隠密の血脈1-5後編 |
―30秒前―
「ふっ……ふっ……」
緊張と焦燥と恐怖と絶望に肌は依然小刻みに震えていた。
「僕がなんとかしなくちゃ……。僕がなんとかして先輩だけでも」
虚勢をはったのはいいものの、一哉の精神は極限まで追い詰められていた。
「落ち着け……落ち着け僕……」
彼が脅えているのは数秒後あいまみえるであろう悪鬼の化身に滅多打ちにやられることではない。
「大丈夫、手は考えてある。何とか僕が十秒以上は時間を稼がないと……」
そう、彼は失敗を恐れていた。大口を叩いておきながら彼女一人救えずただ無駄死にしてしまうことが何よりも怖かった。怖くて恐くて。本当は弱虫なのに無意味に強がって、それでも意地は貫きたくて……
少なくとも、初対面でありながらあそこまで自分を恐がらず、まして心配までしてくれた先輩。ただそれだけのことでも一哉にとっては何よりも嬉しかった。思わず感情が揺らいでしまいそうなほどに。
だからこそ彼は命を懸けるにふさわしいと思った。あんなに心優しい人が無残に命を散らすなど考えられなかった。
故に絶対成功させる。たとえ腕が千切れようと、足が、胴が、首が刎ねとぼうと必ず奴には感づかせない。ただその思いだけが彼の足を突き動かしていく。
そして舞台端の入り口を思い切り突き破り、惨劇の舞台へと足を踏み入れた。
「……ぐっ!」
思わず立ち止まってしまう。それは体育館中央に広がる鮮血と臓腑と肉塊の放つ異臭によるもの。あまりに濃密で肌に刺すような刺激、鼻腔を埋め尽くすその臭気はまともな人間なら精神を崩壊させるほどのもので、事実残り少ない体育館内の人間はもはや半分狂乱しつつあった。
しかしそんな中でもあの男は満面の笑みを浮かべて剣を振るう。まるで味わうかのように、その喜悦に浸透するように滑らかな動きで人間をただの肉塊に変えていく。
「……」
その様は面と向かって直視するとより鮮明に彼に絶望を与える。その狂気は彼の十数年で培ってきた道徳をなど一瞬で打ち砕くであろう。無駄に見えるその動きも、近づけば一振りで避けることも叶わずに切り裂かれるであろう。そういった具体的なイメージが彼の頭の中にダイレクトに叩き込まれる。
どうよくみたってわかる。これは人間に叶う相手ではないと。
しかし一哉にはその程度で揺らぐ決意など持ち合わせていなかった。そもそも自分のことより他人の心配をしてしまう程のお節介焼きである。自分の身にせまる危険に怖気ずくほど、彼は弱い人間ではなかった。
しかし……
「佳代っ!!!」
凄まじい怒声が正面入り口から発せられた。
「なっ!?」
そこで思わず奇声を上げてうろたえてしまったのは一哉。思いもよらぬ第三者の介入にあっけに取られてしまい、軽いパニック状態に陥りそうになる。
「せ、先輩!?」
一哉の上方から聞こえた声でわれに返る。そう、その声からも推測はついた。彼は、先輩の大切な人なのだと。
「グッ!!!」
一瞬で状況を把握して一哉は全身に悪寒が駆け抜ける。これは紛れも無く最低最悪の展開だと。
そしてあの殺人鬼に目をやれば、そこには他の人間を狩り終え、そちらを向いてさらに醜悪な笑みを広げていた。
―2分前―
「……はぁ、はぁ!」
全力疾走で校内を駆け抜ける。息切れなど気にせず、疲労を省みず走り続ける。
「くそっ! 時間がねえってのに」
そう、彼は本来校舎外壁沿いにショートカットして体育館へ向かうはずだった。
「なんだよあいつ……!」
彼が体育館へ向かおうとしたそのときだった。
校舎からは体育館の東口や屋根も多少見える。そしてちょうどそこから見えた光景、それは地獄と称してなんら問題の無い阿鼻叫喚の坩堝だった。
出口からなだれ込んでくる生徒や保護者や教師達。なぜあそこまで狂乱しているのかは察するに難くないが、その顔はどれも絶望の色を呈しておりとても見れたものじゃなかった。
そんな中、体育館から出た人たちは逃げようとして、そこで動きを止めた。誰もが一様に、何の前触れも無く地面に崩れ去っていく。ただおかしいのは首と胴体がずれて離れていくことくらいなもので……
「っっっ!!!」
その光景に吐き気がした。まるであらかじめそこにピアノ線が引いてあったかのように、ある一定ラインから先に行くと皆首がずれていく。
何も無いはずなのにどうして?
