calling |
道のりは、険しく長い。
あまりここで時間を潰すわけにもいかない。立ち上がったら、ポケットが震えた。今日何度目かの父さんからの電話だった。流石に携帯電話の使い方も少しは慣れてきて、私は躊躇なく受話器が傾いでいるボタンを押した。
「もしもし、さよか?」
父さんの声だ。
私は嬉しくなって、身体を、熱を帯びた長いものが駆け巡った気がした。
「うん」
「元気か」
「うん」
「いまどこら辺だ」
駅の名前を言うと、父さんが安堵の溜め息をつくのが聞こえた。
もう一度目的地の確認をして、もう一度元気かと聞かれて、他にも沢山のことを聞かれた。服は気に入ってるか、道中面白いものは見えたか、脚は痛くないか、などなど。
わたしは携帯電話から父さんに声をかけられる度に嬉しくなって、うん、うん、と元気に答えた。
父さんの、平坦な、抑揚のない声が大好きだった。
「じゃあ、気を付けてな」
「うん」
通話が切れた。
通話時間は、三分ぴったり。
いつも通りだった。
「さよ」
名前を呼ばれたのは、昨日の十一時くらいだっただろうか。
「一緒に出掛けよう」
父さんからのそんな誘いは滅多にない。断る理由はなかった。
お腹や背中の傷や痣は服で隠せるけれど、腕や足についたものは隠すのが難しい。私は長袖の服を被ると父さんに続いて家を出た。顔を殴られたことは一度もないのが幸いだった。
服を買ってもらった。
いままで着たこともないような、高価なものだった。クラスの女の子が街で偶然会ってしまったときに着ているものと、よく似ていた。密かに羨望を感じ、けれどとても欲しいとは言えなかったものだった。
次に、携帯電話を購入した。
それは、とても安いものだと父さんは言ったけれど、私には携帯電話の相場が分からなかった。機械ということもありとても高価な気がしたけれど、父さんは、「さよのものだよ」と言って買ってくれた。
そのあと父さんと食事をして、やっぱりそれは普段口にするようなものじゃなかった。父さんは、どこから湧いて出たのか紙幣を次々と使った。
スーパーでパンを買い、ペットボトルのお茶を買った。
夜に、それらをリュックに詰めて、父さんは言った。
「さよに、大事なお願いがある」
抑揚のない、まっ平らな声だった。私の好きな声。
「父さんの大事なものを取りに行って欲しいんだ」
父さんは、五千円を封筒に入れて私に渡した。
「明日の朝発って、明日中には着くはずだ」
太陽は分厚い雲に覆われて、けれど道は明るかった。涼しい風が吹き抜けて、秋の到来を教えてくれた。木が風に揺れて、煤けた色の列車が向こうから近付いてくる。地面は乾いて歩きやすく、人通りはないけれど寂しい道でもなかった。
があっと音を立てて列車が走ってゆく。
線路沿いの、舗装された、緑の多い道だった。
民家が軒を連ねており、けれど決して窮屈ではない。
線路沿いを外れれば、しばらく行ったところに国道が通っている。けれど、私はあえてこちらの道を選んだ。
私には、兄がいた。
その兄が好きだった映画が、スタンドバイミーという映画だった。
少年たちが、旅をする。線路の上を歩いて行く。兄は、有名な映画なのだと言った。父も、「懐かしいな」と言って兄の隣に座った。それを見て、私は随分と疎外感に打ちのめされたものだった。
靴を地面に擦って鳴らす脚も、風を切る腕も、揺れる髪も、映画の少年たちとそう変わらない気がした。それは、映画の中の少年たちと、私と、抱いているものがそんなに違わない気がしたからだろう。
映画の中で、少年たちは列車に追われる。
線路の上を駆けてゆく。
私はそうはいかない。線路には高い柵が邪魔して入れそうもないし、身体の節々が、傷や痣がひしひしと痛みを撒き散らすから、走ると言うのは無茶な話だ。
痛いけれど、それは父さんに与えられたものだから、嬉しかった。体も、痣も、傷も、全部が全部、嬉しかった。嬉しい悲鳴を上げていた。だから、父さんに頼まれて歩くのは苦じゃなかった。
