お茶漬け |
S.A.L(涼宮明日香法律事務所)の朝は早い。
公式の業務時間は午前9時からであるにもかかわらず,遅くともその2時間前には事務所に人の気配が宿る事になる。
今日も,それまでと変わらず,午前7時ぴったりにS.A.Lの裏口ドアは,一人の女性の手によって開かれることになった。
「………?」
事務所に入ってすぐ,柊麗(ひいらぎれい)はその異変に気づく。
ブラインドが下げられ,薄暗い室内。
比較的清潔に保たれているものの,法律事務所特有の雑然さに包まれた空間は,夜の間に書籍の独特の匂いを充満させている。
学生時代より図書館に通い詰めていた柊にとって,その匂いが嫌いではなかった。
柊が朝誰よりも早く事務所に出所するのも,その匂いをかぐのが目的の一部だったりする。
しかし。
今日は,いつも慣れ親しんだその匂いの他に,別の匂いが混ざっていた。
「………」
いつもなら,ブラインドを上げ,窓を開けて朝の新鮮な空気を入れるところだが,柊はそれをせず,奥の応接室へと向かう。
そこは,少し広い法律事務所ならかならずあるような,ソファーやちょっとした観葉植物の置かれた部屋だった。
一般の依頼者と相談するための相談室とは少し違った,狭くはないが,さりとて,広くもない空間,それが応接室だ。
コンコン
控えめに,しかし,しっかりと部屋の内部に聞こえるように,柊はその応接室のドアをノックする。
………
返事はなかった。
そのことを確認して,柊はゆっくりとドアのノブを回す。
ガチャリ……
静まりかえった部屋の中,普段は気にならない音を響かせつつ,ドアが開かれる。
と同時に。
甘ったるいような,それでいて,芯のあるスパイシーな匂いがふっと部屋の中から漏れ出す。
続いて,机を挟んで向かい合う形で置かれたソファーが柊の視界に入ってくる。
そして。
最後に,ソファーの上に横たわるもぞもぞと動く物体が目に入る。
「……事務所に泊まるのは,やめにしたんじゃなかったの?」
冷たいようでいて,どこか暖かみのある声で柊がその物体に問いかける。
「……何事にも,原則と例外はあるものよ……」
疲れているようで,張りを依然として失わない声がそれに答える。
「……それだけいえれば十分ね。ほら,起きて。所長さん」
柊はそれだけ言うと,きびすを返して応接室を離れた。
応接室では,なにやら物体がめんどくさそうにもぞもぞと動いている。
シャッ シャッ シャッ
応接室より戻った柊は,事務所の窓についているブラインドを全開にすると,窓を思い切って開け放つ。
事務所内に朝の光が充満し,同時に,凛とした空気が淀んでいた空気を霧散させた。
「……う…ん…?…」
「…………!?」
と,突然,柊の背後で人のうめき声が聞こえた。
予想していなかったその声に,窓を開けていた柊の動作が一瞬止まる。
しかし,すぐに何事もなかったかのように,振り返ると,デスクと壁に囲まれた狭い空間に視線を落とした。
「大丈夫? ハヤト君?」
狭い空間で丸くなりながら,ゆっくりと彼は顔挙げる。
「……おはようございます……柊さん」
当然と言うべきか,彼の寝覚めは最悪のようだった。
それもそうだろう。
彼は冷たい床の上で毛布一枚にくるまって寝ていたのだから。
「おはよう,ハヤト君」
満面の笑み,とまでは行かないものの,見る人が見ればしっかり笑っていると分かる。
そんな笑みを浮かべながら,柊は林原隼人と朝の挨拶を交わす。
「………」
林原は,しばらく,その柊の顔に見とれていた。
林原の基準では(おそらく,他の者の基準でもそうだろうが),柊は,少し,クールなイメージがつきまとうものの,十分綺麗である。
そんな柊の笑みを一身に受けられるのだから,林原が役得,と思ってしまったのも無理はない。
「……事務所内恋愛は禁止だからね,ハヤト!」
そんな林原の心内を知ってしらずか,切れ味鋭いつっこみが彼を切り刻む。
「……な,ちが……!?」
こういうときは慌てては負けだとは理性で知りつつも,それまでの性分は代え難く,思わず反応してしまう林原。
「いつも言ってるでしょ? 弁護士たるもの,取り乱したら負けよ?」
