四百年間の願い事・平成編(4) |
構想さえつかめれば、基樹の応募作品の制作は迅速だった。
光があふれた雲海の中を、人々のしあわせを願う思いを封じ込めた宝珠を前肢で捧げ持ち、ぐんぐんと力強く上昇していく白真珠色に輝く巨龍の後ろ姿、という空想上の主題であったから、スケッチブックにラフスケッチを繰り返し、納得する構図を得てから、木炭でキャンバスに下絵を描く。
その作業が済むと、5Bの鉛筆で木炭の線をなぞり、ティッシュペーパーで木炭を丁寧に落とし、鉛筆の線を残し、フィキサチフという定着剤を吹きつけ、下絵を定着させる。
すっかり手慣れた基樹の手の動きは、隣室の貸しスペースで、作品発表会に向け、やはり油絵の制作に励む同好会に参加した主婦たちの目を見張らせた。
次ぎに、主題である右に左に、上へ、下へもと、長大な身を自在に翻しながら上昇する龍を、くねくねとした四角い角材のように上面をカドミウムレモンで、側面をウインザーオレンジで単純化し、しかしダイナミックな遠近感をもって描いてしまう。
隣室の主婦たちは、基樹が一体、何を始めたのかと、顔を見合わせている。
基樹が宙を飛ぶような角材の色の境目を混ぜ合わせ、中間色を作り始めると、たちまち角材が円筒形へと変化していく。後はチタニウムホワイト、ときにはコバルトブルーやカドミウムグリーンなどを使い、華麗な白真珠色に輝く龍の体を表現していく。
長大な龍の体のうち、画面の手前に当たる部分は厚塗りし、画面の奥に当たる部分は薄塗りすることで、油絵の醍醐味である透明水彩とは異なる重厚に輝く絵肌が得られる。こうした表現こそ、基樹に油絵を選ばせた魅力であった。
基樹は一息入れようと、ブラシクリーナーで丁寧に筆を洗うと、隣室で油絵の制作に励む主婦の一人が、
「お兄ちゃん、ちょっと教えてよ」
以前に、同好会を主宰する瀬川が基樹を笑い者にしたことから、おずおずと声をかけてきた。基樹がその主婦のキャンバスをのぞき込むと、ポピーを熱心に描いているのだが、何とも稚拙だった。主婦は、
「白いポピーのくぼみを出したいんだけれど、どうしても上手く描けないんだよ」
白いポピーに立体感を与えようと、しきりに放射線状に色を置いているが、効果が得られない。基樹は主婦から油絵具を絞り出したパレットと丸筆を受け取ると、白い花びらよりも鈍い色で、大胆に花びら全体に及ぶように「井」の字を描いてしまう。この「井」の字を本来の色である白を使い、内側から外側へぼかしていくと、くぼんだポピーの花へとなっていく。彩度と明度の差を生かした手法だった。
基樹に助けを求めた主婦は、目を丸くし、
「このお兄ちゃん、すごいよ!」
思わず歓声を上げると、すぐに他の主婦からも、
「お兄ちゃん、おばちゃんにも教えてよ」
基樹に声をかけてきた。次の主婦は油画を描くに当たっての技術は一とおり習得していても、全体的に濁った絵に仕上がってしまうことに悩んでいた。基樹は、キャンバスを見ると、
「これはドロンコ現象といって、寒色と暖色を用いる際に、同じ筆で画面をかき回しているうちに起こる現象です。使う色によって筆を分けることと、こまめに布で筆につけた油絵具を拭き取りながら作業を進めていくと、鮮やかな画面に仕上がりますよ」
的確なアドバイスをした。山手や元町の有志で結成されたこの同好会は、陽菜が言ったとおり、素人の集まりで、基本的な知識をまるで習得してはいないのだった。
基樹は、ふと、瀬川と目が合った。
瀬川は以前に有志たちを扇動するようにして、基樹をあざけり笑った張本人だった。瀬川はふと左手首に巻いた瀟洒な腕時計に目を遣ると、主婦たちへ昼の休憩に入るよう指示し、基樹にも、
「お兄ちゃん、一緒にご飯にしなよ」
敬う瞳で言い、手作りのおかずを勧めた。
行動計画どおり、九月一杯には、基樹は『希望の飛翔』とタイトルをつけた日展への応募作品の制作は終了させていた。
