真・恋姫無双 〜美麗縦横、新説演義〜 第三章 蒼天崩落   第十話 雷鳴の慟哭
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ギィ、と軋む音を立てて戸が開き、埃の積もった一室に光を差し込ませた。

窓には黒布を被せ、部屋の一切を黒で統一したかの様な空間に戸を開けた人間は僅かに顔を歪ませ、次いで室内に座す一人の老躯を見やった。

 

 

「……ほ、誰かな?」

「…………私です。先生」

 

 

室の主―――蔡?は、既に光を失った眼を何処かに彷徨わせ、しかし届いたその声音に皺だらけの顔に喜色を浮かべた。

 

 

「おお、おお……仲達か。上がりなさい」

「失礼いたします」

 

 

深く頭を垂れて、一人の青年――司馬懿――がゆっくりと部屋の中へ入り、蔡?のすぐ傍に腰を下ろした。

ピンと張った背筋と締まった容貌の所作に己の知りうる最上の礼を詰めてもう一度司馬懿が頭を垂れると、蔡?はその動きを察してか鷹揚に手を振った。

 

 

「よさぬか、らしくない」

「私にとって、先生は先生です」

 

 

凛と張り詰めた声音で、しかし何処か懐かしさを込めた様な、そんな声音で告げる司馬懿に蔡?はニカッと笑みを浮かべた。

 

そんな姿が、司馬懿には痛ましく見えてならなかった。

 

 

「具合は如何ですか……?」

「主の来る四半刻程前に匙を投げおったわい」

 

 

云って、蔡?は肘より先を失った腕と光を亡くした眼を司馬懿に見せた。

 

 

都に蔓延る害悪――十常侍を筆頭とする諸々の宦官や悪吏の類――を堂々と非難した蔡?は、怒り狂った彼らによってその悪行を記す為の腕と、真実を映し続けた眼を奪われた。

 

その後まもなく董卓が洛陽を治めてからは、その才を惜しんだ董卓によって医師が宛がわれていた訳だったのだが。

 

 

「……………………」

「何じゃ、別に主の腕と目が失われた訳ではなかろうに」

「……先生、私は」

 

 

久しく邂逅した師の現状に、己が何一つ出来ない事が歯がゆい。

嘗てその門下に比肩する者はいないとまで謳われた癖に、現実に己に何が出来る?

 

その苛立ちが言外に伝わってしまったのか、蔡?は憮然とした様な声音に変えて司馬懿に云った。

 

 

「阿呆。己を何様と思うておるか主は」

「しかし……」

「人は所詮人に過ぎぬ。己一人で何もかもを成そうとするなど、愚の極みに他ならんわ」

 

 

馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに蔡?は鼻を鳴らす。

その姿に、司馬懿は黙すより他なかった。

 

 

「…………で、何用か?」

「何、とは?」

「今更何の必要があってこの爺の所に来たのかと問うておる」

「…………お見通し、ですか」

 

 

敵わないな、と司馬懿は自嘲する様な笑みを浮かべた。

 

 

「何ぞ、用向きがあって来たのじゃろう?水鏡の所で何かやらかしたか?」

「………………先生」

 

 

酷く重苦しく、凍てついた声音で司馬懿は口を開いた。

先程まで柔和な好々爺の様な笑みを浮かべていた蔡?は、その声音に何事かを感じて顔から笑みを消す。

 

 

「―――私を、破門にして頂きたい」

 

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「私はこれより人道に背き、倫理を犯し、先生の門弟として、水鏡氏の学びを受けた者として、超えてはならぬ境地へ向かわねばなりません。私は先生の教えを、誇りを、名を穢したくはありません」

 

 

深く、頭を垂れて司馬懿は告げた。

 

 

「この愚か者に一言『破門』と告げて下さるだけで結構で御座います。どうか、御頼み申し上げます」

「…………何ぞ、あったか」

 

 

疑問ではなく、確認。

蔡?の問う言葉に、司馬懿は押し黙ってただ頭を垂れた。

 

 

「それは語れぬ事か」

「……………………」

「今直ぐ為さねばならぬ事か」

「……………………」

「儂の門弟では叶わぬ事か」

 

 

