蛇達の饗宴 1「物語のはじまり」(前編) |
1(or prologue). --(chizuru's sight)
登場人物設定(1)
円城 千鶴(えんじょう ちづる)
・(職業)フリーター
・(年齢)19歳
・物語の狂言まわしの一人
午後5時12分、窓から差し込む夕日で茜色に染まった車内は、ようやくいつものように人がまばらになっていた。
車内は、電車が線路と線路の継ぎ目を通過する度にどこか定期的かつリズミカルな音を響かせながら小さく揺れていて、その中であたしはやっと空いてくれたボックス席に腰を下ろしながら、先程までの混雑ですっかり揉みくちゃにされた髪の毛を整えながら、やれやれと、うんざりするほど全くついてない一日だった今日の出来事を述懐していた。
はっきり言って、今ならば普段はそういうものを一切信じないあたしが、徹底的に怪しい占い師か何かに「何かが憑いてる」と言われたら素直に信じちゃうんじゃないか?とでもいうぐらいに最悪な一日だった。
いや、決して最初から何もかもついていない一日だったというわけじゃなかった。朝からいい感じに天気は良かったし、最近少し調子が悪かったあたしの愛車のタイガージェット号(中古で買った国産スクーターだ)のエンジンは快調だったし、あたしが当番だった賄いは今まで一番の出来だった。
だというのに、そのツキは午後のあの瞬間、そう忘れもしない午後3時25分に一変してしまった。
昼間っから酔っ払って後輩に絡んできた客が、何度注意しても言うことを聞かない上に人を「チビ」だの「ガキ」だの普段から気にしている暴言の数々を口にしたので、頭にきたあたしは思わずその頭を手にしていたお盆でシバいてKOしてしまったのだ。
無論シバくといっても威嚇のために叩くふりをするだけのつもりだったのだけど、やはり身体的欠陥を言われたことがあたしの手加減の制御装置に影響を与えていたらしい。結果として撲殺未遂の決定的証拠の破壊音が、しかも1発のつもりが2発ほど店内に響き渡ってしまったのだった。
……あぁ、やばい、やっちゃった
その時点でその後のトラブルの予感はしていたのだが、実際に発生したトラブルは予想以上のものだった。
なんと、世も末なことに、どこでどう間違えてそうなったのか、その客というのはあたしがアルバイトをしている喫茶店のチェーンの社長だったのだ。
これでドラマや漫画だと、殴られた社長が改心してバイトの労働条件や給料を改善してくれたり、(もちろん絶対に御免だが)殴られた社長とアルバイトの間に恋のロマンスが始まったりするものだが、当然のことながらそんなことは起きなかった。
午後3時半を少し過ぎ、あたしは目を覚ました社長と店長の両方から「何しやがるんだ!、俺は(この人は)社長だぞ!」という、間違えてもビジネス雑誌やテレビのインタビューアーには口にしないだろう台詞とともにバイトの解雇を通知され、見事に飯の種を失ったのだった。
しかも、不幸はそれでは終わってくれなかった。
午後4時、朝は調子良かったはずの喫茶店の駐輪場に置いていた愛車のスクーター「タイガージェット号」のエンジンがかからなくなっていた……つまり故障してしまったのだ。
財布の中身は3000円……とてもじゃないが、修理費には多分というか全然足りない……
「どうか撤去されませんように……」
あたしは普段信じてもいない神様に祈りながら、愛車を置いて電車で家に帰ることにした。
あたしのアパートの最寄り駅とバイト先(今となっちゃ元だが…)のある駅をつなぐ路線は、この都市にしては珍しく殆ど混雑しないことで有名な路線だ。だから、たまに電車も良いかと考えたのだが、午後4時15分、駅に着いたあたしを待ち受けていたのは、その日に限って発生した踏み切り事故で大幅に電車の到着が予定時刻から遅延しているというアナウンスだった。