わずかな修正をしながら油絵具を乾燥させ、個人搬入の搬入日に指定された十月十一日の朝、基樹は出品申込書を調え、完成した作品を搬入のために額装し、裏面に画題、氏名、住所を記入していると、瀬川が駆け寄ってくるなり、
「お兄ちゃん、何で昨日のうちに持っていかなかったの! 大変なことになっているよ!」
青ざめた顔で叫んだ。基樹は瀬川の剣幕ににたじろぎながら、携帯電話でワンセグ放送を受信すると、どの放送局でもニュースキャスターやレポーターが緊張した面持ちで臨時ニュースを取り上げていた。
「今朝の六時五十五分頃、横浜市神奈川区青木町の青木橋交差点で発生した十トントラックとタンクローリーの衝突事故により、タンクローリーがJRと京浜急行合わせて八線の線路内に落下、架線柱一基をなぎ倒した上、炎上し、三時間が経過した現在も全く火の勢いは衰えを見せておりません。この火災により、京急神奈川駅は全焼と見られ、付近の住民も自主的に公民館や小学校などに避難をしております」
基樹は愕然としてチャンネルを換えると、
「この事故により、JR京浜東北線の上り下り、横須賀線の上り下り、東海道線の上り下り、京浜急行線の上り下りが運休となり、東京〜横浜間は、横浜市営地下鉄とみなとみらい線と相互乗り入れをしている東急東横線へ振り替え輸送が始まっています。今日は、幸い土曜日ということで、朝の通勤ラッシュはありませんでしたが、三連休を利用して遠出を計画している行楽客の足を直撃した形となり、横浜駅は……」
「在来線の運休により、特急踊り子号、成田エキスプレスも運休となり、混雑の余波は拡大しています」
「タンクローリーが電力を供給している架線柱をなぎ倒したこと、また、八線の線路が炎上した軽油の高温に長時間さらされていることにより、JR東日本と京浜急行電鉄は復旧のめどは全く立っていないと発表し……」
「走行中の車両が、火災に巻き込まれず、施設の被害に比べ、死傷者はタンクローリーと十トントラックの運転手二名のみという奇跡的な状況ですが、現場は横浜駅に近いオフィス街と住宅地であり、予断は許されません」
どのテレビ局でも青木橋の事故を報じていた。この事故により、朝の混雑が一息ついた時刻に完成した作品を、鉄道を使って搬入指定場所である六本木の国立新美術館へ運ぶという基樹の計画が打ち砕かれたのだった。
基樹は、ワンセグ放送を受信し続ける携帯電話の液晶画面を、茫然として見つめた。
首都圏を混乱させている青木橋の事故は、京橋にある帝国美術堂の社長室に置かれたテレビにも映し出されていた。
大志は唖然として、いつ終えるとも解らぬ臨時ニュース番組を見つめながら、
「なぜだ、なぜ、基樹は俺に、父親に助けを求めてこないんだ!」
基樹が挑んでいる日展の公募作品の受け付けは、今日の午後四時半までで、横浜から六本木まで大人の身の丈ほどもある作品を、搬入代行業者に頼まず、基樹自身が鉄道で運ぶ計画は、水泡に帰したにも関わらず、父親に助力を求めてこないことが、大志には理解できなかった。
帝国美術堂の社用車を使う、という手段もあれば、美術品の輸送にはずば抜けたノウハウをもつ大手輸送業者にも顔が利く。それを知らぬ基樹ではなかった。
それにも関わらず、父を頼らないと言うことは、基樹は完全に大志を見限ったのだろうか。大志は、一人息子に見放され、捨てられたのかと考えると、全身ががたがたと震え出した。
説明 | ||
基樹の作品は、急速に制作が進みます。 同時に、素人ばかりの貸しアトリエの中で、基樹は一躍、注目を集めますが、日展事務局への個人搬入の日、横浜駅近くでの車両事故により、首都圏の鉄道の殆どが運休となってしまいます……小市民のファンタジー、クライマックスです。 |
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