「あなたとわたしは彼女と僕の」第1章
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  第0.五章「事象に至る道」

 

   *

 

 そう、コンクリートに体温はない。

 ましてや、既に廃棄されて十年近く経つ建物に人間の生活感はなく、ただそこに在るだけの物体。

 

 幾年月、そこに在り続けた空間は、幾多の時を経て変わることなく訪問者を迎え入れる。

 唯一、割れたガラスと雨に濡れたカーテンだけが、訪れた者に時間の経過を感じさせてくれる。

 本来なら足下を緑に照らすはずの誘導灯も、今はただ沈黙を守っている。

 それはすなわち闇。目をつぶっても、刮目せんと見開いても、さして変化のない深い闇。

 廃墟となった今、この建物の住人は確かに闇だった。

 

「深山(みやま)君、どういうつもりだね?」

 

 その声は闇の中から聞こえてきた。

 物言わぬ無機質なコンクリートは、無意味に音を反響させる。

 その重ね合わせの声は、もう一人への問いかけだった。

 

「……お久しぶりです」

 

 力無い返事は、他に風切り音しかないこの廃墟だからこそ聞こえる程度のもの。

 

「こんな所に呼び出して、何かご用でしょうか?」

 

 その声に続いて、鳴り響く足音も聞こえる。

 それでもなお、音源が近いのか遠いのか、それすらも判別が難しい。

 

 この二人は相対しているのだろうか?

 それとも遠巻きに声を掛け合っているのだろうか?

 そんなことすら分からない程、全てが闇に溶けていた。

 

 ただ一つ言えることは、この自分の足下を見るも適わぬような暗闇が支配する廃墟で、

 たった二人の人間が言葉を交わしている。それだけだった。

 

「ハハ、深山くん。何をしらばくれる気だい? 何の用かは、君が一番よく知っているだろう。

 手は打たせてもらった。こちらとしても見過ごす訳にはいかないからね。

 君のやったことは全くの徒労だよ」

 

「……そうですか」

 

 それは予想した通りの言葉だったのだろう。

 諦めにも似た色の答えは、何の飾り立てもなかった。

 

「何が目的だね? 金か? 地位か?

 もう既に働きに見合う、いや過ぎたる報酬は支払って来たはずだがね」

 

「やめてください! あんな金を報酬だなんて。

 あれは口止めでしょう? 僕らの犯した罪に対する」

 

 今まで弱々しい口調ではない。

 深山と呼ばれた男の声に、確固たる意思が感じられた。

 

「……よく解っているじゃないか。

 そう、アレを罪と言うのなら、深山君。君だって共犯だ。

 そして、君は口止め料を受け取り続けて、この十年間、のうのうと生きてきたのだよ。

 それを、何を今更。……偽善のつもりかね?」

 

「違う! そんなんじゃない!」

 

 深山はそれしか吐き捨てる言葉が無かった。

 図星を突かれた訳ではない。ただ悔しい。その思いが言葉から溢れ出ていた。

 

「では、贖罪のつもりか? 馬鹿馬鹿しい」

 

「あんたに分かってもらおうなんて、思ってない!」

 

 それは明らかに敵意の声だった。

 

「これは僕たちの義務なんだ。アレに携わった者の!」

 

「ハハ、これは滑稽だね、深山君。

 私は君のその言葉を、前に聞いたことがある。

 そう、君はアレを前にしたあの時も、今と同じセリフを口にしてたな。

 あの時の君は迷いのない、実にいい目をしていた。

 それがどうした? 今の君のその腐った目は!」

 

 深山は視線を逸らしてしまった。

 それが無意識なのか、我が身を知ってのことなのかは分からない。

 それは深山自身が一番よく解っているだろう。

 どれだけ自分が疲憊(ひはい)しているのか、どれだけ自分が後悔に溢れているのかを。

 

「十年か……。長かったな」

 

 それは溜息のような言葉だった。

 自然に口から漏れたその言葉は闇へと吸い込まれていく。それは悲しい響きに聞こえた。

 

「長い? いえ、とても短いものでしたよ。少なくとも僕には。

 でも、その年月は人間が腐るには十分な時間のようですね」

 

「それは何かの暗喩かね? それとも私の事を言ってるのかね、深山君?」

 

