水瀬(みなせ)の思い出
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 舗装され、歩きやすい谷戸(やと)坂は使わず、頭上がうっそうとし、遊歩道が設けれたフランス山から山手に登る。

 水瀬(みなせ)美実(みみ)は、初秋らしいコスモス柄の襟、袖、裾などにふんだんにフリルやレースをあしらった華麗なワンピースに、小柄な身を包み、ビスクドールを抱いて、フランス山を歩いた。

 フランス領事官邸の遺構を過ぎると、まだ、朝も早い時刻であったから、ジョギングを楽しむ初老の女性が、腰まで届くソバージュの髪をわずかな風に揺らす三十五歳の美実が一人きりで、異国情緒豊かな横浜の山手を歩く姿は、奇異なものに見えたが、精緻に創り込まれたビスクドールの美しさに目を引かれ、

「まあ、かわいらしいお人形さん。お姉さんが創ったの?」

 気さくに声をかけた。美実は苦笑し、

「いえ、買ってきたんです。銀座で。高いですよぉ〜」

 愛想よく返すと、女性も笑い、ジョギングを続けながら去っていった。

 美実が港の見える丘公園から山手本通りに出ようとすると、目の前を自分と同じ年格好の女性の二人連れが、楽しそうにとおりすぎていった。

 有休を取って、横浜へ観光に訪れた地方のOLらしい。

 美実は、とっさに、OL達に駆け寄り、

「ねえ、わたしのどこが悪かったの?」

 思わず問いかけたい衝動に駆られたが、かろうじて抑えた。

 美実が七年間、交際をもった「彼」と別れたのは、一週間前のことだった。

 美実の「彼」は、食事のマナーも、美実の話を聞く態度も洗練されたものを感じさせ、さすが、一部上場の製薬会社で十年以上も営業を続けているだけあって、そつがなかった。

 しかし、結婚について美実が切り出すと、「彼」は途端にはぐらかし始めた。

 家族に何か事情があるのか、自分自身の健康が優れないのか、あるいは大きな借金でもあるのか、理由は全く話そうとはしないのだった。

 交際を始めて二年、三年まではよかったが、美実も三十五歳になれば、後がなくなってくる。結婚をする気のない男といつまでもつき合っているわけにはいかなくなる。

「わたしの人生を返してよ!」

 美実は思わず心の中で怒鳴った。

 美実の心は、「彼」に対する疑惑が、この一週間で恨み、憎しみへと変わっていた。自分でも恐ろしかったが、心とは自分のものでありながら、自分ではどうにも出来ない存在だった。

「ねえ、わたしの何が気に入らなかったんだろうね?」

 美実は、思わずビスクドールに語りかけた。当然、何の答えもない。解りきってはいたが、問いかけずにはいられなかった。

 山手本通りを進むと、外人墓地に行き当たり、左へ大きく曲がっている。

 辺りは、西洋館や教会、ミッションスクールが建ち並び、まるで異国を訪ねてしまったような錯覚にとらわれる。

 山手は、横浜の開港時代、外国人居留地に充てられた地区であった。今では、横浜の観光地の筆頭に挙げられるものの、美実には見慣れた景色であった。

 美実は、中学、高校を山手のミッションスクールに通った経験がある。

 外人墓地のすぐ傍らに、貝殻坂という道幅の狭い坂がある。

 美実は、久し振りに妹のように大切にしているビスクドールを抱き、母校がある町を訪ねれば、心が楽になるのでは、と思ったものの、何も得られない。

 美実は、クリエイター予備軍と呼ばれるコミックやイラストなどを描く層の投稿を受け付けているサイトを運営するIT企業に勤めながら、自分でもサイトのトップにナンセンスな4コママンガを描かせてもらっている。

 貝殻坂を下りきり、元町公園を抜けると、ふと、ジェラールの水屋敷があることを思い出し、美実は、

「ちょっと寄ってみようか」

 ビスクドールに言った。

 ジェラールの水屋敷は、フランス人のジェラールが、山手の山間からわき出る上質の天然水を、外国船に飲料水として売ったり、西洋瓦やレンガの製造に使っていた工房跡で、現在に史跡として伝わっているのだった。

 ふと、美実が中学一年生のときのクラス担任が、

「人の心は、いつも水のように流していなければなりません。

 水は流れているから、美しくきらめています。きれいな水音を聞かせます。

 流れが止まってしまうと、濁ります。腐ってしまいます。

 人の心も同じです。常に明るい未来を見つめ、希望を抱いていると、その人は誰が見ても、美しくきらめいて見えます。そこに、助けが得られます。

 過去ばかりを振り返り、うつむいて歩き、後悔に縛られている毎日は、流れが止まっています。

 恨み、憎しみばかりがたまっていき、顔や姿まで醜くなっていきます。

 皆さんは、いつも心の美しい、つまりは人生が美しい女性であってほしいのです」

 水屋敷の存在と心を重ねて話してくれたことがあった。

 当時は、世間の一般道徳として聞き流し、今の今まで忘れていたものの、それは自分が心から求めていた答えであった。

 朝の澄んだ陽の光が、鮮やかな濃淡となって頭上の木々の葉をみずみずしい色に照らし出す景色を見上げると、美実はビスクドールに、

「さあ、帰ろうか」

 頬笑み、語りかけた。(完)

説明
1週間前、7年間、交際のあった「彼」と別れた水瀬(みなせ)美実(みみ)は横浜の山手に訪れます。「彼」への恨みが募る美実が山手で見たものは……
小市民の読み切り短編、まったり気楽にお楽しみ下さい。
ところで、主人公の水瀬という言葉ですが、世間一般に使われているかと思ったら、国語事典にも載っていない単語でした。広辞苑によると、「水が浅く歩いて渡れる所」です。姓名とも主人公のしあわせを願ってつけた名前です。
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水瀬美実 山手 横浜 ジェラールの水屋敷  

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