真・恋姫無双 〜美麗縦横、新説演義〜 第三章 蒼天崩落 第八話 『死』を知る者と『愛』を知る者 |
益州、成都。
南蛮征伐と孫呉との荊州領土問題で緊張を迎えている国も、その首都で、また夜更け過ぎという時間帯からか、街中は昼間の賑わいとは打って変わって水を打った様に静かである。
大雪山脈の麓、四川盆地という天嶮の立地であり、曹魏が領有している漢中にしてもその半分と、要所である定軍山を抑えている事から一応軍事的緊張は少なく、元々暗愚な劉璋がその命脈を保っていられたのも外部からの侵攻が困難を極めたからであって、結論から言えば現状で此処成都が攻め落とされる事は、万に一つもない。
その油断からか、外部からの入国者の管理も概ね緩くあった。
「声を出すな」
首筋に添えられた刀身が、闇が降りるその部屋の中にあってキラリと一条の光を放った。
鋭い剣幕と声音に宿る確かな殺意は、己の口を封じる掌からも雄弁に伝わる。
「好都合、ではあるな……」
目の前に広がる光景とは対照的な、実に落ち着いて、凍てついた声音。
一抹の罪悪感の欠片すら存在しないかの様に酷く冷徹な声が、静かに囁いた。
「来て貰おうか、劉備玄徳」
その晩、劉備は不思議な感覚に陥った。
不穏で、不安で。
まるで自分の周りで、何かが零れ落ちる様な、名状し難い何かを感じ取ったのだ。
酷くだるく、そして重く感じる身体を引きずる様にして、劉備の足は自然と法正の元へと向かった。
まるでそこで何かが起きるという事を予期していたかの様に。
「かえでさぁん……起きてますかぁ?」
眠たい目を擦り、戸を開けた劉備の眼前に―――突如、鮮血が花開いた。
「え―――ッ!?」
瞬間的に、本能的に何かしらの声を上げようとした劉備は、しかし後ろから突然己の口を覆った手によって声を遮られ、
「声を出すな」
冷徹な声音と共に、首筋に添えられた刃という形を伴って彼女を襲った。
「貴様の方から出向いてくれるとは、正に飛んで火に入る何とやら……」
声の主は、掌の固さから察するに恐らくは男。
背に感じる体温は、しかし常人のものでありながら酷く冷たく感じられる。
「俺と共に来てもらうぞ、劉備」
「……ッ!」
「動くな、と忠告した筈だが?」
筋一本動かしただけで、男は首筋に添えた刃を月明かりにギラリと光らせた。
下手をすればこの喉を抉るかもしれない、鋭い刃を。
「生憎『劉備は殺すな』と命じられているのでな。無暗に抵抗しなければ命だけは保証してやる……さぁ」
怜悧な音だけが、彼女の鼓膜を震わせた。
「俺と共に来い、劉備玄徳」
―――リィン、と。
静かで、何処か神聖な鈴の音が玉座の間に響いた。
驚く程に静まり返った部屋の中、絢爛な装飾に彩られた天井に反響した音は静かに震え、やがて再び響いた音に、再度その部屋の主の鼓膜を揺らす。
「仲達、様……?」
不可思議そうに、青藍が小首を傾げて己の崇拝する主―――司馬懿の仕草を眺めた。
先程から半刻近く繰り返される彼の行動は、彼女にしてみれば酷く不思議に思えてならなかった。
だが司馬懿は彼女の疑問符を気に留めた様子もなく、ただただ静かに手に持った鈴を眺め、偶に揺らしてその小さく凛とした音を響かせる。
彼の膝元に置かれた、丁寧な意匠が編み込まれた袋から取り出された二つの鈴は一本の紐に括られ、しかし聊かも汚れた様子がない事から偶の手入れを欠かしていなかったであろう事が窺える。
その袋から取り出した鈴を、司馬懿は先刻から繁々と、何処か愛おしそうに眺めていた。
「―――陛下。帝位への即位、祝着至極に存じます」
