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 徹夜明けの熟睡というのは久しぶりだった。そもそも、テスト勉強でも、受験勉強でも、僕は徹

夜というものをほとんどしたことが無い。

 

 だが、昨晩は完全な徹夜をしてしまっていたのだ。僕が目を覚ました時、京浜東北線はどこか

の駅に停車しており、乗客は全員が降りていっていた。車内はがらんとしており、残されているの

は、僕と利香さんだけだった。

 

「ほ、ほら、起きなよ、多分、終点だ」

 

 僕は利香さんの体を揺さぶってそう言った。終点かどうかは分からないが、乗客が全員降りて

いってしまっている事から、僕はそのように判断した。

 

「あ、いけない。寝過ごしちゃった!」

 

 利香さんはすぐに起きてくれた。そして、僕らはどこかの駅に到着した、京浜東北線から飛び出

すように外に出ていた。

 

 京浜東北線の車両が停車しているホームの、駅名案内には、大きく大船駅と書かれていた。ど

この駅だろう。寝過ごしている間に、僕は来た事も無い駅へと放り出されていたのだ。

 

 時計を見れば、時刻は午前9時を回っていた。大体、1時間くらい僕らは熟睡してしまっていた

ことになる。

 

「大船駅…。良かった。遠回りになったけれども、東海道線に乗る事ができる駅よ」

 

 と、利香さんは僕に言って来た。

 

「へええ…、そう?」

 

 僕はそのように相槌を打つ事しかできなかった。東海道線に乗るのは東京駅の予定だったが、

それがまた随分後回しになってしまったらしかったが、結果的には大丈夫と言う事だろう。

 

「ほら、行こう」

 

 利香さんはそのように僕を先導して歩いて行く。その後ろ姿を見て、利香さんは随分鉄道に詳し

いものだな、と思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 大船駅を出発する東海道線は、午前9時20分発の熱海行きだった。

 

 車両が高崎線のものと、多分同じものだ。僕が大学、高校の通学の時に使っていた車両であ

る。

 

 僕らは、旅の最初に高崎線に乗った時のように、がらがらの車両のボックスシートに向かい合

わせで座っていた。

 

 ここから熱海駅まで、どれだけかかるのだろう。僕らは青春18きっぷガイドブックこそ持ってい

たが、時刻表と言うものを持っていなかったから、列車が、何時にどこに着くのかがさっぱりと分

からなかった。

 

「君、随分、鉄道に詳しいね」

 

 僕は、大船駅を出たばかりの東海道線の車両の中で、利香さんにそのように尋ねていた。

 

 すると、利香さんは外の車窓を眺めながら僕に言って来た。

 

「小さい頃に、うちのおばあちゃんが病気になったの。癌だったわ。

 

 でも、末期癌とかじゃあなくって、治す事もできる癌だったみたい。結局のところ、それほど長く

はなかったんだけれどもね」

 

「あ、ああ…、そう…」

 

 いきなり出された、利香さんの肉親の話に僕は戸惑った。何故、鉄道に詳しいかという質問で、

そんな話が出てくるのだろう。

 

「私は、実家が九州でね…。うちの両親が群馬の方に移って来たんだけれども、小さい頃は新幹

線で九州に行く事も多かったの」

 

 利香さんの実家が九州とは知らなかった。彼女自身群馬で育ったようだから、九州に実家があ

ってもあまり関係が無いのだろうけれども。

 

 しかし僕は本州から出た事も無い。九州がどんな場所か知らなかった。想像するのも難しい。

 

「九州は、飛行機で行く所じゃあないの?」

 

 僕はそう尋ねた。僕の中の勝手なイメージがそういう質問をさせた。

 

「普通はね。ただ、うちの両親が飛行機じゃあなくって、新幹線を選んでいたのよ。飛行機じゃあ

2時間くらいなのにね。新幹線だと5時間もかかっちゃう。あと、新幹線に乗るための東京までの

移動もあるし…」

 

 新幹線で5時間とは相当な乗車時間だなと僕は思った。高校の修学旅行では京都に行った

が、あれで3時間近くかかった。あの時も、相当な乗車時間だと思ったものだが、九州はさらに先

の地にある。

 

