「六ノ二」第6章の4 (最終回)
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   4

 

 医師は笑みを浮かべていた。

 少し不器用な笑い。

 その笑みが無理矢理作られた産物であることを如実に表していた。

 

「西家さん、何言ってるんですか? 早く腕を出して」

 

 そうしておもむろに手を伸ばし、西家の手首を掴む。

 何気なく出されたように見えた手は、重厚な圧力をもって西家を押さえつけた。

 

「やめっ! この!」

 

 危険を感じた西家は体を大きく揺さぶるように抵抗する。

 剋田医師は少しのけぞっただけで、その抵抗を予想していたかのように慌てずに横にいた看護師に指示を出す。

 

「北出田君。抑えて!」

 

「はい!」

 

 剋田医師の言葉に、看護師の北出田は元気な返事を返して、意気揚々と西家に押さえにかかる。

 

 じわりとにじみ寄る北出田はその大柄な身長も相まって、生々しい威圧感を発し、

 その気配だけで西家は体を縛られたような重圧を感じた。

 そして北出田看護師の手が伸びる。

 

 これに捕まったら終わりだ。西家の心に警鐘が鳴り響く。

 西家は空いている手で懸命に払いのけた。

 

 だが人を抑えつけるの慣れているのか、看護師は西家の抵抗に余裕の笑みを浮かべていた。

 その看護師の表情といったら、まるで能面の様。

 硬い木で出来た作り物の笑顔が、歪んで乾いた笑いをこぼしているように見えた。

 

「うあぁあぁぁ」

 

 西家は堪らず恐怖の声を上げていた。

 

 何だこの二人は! どうしてこんなこと!

 西家の声にならない声が心中駆け巡る。

 

「西家さん!」

 

 剋田医師の怒鳴り声。

 その声は西家の意思全てを否定するような威勢があった。

 声という不可視の力で西家の体は動きを止めてしまう。

 

「さ、打ちますよ。じっとしていてください」

 

「痛くないですからね」

 

 西家を抑える二人の優しい口調が白々しかった。

 まるで演劇の小道具のように太く鋭い注射器の針が、西家の腕に迫る。

 それなのに西家は動けないでいた。

 どうして殺されないといけないのか? どうして医者が殺しにくるのか?

 西家には今の状況が理解出来なかった。

 

 何か殺すような罪を犯したっていうのか! そう心で叫び、西家は気付かされる。

 死すべき罪というのなら、友人を殺した西家はそれを背負っているではないか。

 

「はははは」

 

 西家の口から軽薄な笑いが漏れていた。

 その様子に、今まさに打たれようとしていた注射器の針が止まる。

 そして剋田医師は西家を観察するかのような視線を送った。

 

 殺したから殺されるんだ。

 自分は死んで当然の人間なんだ。

 そう悟ったとき、西家の背中に戦慄の震えが駆け巡る。

 

 死。そんなもの、浦谷に襲われたときに覚悟した。

 そのはずなのに拾ってしまった命。

 浦谷を殺すことで拾った命をまた捨てるのか。

 

 その瞬間。西家の体を襲っていた金縛りのような呪縛は解け、弾けるように動いていた。

 

 西家の顔に視線を向けていた剋田医師の顔が弾け飛ぶ。

 西家の無意識の蹴り。体が勝手に動いていた。

 まるでボレーシュート。ボールをゴールに叩き込むかの如く放った蹴りは、まともに剋田の側頭部を捉えていた。

 

「先生ぃ!」

 

 目の前で医師が蹴り倒され、北出田が声を上げる。

 その瞬間、西家を北出田が抑えていた圧力が嘘のように軽くなった。

 

 その隙を西家は見逃さなかった。

 返す足で北出田の腹を蹴り上げると、ベッドから転がるように下り、病室を飛び出した。

 

 消灯の時間を過ぎたとはいえ、廊下はまだ所々に明かりが残されていた。

 そんな光と闇を混ぜ合わせたマーブルの空間を西家は走り抜ける。

 