半日程前、この玉殿を埋め尽くす程に集った文武百官の先頭に立った華?が、そう言って恭しく頭を垂れた。
捧げる様にして差し出された両の手には、丁重に縫われたであろう朱の袋。
そしてその中央に厳然と、黄金色の格調高い至宝があった。
「旧朝、劉氏より天に召され、今再び陛下の御元へと賜れた伝国の至宝、玉璽に御座います。どうぞお納め下さいませ」
大礼を以て厳かに云う華?を、司馬懿は己の爪先を眺める様な瞳を向けて、しかし表情は礼儀であるからといった風に満足そうに頷いた。
「華?、御苦労」
「はっ」
清廉であるとされ、他方『鳥の骨』と揶揄された男は、殿上の司馬懿から投げかけられた言葉に恭しく頭を垂れた。
「紅爛」
「はい」
「玉璽を此処に」
「はい」
元々が宮仕えであっただけに、こういった礼儀作法に聡い紅爛は司馬懿の指名を受けて華?へ歩み寄ると、作法通りに礼を取ってから玉璽を受け取り、それを司馬懿へと差し出した。
対して司馬懿も、嘗て教え習った通りに紅爛から玉璽を受け取った。
「―――此処に、我は天命を預かった」
ただ一言。
たった一言。
その断片的な言葉に、居並ぶ文武百官は申し合わせた様に一斉に礼を取った。
いっそ壮観とも云えるその光景に、しかし司馬懿はむしろ堂々とあった。
そうあるのが、当然であるかの如く。
それが、僅か半日前。
その後、諸々の挨拶や大まかな方針を取り決めて諸侯を下がらせた己の主は、つと何処からか取り出した袋の中身――鈴――を手に取り、先程からずっと掌の中で弄んでいる。
暇を持て余している訳でもなく。
何かしらの意図がある訳でもなく。
ただ整然と、掌の中で踊る鈴の奏でる、汚れなき水底の様に澄んだ音は、涼やかに響いた。
「―――青藍」
ややあって、ふと思いついた様に司馬懿が口を開いた。
声を掛けられた青藍は、何事かと顔を上げて見ると、司馬懿が傍らの卓に置いておいた玉璽を空いた右手に取った。
その意図する所が掴めず、青藍はただ黙して司馬懿の次の言葉を待った。
「新たなる王朝、新たなる帝……それを群衆共の心胆に理解させるには、如何にすれば良いと思う?」
「……前例の、ない事をする」
「ほう?」
面白い、と云った風に司馬懿は息を洩らした。
「税制や法制の改善、地方に分散していた権力の中央一本化……その程度の事、少々聡い人間であれば誰でも思いつく」
カタン、と何かの置かれる音がした。
「それ以外に、それ以上に何かしらの答えがあるなら聞こう」
試す様に紡がれた司馬懿の言葉を受けて、しかし凛然として青藍は口を開いた。
「現人神」
司馬懿の手が、止まった。
「象徴の証を必要としない……己が存在を、唯一無二の絶対神と位置付ける事。そして、それを民草の心髄に理解させる事」
「――――――フッ」
青藍の言葉に、しかし司馬懿は鼻を鳴らした。
手に持っていた鈴は、何時の間にか卓上に転がっている。
「青藍、貴様は一つ勘違いをしている」
「…………?」
カツン、と高く足音が響いた。
「どれ程足掻こうと、人は『神』にはなれん」
顎の下をなぞる指に背筋を震わせながら、青藍は間近にある司馬懿の双眸に神経の全てを集中させた。
焦れる様な青藍の視線を、しかし司馬懿は少しだけ目を細めて淡々と言の葉を紡ぐ。
「『神』とは、遍く万物を救い、導き、守る者を指す」
だが、青藍には微かに気づく事が叶った。
「―――私は、何一つ守れない。今も、昔も」
司馬懿の瞳の奥底に、誰かの姿がある事を。
晋領と蜀領の境目の一つ、上庸。
荊北の中でも南東に襄陽、北西に漢中があるこの地は、軍事的観点から見ても非常に重要な要所となっていた。
その地を守るのは、劉璋から転じて劉備率いる新生蜀軍に寝返った孟達、字を子度。