「昔のあなたになら、ノコノコと一人で来た私を、不審に思うぐらいの思慮があったでしょうに。

 十年前の罪。そして今、再び望んでしまった愚慮。全てを清算してもらいます!」

 

 深山と呼ばれた男の叫びは獣の咆哮に似ていた。

 それは訣別の合図。初めから平行線の二人はこの宣戦布告により決定的な破局へと動き出すのだろう。

 

「僕は、あなたを殺します」

 

 それは確かに力ある言葉だった。

 もし、相手が違えばその殺気だけで、たじろいだであろう。

 それだけ深山と呼ばれた男の決意は本物だった。

 

「ハハ、これはとんだ笑い話だ。君が、君が私を殺すというのかね?」

 

「えぇ、全力をもって殺して見せます」

 

「君にそんな度胸があれば……話はもっと単純だったろうに。

 残念だが、死ぬのは君の方だ」

 

 その男は懐から何かを取り出した。

 それは鉄の塊。それは冷たい武器。

 漆黒の闇の中でも、その黒き物体が、拳銃だと分かった。

 

「せめてもの情けだ。何か言い残す言はあるかい、深山君?」

 

 

 

 

 

  第一章「柚山潤(ゆずやま・じゅん)の場合」

 

 朝の商店街には独特の音がある。

 商品を運び込むトラックの駆動音。

 店主達が上げるシャッターの摩擦音。

 通学途中の学生の雑踏。

 

 それらは世に言う日常で、毎日が同じ音の繰り返しだった。

 だからこそ、それは心地よい。騒音であるはずの不協和音が心地よい。

 鳩が『平和』を表す様に、それは『安心』の象徴みたいな音だった。

 では、逆に非日常を象徴する音という物があるのだろうか?

 それは僕、柚山潤にとって、今聞こえてくる音のことだろう。

 

「おばさま、お味噌汁はこんな感じでどうでしょう?」

 

「……そうね。もうちょっと白味噌を入れた方がいいかしら」

 

「はい。おばさま」

 

 老朽化した八百屋兼住居の台所に、防音が整っているわけでもなく。朝食を作る二人の声は二階の僕の部屋まで筒抜けだった。

 声の主は僕の母親ともう一人の女性、悠木有紗(ゆうき・ありさ)その人だった。

 

 僕の家は八百屋を営んでいる。毎朝市場に仕入れに出るので我が家の朝はいつも早い。朝の五時半には軽トラで家を出て、七時には新鮮な野菜を満載して帰ってくる。そんな毎日の繰り返し。

 

 僕も無理矢理に手伝いをさせられていて、毎朝五時には叩き起こされる。

 こんなことならば運転免許なんて取るんじゃなかった。

 そう嘆いてみても、完全なスネかじりの身分ではどんな言葉も単なるわがままにしか聞こえないのである。

 

 渋々ながら仕入れに出て帰って来ると、いつも悠木有紗は我が家の居間で新聞を読んでいるのだ。

 

「あら、お帰り」

 

 そう一言だけ口にすると、また何事もなかったように社会欄に視線を戻す。

 

 人様の家に上がり込んで、その態度は何なのだろう?

 柚山潤には悠木有紗の考えは、全く想像がつかなかった。

 

「ただいま」

 

 僕も一言だけそう言うと、二階の自分の部屋に駆け上がる。

 早朝の手伝いの後は、朝食まで仮眠を取るのが僕の日課だった。

 

 約二時間前に這い出した寝床に飛び込むと、程なく睡魔が襲ってくる。

 うつらうつら出来る時間、それがとても心地よい。

 完全に寝ているといえば嘘になるし、完全に起きていると言うには真実でない。そんな心地よい眠りの中で僕は布団にくるまり考える。

 

 毎日こんな朝早く家に来る悠木有紗と僕の関係は、一体何なのであろうか?

