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 それは誰にも知られない事であったし、僕自身の勝手な決断ではあったけれども、僕自身の人

生の中でも非常に大きな出来事だった。

 

 多分、人にこの事を話したとしても信じてもらう事ができないかもしれない。しかし僕はすでにそ

の時、ある決断していた。

 

 僕は自殺をする。

 

 自分の命を絶つ。そして、この世から消え去る。そのように決めていた。

 

 僕は確かにまだ若かったかもしれない。歳も19歳だったし、まだ人生はこれからだと言う人も

いるだろう。

 

 だが、僕は自殺することを決意していた。

 

 今思い返せば、その理由も些細なものでしかなかったように思える。そもそも、自殺したいとい

う理由さえ、僕の中にあったのだろうか。

 

 ただ僕は人生など、こんなものだと思っていた。これ以上生きていても仕方が無いと思っていた

のだ。僕は19歳だったが、すでに世の中の全ての事が見えているような気がしていた。

 

 社会も、人間も、全て僕には分かり切っているような気がしていた。だから、まるで人生を80年

以上も生きている老人のように、僕の心はそれ以上人生に対して希望を見出すことができなかっ

たのだ。

 

 そう、生きていても仕方が無かった。これ以上生きて、一体何をすれば良いのだろうか。それが

分からなかったのだ。

 

 僕は自分の死に場所を、人気の無い、山奥の場所に選んでいた。誰にも迷惑をかけずに死ぬ

つもりでいた。

 

 線路の中に飛び込むとか、飛び降り自殺で人に迷惑をかけるつもりはなかった。そうやって大

事を起こして、死後に有名人になるつもりもなかった。

 

 人知れずひっそりと死んで、やがて発見される。そして僕の家族に僕の死が知らされ、ひっそり

とした葬式が開かれる。その程度で良いのだ。死んだ後でこの世に対しての未練のようなものも

ない。

 

 だが、僕を自殺へと駆り立てたのは、僕自身ではなかった。ある人が、僕の無機質な人生の告

白を聞き、僕に自殺と言う選択肢を与えてくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 群馬県南部の山奥。時刻は夜の2時を回っていた。夜の闇に包まれた森の中で、車のエンジン

音だけが聞こえている。僕は、親の車を借り、ひっそりとした山奥の道に車を止めていた。舗装

がされていない、道路や人家からも離れた場所に車を止めた。

 

「ここ、にするの?」

 

 車の助手席に座っている人が僕に言って来た。その人は女の子で、歳は僕より一つ下だった。

 

「そう。ここにしよう。ここならばれない」

 

 ろくに女の子と口をきいた事も無いような僕だったが、今ばかりは違った。僕は、群馬県高崎市

の中心の高崎駅の西口でこの女の子と待ち合わせをし、車に乗せて1時間ほど走り、山奥へと

やって来た。

 

「周囲が木々に包まれていて、人家もない。ひっそりとしていて、死に場所にはうってつけだって

言うの?」

 

 その女の子は僕に向かってそう言って来た。実は僕はその女の子の名前も知らない。彼女を

呼ぶことができる名は知っていたが本名は知らない。年齢ももしかしたら同い年では無いかもし

れない。

 

「目立たない所でやろうって言ったのは君だよ。ここなら誰も見ていないだろうし、誰かに助けられ

て邪魔されるような事も無い」

 

 僕は答えた。

 

 僕はこの女の子と、インターネットの自殺志願者サイトで知り合った。最初、自殺志願者サイト

を見始めたのは、僕の好奇心のようなものだったのだが、いつしか僕はそのサイトに出入りする

人達と気が合うようになり、やがてはこの女の子と出会った。

 

 実際には、言葉の意味通りの自殺志願のインターネットサイトは、存在してはならない事になっ

ている。

 

 近年、インターネットを利用して自殺志願者が集結し、集団自殺をするという事件が度々起こっ

ている事は僕も知っている。

 

 そのため、インターネットで共に自殺をする人を募集するようなサイトは、警察などからマークさ

れ、閉鎖されてしまう。

 

 僕達が知りあったのも、自殺者を募集するようなサイトでは無く、自殺志願者と自称する人々

が、自分の日ごろの不満や、想いを語り合うようなサイトだった。決して、自殺する方法を教え合

ったりするようなサイトでは無い。一種のコミュニティのようなサイトだったのだ。

 

 そのサイト自身は何も責任を持たない。

 

 そう、例えそのサイトを介して知り合った者同士が、本当に自殺をしてしまったとしても、そのサ

イトの責任にはならない。

 

 勝手に自殺をした者の責任になるのだ。

 

 僕らも、きっと自殺の責任は自分で負う事になるのだろう。そう思っていた。

 

「あのさ。ちゃんと、用意しておいてくれた?」

 

 と、僕の父親の車の助手席に座っている女の子は、僕に向かって言って来た。名前は、インタ

ーネット上で使うハンドルネームによれば、シアン。

 

 シアンは僕の方を向いてそのように言ってくる。

 

 僕は、思っていたよりもこのシアンという子が、積極的に話しかけてくるものだから戸惑ってい

た。

 

 まず、僕はこの子も自殺をしたいと思っている事を知っている。そんな子が、積極的に話しかけ

てきたりするものだろうか。

 

 それに、人生に何かしらの絶望を感じているからこそ、自殺をしたく、僕と直接会ったはずだ。

人生に絶望をしている人が、こんなに積極的に話しかけてくるのもおかしな話だ。

 

 自殺と言うのは、この女の子のような人がするような事じゃあない。そう僕は勝手に思い込み始

めていた。

 

「ああ、ちゃんと用意しておいた。後ろの座席に乗っているよ」

 

 僕は後ろの座席に用意しておいた、自分の鞄を指差した。

 

 それをちらりと見た、シアンは僕に向かって言ってくる。割と真剣な口調と表情だ。

 

「死ぬには、一酸化炭素中毒が必要よ。ガス管を咥えるとか、家庭用ガスを充満させるだけじ

ゃ、駄目なんですって。きちんとした密閉空間で、素早くやらないとダメみたいよ」

 

「分かっている。きちんとやるよ。買ったのも、ただのガムテープじゃあなくって、ダクトテープにし

た。ホースだって、100円ショップに売っている安物じゃあない。ちゃんとホームセンターで買った

んだ」

 

 僕は、自分がホームセンターで、ダクトテープとゴムホースを買う姿を思い出した。あの時レジ

にいた店員は、それが自殺に使われるものだろうと、思ったりしただろうか。

 

「じゃ。思い残す事は無い? 早速やりましょ」

 

 シアンは、まるで遊びでも始めるかのような口調で僕にそのように言ってくる。

 

 僕は戸惑った。これから僕達がしようとしている事は、遊びじゃあない。自殺なんだ。

 

 僕自身も、自分で自分の命を絶つという事がどのような事か、しっかりと考えたつもりだ。遺書

もしっかりと用意してある。それは今、僕の鞄の中に、ダクトテープと一緒に入ってあるし、生半可

な気持ちで自殺用のゴムホースとダクトテープを買ったりしない。

 

 このシアンという子には、本当に自殺したいという気持ちがあるのだろうか。

 

 僕は疑いの目でシアンを見つめた。

 

「やあね。あなた、自殺する気で来たんでしょ? 戸惑っちゃった?」

 

 と、シアンは僕をからかうかのように言って来た。

 

「…。そうじゃあ無くって、君、本当に、これからやろうとしている事、分かっている?」

 

 僕は尋ねたが、シアンは、

 

「厳粛な儀式を行いながら、祈りを捧げて自らの命を絶つ。そうしたいの? 言っておくけど、私は

宗教には入っていないわよ。だからそういう事はしないの。ケンイチ君はそういう事、するの?」

 

 ケンイチとは、僕がサイトで名乗っていたハンドルネームであり、本名の名前そのままだった。

 

「いや、しない。でも、自分の命を自分で奪うっていう事は…」

 

 僕はそこで口をつぐんだ。それ以上先の言葉を話す事が、何だか恐ろしい事のように思えてし

まった体。

 