そのうちに、次の駅についた。
その駅は、父さんに教えられていた駅だった。
携帯電話が震えた。
「さよか?」
「うん」
「元気か?」
「うん」
父さんの声が、不思議そうに震えた。珍しく抑揚のない声で、私は心臓が高鳴るのを必死に抑えようとしていた。
「怪我はないか?」
「うん」
「今、どのあたりだ」
私が駅の名前を言うと、わずかに父さんの声が上気した。珍しく、今日の父さんは機嫌がいい。それはそれで嬉しいけれど、やっぱり、私が一番好きなのは父さんの抑揚のない低い声だ。
また、きっかり三分間喋って、
「じゃあ、気を付けてな」
「うん」
通話を切った。
切符を買って、電車に乗った。
堅い座席に腰掛ける。滅多に乗ることのない電車という乗り物は、今までは外からばかり見るもので、車内を見るのは新鮮だった。鈍く光る金属の窓枠が無機的な存在感を放つ。窓が揺れる。車内が揺れる。
人が少ないのは街からだいぶ離れたからだろう。
田園風景が見えたり、山に入っていき、と思いきや民家の間を抜けてゆく。電車というのはとても面白い乗り物だった。全国を電車で回る人が大勢いるらしいが、分かる気がした。こんなにおもしろい乗り物ならば、一日中だって乗っていたい。
電車は、追われるものではなく乗るものだと思った。
三分。
それは、私と父さんにとって、とても重要な意味を持つ。
私は父さんに、三分以上関わったことがない。家の中で、基本的に私はいないものとして父さんに扱われてきた。私が物心ついたときにはすでに母さんの姿はなく、兄にも最近は会っていない。今、私は父さんと二人で住んでいる。父さんに全く話しかけられないということはないのだけれど、話しても、最長で三分だ。その三分間以外は、父さんはまるで私が見えていないかのように振る舞う。
三分間。
その時間は、口をきくだけとは限らない。
三分間、急に私が見えるようになったかのように、邪魔な、疎ましいものを見るかのように無言で睨まれ続けることもあれば、三分間ひたすらに、容赦なく暴力を振るわれることも少なくない。むしろ、そちらの方が多いくらいだ。そのせいで、私の身体には生々しい傷や痣が絶えない。
どうやら父さんは、私との関わりを極端に避けているらしい。
それは分かる気がした。
父さんは、私の前では本当を見せる。兄を優しく育てていたが、兄のことが苦手だったと父さんは私に漏らすのだ。兄のことが嫌いだったと、父さんは私に漏らすのだ。それは、兄がいた頃もそうだったし、今でもときどき漏らしてみせる。そうして、時には辛く当たる父さんだけど、私には本当を見せてくれる。だから、私は父さんの味方でいられるし、父さんは私の味方で居続けてくれていると信じられる。
今でも父さんが三分間以外は私に関わらないのは、自粛しているのだと私は考えている。自重しているのだ。自制しているのだ。
父さんは、私に対しては本当を見せてしまう。
だから、三分間という区切りを置くことで、父さんは、私との関係を、父さん自身という存在を、保とうとしているのだ。
殴られるのは痛い。蹴られるのも、首を絞められるのも、物をぶつけられるのも痛い。
殴られるのは、はっきり言って好きじゃない。そんなときの、興奮した父さんの声が、好きじゃない。優しいときの、無表情な、けれど抑揚のない声が好きだ。
でも、あとになって自分についた傷を見ると、やっぱりそれも父さんとの繋がりの一部である気がして、そんな傷や痣が愛おしく思えてきてしまう。
兄さんは、この痛みを知らない。
父さんは、兄さんとの間に三分間などというものを横たわらせたことはない。父さんはいつだって兄さんに優しかった。兄さんのことを褒め、兄さんを励ました。
その分だけ、私に奮われる暴力は苛烈になるのだった。
けれど、私は兄さんを恨んだことはない。
むしろ、兄さんを憐れと思った。
兄さんは、父さんの本当を知らない。父さんの本性を知らない。父さんの真実を知らない。父さんの全てを知っているのは、私だけだ。三分間の中に、父さんの全てがある。それを、兄さんは知らない。