何も、答えない。

答えられないのか、答えたくないのか。

 

ややあって、蔡?は深い息を洩らした。

 

 

「…………主程智に愛され、才に愛され、そして愛した人間もそうはおるまい」

「…………」

「これまで数多の才を見、そして育ててきた儂にとっても、主程の男を見出せた事は誇りに等しい」

「…………」

「……その主が、何故人道に背かねばならん?」

 

 

 

 

 

「主の歩く道こそ、主にとっての『人道』であろう?」

 

 

 

 

 

「主の同輩には特に優れた子女が多かった……主ら程の奇傑達の行く末を見届ける事が、この爺の楽しみであったというのに」

「…………」

「……儂は、主の力量を見誤っていたという事か」

 

 

その言葉に、僅かに司馬懿が顔を上げた。

 

 

「主は旧来の形に囚われぬ、新たな時代を築くに相応しい才と思うていたのに。結局は名に固執し、誇りに跨る愚か者と大差なかったか」

「先生、私は……!」

「もう良い。…………何処へなりとも往け、この大馬鹿者が!貴様など破門じゃ破門!!二度と面を見せるな!!」

 

 

苛立った様に叫ぶ蔡?に戸惑いながらも、しかし司馬懿はしっかりと頭を垂れてから部屋を後にした。

その気配が遠のくのを感じて、蔡?は小さく息を洩らした。

 

 

 

 

 

「………………爺一人に、そこまで孝を尽くす事があるか。馬鹿者」

 

 

律儀で、不器用で。

誰よりも伸びる力がありながら、誰よりも伸び難いあの男の枷になるくらいなら。

 

 

「―――天を往け、司馬仲達」

 

 

もう二度と会う事もないだろう。

だからこそ、蔡?には彼をつき離す事しか出来なかった。

 

例えそれが、彼を孤独につき落とす事になるのだとしても。

 

 

 

嘗て自分を父の様に慕ってくれた、あの優しい童子を。

 

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荊州、樊城。

徐晃らが立て篭もるこの城は、先だって宛から救援に駆け付けた春蘭、秋蘭らも加わり、関羽を始めとする巴蜀の軍勢と一進一退の攻防を繰り広げていた。

 

折しも空は暗雲立ち込める曇り空。

先刻から降り始めた雨はやがて雷鳴を伴い、沛然と降りしきる豪雨の中に兵達の叫びが上がっていた。

 

 

「進めェ!!奴さん方にひと泡吹かせてやりな!!」

 

 

巴蜀の先陣を突っ切るのは、山賊上がりながら義侠心に富んだ関羽の右腕、周倉。

身の丈程の薙刀を振りかざし、宛ら水車の如く暴れるその刃に鎧を切り裂かれ、或いは首と胴を離され、赤い血水を上げて兵達は倒れていった。

 

 

「周倉さん!!こっちはもう大丈夫だ!アンタは大将の所へ!!」

「応よ!俺よか先にくたばんじゃねぇぞ!!」

 

 

迫ってきた兵の一人を殴り飛ばし、軽口を叩きながらも周倉は駆けだした。

 

元々別動隊であった手前、早急に本陣に合流したい。

普段から騎兵と並走出来る程に鍛え上げていた脚力を存分に発揮して、周倉は戦場を奔った。

 

 

 

 

 

成都から南蛮制圧に軍師諸葛亮、超雲将軍が動いたのが一月近く前。

粗方の目処が立ったとの報を受け、後顧の憂いを絶った関羽は遂に許昌へと攻め上がる為に軍を動かした。

 

荊州樊城を守るのは、魏でも名うての武人・徐晃。そして鬼謀の傑・郭嘉を軍師とするだけあって、その陣容は堅固を極めた。

そこで成都から派遣された馬良が立案したのが『水攻め』である。

 

樊城傍を流れる川を堰き止め、雨の到来と共に濁流を樊城に押し流す。

丁度雨期に当たるこの時期だけあって、雨は直ぐに振り出し、見る見る間に水は溜まった。

 

 

そして堰を切った濁流は恐るべき速度と勢いを伴って樊城を攻め、一瞬にして堅牢な城門をぶち破った。

 