その反応を10年も前から見通していたかのように,ばっさりと切り捨てる涼宮明日香。
「…………」
ある意味当事者だというのに,さっさと自らが次にやるべき動作を忠実に行おうとする柊。
この事務所の既定路線とも言うべき役割分担をそれぞれが忠実にこなしつつ,朝の時間はゆっくりと進行していった。
「……それで,昨日は何時までやってたの?」
一通り朝の仕事をこなした後,応接室にて涼宮には紅茶を,林原にはコーヒーを配りながら,柊は尋ねた。
「12時,だったかしらね?」
柊の入れてくれる紅茶はおいしいから好きなのよね,そう表情で語りつつ,涼宮は答えた。
「あら,なら,十分に帰れるはずじゃない?」
そういって林原を見る柊の手には,ミルクセーキが入ったコップが握られていた。
「本当に12時で終われば,ですけどね」
林原は何とも言いかねる表情で答える。
この事務所に入って,林原がもっとも得意になったことといえば,この表情を浮かべることだろう。
「仕事は12時には終わってたわよ。嘘は言ってないわ」
聞かれてもいないのに涼宮が口を挟む。
「……今度は何?」
しかし,柊が促しても涼宮は答えなかった。
柊も,涼宮の答えは余り期待していない。
「………」
とはいえ,林原も例の表情を浮かべるばかりで何も言わなかった。
しばらくの間,三人がそれぞれの飲み物を飲む音だけが応接室に響いていた。
「……お茶漬けとさ」
やがて,若干の弱々しさを含んだ声で,涼宮がしゃべり出す。
「おにぎりって,レイはどっちが好き?」
やれやれ。
今,柊の背後には,間違いなくその言葉が浮かんでいることだろう。
「私は,お茶漬けかしらね」
それでも,ここはきちんと答えることが正道であり,正解であると,柊は経験から把握していた。
「やっぱり!」
途端にテンションの上がる涼宮と,一層訳の分からない表情が強くなる林原。
「聞いた? ハヤト! やっぱり,日本人ならお茶漬けなのよ!!」
鬼の首を取ったかのような勝ち誇りぶりに,しかし,林原に言い返す気力は存在していなかった。
自体の真相はこうである。
昨日の夜,12時頃,何とか次回裁判所に提出しなければならない弁論要旨を書き上げた涼宮と林原。
その時点では,林原は終電で十分に帰ることができた。
だが。
惜しむらくは,そのとき,涼宮のお腹が空いていたことだろう。
もっといえば。
涼宮が夜食として「お茶漬け」を連想してしまったことだろう。
あとはもういつもの通り。
「ねぁ,夜食食べない?」
「はぁ? まぁいいですけど,明日香さん,太りますよ」
「……今すぐこの場で首にしてあげようか?」
「……まだ今月の家賃払っていないんで勘弁してください」
「そう。従順さは,日本のサラリーマンの美徳よ?」
「まぁ,僕,サラリーマンじゃないですけど……」
「細かいつっこみはなし。で,何食べたい?」
「そうですね,あんまり重いモノはイヤだから,ここは軽めにおにぎりかなぁ」
「はぁ?! おにぎり? 何いってんのよ。日本人ならお茶漬けでしょうが」
「はい?」
「だ・か・ら。日本人なら,お茶漬けでしょうがっていってんのよ!」
「そんなむちゃくちゃな」
「無茶などころか。真実よ」
「だからそれがむちゃくちゃだって……」
「なーんですってぇ〜?!」
その後,仕事からの開放感と夜のハイテンションも付き合って,論争は,林原の終電がなくなるまで続いたのだった。
場面は再び,朝の応接室へと戻る。
もう誰にもとめられないくらい,テンション高くお茶漬けのよさを力説している涼宮と
何で僕はあのとき口答えしてしまったのかと深く深くダウンしていく林原を対面に,柊はミルクセーキを少し残念そうに飲みきった。
コップの中の嵐ね。ま,嵐そのものは良くあることだけど
柊がそう思ったかどうか。
それはその表情からは読み取ることができなかった。
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どたばたコメディっぽい作品。 キャラの名前がどこかの誰かに似ているのは御愛嬌(笑) |
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