 背後からは当然の如く北出田が追いかけてくる。

 腹を蹴られた北出田看護師は烈火のように怒り狂っていた。

 

「待たんかい!」

 

 病棟の廊下に怒声が響く。

 普段の看護師としての営業用の優しい口調ではなかった。

 本性を現し、汚い言葉で西家を追い立てる。

 

 薬品の匂いが漂い、白いリノリウム張りで整えられた院内。

 そんな清閑な場所を逃げ惑わなくてはいけない自分の境遇を、西家は不思議に思う。

 まるで他人事のように、そうなったのは自身の所為で自業自得、と走りながら酸欠の頭で考えていた。

 ある意味冷静に、そして一方では混乱して。

 西家は逃げるという目的達成よりも、ここで足を止めたらどうなるのだろう、そんなことばかり考えるようになっていた。

 

 西家の視界にエレベータが飛び込んでくる。

 とにかくこの病院から脱出する。その思いが西家の足をエレベータホールへと誘い込む。

 

 飛びつくようにエレベータを呼ぶボタンを押した。

 しかし、そう都合良くエレベータは来ない。

 

 振り返るまでもなく、もうすぐ北出田看護師に追いつかれる。

 西家は慌てて辺りを見回した。

 

 あった。階段。

 西家は迷わず階段に駆け込んだ。そして西家は一目散に階段を降り始める。

 

 かつ、かつ、と音が聞こえた。

 階段を下りる自分の足音に消されてしまいそうな小さな音だった。

 もし西家が逃亡者という立場になかったら聞き逃していただろう。西家は瞬時に足を止めた。

 

 かつ、かつ、とまた音が聞こえる。

 それが足音だと気付いたとき、その音源も姿を現した。

 

 薄暗い階段を下から誰か上がってくる。

 白衣の男。その男が顔を上げる。

 

 目があった。

 男はにやりと笑う。剋田医師だった。

 薄気味悪い頬が引きつったような笑みを浮かべ、西家を、ただ真っ直ぐに見入ていた。

 

「どこに、行くんですか、西家さん?」

 

 それは抑揚のない声だった。

 病室で頭を全力で蹴り飛ばしたはずの剋田医師が、なぜか下階から階段を上がってきていた。

 

 先回りされた? 西家は急いで踵(きびす)を返す。

 そして今度は階段を駆け上がる。

 

 荒い息と忙しない足音が病院を上下に貫く階段を駆け巡る。

 その音は三人分。いつの間にか、北出田も剋田医師に合流し、西家を追う為に階段を駆け上がってきていた。

 

 腹部が痛む。浦谷に刺された腹が痛む。

 まだ傷が癒えていないのに蹴りを放ったり走り回ったり。傷口が開いて血がにじみ出していた。

 その腹の嫌な感触に顔が歪む、階段を駆け上がる足が鈍る。

 

 西家とそれを追う二人の距離は徐々に近付いていた。

 浦谷につけられた傷がこんなところで自分の足を引っ張る。これは浦谷の呪いだろうか?

 浦谷が俺も死ねと、そう言っているのだろうか?

 西家の脳裏にそんな弱気が過ぎる。

 

 もう限界だった。

 いくら階段を駆け上がっても、追跡者を引き離せないばかりか、すぐ背後まで迫られている。

 

 これ以上階段を上がったところで、意味はない。

 この病院が一体何階建てなのかも知らず。階段を上がり続けることに、西家は空虚な諦めを抱き始めていた。

 

 しかし、それは突然訪れた。階段の終わり。一つの扉を残して、視界から階段が消え去った。

 そこは屋上。遂に西家は階段を上りきってしまったのだ。

 

 西家は祈る気持ちで、屋上へ出る扉に手をかけた。

 金属の擦れる音。鍵はかかっていない。

 西家は屋上に文字通り飛び出した。

 