「分かっているわよ。でもね。わたしを、軽い人間だと思わないで欲しい。ただ、ヘタに覚悟を決め

ようとすると、何だかとても死にたくなくなっちゃうものよ。突然、やる気が無くなってしまうものな

の」

 

 シアンはそのように僕に言って来た。なるほど、それもあながち間違ってはいない事かもしれな

い。

 

 それに、どうやらシアンはこれが初めての自殺ではないようだった。自殺が初めて、という表現

もおかしいが、彼女は何度か、もしかしたら、数えられないくらい自殺未遂をしてきているのかもし

れない。

 

 自殺の経験がある。という言葉もおかしなものかもしれない。だが、自殺未遂の経験は、どうや

ら彼女の方がずっと上であるようだ。

 

 僕は自殺未遂をした事が無い。最初の行為で自殺を成功させようとしている。もし僕の失敗で

彼女を自殺させないと言う事は、何だかとても申し訳ない気がした。

 

「分かった。じゃあ、さっさとやろう」

 

 と言って、僕は自分が死ぬための準備を始める事にした。

 

 その準備は、素人でもする事ができるような簡単なものでしかない。もしかしたら、確実に死ぬ

ためには、まるで自殺のプロがするような特別な手順があるのかもしれないが、とりあえず僕は

一番良く知られている方法を取る事にした。

 

 その方法は、インターネットでも良く知られている方法だったし、もはや現代の僕ぐらいの年頃

だったら、誰でも知っている。

 

 自殺の方法を知る事、教える事は、一種のタブーであるかのように世間的には言われていて

も、インターネットやメディアの力によって、あっという間に世間は広まるのだ。

 

 僕は、車を出ると自動車のマフラーの出口にホースを付け、さらにそれをダクトテープで目張り

した。排ガスがなるべく漏れないようにする。

 

 そして、僕はホースを伸ばしていき、それを、前座席の窓を開けて中に引き込んだ。外側からま

ずダクトテープで目張りをする。そして、車の中に入った。

 

 車の扉を閉じてしまうと、僕はもう二度と、外界からの空気に触れる事は無いだろうと思った。

 

 僕は車と言う密閉された空間の中で死んでいこうとしている。すがすがしい空気に触れることな

く、僕達は毒ガスと化した一酸化炭素に充満した車の中で死んでいこうとしている。

 

 どことなくもったいない気がした。今日の空気は何故か、すがすがしい気がしたのだ。

 

 夏の暑い空気は、山奥にまで入り込んでいたけれども、僕にはその空気がとてもすがすがしい

気がしていた。

 

 だが僕は意を決して扉を閉めた。

 

 そして入念に、窓の内側からもダクトテープで目張りをする。ダクトテープは僕の父親の車の窓

にぴったりと張り付き、もう剥がす事ができないほどだった。

 

 ホースの出口は運転席側の僕の足元に延びている。長いホースはそこで束になってしまってい

たが、僕はそれをしっかりとまとめてそこに置いておいた。

 

「準備万端?」

 

 シアンが僕に向かって尋ねてきた。

 

「万端」

 

 僕はそれだけ言うと、停止させていた自動車のキーを回し、エンジンをかけた。

 

 もう迷わない事にしよう。やると決めたら、さっさとやってしまおう。と思い、僕はエンジンを吹か

す事をためらわなかった。

 

「何か、言い残す言葉は無い?」

 

 まるで、死刑執行前に尋ねられる言葉のように僕に言ってくるシアンの言葉。僕は少し迷った

が、この場にぴったりだと思う言葉を見つけ、口にした。

 

「次に目覚めたら、天国にいますように…」

 

 僕がそのように言うと、シアンはまるで僕の言った言葉を皮肉るかのようにして言って来た。

 

「自殺をしたような人間が、天国に行けると思う?」

 

 そのシアンの言葉を、僕は、なるほどと思った。

 

 天国に行く事ができようができまいが、僕にとってはどうでも良い事だったのだ。それだけこの

世に対して僕は未練が無い。

 

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 だが、どうして僕が自分で自分の命を経とうと考えたのか、今考えて見ると非常に不確かな事

だった。

 

 自分の人生を失わせてしまう。それは一人の人間にとってどのような事よりも重大な出来事だ。

 

 僕は、自殺を決行する直前に、天国に行けますようにと言っておいたが、本当に天国や地獄な

どと言ったものがあるのだろうか?

 

 どうせ、ただの人間の空想でしかないだろう。

 

 だとしたら、死んだら、人間は無に帰す。人間のように複雑な生命であったとしても、待ち受けて

いるのは無でしかない。

 

 だが、結局のところ、人間には必ず無に帰す時がやって来る。それは遅かれ早かれ、必ずやっ

て来る事なのだ。その時を選ぶのは、自分自身でも構わないはずだ。

 

 どうせ、自分の事でしかない。その死に方を選ぶのも自分自身で良いのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、やはりどう考えてもおかしい。何故、いつの間に僕はそんな行動に出ていたのだろう

か。

 

 僕が次に気がついた時には、僕はいつの間にか車の扉を開けていて、外へと倒れ込むように

出ていたのだ。

 

「だ…、駄目だよ、ケンイチ君。扉を開けちゃ…」

 

 シアンが僕の背後から言ってくる。その声は大分、さっきまでの活力を失っており、咳き込みと

共に出された、絞り出すような声だった。

 

 僕はと言うと、車の外へと扉を開けて這い出ており、更に猛烈な頭痛に襲われていた。

 

 だが、まだ動ける。車の排ガスから出された一酸化炭素が脳の機能を停止させる前に、僕は

外へと這い出ていたのだ。

 

 僕の意志が弱かったのだろうか。意識を失うよりも前に、僕は車の扉を開けてしまったのだ。

 

 人は死に直面すると、例え自分で命を失おうとしていても、本能的に必死にもがいてそこから脱

そうとするという。僕もそれをしてしまったのだろうか。

 

 車の中の空気は車の排ガスによって強烈に煙たくなっており、僕が這い出た外の空気はとても

新鮮な空気に満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

「やれやれ、またやってしまったね…。これで何度目だろう。未遂をしたのは…」

 

 シアンはそのように助手席で呟いていた。彼女は頭に手を当てており、僕と同じように、強烈な

頭痛を感じているようだった。

 

 僕の頭も、まるで割れそうなくらいに痛くて仕方がない。一酸化炭素中毒を未遂に終わらせてし

まうと、肉体に障害が起こってしまうと言う。だが、とりあえず頭痛がするだけで僕の体はまだしっ

かりと動いていた。

 

 結局僕らは、車の窓や扉を全開にして換気をしていた。車のエンジンは止められていたが、排

気口や窓に付けられたホースとダクトテープはそのままだった。

 

 僕達は車から離れ、近くの木の側に並んで座っていた。

 

「これだから、初めてって人は…。一人じゃ無く、二人だったら、できると思ったんだけど…」

 

 まるで独り言であるかのようにシアンは呟いていた。

 

「ごめん…」

 

 自殺を未遂に終わらせてしまった事に対しては、僕にはそれしか言う事ができなかった。自殺

が未遂に終わってしまった理由は、僕の意志が弱かった他ない。

 

 何しろ、自殺したいと言う明確な理由すら無かったのだ。

 

「もう、今日は駄目よ。やる気が無いわ…。わたしってかなり移り気だから、またやる気になるか

もしれないけど」

 

 

 

 

 

 

 

 1時間ほど山奥で車の換気をしていた後、僕達は再び車に乗って高崎駅まで戻った。

 

 その間、僕達は車の窓を全開にしてクーラーも入れっぱなしにしておいた。1時間も車を走らせ

ていると、車の中に充満していた毒素や排ガスは、外へと流れていってしまったようだ。

 

 車を運転する僕は、ずっと頭痛に悩まされていたものの、何とかそれも引いてきたようだ。まる

で飲酒運転をしているかのように危ない運転だったが、真夜中で道路も空いていたし、何よりも、

自分達が自殺をしようとしていた現場から離れたかった。

 