「わざわざ新幹線に乗っていたのは、両親の方針だったけれども、当時のわたしは、小学校1年

生ぐらい。何というか、学校を休みがちな子だったというわけで…、おばあちゃんの家に行く事も

多かったわ…」

 

 利香さんは、車窓の景色を眺めながら、思い出話をしてくれる。

 

 女の子の思い出話など、2人きりで聞いた事もない僕だったから、思わず聞き入る。

 

「多分、2、3カ月に一度くらいは行っていたわ…。新幹線に乗ってね。九州まで5時間。向こうで

2泊くらいして帰って来たの。しかも平日にね…。他にそんな小学生がいるかしら。

 

 両親がわたしを連れていってくれた。おばあちゃんは何というか、わたしにとっては、仏様のよう

な存在だったわ。とても優しくて、何でも受け入れてくれた。

 

 わたしは、悪戯とかはしなかったけど、物の考え方が、その頃からひねっくれていて、何かと親

の手を煩わせていたわね。でも、おばあちゃんの前ではできなかった。こんなに優しいおばあち

ゃんの前じゃあ、ひねっくれた孫娘を見せられなかったの」

 

 と利香さんは言うが、自殺をしようと考えている事以外は、特にひねくれた子のようには見えな

い。

 

 利香さんは更に話を続けた。

 

「そんな、おばあちゃん子だったわたしは、新幹線に乗るのに楽しみにしながら、九州にお出かけ

していたの。駅名とか、新幹線が止まる駅だったら全部言えるわ。

 

 今は無くなっちゃたらしいけど、当時は、新幹線にも食堂車なんかもあって、子供心には何度乗

っても飽きなかったのよ。何となく、車窓も駅も覚えている。列車が好きになったのもその頃かし

らね。あんまり、旅行には行っていないけれども、九州の博多に止まる電車を見て、これが、どこ

に行くのか、なんて想像していたわ。で、それを、調べたりとかしていたの。

 

 まあ、今考えたら、2、3カ月に1度もよく九州まで連れて行ってくれたわね。私の親は。面倒か

けてばっかりよ。ただ、おばあちゃんは歓迎してくれた。帰りの新幹線代まで出してくれたの。おじ

いちゃんが死んで何年も経っていたらしいから、わたしの事が可愛かったのね。

 

 学校に行っていないという事も当然気づかれていたでしょうけど、その事については何も言わな

かった。

 

 それで、そんな事を小学校3年生くらいまで続けていたら、突然、おばあちゃんが、癌になっち

ゃったの」

 

 利香さんはそうした言葉でも、淡々と話を続けていた。車窓から外を見つめる彼女には何が映

っているのだろうか。

 

 先ほどから、東海道線の車窓は開け、住宅地が広がっている。東京の方から大分離れている

せいだろう。

 

 僕は黙って、利香さんの話の続きを聴いていた。

 

「癌というのは、何だか、凄く恐ろしい言葉に聞こえたわ。小学校3年生の子にとっては、重い病

気の言葉というよりも、何だか、癌という名の悪魔のようにも聴こえたわね。

 

 おばあちゃんは癌になって、病院に入院する事になったの。病院に入ったおばあちゃんは長期

の治療を受ける事になって、わたし達は、今度はお見舞いでおばあちゃんの所に行く事になっ

た。これまたおばあちゃんは随分と頑張ってくれたわ。だって、わたしが小学校6年生になるまで

生きていたんだから。

 

 小学生の頃のわたしにとっては、おばあちゃんは不死身なんだって思ったくらいよ。何という

か、仏様のような存在だったわけだし。でも、最近になって分かってきている。おばあちゃんは、

全然平気じゃなかったのよ。多分、わたしの為に生きようとしていた。おばあちゃんは、わたしが

悲しまないように、生きていたのよ。

 

 小学校6年生の時、珍しく行った学校からわたしが帰ってくると、おばあちゃんが死んだんだっ

て連絡を受けたわ。初めは、理解できなかったわよ。わたしの、どこの親戚が死んだのよ、って

感じ。やっと実感できたのは、おばあちゃんの死に顔を見た時よ。その時もまあ、本当にこの人、

死んだの? ってくらいににっこりした顔だったわ…」

 