しかも、ホームは他の路線の朝の通勤混雑にも顔負けなぐらいに混雑していた。
「なんで、こんな日に限ってこうなるのよ!」
あたしは人の波に押され揉まれ流されながら悲鳴をあげた、そういう文句の一つだって言ってもバチは当たらないはずだった。
小柄なあたしは、電車が停車する度に人の奔流によって吊革や手すりから引き離され、気が付けば最初に乗った車輌の先頭位置からすっかり流されて電車の端のボックス席の前まで漂流していたのだ。しかも人の波がそれで止まる訳などなく、電車が停車する度に隣の車両のドアと押し寄せる人の波との間であたしの背骨はドアと肉のカーテンに挟まれ悲鳴をあげる羽目に陥ったのだった。
と、以上が今日一日のその時までに起きた事件で、午後5時10分、あたしの降りる駅の3駅前(ここは利用客の多い路線への乗り継ぎ駅なのだ)で乗客が大量に降りたおかげで車内はようやくいつものように閑散とし、あたしはようやくボックス席に自分の席を得たというわけだった。
「絶対今日は厄日だわ。さもなきゃ天中殺ってやつね」
言葉の意味は分からなかったが、あたしはボックス席の肘掛に頬付けをついて窓の外を眺めながら、溜息混じりに呟いた。
わずか数分のうちに車窓から差し込む茜色はその色を濃くしていた。
「でも良いわ、あんなバイト先辞めて清々……」
なんて少しもしなかった。
時給はまぁまぁ良かったし、スクーターを使えばアパートからはかなり近かったし、何よりあそこでは良い仲間に恵まれていたのだから。それがあんな事件で全てパァというわけだった。
……なんか、眠くなってきたなぁ
色々あったせいか、あたしの瞼は先程からずいぶんと重くなり始めていた。
加えて電車は眠気を倍増するような微妙なリズムで縦横へと振動を繰り返している。
……少しぐらい、良いかなぁ?でも、もうすぐ降りなきゃならないし……
そして、葛藤しながらも、うつらうつらとしながら窓の外から正面へと戻した視界の中に彼女はいた。
それは年の頃14、15歳の、小さなリボンを使って後ろで軽く束ねた長くて美しい黒髪と、まるでお人形さんのような整った顔が特徴的な少女だった。
彼女は、あまり柔らかいとは言えないボックス席に背中をあずけるようにして寄りかかりながら小さな寝息をたてて居眠りをしていた。そのひどくあどけなくて無防備な顔と姿は、ついつい見とれてしまうぐらいに可愛いかった。
……あたしも、昔はこうだったのかなぁ?
あたしはふと自分の昔を思い出してみたが、髪型と服装と、眼鏡がコンタクトになった点だけが今と違うだけな気がして欝な気分になった。
……それにしても見てるこっちが和んじゃう可愛い寝顔だなぁ…神様も一日全部悪いことばかりにはしておかないってことかな?
だが、その考えは長くはもたなかった。
んごごごごごごごごご!
今まで安らかな寝顔で小さな寝息をたてていた少女は、いきなり拳一つは軽く入るんじゃないだろうかという大口を開けて、もの凄い鼾をたてはじめたのだ。
それは彼女の外見上の魅力はもちろん、あたしの心にやっと訪れた平穏をぶち壊すには十分すぎる程の破壊力のある光景だった。
「……あんまりです……あんまりですよ神様」
あたしは溜息をつき、ガックリと項垂れた…が、次の瞬間ぎょっとして慌てて顔を上げた。
一瞬、彼女の口の中に本来ならばあり得ない筈のものを見てしまった気がしたからだった。
「え、今のって?」
あたしが見てしまったのは、まるで蛇のような二つの大きく鋭く尖った牙だった。普通の人間にはありえないはずのもの、それが彼女の口の中、正確には前歯の後ろからひょっこりと伸びていたのだ。
あたしは思わず見開いた目を擦り、もう一度頭を下げて彼女の相変わらず大きく開かれた口の中をそっと覗き込んだが、どうしたことかさっきの鋭い牙は姿を消していた。
……気のせい?……まいったなぁ、あたし疲れているのかなぁ?