 そして人が多くいる、人の気配がする街まで戻りたかったのだ。

 

 それに、僕は再びシアンを送ってあげる義務もあった。駅から車で30分以上もかかる場所に

彼女を置き去りにする事などできない。

 

 何しろ、僕らは生きている。死んでしまえば山の中に置き去りになっても構わないが、生きてい

るのなら、元の世界、元の社会に戻らなければならない。

 

 元の生活。元の環境。全ては僕らが捨て去ろうとしていたものだ。

 

 車の時計は朝の4時を刻む。僕らは一睡もしていないはずだったが、異様な程に、目だけは冴

えていた。

 

 永遠の眠りにつくつもりだったものが、正にその逆になっている。夜中だというのに、駅周辺の

ビルには灯りが灯っているのが見えたし、コンビニエンスストアも当たり前のように営業している。

 

 僕は運転しながらその光景を見つめ、シアンは助手席の窓から、じっと外を見つめていた。彼

女は外を見つめたままぴくりとも動かない。顔を向けていないから、彼女はどんな表情をしている

のかも分からなかった。

 

 やがて僕が運転する車は、高崎駅西口の駅前ロータリーに入った。

 

 始発のバスの姿がある。タクシーが数台止まっている。駅のホームの方にも灯りが取っており、

駅を取り囲むように建っている幾つかのビジネスホテルにも灯りがあった。

 

 だが人気はほとんどなく、ひっそりとしている。駅前ロータリーの中で、僕達を乗せた車だけが

異様に目立つ。

 

 彼女をこのまま降ろして、僕達は別れるのだろうか。すると、彼女はどうしてしまうのだろうか。

また、僕と一緒に自殺をしよう。そんな事を言い出すのだろうか。

 

 さっきシアンは、今度はひとりで自殺するという事を口走っていた。となると、僕とはもう出会う理

由も無い。彼女とここで別れたら、永遠に別れを告げる事になる。

 

 僕はどうしようか迷っていた。また自殺を試してみる。という事も考えて見た。だがすると、あの

車の中に充満した排ガスの異様な空気が再び鼻をついてくるようで、とても自分が自殺する所を

想像できなかった。

 

 どうしようかと僕は迷う。すると、シアンは呟いた。

 

「決めた」

 

 ずっと僕に顔を背けている彼女だったが、突然、僕の方を向いてそのように言って来た。彼女

のその表情は無表情で、自殺未遂をする前まで見せていた、明るい表情とは全く異なる。

 

「あと、今日一日。今日一日だけ生きている。でも、それでおしまい。この一日が、最後だって、き

ちんと決めておいて、後はもう何も望まない。生きようと選ばない」

 

 シアンは、まるで自分自身に言い聞かせるかのようにそう言った。僕が目の前にいる事など無

視して言っているかのようである。シアンは言葉を続けてきた。

 

「よく考えたらね、私達、死に場所って言うのを、きちんと考えていなかったのよ。覚悟も足りなか

った。だから、駄目だったのよ。これって、ケンイチ君の責任って言っているんじゃあないのよ。

 

 私は、死というのを、あまりに軽率に考え過ぎていたのかもしれない。だから、やっぱり必要な

のよ、時間がね」

 

「でも、一日?」

 

 僕は尋ねる。

 

「そう一日。先延ばしにして何になるの? 一生? 一年? どれだけ生きていようと、それは無

駄に終わるだけ。でも、一日ならば、本当に私がしたい事ができるはず。そうね。せっかくだか

ら、今まで行った事も無いような、どこか遠くに行ってみたい気分よ」

 

 シアンの言う通りかもしれない。僕は思った。まだ一年あるから、まだ数カ月あるから。そう思わ

せ、問題を先送りにする事は、今までの僕の人生でも、怠惰や、諦めに繋がる事だった。

 

 だが、期限が一日ならば違うかもしれない。その一日は、僕にとってどんなものよりもかけがえ

の無いものとなり、砂時計を見つめているかのように刻一刻と経過を感じさせるものだ。

 

 僕はその一日を、意味あるものとするだろう。まして、人生最後の一日であるならば、それは僕

の人生の中でも、最も大きなものになるかもしれない。

 

 一日。一日。僕は繰り返すかのようにそう思った。

 

「とりあえず、この街ではないわね。あなたも群馬の高崎出身? 出身地で死ぬって言うのも選択

肢の一つかもしれないけれども、私はどうかと思うわ。できる事ならば、行った事も無い場所で死

にたいわね」

 

 と、シアンは言った。

 

 僕はしばしの間、考えた。良く考えたら、僕は今までの人生の中で、旅行と言うものをほとんどし

たことが無かった。僕自身、旅行をするつもりが無かったし、小学校、中学校、そして高校の修学

旅行くらいしか経験が無い。海外などは行った事がなかった。

 

 だが、これが最後の一日になるのなら、その一日で旅行をしても良いだろう。旅行先が死に場

所になる。それも悪くない。

 

 一日の旅行なんて大した事は無いかもしれないけれども、それが人生最後の一日であるなら

ば、その旅行は一つの大きな儀式であるかのように感じられた。

 

「それも、いいかもしれない。僕も、そうしてみたい」

 

 僕はそのように答えた。シアンは僕の袋小路の中に追い詰められていたかのような気持ちに、

一つの活路を与えてくれたかのようだった。

 

「じゃ、決まりね」

 

 シアンは素早くそのように言った。シアンには、全く迷いというものを感じる事ができなかった。と

ても、さっきまで死のうと考えていたような人間とは思えなかった。

 

 このまま車を走らせて、人生最後の旅に出向いても良かったのだが、僕らはひどく空腹で、おま

けに喉まで乾いていた。

 

 まずは一度、休憩した方が良いだろう。死のうとするのは、どのような仕事よりも疲れるものだ

な、と僕は思った。

 

 僕は車を駅前のコンビニエンスストアへと入れ、そこで何かを買う事にした。

 

 コンビニエンスストアは静かで、店員が一人そこにいて、店番をしているだけという店だった。シ

アンは僕に任せると言ったので、僕は適当におにぎりと飲み物を選んでいた。僕自身少食だし、

シアンがどの程度食べるか分からなかったが、僕は適当に選んだ。

 

 そこへシアンがやって来た。彼女は手に一冊の本を持っている。ソフトカバーの本で、小説の本

とは違う。どうやらサブカルチャー関係の本であるようだ。

 

「これ、知っている?」

 

 シアンはそのようにおにぎりを選んでいる僕に尋ねてきた。

 

「青春18きっぷガイドブック?」

 

 僕はまるで話慣れていない外国語であるかのように、その本のタイトルを言ってみた。

 

「青春18きっぷよ。噂には聴いていたけれども、今がそのシーズンだったとはね」

 

 シアンはその本のタイトルの意味を知っているようだ。青春18きっぷとは何であるか、僕は知ら

なかった。きっぷと言うからには、鉄道の切符の事だろうか?

 

 鉄道の切符と言えば、僕にとっては、近い区間での切符や、大学に通うまでの定期券くらいしか

縁が無い。青春18きっぷなんていう名前を聴いた事も無い。

 

「これを乗って、旅をしてみる。なんて言うのはどうかしら? 知っている? この切符、ちょうど、

有効期限が1日区切りになっていてね。これから私達がしようとしている事を考えると、ぴったりな

んじゃあないの?」

 

 シアンはそのソフトカバーの青春18きっぷガイドブックを開いて、中のページを見せる。

 

 中のページには列車の写真や時刻表の一部などが載せられている。僕はそんな本を読んだ事

も無かった。そもそも、本自体、あまり僕にとっては縁が無い。

 

「じゃあ、その切符を使って、僕達は鉄道の旅に出て、その先で死のうって言うのかい? まあ、

悪くないけれども…。その切符について、僕は何も知らない」

 

 合計4個のおにぎりをかごに入れた僕はそのように尋ねた。

 

「簡単に言えば、遊園地のフリーパスみたいなものよ。この本によれば、使えるのは日本全国の

JR路線全てに有効で、金額は1日分で2,300円だけれども」

 

 遊園地のフリーパス。僕はその言葉を心の中で繰り返してみる。両親に連れられ、小さな頃に

遊園地にいった事はあるが、その時にフリーパスを使ったような思い出は無い。だが、フリーパス

がどういう事か分かる。乗り放題という事だろう。

 

 鉄道に乗り放題。僕が今も持っている大学通学用の定期券でもする事ができるが、それは定

期券を購入した区間での話だ。日本全国のJR路線が乗り放題になると言っても、実感が湧いて

こない。

 

 僕はろくに旅行をした事も無いから、日本の規模がどれほどであるかも分からない。日本全国

を網羅しているJRの鉄道線路が、どれほどの規模を持っているか、はっきり分からない。

 

 それが、1日分で2,300円という事は、かなり安価でお得な切符と言えるのだろうか?