 そこまで話すと、利香さんは黙ってしまった。

 

 おばあさんの事を思い出しているのだろうか?じっと黙り、車窓を見つめている。東海道線の車

両は一定のリズムで走行していく。

 

「小田原〜、小田原です」

 

 車内アナウンスが流れた。その声は、あまりに場違いだった。僕らの間に漂う空気を打ち砕くか

のようだった。

 

 僕は、親戚やらの死に直面した事が無い。両親、祖父、祖母は健在だし、従兄弟達とはしばら

く会っていない。兄弟もいない。

 

 だから、他人の死というものが、分からなかった。自分の死については考えているくせに、他人

の死が分からない。どんな気持ちになるのだろうか。

 

 昨日まで生きていた人が、今日はいない。それは、どのような事なのだろう?

 

 利香さんは黙ってしまった。おばあさんの事を思い出しているのだろうか。

 

 先ほどまで、彼女の語りが続いていたが、結局、小田原駅から僕らの乗った東海道線が終点

の熱海に着くまで、黙られたままだった。

 

 僕も、空気をかき乱し、下手な話題を出したくなかった。どことなく気まずくなってしまったが、車

内アナウンスで熱海到着が流れるまで、僕らは黙ったままだった。

 

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 熱海駅には、午前10時30分に着いた。

 

 僕らはこのままここから旅を続けるのであれば、乗り換えなければならない。

 

 東京方面から来た、青春18きっぷを持つ僕らにとって、選択肢は幾つかあった。まず一つが、

このまま更に先に進む東海道線に乗り、東海道をひた走るというルート。次に、伊東線という伊

豆半島を南下する路線に乗り、伊豆半島を進むと言うルート。だが、それでは数駅先の伊東駅ま

でしか行けない。

 

 また、ここで青春18きっぷの効力が失われる事になるが、東海道新幹線に乗って、一気に西

へと突き進むと言うルートだった。その気になれば、夕方前には九州の博多まで行く事ができる

だろう。

 

 九州には利香さんのおばあさんの家がある。おばあさんの事を思い出させてしまうだろうか。

 

 僕が、熱海駅からどのように進むか、ルートを探っていると、利香さんが30分ぶりくらいに僕に

話しかけてきた。

 

「お昼にしよう。一旦、外に出て、何か買って、電車の中で食べよう」

 

 と、誘って来た。

 

「え? ここから先はどう進むの?」

 

 僕は、取り残されてしまったかのようにそう尋ねた。

 

「東海道線で更に先に進むに決まってんでしょ」

 

 何だか、当たり前のことを言うかのように利香さんは言って来た。

 

「あ、ああ、そう?」

 

 新幹線に乗るとか考えていた僕は、何だか自分の無知さを、思い知らされたかのような気分だ

った。

 

 

 

 

 

 

 

 昼食を10時半に食べると言う事は、少し早すぎるかもしれない。

 

 だが、昼食をどこかのレストランに入って食べると言うのではなく、買っておいて列車の中で食

べると言うのは、旅行では良くある考え方かもしれない。

 

 僕は、熱海駅前にあるコンビニエンスストアに入ろうとした。旅行先で何かを買うと言ったら、や

はりコンビニが便利なのは変わらない。僕もよく利用する。コンビニの何かが好きというわけでは

なく、利用しやすい。それだけが僕をよく利用させている原因だ。

 

 利香さんも一緒にコンビニに入るのか、と思ったが、

 

「わたし、ちょっと、見たい所があるから…」

 

 と、何やら暗い声で言って、コンビニには入って来なかった。熱海駅は、僕にとっては来るのは

初めてだったが、彼女は何か、見たい所があるのだろうか。

 

 僕は一人でコンビニでおにぎりと飲み物を買った。朝と同じメニューだったが、僕は元々食べ物

にはこだわらない人間だったから構わない。

 

 さて、コンビニを出た。僕はそこに利香さんが待っていると思ったが、いない。

 

 見回してみたが、駅前のコンビニに彼女はいなかった。

 

 駅前ロータリーをバスやらタクシーやらが走り、熱海駅は平日に日中でもかなり賑やかだ。人が

大勢いて、僕はその中から利香さんを捜そうとする。しかし、彼女の姿は見えない。

 