 

 悠木有紗、十八歳。はっきり言って綺麗な女性だ。

 それは贔屓目でも何でもない。『麗しい』彼女を『可愛い』だなんて間抜けた事を言う奴がいたら張り倒したっていい。

 それほど彼女の容姿は完成されていた。日本人でない血を引いている彼女は、それこそ日本人離れした容姿である。

 特に、街中に溢れている染料まみれの金髪とは一線を画する本物の金髪と、絵に描いたようなポスターカラーの白い肌。それにマッチした青い瞳は何人も寄せ付けない神秘性があった。

 

 異性からは恋慕の、同性からは憧れの。

 そんな注目を一身に浴びる彼女がどうして毎朝、僕の家に来る道理があるのだろう?

 

 家が隣近所の幼なじみというならまだ解る。もう何年も付き合った恋人というなら辻褄も合う。

 しかしながら、悠木有紗と僕は手をつないだ事もない関係。

 その関係性は別段プラトニックなわけでもなく、僕たちは単なる高校時代のクラスメイトだった。

 よく『友達以上恋人未満』という言葉を耳にするが、悠木有紗と僕はそんな将来性を期待できる間柄ではないのは確かだ。

 

 彼女が僕に好意を抱いている素振りなんて見たことがない。

 自分が鈍感なだけか? いやいや、そんな都合のいい話がどこの世界にあるっていうんだ。

 

 ただ一つ、彼女に対して特別な立場にあるとしたら、帰国子女の彼女が高校で一番最初に会話をした人物だってことだろう。

 

 それなのに彼女は毎朝のように僕の家に来る。

 毎日、朝食を作っている母の手伝いをして、朝食を一緒する。

 一体、彼女は僕の何なのであろう?

 

 分からない。全くもって解らない。だって、わからないんだか、ら……。

 

 僕の思考は答えを導きだせぬまま、徐々に停滞を始める。

 まだ春遠い二月の布団には、意識を奪う魔法がかかっている。

 

 あぁ、もうどうでもいいや……。アイツの事なんて、別にどうでも……。

 

 相変わらず聞こえてくるのは朝という名の喧噪。

 遠くから、近くから、いつもの朝のいつもの音が聞こえてくるだけ。

 

 あぁ、平和だなぁ。

 

 そんな夢見心地な僕の意識を呼び戻す音がする。

 ゆっくりとゆっくりと階段を昇る足音。

 正確には階段の板が静かに軋む音。

 これも毎朝聞いているいつもの音だけれども、僕はその音に心地よさを感じることはあまりない。

 

 それは足音の主が悠木有紗だから。もう嫌と言うほど判っている。

 ということは朝食の準備が出来たのであろう。そこまで分かっているのに僕は起きようともせず、布団の中で問題を先送りにする。

 

 この行動も、僕が悠木有紗の事を理解出来ない一つの例だった。

 どうして今から起こす相手のいる部屋に来るっていうのに、足音を忍ばせる必要があるのだろう?

 我が家の階段が、どんなに静かに歩こうとも軋む音を消せないのは知っているだろうに。

 そもそも、どうして悠木有紗は僕を起こしに来るのだろうか?

 やっぱりわからない。

 

 せっかくの仮眠で僕の脳はレム睡眠一歩手前を彷徨っている。

 そんな役立たずの脳でもこの後に起こる事象を推測することは簡単だった。それこそ毎朝なんだから。

 

 建て付けの悪い襖(ふすま)がゆっくりと開く。

 まだ乱暴に開け放ってくれた方が対処し易いのに、まるで僕に気を使うみたいに襖を開ける。

 気を使うなんて、彼女に最も似合わない言葉の一つだ。

 廊下の冷たい空気と共に彼女が部屋に入ってくる気配を感じる。

 この瞬間こそ、柚山潤が最も苦手で、最もキライでない時間だった。

 

 一拍の間が空いて後

 

「ちょっと潤! 起きてるんでしょう? わかってるんだから! 毎日手間かけさせないでよね」

 

 毎朝、恒例の台詞が聞こえてくる。

 

 僕はミノムシどころか、カタツムリの強固な殻に閉じこもるが如く、掛け布団という最終防衛ラインで断固阻止の構えだった。

 まさに万全の構えだ。どうだ、やれるものならやってみろ。

 

「全く、毎朝無駄なことを」

 

 有紗は二つの手で丸まった布団の表面を無造作に掴む。

 

「うぉ?」

 

 よく分からないベクトルの加速度が僕を襲う。

 直後の浮遊感。有紗は僕ごと布団を真上に持ち上げたのだ。

 