 

「2,300円よ? 北海道の端から、鹿児島まで移動しても、それが1日だったら切符1枚で移動して

良いって事よ」

 

「それって、お得なの?」

 

 僕はレジに向かいながらシアンにそう尋ねた。

 

「そりゃあね。新幹線で東京から博多まで自由席で乗っても2万円以上するんだから」

 

 やけに詳しいな。そう思いながら僕は、レジで半分寝ぼけている店員にカゴの中の会計をする

ように置いた。寝ぼけていた店員はやれやれと言った様子で会計を始めた。

 

「ケンイチ君さえ良ければ、この本を一緒に買うけれども?」

 

 シアンは僕にその本を見せつけて言ってきた。その本は、僕がお金を出すわけではない。シア

ンがお金を出すのだから何も問題は無いだろう。

 

 シアンのような女性が、そのような鉄道関係の本を買う事を、僕は珍しく見ていた。最近では女

性であっても鉄道に興味を示す人も多いらしい。シアンもそうなのだろうか。

 

 だが、あと一日だけ生きていよう。明日は命を断ってしまっていよう。そう考えるような人間が持

ち歩くような本では無いだろう。

 

 結局、シアンはその本を買った。

 

 僕らはコンビニエンスストアから出て、車の方へと戻ろうとしていた。

 

「そこの高崎駅でも、その切符を買えるの?」

 

 僕は、シアンが買って来た本に興味を示し、彼女にそう尋ねた。

 

「多分ね。本によれば、JRの駅員さんがいるほとんどの駅で買えるみたいだから」

 

 シアンはその青春18きっぷガイドブックの本を開き、早くも読み始めていた。そんなに興味が

そそられるような本なのかと、僕も彼女と共にその内容を覗き見た。ページには注意事項らしき

事が分かりやすい字の大きさで箇条書きされている。

 

「その切符は、一体、幾らなの?」

 

 僕はシアンに尋ねた。

 

「1日分が5枚綴りになっていて、5枚セットで、11,500円なんですって」

 

「1枚ずつは買えない?」

 

 僕は再びそっけない口調で尋ねた。だが、どうやらシアンは青春18きっぷというものに対して

興味を示しているようである。

 

「駄目ね。5枚綴りでしか販売されていないわよ。でも夏季期間が7月20日から9月10日だか

ら、まだちょうど期間じゃあない」

 

 5枚綴りというのが僕は少し疑問に思いつつ、同時に無駄になりはしないかと思った。僕達はあ

と1日と決めた。つまり例えその切符を使って旅をしたとしても、僕とシアンで合わせて2枚しか使

わないと言う事だ。

 

 3枚分が無駄になるのではないか。そんな事を僕は考えていた。これから命を絶とうとしている

のに、切符が無駄になってしまうというのも、変な考えだが。

 

「いいじゃあない。無駄になったって。私って、鉄道って好き。どうせお金が幾らかかろうとも、あと

1日って決めたでしょ?もし、あなたがお金を出すのが嫌だったら、全額負担してもいい」

 

 僕はどうしようかと決断したかったが、何故かその青春18きっぷのガイドブックを持つシアンの

目は輝いているように見えた。

 

 そんな目をした女の子の姿を僕は見た事がなかった。

 

 結局僕も半分のお金を出す事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 青春18きっぷというものは、期間限定で発売される、特別な切符であるようだったけれども、そ

れは普段の切符を買うかのように、駅の自動券売機で買う事が出来てしまった。

 

 僕は、11,500円の半分に満たない金額である5,500円を負担した。シアンは6,000円を出した。言

いだしたのは自分だからと、500円だけ多く金額を負担したのだ。

 

 券売機からは、ずらずらと5枚の切符が出てきた。その切符は新幹線などでも使われているよ

うな大きい切符で、細長くなっている。

 

 5枚を1枚ずつ使っていくのかと思ったが、僕らが高崎駅のJR改札を抜ける時、シアンが出し

た5枚の切符の内、駅員が印を押したのは1枚目の“青春18きっぷ”と大きく書いてある券の枠

の2つだけだった。

 

 枠の2つに印を押すという事は、2回分、つまり2人で1つの切符を共有しているという意味らし

い。

 

「後の4枚は注意書きとアンケートですからね。改札を通る時は1枚だけで十分ですよ」

 

 と、改札にいた駅員は教えてくれた。

 

 良く見ると、5枚の券の中で切符らしいものは1枚目だけで、それ以外はずらずらと注意書きが

細かい字が書いてあるだけだった。

 

 シアンが僕を先導してくれた。さっきからずっと思っているが、本当にこの子はさっきまで自殺を

しようと本気で考えていた子なのだろうか。

 

 異様に今は、やる気や何かに対しての希望を見出しているかのように思える。

 

 僕だって、本当はこれから、初めて出会った人と旅をする事をためらっているのだ。きっぷを買

ってしまったのは、シアンがやけに僕を引っ張っていってしまうから、勝手に僕もつられてしまって

いるだけだ。

 

 改札を通り過ぎてしまったとはいえ、僕がその気になれば、このまま家に帰ることだってできる。

 

 旅行と言うものに対しての好奇はあったが、僕らがしようとしているのは、楽しい遠足では無

い。自分の命をあと一日と決めて、その死に場所に向かう旅なのだ。

 

 しかも、死に場所をどこにしようという事さえも決めていない。

 

「さあ、どうしようか」

 

 そんな僕の気持とは裏腹に、シアンが僕に向かってそのように言ってきた。

 

 彼女と僕が立っているのは、駅舎の上であり、そこから列車に乗るホームへと降りて行く事がで

きるようになっている。奥には上越新幹線の改札口も見えた。

 

「まず、君の名前とかを知りたい」

 

 僕はそう尋ねた。シアンは、これからどの路線に乗って、どこへと旅立つかを尋ねたかったのだ

ろう。僕のしたその質問に戸惑っているようだった。どうして、そんな質問をしたのか、という表情

をしている。

 

 だが僕としては、名前も知らないような人と旅をするようなつもりは無かった。

 

 シアンは少し何かを考えた後、答えてきた。

 

「シアンって、可笑しなハンドルネームでしょ? 理解できる人には、どんな性格をしているんだっ

て、思われてしまいそう…」

 

 シアンが言って来たのは、本名では無くハンドルネームの方だった。

 

「シアン…。薬品の名前…?」

 

 僕は、高校の化学の授業で習った薬品の名前を思いだしつつ答えた。

 

「わたしの本当の名前が、利香で、それを逆から読むと、カリ。カリなんて聞いて、わたしが真っ先

に思いつくのが、何と青酸カリ。その正式な名前が、シアン化カリウムだから、そこから取ったの」

 

 なるほど、と僕は思った。少し遠まわしな名前の選び方だが、多くの人がそのような付け方で自

分のハンドルネームを名づけたりする。しかし、ハンドルネームの由来が、毒物の名前だと言う

のは確かに変わっている。

 

 僕など、何も考えずに名づけたようなものだ。

 

「じゃあ、君は利香さん」

 

「私が答えたんだから、あなたも答えなさいよ」

 

 少し高圧的な口調になって、シアンは僕に向かってそう言って来た。確かに、自分の名前から

先に答えるのが礼儀というものだったかもしれない。

 