軍事、謀計に長けた小賢しい女狐である。
「孟達様……本当に宜しいので?」
「ゴチャゴチャと煩いねぇ。さっさと支度をしな」
未だ戸惑う兵を余所に、孟達の目は爛々と輝いていた。
暗愚で無能な劉璋から寝返ったはいいものの、その後の配備でこの地に飛ばされて以来中央から遠ざかっていた自分は、最早蜀軍にあっても権力を得る事は叶わない。
ならばとばかりに、孟達は密かに司馬懿より送られた密書を受けて彼に転じる事を決意していた。
首都・洛陽の太守。或いは今以上の富貴。
孟達は間もなく訪れるであろう己の至福を妄想して、ほくそ笑んだ。
寝返りにしてもこちらに危険が無い様に、成都に忍び込んだ刺客と劉備を通してやるという簡単な事だけ。
何と容易く、好都合か。
―――が、その前にやるべき事が一つ。
「……来ました」
「よし。全員、構えな」
今回の『劉備奪取』の任に就いたのは、自分の他にもう一人。
自分と同じく元劉璋軍、転じて劉備に寝返った法正の間諜・姜維。
『忌み子』と嫌われるあの男に、ましてや自分とソリの合わないあの気色悪い女の元部下に、むざむざ手柄を分け与えてやる程に孟達は優しくはない。
「―――放て!!」
手柄を得るのは、自分一人で充分。
私欲に溢れた孟達の号令が、矢となって姜維に襲いかかった。
「―――陛下」
一人の女が、一人の女を引き連れて参内した。
前者は武装し物々しく、後者は煌びやかな衣服を泥と土に汚して。
「成都より『献上品』に御座います」
前者―――孟達は自分の連れてきた女を『献上品』といって頭を垂れた。
後者―――劉備は憤慨と恐怖と、そして憎悪に染まった眼を私に向ける。
「……はて、孟達」
「はっ」
「『これ』は貴様一人で、か?」
言葉少なく、しかし静かに問い掛けると、孟達はニヤリと厭らしい笑みを浮かべて静かに礼を取る。
それだけで、充分だった。
「……御苦労。追って沙汰を下す、それまで疲れを癒すが良い」
「はっ」
言って下がらせ、次いで青藍に視線を向けた。
「青藍」
「はい」
「殺せ」
誰を、とは云わなかった。
だがそれだけで青藍は全てを解したのか、一礼すると早足に奥へと消えていく。
汚れた血水で床を濡らさぬ様に忠告すべきだったか、とも思ったが、それよりも今は眼前の『コレ』だ。
「お初にお目にかかる、漢中王……いや、劉備玄徳」
「……ッ!」
憎しみと憤りに染まった眼光が、私に突き刺さる。
だが今までが今まで。享楽に耽って辺境に甘んじていた小娘の威嚇如き、大して痒みも覚えはしない。
「何を怒り、怯えているかは知らぬが……少しは礼儀を弁えたらどうだ?」
「貴方は……」
震えている声音を懸命に振り絞って、劉備は精いっぱいの憤りを示そうとしている。
失笑も浮かばない。
「今、貴様の前に立つは中原の長。『皇帝』司馬仲達だぞ?」
言うと、劉備は目を見開いた。
紡ごうとした言の葉すら失せて、ただただ驚愕している様に見受けられる。
―――否。この眼は『驚き』ではない。
「貴方は……誰なんですか?」
劉備は問うた。
「貴方は、司馬懿さんじゃありません」
劉備は言った。
「誰なんですか?貴方は」
その目が、口が、言葉が、全てが。
――――――気に入らない。
「―――ァッ!?」
首筋に伸びた腕が、か細い喉を両手で鷲掴んだ。
ギリギリと締め上げれば、女は苦悶に表情を歪ませた。
―――もっと、もっとだ。
「――――――貴様に」
苦痛に染まる女の首元に手をやり、身に纏っていた服を一気に剥いだ。
日の光を浴び、酷く白い、柔らかそうな肌が外気に晒され、女は羞恥に顔を赤らめた。