 空は冬の澄んだ空気が星空を見せていた。大阪の中心地ではまれに見る星々の輝き。

 しかし、西家に夜空を愛でる暇(いとま)はない。

 ただ足下を照らす月明かりだけはありがたかった。

 

 耳元でなったような猛烈な風切り音が西家を襲う。

 十二月の木枯らし。寒気に身をすくめるわけにはいかなかった。

 無理にでも疲れた足を動かして前に進んだ。

 まるで叩き潰すかのように乱暴な音が聞こえる。剋田医師と北出田看護師が屋上への扉を開けたのだ。

 

 辺りを見回すが、ベッドシーツを干す為の物干し竿が数本あるだけで、広い屋上に隠れる場所など一つもなかった。

 それでも西家は昇降口から出来るだけ離れようと足を止めなかった。

 

「待たんかいワレ!」

 

 北出田の怒声が木枯らしを縫って聞こえてくる。

 追いかける者お決まりの台詞に西家はうんざりだった。

 

 不意に右手が何かに触れた。フェンスだ。遂に西家は屋上の端まで来てしまったのだ。

 フェンスに沿って更に逃げようとするが、直ぐに二人に追いつかれてしまう。

 今度こそ逃げ場はない。

 

「もう、逃げられませんよ、西家さん」

 

 西家を追い詰め、見下すような視線を送る剋田医師が、ゆっくりとした口調で言う。

 手にはあの注射器がしっかりと握られていた。

 それに対して北出田看護師は西家に蹴られたことを根に持っているのか、険しい顔をして西家を睨み付けていた。

 

 不思議な沈黙が屋上を包んだ。

 自らの息と心音しか聞こえないと錯覚してしまう。

 

 追跡者だった二人は西家が落ち着くのを待つ為に、逃亡者だった西家は二人の出方を見るしかなくて。

 鎮魂の祈りを上げるような時間。西家の理性がもう逃げられないことを悟っていた。

 するとどうだろう、西家は体から力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。

 西家の腹からは血がにじみ、赤く衣服に染み出していた。

 

 西家が観念したと見たのか、二人がゆっくりと近付いてきた。

 そんな三者の間を駆け抜けるように、突風が吹き抜ける。

 冬の風は、西家だけにではなく全ての人に等しく凍えを届ける。三者は顔を背けるように体を硬くした。

 

 風音に紛れ、何かがはためく音がした。

 西家は座り込んだ足下に、紙の束があることに気付いた。

 

 思わずそれに視線を落としたとき、西家の顔は引きつった。

 

 それは柳沢の小説。

 先ほど病室で読んでいたコピー紙がそこにあった。

 

 もちろん必死で逃げてきた西家に、この小説を持ち出す余裕も理由もなかった。

 追ってきた二人にしてもそうだ。わざわざこの冊子を持ってくる必要がない。

 第一、西家の足下に今、存在するということに疑問しか抱けない。

 

 風に晒され、ページがはためく小説に西家の手は自然に伸びていく。

 

 義田が死ぬことが書かれた小説。

 士井が死ぬことが書かれた小説。

 浦谷が死ぬことが書かれた小説。

 そしてもう間もなく、西家もこの小説通りに毒殺されるのだろう。

 

 全部この小説通りじゃないか。

 

「……はは、はっはっはっは」

 

 もう笑うしかない。

 全部柳沢が予言でもしたっていうのか。

 

 あぁ、こんな腹の立つことはない。

 全部が全部、彼奴の言うとおりっていうのか。

 

「誰が、誰が彼奴の思うがままになるかっての!」

 

 西家の叫びに剋田医師たちの足が止まる。

 そして二人は顔を見合わせた。西家の言動にどう対処するのかアイコンタクトでもしたのだろう。

 

 西家はゆっくりと立ち上がる。

 そして小説を開いたまま両手で掴む。

 

「こんな物があるから!」

 

 渾身の力を込めて西家はコピー紙の柔い紙を引きちぎる。

 

「こんな、こんなもんが!」

 