「僕は、高橋健一」

 

「なるほどね。ハンドルネーム、そのまま本名なのね。もっと考えたりしなかったの?」

 

 と、シアンに言われても、僕は戸惑った。

 

「考える必要なんてないよ。ありふれた名前だしね」

 

「じゃあ、これから1日だけど、よろしく」

 

 そのようにシアンこと利香さんは言って来た。そして、僕は軽く頷いた。そうする事でしか、僕は

これから自分達がしようとしている事に対して答える事ができなかったのだ。

 

-3ページ-

 

 高崎駅を出札したという証の印を押された青春18きっぷを持って、僕らは死の旅に出た。

 

 死の旅と言っても、僕らが乗っている高崎線の上野行き始発列車は、ただの通勤列車でしかな

い。普通の人から見ればそれは通勤電車であり、通学列車なのだろう。午前5時に高崎駅を出

発した高崎線は上野行きで、がらんとしていた。

 

 僕ら以外にその列車のその車両に乗っている人はいなかった。高崎駅のホームにはちらほら

と人はいたけれども、僕らとは違う車両に乗ったようだ。

 

 日はだんだんと登りつつあり、先ほどまでは真っ暗だった遠くの空が、ゆっくりと明るくなってき

ている。

 

 そう言えば、僕の父親の車はどうなってしまったのだろうか。あのまま高崎駅のコンビニエンス

ストアに置きっぱなしにしてしまった。

 

 あの車は僕が死んだ後、父親が回収してくれるだろう。今、ポケットの中に入れている遺書か、

メールででも車の在り処を書いて、死の直前に父にメールしておけば、僕の死体が発見された

時、両親が車を探すのが容易になるだろう。

 

 そう考えていた時、ボックスシートの向かい側に座っているシアンこと、利香さんが話しかけてき

た。

 

「高橋君の事を、教えてよ」

 

 利香も僕のように遠くの車窓を眺めて答えてきた。

 

 列車の走行音がリズミカルになりながら進んでいく。皆、目的地があって列車に乗るのだろうけ

れども、僕にはその目的地が無い。

 

「いいよ…、教える」

 

 僕は目的地無き列車に揺られながら、自分の事を話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は今、19歳の大学生だった。しかし大学生と言っても、本来大学生があるべき姿とは大きく

かけ離れていた。

 

 遊ぶために大学に行くと言う人もいれば、本気で大学で学びたいという人もいるだろう。しかし、

僕はそのどちらにも属してはいなかった。高い学費を親に払わせて大学まで行っている目的は、

僕自身が川の流れに乗って揺らぎ、流されていく木の葉だったからだ。

 

 木の葉は軽く、川の流れだけでは無く、風によっても舞い上げられ、その動きを変える。底の知

れない淀みの中にも呑み込まれてしまう。それが僕だった。

 

 僕は、木の葉のように、誰も僕を知らないかのように、存在感の無い存在だった。人はそれを

空気のような人間だと言う。

 

 確かに僕は、普通に五体満足な子供としてこの世に生を受けた。いたって普通の子供時代だっ

た。小学校でも、学業の成績は普通。教師も、僕の事など全く気にする事は無かった。無視をさ

れていたわけではない。僕などよりもよほど問題を起こす子供や、優秀な子供がいたからだ。特

に友達という友達も作る事が無かった。

 

 僕は、彼らの話している事が嫌いだった。大抵は、テレビやら何やらの、流行っている出来事を

僕の同級生は話していたが、僕はそういった事に興味が無かった。

 

 興味が無いと言えば、確かにありとあらゆるものに興味が無かった。本さえも読むような事も無

く、成績で上位を取る事に対しても興味は無かった。

 

 中学、高校に行ったのも、そこで勉強をしたかったから、部活に打ち込みたかったから、という

動機では無い。

 

 それは、皆がそうしているから、僕もそうしたというまでだ。中学に行き、高校に行き、勉強をす

る事は快感では無かった。苦痛にも近い面があっただろう。

 

 受験勉強というものをしなかったから、僕はその時、自分の成績で入る事ができる高校に進学

し、大学に進学したまでだ。

 

 高校を卒業して就職をするという選択肢もあったが、僕の周りのほとんどの高校生が大学に進

学していたし、高卒では就職率が悪いと言う話を聞いた。だから僕は、適当に大学を選んで、そ

こに進学をした。

 

 僕は誰にも注目される事も無く、また、親友と呼べるような存在もいなかった。作りたいと考える

事も無かった。

 

 大学生活を続けているのも、実際の所、僕は社会が決めたコース、つまりは流れの中を漂って

いるだけに過ぎない。僕は、その流れの中に舞う木の葉だ。

 

 人は、自分の選択肢で全てを選択し、自分の人生を決めているのだと言う。だが僕は、それは

違うと思っていた。ゆらゆらと漂う木の葉達は、一見で自由に動いているようにも見えるが、結局

それは水流が生み出している流れの結果でしか無い。

 

 今、僕は大学2年生まで人生を到達させた。だが、それは僕の人生では無い。社会という大き

な流れが生み出した、一つの結果でしかないのだ。

 

 大学では、僕の流されるだけの態度と生活が、勉学にも大きく反映されつつある。

 

 最近では少しでも勉強しようと言う気さえ失せて来てしまっていた。出ていない講義もかなりあ

る。2年生、つまり今年の前学期もほとんど出席する事は無かった。

 

 1年生から2年生に進級するのでさえ、ぎりぎりであったのに、2年生でも講義の単位をほとん

ど取らなかったら留年するだろう。

 

 しかし、僕の心はすでに大学から離れ始めていた。僕よりも早く決断し、大学をドロップアウトし

た学生も何人かいたようだが、僕も遅かれ早かれそのようになる事は目に見えていた。

 

 大学を途中でドロップアウト、つまり自分から退学する事は、巨大な流れの中に生み出される、

大きな渦のようなものだ。その渦の中に呑み込まれた木の葉は、二度と浮き上がってくる事は無

い。深い川底の泥の淀みの中に呑み込まれ、やがては腐り果てていく。

 

 それは時間の問題だった。

 

 僕が、自分の命を経とうと思ったのも、淀みの中にはまり、自らが腐っていくくらいであったら、

もっとましな終わらせ方があると思ったからだ。

 

 世の中には無限の可能性があるという人もいる。しかし、僕などに何ができるのだろう。今ま

で、自分の意志で物事を決定してきた事もない。あるとするならば、それは自分の命を断とうとし

ている行為だけだ。

 

 それに僕は、流れに身を任せる事も疲れてしまった。そして、流れに逆らう事など、もはやでき

そうにもない。

 

 だがそんな僕は、自分の命を断つという事にすら、意志が弱かったのだろう。僕の体はあの、

自動車の排ガスの地獄の中から必死に自分の体をもがき出させた。

 

 まだ、僕は生きたいと言うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

「高橋君。どこの大学に通っているの?」

 

 と、利香さんが僕に向かって尋ねてきた。

 

 僕らは変わらず高崎線の車両のボックスシートに、向かい合わせで座っている。列車は先ほ

ど、籠原駅を通過した。僕らはこの高崎線でどこまで行くかという事さえも決めていなかったが、

この列車は上野行きだ。どのような選択肢を取ろうにせよ、上野までには降りているだろう。

 

 もちろん、僕らがこの列車の車内で、睡眠薬自殺でも図ろうならば話は別だが。

 

 すでに日は登り始めていた。車窓からは、日に照らされ出している住宅地が見えている。

 

 そのような車窓を見ながら、僕は利香さんの持ちかけてきた質問に戸惑っていた。

 

 僕は、自分の大学の名を出す事にためらいがあった。もちろん、今通っている大学は、自分で

選んだ、正しくは僕の成績と住んでいる場所がそうさせたわけだが。

 

 今、通っている大学は、三流大学とさえ言われてしまう事がある。

 

 その三流大学という言葉が、社会的に見て、どれだけの意味を持っているのか僕には分からな

い。

 

 だが、僕は大学で学生たちの間から、よくその言葉を聞いた。

 