 僕は焦った。もしかしたら、一人で帰ってしまったのではないかと思ったからだ。

 

 そんな。僕に身の上話までしてくれたのに、一人で帰ってしまうなんて。僕は裏切られたかのよ

うな気持ちに襲われた。

 

 まだどこかにいやしないかと、彼女を捜そうとする。すると、僕はコンビニの建物の裏側にある

駐車場から、誰かの声が聴こえてくるのを聞いた。

 

 駐車場の方を振り向いていると、そこには利香さんがいた。彼女の姿に、僕はほっと胸をなで

おろした。

 

 だが、彼女の様子がおかしい。僕の方へは目を向けず、コンビニの建物に向かって手をつき、

下をうつむいて、泣いていた。

 

 それも、かなりの強さで泣いている。僕は距離をとって彼女の方を見ていたが、その声が聞こえ

てくるほどだった。

 

 涙は大粒で、彼女の頬から地面へと落ちている。肩で息をするかのように動かしながら泣いて

いる。

 

 何故、泣いてしまっているのだろう。僕には分からなかった。彼女は大粒の涙を流し続け、そん

な利香さんは、僕から遠い場所にいるかのように見えた。

 

 奇妙な時間が流れていた。彼女から距離を置き、僕は利香さんの姿を見続ける事しかできな

い。熱海駅周辺の雑踏も何もかもも遠く離れた場所にあるかのようだ。

 

 周囲の空間とは閉ざされた場所で、僕は、遠く離れた場所にいる利香さんの姿を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 熱海駅からは、午前11時15分発の東海道線静岡行きに乗った。少しばかり時間があったの

だが、僕らは気にせず、駅のベンチで待った。

 

 利香さんは泣いていた後、無言のままだった。涙で赤くなっている目、そして頬にその跡が残っ

ている。彼女の眼は、まるで虚空を見つめているかのようで、僕の方は向いてこない。

 

 じっと、熱海の温泉街の方を駅のホームから見つめていた。

 

 熱海駅から出発した東海道線は、大船駅から乗って来た車両や、僕達の地元の高崎線の車両

とは大分趣が異なり、ロングシートの通勤型車両のようなものだった。しかも車両数も少なく、3両

しかない。車両を見通せば、先頭と最後尾が見えるくらいだった。

 

 僕らは向かい合わせで座る事ができず、隣同士で座る事しかできなかった。それは、女の子と

付き合った事も無い僕にとっては、少々恥ずかしい出来事だった。

 

 熱海駅を出ると、列車は長いトンネルの中に入った。それは本当に長いトンネルだった。このま

ま永遠に続いて行くかのような長さのトンネルだ。

 

 10分ほども経った頃だと思う。列車はやっとトンネルから抜け、函南駅に到着した。すると、利

香さんは口を開いてきた。

 

「中学校一年の時、家出をしたわ」

 

 何だか、久しぶりに聞く彼女の声だったような気がした。

 

 相変わらず彼女は目を外の景色へと向け、僕の方は見ずに話してくる。

 

「学校に通いなさい。中学生になったんだから。とお母さんは言って来たわ。でも、私は布団をか

ぶってベッドから出ず、何が何でも行こうとしなかったの。何でそんなに頑固に行こうとしなかった

のか、よく分からない。というか思い出せない」

 

 彼女の言葉は、僕どころか、周りにも聴こえていたかもしれない。熱海駅からはかなり乗客が

乗って来ていた。3両編成の列車だから狭く、その分乗客も多くいるように感じるのだろう。

 

 利香さんは周りの事など何も気にしていないのか、話を続けた。

 

「3日もした頃、父親も乗り出してきたわ。滅多にわたしの顔なんて見て来なかったのにね。

 

 何というか、嫌だった。それで、家出をしたの」

 

 父親が初めて利香さんの言葉の中に出てきたな。と僕は思う。

 

「それまでは新幹線で行っていたおばあちゃんの家に、普通の電車で行こうとしたのよ。運賃も経

路も全部調べたわ。

 

 時刻表を片手に家を飛び出した私は、今、乗っているこの東海道線を使って、神戸まで行こうと

したの。

 