 何度も、何度も、西家は小説を引き裂いていく。

 そんな西家の様子に剋田医師は明らかに戸惑った様子だった。

 

「こんなっ! ……はぁ、はぁ」

 

 小説を完膚無きまでに引きちぎり終え、西家は肩で息をしていた。

 その手には無惨に紙くずになった小説だったもの。

 

「ははははははははっははっは」

 

 西家の高らかな笑い声が大阪の夜空に吸い込まれていく。

 西家の目に力が戻っていた。

 絶対この小説の通りになんてなってやるか。

 その反骨の思いが西家の心に火を点けた。

 

 目の前にいるのはたった二人じゃないか。

 死ぬ気でやれば、逃げることも倒すことも不可能じゃない。

 

 そう、西家はもう一人殺しているんだ。

 この二人だって殺す覚悟があれば!

 

 西家の気配が変わったのを本能的に感じ取ったのだろう。

 剋田医師の表情は歪み、北出田看護師は身構えた。

 

「西家さん?」

 

 剋田医師の訝しげな声が合図となった。

 

 西家は二人の間を駆け抜けるように走り出した。

 二人はこれ幸いと左右から同時に飛びかかってくる。

 しかしそれは西家のフェイントだった。瞬間、西家はブレーキをかける。

 急制動で腹の傷が痛みを上げる。しかし、そんなことは言っていられない。

 走り抜けるとばかり思っていた二人は完全にタイミングを外された。

 

 もう一度走り出す西家。

 今度は剋田に向け一直線に走る。

 追う立場だった剋田もまさか、追われる人間が真っ直ぐ向かって来るなど予想していなかったのだろう。

 西家の肩が剋田の腹にめり込んだ。

 

 西家はそのまま、体ごと更に押し込んでいく。

 潰れるような金属音が屋上に響き渡る。

 西家の全力の体当たりに、剋田の体は屋上のフェンスに食い込んだ。

 

 剋田は咄嗟に西家の腕を押さえ込み、手に持っていた注射器を西家に打とうとした。それが仇となった。

 

 医師の性か、注射器を乱暴に突き立てようなどという発想が出来なかった。

 剋田は西家の腕に注射器を普段通り丁寧に打とうとしてしまった。

 

 血管のある場所を探し、剋田は注射器を西家の肌に当てる。

 その作業を視認する目に何かが映った。

 西家の指。それが真っ直ぐ向かってくる。

 

 なんの躊躇いもない目突き。西家の指が剋田の目に吸い込まれていく。

 それを剋田は見てしまった。

 まさか、そのまま目に指が飛び込んでくるとは思っていなかったのだろう。

 西家の二本の指が剋田の眼窩を貫いた。

 

 眼球って、想像していたのよりは硬いな。

 剋田の目を潰した西家は、そんな場違いな感想を抱く。

 指にはその眼球が形を変える感触がまじまじと残っていた。

 

「目がぁ 目が〜」

 

 剋田は注射器を落とし、両目があった場所を押さえて藻掻く。

 

「先生っ!」

 

 北出田の叫び声が背後から聞こえてきた。

 

 西家は冷静だった。自分でも驚くぐらいに冷静だった。

 剋田医師の目を潰し、そして今、北出田の上げた声から、まだ数歩、彼とは距離があること冷静に判断していた。

 

 西家は悶える剋田にもう一度体当たりして、剋田を深くフェンスにめり込ませた。

 そしてとどめとばかりに股間を蹴り上げる。

 

 全く容赦のない全力の蹴り。

 フットサルでボールを蹴るが如く華麗なシュートだった。

 

 それは淀みない作業。

 それを見た者は、皆が皆、西家には人の心がないのだと言うだろう。

 それほど冷徹な追い打ちだった。

 

 剋田にとどめを刺した西家。だが、さすがに北出田も黙って見てはいなかった。

 背後に人の気配が近付いたと思ったその時、西家は突き飛ばされていた。

 