きっとそうに違いない。最近少しローテーションがきつかったし、今日色々あったし……でも、なぜそんな幻を見てしまったんだろうか?。「むー……」と、あたしは首をかしげて考えてみたが、思い当たる節は無い。
そして、午後5時18分…それが後から思えば運命の時、そして本当の最悪の始まりだった。
突然、電車が急ブレーキをかけて急停車し、その衝撃で彼女の体があたしの方に倒れこんできたのだ。そしてその拍子に、うまい具合にとはきっとこういうことを言うのだろう、丁度首をかしげてむき出しになっていたいたあたしの首筋が大口を開けていた彼女の口内にうまい具合にすっぽりと嵌ってしまったのだ。
「ちょ、ちょっと、離れなさいって」
彼女に抱きつかれる、というか噛み付かれる体勢になってしまったあたしは慌てて彼女を引き剥がそうとした。
だが、その瞬間嫌な考えがあたしの頭を過ぎった。
……さっきの牙が見えなかった理由って、もしかして出したり引っ込めたり出来るからじゃ?
そして、思考は実現化した。
ぷすっ、と言う何かを突き抜ける音と、首筋から肩にかけてはしる激痛と……
「ぐ、ぐぎゃあああああ!!」
車内に響き渡るあたしの悲鳴と集中する車内の視線。しかし、そんなものには構ってられなかった。あたしは力の限り彼女を引き剥がす。そして、気付いた。彼女の前歯の後ろからは先程見た二本の牙が伸びていて、そしてその牙はあたしの血で真っ赤に染まっていたのだ。
2.(???'s sight)
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
目的駅の手前の駅の駅前にあったファミレスの席で、私は目の前の少女にテーブルに擦り付けるようにして頭を下げていた。
なんて迂闊なことをしてしまったんだろう……人前で居眠りをすることも、口を開けて居眠りをする癖があることも自分でも分かっていたし、旅立ちの際に長老達や教官からあれだけ注意されてたっていうのに、挙句…
「いや、本当にもう良いから」
手をひらひらとさせながら言う、少女の小生意気な口調に私は少々カチンと来るのを覚えた。
見る限り、彼女よりあたしの方が少しは年長のはずで、いくら近年礼儀作法の乱れが顕著だからといって年長者に対してはそれなりの態度をとってもらいたいものだ。しかし、悔しいことに今の私にはそれに文句を言う資格は無い。結局、私には自分の感情をグッと飲み込むより他になかった。
「だって、ほら、お医者さんもとくに酷い傷じゃ無いって言ってたし、それに化膿したりする心配は無いって言ってたしさ」
まぁ確かに、彼女の言う通り、医者がそう言うんだからその点においては心配はないだろう。
でも、問題は違う点にあるのだ。それをどう、説明したものだろう…
「それでも……ほら、大切なお肌を傷つけてしまったわけですし」
……何を言ってるんだろう、私は!?
私は自分を叱り付けたい気分になった。
たしかに説明が難しいし、それを説明した時にどんな反応が返ってくるのかは不安ではある。けれど、彼女には聞く権利があるし、それにこうなった以上、勝手な話だが聞く義務があるのだ。
「あぁ、それなら、特に今のところ見せる相手もいないから…」
……え?
私は一瞬少女の言葉の意味が分かりかねて黙り込んだが、次の瞬間に意味が分かって頭が真っ白に、そして顔が真っ赤になった。
……な、なんて、ませてるんだか!。
それとも都会じゃこれが普通なんだろうか?。正直、生まれも育ちも紛れも無い田舎者の私には分からなかった。
「それにしてもさ、一つだけ聞いてもいい?」
少女は話題を変えるようにして聞いてくる。
「えぇ、答えられることでしたらなんでも」
我に返った私は、別に秘密にしておいて問題があることなんて何も無かったのでそう答えた。問題があるとすれば、説明が難しいのと、事実を言って彼女が信じるかどうかだ……普通に考えて多分信じないだろう。
「でも、聞きたいことはなんとなく分かります」
そう、多分、彼女が聞いてくるのは……
「それなら話が早いわ。あんたって何者なわけ?」
……そう聞いてくると思った。
「絶対に、普通の人間じゃないわよね」
「どうしてそう、思いますか?」
質問に対して質問で返すのは赤点の答案を作る手っ取り早い方法だったが、あたしは敢えて聞いてみた。
「歯…というか牙」