 でも、神戸を過ぎるころにはもう夕方でね。何だか泣きたくなって来ちゃった。全然知らない場

所に一人で立っている。不思議な気持ちだったわ。

 

 だけれども、引き返せなくなっちゃって、夜は街をぶらぶらして徹夜で過ごして、翌朝の始発の

山陽本線の中で寝て、九州に入ったら、鹿児島本線に乗って、ようやく2日目の夕方に着いた

わ」

 

「おばあさんの家に?」

 

 神戸まで1日で行ったとは、神戸までの距離感が掴めない僕としても凄いと思う。

 

「ええ、着いたわ。なけなしのお小遣いを全部使ってね。おばあちゃんの住んでいた家は、そこに

そのままあったわ。借家だったからね。でも、全然雰囲気が変わっていたわ。別の人が住んでい

るんだからそれはそうよ。

 

 形も色も同じだけれども、全然違うの。それがはっきりと分かっちゃった。

 

 多分わたしは、おばあちゃんに助けて欲しくて、九州まで行ったんだと思う。でも、住んでいた家

を見て気がついちゃった。おばあちゃんは、もうこの世にいないんだって事が。

 

 そう。どんなに追いかけても、おばあちゃんは、この世のどこにもいないの。

 

 それがはっきり分かった時、わたしはそれまでの疲れが、どっと噴き出して倒れそうになっちゃ

ったものよ。

 

 でも結局、家に電話をかけて、これまた大迷惑をさせて、九州までこれまた新幹線で迎えに来

てもらったというわけ。

 

 さっきのは、多分それ。あの時と同じ事をしているって思っちゃったの。わたし、まだ、おばあち

ゃんを捜しているのかもしれない。このまま、どこかまで行けば、おばあちゃんがわたしを助けてく

れるんだってね」

 

 おばあさんの存在は利香さんにとっては、相当に大きなもののようだ。

 

 多分、利香さんにとっては小学生の時が、最も精神的にデリケートだったのだろう。学校に行け

ず、自分自身を追い詰めて考えていたのかもしれない。

 

 おばあさんは、そんな利香さんにとっては母親以上に母親であり、しかも、仏様のような存在だ

ったのだ。絶対的な存在では無い。だが、優しく包み込んでくれるかのような感触は、利香さんに

とってかけがえの無い物だったという。

 

「自殺未遂をするようになったのも、それから。何だか、もうどうでも良くなっちゃったの。九州まで

自分で普通の電車で行けちゃった事が、何だか、世の中の事を全て知ってしまった。もうやり残

す事は何も無い。そんな気持ちにさせちゃったのね。私を…」

 

 そう言うなり、利香さんはだんだんと言葉ごとの感覚の間を開けていった。

 

 まるで、心臓の鼓動をゆっくりとしていくかのようだ。

 

「リストカットとかもしたし…、タバコを大量に吸えば死ねるなんて考えて、一日で一箱を空にして

いたり…」

 

 そのように話していた頃には、僕らを乗せた列車は富士駅に停車していた。

 

 そしてその次の富士川駅に着いた頃、利香さんはやっと次の言葉を話しだしていた。

 

「何だか、死にたいって言うよりも、自分で自分を痛めつけていたみたいね…」

 

 呟くようにそう言うと、利香さんは、再び外の景色に対して、無表情の視線を向けていた。その

眼は、ある人が言うならば死んだ眼と言えてしまうかのように、焦点の合わさっていない目だっ

た。

 

 彼女は、まるで隣にいる僕も、周囲の人々も、列車の走行音も外の景色さえも認識していない

かのように、目を向けていた。

 

 彼女は何を見ているのだろうか。それは僕には全く持って理解しがたい、何かだった。

 

 僕は、同じようにして、その何かを知ろうと、同じ方向へと視線を向けようとしたが、駄目だっ

た。結局は外の景色しか見えない。

 

 車窓の外には海が広がっている。多分、晴れた日には綺麗な海なのだろう。だが、僕にとって

は曇り空に潰されている淀みにしか見えていなかった。

 

 利香さんにとっては、どのように見えるのだろうか。

 

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 僕らが東海道線をひたすら辿り、名古屋駅に着くころには、日は傾き出し、一日の終わりは確

