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 僕達が神戸駅についたのは午後6時だった。

 

 米原駅から神戸駅までは、相当距離があるらしかったのだが、米原駅から突然現れた、新快

速列車の播州赤穂行きは、僕達を東海道線の線路に乗せ、一気に京都、大阪と言う駅を駆け抜

け、2時間足らずで神戸まで運んでしまった。

 

 僕は播州赤穂という駅がどこにあるかも、どんな駅か、どんな街かも知らなかった。そこで利香

さんの言う東海道線の終点である、神戸駅で列車を降りたのだ。

 

 夏の日は長いけれども、さすがに午後6時では日も傾き出しており、夕暮れ、一日の終わりを

感じさせた。

 

 神戸駅と言うのは、東京からずっと500km以上も続いてきた、東海道線の終点であるらしかっ

たけれども、その姿は終着駅とは程遠い、普通の駅とも取れた。東京にもよくあるような駅だ。確

かに駅の周りにはガラス張りの高層ビルなども建ち、確かに都市である事は分かる。ここは、僕

達の地元よりも遥かに離れた地、神戸なのだ。

 

 確かに僕は今日一日だけで、非常に長い距離を列車で移動してきたのだという事は、何よりも

はっきりとした実感として感じられていた。

 

 ここは、僕達のいた世界とは陸続きであり、また、日本国内である事にも変わりないのに、何故

か空気が全く違うものとして感じられた。

 

 世界中を見渡しても、僕らのいた世界と空気が全く違うような所もあるだろう。だが、よりにもよ

って、この神戸でその空気の違いを感じられてしまうとは。

 

 利香さんは、神戸駅のホームに立ち尽くし、ホームから見る事ができる神戸の街の方を向いて

口を開いた。

 

「あーあ…、よりにもよって、またここに来ちゃうとはな…」

 

 その利香さんの言葉には、どことなく後悔とも取れるものを感じる事ができた。

 

 僕達は、何も観光旅行や、青春18きっぷによる鉄道旅行の為にこの神戸の地までやって来た

のではない。

 

 僕らは、共に自殺するためにここまでやって来たのだ。一日中、列車に乗っていた僕らにとって

は、それを忘れてしまいそうだったが、やはり、自殺をする地を探すために、地元を飛び出したの

だと言う実感は、僕の心の中に確かにあった。

 

 利香さんはどうだろうか。彼女は、今まで何度も自殺未遂を繰り返してきたのだと言う。僕とは

何もかも感じ方が違うだろう。

 

 神戸駅には、どんどん乗客が溢れてきていた。日は大きく傾き出し、時刻は午後6時。黒いスー

ツを着たビジネスマンたちが、帰りの帰路につこうと、ホームに溢れだしてきているのだ。

 

 今朝、東京で乗った列車を思い起こさせるかのように、神戸駅を発着している列車にも乗客が

どんどん溢れかえって来ている。

 

 今、神戸発の列車に乗ったら、ラッシュに遭遇する事になってしまうだろう。ここは確かに僕らの

いた関東地方とは離れた場所であるが、関西地方であっても列車の混雑は変わらない。それも

神戸と言ったら大都市で、側には大阪や京都などの都市もある。列車が混雑しても不思議では

ない。

 

 僕らが列車のラッシュに耐えきる事ができないのならば、もしかしたら、僕らの旅はどこにも行く

事ができず、これで終わりなのではないのだろうか。

 

 今朝、高崎駅を出発するときに決めていた。僕らが青春18きっぷを使って旅をする目的は、あ

くまで死に場所を探すためであると。

 

 そして、今日、存分に列車の旅を続けてきた理由は、人生最後の日を疾走するためだと。

 

 では、この神戸が僕らの死に場所になってしまうのだろうか。

 

 確かに、今日一日、存分に列車の旅を続ける事ができたと思う。それは、僕が今までに経験し

た事がないほどのものだった。

 

 だが、本当にここで終わらせてしまうのだろうか。

 

「行こう…。駅を出よう…、ここにいると、何だか窮屈だし…」

 

 利香さんは小さな声でそう言って来た。彼女の言う通り、神戸駅のホームにはどんどん乗客が

やって来ていて、窮屈になってきてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 神戸駅のすぐ近くには、どうやら港があるらしい。

 

 そう言えば、神戸は港の都市として有名だったように思う。僕らが住んでいる高崎は内陸にある

群馬県だし、山は身近だったが、海に関してはあまり縁が無い。

 

 中学の社会見学で横浜に行った事はあったが、海を見たのは、それくらいの事しかなかったよ

うに思える。

 

 神戸駅の出口にあった、大きな神戸の街の案内板を見ながら、僕は海の方に行ってみようと利

香さんに言った。

 

 もし、この神戸の街を僕らの死に場所と決めてしまうのであったら、海も悪くない選択肢である

かもしれない。

 