それは体育館の屋根の上に答えがあった。
東口の上、そこには一人の青年がたたずんでいる。おおよそ詳しい顔までは把握できないものの、恐らくなんら一切の感情も浮かべずに両手を操り人形を扱うように器用に動かしているのは分かる。
その動作の意味などは一切理解できなかったが、その男の纏う空気は明らかに常人のそれと一線を画していた。
その姿を見て彼は確信する。あの校庭の惨状はあいつのせいだと。
こんなにも近くで行われている行為であるにも関わらず一切の現実味が欠落している。そのおかげもあり、なんとか平静をとりもどしつつある。
「……クソッ」
そして佳代の置かれている状況を真に理解して彼はまた走り出す。
もはや最短ルートは使えない。あの男に見つかってしまえば恐らく首が飛ぶ。予想ではなく予知のレベルでそのことが知覚できる。ならば使えるルートは正規の校舎内移動以外ありえない。
「なんとか見つかるなよ佳代ッ!!!」
最大限の力で地を蹴り上げ走り出した。
「ハァッ、ハッ……!」
全力でかけ続けること数分。もう体育館の入り口が見え始めた時には、呼吸するのも困難なほど濃密な悪臭がたちこめていた。
「グッ…クソッ!!!」
全力疾走で走り続けた加賀には吐き気すら伴う状態であったが、それよりも最悪の状況が頭により濃く映りだし、焦りの感情のほうが遥かに強かった。
この臭いが何なのか考えるだけで胃の中がひっくり返りそうになる。あの徐々に減っていく悲鳴について思考を巡らせれば発狂しそうになってしまう。
本来なら一秒でも早く着きたい焦りの感情が、徐々に距離を狭めるにつれて恐怖と緊張に変わっていく。既に入り口の中が少し見える。明らかに赤黒い液体やピンク色の物質。灰色の塊などはきっと中の全貌の一部でしかなく、その中はきっと地獄と形容するに難くないだろう。
そしてその地獄を統べる悪魔が中に……
そして佳代も……
……ギリッ
頭の中に浮かぶ最悪の光景を必死にかき消し、速度を緩めずに入り口へと突入した。
そして突入と同時に開口一番叫んでいた。
「佳代ッッッ!!!」
その光景を確認することなく、どんな展開であるかも知る気は無く、中に存在する人間たちの中からただひとりだけを探し出すためにその名を高らかに呼んでいた。
体育館内はちと臓腑とバラバラになった肉体だらけであった。
普段なら剣道の稽古を始める朝礼台の前あたりには転がった椅子が散乱している。人はいない。そもそも、もう彼が来たときには場内では命あるものなどほとんど残されていなかった。
ただ体育館の中心に大剣を持った男がいるだけ。佳代の姿は確認できない。
(……佳代はどこだ!?)
今はもうあいつのことしか考えられない。あいつとの最後の会話があんなのなんてあんまりだ。だから会って一言いってやんないと気がすまないんだ。
だから……頼む、見つかってくれよ……
「先輩逃げてっ!!!」
そんなことを思っていた最中に、上の方から彼女の声が聞こえてきた。
「か、佳代っ!?」
顔を上げると、紛れもなく二階に佳代が立っていた。特に目立った外傷も見られなく、元気そうなとこから見てなんとか生き延びていたのだろう。
そのことがたまらなく嬉しく、体中から緊張が解けてしまった。
故に、忘れていた。あまりに安心しきっていたために今の状況を完全に忘我していた。目の前に悪魔が微笑んでいるにも関わらず。
「……っな!」
気づいたときにはあまりに遅すぎた。まるで人の感じる恐怖全てを凝縮した存在がこちらに迫ってくるのを、加賀はもはや認識することさえできない。
瞬時に走馬灯が駆け抜ける。自身の死を明確に感じ取れる。まるで既にあの大剣で袈裟型に斬られているような錯覚が全身を駆け抜ける。
もはや後悔や回想すらする間もなく彼は目の前の悪魔に身を捧げた状態で。
大きく振り上げられた剣が目前に迫った状態で。
「ッッッダラァッ!!!」
横から高速でパイプ椅子が飛んできた。
だが椅子は大男に当たることなく二つにきれいに分かれ、転がった。一切の減速も無く剣の軌道を変えたのだ。
「クハッ! 面白えじゃねえか坊主!!!」
男はクハハと笑いながら標的を後ろに切り替える。
加賀は今の事態に対応できず、だが確かに体育館の舞台近くに巨体の学生がいることを確認した。
「今のうちです! 先輩逃げてくださいっ!!!」