実に近付いてきているのだろうという事を実感させた。

 

 ここは僕の知らない世界だった。世間的に言えば、決して遠いところではないかもしれない。言

葉の通じる日本国内であったし、高崎駅から新幹線に乗り、東京で東海道新幹線に乗り換えれ

ば、3時間程度で到着する所でしかない。

 

 だが、僕にとっては名古屋という地は、あまりにも日常からかけ離れた地だった。

 

 名古屋駅には降り立つ事は無かった。僕らが豊橋駅から乗った東海道線の新快速という列車

は、名古屋駅をあたかも普通の停車駅であるかのように数分間停車しただけで、すぐに走り出し

てしまった。

 

 列車は僕達を、容赦なく未知の世界へと連れていこうとしている。それは逆らう事が出来ない運

命であるかのようだった。

 

 僕らはやがて大垣と言う駅で、東海道線の新快速列車を降りた。大垣と言う駅は、名古屋駅に

比べれば大分静かで落ち着いた駅になっており、何故、僕らが乗ってきた列車はこの駅を終着

駅と定めていたのか、少し疑問に思った。

 

 だが、終着駅と言うからには、乗り換えなければならない。利香さんによれば、東海道線は神戸

まであると言うから、神戸までは線路が続いている。乗り換えを繰り返して、やっと到着するのだ

ろう。

 

「こうして歩いていると、家出をした時を思い出すわ」

 

 と、大垣駅の階段を登り、別のホームへと移りながら利香さんが僕に言って来た。

 

「その時にここに来たの?」

 

 僕は階段を登りながら質問した。

 

「ええ、乗り換えをしたわよ。何というか、まだやる気が残っていた頃ね。神戸につく頃には、何だ

かホームシックになっちゃっていたけれども」

 

 彼女はそう答えた。彼女は中学校1年生の時、地元群馬からこんなに離れた地まで一人で来

たのだ。

 

 思っていたよりも、活発な子じゃあないか。僕はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 大垣発米原行きの電車が、午後4時40分に発車した。

 

 東海道線はいつしかまたその姿を変えており、同じ路線名を持つのに、大分雰囲気が異なって

きている。今、僕らが乗っているのは、座席が同じ方向を向いているボックスシートで、向かい合

わせにはできない。だけれども列車の壁紙が木の木目になっており、各駅停車の割に高級感を

感じられた。

 

 僕らは向かい合わせに座る事はできなかったけれども、並んで同じシートに座っていた。

 

 さっきから、相変わらず利香さんは口数が少ない。僕らは今日一日で人生を終わらせようとして

いるのだから、無理もないだろう。

 

 僕らは、このまま地の果てまで行き、そこで死ぬ。そう考えているのだから、口数が少なくなって

も無理は無い。

 

 やがて僕らを乗せた列車が、関ヶ原駅に着いた。

 

 関ヶ原と聞いて僕は顔を上げ、窓から外の景色を見た。そこには普通の田舎風ではあるけれ

どもホームの幅の広い駅が広がっていた。駅は、山同士の間の盆地のような場所にあり、住宅

の姿も見える。

 

 関ヶ原と言えば、日本史で有名な、あの関ヶ原の合戦があった場所じゃあないか。僕はそう思

った。

 

 中学、高校でも習ったし、大学の日本史の講義でも習った。あの関ヶ原がここなのだ。

 

 僕は、地理には疎いから、関ヶ原が日本の中部地方のどこかにあるかという事しか知らなかっ

た。だが、それは今、僕らが列車で走り去ろうとしているこの地なのだ。

 

 僕は歴史を大きく変えた、あの関ヶ原の合戦が行われた地にいる。今はのどかな雰囲気が漂

う、田舎の町という雰囲気だったが、ここが400年以上昔に戦いの場となったのだ。

 

 日本の土地には、どこに行っても、戦いが行われた古戦場と言うものがあり、それを挙げて言

ったらキリが無いだろう。だが、僕は歴史マニアでもないし、日本史という教科が別段好きでも無

い。

 

 だから、関ヶ原の戦いのような大きな歴史の出来事くらいしか覚えていないのだ。

 

 この関ヶ原駅とその戦いを結びつけるのも、自然な事だ。

 

