真・恋姫無双 〜美麗縦横、新説演義〜 第三章 蒼天崩落   第九話 纂奪の始り
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遥か故旧の彼方に眠る記憶。

幾度となく繰り返されてきた外史の、積み重なり続けた私の記憶。

 

 

その記憶は全てが色褪せ、穢れ、思いだしたくもない様な塵芥にも等しい屑でしかなかった。

 

 

同時に、その世界にあるたった一色が、私の全てを突き動かしていた。

 

ただその一色が私を形作り、動かし、踊らせる。

 

 

 

温かな色合いのそれを、俗世では『血』と呼ぶ。

 

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私塾を飛び出し、叔母上と手を組み、各地で仇討ちを続けていたある日。

 

中央の然る官僚が、生前の母上を汚らわしい目つきで眺めていたという話を叔母上から聞いた。

 

 

その目を抉り、家畜の下物の中に放りこんでやろうと考えた私は、既に幾人もの仇を討ち果たしていた事からか、或いは未だ怖れを知らぬ若輩であったからか。

 

私は己の才を過信し、慢心していた。

 

 

 

些細な事からボロを出し、囚われの身と成り下がったその身を嘲笑したのは、薄暗い牢獄の中でも、冷たい床の上でもなかった。

 

嘗て私塾に置いて女人の如くと囁かれた容貌は別段気に留めていた訳ではなかったが、しかし彼の汚物はそうでもなかったらしい。

 

 

私の肌を暴き己の一物を滾らせ、畜生の如き蛮行を強要してきたのだ。

 

 

ただ苦痛でしかなく、屈辱でしかないその愚行は、しかし私に苦悶ではなく嘲笑を浮かべさせた。

 

己の無能、慢心、過信全てに対する侮蔑に脳髄の全てが云っていたのはせめてもの救いだったのか。

 

 

家畜のそれより余程の汚物に塗れた肢体を拭う事もままならず牢に放り返された頃、私は天井を仰いで己を嘲笑った。

 

 

無様な己を嘲笑い、侮蔑していたその笑みはやがて一つの確信へと変じた。

 

 

 

 

―――男児にて近寄り難きは女人にて寄れば易く、逆もまた然り

 

 

 

 

何時ぞや蔡?先生の教えにあった『間諜の心得』に似たそれは、実地を以て己の力の一つとして蓄える好機を得たのだと知り、私の中で一種の愉悦すら覚えさせた。

 

幸いにも隣人達は浮浪者、親無しが殆どの様で、どうやら彼の官僚は己の欲の他に上層部への手土産の一つとしてこういった者達を集めていたのか、囚われの身は齢十四、五の女子が数名と男児が二人居た。

 

 

同色の気があったのか、官僚は度々私の他の男児を連れて行っては愉しんでいるらしく、帰ってくる頃には大抵気力と生気を失った眼を浮かべていたが、その程度の事は私にとって瑣末な懸案にも成りえなかった。

 

 

囚われていた女子の一人に『g瑞(きすい)』と呼ばれる少女が居て、これが随分と愛でられているのか二日に一度は呼び出される始末であった。

自然、この女と同席して彼の下物を眺める事態になる事も度々あり、その都度女は年不相応な妖艶さを以て畜生の一物に奉仕していた。

 

私はこの女子に狙いを付け、その単語から一挙手一投足に至るまでを細大漏らさず覚え、より効率的に運用する方法を模索した。

 

 

畜生風情に従うのは恥辱の極みであったが、しかし一時の誇りの為に今後使いうるであろう技術を失うのはそれこそ馬鹿である。

 

 

三月も経つ頃には随分と慣れ、何時しか宴席の余興の一つとして牢から呼び出される事も出てきた。

無論g瑞の方も愛玩され、その頃になって漸く彼の女が嘗ては宮廷にも出仕していた舞の名手である事を私は知った。

 

 

聞けばg瑞の父は朝臣であったが気骨が過ぎ、奸臣に疎んじられて中央から退けられた事を恥じて憤死したそうだ。

その後g瑞は母も亡くし、途方に暮れていた所をあの下衆がかねてからの私欲によって捕えた次第だ、という話を閨でさも自慢げに話していたのを記憶している。

 

 

云われてみれば成程何処となく気品があるし舞にも精通しているものだと関心し、ではお前はどうだと問われてみれば学術と楽器を少々と答えるより他ない事に己の無才ぶりを痛感した私は、次にg瑞の『舞』を得る事を決心した。