だが奇しくもその直後、後方から曹魏の援軍が襲来。

結果、傾きかけた大勢は再び均衡する事となった。

 

 

「大将……くっそ、何処行きやがった!?」

 

 

ひたすら城へ向けて駆ける。

大地を駆け、水溜りを跳ね、ただひたすらに駆け抜ける。

 

 

 

 

 

 

 

―――そうして、周倉は関羽を見つけた。

 

 

「――――――アアァァアァアアアァァアアア!!!」

 

 

絶望を嘆き、憤り、怨む様な。

地の底から目覚めた悪夢の様な、激しい慟哭に染まった主を。

 

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城門を突っ切って向かった先で愛紗の目に映った光景は、彼女にしてみれば酷く認め難く、そして信じられない景色だった。

 

 

赤黒い血色に染まった水が広がり、足首の辺りまで浸かる雨水は緋色の波紋を広げる。

 

 

己の艶やかな髪を、珠の様に穢れを知らぬ肌を滴る雨粒とは明らかに異な『朱』は、彼女の目の前で再び飛沫を上げて暗雲雷鳴の立ち込める空に向かって吹きあげた。

 

轟々と降り荒ぶ雨の中にあって、しかしその光景は克明に彼女の瞼に焼きつき、耳を打つのは雨足の酷くなる音ではなく凶音。

 

 

阿鼻叫喚の、誰ぞ怒り叫ぶ狂気の声音だった。

 

 

 

 

 

「――――――水攻めか。中々に賢い」

 

 

愉悦に富んだ、感心した様な声音。

足元に幾つもの頭と胴を転がし、象徴たる紺碧の『魏』の牙門旗を踏み躙りながら、其処に立脚するのは一人の青年。

 

 

「門は堅牢、後手に増援……その全てを一呑みにする程の才が、貴様らにあったか」

「……ッ!」

 

 

長年の友である偃月刀を握る手に力が籠る。

その切っ先は既に万を超える血を吸いながら尚閃光を鈍らせず、数多の豪傑と渡りあってきた朋友。

 

 

―――それを携えし戦乙女は万夫不当、一騎当千。

 

 

数多の賛辞を欲しいままにしてきた己の半身は、しかし彼に向き直った途端にその矛先を僅かに震わせた。

 

 

「誰だ貴様は……?この機に乗じて我らに寝返ろうとでも企んだか?」

 

 

無論、窮して安易に主君を裏切る様な不届き者を敬愛する主の元に置くつもりはない。

この場で両断し、高々と鬨の声を上げる心持であった。

 

 

 

―――だが。

 

 

「―――フッ」

 

 

男は、ただ哂った。

 

 

追い詰められて狂ったという風ではない。

 

明らかに己の確固たる意志を以てして、男は哂った。

 

 

「関羽雲長。万夫不当の傑にして、剛勇無双の忠臣」

「……………………」

「その義侠心もまた並び立つ者はなく、後世幾万の人間にも語り継がれるであろう武辺者」

「………………?」

 

 

一拍置いて、男は呟いた。

 

 

「――――――そう。

 

敬服する主一人守れぬ、愚か者」

 

 

言って、地に一振りの剣を突き立てた。

 

瞬間、愛紗の眼が驚きに見開く。

 

 

「なっ……!?」

 

 

あり得ない。あり得る筈がない。

 

そこにあってはならないモノが、ある筈のないモノが―――

 

 

 

 

 

『靖王伝家』が、其処にあった。

 

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血水を吸い、赤黒く染まった刀身を雨粒が伝う。

主君の傍らに、その腰に提げられ、或いは将兵を鼓舞する為に輝いていたその光は失われ、今はただ低俗な錆ついた剣の様にぞんざいに扱われている。

 

しかしそれでも尚、愛紗には確かに目に映った。

常に傍らにあった少女が、主が手に取った剣が―――

 

 

「貴様ァァァッ!!!」

 

 

口をついて出た言の葉は、怒り。

それが言葉という形を成し得たのは、僅かに残っていた『理性』故か。

 

感情のままに地面を蹴り、己が持つ全ての力を込めて振り抜いた朋友は、しかし虚しく宙を切り、大地を抉った。

 

 