 関ヶ原駅は別段、特別な駅と言う訳でもなく、あっという間に東海道線は過ぎ去って行ってしまっ

た。

 

 僕は想像していた。400年という大きな昔、僕が生きて生きた19年足らずの人生とは比べ物

にならないほど昔の歴史を。

 

 この地で、徳川家康と、石田光成という二人の実力者によって集められた軍が、東軍と西軍に

分かれて戦った。

 

 それは日本史上にとっては大きな転換点であったのは確かだ。少なくとも僕はそう思っている。

 

 敵と味方という考え方はあったけれども、徳川家康にも石田光成にも、善とか悪の感情は無か

っただろう。ただ二人ともやりたかった事は同じだったはずだ。彼らは歴史と言う大きな流れを変

えようとしたのだ。

 

 それまで混沌とした戦国時代が続いていたが、二人ともそれを終わらせ、平和な日の下の国を

作りたかったのだ。

 

 それ故に、歴史を変える戦いをする事ができたのだ。

 

 結局のところ、徳川家康率いる東軍が勝ち、彼は江戸幕府を敷いて、日本の歴史を変えた。そ

の歴史の流れは確かに今の僕らにも続いている。それは社会という巨大な流れを生み出した。

 

 僕は徳川家康も石田光成もどちらも贔屓はしない。だが、二人とも歴史の巨大な流れを変える

事ができる存在であったのは確かだ。

 

 その巨大な流れに逆らい、しかも変える事ができてしまったのだ。

 

 そんな、歴史上の偉人ともとれる彼と、僕ら一般人を比較するのは、愚かとも取れるかもしれな

い。

 

 だが、関ヶ原駅周辺の大地を見ていると、僕はその地で火花を散らした、徳川家康か石田光成

のどちらかが、自分に憑依してくるかのような気分であった。

 

 彼らは、僕の体に移って来て、情けない、自分から人生を放棄し、何もする事ができず、自殺の

道さえ勝手に選んでいる僕を、蔑んだ目で見てくる。

 

 僕に憑依した彼らは、あっという間に僕の人生を変え、現在の世の中を変えようと奮闘し、実際

に実力者として、僕の根底から変えてしまう。

 

 逆に僕は過去にさかのぼり、突然、関ヶ原の大地に立たされてしまう。関ヶ原の戦いは、最高

指揮官を失ったも同然になり、兵士達の暴走により、歴史を変えるどころか、日本史上に残る大

きな汚点となってしまう。

 

 僕は突然そのような立場に立たされても、何もする事ができないのだ。

 

 関ヶ原駅からはかなり走ったと思う。列車はようやく次の駅に到着した。まるで山の中を縫うよう

に走り、今までの東海道線のどの路線風景とも変わっていた。

 

 次の駅が見えて来て、列車アナウンスが流れる。

 

「柏原〜、柏原〜」

 

 というアナウンスに、僕は突然、現実に引き戻されてしまった。関ヶ原の情景や、僕の中に生ま

れてきた意識は、突然消え失せ、目の前の駅のホームの光景に移る。

 

 僕は、関ヶ原の戦いの地から、現実の400年後の世界に引き戻されたのだ。

 

 利香さんは、まるで別の世界に行ってしまっていたかのような僕を、どう思っていただろうか。お

かしな人間ではないかと思われていないだろうか。

 

 だが、案の定、利香さんも僕と同じように、どこかの世界に行ってしまっていたようだった。

 

 彼女は焦点の定まっていないような目を運転席側へと向けている。そこには外の光景も何も無

い。ただ、列車の内装の木の壁があるだけだ。

 

「僕は…」

 

 唐突に、僕は利香さんにそのように話し出した。

 

「何?」

 

 彼女は僕の方は一切見ずに、答えてくる。

 

 列車は自動ドアを閉め、再び僕を知らない大地へと連れていく。列車の走行音と振動に揺られ

ながら、僕は話し始めた。

 

「僕は、嘘をついていた」

 

 という僕の言葉に、さすがに反応せざるを得なかったのか、利香さんは僕の方を向いてきた。

今度は僕の方が運転席側の壁を見つめる。

 

「嘘?」

 

 その利香さんの言葉を覆い隠すかのように僕は話し始める。

 