 海に向かったベンチで人知れずに死ぬ。となると、僕らは密閉された空間で排ガス自殺をする

のではなく、おそらく睡眠薬自殺をする事になるのだろう。ちょうど、利香さんが、大量の睡眠薬を

持っている。密閉された狭い空間で、地獄のような苦しみを味わうくらいだったら、眠るようにゆっ

くりと死んでいく方が遥かに良い。

 

 排ガス自殺をして失敗した時のあの苦しみは、今朝の体験で実によく分かった。あんな事はもう

二度としたくない。

 

 僕は利香さんに、海の方に行ってみようと提案した。

 

「海…、海か…、それもいいんだけどね…、わたし、何だか疲れちゃってね…」

 

 利香さんは再び小さな声で僕にそう言ってくる。どうやら、その口調からしても相当に疲れてしま

ったようだ。

 

 なるほど、思い返してみれば、確かに僕らは疲れている。僕も、あたかもその疲れと言う感覚を

全て忘れてしまったかのようだったが、思い出してみれば、確かに疲れている。

 

 その疲れは、僕の全身の筋肉と言う筋肉に鉛を詰め込まれたかのような疲れで、確かなものと

して体の中にあった。

 

 全力で走った後に襲いかかってくるかのような、突発的な疲れとは違う。それはじわじわとやっ

てくる疲れだった。

 

「じゃあ、時間も時間だし…、レストランにでも入ろうよ…」

 

 と僕は誘ってみた。

 

「それって…、人生で最後の食事になるって事よ…」

 

 利香さんはまるで僕を戒めるかのように言ってくる。確かに僕達は今日で人生を終わらせると

決めているわけだから、今から食べようとしている夕食は、人生で最後の食事となってしまうのだ

ろう。

 

 僕らは神戸駅の周辺を歩き回ってみた。疲れてはいたが、どこかゆっくりと休める場所と言った

らレストランくらいしかない。

 

 だが、時刻は午後7時を回ろうとしていたし、レストランは会社帰りのビジネスマン達でいっぱい

だった。

 

 夕暮れとなって行く神戸の街の道路を、多くの車が走り去り、黒いスーツの人々が行きかう。こ

こも東京と変わらない、大都市だ。

 

「どこも…、一杯だね…」

 

 5、6軒のファミリーレストランは回っただろうか。どこも満席だった。どうやら僕らをゆっくりと休

ませてくれるような所は無いらしい。

 

 僕はそのレストラン達が、まるで、僕達の人生最後の食事とする事を拒んでいるかのようだっ

た。

 

 アメリカの死刑囚を描いた映画で見た事がある。死刑囚は死刑になる前の最後の食事を自分

でカードに前もって書いておき、それを実際に死刑の直前で食べる事ができるそうだ。

 

 死刑を受ける人物が、そこまで厳粛に食べ物を与えてくれるというのに、僕らは適当なレストラ

ンに入って食べようとしている。何か、間違えていないだろうか。

 

 かと言って、僕はこれから何を食べて死んでいけば良いのだろうか。

 

 そこまで考えが到達した時、僕は不思議な感覚に襲われた。

 

 道路を走行している車の音、都会の雑踏、自分自身の足音さえ、突然、全てが遠くに霞んで聞

こえるようになっていた。

 

 非常に不思議な感覚だった。それは、今日一日麻痺していた感覚だった。

 

 何故、僕は死にたいと考える? そもそも、何故、死ぬ必要があるのだ?

 

 僕は、利香さんのように何度も自殺未遂を繰り返しているわけではない。つい最近になって、突

然、その衝動に襲われただけに過ぎない。

 

 結局、社会の流れに身を任せるだけの人生であっても、生きていて損は無いはず。今日、青春

18きっぷを使って、この神戸まで来れた事のように、人生には新しい発見が幾つも待っているか

もしれない。

 

「ねえ、ちょっと、大丈夫…?」

 

 利香さんが僕にそう尋ねてきた。

 

 利香さんの言葉は、はっきりと僕に聞こえていた。だが、僕が口を開くのには少し時間がかかっ

てしまった。

 

「…、帰ろう…」

 

 その僕の言葉は、今の僕の素直な感情だった。何だか、僕がここにいる事が、あまりに場違い

な気がしてしまっていた。

 

 全てのレストランが閉ざされ、この神戸と言う街も、地球の裏側にいるかのような気分に僕をさ

せていた。

 

「そう…、じゃあ、帰ろう…」

 

 利香さんは僕にそのように言って来る。彼女は思っていたよりも簡単に、僕のその言葉を受け

入れてしまった。と、そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「今日中に、群馬の高崎まで帰りたいと…。新幹線を使えば帰れますが…、普通列車じゃあ、ち

ょっとねえ…」

 

 神戸駅に戻った僕らは、駅の窓口で、高崎駅で印を押された青春18きっぷを見せ、駅員に尋

ねた。

 

「ええ…、急いでいるわけじゃあないんですけど…、今日、泊まる所も決めていないので…」

 