「あの様な小娘には随分と不釣り合いな代物で驚いたぞ?よもやこれ程の名剣が埋もれていたとは……」

「黙れッ!!!」

 

 

声のした方に刃を振う。

怒りの矛先はまたもや虚空を裂いたが、代わりとばかりにその刀身に重みが加わった。

 

 

「―――己の無能を他者にぶつけるか。片腹痛い」

 

 

舞い散る木の葉の様にスッと降り立った男は、手に主の剣を携えて笑んだ。

 

恍惚とした、何処か狂気を孕んだその微笑は青年の整った容貌と相まって一枚の絵画の様でもあったが、しかし愛紗にとってはその全てが憎悪の対象でしかなかった。

 

 

「―――ッ!!!」

 

 

振り上げ、男の体躯は空を飛ぶ。

その着地点を本能的に感じた愛紗は駆け、裂帛の一撃を構えた。

 

幾人もの達人を、天才を屠ってきたその刃は歪な音を立てて大気を切り裂き、憎むべき優男の胴を真っ二つに切り裂く―――筈だった。

 

 

 

 

 

「――――――愚か」

 

 

 

 

 

羽ばたきの様に小さな声音と共に、両の腕には何かを切り裂いた手ごたえがあった。

 

だが振り抜いた先に響いた音は、鉄の弾け飛ぶ音。

甲高い音が雷鳴と共に響き、切り裂いた刃は振り抜かれたまま、愛紗の視界から失せた。

 

 

「大義。正義。中興。復興」

 

 

地に突き立つ刀身は、その切っ先を大地に埋め、半身の辺りでその切り口を露わにしていた。

 

 

「その口をついて出る言葉の全てが欺瞞にして傲慢」

 

 

宙に何かが回転し、やがて落ちてくる音が鼓膜を揺らす。

 

 

「幾つもの命を奪い、殺め、穢し、散らしてきた先に、己の掲げる理想のみを是とした」

 

 

男の背。開けた広場で向かい合いながら、しかし愛紗の目には眼前の青年ではなくその後ろに落ちた剣の残りの部分が映った。

 

 

「―――なぁ、教えてくれないか?」

 

 

見慣れた柄と、そこから零れ出た珠。

それら全ては、己の敬愛するあの方の傍に――――――

 

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「今、貴様には何が残っている?」

 

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「ちぃ……ッ、だぁらっ!!」

 

 

山賊を生業としていた頃から鍛え抜いてきた腕に力を込め、拮抗する歪な波紋の様な刀身を弾く。

元来、武器に頼らない攻め手を得意と自負する周倉は、しかし今眼前で猫の様にしなやかな飛び退きを見せた女傑を前にして冷や汗を垂らした。

 

 

―――オイオイ、冗談きついって。

 

 

心中でそう呟きながら、周倉の耳が何かの擦れる音を捉える。

 

 

「そっちかっ!!」

 

 

振り抜いた偃月刀は瞬間、甲高い音を立てて今しがた視界から姿を消した筈の刃を捉えた。

 

 

―――何でアンタらとやり合わなくちゃならねぇんだよ?

 

 

だが、そこに『人』の姿はない。

 

 

「ハッ!!」

「ッ!?」

 

 

直後に背部を襲った衝撃に、たまらず周倉の体躯は雨に濡れる大地を滑った。

 

 

―――アンタらは『こっち』側の人間だろ?

 

 

痛みに苦悶の表情を浮かべながら、しかし休む間もなく周倉は刃をとる。

 

眼前の女傑は俊敏な猫。

しかしその牙は猛虎をも抉る一撃必殺の暗殺剣。

 

流石は、江東が誇る―――

 

 

「甘、興覇ァ!!!」

 

 

 

 

 

叩きつけた刃は、鍔迫り合いになる様にして甘寧を捉えた。

 

 

「何で孫呉は裏切った!?テメェらと俺らは盟友じゃなかったのかよ!?」

「黙れッ!!敵にくれてやる言葉などないッ!!」

「コイツはアンタらの大将の決定か!?それとも姫さんの独断か!?答えやがれ!!」

「黙れと言っているのが―――聞こえんか!!」

 

 