「ああ、嘘なんだ。僕は大学に通っているけれども、全然真面目な学生なんかじゃあないんだ。僕

は、大学2年生だけれども、2年生の内は、ちっとも大学に通っていやしない。単位だって危うい。

多分、留年するね」

 

「ああ、そうなの?」

 

 利香さんのその言葉には、何の感情も感じられなかった。僕を軽蔑でもしてしまったのか。

 

 僕はそれに耐えながら、言葉の先を続けた。

 

「実は、日本文化なんていうのも、興味ないんだ。日本の歴史と言えば、さっき通った関ヶ原駅か

ら、関ヶ原の戦いを連想しただけでさ。本当は、一番楽に入試を超えられる学科を選んだだけな

んだ」

 

 完全に自虐的な言葉の羅列だった。僕はちっぽけな人間だ。と、そう言っているだけに過ぎな

い。

 

 自分の言葉をそう思っていたせいか、利香さんの言ってきた言葉は意外なものだった。

 

「でも、高橋君は、大学に入学した。留年したって卒業はするでしょう?高校だって通っている。そ

れが何で、嘘なの?」

 

 彼女は不思議なものを見るかのような目で僕の方を向いてきていた。

 

 そんな目で見られると、とても目線を合わせる事なんてできない。

 

「い、いや…、だって、さっきは君は、僕の事を、真面目に勉強している学生であるかのように言

って来ただろう? 凄いって?」

 

 僕は正面の運転室に通じる扉を見つつそう言った。

 

「ええ、言ったわね。確かに。でもそれは、あくまで私の目から見て凄いっていうだけよ。私、大学

の事なんて何も知らないから、私の眼から見れば、高橋君は凄いって思うの。ただ、それだけの

事よ」

 

 利香さんはまるで当然のことを言うかのように、そう言ってくる。

 

 だが、僕は、

 

「いや、世間的に言えば、僕のように、真面目に勉強していない学生は、大学生なんかじゃない。

遊びに大学に行っているって、そう思われているだろうからさ」

 

 と、若干声を震わせながら答えていた。まるでそれは無数の蛇で見つめられている小動物であ

るかのような震え方だ。

 

「ああそう。確かにそうね。そう言う人もいるでしょうよ。でも、そんな言葉に騙されちゃだめよ。あ

なたは、大学生なんでしょ?」

 

「一応は…」

 

 僕はそう言った。相槌のような答え方だ。

 

「わたしはね、学校にも中学から通っていない。中学もろくに通っていないわ。もちろんアルバイト

なんていう仕事もしていない。ただのひきこもりで、自殺志願者。でも、あなたは自殺志願者だけ

ど大学生なの」

 

 利香さんはまるで戒めるかのように僕に言って来る。そんな事を言ってくる人なんて、初めて出

会った。僕の両親だってそんな事は言ってこない。

 

「知ってる? ひきこもりの世界って? 私はひきこもりと言っても、色々な世界があるけれども、

わたしの場合は中卒ニートって奴よ。自宅警備員なんて言って格好つけている連中もいるけれど

も、結局は何もしていないだけ。そう、本当に何もしていないのよ。せいぜい、パソコンを使って仲

間探しをして、自分がやっている事を、他にもやっている人がいるから安心。赤信号を皆で渡って

怖くないって言って、自分を慰めているだけなの。

 

 そんな世界にあなたは足を突っ込んでなんかいない。あなたは、大学生なんだから」

 

 利香さんの声色が変わっていた。彼女は僕に向かってその言葉を話していないかのようにも思

えた。

 

 彼女は、自分自身に向かって、その言葉を放っている。

 

 まるで、自分のしている事に対して、怒りさえも感じているかのようだった。

 

 僕の言ってしまった言葉が、彼女にそうした感情を思い起こさせてしまったのだろうか。僕には

分からない。彼女のいる世界は、あまりにも複雑すぎる。

 

 到底、僕等が手出しをする事など出来ない。

 

 列車は、この列車の終着駅である、米原駅に着いた。

説明
自殺志願者が残りの一日をどのように過ごすのか。
青春18きっぷを使い旅行をしながらも、彼らはどんな選択をしていくのでしょう?
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