どようび!! 1
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朝起きて、窓を開けて、吸い込んだ空気が思ったよりも澄んでいた。

人の清廉を思わせるその空気が、寝癖混じりの髪を柔らかく撫でていく。

 息を、思い切り吸い込んで思い切り吐く。綿菓子の様に、白く柔らかな空気が抜けていった。

天を覆う蒼は突き抜けていて、その空気と同じように、やはりどこまでも澄んでいた。空に浮かぶ純白の飴すら、この蒼の中に有っては不純なのだろう。そんな気がした。

思わず、見惚れてしまった。思わず、見蕩れてしまった。

胸が締め付けられるような感覚に陥って。

だから、というわけでは無いだろうが。

「……………………」

 なんとなく、部室へ行こうと思った。

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吐いた息は白く、息を当てた手は赤い。

普段どおりの制服に、学校指定のコート。マフラーを添えて、田井中 律は、私立桜が丘女子高等学校の前に立っていた。

何時も通りの凸だしスタイルだ。前髪を下ろすのは、どうしてだか恥ずかしい。唯は嫌がっていたが、彼女にとってはむしろ、世間様に対して凸を露出していない方が恥ずかしい。だから、どんなに寒くても、お気に入りのヘアバンドで前髪をかき上げる事を忘れはしない。だが、手袋をしてこなかったのは痛恨の極みだ。学校指定のコートが、本来果たすべき防寒機能という点において、もしかして気休めにしかなっていないのでは無いかと疑っていた。ずっとだ。手袋を忘れてしまった今日などは、特に強く感じる。

そういえば、携帯も家に置きっぱなしだ。

正門は閉ざされること無く、大いに開放されていた。見慣れた正門。3年間、休日祝日長期休暇を除けば、ほとんど毎日ここを通り抜けた。何の変哲も無いが、そう考えると妙に愛おしかった。

「…………なーんてな」

 律は呟いて、苦笑した。

 ただの入り口に特別な思い入れを持つほど、センシティブな人間になった覚えは無い。だが、土曜日にこの入り口をくぐるのは初めてかもしれない。そう考えると、その事に対してだけは、3年も通っていて今までそうした事が無かったという事に関してだけは、少し驚いた。…………いや、有ったか? どうだっただろうか。

土曜日であるのに開放された正門。それに対して、疑問を覚えたりはしない。休日でも運動部は練習に励んでいるだろう。それに、未だ入学試験に追われる3年生も居るはずだ。希望者を募った入試対策講習だとかなんだとか、そういうもの。時刻は8時20分を少し過ぎた辺り。講習が朝から開始されるなら、すでに登校していてもおかしくない。既に大学への片道切符を手に入れた律にとって、光速で遠ざかって欲しい過去に他ならないそれは、しかし今現在も確かに行われているのだ。

門扉の分厚い鉄格子に左手を滑らせながら、律は学校の敷地へと足を踏み入れた。一定のリズムで走らせたはずの手は、しかし不器用な音を、鈍く響かせた。

部室のドアを開けると、静寂が襲い掛かってきた。もちろん比喩だ。実際に、生き物のように、あるいは化け物のように牙を向けて襲い掛かってきたわけでは無い。

「……………………」

ただ、他の部員もそうだろうが、律が常に感じていた、部室独特の安心感や安定感と言った空気が感じられなかったのだ。その事に、ちょっと驚いた。ひんやりとした空気と、外から聞こえてくる運動部の声が、それを一層助長した。

後ろ手に、静かにドアを閉めた。

そして、

「…………誰か、居るのかぁ?」

 問いかける。

しかし、返事が有る筈も無い。そんな事は当然だ。今日は休日で、特にメンバーで集まる予定も無い。だから、それは当然で有る筈なのだが…………それでもそう聞いてしまったのは、部室の鍵が開いていたからだ。

部室を使用しない場合、施錠は当然の義務だ。施錠が義務付けられている以上、あるいは扉というものが持つ性質上、ならばこそ当然、鍵の存在は必然だ。そして、鍵は職員室で教師が保管している。