甘寧が飛び退く。

周倉の刃は地面を喰らい、しかし瞬間周倉の体躯は既に大地を駆けていた。

 

 

「ッ!?」

 

 

岩の様に硬い突進に、幾ら鍛えたといっても所詮は女性の身。甘寧の身体は弾き飛ばされ、鈴音が彼女の手を離れた。

 

咄嗟にその場を退こうとした甘寧は、しかし両手足を周倉に抑えつけられて動きを封じられた。

 

 

「ッ……離せッ!!」

 

 

反射的にだろうか。

周倉は腰に提げていた小刀を引き抜き、それを即座に構えた。

 

 

―――狩られる前に狩れ

 

 

獰猛な獣を多く相手にしてきた彼にとって、それは極自然な動作でしかなかった。

 

怒りに震えるままにその刃をつきたてれば、少なくとも彼にとっての全てに決着はついた。

 

 

「――――――戦の最中になーに盛っちゃってくれてるわけ?」

 

 

刹那、響いた声音と共に襲い来た衝撃さえなければ。

 

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「こんな雨の中で野外交尾?見かけ通りの野獣って訳かそーですか」

 

 

随分と気だるそうな声で、しかし周倉の目に映ったのは一部の隙も見せない朱色の装束を纏った青年。

 

 

「凌、統……!」

 

 

咳き込みながらも、驚いた様に甘寧が声を上げた。

その姿――泥に半身が塗れ、雨に濡れた体躯――を一瞥し、凌統は再び視線を周倉に向けた。

 

 

「コイツの首、俺が先に予約してるんだけど勝手に取らないでくれる?」

「へっ……そいつぁ、悪かったな」

 

 

顔についた泥を拭い、周倉は不敵に笑んだ。

一応荒剃りして髪も結ったとはいえ、その容貌は元山賊の長だけあって悪面そのもの。

 

自然、凌統の笑みは引き攣った。

 

 

「だが、殺さなきゃこっちが殺されそうだったんだ。大目に見てくれよ」

「―――ハッ、冗談!!」

 

 

凌統の脚が、唸った。

 

風を切り裂いて迫る脚は、当たれば違いなく肺腑を抉り骨を砕く武器。

腕で防ごうものならそれこそ腕が吹き飛ばされる。

 

故に周倉のとった行動は、絶対回避。

 

鼻先を掠める様にして虚空を切り裂いた脚を視界の端に捉え、周倉はその場を飛び退く。姿勢を崩す事は即座に死に直結するだけにその動作は慎重で、しかし機敏であった。

 

あまりにも素早い行動に、凌統は盛大に舌打ちした。

 

 

「チッ!見かけの割にすばしっこい!!」

「攻撃が見え見えなんだよ小僧!!」

「とっととくたばりやがれクソ爺!!」

 

 

独楽の様に身体を捻り、上段から繰り出された踵落としを、しかし周倉は後方に一際大きく飛び退いてかわす。

 

降りしきる雨に濡れた前髪を退けると、自然と周倉の手は脇腹の抑えへと向かった。

 

先程凌統がその鋼の様に硬い足裏で蹴り飛ばした個所は、まだ見ていないが恐らくは蒼白く腫れ上がってる事だろうと駆け抜ける様にして伝わる痛みから推察した周倉は、このまま長々と戦い続ける事が得策でない事くらいは既に熟知していた。

 

 

―――退けるんだったらとっくに退いてるんだけどなぁ

 

 

今自分が下がれば、単に戦略上の失敗では済まされない。

混乱が蜀軍に伝わってしまえばこの地のみならず数多の将兵を失う事になるかもしれない。

 

 

何より……

 

 

「……へっ」

 

 

―――仮にも武神の片腕を自称している奴が、おめおめと引き下がれるかっての!!