 僕は自信の無い声で駅員にそう言った。普段、僕は目上の人と会話などしないから、目上の人

を前にすると、どうしても自信の無い声となってしまう。

 

「つまり、明日になってもいいから、泊まる所が欲しい、そういう事ですか…。ほうほう…、なら、良

いものがありますよ。ちょっと、辛いかもしれませんけどね…」

 

 そう言うなり、駅員は分厚い時刻表を取り出した。それはまるで辞書のようなもので、時刻表を

手にした事も無い僕にとってみれば、まるで専門家の持つ百科事典であるかのように見えた。

 

「大垣発、22時48分発東京行き、ムーンライトながら。これならば、明日の朝5時に東京に帰れ

ますよ。東京からなら、高崎はそれほど遠くないでしょう? 臨時列車ですけど、今はちょうど走っ

ている時期だ。青春18きっぷのシーズンですからね」

 

 22時、つまりは午後10時に出て、明日の朝5時に東京に着く? 一晩中走行する列車がある

という事だろうか?

 

 僕は想像の中で頭を巡らせてみた。

 

「もしかして、それは夜行列車とか言うやつじゃあありませんか? 寝台車とかが付いている…」

 

 それは、いつかのテレビで特集されていた、寝台特急という列車だった。それは僕にとっては未

知の世界のものだ。

 

 寝台特急ではベッドで眠っている間に目的地まで連れていってくれるが、確か前にテレビで見た

時は、廃止されるというニュースだった。だからそんなものはもう走っていないのだと、僕は勝手

に思っていた。

 

 駅員は話を続けた。

 

「夜行列車は夜行列車ですよ。夜に走るんですからね。でもね、これは夜行快速と言う奴で、ベッ

ドとかが付いている車両とは違うんです。普通の特急車両を使うんで、ごろりと横になって寝れな

いんですが、眠っている内に東京に着けますよ」

 

 夜行快速などというものを僕は知らなかった。そもそも夜行は夜行。青春18きっぷで乗れるの

か、不安だった。

 

「でも、それって結構高いんでしょう? 僕らはあまりお金を持っていません」

 

 すると駅員は、

 

「東京まででお一人様、510円です。安いでしょう? だから青春18きっぷを使う人は、これを使っ

て日をまたいで旅行したりするんですよ。青春18きっぷを持っていらっしゃるんだったら、新幹線

よりもこちらの方がお得ですよ」

 

 510円で乗る事ができる。それも、大垣から東京までと言ったら相当な距離だ。それを510円で

乗る事ができる列車など聞いた事も無かった。

 

 だが、実際に僕らは2,300円で高崎から神戸まで来ているし、まだ1日は終わっておらず、その

青春18きっぷは使う事が出来た。

 

 駅員が言うくらいならば、本当の事なのだろう。

 

「いつもは青春18きっぷのシーズンは満席になってしまうんですがね、どうやら、まだ席が空いて

いるようだ。お客さんはラッキーですよ。みどりの窓口に回ってくれれば、すぐに席をお取りします

よ」

 

 僕らはその駅員の言葉に従った。

 

 

 

 

 

 

 

 午後8時を過ぎる頃には、僕らは青春18きっぷに加え、ムーンライトながらという夜行快速のき

っぷも共に持ち、今まで走って来た東海道線のルートを逆戻りしていた。神戸から東京の方へ、

列車は神戸に来た時と同じようにかなりの速度で線路を走行していった。

 

 外の景色は暗闇に包まれていた。この神戸に来る時は、まだ外の景色を楽しむ事が出来たけ

れども、もうそのような時間は終わってしまっていた。

 

 一日がもうすぐ終わろうとしている。

 

 東海道線の車内がどうかと言えば、まだ混雑は続いていた。ラッシュと言うほどではないけれど

も、神戸を発車した新快速の米原行きはあっという間に関西地方の街を駆け抜けていく。

 

 僕は利香さんと共に列車に揺られながら、大阪駅を通り過ぎるころに、やっと座席に着く事が出

来た。

 

「また、失敗か…、ふふふ…、これでもう何度目かしらね…」

 

 そのように利香さんが一度呟いていた。

 

 だが、彼女には申し訳ないが、僕には、死の決断はやはり早すぎたのだ。とてもできやしない。

 

 あの群馬の山奥で死ねたら良かったなどとは、もう思う事ができない。逆にあれは僕にとって幸

運だった。あの時死んでいたら、自殺について考え直す事さえもできなかったのだ。

 

 東海道線は再び神戸から2時間足らずで、大阪、京都という大都市を駆け抜け、米原駅にまで

戻って来た。

 

 米原駅では上手い具合に、大垣行きの接続列車が出ていて、僕らはすぐにそれに乗る事が出

来た。

 

 そして、東京まで一気に僕らを返してくれると言う、ムーンライトながらの駅、大垣にまで戻る事

ができるようだった。

 