巨躯の男はそういうと次々にパイプ椅子を投げていく。特に重たいわけではないが、片手で悠々と持ち上げ30m近く離れている場所から豪速で、しかも精確に投げつけていくその技量は軽く人間離れしていた。
しかし、所詮は人の身。人を食らう鬼を前にして、その怪力はなんらアドバンテージになっていない。
「クハハハーーーっ!!! いいねいいね! ドンドンこいやぁ!!!」
剣の乱舞はとまらない。壮絶な気迫とは裏腹に、縦横無尽に振り回す大剣は舞踊を思わせるほど優雅な動きであり、しかしその殺傷圏内は剣の間合いより数m長い。
次々に切り刻まれていくパイプ椅子。金属のパイプっで出来ているにも関わらず、まるで紙粘土を切るようにただの鉄塊へと姿を変えていく。
「ぐ……っ!」
分かってはいたことだが、やはり恐ろしい。自分の持てる最高の力、速度、、精密さを全力でぶつけているのに――――普段は自分自身相手を壊してしまうことを恐れてたこの力を必死に使っているのに、通用しない。やっとこの忌むべき怪力が役にたつ機会がめぐってきたというのに、退治した相手は自分以上に人間離れした怪物だった。
焦りが全身を焼いていく。しかしここで焦ってはいけない。
「先輩っ!」
横目で君笠先輩が二階から飛び降りて男の先輩のところへかけているのが見える。
あの殺人犯は徐々にこちらへ近づいているため殺傷圏内には入っておらず、やつの意識もこっちへ向いているため彼女が凶刃にあうことはなかったようだ。
(よし! そのまま逃げてください先輩……)
ほんの僅かに生まれた希望。それだけで一哉の心は完全に立ち直っていた。パイプ椅子を握る手に力がこもる。もはや近くにある椅子の数も少なくなり、あの男との距離もだいぶ縮まってきた。
確実に殺傷圏内は迫っているにもかかわらず、しかし一哉は臆することなく立ち向かう。
もはやその場にあるもので対処できるようなものは何も落ちていない。
最後に4つの椅子を両手に持ち、西側の閉まった出口まで下がった状態で彼は構える。
逃げ場はもうない。死は確実に訪れる。しかし彼は一切臆していない。
(……ごめんなさい。 そしてありがとう)
そんな状態の一哉に目でそっと意思を見せ、彼女は加賀と共に校舎側へ走り出した。
加賀が何か叫んでいるようだったが、それをすべて佳代が制しながら走っていた。
「……ふぅ」
一番の心配事が解消されたことであらためて冷や汗が流れ出す。
先輩に言ったことは確かに説得させるための方便ではあったが、それでも一哉はそれを嘘で済ませるつもりはなかった。
もはやパイプ椅子4つで出来ることなど何もない。かといってこの場に他に武器になるものはない。完全に手詰まりの状態であるはずのこの現状。
狂喜を満面に浮かべた悪魔が速度を上げてこちらへやってくる。
このあとに残るものは、ただの敗北。すなわち死。
……そう、一般生徒、であったの話であれば。
「……ッラァ!!!」
全力をもって四つの椅子を投げつける。ノーモーションから150km代の剛速をもって放たれたパイプ椅子は相手の顔面めがけて突き進んでいく。
「んなもん効くかい!」
目の前に広がる椅子を横薙ぎに払ってそのまま直進する。一秒ほどの時間稼ぎにも、ましてや油断を誘うためのトラップにすらならなかった最後の一撃。
だが、殺人鬼は細かいところまで気にしていなかった。一哉の僅かな抵抗を破壊することで見逃していた。
自分に向かってきた椅子の数が三つであったことについて。
「……っ!?」
一哉を殺傷圏内に捕らえた瞬間に、殺人鬼は気がついた。頭上から何か大きなモノが落下してきていることを。
急速に軌道を変えて迎撃する。目視していなかったにも関わらずその弧を描く斬撃は正確に落下物をなぎ払う。
「……照明だと?」
そう、落ちてきたのは残りのパイプ椅子と照明二つ。最初に三つのパイプ椅子を放ち、奴の視界を遮った上で残り一個を天井に向かって投げはなったのだ。
体育館の照明は普通のものとは違い、一式の状態ではそれなりに大きく、重量もある。天井からの落下を直撃すれば、普通の人間では重症を免れないだろう。
だが、
「クハハァッ! いいねいいねその発想!!! ホント面白いぜ坊主! だが惜しかったなぁ。 俺に手傷負わせたかったら不意打ちごときじゃ物足りね……」
狂喜に拍車の掛かった殺人鬼は、言い終わる前に全てを理解した。