―――まだ、足りない。
「―――どうすれば、貴様に『痛み』を味わわせられる?」
その珠の様な瞳を抉り、安寧しか見えない愚かな視力の全てを奪えばいいのか。
その緩やかな口を裂き、人を誑かし続ける言の葉を永遠に塞いでやればいいのか。
その穢れを知らない肌を汚し、今まで無知であった恥辱と屈辱を教えてやればいいのか。
―――どうすれば、いい。
「――――――どうすれば、貴様から」
その偽りの『正義』を謳う呪縛から。
「朱里を、解き放つ事が出来る?」
紡いだ言葉は、ただ焦れる人の名だった。
「貴様さえいなければ朱里を傷つけずに済んだ。貴様さえいなければ朱里を惑わす事はなかった。貴様さえいなければ朱里と共にいる事が出来た」
貴様さえ―――貴様さえ。
「何故朱里は貴様を選んだ?何故朱里は貴様に従った?」
分からない。分かりたくもない。
あんなにも憎くて、愛しい人の事など。
相反し続ける感情が何なのかなど知った事ではない。
「答えろ劉備。貴様の偽りの正義を、朱里を誑かした嘘を私にも吐いてみろ。その口を裂き、喉を抉り、二度と朱里を誑かせぬ様にしてやる」
朱里を見続けるその瞳が気に入らない。
朱里を騙したその口が気に入らない。
朱里を連れ去るその手が気に入らない。
朱里を急かすその脚が気に入らない。
「さぁ言ってみろ劉備。その薄汚い脳髄を働かせて、小奇麗な外面で私を騙してみせろ」
腰元に提げた剣の柄に手を掛けた。
僅かに緩んだ拘束から、女は呼吸を整えて私を睨んだ。
「……貴方は」
嘘を紡いだ瞬間、殺してやる。
朱里を騙したこの女に、生き続ける価値などない。ありはしない。認めない。
殺し、その生を否定し、永劫に罰してやる。
―――さぁ
「――――――寂しいんですね?」
何かが、悲鳴を上げた。
「一番大切だった人と戦わなくちゃいけないから、一緒にいる事が出来ないから、だからそうやって、自分で自分を憎んで、一人ぼっちに追いやったんでしょう?」
止めろ。
紡ぐな。
「誰よりも自分が許せないから、貴方はそうやって自分を殺そうとしている。自分を憎んで、怨んで、自分で自分を殺そうとしている」
黙れ。
言うな。
「大事な人だから。大切な人だから。だから―――だから」
「黙れッ!!!」
それ以上聞きたくない。
もう一瞬たりとも、この女の声を聞きたくない。
「知った風にほざくな!!辺境に籠り、平穏以外を閉ざしてきた貴様が!!たかが貴様風情が!!」
「私は貴方の事なんて知りませんでしたし、分かりませんでした。けど、今こうして対峙して、分かるんです」
黙れ―――黙れ!!
「そうやって全てを悟ったつもりで、賢人を自負して他者を見下すのは愉悦か!?吐き気がする!!」
「見下してなんかいません」
「その態度が既に見下しているだろう!!」
許せない。
こんな女に朱里が惑わされていた事が。
こんな女に惑わされた女を、ずっと焦れていた自分が。
「そうやって理想論でしかない夢想をさも真実味を帯びて語り、貴様はどれだけの命を奪ってきた?その言葉で、或いは行動で!!」
「私達だって、殺したくはありませんでした!!」
「―――ッ、貴様ァ!!」
床に叩きつけた女の後頭部が鈍い音を立てる。
「殺したくなかっただと?ならば貴様は殺したくなかった命を喰らい、その理念を否定し、生を奪い続けたとでも抜かす気か!?」
「そうしなくちゃ、私達は何一つ前へは進めなかったから!だから!!」
「被害者面するな!!偽善者面するな!!貴様の行動も、夢想も、言葉も!!全てに、何一つ、聞く価値などない!!」
こんな女に、私は今まで後れを取ってきたとでもいうのか?