 何をどうされたのかは分からなかったが、西家は顔から冷たいコンクリートの地面に叩きつけられた。

 歯を食いしばり、何とか顔を上げれば、そこには北出田の足裏があった。

 

 体重を乗せた踏みつけ。西家はそれを転がって避ける。

 しかし、転がっただけで北出田から逃げきることは出来なかった。

 

「ほら! ほら!」

 

 北出田は看護師という本分を忘れ、面白がるように西家に足を振り下ろす。

 西家は転がり続け、それをなんとか避けるしかなかった。

 

 西家の肩に何かが当たった。

 それを見たとき、西家と北出田の動きが止まった。

 

 注射器。

 先ほど、剋田医師が落とした注射器がそこにあった。

 

 思い付きというよりも本能で、西家は注射器に手を伸ばした。

 

「させるかよ!」

 

 体を突き抜ける衝撃に、西家は体をくの字に曲げる。

 丁度、浦谷に刺された傷口に北出田の足がめり込んだ。

 狙ったのか、単なる偶然か。体を引き裂かれるような痛みが襲う。

 

 痛みに転げ回る西家を、体格の大きい北出田看護師が冷徹に見下ろす。

 そしてゆっくりと落ちていた注射器を拾い上げた。

 

「素人がこんな物を使っちゃ駄目ですよ。西家さんはこれを打たれる側の人間なんですから」

 

 そう言って北出田看護師は、苦しんでいる西家を足蹴にして押さえ込む。

 

「もう逃げられないですよ」

 

 痛みに悶える西家にその声は届いていなかった。

 しかし、再び西家に迫る注射器の尖端が目に入った。

 

 殺される。殺されるのか。

 死。死がもう直ぐそこに迫っている。

 死んだらどうなるんだろう。死んだら。死ってなんだ。

 

 その瞬間、浦谷の顔が脳裏に蘇った。

 浦谷が軌道に落ちるときの顔。

 電車に轢かれて原型をとどめぬ浦谷。

 あれが死? あんなものが死だとでもいうのか?

 

 ……。

 ……嫌だ。

 死にたくなんかない!

 

 西家は飛び起きようとした。しかし北出田も全力で抑えにかかる。

 体を北出田に抑えられて身動き出来ない西家は首から上を跳ね起こした。

 今まさに打たれようとしている注射器に向け首を振る。

 

「何を! 痛っ!」

 

 突然の激痛に北出田が溜まらず跳ね退いた。

 注射器を持っていたはずの手をもう一方の手で押さえる。

 その手の中に注射器はなかった。代わりにしたたり落ちる血。

 

 西家は口から何かを吐き出した。それは北出田の親指の一部だった。

 口内に広がる鉄錆の味に、西家は武者震いした。

 

「おぉ、おぉ、お、お。……よくも、よくも!」

 

 北出田の怒りが頂点に達した。脳内麻薬が噛み切られた指の痛みを消し去っていた。

 北出田は構わず親指のなくなった右手で、西家に殴りかかった。

 

 上背のある北出田の振り下ろしの右。

 本来なら西家をKOするはずのパンチは空を切る。

 痛みでキレがなかったのか。

 いや、それは覚悟の差だったのかもしれない。

 

 怒りにまかせ殴りかかる者と、生き延びる為になら何でもやると決めた者の差。

 北出田の首には注射器が刺さっていた。

 西家の手に握られた注射器。

 薬品を血管に注入するという目的の道具は、西家の手によって単なる凶器と変わっていた。

 

 西家は北出田の喉に突き刺さった注射器を更にえぐり込む。

 

「ひぃ、さま……」

 

 北出田の声が注射針を通して西家の手に伝わってくる。

 

 無意識の反撃なのか、首に注射器が刺さったまま北出田は西家の両肩を掴もうとした。

 西家はそれを無視して注射器を横に押し引いた。

 

 嫌な衝撃が西家の手に伝わる。注射器の針が半ば折れていた。

西家はそのまま北出田の脇を抜けて転がった。

 

