四百年間の願い事・平成編(2) |
鎌倉街道の左右に迫る山肌を覆った緑は豊かだった。九月に入っても蝉の鳴き声は収まる気配も見せない。
基樹は北鎌倉駅の改札口を出ると、しばらく線路伝いに歩き、鎌倉街道に出ると、左に折れ、臨済宗建長寺派大本山の建長寺へ向かった。法堂(はっとう)の天井に描かれた龍の絵を拝観するためだった。
建長寺は寛元四年(一二四六)、三十三歳で来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が九州、京都と経た後、鎌倉で北条時頼に請われ、建長寺に迎えられ、そのまま中国宋時代の純粋で厳しい禅寺としたことに始まった。
基樹はスポーツタオルで首筋を伝わり落ちる汗を拭きながら、二日前、父に言われた言葉を思い返した。
大学を出て、もう四年も経つにも関わらず、まだどこにも就職しない自分の将来を案じているのは解るが、二言目には出て行け、と短絡的に去就を迫るものの言い方は、母が北京へ帰ってしまったことも考え合わせ、父にとっての家族とは、そんなに軽薄な存在だったのか、とまたもはらわたが煮えくり返る思いになった。
天下禅林と記された扁額が掲げられた天下門から建長寺の境内へ入ると、基樹は見所の多い総門、三門、仏殿には目もくれず、法堂に訪れた。
文化十一年(一八一四)に再建された法堂は、住職が仏に替わって須弥壇上で説法するための堂で、本来、仏像は祀らないが、建長寺では千手観音を安置している。
天井を見上げると、平成十五年(二〇〇三)に創建七五〇年を記念して、鎌倉ゆかりの画家の筆になる雲龍図と名付けられた水墨画が描かれている。
寺院の堂宇に描かれる龍には、仏法を守護する、という役目と、衆生に御仏の教えを雨のように降らす、という意味があるが、やはり猛る龍は基樹が求めているものではなかった。……では、自分は一体どんな絵を探しているのか……浅草寺に次ぎ、建長寺でも答えが得られず、基樹は思わずうなだれ、法堂を出た。
基樹は、仏殿の前栽として植えられた七本の生命力にあふれる幹と枝葉を拡げるビャクシンの前をとおりかかった。
そのとき、光沢のある純白の生地を縫製し、高級なリボンやレースをあしらったブラウスとスカートを着こなし、長い髪をそよ風に翻す若々しい女性が、際立って古いビャクシンを見上げていることに気付いた。その女性の周囲だけ空気の質が異なるように見える。
浅草寺の浅草迷子しらせ石碑の前に立っていた乙女その人であった。
女性の足元を見ると、強い陽の光を受け、長大な龍の影がくっきりと参拝道に落とされている。
「陽菜……さん、だよね? そうだよね?」
基樹は清楚な佇まいの乙女に声をかけると、
「さん、なんてつけなくていいんだよ、四百年も前からの知り合いなんだから。あ……今は等伯先生じゃなくて、基樹君だったね」
陽菜は嬉しそうに笑った。基樹は陽菜の言葉の意味が解らず、
「今は……等伯先生じゃないって?」
「基樹君の魂は、等伯先生の魂なの。
人間は魂と肉体で成り立っているの。肉体には寿命があるけれど、魂は不滅。そして自分の子孫の体に宿っては、また有限の時間を歩んでいくものなの。
解りやすく言うと生まれ変わりね」
「でも、長谷川等伯の実父は七尾城主の家臣、奥村文之丞で、長谷川宗春は養父だったし……」
「奥村文之丞はよほど長谷川宗春と親しかったのね。等伯先生の妹も養女に出していたの。
そうそう、人間の心は肉体と魂の間で揺れ動いている波動のようなもの。病気や怪我をすると、気分が落ち込むでしょう? これは魂と肉体が連動している一番解りやすい例ね」
「俺が画家になりたいと熱望したり、長谷川等伯に興味をもって調べたのは、生まれ変わりだったから……」
「基樹君は物解りがいいね」
陽菜はわずかな講義で正解を答えられた生徒を見るように喜んだ。基樹は、『等伯画説』の追補に記された一文を思い出し、
「伝法院で仁和寺から下向した若い親王に教えたのは、そう言った人間界の真理だったの?」
尋ねると、陽菜はうなずき、
「ついでに、魂の向上のさせ方も教えてあげたっけ。親と先祖の存在に対して常に尊敬、感謝を日々の生活の中で感じ続けていると、よりよい方向へ心が動いていって、周囲から親しまれ、結果として質のいい人生を歩むことになる、って教えてあげたら、とても喜んでくれたな。あんなに天界の教えを素直に聞く人は珍しいよね」
親と先祖の存在に対し、常に尊敬、感謝を感じ続ける……基樹は、先日、帝国美術堂の社長室で、社員に警戒され、のぞき込まれるような大げんかを父としでかしてしまい、陽菜の言う良質な人生など、まるで夢物語であった。基樹は孤独を感じながら、
「陽菜は四百年前、いや、正確には三百九十八年と六か月前だけど、息子の久蔵を亡くし、孤独と絶望を抱えながら年老いていった等伯を救おうとしてできなかった。今また俺を救おうとしてくれている。俺は、どうしたらいい?」
基樹は、『等伯画説』の追補の教訓から、等伯ができなかった心の奥底にある思いを陽菜に訴えると、陽菜は、
「基樹君は画家になりたいんでしょう? でも、機会がもてないし、社会に対して強い不信を抱えている。おとうさまにも責める思いがある。
でも、もう機会はきている。一か月の間、大変な思いをするけれど、自分の人生の礎を築き上げるためだと思ってほしいの。一か月後には、今の心の行き詰まり全てを消してなくすことができる。がんばれるよね?」
確かめるように基樹の瞳の奥を見つめるた。基樹は一体どんな機会なのか、自分は何をするようになるのか、訳が解らぬまま陽菜の透徹なまなざしに気を呑まれ、ただうなずいた。陽菜は、
「よかった。ちょっと、後ろを向いていて」
嬉しそうに微笑んだ。基樹は言われるまま、陽菜にわずかな間、背を向け、振り返ると、陽菜の姿は消えていた。
辺りを探し、ふと晴れ渡った夏空を見上げると、白真珠色の巨龍が、長大な身を左右、上下に美しく翻しながら飛翔し、すぐに雲の中へと去っていった。
どうやら、陽菜は龍体へ戻る際に、衣服はうろこに、頭髪をたてがみや角に変化(へんげ)させるため、一瞬だが裸になるらしい。
基樹は茫然として龍の顕現を見つめていたが、建長寺を辞そうと、総門の前にある朱印所をとおりかかったそのとき、日展の開催を知らせるポスターが貼られていることに気付いた。
日展は、日本美術展覧会の通称で、十月下旬のみに公募と展覧会が行われ、日本で最も権威がある。
基樹は、自分の作品が日展になど、とても太刀打ちできない、と気にも留めずとおり過ぎようとしたとき、陽菜の言葉が鮮やかに蘇った。
……もう、機会はきている……
基樹は、思わず足を止め、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、応募要項を詳しく知ろうと、ポスターに記された日展の事務局に電話をかけた。
説明 | ||
鎌倉の建長寺を訪ねた基樹は、陽菜と出会います。 陽菜は、等伯の魂を救うため、生まれ変わりの基樹にがんばってほしい、と四百年間に抱いてきた願い事を託します。 基樹は何を始めればいいのか、その道程は……小市民のファンタジー、新展開です。 |
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