―――認めない
「貴様はそれで満足だろう!?己の手を穢さず、ただ夢想だけを謳っていれば周りが勝手に従ってくれる、そんな環境に甘んじ続けてきた貴様はそれで満足なのだろうよ!!」
―――許さない
「なら私達はどうだ?貴様のその下らぬ戯言に惑わされ続けた将兵と戦い、命を奪い合い、屍の山を築き、その果てがこれか?」
―――貴様だけは、絶対に
「ふざけるな!!!」
――――――許さない!!
甲高い音と、鋼を貫く感触が刃を通して腕に伝わった。
突き立てた剣は、女の顔の僅か横を掠めて床に突き刺さり、白銀の刀身に女の横顔を映しだしていた。
「……………………して」
紡いだ言の葉は、しかし思いの外あまりにも力なく漂った。
「どう、して……貴様に…………ッ!!」
垂れ、下がる視界に女の顔が映る。
恐怖など億尾も見せない、凛として静かに、それでいて力強い眼差しで真っ直ぐに私を射ぬいている。
「…………私は、大切な人の『死』を、まだ知りません」
ややあって、女は口を開いた。
「けど、貴方も―――」
何時の間にか私の脚下から抜けだしていた腕が、手が、頬を撫でた。
穢れなど欠片も知らない、まっさらで柔らかい温度が伝わる。
「貴方も、知らない事があります」
「何を……」
「貴方が知らず、私が知っている事があります」
その温もりに、僅かに覚えがあった。
嘗て、遠い昔何処かで抱かれた、その温かさに。
「―――私は、私を信じてついてきてくれる人全てを『愛して』います」
雨ざらしの中、遠のいていった背に感じた穏やかさが重なる。
「民も将兵も、一様に家族の様に愛して、信じて……そうやって、私達はずっと一緒にこれまで戦ってきたんです」
「結局は、自分に味方する者しか信じないのだろう?」
問い掛ける様に紡いだ言葉に、女―――劉備は僅かに微笑んで首を横に振った。
「今はそうかもしれない。けど、いつか私は、この天下に生きる全ての人を家族の様に迎えられる、そんな国を築きたいんです」
「その為に、今ある命を殺していいとでも?」
再び、劉備は横に首を振った。
「その罪は、私が償います。みんなの背負ってきた罪を、重みを私が代わりに背負って、みんなが苦しんできた分、平穏な世界で幸せになって欲しいから」
「――――――傲慢だな」
「貴方に言われたくありません」
何時の間にか、柄から手は離れていた。
酷く不器用な、あまりにも歪な笑みが浮かんでいるのが自分でも分かる。
それを見てではなかろうが、劉備も少しだけ冗談めいた笑みを浮かべていた。
「だから、貴方も―――」
劉備の両の手が、私の頬へと伸びた。
「貴方も、家族の様に迎えたいんです」
「…………少し」
それに応えたのは、本心か、口先か。
「少しだけ、朱里が貴様についていった訳が、理解出来た気がする」
その時どんな表情を浮かべていたのかは、私には理解出来なかった。
「え……?」
身体を抑えつけていた束縛が、気がついた時には緩くなっていた。
驚いた様に目を見開いた劉備は、しかし自身の置かれている状況を思いだして慌てて胸元を手で覆った。
馬乗りになっていた司馬懿は何時の間にか自分の上からどいて、街を一望出来る様に誂えたのだろう壁を打ち抜いた様な広々とした入口に出ていた。
そこから吹き込む風を全身に浴び、司馬懿の髪が、衣が揺らめく。
「貴様は蜀へは返さない。……だが、まだ殺さずにおいてやる」