だから、律はまず、職員室へと足を運んだ。部室の鍵を開けるためだ。しかし、そこに鍵は無かった。職員室には何人かの教師が居たが、誰も知らないという。

もしかしたら、他のメンバーが…………澪や唯、ムギや梓が居るのかもしれないと考えたのだが…………しかし、部室には誰も居ない。

「うーん、私達の閉め忘れ…………じゃあ無いよな」

 職員室に保管されている鍵。それは、それが定位置に保管されているかどうか、毎日チェックされている。そして、鍵の施錠というものは、最終的にチェックされて回るものなのだ。返却されていなければ、あるいは施錠されていなかったならば、その翌日には連絡と、そしてお叱りの言葉が届いているはずなのだ。それが無いという事は、部の面々に非が有る、という線は少ない。

とはいえ、昨日の今日で、まだ連絡が入っていない可能性も高い。というか、その方が可能性としては高いし、そもそも休日にそんな電話をかけてくるのかどうかも定かでは無い。

それでも、律が、部の面々に非が有る可能性が低い、と考えたのは、理由がある。そもそも、昨日はちゃんと鍵を閉めて帰った。それこそ、昨日の今日で忘れるはずが無い記憶だった。

「じゃあ、さわちゃんが開けたのかな。そんで、開けたまま何処か行ったのか」

 まあ、そんな所だろう。というか、他に考え付かない。あの教師は何処か抜けている所がある。だからこそ、愛すべきキャラクターを備えているとも言えるが。

床を歩くと、乾いた音が響いた。部室に充満する空気と混ざり合い、異質な感覚を律に与える。

ここは間違いなく軽音部の部室であるはずなのに、3年間、我が物顔で過ごしてきたぶしつであるはずなのに、これまで知らなかった全く別の顔がそこに見られて、やはり律を戸惑わせた。

これも、やはり感傷なのだろうか。

例えば、梓ならどうだろうか。2年生の彼女は、自分と同じように、休日の誰も居ない部室に来て、同じような気持ちになるのだろうか。

そう言えば、と思い出す。

修学旅行に行った時、スッポンもどきのトンちゃんの世話は、梓に任せたていた。休日に部室へと駆け込んだ梓は、彼女の友人であるところの、憂と鈴木某と、セッションを行ったらしい。唯に送信された写メールに映る彼女らは、とても楽しそうだった様に記憶している。

「…………なーんか、調子出無いな」

 意味も無く肩を回して、床を軋ませて、欠伸を1つ。

静かな空気に誘われて、ぼんやりとした眠気を感じた。起床時は完璧な目覚めだと思ったが、そうでも無かったらしい。油断をしていると、寝てしまいそうだ。起床時間が1時間早ければ、あるいはここで寝てしまっていたかもしれない。

嘆息して、肩に下げていた鞄を両手で持って、くるりと左側に90度回転。ホワイトボードに背中を預けた。

とすん。

とても軽い音が空気を揺らす。

「卒業…………か」

 我ながら、全く似つかわしくない声音。そう思いながら、しかし呟いた。アンニュイを気取るには役者不足だ。梓あたり、そういう役回りに合っているかもしれない。しっかり者には丁度良いのでは無いだろうか。

しかし、時の経つことの、なんと早い事か。

少年老い易く学成り難し。

いや、少し違うか。

行員矢の如し。

違う。

人外の銀行員を表現してしまった。。

光陰矢の如し、か。

「おいおい、中学卒業したばっかじゃ無かったか? 私って」

半ば以上、真剣に言った。

現在、高校3年生の終盤で有る限り、ちゃんと3年もの時間が流れているわけである。そして、それに関しては同意の限りだ。自分は、あるいは自分達は、時間の流れるよりも、遥かに多くの時間を過ごしてきたのでは無いかと思う。その密度という点において、これはちょっとした自慢にすら成り得るのではないかとすら思える。…………お茶ばかり飲んでいた気がしないでも無いが。

だが、中学時代を思い出すと、もう少し時間の流れは遅かったように感じる。時間経過上は同じ3年間であるはずなのに、どうしてだか、高校入学から今までの時間経過が、早過ぎる様に感じた。