私はそれを誇りに思っていた。
兄さんは昔から、父さんにやさしい言葉をかけられていた。
父さんは、気持ち悪いほどに、兄さんに優しい。そんな父さんの様子を見る度に、私は自分に言い聞かせた。
兄さんにやさしい父さんは、偽物だ、と。
厳しく、そしてときに優しい父さんが、本物なのだ。三分間しか現れない父さんが、本物なのだ。兄さんは、偽物の父さんに騙されている愚かな人間なのだ。私だけが、父さんにとって特別な存在なのだ。そう、思う。父さん自身が、私に向かってそう言った。
だから、父さんに殴られても、我慢できる。
だって、私だけが本当の父さんを認めて、受け入れることができるのだから。
世界中で、父さんのことを理解できるのは私だけなのだから。
その列車に一時間は乗っただろうか。
降りた駅は、案外大きな駅だった。
周りになにもないことは一目で分かったけれど、大きな駅舎があり、バスターミナルのような広場が駅前にあった。ただ、山に囲まれた空間があるだけで周りに目立った建物はほとんどない。このあたりの住民が使うのであろうバスが一台停まっているだけだった。
私はそのバスに乗った。
なにもかもが父さんに言われた通りだった。
あたりは少しずつ暗くなっていた。
私はバスの一番後ろの席に座った。他にも乗客はいたけれど、たった二人だった。二人とも、随分年のいった老人だ。
私は座席の影に隠れるようにして残っていたパンを齧り、お茶を呑んだ。
そのバスにも一時間ほど揺られた。
あたりはさらに暗さを増した。
バスを降りると、一応は舗装された山道を歩いた。そのバス停で降りたのは私だけで、少しだけ浮かび上がった不安は、父さんからの三分の通話で見事に消えた。
「あと少しだ」
父さんのその言葉が疲れた脚に染み込むようで、私は再び歩き出した。
山道を一時間も歩いて、あたりはすっかり暗くなった。道に光がなくなったことも原因の一つだろう。新しい服の生地は心地よかったけれど、汗まみれの身体がべたついて不快感のほうが大きかった。脚も腕も、すでに痣や傷以外の痛みが生まれていた。
走ってもいないのに息があがる。
そして、それは目の前に従容として横たわった。
カラフルな、壁だった。
うらぶれて、ところどころ苔が生えていたり、割れている。
しかし、ファンシーな花や蝶の絵が描かれている。ウサギなどが跳ねている絵が描かれている。それは、元は楽しい絵が描かれた壁だったのだろうが、今となっては山道の暗闇に佇むそれは、かえって不気味さを強調させていた。
割れたようにも、初めからそこが入り口であったかのようにも見える隙間から、壁の中へと入り込む。
そこは、ただの通路だった。
地面は土のままで、迷路の内側は意外なことに灰色の壁だった。触れるとざらりとしていて、けれど妙にひやりとしていた。薄気味悪い壁だ。暗いなかで陰影がなく、のっぺりと目の前に佇む壁は、妖怪かなにかにも見える。
携帯電話が鳴った。
一瞬びくりと体が震えたけれど、恐怖を如実に表すほどの余裕は、すでに身体に残っていない。疲労がひたすら堪えた。
瞼すら重く、手足も重く、けれど携帯電話はしっかりと掴み、着信に応える。
もちろん、父さんから以外にはありえない。
「さよか?」
「うん」
「元気か?」
「うん」
声に元気がないことは、父さんに伝わってしまうだろうか。努めて明るく返事をする。
「迷路に入ったか?」
「うん」
そうか、これは迷路だったのか。おそらくは、昔なんらかの目的で造られたテーマパークかなにかが、廃園してしまったのだろう。とすると、先程の入り口は正規のものではないような気がする。どうして父さんがこんな道を知っていたのかは知らないけれど、父さんの目的のものは、この奥にあるのだろう。
……けれど、私はこの迷路に来たことがない。
はたして、私は父さんの大切なものを見つけ出すことができるのだろうか。
「大丈夫だよ、さよ」