風に乗って、司馬懿の声音が劉備の耳へと届いた。
「築いて見せろ。新たなる次代に、貴様の言う『平穏』の箱庭を」
静かに、司馬懿が振り向く。
その姿を、劉備はただただ見つめるより他なかった。
「その理想で、言葉で――――――二度と『私』を呼び起こすな」
その言葉の意味する所を劉備が知る由もなく。
理解を求めていた訳でもないのか、司馬懿はそう言うとフッと笑みを浮かべて玉座の間から歩き去った。
「―――紅爛」
「はっ」
「奥に余っていた一室に劉備を軟禁しておけ」
「陛下は…………?」
紅爛が問うと、司馬懿は静かに笑んだ。
「全ての布石は整った。これより宴の開演を告げに往く」
カツン、と甲高い音が響く。
踏みならしたその一歩の足音が、紅爛の鼓膜を一際強く揺らした。
「随従は青藍と王双、あとは…………」
「風もお供しますよ〜?」
何処からともなく聞こえた声の主は、ヌッと司馬懿の後方から顔を覗かせて紅爛にその顔を見せた。
唐突な登場に紅爛は一瞬驚くも、司馬懿の手前取り乱す訳にもいかず衝いて出そうになった息を慌てて呑み込んだ。
「……いいのか?」
「勿論なのですよ〜」
スルリと身体を滑り込ませた風は、そうしてあっさりと司馬懿の手を取っていつもの眠たそうな半開き目に彼を映した。
呆気に取られていた紅爛は、しかしそんな風の行動に僅かに頬を膨らませる。
そんな両者のやり取りを特に気にした風もなく、司馬懿は「そうか」と小さく呟いた。
「では軍監は風に一任する。直ぐに向かうぞ」
「あ、風は紅爛さんとちょこっとお話があるので、先に行って貰えますか〜?」
「……手短にな」
何かに急かされているかの様に司馬懿は淡々と呟いて、さっさと角を曲がってその姿を消した。
気配が遠のいていくのを感じたのか、紅爛は垂れていた頭を上げて風に向き直った。
「……話とは?」
「いえいえ〜、大した用ではないのですが……」
スゥッと、風の目が細まる。
「最近の紅爛さんは、仲達さんを殺さんばかりに憎々しい刃を隠し持っていらっしゃいますから」
トクン、と紅爛の鼓動が彼女の鼓膜に響いた。
酷く大きく反響したかの様なそれは、しかし時間にして僅か数瞬の事であり、眼前の風はその言葉を放ってからまた何を考えているのか良く分からない表情を浮かべた。
「…………何を、馬鹿な」
「繋がりがあるからこそ、苦しいんです」
答えようとした紅爛の言葉を遮り、風が口を開いた。
「繋がりがあって、幼心に愛情を知っていたから……そして、それを無慈悲に奪われたから、救えなかったから、何よりも、誰よりも己が憎い」
目の前の紅爛に向けて言っている言葉なのか。
それとも――――――
「―――その憎しみを背負い続けて、重ね続けて、潰れてしまうのだけは見たくありませんから」
コツ、コツ、と小さな歩幅の足音を響かせて風は歩む。
紅爛の隣を、そしてその後ろを。
「憎しみも悲しみも、何もかもを一人で背負う必要なんてないのに」
音が、止まった。
「誰が相手だろうと、風は迷いませんよ。あの大バカさんを最期まで見届けるのが、風の役目なのですから」
言いたい事を全て言ったのか。
その言の葉を紡いで、再び響いて、遠のいていく足音を背に。
紅爛はただ黙って、振り向く事もなく歩き出した。
上げた顔に、その瞳に、一片の迷いも映さずに。
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