 

 

物覚えの良い脳髄と身体をこの時程利便と感じた事はない。

 

だが同時に、所詮猿真似しかままならない己の非才ぶりをこの時程痛感した事もない。

 

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幾ら鍛錬を重ねようと、g瑞の舞うそれには遠く及ばず、精々が宛がわれた装束と扇子を以て注目を舞より逸らすばかり。

g瑞の舞う優美にして雅麗なそれと比べるまでもなく、例え畜生万人の好評を得ようと己の無能は変えようもなかった。

 

 

素足のままにざらついた床を滑れば足裏を切り、寝食を惜しんで舞の練習をしようとすれば下郎の夜這いに遭ってそれもままならず。

 

 

度々g瑞の舞を目にする機会を得ればその覆し難い差を痛感して更に己自身を追い詰める。

 

止まる事も留まる事も知らない負の連鎖は、しかし唐突に終わりを告げる事となった。

 

 

 

 

 

今更な話に戻るが、彼の官僚は牢の部屋分けを寵の有無、或いは高低にて決めていた。

私やg瑞の様に頻繁に招かれる者は外に近いが堅牢な部屋に押し込められる。但し食事は日に三度与えられ、藁も上等な代物だった。

他方、招かれそうになる度に駄々を捏ねて泣き叫ぶ女子の様な覚えの良くない者は奥の光すら差し込まぬ部屋に放り込まれ、食事も日に一度与えられれば良い方と云う始末だ。

 

 

己の矜持に殉じるか、己を曲げて生き恥を晒すかの択一に、私やg瑞は後者を、物分かりの悪い連中は前者を選んだ結果である。

 

 

囚われの身となって半年余り過ぎた、ある夜――――――

 

 

『敵襲ーッ!!敵襲ーッ!!』

 

 

滔々と落ちていた意識が暗の帳に引き戻され、けたたましい怒声と悲鳴がひたすらに鳴り響いた。

丁度その晩は私とg瑞の二人が奇しくも十日ぶりに同じ閨にあり、部屋の主である所の官僚は突如として轟いた襲撃の報に飛び上がると、着る者すらままならないままに隠し通路へと逃げ込んだ。

 

 

その背が完全に失せるのを見届けてから、私は床の下に押し込んでおいた衣類を手に取った。

これも奇しく、g瑞も同様の事を考えていたのか服棚に自分の服を押し込んでいたらしく、私が支度を整えた頃には既に己も用意を終えていたという具合だ。

 

 

部屋にあった金銀の類には目もくれず、兎角武器に成りえそうな長剣や二又槍をそれぞれに握った私とg瑞は戸を蹴破ると、火の手が上がる屋敷から飛び出した。

私やg瑞が押し込まれていた地下牢へ向かうには、屋敷を迂回するよりも庭先を一直線に突っ切った方が早いからである。

 

 

当然、襲撃した一団に見つかる可能性は十二分にあった。

 

だが不思議と私には、その連中が『私を』殺すとは思えなかった。

 

 

牢の方へg瑞を先に向かわせ、私は夜闇を緋色に染め上げる屋敷を眺めながら、背より近づく『彼女』の方をゆるりと振り向いた。

 

 

 

『―――此処にいたか、仲達』

 

 

或いは、必然にも似た確信があったのだろう。

 

未だ私に利用価値があると踏んだ叔母上が、かねてより帝の寵を得ている何進にとって疎ましいこの屋敷の主を討つ様にけしかけるであろう事を。

 

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『久しいですね、叔母上』

『……ほう?』

 

 

私の顔を見てか、或いはあの下衆から押し付けられた女人物の装束を見てか。叔母上はクスリと微笑んだかと思うと、実に興味深げな視線を向けてきた。

 

 

『何か、得る所があったのか?』

『……まぁ、色々と』

『ふむ…………これ、誰か』

 

 

叔母上が呼びつけると、甲冑に身を包んだ男が膝をついて頭を垂れた。

 

 

『この者を安全な所へ。私の知己であると閣下に伝えよ』

『はっ!』

 

 

淀みなく答える姿に鷹揚に頷いて、叔母上は歩を進めようとした。

 

気がついた時には自然と、私の身体は叔母上の道を遮る様に前に出ていた。

 

 