 見事なくらい布団は宙に舞う。僕も舞う。

 視界はあり得ない角速度で回っている。もう何がなんだか分からない。

 気が付いた時には、僕はベッドの上に叩きつけられ、掛け布団は有紗の手の中に収まっていた。

 

「イタタタぁ、起こすなら起こすで、もっと別な方法あるだろ? なんだよその馬鹿力は?」

 

「あら、馬鹿で悪かったわね。確かにアンタより成績は悪かったわよ。

 大卒で二度目の大学生の私より、大学を即行で中退のアンタの方が上だったからって嫌味なわけ?」

 

「誰もそんなこと言ってないだろ?」

 

「ふん。それが毎朝、私のような可憐な美女に起こしてもらってる殿方の言葉なのかしら」

 

 自分で自分のことを可憐とか言っている所が、何とも可愛くない。

 そう、本人の言うように悠木有紗の容姿は神が授けたかの様に可憐であるけれど、性格は全く以て、可愛くない。

 それに掛け布団にしがみついていた僕ごと持ち上げるなんて、彼女のあのか細い腕のどこにそんな馬鹿力があるのか、未だに謎だ。

 

「起こすのが手間なら、起こしに来なければいいじゃないか!」

 

 それが本心でないことを、僕は自覚している。彼女のような奇麗な女性に起こしてもらうってのは、男の夢だ。

 本来なら泣いて喜ぶべきだろう。有紗がもっと淑やかならばね。

 さすがにこの世の中というのものは、そこまで都合良く出来ていない。

 

「あら? 別にアンタを起こすのが重要ではないのよ」

 

「何だよそれ?」

 

「アンタを起こさないと、朝食が始まらないでしょ」

 

「このタダ飯食らいが」

 

 確かに悠木有紗は母の手伝いをして朝食を作ってくれるが、当然の如く朝食を『御呼ばれ』していく。呼んでもないのに。

 

「いいじゃない。材料は下にいくらでもあるんだから」

 

「野菜は売り物だ! 八百屋が野菜を売らなくて何を売るって言うんだよ」

 

「真心とスマイルでも売れば? まぁアンタには出来ないでしょうけどね。このヒキコモリ」

 

「別にヒキコモってなんかないだろ……。仕入れの手伝いはしているんだから……」

 

 自分でも語尾のトーンが下がっているのがよく分かる。

 まぁ簡単にいうと図星なわけだが、家の手伝いをしている事も事実であって、僕は嘘をついていない事になる。

 でも、この後ろめいた気持ちは何なのだろうか?

 

「じゃあ、何で学校止めたのよ?」

 

 ポツリと言った有紗の目は余所を向いていた。

 長い付き合いだから、僕にはこういうときの彼女に冗談が通じない事をよく知っている。

 彼女は重要な要件や、本気で物を言っているときは相手の顔を見ない癖がある。

 だからこそ、僕もそんな有紗を直視出来なかった。

 

「別にいいだろ。そんなの有紗に関係ない……」

 

「何がどう関係ないっていうのよ!」

 

 口より先に手が出るってよくいうけど、有紗の場合、その両者は同時に放たれる。

 運動エネルギーというものは速度の二乗に比例する。僅か数gのスペースデブリが宇宙船の外壁に穴を穿つのは、その超高速が原因だ。

 つまり、僕の動体視力では軌跡すら捉えられない有紗の拳の持つエネルギーは如何ほどか……。

 

 冗談も通じないってことは、それでお終いってことだ。

 お終いってのは、僕にはどうしようもないってことと同じ。

 つまりは僕には反論の余地もなく。いや、元々反論する言葉など持ち合わせていない僕には有紗の主張を止める術はない。

 

 まぁ、なんだ。

 言いたいことは分からないでもないんだが……コメカミはやめてもらえるかな。

 脳震盪というのは慣れとか関係無く効くし、なんだか最近、服のボタンが留められなくなる気がして仕方がないんだよ。

 

 有紗は僕を起こすという仕事がそれで終わったと判断したのか、それともこれ以上僕とこの話題を続けることを無意味と思ったのか、僕の部屋を出て一階に戻っていった。

 