 

 

「歯ァ食い縛れ、クソガキ共」

 

 

言うと、周倉は静かに腰を落とし―――

 

 

「『左腕』の一撃は、重いぜ?」

 

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「……………………」

 

 

天より降り、身に注がれる雨の全てが煩わしい。

 

青藍は鬱蒼しそうに髪を掻き上げると、水を吸って身体に纏わりつく衣服を見やった。

 

 

「グッ……ッ……」

 

 

足元に転がる女を興味なさげに一瞥すると、何を思ったのか青藍は手に携えた剣を振りかぶり、近くにあった脚へと突き立てた。

 

 

「ッ!?ア、ァ……!」

 

 

華琳直属の近衛隊の一団は、この城の防備に回されていた。

黒い鎧兜を纏った彼女は、その中でも司令官相当の職務に就いていたのだろう。一際誂えが重厚で手の込んだ物を使用している。

 

だからといって別段気に病む必要は、青藍にはなかった。

 

 

「煩い」

 

 

呟いて、剣を抜く。

 

夥しい量の血が流れ出し、足元の水を血色に染め上げる。

その匂いを感じ、青藍は顔を顰めた。

 

鉄臭く、汚らわしいそれに、嘗て散々全身に、体内に注がれた忌まわしい代物を幻視したのか、握る柄に力を込めて今度は逆の脚を切り裂いた。

 

 

「消えろ」

 

 

肉を裂く感触も、女の悲鳴も、何もかもが遠い。

ただ鼻をついて香るその臭いが、どうしようもなく彼女には不快だった。

 

 

「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろきえろきえろキエロキエロキエロキエロキエロ!!!」

 

 

狂った様に何度も何度も。

脚を、腰を、手を、頭を。全身にくまなく刃を突き立て、抜き去り、それでも尚悪い夢を振り払うが如く青藍は呟き続けた。

 

 

 

 

 

『……ッ、青藍』

 

 

敬愛する主に初めて招かれた閨の中で発作の様に蘇ったあの忌まわしい記憶は、最も愛する人の身に痛みを突き立ててしまった。

 

痛みに歪んだ司馬懿の表情を見てそれに気づいた瞬間、青藍は弾かれた様に床を退き、部屋の隅に逃げる様に後ずさった。

 

 

『ごめ、んなさい……!許して、下さい……!!』

 

 

また殴られる。

はたかれ、蹴られ、また乱暴される。

 

悪夢の様に蘇るその恐怖から、青藍は身を丸く縮めて身体を震わせた。

 

 

『青藍……』

 

 

青藍は耳を塞いだ。

 

聞きたくなかった。

敬愛するこの人の口から、その声音で紡がれるであろう拒絶の言葉を。

 

そしてまた孤独になり、あの日常に戻るのが、怖かった。

 

だから青藍は、一歩一歩自分へと歩み寄る主の気配に目をきつく瞑り―――

 

 

 

『青藍』

 

 

身を包んだ温もりに、目を見開いた。

 

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「ケ艾、さん…………」

 

 

肩が上下し、随分と荒れた息を整える。

目の前で肉塊に変じるまで切り裂かれ続けた『ヒトだったモノ』の所為なのか、半身を赤黒く染め上げた青藍は顔に付着した血を拭う事も忘れて声のした方を向いた。

 

 

「……徐晃」

 

 

曹魏荊州防衛線の主将。

武においては夏候惇、張遼に比肩するモノがありながら、戦術眼も卓越した大将の器。

 

身の丈程もある大斧を自在に操るその様は、赤黒い戦場に咲く一輪の花。

 

白を基調とした鎧とその下に見え隠れする衣服、そして女性としての魅力溢れる肢体は異性は元より同性すら羨むであろう逸品。

 

 

「どうして、こんな事を…………?」

 

 

だが、彼女は実に『らしくない』武人だった。

 

 

戦は嫌い。

人を殺すのも嫌い。

争うのも嫌い。

 

 

だから戦場でも極力相手を無力化する事に奔走し、殺さずに済む相手は出来る限り殺さない様に尽力する。

そんな、曹魏に似つかわしくない方針の彼女が先頭に立ったからこそ、曹操は荊州の反劉備の勢力の大部分を取り込む事に成功したといっても過言ではない。

 

 

 

―――最も、そんな事は全て青藍にしてみればどうでもよかった。

 

 

「『こんな事』……?」

「どうして……どうして華琳様を、魏を裏切る様な蛮行を!?」

「『蛮行』……?」

 

 

青藍の目がギロリと向いた。

だが唐突な事態に驚いているからか、菫は気づいた様子もない。

 

 

「仲達様の為さる事を、『蛮行』と……?今そういったの?」

 

 

肉体の奥底から何かが滾るのを青藍は感じた。

何よりも熱く、それでいて酷く凍てついた何かが全身を血の様に巡り、体中が震える。

 

 

「己の野心の為に命を犠牲にする。その様な行いは、非道。畜生の蛮行以外の何者でもありません!!」

 

 

徐晃の言葉の一つ一つが、酷く青藍の脳を叩いた。

 

 

非道?