『……どうした?仲達』

『―――地下牢に、彼の汚物に屈服を余儀なくされた者達がおります。どうか……』

『皆まで云うな、分かっている』

 

 

 

 

 

今思えば、不思議でならない。

 

 

どうしてあの時、叔母上の言葉に愚直に頷いたのか。

どうしてあの時、自らg瑞達を助けに行かなかったのか。

 

 

己の身の保全を優先した代償が返ってきたのは、それから幾ばくかの時が過ぎてから。

 

先だって、叔母上の首を刎ね、温県一帯を血水に沈めてからだった。

 

 

 

 

 

「私を知っている、と……?」

「へへっ、左様で……」

 

 

そう言う小男の顔に、しかし私は見覚えがなかった。

 

 

「憶えておりませんか?嘗て然る官人に『飼われて』いた貴方様を御救い致しました者の一人に、貴方様を何進の元までお連れ致しました者の事を」

 

 

問われ、つと小男の顔を一瞥した。

 

それをどう受け取ったのか、小男はニタニタと卑下た笑みを湛えて続けた。

 

 

「あの日、司馬防様の御下命によって屋敷の『全て』を灰燼に帰し、その時の事、前後の顛末を知りうるのは今や貴方様と私のみ……」

 

 

ピクリと、肩が震えた。

 

 

「別段貴方様を揺さぶろうなどと考えている訳では御座いませんよ?へへっ……」

「………………」

 

 

その目の中に浮かぶ汚らわしい思考をあっさりと見抜けた己の聡さが実に煩わしい。

 

 

「ただ……変な噂が流れては貴方様もお困りでしょう?」

「何が望みだ?金か、地位か」

「へへっ、有難い事で――――――」

 

 

慢心し、頭を垂れた小男の刹那の油断は、しかし私にとって格好の瞬間だった。

 

短銃を懐から抜き去り、撃鉄を弾き、鋼の弾丸は瞬きの間に小男の肩を貫いて床へと沈む。

突如訪れたであろう激痛に理解し難い叫び声を上げる小男のうねる様にして上向いた胴めがけて、腰に提げた長剣を逆袈裟に振り抜いた。

 

 

鼻頭に、衣服に纏わりつく小男の穢れの全てが煩わしかった。

だがそれ以上に、気がかりが一つ。

 

 

「おい、貴様」

「アッ、ガ―――ッ!?」

 

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仰向けに倒れた小男の肩の辺りを踏みにじると、声にもなっていない雑音らしき何かを発して小男は目を剥いた。

その苦痛と絶望の表情の全てが、この小男に与えられて然るべき代物なのだと脳裏の端で数瞬思い、振り抜いていた長剣の切っ先を小男の腕に突き立てた。

 

 

「先程貴様は『全て』と云ったな?どういう事だ?」

「ア、ッ……ァッ!!」

「あの日の、あの半年の顛末を知る者が今や貴様と私のみだと?他の者はどうした」

 

 

剣を抜き去ると、男の腕から血水が噴水の様に吹き出した。

 

後で誰かに掃除させるか、と実にどうでもいい事を思い、視線を再び小男に戻した。

 

 

「云え。g瑞や他の童はどうなった?貴様らが殺したのか?それは叔母上の命だったのか?」

「ァ―――アッ!!」

 

 

必至の形相で小男は懸命に首を縦に振った。

どうやら正直に答えれば命を助けて貰えるとでも愚考したのだろう。

 

 

 

 

 

―――だが、

 

 

「そう……か」

 

 

私の胸中に訪れたのは、怒りでも、憎しみでも、哀しみでもない。

眼前の屑の助命も浮かばなければ、復讐などという短絡思考も及ばなかった。

 

在るのは、ただ突き付けられた事実への諦観にも似た感情と思考。

 

 

薄々勘付いていた、しかし認めたくはなかったそれは今、目の前に横たわった。

 

 

―――つくづく、私は運命とやらに嫌われているらしい

 

 

 

 

 

「この鈴に見覚えはあるか?」

 

 

小男の目の前に、私は紐で結った鈴の一つを見せた。

 

 

「これはな、私が嘗てある者から譲り受けた代物だ。別段高価という訳でもなく、それこそ何処にでも売っている様なただの鈴だ」

 

 

リィン、と静かに鈴は音を奏でた。

鼓膜を震わせるその音が、私には酷く懐かしく感じられた。

 

 