「うん」
「入ったら、まず右に」
なるほど、父さんが道を覚えているのか。そのまま、父さんの言う通りに右へ左へと歩いてゆく。途中何度か父さんのナビゲーションに追いつけずに小走りになる。足をつっかえそうになりながら、それでも懸命に迷路を奥へと進んでゆく。
限界は近かった。靴だけは慣れたものを履いてきて良かったと心底思った。
出なければ、いまごろ歩けなくなっているかもしれない。いや、そもそもとっくに足は限界を迎えていた。山道が、思ったよりもきつかった。
「さよ」抑揚のない、私の好きな父さんだった。
「全て、過ちだったんだ」無表情な声が、私の好きな父さんの声が流れ込んでくる。応える気力は残っておらず。ただひたすらに真っ直ぐな道を歩き続ける。
「サキのことも、一郎のことも、そしてさよのことも。全て、全てが過ちだった」
一郎は私の兄の名前だ。じゃあ、サキは? 私はそんな名前の女性を知らない。
「さよで、全て終わるんだ。今まで辛くあたったりして、本当にすまなかった。これで全部終わる。さよ、……大好きだよ」
抑揚のない声で、父さんは、一番欲しかった言葉をくれる。じんと、耳の奥から全身んが痺れた気がした。疲れはすでに感じない。
「もうすぐだよ。気を付けて」
「うん」
「抜けたら、すぐ左の草むらだ」
そこで、通話が切れた。
携帯電話の画面を見たら、通話時間はきっかり三分だった。
私は迷路を抜けた。
言われた通り左を見ると、私の背丈ほどの高さに草木がうっそうと茂っていた。すっかり日も暮れて、先を見通すことはできない。
私は父さんの言葉通りその草むらに足を踏み入れた。
入り、踏むものはなかった。
身体が傾いだ。ばきばきと枝を折りながら、私は草木に突っ込んでゆく。枝というほどのものもない。突然現れた落下という加速に、私はおもわず藁にでもすがるように手を伸ばす。しかし、本当に、藁程度の細さしかない葉しか、辺りには伸びていない。
私は、崖を堕ちた、らしい。
最早、何がどの痛みなのか、収拾のつかない状態だった。とにかく圧倒的な痛みが身体のどこかにあって、それは恐らく生死にかかわるものだろう。しかし、なにがどうなってそれがあるのか、私には最早分からない。
そこは、じっとりとした地面の上だった。
だらしなく寝転がった状態で茫然と、私はそれを見た。
腕があった。
嗅いだ事のない匂いが鼻をついた。
間違いなく、良い匂いではなかった。
骨が見えており、肉はなくなっていた。元は肉だったのかもしれない何かが骨にこびりついているようではあったが、間違いなくそれは、骨と言ったほうがただしい。
腕だけじゃない。よくみれば、一人分の骨がそこにあった。
リュックが転がっていて、服らしきものも骨に被さっていた。
ちょうど、私と同じくらいの大きさだった。
携帯電話が鳴ったけれど、出る気にはならなかった。そもそも腕が動かない。
靴が落ちていた。兄のものだ。
私は目を閉じて、笑った。
父さんは、私のことが好きだと言った。それは嘘じゃない。私には分かる。だって、私は世界中で一番父さんを理解している人間なのだから。
父さんのために死んでくれる私のことが、父さんは大好きに違いない。
兄の手に触れると、白い骨がかりっと鳴った。
もう一度だけ、父さんの抑揚のない声が聞きたかったけれど、やっぱり腕は動かなかった。
私は嬉しくて、だから、そっと泣いた。
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ピクシブの公式コンテスト投稿作品二作目です。本文全部載せました。もしも気に入っていただけたらピクシブのページの方(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=74976)で支援していただけると嬉しいです。 | ||
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