「に、ごっ、し……いえ」

 

 仁王立ちになった北出田が西家の名を呼ぶ。

 見れば首から血が流れ出していた。

 注射器の針が頸動脈を傷つけたのだろうか。北出田は必死に傷口を押さえつけ止血しようとしていた。

 

 見る見る内に北出田の白衣が赤く染まっていく。

 月明かりに見えるその色が、妙に幻想的だった。

 

 気道も傷ついたのだろうか、北出田の呼吸がおかしかった。

 体を揺らし、膝をつく。そして咽(むせ)せるように血を吐いた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 西家は立ち上がり荒い呼吸を整えた。

 

 北出田はもう虫の息だった。

 見れば体をフェンスにめり込ました剋田も悶絶したままだった。

 

「……はははは」

 

 西家の笑いが十二月の寒風に乗り、どこまでも広がっていく。

 

 生き残った。

 西家を殺そうとした二人は、西家の前に倒れた。

 もう西家の命を狙う者はいない。

 

「やったぞ。俺はやったぞ! ははははははっ!」

 

 とても楽しげな笑いだった。

 人生を、生きることを賛美し、謳歌する笑いだった。

 

 これで生きていける。

 まだまだ生きていける。

 

 なんだか、凄く気分がいい。

 まるで生まれ変わったかのように気が軽い。

 西家は心に羽が生えたように解放感溢れる瞬間だった。

 

 そして西家は一歩を踏み出した。

 生まれ変わった最初の一歩。人生を再び歩み始める一歩だ。

 

 その一歩を出した西家の足が、妙な感触を覚えていた。

 その感触を西家はよく知っていた。

 

 ボールだ。フットサルでボールを知らずに踏んでしまったときの感触。

 

 西家は体勢を崩し数歩よろけて、背後にあったフェンスに倒れ込んだ。

 フェンスの針金同士が擦れる派手な音が耳元から聞こえてくる。

 

 驚いて足下を見れば、フットサルボールが転がっている。

 西家が踏んだのは本当にボールだった。

 

 なぜ、こんな所にフットサルボールがあるのか?

 その疑問よりも先に、西家の脳裏にはあることが巡っていた。

 

 こんな状況、どこかで……。

 

 それを思い出すよりも先に、強い風が屋上を薙いだ。

 

 吹雪を思わせる白い陰。

 西家の眼前に白い紙くずが舞っていく。先ほど、西家自身が引き裂いた柳沢の小説だ。

 その一片が西家の顔に当たる。反射的に拭い取ったそれに目が釘付けになる。

 

 『西家は病院の屋上から落ちて死んだ』

 

 小さい紙切れに書かれたそれは、簡潔な一文だった。

 

 金網が軋む音。

 西家の脳裏を過ぎった予感が現実の現象となって表れる。

 

 体重を預けていたはずのフェンスがゆっくりと傾き始めていた。

 

「そんな」

 

 もう言葉を紡ぐ時間はなかった。

 

 固定されているはずの屋上のフェンスが西家の体と共に倒れていく。

 

 視界に、フェンスの金具が見える。なぜかしら留め金が外れていた。

 

 僅かな浮遊感。

 西家は横倒しになったフェンスの上に尻餅を付いた。

 

 一瞬、自由落下が止まる。

 そして再びゆっくりと後退を始める。

 病院ビルの外へと、ゆっくりと、ゆっくりと、西家を乗せたフェンスの一枚が後ろに滑っていく。

 

 それは子供時代、滑り台に乗ったかのような。

 西家を乗せたまま、フェンスが摩擦音を上げて加速していく。

 何か掴もうと西家は手を伸ばした。

 なのに手の届く範囲にあるのは、自らが乗っているフェンスだけ。

 

「なんだよ、それ」

 

 その言葉が最後だった。

 西家の体はフェンスと共に空中に投げ出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   *

 