「『この牢獄を抜け出て、いつか何処かで再び会えたのなら、その時に返す』……と約束して、その者と私とを繋ぐ証として譲り受けたモノだ」

 

 

言葉が続くにつれ、小男の顔が恐怖からか蒼白に染まっていく。

構わず、私は淡々と続けた。

 

 

「―――誰から貰ったモノか、想像はついただろう?」

 

 

あの暗の牢にあって、静かに鳴り響いていた音色は、g瑞があの官僚から首輪の代わりとして付けられたモノだった。

両手足の首にそれぞれ付けられたモノの二つを、あの屋敷で離別する間際に渡されたのだ。

 

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『―――きっと、また何時か、何処かで会いましょう』

 

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「貴様の事は欠片も怨んでなどいない、憎んでもいない。それは事実だ、安心しろ。これは復讐でも憎悪でも憤怒でもない。そんな低俗な感情に身を任せる程に私は子供ではない」

 

 

抉る様に突き立てた剣は肩口の穴を広げ、何か硬い物体に触れてもそれを削って更に穴を大きくしていく。

 

 

「遣る瀬無いんだよ私は。己の無知に、無能にいい加減呆れを通り越して怒りすら覚える様になったんだ」

 

 

結局、私は運命という縛りに振り回されるだけの駒。定められた盤上で愉快に踊るだけの道化師。

 

 

 

―――だが、今となってはそれも最早どうでもよくなった。

 

 

 

「愛してなどいなかった。穢れきった私に彼女を、誰かを愛する資格などないのだから」

 

 

月であろうと、朱里であろうと、g瑞であろうと。

 

 

「私は一人で死ぬのだろうよ。獄界で永劫の裁きを受け、あらゆる責め苦を味わい、それでも尚苦しみ、痛み続ける」

 

 

私は誰かの傍には居られない。

誰かに何かを『与える』事など出来よう筈もない。

 

 

「―――だが、今生の、永遠に覚めぬ悪夢よりは余程マシだろう?」

 

 

だからこそ、決意したのだ。

 

 

『与える』のではなく『奪う』のだと。

平穏を奪う存在そのものを奪い、潰し、殺せばいいのだと。

 

 

「私は何一つ求めない。ただ平穏を穢す者を奪い、中原を脅かす者を潰し、天下に唾吐く者を殺して殺して殺しまくる」

 

 

孤独?

むしろ望む所だ。

 

 

「その手始めに、貴様を殺す。ただ――――――それだけだ」

 

 

突き付けた銃口が、火を噴いた。

 

 

 

 

 

 

g瑞の亡骸は何処にもなかった。

元より期待など欠片もしていなかったが、律儀にも報告してきた青藍の愚直さをまずは褒めるべきだろう。

 

 

「…………」

 

 

伝国の玉璽も、金銀の散りばめられた玉殿もいらない。

掌の中に踊る一対の鈴だけが、私の思考の全てを占めていた。

 

 

「…………」

 

 

このまま永遠に、ただ鈴の音だけが響く世界に一人取り残されるのも悪くはないと思った。

 

脳裏を過るg瑞の表情は、いつも最期に見た笑顔で。

朱に染まる屋敷に顔の半分を照らされ、夜闇にあって輝いて見えたそれは鈴の音が鳴る度に私の脳裏を掠めて消えていく。

 

 

その姿に何故か。

 

何故か、嘗て抱いて、そして消した筈の想いが蘇る。

 

 

あり得ない筈なのに。

 

 

思いの矛先はg瑞なのか。

 

 

 

それともその姿が重なる少女―――朱里に向けてなのか。

 

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「仲達さん?入りますよ〜?」

 

 

戸を二回叩き、室内からの返事が届かない事を不審に思った風は一応の断りを入れてから戸を開いた。

 

見れば目的の人物は机に両手をつき、卓上に置いた袋の上には二つの鈴が転がっていた。

 

 

「どうなさったんですか〜?そろそろ皆さん、支度が整いますよ〜?」

「…………」

 

 

問いかけても、司馬懿はまるで反応を返さない。

まるで心ここに非ずといった風に、彫像の様に微動だにせず、ただじっと卓上の鈴を見つめている双眸は、しかし何処か遠くを映している様にも見える。

 

興味に駆られた風は歩み寄り、司馬懿の袖をクイッと引っ張った。

 

 

「…………」

 

 

だが、やはり反応がない。

 

不思議に思い小首を傾げた風は、次いで卓上の鈴に目を向けた。

 