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 夜行快速という言葉を僕が初めて聞いた時、僕は、テレビで見た寝台特急。それも、ブルートレ

インと言う青い、寝台列車を想像してしまっていた。だから、ムーンライトながらという列車も、似

たような姿をしているのかと思った。

 

 だが、その想像は思い切り外れた。

 

 大垣駅にやって来た、ムーンライトながらを名乗る列車は、クリーム色のボディで窓の高さに赤

いストライプを巻いた、2、3世代は前の特急列車を思わせるような体をしていた。

 

 どことなく薄汚れてもいるし、車内の床も壁紙も黄ばんで見える。今日、僕らが乗って来た列車

達の中で、多分、一番古いんじゃあないかと思った。

 

「意外と拍子抜けね。ムーンライトなんて、豪勢な名前が付いているから、どんなのが来るのかと

思っちゃった」

 

 利香さんがそのように言っていた。確かに、彼女の言う通りだと思う。

 

 だが、この列車が僕らを東京まで帰してくれるのだ。それも510円で。新幹線よりも時間こそか

かるが、僕らが乗って来た東海道線の線路を乗り換えなしで、そのまま返してくれるのだろう。

 

 510円と言う値段を考えれば、この古めかしい特急列車でも仕方が無いと思った。

 

 古めかしいとはいえ、大垣駅ではこのムーンライトながらの車両を、わざわざ大きなカメラを構

えて撮影している人達が結構いた。どうやら鉄道マニアと言う人々であるらしい。

 

 写真に収めるほど、この列車は貴重なのだろうか。

 

 どうやら世の中には僕がまだ知らない世界が幾らでも広がっているようだ。

 

 まだ、生きている価値はある。

 

 ムーンライトながらの車内に乗り込んでみたが、その車内は、特急列車の車内そのものだっ

た。車体自体は古いが、シートは何度も張り替えられているらしく、座るのを嫌悪するほど汚れて

はいない。例え一泊510円であっても、それぐらいのサービスはしてくれているらしい。

 

 僕らは、神戸駅で発行してもらった、ムーンライトながらの特急券を確認し、自分達の席につい

た。

 

 利香さんは、先ほどから、またも押し黙ったままだ。何を考えているのかも分からない。

 

 僕は話しかけるのさえ抵抗があった。利香さんは窓際の席に座り、僕は通路側の席に座る。ム

ーンライトながらの車内はかなり混んできており、ほぼ満席状態のようだった。神戸駅の駅員は、

僕らの席が残っていた事をラッキーだと言ったが、それは確かにそうかもしれない。満席に近い

状態なのに、よく席が残っていたものだ。

 

 席に座ると、僕は携帯電話を開いた。親が一晩と一日中帰って来ない僕に、心配して電話をか

けてきているのではないかと思ったからだ。

 

 だが、電話はどこからもかかって来ていなかった。メールさえもない。僕にはメールをする友人

もいない。

 

「親御さんが、心配してきていない?」

 

 僕は利香さんにそう尋ねてみた。彼女も僕と同じ、一晩と一日中家に帰っておらず、しかも今は

地元から遠く離れた地にいるのだ。

 

「そんな親じゃないわ」

 

 利香さんはそのように僕に向かって一言言い放ってきた。彼女は窓の方を向き、大垣駅のホー

ムを見つめている。

 

「あ、ああ…、そう…」

 

 僕はそれ以上利香さんに何も聞く気にはなれなかった。携帯電話の蓋を閉じ、シートに見を埋

めると、ムーンライトながらは大垣駅を発車した。

 

 これから、東京駅まで、5時間以上かけてこの列車は運行するらしい。こんな列車に乗るのは

初めてだった。できれば、横になって眠りたい。寝台車の方が良かったと思う僕だったが、510円

ではそれも適わないようだ。

 

 まあ、今感じている僕の疲れ具合ならば、このシートでもぐっすりと眠ってしまうだろう。列車の

揺れに合わせて、僕の眠気もやって来た。

 

 

 

 

 

 大学を退学するような事になっても、毎シーズン、一日2,300円、五日で11,500円をかけて、今日

のような鉄道の旅をしても良いかもしれない。

 

 僕は全くと言って良いほど鉄道の事を知らなかったが、それが、逆に好奇心をそそる。

 

 僕らが今日、乗って来た長い道のりも、日本の鉄道のごく一部でしか無い。日本には更に鉄道

の網の目が広がっている。

 

 真っ白な地図に、僕のたどった鉄道路線のラインを、カラーペンで彩っていく。だんだんとそれ

は網の形を成し、幾何学的な模様さえも形成していく。

 

 そんな光景を想像してみた。少なくとも、興味を無くしてきている大学の勉強よりは面白そうだっ

た。

 

 僕はいつしか眠りについていた。今日一日の疲れがどっと押し寄せてきたせいか、寝つきはあ

っという間だった。

 

 僕が利香さんのぐったりした体に気づいたのは、東京駅に着いた時だった。

 