 自分はこのような三流大学に来るべきでは無かった。一流に行っているべきだった。という学生

がいた。しかし彼は結局のところ、その三流大学に通っている。

 

 三流大学と言う烙印は、僕らの大学のありとあらゆる場所で聞かれ、いつしか僕は、自分の大

学の本当の名前を人に教えるのさえ抵抗があった。

 

 僕が大学に通う時の最寄り駅に、もう一つ別の大学があるせいだろう。そこは、二流と俗に言

われる大学だから、余計に僕の通う大学の学生は意識するのだろう。

 

 だから、僕は利香さんにこう答えた。

 

「通っている大学の名前は言えない。でも、学部は文学部で、学科は日本文化」

 

 それさえも実際は、あまり僕にとっては答えたくない言葉だった。

 

 しかし、利香さんは僕が思ってもみなかったような反応を見せてきた。

 

「凄い。日本文化? それって、一体、どういう事を勉強するの?」

 

 彼女はボックスシートから身を乗り出して、僕に好奇を持った目を向けてくる。僕は彼女と目線

を合わせる事はせず、遠くの景色を眺めていた。

 

 列車はまだ、高崎駅からはそれほど離れていない、数駅程度だ。上野の到着までは時間があ

る。

 

 さて、どう答えたら良いものか。僕が大学で勉強している事。それは自慢できるほどのものじゃ

あない。

 

 だから、僕は適当に答える事にした。

 

「言葉の通り、日本の文化を調べて、勉強する。それだけさ」

 

 そのように僕が言った所で、列車が籠原駅を出発した。

 

「じゃあ、高橋君は日本の文化が好きなのね?」

 

 と、利香さんは言ってくる。

 

 彼女の言葉を正直に答えるのならば、答えはノーになる。日本の文化が嫌いというわけではな

く、特に好きというわけでもない。

 

 それも、大学で習う日本文化とは、現代にあるようなサブカルチャーを学ぶものではなく、いか

にも日本の文化と言う感じの、古典や近代の文学、更には漢文などを勉強したりする。

 

 実際の所、僕は大学案内の学部、学科案内の詳細を調べる事無く、日本文化学科を選択し

た。選んだ理由は、一番、入試が簡単だったからだ。僕と同じように入試でこの学科を選択した

ほとんどの生徒が入試に合格したらしい。

 

 だが、僕が今学んでいる事は決して好きな事ではないし、得意な事をしているわけでもない。

 

 ただ4年と言う時を過ごし、4年という間、大学生という社会的立場を得るための場所に過ぎな

い。

 

「でも、高橋君。好きだから、日本文化学科を選んだんでしょ…? どんな事を勉強したりするの

…? 私には分からない…」

 

 利香さんはそのように言ってくる。とても数時間前まで自殺をしようとしていたとは考えられな

い。

 

 だがもし、あの時、自殺に成功していたら、彼女にこんな事を聞かれる事も無かっただろう。そ

れに、僕は大学で勉強している事について、誰かに話した事は無かった。

 

 利香さんは、僕が三流大学と呼ばれるような大学に入っている事を知らない。そして僕の今の

見立てでは、彼女は恐らく大学に通っていない。自分の行った事の無い場所は、一種の憧れを

感じたりするものだろう。

 

 ならば、多少自慢げに話しても良いのだろうか? 僕は利香さんとは目線を離して、大学での

勉強について話し始めた。

 

「僕の学んでいる日本文化と言うのは、例えば、日本文化史では、仏教の歴史を中心として、時

代を追いながら、日本文化の流れや広がり、現代にもある日本の現代生活について学んだりす

る。他にも古典文学を学んだり、漢文学を学んだりもする。

 

 日本文化だけじゃあなくって、外国の文化や言語を学ぶ事もある。日本の文化を別の文化に比

較するために、ヨーロッパの文化を学んだりもする。そうする事によって、日本文化の特質を理解

する事ができるからさ。

 

 高校までと違って、大学では課題を与えられて、それについて自分で大学の図書館に行って調

べたり、発表したりもするのさ」

 

 と、僕は言葉を並べ立てて見た。

 

「へぇー、凄いね」

 

 利香さんは、ただの相槌ではなく、しっかりとした返事を僕に返してきた。どうやら僕の勉強して

いる言葉に関心を持っているようだ。

 

 なるほど。話だけ聞けば、立派な文化を研究している学生だと思われるかもしれない。実際に、

僕の大学に通っている日本文化学科の学生にも、しっかりと学ぶ姿勢を見せ、レポートも分厚い

ものを提出し、発表も濃密な内容を仕上げてくる学生もいる。

 

 しかしそんな生徒は一握り程度しかいない。大半の学生は、遊ぶために大学に来ている。ぎり

ぎり通るレポートを提出し、発表も適当に済ませ、単位の計算をして、ぎりぎりの進級単位で進級

したりする。

 

 さて、僕はというと、その二つの学生のタイプのどちらとも違う。レポートを提出しない事もあれ

ば、発表の日に欠席をする事もある。単位の計算を躍起になってする事もしない。気が付いたら

ぎりぎりの単位数で2年生に進級していたが、ここ数カ月は大学に行っていないから、今年度の

進級はできないかもしれない。

 

 そんな僕の姿を利香さんが知ったら、一体、どのように思うのだろうか?

 

「私、大学には行っていないしさ、高校にも行っていないから、よく、分からないんだけれども、大

学に行くっていうだけで、凄い事だよ」

 

 利香さんは僕が思っても見ないような事を言って来た。僕は、高校にも通っていない人という人

を知らなかった。

 

 それは、僕にとって、一種の恐怖でさえあったからだ。

 

 高校に通わないと言う事は、中卒であるというレッテルを貼られるような事である気がしていた

からだ。

 

 僕自身、高校に通いたかったというわけではない。通わないという選択肢もあったかもしれな

い。

 

「何でそんな人が、自殺をしようなんて考えたの?」

 

 利香さんは、わざとらしく声を潜めて僕に向かってそう尋ねてきた。わざわざ声を潜める必要は

ない。高崎から乗った時はこの車内には僕らしかいなかったが、今では数人の乗客が乗り込ん

できている。しかしそれでも、お互いに席を離して座る彼らに聞こえるような事はない。例え普通

の声で話していても、電車の走行音にかき消されてしまうだろう。

 

「さあ…、ただ、何と無く、同じ事の繰り返しの人生に嫌になったから、かな…」

 

 僕は利香さんの質問に対してそのように答えていた。

 

「ただ、何と無く…、ねぇ…」

 

 そう答えた利香さんの表情から、彼女が僕の答えにどのような心境を覚えたのか、良く分から

なかった。

 

 もしかしたら、僕のいい加減な自殺の動機に失望したのだろうか。

 

 だけれども、僕の答えはあながち間違ってはいなかったのだ。

 

 僕は、今まで大きな流れにただ身を任せるだけの人生を過ごしてきた。小さい頃は、その大き

な流れに気づくような事は無い。僕も、中学、高校と、周りの同級生と同じような人生を歩んでい

る事に対し、何も疑問を抱くような事は無かった。

 

 でも、大学という環境に通うようになってから、僕は、大きな流れというものに対し、疑問を抱くよ

うになっていた。

 

 これから先、大学を当たり前のように進学していき、そして就職をし、ただ老化して朽ちていくだ

けの人生なのか。僕はそう思うようになった。

 

 僕は自分でも認めているが、特別非凡ではない。同時に致命的な欠点も持っていない。そうで

あっても、何か、特別な事をしようとしても、それができない。

 

 そんな平凡な僕を待ち構えているこれからの人生は、ただ流れに巻き込まれていくだけの木の

葉でしかない。そのような人生に耐えられるだろうか。

 

 答えはノーだった。今まで、自分や周りを流れている人生について、考えた事も無いような僕だ

ったが、その大きな流れに気が付いた時、僕は、自分に対して耐え難いほどの嫌悪感を抱くよう

になった。

 