 僕が学校を中退した理由。

 そんなもの明確にあるわけじゃない。授業の内容に目新しいものがなく退屈だったとか、友達が出来なかったとか、そんな理由は後付の言い訳で、本当の理由じゃない。

 

 ただ僕は……、僕には学校に居場所がなかった。そう思ったんだ。

 

 

 

「はい、お醤油です」

 

「ありがと、有紗ちゃん」

 

 にこやかに醤油注しを手渡す有紗と、それを仏のような微笑みで受け取る母親。

 何らしか作為を感じずにはいられない構図での朝食も、さすがに三年以上続けていれば慣れてしまうのだから恐いもので、これが我が家の日常だった。

 

 背後で朝のニュース番組という名のBGMを奏でるテレビに、卓袱台(ちゃぶだい)を挟んだ母と有紗。三百六十五日変わらない朝食。

 先程、僕をKOした悠木有紗も、何事もなかったかのように味噌汁をすすっている。

 これもいつも通りの日常。我が柚山家のいつも通りの朝だ。

 

 金髪碧眼の有紗が、畳の間の卓袱台で味噌汁を飲んでいる。

 その光景は、見る人が見れば違和感この上ないはずだ。

 

 しかし我が家でそれに異議を唱える勇気ある反論者はいない。

 むしろ賛同者二名、投票棄権者一名で可決されるだろう。

 

「さすがね〜有紗ちゃん。このアルタリ大根の卵焼き美味しいわよ〜」

 

 な、この明らかに歯ごたえがおかしい卵焼きはこいつが作ったのか?

 

「いえいえ、おばさまのスクマイキのお味噌汁も絶妙に美味しいですわ」

 

 む、この味噌汁。明らかにえぐいんですけど? 味覚大丈夫か? 母よ、亜鉛とれよ。

 

「ありがと。でも、有紗ちゃん。ほんとお料理上手になったわねぇ。うちに来始めた頃はみりんとお酢を間違えていたぐらいなのに」

 

「やだ、おばさま。そんな昔の話、止めて下さいよ〜。ウェールズには、みりんなんて無かったんですから」

 

「あらあら。ついつい、思い出しちゃうのよねぇ。

 でも、もう大丈夫よ。どこにお嫁に行っても心配ないわ。おばさん。太鼓判押しちゃう」

 

 この辺が作為っていうんだよ。全く何を勘違いしているんだか。

 

「あら? どうしたの? 有紗ちゃん」

 

 その母の声にも有紗は返事をしなかった。有紗は黙ってこっちを見ている。

 

「おい、どうしたんだ?」

 

 僕にも有紗の様子が普通で無いことは直ぐに分かった。

 有紗の顔に表情がない。目は見開かれ、口を閉じることも忘れ時間を止めていた。

 一瞬何かの冗談かとも思ったが、有紗が普段言う冗談は言葉の表面だけでの話で、芝居がかったことをする奴じゃない。なら有紗のこの様子は何なんだ?

 

 有紗の視線はただ一カ所を向いていた。

 それは僕の顔……ではなく、僕の斜め後ろで独り言を奏でていたテレビだった。

 

「ニュース? あら、やだ。殺人事件なの? 物騒ね」

 

「ええ……」

 

 やっと口を開いた有紗は、それでも上の空だった。

 僕の死角からはテレビからの音声だけが聞こえてる。

 

『……現場から逃走した、犯人らしき人物の特定を急ぐと共に、広域に渡って注意を呼びかけています。

 以上、二月四日、朝のニュースでした』

 

 いつもは軽薄な笑みを浮かべているタレント系アナウンサーも、本来の正確無比な発音でニュースを読み上げていた。

 

 それはテレビという筺(ハコ)の中の出来事。普段はそれで片づくのが日常。

 でも、そのニュースに映る非日常の事件が、僕の記憶の片隅に封印されし忌まわしい欠片を呼び起こそうとしていることに、僕、柚山潤はまだ気付いてなかった。

 

 今はただ、『いつも通り』でない悠木有紗の事だけが心配だった。

 

 

 

(第2章につづく)

説明
 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

 僕は運命なんて信じない。
 信じられるわけがない。
 ただ、信じられるものは、彼女と僕の……。
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