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「ご乗車ありがとうございました。東京です。お忘れ物のないよう…」

 

 頭上から聞こえてくる、車内のアナウンスが、あまりに場違いなもののように聞こえてきた。まだ

眠い目をこすりながら、荷物棚から荷物を降ろしている乗客たちも、まるで全て別の世界にいる

かのように感じられた。

 

 僕は、座席に座ったまま呆然としてしまった。凍りついたという表現が正しいかもしれない。

 

 だらりと下がった利香さんの腕からは血の気が失せており、窓の方を向いた顔をこちらに向け

てくる事も無い。

 

 彼女の足元に置かれているバッグの中が覗けて見える。そこには空の瓶が入っていた。本当

に空になっている。かなり大きな瓶。百錠以上は睡眠薬が入っていたはずだ。それが、本当に空

になってしまっている。

 

 まさか全て飲み干してしまったのか。

 

 僕は睡眠薬など飲んだ事もなかったけれども、こんなに大量の睡眠薬を、僕が眠っている間に

呑んでしまうなどとは、とても信じられなかった。そしてその結果は、僕にも簡単に予想がついてし

まった。

 

 試しに、利香さんの腕を揺さぶってみた。何も反応は無い。しかも腕が冷たくなっている。

 

 腕は人形のように何の抵抗も無く動いてしまっていた。シートの上に乗せられた状態になってい

る、利香さんの頭が動き、僕の方に向いてきてしまった。その顔は蒼白で、とても昨日、共に会話

をしていた人物とは思えないほどの姿となってしまっていた。

 

 僕はその現実を認めたくは無かった。周りで次々と乗客たちが降りていく中で、僕は、目の前の

状況に対してどうする事もできなかった。

 

 自分の息が荒くなり、心臓の鼓動が激しくなっているのが感じられる。どうしたら良いのか、僕に

はさっぱりと分からなかった。

 

 これが、自殺というものなのだ。利香さんは、ここにはいない。この体は抜けがらでしか無く、彼

女は、いってしまったのだ。

 

 そう僕がようやく分かった時、思わず、僕はその場から逃げ出してしまっていた。

 

 僕の手には、自分の鞄と、青春18きっぷが握られていた。

 

 ムーンライトながらの車両から飛び出した僕は、東京駅のホームに飛び出した。だが、そのホ

ームに出て、ようやく関東地方まで戻って来た。という解放感も何も無かった。

 

 僕は、更に奥深い深淵に呑み込まれてしまったかのようだった。その深淵は、今まで僕が知る

ことの無かった、人間の闇の部分だった。

 

 死というものを目の当たりにした僕にとっては、その深淵は、圧倒的なまでに深く、そして僕の

心臓を掴んでいた。

 

 乗って来た車両の方を向いて見た。僕らの座っていた席が見える。利香さんはぐったりしてい

る。いや、それはもう、利香さんと言う存在が抜けていってしまった、抜けがらでしかない。

 

 車掌だろうか。いつまでたっても座席から動こうとしない、利香さんを起こそうとしているようだ。

だが、その車掌も僕と同じように気が付いたらしい。

 

 車掌がこちらを振り向いてきた。列車の窓越しに、僕と目線が合う。

 

 車掌は、窓越しに僕をどう見たのだろうか。彼は僕を凝視してくる。その視線は確かに僕を捕ら

えていた。

 

 僕はその場に凍りつきそうになった。電車の中では利香さんが死んでいる。そして、電車の外

にいる僕は、明らかに怪しい素振りを見せている。

 

 車掌が僕を見てくる目は、疑いの眼差しだった。

 

 彼女は自殺を図ったのだ。僕が何かをしたわけじゃあない。そう叫びそうな気持ちに襲われた

が、僕はそれよりも先にその場から駆けだしていた。

 

 一目散に、何者よりも早く、どこまでも遠い所へ。

 

 車掌の視線から逃れたかっただけじゃあない。僕は、突然襲われた現実から、何もかも投げ出

して逃げたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 闇雲に列車に乗った。

 

 いつ、どんな列車に乗ったかも僕には理解できていない。ただ、目についた列車に片っぱしか

ら乗っていた。

 

 一度も途中下車をする事無く終点まで行き、さらに次の電車に乗り込んだ。線路はどこまでも

迷路のように続いており、僕はそれを無理矢理に、意味もない図形のように次々と辿っていっ

た。

 

 そこで起きた事、そして見た事は、僕の中に入り込んできてはいたけれども、意味を成さない出

来事として、記憶の中には残らなかった。

 

 次々と織りなす列車の流れに、僕はいつの間にか連れ去られていた。

 

 現実とは遠く離れてしまった。僕がいる世界は、列車だけが線路の上を走っている、それだけ

の世界で、その他のものの全てが意味をなくした。

 

 迷路はどこまででも続いていた。僕は、列車の流れが途切れるまでそれを辿って行く。

 