 燦々(さんさん)とした太陽が首をもたげていた。

 全てが干上がりそうな熱気に顔を背けたくなる。

 だけれど、どちらを向いたところで灼熱の太陽は見逃してくれず。その熱光を容赦なく照りつける。

 

 そこは左右に雑木林が連なる公園。

 青々とした木々の木漏れ日が唯一の涼となるその場所は、熊蝉の大合唱により空間全てが揺り動かされて、

 まるで周りからすっぽりと切り抜かれたように、独特の空気に満たされていた。

 

 太陽の熱射に溶かされてしまったかのように、人の気配はほとんどなかった。

 そんな中、日差しなど全く気にせず公園内を突き進む者がいる。

 

 背の高い女性だった。手には供花と水の入った手桶。

 そして冴えない表情が、これから墓前に向かうことを示していた。

 

「吉由(よしゆい)さん」

 

 女性は遠巻きにかけられた声に振り返った。

 

 そこには少しか細い男性が足を早めて、女性の元に急いでいた。

 その男性も同じように墓参りの道具を手にしていた。

 

 吉由と呼ばれた女性は、駆け寄ってくる男性をただじっと見つめて待っていた。

 

「や〜、走ると暑いですね」

 

 男性は気さくに話しかけるが、吉由は少し機嫌悪そうに表情が固かった。

 

「……。その名字嫌いなの。私を呼ぶときはヒロポンでいいから」

 

「それはあまりにも馴れ馴れしいというものではないでしょうか……」

 

「私がいいって言ってんだから。あ〜早く結婚して名字変えて〜」

 

 吉由はあっけらかんと言う。

 

「はは。じゃあヒロポンさん、お久しぶりです」

 

「稲生(いなお)くんもおひさ。年末のお葬式以来?」

 

 そう言うと二人は足並みを揃えて再び歩き出す。

 

 吉由と稲生の二人はFC6-2というフットサルクラブのメンバーだった。

 しかし、とある事情から、こうして顔を合わせるのは半年ぶりのことだった。

 

「ええ、今日はお一人ですか?」

 

「そなんだ。声はかけたんだけど、みんな実家に帰ったりして、予定が合わなかったから」

 

「僕もなんです。お盆ですからね、皆さん予定があるみたいでしたね」

 

 そういうと稲生ははにかんだ笑みを見せた。

 

 夏の湿った暑い空気に溺れそうな気分になる。

 それでも二人は文句も言わずに目的の場所を目指した。

 

 この霊園の中でも奥手にあるお墓を前にして二人の足が止まった。

 こぢんまりとした墓だった。しかし綺麗に掃除され、新しい花が供えられていた。

 

「私たち以外にも誰か来たようね」

 

 墓掃除は無用と見たのか、吉由は早速掛け水をし、手を合わせた。

 稲生もそれに習う。

 

 水が滴り、黒く色を変えた墓石には『西家家之墓』と刻まれていた。

 

 しばらくの間、墓前に手を合わせていた二人だったが、申し合わせたように同時に顔を上げた。

 

「あっ、ヒロポンさん。聞いてます?」

 

 稲生は嬉しそうに切り出した。

 

「何?」

 

「この前、内島さんに会ったんですが。そろそろフットサルを再開しないか、って言ってましたよ」

 

「へ〜。初盆過ぎたから、喪が明けたって?」

 

「いつまでも僕たちがフットサルをやらないのは、西家さんたちも悲しむでしょうからね」

 

「フットサルが好きな人たちだったから、私たちがフットサルをやった方が供養になるってことね」

 

 吉由の言葉に稲生も頷いた。

 

「はい……。ですから、そのうちFC6-2全員に招集がかかると思いますよ」

 

 それは西家の葬儀以来の全員集合になるだろう。

 しかし、その全員に死んだ人たちが含まれないことに、稲生は素直に悲しいと思った。

 

「そっか……。ところで稲生くん」

 

「なんですか?」

 

「FC6-2の誰かが書いた『六ノ二』っていう小説があるの、知ってる?」

 

 

                            了

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