畜生?

蛮行?

 

 

「ケ艾さん!!どうして、どうしてそんな非道な行いに手を貸す様な真似をなさるのですか!?お願いです、目を―――」

「黙れ!!!」

 

 

跳ねた脚が、構えた腕が。

全てが一振りの剣となって、徐晃の体躯に突き刺さった。

 

 

 

 

 

「ア、ッ……ガッ…………!?」

「貴様に何が分かる……貴様があの御方の一体何を知っている!?」

 

 

腹を貫いて突き立つ刃に菫は目を見開いた。

 

己の武に驕りがあった訳ではない。

だが瞬間的な事もあったし、何より身内故の『甘さ』が彼女の中にはあった。

 

 

―――きっとこの子は騙されているだけ。悪いのはあの司馬懿という男。

 

 

男性不信に近い性癖を持つ彼女にしてみれば、ごくごく自然で、それでいて当然でしかない帰結だった。

 

だが、返ってきたのは死を伴う凶刃。

 

 

「あの御方は私を見て下さった。私を優しく包んで、愛して下さった。それを貴様は、良く知りもしないで非道と、畜生と、蛮行と罵るのか!?」

 

 

震えた声音で紡がれる言葉に、菫は目を見開いた。

 

 

―――この子は、ここまで毒されてしまったのか。

 

 

「それは、偽り……貴女はあの男に、騙されて……!!」

「煩い……煩い煩い煩い!!!」

 

 

キッと睨みつけた青藍は、菫の腹を蹴り飛ばして剣を抜いた。

痛みに朦朧としていた菫の体躯は容易に吹き飛び、力なく大地を滑る。

 

腹から広がる血溜まりに沈みながらも、菫は叫ぶ様に言葉を続けた。

 

 

「お願い……目を、覚まして!!華琳様の道に、抗う事が……どれ程、無意味なのか、分かって……!」

「華琳……?」

 

 

だが、青藍は光を失った様にただ青い瞳を浮かべた。

 

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「華琳、華琳、華琳…………誰も彼もが口を開けばあの女を讃え、褒め、崇める」

 

 

カツン、と足音が響く。

 

 

「洛陽の混乱を治めたのは誰?その後の統治を完璧にこなしたのは誰?西涼の侵攻を押し下げたのは誰?蜀から漢中を奪ったのは誰?

 

―――みんな、みんな仲達様の功労なのに」

 

 

ギリ、と何かを噛み締める音が菫の鼓膜を揺らした。

 

 

「どうして誰も仲達様を見てくれないの?どうして誰も仲達様を分かって差し上げようとしないの?どうして誰も仲達様の御心を理解しようとしないの?

 

―――この天下の誰よりも優れているあの御方こそが天下を統べるに相応しいと、どうして誰も分からないの?」

 

 

青藍が逆手に剣を握り、振り上げた。

 

 

「貴女みたいな奴がいるから?貴女の様に華琳なんて女を讃える奴がいるから?だったら―――」

 

 

迫り来る凶刃よりやや下にあった青藍の顔を見て、菫は己の最期を悟った。

 

 

「死んじゃえ」

 

 

酷く歪んだ笑みを満面に讃え、狂気に頬を涙で濡らしたその表情に、しかし迷いは欠片もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ァァアアァアアァアアア!!!アアァアアアァァァアアア」

「ッ!!大将!!」

 

 

怒りに狂い、突進をかましてきそうな関羽を制したのは、以外にも孫呉の追撃を振り切ったらしい周倉だった。

その風体は随分と泥まみれで、孫呉も存外期待していた程度の足止めには使えたらしい。

 

 

「ほぉ?どうした周倉、その成りは?」

「ッ……誰だテメェは?」

 