 どこか、知らない駅で列車が途切れた。夜が来たのだ。

 

 僕はその駅の近くで野宿をし、また朝の始発の列車に飛び乗った。

 

 何故、僕が東京駅を飛び出し、無茶苦茶に列車に乗り出し、自分でも分からない場所に向かい

出したのか、自分でも良く分からなかった。

 

 多分、僕は全てから逃げ出したかったのだ。

 

 それは利香さんが僕の眠っている間に、自分だけ命を断ったという現実であり、あの時の車掌

の視線であり、更には僕の持っていた全ての現実だ。

 

 自分が大学生であるとか、周りにどう思われているとか、そのような事は僕にはよもや、どうで

も良くなっていた。

 

 全てが、ホームをあっという間に通り過ぎる通過列車のように感じられた。それが来たと言う事

は認識できるが、気が付いた時には全てが過ぎ去っている。

 

 僕は、どこかの駅に立っていた。東京駅を飛び出して、2日目の朝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 感じる空気がすがすがしい。夏だと言うのに涼しい空気が流れていた。多分、かなり北の大地

にまでやって来てしまっていたのだ。

 

 僕自身、どのような経路をたどって来たか、まるで覚えていない。全てが夢のようで、気が付い

たらこの地に立っていたのだ。

 

 僕は、はっと気が付いたかのように辺りを見回した。自分が今いる状況を思い起こそうとする。

そうだ。僕は、青春18きっぷの旅をそのまま続け、とにかく迷路にわざと迷い込んだかのように

この地までやって来てしまったのだ。

 

 そこは、僕の全く知らない大地だった。

 

 しかも、辺境の大地らしく、僕が降り立った駅から見えるものといったら、ぽつんと広々とした大

地に立つ駅舎だけだった。遠くの方に山が見える。見通しは良い。

 

 晴れていて、夏だと言うのにすがすがしい空気が流れている。ぞかし、気持ちの良い所なのだ

ろう。

 

 だが、僕の気分は全く晴れなかった。青々と広がる空も、まるで僕を吸い尽くしてしまうかのよう

にそこにある。

 

 僕は、迷路を辿り、とうとうそのどん詰まりの深淵にやって来てしまったのだ。

 

 列車が駅に止まっている。古めかしい感じの列車で、いかにも田舎を走りそうな列車が、この駅

相応の姿で、ぽつんと停車している。その列車から聞こえるエンジン音だけが、異様に無機質な

音を放ちながら辺りに響いていた。

 

 僕以外にはこの駅には誰もいなかった。線路も駅の先には伸びておらず、駅のすぐ先で切れて

いた。

 

 不思議な事に、その線路の上に一羽のカラスがいて、線路の一本の上をまるで木の上を歩くか

のようにして、こちらに迫ってくる。

 

 そのカラスは何も恐れないかのように、線路の上を辿り、僕の方へと近づいてきた。僕は黙って

そのカラスを見つめた。

 

 真っ黒な毛並みと、真っ黒な瞳。そのカラスは首を小刻みにかしげながら僕の方を見つめて来

ていた。

 

 僕とカラスの目線が合ってしまった。カラスに目線を合わせられ、鳴かれるととても不吉なのだ

と言うが、彼は鳴かなかった。

 

 逆に、その漆黒の瞳で僕を見てくる。

 

 まるでカラスの言っている言葉が、僕の頭の中に直接響いて来るかのようだった。

 

(何故、お前はここにいる?)

 

 カラスが僕にそう言って来た。僕は、カラスの方に向かって、まるで彼がして来ている事と同じよ

うに、頭の中で彼と会話した。

 

(分からない)

 

 僕はそう答えた。するとカラスは線路の上で一歩足を進め、僕の方へと寄って来る。

 

(この先には、何も無いぞ。あるには闇だけだ。そこに入ったらもう二度と引き返す事はできな

い。今なら帰る事ができる。あの列車に乗ってな)

 

 カラスの乗っている線路の向こう側には、終点からの折り返し列車が発車を待っていた。

 

 だが、カラスの向こう側の線路は、途中で突然途絶えており、その向こうはと言えば、ただ平野

が広がっている。

 

 闇と言うカラスの表現もおかしい。だが、そのだだっ広い平野の中に入り込んでしまえば、砂漠

の中で迷うように、二度と戻って来れないかもしれない。

 

(帰りたくないんだ。でも、この先にも行きたくない)

 

 僕はそうカラスに言った。

 

(待ってやる。幾らでも待っていてやる。1日でも2日でも、お前がいたいだけここにいればいい。

だが、あの列車を逃すと、次に来るのは3時間後だ。その次は2時間後。その次は明日になる。

決断は早い方がいいな)

 

 それはカラスからの忠告だった。

 

 もし、僕があの折り返し列車に乗る事ができないと、もう、僕の地元の群馬には帰れないかもし

れない。

 