 

取り立てて特殊な意匠が施されている訳でも、世に二つとない名品という訳でもなかろうその鈴は、しかし丁寧に織り込まれた袋の中にあったであろう事から彼の懐旧の品である事が察せられる。

 

その相手が誰なのかは分からなかったが、それを考えると風は自分でも知らない内に不機嫌になっていた。

 

 

「むぅ……」

 

 

不満が吐息となって口をついて出る。

そこに至って、漸くといっていい程に久しく司馬懿が僅かに身体を震わせた。

 

 

「…………風?」

「むぅ、漸く気づきましたか?」

 

 

まるで初めて自分を見つけたかの様な視線を向ける司馬懿に風が憤懣を露わにすると、二、三度目をパチクリさせてから司馬懿は再び視線を鈴に戻した。

 

 

「大切なモノなんですか?」

「……大切、か」

 

 

問うた風に、しかし司馬懿はうわ言の様な呟きを返すだけだった。

 

 

「フフッ…………」

「……?」

「なぁ、風」

 

 

何を思ったのか、司馬懿は卓の上にあった鈴を纏めて手にすると、それを握った自らの拳を見つめながら風に問い掛けた。

 

 

「人は己の大事にしていたモノが壊された時、涙を流すか?」

「……と、思いますけど?」

「そうか……いや、そうだな。普通はそうさ、そうなる筈だ」

「…………?」

 

 

己に言い聞かせるかの様に、自問する様に。

独り言であるかの如く呟き続ける司馬懿を不審に思って、その顔を覗きこもうと風が身を屈ませた瞬間―――

 

 

「ッ!?」

 

 

目の前で突然、血が舞った。

 

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司馬懿の掌から滴る血はボタボタと垂れ、床に赤黒い斑点を広げていく。

鈴を握り潰した己の手を凝視しながら、やがて司馬懿は驚きに目を見開いている風を余所に、一人嘲笑にも似た笑みを零し始めた。

 

 

「フフフ…………クッ、ハハハ」

 

 

やがてゆるりと開いた掌には、割れた無数の鈴の破片が痛々しく突き刺さっていた。

 

だが、それを視界に収めると、司馬懿はより一層笑みを濃くして嘲笑った。

 

 

「ハハハハハ……アハハハハハ!!」

「ちゅ、仲達さん……?」

 

 

これには流石の風も度肝を抜かれたのか、表情をあまり崩さない彼女にしては実に珍しく驚きを隠せない様子で司馬懿に問い掛けた。

 

 

何をしているのかと。

何がそんなに愉しいのかと。

 

 

だが風の疑問が口から出る前に、司馬懿が視線を風に向けた。

 

 

 

 

―――刹那、風の背筋を冷たい何かが撫でた。

 

 

 

 

今まで感じた事もない様な恐ろしい寒気が風の頭から足先までを一瞬で貫き、狂気と冷徹さを孕んだ司馬懿の瞳に映る自分の表情が嘗てない程に驚きに染まっている様子が容易に見て取れた。

 

 

「……なぁ、風」

「…………」

 

 

答える事は出来ない。

口の筋肉が微動だに、自らの意思では筋一本すら動かせなくなっていた。

 

 

だがそんな風の様子に気づいた様子もなく、司馬懿はしかしその双眸に風を映して続けた。

 

 

「―――私は今泣いているか?万民と等しく涙を流し、己の失を嘆いているか?」

 

 

彼の頬には、何も伝っていない。

 

 

「私には未だ、幾ばくかの人の子としての心が残っているか?泣き、悲しみ、悼み、嘆くという感情を、持っているのか?」

 

 

その笑みに、一片の曇りも見せずにただ整然と。

 

 

 

 

 

 

「…………駄目なんだよ、風」

 

 

ややあって、司馬懿は独り言の様に呟いた。

 

何時の間にかその体躯は戸の方へと向かっており、気がつけば風は誰もいない方――先程までは確かに司馬懿が居た筈の場所――を向いて立ち尽くしていた。

 

 

「私は、もう後戻り出来ない。君や、紅爛や、青藍と違って」

 

 

静かに、戸の開く音が響く。

 

 

「―――もう、涙を流す事すら出来なくなっているんだ」

 

 

ずっと遠くで、何かが閉まる音だけが風の鼓膜を揺らした。

 

 

説明
所謂「暗い過去」です。
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