつもりだ?」
煙草に火を点け、ふうっと煙を吐き出して尋ねた。基樹はまたその話か、と思いながら、父の前にどかりと座り込み、
「いつまでとか、そんなことは決めていないよ。父さんは俺をニート呼ばわりするけれど、ニートってのは、家から一歩も出ずに引きこもっている奴のことだ。俺は常に俺の表現を探して……」
「だから、そんな一文の足しにもならないことはやめて、父さんの会社できちんと働きなさい!」
大志はぴしりと息子に言った。
大志が代表取締役を務める帝国美術堂は、大正三年(一九一四)に丸の内で三代前の先祖が書道専門の通信教育団体として発足したのだった。
この年、東京のというよりも帝都のシンボルとしての東京駅が開業し、併せ中央口から皇居の和田倉門に向かって真っ直ぐに伸びる都内でも、最も広い幅員七十三メートルの道を敷設し、国家の象徴的な空間が造り出された。
現在の御幸(みゆき)通りがこれに当たり、こうした丸の内周辺のビルを借りて帝国美術堂が開業したことから、仰々しい社名をつけたのだった。
昭和四十九年に教養講座、資格取得講座と書道関連品販売部門、国内外の伝統工芸品販売部門を分離し、本社機能を京橋に移転させ、平成十年から資本金を二億三千万円に増資し、大志が社長に就任しているのだった。基樹は、
「俺は、サラリーマンで食っていく気はないよ。俺は画家になりたいんだ」
自分の志望を言うと、
「いつまでも夢ばかり追っていないで、現実を考えなさい。父さんの一人息子が、ニートだなんて……少しは家族の立場も考えたらどうだ!」
基樹を一喝した。基樹は、自分の可能性を全く信じていない父が悲しく、悔しく、情けなく、涙が込み上げてくる瞳で大志をにらみ据えた。大志は、お前のためなんだ、世の中の仕組みは、もう四年前に嫌と言うほど見ただろう、父さんと一緒に平凡だが、穏やかな人生を送ろう、と目で息子に悟しながらも、
「父さんの言うことが聞けないのなら、家を出て行ってもらうよ。しかし、しばらくの猶予をやろう。年内に権威のある公募で入選して見せなさい。それができなければ、家を出て行ってもらう!」
これだけ厳しいことを言えば、基樹も聞くだろうと、心を鬼にして言い切ると、基樹はテーブルの上に積み上げてあった用箋ばさみにまとめた決済済みの稟議書の山を床にぶちまけるなり、
「出て行け、出て行け、とバカの一つ覚えか! そうやって母さんも追い出したんだろう! そんなに家を出て行きたいんなら、親父、お前が出て行けばいいだろう! 俺を出て行く気にさせるより、よっぽど早い!」
激昂し、父を怒鳴り散らすと、憤然と社長室を立ち去った。
説明 | ||
平成20年8月、長谷川基樹(もとき)は、浅草寺に訪れ、四百年前、長谷川等伯が描いた天井画に思いを馳せます。そうした彼の前に美しく成長した陽菜が現れますが…… 小市民のファンタジー、新章の始まり〜始まり〜 |
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