 何かを変えようと思っても変えられない。平凡な僕には、その大きな流れに逆らう事はできな

い。そして、今まで生きてきた人生の中で、何かをやり直したいと思うような事も無いし、何かをし

たいと言う願望も無い。

 

 ただただ、無意味な毎日を過ごしているだけだ。

 

 それだったらむしろ…。

 

「でもね、実際の所、自殺って言うのは、自分は自殺するんだぞ! って言っている人の方が全

然しなくて、何も言わないでただ何と無く自殺しようと思っている人の方が、結構簡単にやっちゃう

んだって」

 

 僕の思考を遮るかのようにして利香さんは言って来た。

 

「へええ…」

 

 僕はそう相槌を打つしか無かった。誰にも自殺するという宣言をせず、ただ何と無く自殺しよう

としている。なるほど、僕の事だ。

 

「高橋くんの場合は失敗しちゃったみたいだけれども、次は成功するかもね? ついでに言うと私

はね、これはもう、親にもネットにも、何度も何度も、自殺するんだって言い続けているから、全く

成功しないのかもね。それこそ、小学校6年生くらいからずっと」

 

 小学校6年生くらいから? そんな頃から自殺を考えていたのかと、僕は利香さんに驚かされ

た。僕が小学校6年生の頃など、ただ学校の勉強やら行事やらに追われていただけの思い出し

かない。

 

「私、高校には行っていないの。通信制の高校に通ったらどうかって、親に言われた事もあるけ

れども、嫌だったから通わなかったの。学校に行くくらいなら、死んでやるって言ってね。リストカッ

トとかもかなりしちゃったかな。中学もろくに通っていないのよ」

 

 僕はつい、利香さんの方を意外そうな目で見ざるを得なかった。

 

 高校に通っていない人をそんな目で見てしまうのは、してはならない事だろうと思った。

 

 世の中の人々の中には、中卒と言って、利香さんのように高校に通っていないというだけで軽

蔑する人も少なくない。

 

 だが、僕はそういう目で利香さんを見るつもりは無かった。

 

 なるほど、中学で、つまり義務教育で学業を終わらせた彼女にとっては、わざわざ高い学費を

払って、高校、大学と通っている僕は、例えそのあり方がどうであれ、凄く見えるのだろう。

 

 しかしながら、僕らが今朝、命を断ってしまっていたら、高校や大学に通っていただの、通って

いなかっただのといった事は、もはやどうでも良い事なのだ。

 

-4ページ-

 

 僕らは高崎線の始発列車で上野駅まで行った。

 

 途中、大宮駅で降りて、そのまま埼京線か湘南新宿ラインに乗り、新宿まで出て、新宿から中

央線を使って旅を続けると言う方法もあったが、乗り換えが多く、鉄道の旅などした事も無い僕に

は混乱しそうだった。

 

 利香さんは僕の決断には口出しせず、ただ、うんうんと頷くだけだった。

 

 上野駅を降りると、広いホームが広がっていた。すでに時刻は午前7時近くだった。上野駅のホ

ームには多くの人が行き来している。

 

 皆、会社や学校に行こうとしている通勤客、通学客なのだろう。ほとんどが黒いスーツ姿の人々

だ。

 

 こんなに東京の近くまでやって来たのは、僕にとっては何年振りだろうか。大学の同級生達は、

友達同士で連れ立って、新宿やら渋谷、秋葉原などに出かけたりしているようだが、僕には大学

に特別な友人もいなかった。

 

 こんな所までくる理由が無い。

 

 僕らは辺りを見回した。参った事に、上野駅はホームが多すぎるように見えた。走っている列車

の姿も色とりどりに見えて、無数の電車がここには来ているように見えた。

 

「まだ、7時よ。今日はあと17時間もある。この上野駅で旅を終わらせて、決断するのもいいけれ

ども…」

 

「決断?」

 

 僕は、高崎線の列車が到着したホームに、利香さんと共に立ちつくしたまま、彼女にそう尋ねて

いた。

 

「死の決断。上野駅と言えば、色々名所があるけれども、ここでするには人目につき過ぎてしまう

わ」

 

「ああ、なるほど…」

 

「一応、睡眠薬があるけれども…?」

 

 と言って、利香さんは、彼女が持っているバックの中からちらりと瓶を見せてきた。

 

 彼女はいつもそんなものを持ち歩いているのだろうか?バックの中に、まるで当たり前であるか

のようにそれが入っている。

 

 瓶の中にはぎっしりと錠剤が入っていた。一気に飲み干せば多分死ぬだろう。僕もそういう自殺

を聞いた事がある。

 

 初めは、僕もその睡眠薬自殺を考えてみた事もある。だが、どこで睡眠薬を手に入れたらいい

のか、本当に自殺できるのだろうかと考えているうちに、排ガスの自殺を思いついた。利香さんも

そちらの方が良いと、メールのやり取りで言って来たから、僕は排ガス自殺を選んだ。

 

「隠しておきなよ、そんなの」

 

 僕はその睡眠薬に、まるで嫌悪か何かを感じたかのように、彼女に睡眠薬を隠させた。

 

「それはさておき、あなたは、そこの駅のホームのベンチで睡眠薬を煽る気にはならないようね

…」

 

 と、利香さんは冗談でも言うかのように言って来た。冗談だったとしても正直笑う事ができない。

 

 僕は目についたJRの首都圏路線図の目の前に立った。

 

「…、まあ、せっかく、青春18きっぷもあることだし、行ける所まで行ってみようよ。今日で最後。

と決めているんだから、可能な限り遠くに、ね。その方がいいよ。死ぬ前に色々見ておこう」

 

「どこに?」

 

 利香さんがそう尋ねてくるので、僕は、上野駅から伸びている線を辿った。それは、青色の線だ

った。

 

「この上野駅から、京浜東北線に乗って、東京駅まで行く。そこから、東海道線に乗って、こう、ず

ーっと行って見る。東海道線は熱海から先にまで伸びているようだから、走っている所まで行く」

 

「神戸までよ」

 

 利香さんは僕の言葉に口を挟んできた。

 

「は? 神戸?」

 

「東海道線は、東京と神戸を結んでいるの。全通しの運行は無いけれどもね」

 

「詳しいね」

 

 僕は意外そうな声を出してそう言った。感心さえもあった。

 

「常識よ。そんなの」

 

 と、当たり前のように利香さんは僕に言って来た。頭痛がまだしているのだろうか、彼女は頭を

押さえた。

 

 つい4時間前に、排ガス自殺を図った僕らなのだから、仕方ないだろう。

 

「ごめんなさい。体が、弱くてね…。私。実は外に出るのも1年ぶりくらいなんだ。東京に来たのな

んて、5年、いや、もっとかも…。わたしはいわゆるひきこもりっていう奴で…」

 

 利香さんはそう答えながら再び頭に手をやった。

 

 利香さんは、本当に自殺心願者なのかと思うほど、明るく振る舞ってはいるが、その顔や肌は

青白い。まるで生まれてから一度も日に当たった事がないと言えてしまうほどに体が白い。

 

「大丈夫?」

 

 と、僕は手を伸ばした。

 

「うん。大丈夫…。今日で終わりだと思えば、この腐りかけた人形みたいな体とおさらばと考えれ

ば、大丈夫」

 

 腐りかけた人形、という彼女の自分を形容する表現に僕は少し動揺を感じる。そこまで言わなく

てもいいだろう。

 

 ふと、彼女の手の内側を見れば、幾つかの切り傷があった。それはリストカットの痕だろう。数

えるほどではあったものの、多分、剃刀で切った傷が幾つかついていた。

 

 彼女が自分の命を断とうとしていたのは本当のようだ。

 

 僕は大学に通っている時、同じ学科の学生で、共にゼミのグループを組んだ女の子がいたが、

その子は両腕の内側に数えられないくらいの切り傷を持っていた。

 

 彼女も利香さんと同じように肌も青白く、手もか細かった。だが傷は何十も腕の内側にあり、彼

女はそれを隠そうとさえしていなかった。しかしいつも明るく振る舞い、まるでリストカットをし続け

てきた事を忘れ去ってしまっているかのようだった。

 