この、同一の時間経過に対する意識内容の差異は何だ。どちらも同じ時間しか経過していないにも関わらず、前者よりも後者を考えた時、後者の方が、圧倒的に速度を感じる。

中学卒業と高校時代の思い出が結びついていないせいかもしれない。律の中で、それらは全く別のものと認識されており、それは彼女にとって意外だった。

記憶は連続するものだと、律は思っていたから。

 朝起きた。授業が終わった。部室に集合。全員が揃った。ムギがお茶を入れた。今日のケーキはザッハトルテだ。雑談に花を咲かせた。梓が練習をしよと言い出した。私と唯が駄々を捏ねた。

…………そんな風に、連続するものだと思っていた。

いや、実際その通りなのだろう。でも、どうしてだろうか。

「中学の時も、別に面白く無かった訳じゃ無かったのに…………どうしてだろ。なんか、薄いな」

記憶が、薄いな。そう思った。

高校に入学して、その時からの記憶ならとても鮮明に思い出せるのに…………中学時代の記憶はどうしてだか曖昧だった。もちろん、大事な事は全部覚えているつもりだ。仲の良かった友達とか、楽しかった出来事とか、そういう事を忘れてしまっているわけでは無い。

だが、どうしてだか、何処か冷めた自分が居るのも事実だった。より正確には、今の自分からは想像も付かない、と言ったほうが良いか。

思い出で無く、単なる記憶へと成り果てたためだろうか。そんな事も、有り得るのだろうか。

高校時代の、言葉ではとても形容出来ない素晴らしかったあの日々も、何時かはただの記憶へと成り果てるのだろうか。

それは、とても有りそうな事だった。そうで無いと、どうして断言できるだろうか。

だが…………それは嫌だった。単純に嫌だった。

とまれ、高校生という現状で物を見ているから、そう感じるだけなのかもしれない。今と過去、比べるならばどちらが楽しかったか。そんな事、言えるはずが無い。

だが、今ならば。現在に身を置いているならば、今の方が楽しかったと、色褪せない思い出だと、そう考えるのは、たぶん自然な事なんだろう。

 まあ、自分でも良く分からない理屈で、自身を納得させるまでも無く、軽音部で、軽音部として活動したこの3年間は非常の楽しいものであった。

 背中を預けたホワイトボードに眼をやった。

そこにあるのは、意味不明な落書きの数々。律と、唯が主に書いている。端の方に、控えめに書かれた『受験終了!』の文字。これは澪だ。芸術的とすら呼べる出来で描かれたトンちゃんは、ムギの作品だ。嬉しそうに梓に見せていたのを覚えている。

ツツ…………と、指を滑らせて自分の書いた落書きの一部を、削り取っていく。水性のインクは指を汚したが、気にならなかった。その指が、唯の落書きに及ぼうとした寸前で、律は指を止めた。消したくなかった。

「目標は武道館」

 ホワイトボードを見て思い出すのは、

「卒業までに」

 軽音部が部として認められた時に掲げた、そんな目標。呟いて、思い出したかのような調子で…………あるいは、そうすべきか、すべきで無いのか迷ったような…………ホワイトボードに書き出す。

隅の方に小さく。

書いて、それを見て、

「…………もう卒業だって」

 他人事のように、苦笑した。

卒業。

まるで、夢の様に現実感の無い言葉だった。

桜高祭でのライブの後、部室に集まって、他愛も無い冗談で、笑って、そして泣いて、何時の間にか寝ていて…………もしかして、今の自分は、あの時の自分が見ている夢なのでは無いだろうか。そんな風にさえ思えた。

無為自然。

受験勉強中の雑学に、ムギが壮士の思想を口に出した事があった。今の自分が、過去の自分が見ている夢で有るというのは、まあ、その思想にはまるで通じない話ではあるが、とても好ましく思えた。

好ましく思えたのは、やはり、

「あー…………私らしく無いって」

過去に戻りたいからだろう。

胡坐をかいてホワイトボードの下に座り、ひんやりとした木材の感触に一瞬だけ体が反応するも、頭を垂れて我慢した。

さわやか笑顔で幸せ運ぶ、皆のアイドル田井中律は、こんなキャラじゃ無いはずだ。

そして…………その馬鹿みたいなキャッチフレーズを適当に考えたのが、実は一年の桜高祭だった事を思い出して、嘆息してしまった。

これではアンニュイになるばかりだ。

天井を見つめて、瞬き1つ。

そもそも、どうして休日にわざわざ、それも一人で学校へ来たのか。

 分からない…………とか、特に理由も無い、とか。まあ、誰に言い訳するでも無いが、そんな言葉が過ぎっては消える。そして、それらの言葉を言い訳としている事自体、自分がそれを認めたく無い事の裏返しなのだと、知っていた。