目の前に見える光景はまさに本命。四つのパイプ椅子を使った攻撃はそれ自体が囮。背面の鍵の閉まった鉄製の頑丈な扉を無理やり外すための僅かな時間。そのために彼はギリギリまで後退していたのだ。
真ん中のとってを握り、そのまま繋がったままの両扉を木製の壁ごと引き剥がした。本当に僅かな時間しかなかった。だからこそ自身の限界を超えてまで高速で取りはがした。
筋肉がところどころ悲鳴を上げている。だがそんなことは気にしない。やつは予想通り一瞬隙を見せた。今こそ本当にたった一度きりのチャンスである。
「……ぅぉおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
気合と共に渾身の力をこめて幅三m、高さ二m、厚さ五cmもの鉄の扉を投げ飛ばした。
相手は今だよけることもガードすることも出来ない。気づいたときには既に目の前に巨大な鉄板が迫りくるだけ。
必中を予感させる完璧なタイミングにベストなフォーム。力みすぎることなく百%の力を乗せ、より確実に当たる軌道を持って避けられない位置に投げた。はずだった。
「っふう!」
しかし殺人に狂った鬼にそのような常識を当てはめた時点で一哉は重大な過失を犯していた。
鬼は人を殺め喰らうモノ。どれだけ強大な力を持っていようと、いかなる速さをもってしても、人外の化け物には通用しない。
振りぬいた状態の剣をそのまま加速させ目の前の鉄扉を豆腐のように切り裂く。人体力学も一般常識も一切無視したでたらめな一撃。鬼を連想させうるに相応しいありえないその動作は最後の希望を打ち砕くものとなる。
本当の本当に手持ちの切り札をすべて使い果たしてしまった一哉。
この後に加速して先の扉と同じように彼の体を両断するであろう大剣の振りかぶり始めとともに、破け鉄片と化した扉の間から。
彼――尾ヶ崎一哉は猛然と突っ込んできた。
「なぁっ!?」
更なる予想外の出来事に今度こそ声に出して驚いた。
彼は感覚として理解していた。奴にあの程度の不意打ちが通じるはずがないと。どれだけ全力でいこうと、限界まで思考を練り上げてもやつはその全てを軽く一掃する。災害のような理不尽を持っている。だからこそあいつは鬼なんだと。
ゆえに本当の狙いはただ一つ。
どれだけ小細工を弄しようと、不意を討とうと奴に擦り傷一つつけることは出来ない。ならばやることは一つだけ。
幼いころからのコンプレックスであったその巨体、人並みはずれた膂力をもって直接相手を打ちのめすしか方法はないだろう。
だからこそ、唯一の可能性をより高めるために策を弄した。あの、肉眼でも捕らえられない高速の剣戟に屠られないために。自らの拳が届く前に腕を輪切りにされないように。縋り、這いずり、必死になってかき集めた僅かな希望を消されないために。
「……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっ!!!」
雄たけびと共に体中に溜め込んだ力を右腕から発散する。
大振りの一撃は奴の顔面を的確に捉え、そのまま東口の出口に向かって大きく体を飛ばす殺人鬼。壁につくまでノーバウンドのその一撃は確実に一般人なら即死するレベルのものであるが、今このときに限っては彼に罪の咎はない。余計な思考、感情は自身を滅ぼす弱点となる。それまでに命を落としてしまった人たちのためにも、彼はあの殺人鬼を殺すことに躊躇は無かった。
壮大に体育館の壁を打ち壊し校庭まで飛んでいく殺人鬼。明らかに致命打であるその一撃を放った一哉は、すかさず先輩二人の後を追いかける。
そう、彼にはわかる。あの程度であいつが死ぬはずないと。
あいつが吹き飛ぶ瞬間、確かに自分に向かって満面の笑みを湛えていたのが見えてしまったから。
目的はあくまで時間稼ぎ。先輩たちの逃走の時間を稼げれば自分も逃げるだけである。決死の策がうまくいき、そのおかげで少なくとも一哉も逃走出来るチャンスまで得られた。十分な戦果である。
ただ本番はここからだ。
鬼は壮大な笑い声とともに起き上がる。もはや体育館内に残っていた残り十数名など眼中にもとどめず、一哉の去った後をゆっくりと、だが徐々に加速させながら追っていく。
第二ラウンド、地獄の鬼ごっこが今から始まる。
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