 帰れない。それは、僕にとっては巨大な響きを持つ言葉だった。帰る所をなくしてしまった人間

はどうなる。心のよりどころも、安息の場も、寝る所や食べる所さえ失い、人間らしい生活ができ

なくなる。

 

 それはすなわち死も同様だった。カラスは、僕の現実世界と、死の世界との境界線におり、ここ

はその境界の駅だった。

 

 僕は東京からわずか2日で、そんな世界にまでやって来てしまっていた。

 

 どうしたら良いのか分からない。ここで、ホームに止まっている列車に乗れば、元の世界に戻る

事ができる。しかしそれは僕にとって、再び無益な日常を送る事を意味している。

 

 利香さんが目の前で死んでいた。そして、僕は車掌にその顔を見られている。

 

 もしや、無理矢理利香さんに睡眠薬を飲ませた犯人として、捜索されているかもしれない。

 

 それはこの2日間、心の中でも思いたくなかった事実だった。だが、現実では僕は殺人犯にな

っているかもしれない。

 

 カラスの先を越えて行ってしまっても良いかもしれない。そうすれば、全てから解放されるのだ。

ちょうど、利香さんがしたように。

 

 僕はホームで立ち上がり、カラスのいる方へと一歩足を踏み出そうとした。しかしその時、突

然、僕のズボンのポケットで、携帯電話のバイブレーションが震えた。

 

 こんな時に電話をかけてくるとは。もしやメールかもしれない。よもや親からの電話かメールだ

ろうか。はっきり言って迷惑だ。こんなときに親と話したくない。

 

 と思ったが、携帯電話の画面に表示されていたのは、僕の知らない番号だった。しかし03から

始まるナンバーで、それが東京からの電話であると言う事が分かる。

 

 東京03からの電話はとかく迷惑電話が多い。勧誘やら何やらだ。こんな時にそんな電話をか

けてくる人間がいる事自体、怒りを覚えた。放っておこうとも思った。だが、バイブレーションはず

っとやまない。

 

 僕は03で始まる番号を直視し続けた。そして、意を決してその番号に出た。

 

「もしもし…」

 

 恐る恐る話す僕。そんな僕を、変わらずカラスは見続けて来ている。

 

「あ…、やっと出た。高橋君だ…」

 

 その声に、僕は思わずどきりとした。まさかとは思った。電話のせいで声質が変わって別人から

の電話かとも疑うが、それは利香さんの声だった。

 

「ど、どうして、君は?」

 

 よもや、死の世界からの電話なのではないか。いよいよ僕にも死が近づいてきたな、そう思って

しまう。

 

 僕が狼狽した声を出したのを知ってか、利香さんは少し笑っていた。

 

「まさか、わたしが本当に死んだとでも思っているの? 確かに、お医者様の話では、結構危なか

ったみたいだけれどもね。残念な事に、息を吹き返しちゃったみたいだわ…。それで今は病院か

ら、あなたに電話をかけていると言うわけ」

 

 利香さんの言葉がすぐに信じられない僕ではあったが、彼女の言って来た言葉を、しっかりと耳

から、頭へと言い聞かせ、彼女に新たな質問をした。

 

「でも、番号は?」

 

 すると、利香さんは再び笑ったような声を出し、僕に言って来た。

 

「あら、忘れちゃった? あなた、旅を始める前に、携帯電話の番号を交換したでしょ? はぐれ

ちゃったりしないようにと」

 

 そう言えばそうだった。僕は利香さんと携帯電話の電話番号の交換をしていた。それは僕らが

旅の出発をする高崎駅で行った事であり、それはわずか4日前の出来事であったけれども、僕に

とっては何カ月も前であるかのような気がしていた。

 

「そ、そうだった…」

 

 そんな僕の言葉を遮るかのように利香さんは言ってくる。今度の言葉は、若干立腹しているか

のような印象があった。

 

「ともかく、わたしは無事よ。高橋君、すぐに逃げちゃったんだって? わたしがきちんと自分で自

殺しようとしたんだって説明するの、大変だったのよ。警察の人まで来ちゃって」

 

「ごめん。でも、君が無事で良かった」

 

 ようやく僕の中でも、利香さんが生きていると言う事が実感として湧いて来たのだろう。僕は本

心を言葉として表す事が出来た。

 

「あなた今、どこ?」

 

 利香さんは僕の事を尋ね出した。

 

「どこか。名も知らぬ駅だよ」

 

 そう答える僕の顔には、何日かぶりかの、久しく忘れていた赤らみが浮かんでいた。

 

「そう、思わず逃げちゃったんだ。地の果てまで逃げて、すっきりした?」

 

 と、利香さんは言ってくる。まさに僕がしたのは彼女の言う通りの事だ。

 

「そんなところ」

 

 僕がそう答えるなり、利香さんは話を切りだしてくる。今までの会話よりも若干長い間があり、彼

女が切り出してくるのは、僕らにとって大切な事なのだろうと予感させた。

 