「寂しいなあ…………卒業」

自分らしくない、と言いつつも、過去に戻りたい気持ちは、確かにあるのだろう。いや、正確にはきっと違う。

ふと、視界が揺らいだ。

見上げていた天井がぼんやりとしてきて、水性のインクに水を垂らした様な滲みがあって…………。

少量の涙が頬を伝う。

涙を拭う事無しに、律は天井を見上げていた。微動だにせず、停滞した部室の空気と同化してしまったかの様だった。

その空気を破ったのは、1つの音。

ドアノブが回り、軋んだ音が響いて、人一人の体重が空気を裂いて…………。

部室のドアが開いたのだ。

律は慌てて涙を拭い、思わず立ち上がった。

涙の雫が、床をほんの僅かに湿らせた。

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「…………澪?」

 部室の扉を開けて入ってきたのは、律の幼馴染で有る所の、秋山 澪だった。人生の大半を(半ば押し売りながらも)共に過ごしてきたのだ。見間違えようはずもない。

濡れ羽色を体現したかの様に艶やかなロングヘアーは、彼女の性格と同じ様に、とても落ち着いている。若干の釣り眼であり、尖った印象を周囲に与えるが、容姿は端麗。校内ではかなり人気が高い。…………そう、澪は、女子高で有りながら(あるいは女子高だからこそ)、その生徒達からの人気が高い。校内にファンクラブが存在するほどだ。

まさか、部室の鍵が開いていたのは、澪が来ていたからか?

一瞬そう思った律だったが、どうも違うらしい。

学校指定のコートに、乳白色のマフラー。抜かりなくピンクの手袋をして…………まあ、この冬には何度もお目にかかった格好で、澪は部室に入ってきた。当然の様に、ベースを肩に担いでいた。

どう見ても、今来たばかり、という感じだ。

「澪、なんで…………」

休日のこんな時間に、部室に?

という律の問いかけは、小走りにこちらへ駆けて来た澪によって、防がれた。

「ど、どうしたんだよ、律」

澪は手袋を脱いで、右手を律の肩に、左手を律の左頬に添えた。室内の空気で冷やされた頬に、暖かい澪の左手が心地よかった。

下の瞼をゆっくりと撫でられ、涙がふき取られる。

「何があったんだよ…………」

 澪のその声は慌て気味で、聞いていて気持ちが良かった。

「いや、別に…………」

卒業が寂しくて、気が付いたら涙が出ていました。

なんて、律としては恥ずかしくて言えるはずもない。別に恥ずかしいことでも何でも無いのだが、ちょっとした見栄が働いて、どうにも言い出せなかった。

「別に、なんて事は無いだろ! だって、律が泣くなんて…………」

おいおい、お前の中じゃあ私はそんなに強キャラなのかい? と内心で突っ込みつつ、実は全部分かって、敢えてそんな事を聞いているのでは無いだろうな、と邪推もしてみた。

しかし、その邪推はコンマ1秒もかからない間に消失した。そんな器用な事が出来るなら、澪の人生はもっと違ったものになっていただろう。少なくとも、人に流されないくらいには。

適当に誤魔化そうかとも考えたが、澪の顔があまりにも真剣なので、それも躊躇われた。

「別に…………いや、まあ、その……………………そ、卒業だから…………」

 仕様が無く理由を話そうとしたが、しかし気恥ずかしさが邪魔をして最後の方はもにょもにょと何を話しているのか分からなくなってしまった。

「え?」

 聞き取れなかった澪は当然聞きなおしてくる。

「だ、だから! 卒業で、寂しくて、なんとなく涙が出てきちゃったんだよ!」

 律が一気にまくし立てたせいで、澪は1歩下がっていた。

「わ、笑うなら笑え!」

恥ずかしくて、眼に涙を浮かべたまま、そっぽを向いた。

「……………………ふっ」

そんな律に届いた、澪の鼻から抜ける様な笑いのニュアンス。

「な、何もほんとに笑うこと…………」

恥ずかしさで顔を真っ赤にした律は、思い切り振り返り、同時に強気でなんとかこの場を乗り切ろうと言葉を強めたが…………途中で言葉が止まる。

澪は笑っていた。だが、嫌な笑顔では無い。馬鹿にする様な表情ではなく(まあ、それこそ、そんな事が出来る性格を持っていたなら、澪の人生はもっと違うものになっていただろうが)、所謂、微笑だった。それも、とても暖かい、室内の空気を忘れてしまうほどに、暖かい微笑だった。