 

ドスの効いた声音で此方を睨みつける様は、やはりその名を馳せた山賊というだけあって中々のモノだった。

 

 

「私が誰か。はて、その問いに答えて、それで貴様に何の利があるのかな?」

「つべこべ言ってねぇでさっさと答えやがれ!!」

 

 

怒り狂う女傑を抑え込みながらも此方に気を配る程度の余裕があるらしい。

どうやら体力の方は聊か残っていた様だ。

 

何だ、やはり孫呉は利用価値のない捨て駒か。

 

 

「大将をこんなにしたのもテメェなんだよな!?」

「おいおい、それではまるで全てが私の責の様な言い口ではないか」

「事実そうだろ……!?」

 

 

どうにか怒りを抑えているといった風に、周倉もまた激昂の籠もった声音で紡ぐ。

 

……いや、もう一人の方は理性も崩壊してただ獣の様な雄叫びをあげているだけだから関係ないのか?

 

どちらにしても、さして考える必要はない。

 

 

「その女は己の無能を嘆き、己の無知を悔やんだ結果そうなっただけだ。私はそれを諭してやったに過ぎない」

「アァ!?何を…………!!」

 

 

と、其処に至って漸く周倉の目にもアレが映ったらしい。

 

-12ページ-

           

 

「分かるか?その女は幾千幾万の賛辞を受け讃えられながら、己の主一人守る事も出来ない愚か者だった。それを理解させてやったのだから、むしろ感謝して欲しいくらいだ」

 

 

地に転がる剣を踏み、周倉の方へと蹴りやった。

 

 

「それを持って帰って玉座にでも突き刺しておけ。元々飾りだけの主だったのだから、モノが人であろうと剣であろうと変わりないだろう?」

「―――アァアアァァァァアアア!!!」

 

 

告げてやると、一層怒りを濃くした様に関羽が怒り叫ぶ。

 

その様に、この様な獣に嘗て主と頭を垂れてやった女が焦れていたのかと思うと、失笑が漏れた。

 

 

「事実を言ってやったのだ。何が悪い。

 

貴様は愚かで無能。誰一人守れず、何一つ貫き通せない。

 

その身に与えられた賛辞も称号も、全てが無意味にして無価値。

 

―――たったそれだけの事、むしろどうして今まで理解出来なかったのだ?」

 

 

万能を気取り、己の道のみを是と信じ、ただただ盲進した結末がそれ。

 

嘗ての私の様に、無知を嘆き無能を悔やむ愚かな様をそこに晒して、関羽は怒りとも嘆きとも取れない叫びを上げた。

 

 

 

 

 

「今この場で私を殺した所で、貴様の主は帰ってこない。己らの無能さを国に帰って恥じるがいい」

 

 

力なく膝をついた関羽と、その傍で此方を射殺さんばかりに睨みつける周倉に背を向けた。

絶望に染まったその面から、不意打ちするだけの気力はもうない様に見受けられたからだ。

 

このまま城に残った曹魏の残党を駆逐するも良し。

孫呉に命じて、荊州の蜀領を根こそぎ襲わせるも良し。

一度許昌へ凱旋し、まだ残っている非服従的な官吏の首を刎ねるも良し。

 

どれから手をつけるべきか迷っていた所に、

 

 

 

「――――――仲達!!」

 

 

 

酷く聞き慣れた、それでいて懐かしい声音が私の名を呼んだ。

 

-13ページ-

 

暗雲立ち込める空に雷鳴は奔り、鋭い稲光は轟音と共に地を揺らす。

降りしきる雨は樊城の血に染まり、赤黒い水がゆるゆると大地にその色を広げる。

 

雨に濡れる城壁の上に立つ男は、光を浴びて輝く衣を纏いその表情を驚愕に染め。

血水に浮かぶ男は、赤黒く染まった衣を纏い冷徹な眼を向ける。

 

嘗て同じ旗の下にあった二人――――――天の御遣い・北郷一刀と、晋の皇帝へと昇りつめた簒奪者・司馬懿仲達。

 

 

 

後に『司馬懿の乱』と呼ばれる戦いの、その序曲である。

 

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決戦が近くなって参りました。
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