「電話したのは、大切な事を言おうとしたから。はっきり言うわよ。

 

 思うに、わたし達は、もう会わない方がいいと思うの。一緒にいると自殺したい気分になっちゃう

から、とかそういう意味じゃあないのよ。それは、あなたの為だから。わたしが自殺しようとする事

で、あなたにまた迷惑をかけたくないの」

 

 彼女の言葉が何を意味しているのか、今度ははっきりと僕にも理解できた。

 

「元気な君の姿を、もう一度くらいは見てみたい」

 

 僕はそう言った。それは僕の本心だった。

 

「分からない? また会うと、自殺しようとか言い出して、またしても失敗をして、悪循環の繰り返し

よ。ここ、までにしておきましょう。しっかりと線を引くの。あなたとわたしは、もう二度と会わない。

一緒に自殺をしようなんて言わない。

 

 あなたがどう答えようと、私はもうあなたに会わないつもりだわ。これは、あなたの事を嫌いにな

ってしまったという意味ではないのよ、高橋君。あなたのためなの」

 

 利香さんの言葉の一言一言が、僕の心の中に刻み込まれた。その言葉は非常に深々と僕の

中に刻み込まれる。

 

「そう…。残念だ…」

 

 利香さんの言葉を否定するわけにもいかなかった。彼女は今こそ、電話に出て僕と会話する事

ができているとはいえ、死にかけた人間なのだ。

 

 そんな彼女は、僕の手の届かない場所にいるような気がした。彼女は、僕と違って、線路の先

に行きかけた人間なのだ。

 

 ちらりと、カラスが僕の方を向いてきた。彼は僕の方を黙って見て、会話も聞いている。

 

「ともかく、わたしが生きている事を伝えて、話はこれでおしまいよ。次に会うとしたら…」

 

 利香さんが、現実と空想の狭間にいるかのような僕を、現実に引き戻すような声で言って来る。

僕は再びカラスから電話に集中した。

 

「次に会うとしたら?」

 

「それは、あの世ね。天国でも地獄でもいい、その時に会いましょう」

 

 利香さんの言葉は、馬鹿馬鹿しいようで、今の僕達には確かな説得力があった。僕は彼女の

言葉をしっかりと頭の中に刻み込む。

 

「あ、ああ…、その時に…」

 

 と、僕は答えた。

 

 電話はすぐに切れてしまうのだろうと思っていた。だが、1分ほど待っていても、電話の通話は

続いた。奇妙な間があった。

 

「もう、電話を切るわよ」

 

 利香さんのその言葉を僕は耳にした。

 

「あ、ああ…」

 

 何とも情けないような僕の最後の言葉だった。利香さんはどう思ったのだろうか、彼女は電話を

切った。

 

 一定のリズムで電話から通話終了の音が流れてくる。僕は携帯電話の通話終了という表示を

眺めながら、駅のホームにしゃがみこんでいた。

 

 電話の表示も、その先にあるホームの路面、そして線路や枕木からも僕の目の焦点は外れ、

何かを探そうとしていた。それは今の僕には分からない何かだった。

 

「お客さん」

 

 突然、背後から投げかけられた言葉に、僕は振り向いた。いかにも挙動不審な姿で見られてい

た事だろう。

 

「はい?」

 

 僕が振り向いた先には、列車の車掌らしき人物が立っていた。

 

「列車に乗るんですか? 乗らないんですか? あの折り返し列車に乗らないとね、次の列車まで

は3時間もあります。ここは何も無い駅ですからね、3時間もいたら退屈で仕方がありませんよ」

 

 彼の言葉は、利香さんの言葉に比べて乱暴なもののように聞こえた。だが、彼は親切心から僕

に声をかけてくれたのだろう。

 

 僕が列車に乗ろうが乗らまいが、それは僕の勝手なことで、彼らは列車を走らせてしまえばい

い。声をかけてくれたのは親切心だ。

 

 僕は、その場から立ち上がった。

 

「はい、乗ります」

 

「それじゃあ、もう出発ですよ」

 

 車掌はそう言い、僕よりも足早に列車の方に戻っていった。ぽつんと停車している折り返し列車

は、アイドリングを続けて今にも発車しそうだ。

 

 僕は列車に向かう前に、ちらりと、さっきまで僕を見つめていたカラスの方に目を向けた。

 

 すると途端にカラスは線路から翼を広げ飛び去って行ってしまう。彼が向かったのは、線路の

終点の先の、延々続く平野の方だ。

 

 その時、カラスが発していたのは、何の変哲もない、夕暮れに聞くようなカラスの鳴き声だった。

 

 彼の後姿を見ながら、僕はそっと呟いた。

 

「帰ろう…」

 

 その言葉だけを残し、僕はその駅から折り返し列車に乗り込んだ。

 

 

説明
自殺志願者が残りの一日をどのように過ごすのか。
その一日も終わりに近づき、彼らはどのような選択をするのでしょうか?
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