からかいくらいは、まあ、少しぐらい含まれているだろうと思っていた。しかし、そのようなものは全く含まれておらず、別の意味で顔が赤くなった。

「な…………なんだよぉ…………」

なんとなく顔を逸らしながら、律は言った。澪はやや目を細めて、

「別に。ただ…………」

「ただ?」

「皆、同じだろ。私も…………ムギも、唯だって」

澪は、軽音部の他の面々の名を挙げながら、鞄を床に下ろし、ベースをホワイトボードに立てかけた。

「それに、寂しいっていうなら、梓の方が…………」

梓の方が寂しい。澪はやや表情を暗くして言った。

自分たちはまだ良い。そう、律は思った。卒業する自分達はまだ良い。小学校、中学校と卒業式を経験してきたから何となく分かるが、卒業する当人は意外にあっさりとしているものだ。今、律が泣いてしまったのも、受験が終わって、少し気が緩んで…………緩んだ心が、少しネガティブに染まっただけ。隙間風が身に染みるのは、決まって空虚を感じた時だけだ。

律は切なげに、可愛い後輩の顔を思い浮かべた。来年、軽音部は梓1人の部になる。そうなれば、果たしてどうなる事か。卒業する先輩たちを見送る彼女が、『卒業』という確定未来に対して、以前から寂しさを感じていたことは、実は皆知っていた。律も、澪も、ムギも、あの唯だってそうだ。

その辺りの話は、律や澪がここで話し合って解決する問題では無いし、前々から分かっていた事だ。ただただ、心配だけを残していく。それはとても残念な事だった。だが、やはりどうしようも無い事だった。

澪も当然、そんな事は理解しているのだろう。笑顔を浮かべて、話を戻した。

「大体、笑うなら笑えって…………笑うわけないだろ?」

 お互いの身体が触れ合うほどに、澪は近づいた。部室の冷えた空気が、冷えた空気だからこそ、間近に迫った澪の体温を強く感じた。

「……………………」

なんとなく、澪の言いたい事が分かって、律は何も言えなくなった。

「私が同じ様に泣いてても、律は絶対笑わないだろ? だから、私も笑わない。…………泣けば良いじゃないか。恥ずかしいなら、顔は見ないから」

そう言って、澪は律の首に腕を回した。律の左耳と、澪の左耳が僅かに触れ合って、視界には綺麗な黒髪が澪の背中を這っていて、澪の匂いがして、澪の身体は柔らかくて。

 暖かいな、と律は思った。

律は、自分では分からなかっただろうが、先ほど澪が律に見せたのと同じ様な微笑を浮かべた。

そして、

「まあ、そこまで言われたら、流石にもう泣けないよな」

澪から身体を離して、言った。あのまま澪の暖かさに甘えていれば、本当に泣いていただろう。この期に及んで、自分のキャラがどうのこうのと言うつもりは、律には無かったが、やはりそうしてしまうのは違う気がした。

「良いのか?」

そして澪は、少し首を傾げつつ、そう言った。だが、その顔には『そうだろうと思った』と書かれていた…………ように見えた。当然だが、いくら親しいからといって、本当に心の中が分かるわけでは無い。

だから、

「さあ、どうだろ?」

言いながら、律は少し首を振った。澪の心の中すら分からないのだ。自分の事なんて、尚更分からない。

自分でおかしい事を考えていると理解しながら、しかし律はほとんど本気でそう思っていた。

「寒い…………」

窓の外を見ながら、呟いた。雪の降るはずも無い晴天だったが、雪が降ってもおかしくない寒さで、しかし、さっきよりも寒く無いのは何故だろうか。

心の中で澪に礼を言いながら、律は日光の眩しさに浸っていた。

説明
けいおん!!の中編です。
書き溜めてるので、順次うpしていきます。
22〜23話の間です。
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