Loss of memory One day
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 ――暖かな日の降り注ぐこんな穏やかな昼間でも、僕は黙々と荷物を運び続ける。コンクリートで囲まれた塀の中をぐるぐると回る。どこへ行っても景色は変わらず、くすんだ灰色しか見えない。はたして、こんな日があっていいのだろうか。……別にいいのだろう。人生なんてそんなものだ、と誰もが言っている。施設内唯一の緑も枯れそうになっている。誰も水をやらないからだ。記憶喪失とは厄介なもので、記憶喪失であること自体をも忘れてしまう。本当に厄介なものだ。

 

 ――私の部屋はたいして広くない。と言っても、一人の人が暮らすのには充分なスペースがある。窓にかかるカーテンが揺れ、ベッドに影を作る。ベッドの前には日めくりカレンダーがかかっている。今日が何年であって、何月何日、そして何曜日であるかを知るのために必要なものだ。この日めくりカレンダーは、寝る前に私がめくっておかなければいけない。でないと、起きた時目にするのは昨日の日付だからだ。そして枕元には、なぜここにいるのかを知るために、自筆のメモを置いてある。私が書いたことの分かるように、癖をはっきりつけておいた。隣には自分で描いた絵も添えてあるが、私はそこまで疑り深い人間ではないから、もしかして私の知らないうちに書かせたのではないだろうか、などの無駄な詮索はしないはずだ。夢から覚めたらもう現実しかない。また夢へ戻るには眠るしかないのだから、起きている以上、私はこれを受け止めるしかない。それが私だ、そう信じている。

 

 昨日、私が食事を取っていると、ある男性がやってきた。彼は私の座る席から二席空けて座った。私から離れることもなければ近づくこともない。これがまた恋患ったように寂しい。彼はそんな私を気にすることなく、どんどん皿を空けていった。彼を見習い、私も食べ進める。ふと気になって見ると彼はいない。一度話してみたいと思うのは、今だからだろうか。前にもあったことがあるような……そんな気が起こるのは毎度のことだ。

 昨日、施設の庭にも雪が積もった。私は雪が好きだ。とはいっても、幼少のころにお祖父さんと遊んだきりで、それ以来雪と言うものを見ていない。いや、どうも記憶があいまいだから、これと言った思い出話も出来ないのだが……雪を見ると何だか晴れやかな気分になる。たとえ、くもり空だとしても。

 食事をしていると、ある男性が入って来た。小柄でもなく大柄でもない。細くもなければ太くもない。特徴と言えば、碧色に光る目。右手には同じ色を持ったリングが二つしてある。それと、食堂には不似合いな、小さめのスケッチブックを片手に歩いている。窓の外は雪で覆われていてとてもきれいだ。それをスケッチブックに収めようというのならば、それは興味がわいてくる。私はさっさとパンを口に入れ、水で飲み干すと、彼のもとへと歩み寄った。

「雪が降っていますね」

 彼に話しかける。

「今日は一段ときれいですね」

 彼は答えた。見た目と違わぬ好青年である。

「いつも描いているのですか?」

「ええ」

 そう答えた彼は、手慣れた様子で風景をか描き込んでいく。窓には、後ろからスケッチブックを覗きこむ私と、窓の外をまじまじと見つめる彼の姿が映っていた。

「まだこれしか見ていないが、私は君の描く絵がとても好きだ。そうだ、この鉛筆は絵を描くにちょうどいいだろうから、よかったら使っていただけないだろうか」

 そう言ってポケットから出した鉛筆を彼に手渡した。彼は、にこっと笑みを浮かべると、私の目を見て、ありがとう、とだけ言った。私の心は雪の時以上に晴れ渡った。

 

 明日になって、私は目をさました。起き上がるとまず見えるのはカレンダーの数字。しかし、このカレンダーの日付は間違っている。一体誰がかけたのだろうか。それより、今日引っ越してくる予定だったはずが、なぜだかもう全て終えている。誰かが寝ている間にやってくれたのだろうか。

 ベッドから立ち上がる。何かにひかれたかのよう、枕元へと目をやるとそこには一枚のメモが置いてあった。ずいぶんと汚れているが、私の字に間違いない。まるで何年もの間その場所にいたかのようだ。

 ――私は事故に遭い、記憶喪失になってしまいました。と始まるメモを読み進めると、いくつものなぜが解消された。すると、あの日付は間違っていなかったのである。私の昨日と言うのはもっと前の日であったからおかしいと思ったのだ。昨日の明日が今日だなんて、誰もが知っていることである。

 

 昼になり、私は近くの食堂へ出て昼食をとることにした。私は悩まない主義だ。注文を済ませ料理が来るのを待っていると、ある男性が入店してきた。体つきは中肉中背と言ったところで、右手には碧色のリングを二つはめている。よく見てみると、彼の目も碧色に光っていた。彼は店内で一番大きな窓の前で止まり、すぐそばにあるソファに腰かける。食事をしに来たわけではないようだ。店主も気にせず、鍋を見つめている。バッグの中からスケッチブックを取りだすところを見ると、彼は絵描きか何かであろうと見当がつく。膝の上にスケッチブックを立て、じっと窓の外を見ている。左手には、削りすぎた短い鉛筆を握っていた。

「絵を描いているのですか?」

 彼に話しかける。真昼だと言うのに、店内に客は二人きりであったから、その声の主が私であるということに気付くのはそう時間を要さない。彼は私の存在を確かめるかのように振り向き、はい、とだけ答えた。

「いつも描いているのですか?」

 続けて問いを投げかける。

「ええ」

 窓には、スケッチブックに色を塗る彼が映っていた。

「……なぜ絵を描こうと思ったのですか?」

 それは、絵がうまいからであろう。私は彼の作品が好きだ。そこにある風景をそのまま写すのではなく、彼なりのアレンジと言うのだろうか……。

「前に、僕の絵を好きだと言ってくれた人がいたのです」

 彼は雪解けの庭をスケッチブックに描きながら、私に言った。

「その鉛筆では描きづらいだろう。私のでよければ使っていただけないだろうか」

 ポケットから鉛筆を取り出し、彼に差し出す。彼は微笑み、ありがとう、と言った。

 

 

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明日になれば、あなたは私のことを忘れるだろう
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