 何故、そのような傷を持ちながら、明るく振る舞う事ができるのか、僕には理解できなかった。

 

 リストカットの傷が体から消え去るまではどれだけの時間がかかるのだろう、数年はかかるだろ

うか。

 

 だが、僕はリストカットをした事も無い。自殺願望はあるくせに、自分の体を刃物で傷つけると言

う事を考えただけでも身ぶるいがしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして僕達は、上野駅から大船行きの京浜東北線に乗った。

 

 上野駅では、僕らの旅の終着点とするにはあまりに近すぎた。まだ、関東地方さえも出ていな

いじゃあないか。せめて、もっと遠くまで行っても良いはずだ。

 

 腕時計を見れば、時刻は午前7時30分になっていた。京浜東北線の電車はだんだんと混雑し

てきており、そのほとんどが、会社員であるらしかった。

 

 そう言えば、僕にとっては高校、大学と似たような電車の混雑に揺られながら通学を続けてい

た。今は7月下旬で大学は夏休みだったが、まるで普段の姿に引き戻されたかのような気がしな

いでもない。

 

 大学は6月辺りから全く通っていない。もはや夏休みがずっと続いているも同然だったのだが。

 

 僕は利香さんと並び、上野駅で何とか混雑している車両の座席に座る事ができた。僕達は並ん

で座り、利香さんが妙に身を寄せてくる。

 

 何故かと思ってみたら、彼女はうとうとと眠りにつこうとしていた。無理もない、僕達は徹夜して

いるのだ。

 

 しかもその徹夜はだらだらと過ごすような徹夜ではない。一度、死の決断をし、ぎりぎりの所を

助かっている。言わば生死の境をさまよった一晩だったのだ。

 

 その疲れが今頃きても不思議ではないだろう。

 

 利香さんのか弱そうな体を見ているうちに、京浜東北線は、秋葉原駅を過ぎ、更に東京駅へと

来てしまった。上野駅で立てた計画では、この東京駅から東海道線に乗る予定だった。

 

「起きなよ。東京駅だよ」

 

 と、僕は利香さんの体を揺さぶって起こそうとした。だが、どうやら彼女は眠りのかなり気持ちの

良い場所にいるらしい。

 

「う、ん。あと、5分…」

 

 あまりに拍子抜けしそうな声に、僕は面喰った。

 

「ほら、今、起きないと…」

 

 東京駅で京浜東北線からは、多くのスーツ姿の乗客が吐き出され、また乗り込んできている。

それはあたかも黒い波であるかのようで、もう僕らが降りる事はできなさそうだった。

 

「東京から…、横浜まで…、京浜東北線は東海道線と並走しているから…、起きなくても…、横浜

駅で乗り換えれば…いい」

 

 そう利香さんは言って来た。そうなのか。僕は鉄道の事、それも地元路線でもない東京の鉄道

の事は良く分からなかった。だけれども東京駅で、京浜東北線は1分の停車もせず、大勢の乗客

を降ろし、また乗せた。

 

 時計を見ると午前8時になろうとしていた。混雑は最高潮に達しており、京浜東北線の車内は

皆が体を押し付け合い、ぎゅうぎゅうになっていた。ラッシュとか言う奴だ。

 

 僕が高校、大学と通っていた群馬の高崎の方では、朝にこんなにラッシュにはならないから、僕

にとっても初めて目の当たりにする光景だった。

 

 何故、こんなに混んだ電車に乗らなければならない? 僕らは運よく座る事ができているけれど

も、こんなに混む電車に乗るくらいだったら、何列車か遅らせても良いだろう。

 

 そこまで、会社と言うものが大事なのだろうか?今にも息苦しさに耐えられなくなり、卒倒してし

まいそうなこの電車に乗ってまで?

 

 僕だったら、そう、単位を落としかねない一つの講義に出席するため、この混雑した列車に乗ら

なければならないとするならば、僕は講義の単位よりも自分の体を優先するだろう。

 

 まるで、自殺でもしに行くようなものだ。自殺。そうか、東京のラッシュの電車に乗って自殺をす

る事ができるかもしれないな。

 

 だが、排ガス自殺をするのよりも遥かに辛そうだ。首吊りをするのは、世間で言われているより

も簡単に死ねるというが、その比ではないだろう。

 

 何しろ、体を圧迫されて死ぬのだ。それもすぐには死ねないはず。恐らく何時間もかかる。そん

な自殺は御免だ。

 

 有楽町、浜松町と過ぎていき、乗客はだんだんと減っていった。そして、品川駅を過ぎるころに

は、東京駅であれだけ乗っていた乗客は半分程度まで減っていた。

 

 横浜まで乗ると言っていた利香さんは、嵐のように過ぎ去っていたラッシュの事など知らないよ

うに、ずっと眠りについている。

 

 横浜駅まであとどれだけあるのだろうか。僕には東京駅と横浜駅の距離感が分からなかった。

 

 もしかしたら1時間以上も乗る事になるかもしれない。利香さんは気持ちよさそうに眠っているよ

うだが、僕は暇だった。

 

 仕方なく、利香さんがずっと手に持っている一冊の本、“青春18きっぷガイドブック”を手に取っ

てみた。少し、興味をそそられそうな内容だったからだ。

 

 もし、僕達が今日にでも自殺をする事に成功するならば、この本が、僕の読む最後の本と言う

事になる。

 

 それも悪くないかもしれない。今まで僕が手に取った事も無いジャンルの本だ。好奇心をかき立

てられる。

 

 その本のページをめくれば、まず青春18きっぷの値段について、使用方法についての事細か

な記述があったが、僕はそれらを知っているから飛ばして読んだ。

 

 先の方のページでは、様々な列車の乗車テクニックが書かれている。青春18きっぷでは、国

内の全てのJR路線に乗り放題になるわけだから、それを利用した様々なテクニックだ。

 

 ただし、青春18きっぷでは特急列車や新幹線には乗れない。それだけは注意書きとして何度

も書かれている。

 

 “青春18きっぷでは特急列車や新幹線には乗れない”という事を、まるで肝に銘じさせるかの

ようだ。

 

 そしてもう一つ、この本が強調している点が、一日2,300円で全国のJR普通列車に乗り放題だ

という点だった。まるで、大きな革命でも起こったかのように、全国一律一日2,300円で乗り放題だ

という事を謳っている。

 

 確かに利香さんの言っていたように、北海道から九州まで、一日で移動できるし、どこまでも移

動しても2,300円しかかからないという点は、青春18きっぷの特筆すべき点だろう。

 

 特急列車や新幹線に乗れないから、豪華な旅にとはいかないかもしれないが、特に若者の、格

安旅行などには適しているはずだ。

 

 ちょうど、それは僕達がまさに今している旅のようなものだ。

 

 京浜東北線はさらに乗客を降ろし、川崎駅を通り過ぎていった。

 

 青春18きっぷはこのシーズンに売れ行きを伸ばす、人気のフリー切符だと本には書いてある。

だが、どれだけの人物が、自殺のための旅を目的として、この青春18きっぷを買ったりするのだ

ろうか。

 

 そんな事を考えている内に、僕はだんだんと眠気に襲われて来た。どうやら僕の席の横で利香

さんはぐっすりと眠ってしまっているようだが、僕自身も昨晩は一睡もしていないのだ。

 

 列車の揺れがちょうど心地よい形になり、僕も眠りの中に引きずりこまれていきそうだ。

 

 利香さんが乗り換えをすると言っていた、横浜駅まではあとどのくらいなのだろう。そんな事を考

えるような余裕も無いまま、僕は眠りの中に落ちていった。

 

 

説明
自殺志願者が残りの一日をどのように過ごすのか。
青春18きっぷを使い旅行をしながらも、そこに死というテーマを描いた小説です。
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コメントありがとうございます。文章が読みやすいと言う感想は意外でした。何と言いますか、わざと難しい表現とか使うのが好きなものですから。この小説は生死というものを追求していますから、そうした事を考えつつ読んでいただければ幸いです。(エックス)
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