彼女の回答は簡潔だった。なるほどそうだろう、あれを見れてそう考えない人間の方が珍しい。
「まぁ、そういうことになりますね…」
「案外あっさりと認めたわね」
呆れたような顔をして彼女は言った。
もちろん惚けても良かったが、事態はもうそういう状況じゃない。彼女には知ってもらわなければならないのだ。
「で、やっぱりあんた宇宙人とか吸血鬼なわけ?」
「なんでですかっ!」私は身を乗り出すようにして抗議した。「一応、私は人間です!」
一応、と言ってしまったのは私と私の『一族』が人間であるということに、自分でも自信がないからかもしれなかった。
私達は通常の人間と違う特徴を持っている。通常の人間より遥かに上の反射神経と運動神経、そして回復力を持っているし、相手に突き立てることが出来る牙を前歯の裏に持っている。しかも、その牙はただ突き立てて相手を傷つけるだけの凶器ではない。これだけの身体的特徴を持って、「私は人間です」というのは無理があることなのかもしれない。けれど…やっぱり架空の産物の怪物達と一緒にされるのは嫌だ。
少なくとも私達は多くの想像上の怪物のように無闇に他者を襲ったり、その血や肉でその生を保つなんてグロテスクな存在手法はとっていないし、そこまでしてまで生存したいという意志はない。
「一応ねぇ…」少女は目を細めながら言った。「でも、あんたあたしに噛み付いたときに実は血を…」
「吸ってません!」
あれは事故だ。ちゃんと目が覚めた状態で狙ってやれば、あたしだって相手の血を流さないで牙を突き立てて目的を果たすことができるはずなのだ。沢山練習させられたのだから。
「今一信じられないなぁ。じゃ、これ食べてみてよ」
彼女はそう言ってあたしの前に、いつの間にか注文していたガーリックトーストを差し出した。
「それは……食べれません」
「じゃあ、やっぱりあんた……」
大げさにのけぞってみせる少女に、「そうじゃなくって口が臭くなるからです」と私は答えた。
「さすがに私も女の子ですから。エチケットとかデリカシーというものが…」
大蒜のような匂いの酷いものをガツガツと口にして、臭い匂いをプンプンとさせるなんて、いくらこの状況だからといって受ける気なんて無い。
「貴方は私を無理矢理吸血鬼のような化け物ということにしたいようですけど、第一、それだったら日の光の下を歩いているわけ無いじゃないですか」
「もう、夜だけど…それに出会ったのは夕暮れ時だったし」
そう言って、彼女は窓の外を指差す。既に夕日は西の空に姿を消しており、空は漆黒の闇に支配されていた。
……しまった、今日びの怪物は夕暮れ時から営業を開始しているのか!
怖くても長老と一緒にホラー映画をちゃんと見ていればよかったと頭を抱える私に、「まぁあなたが何者かはどうでも良いわ」と少女はまたしても小生意気な口調で言った。
「ただ、確認しておきたいんだけど、あなたに噛まれたことで私も化け物とかになるってことは無いんでしょうね!?」
「あなたが考えるような『化け物』になることはありません!」
「ただ……」と続けようとした私の台詞を遮るように「じゃ、いいや」と言って、少女は席を立ち上がる。
「だって、ここを出たらあんたとあたしは他人同士だしね。もう、会う事もないでしょ。だったら、あんたが何者かなんてどうでも良いわ。変に首突っ込んで抜け出せなくなってもいやだしね」
「いえ、それでしたら……」
「そうそう、それでも名前ぐらいは聞いておくべきよね」少女は私の話を聞いてない、というより聞く気が最初から無いようだった。「私の名前は円城 千鶴。あんたの名前は?」
「那唯…御社 那唯(みやしろ なゆ)です」
私はそう名乗った後で、自分の名前を噛み締めるようにして心の中で反復した。
自分の名前をフルネームで相手に答えるのは久しぶりだった。個体数が少なく、民族もバラバラな『一族』の中では元の名前なんて意味が無かったし、自分自身の『過去』に触れたくないためか各自が名前の一部かニックネーム、さもなければ生前の『通り名』で通していたのだ。それは私も例外では無く、『一族』の中で「那唯」という名前だけで私は通していた。
でも、姓と名のフルネームを名乗って私は改めて実感した。私は父と母の間に生まれ、その両親からちゃんと名前を貰った、血の通った「人間」なのだと……
だからなのだろう、その後でついつい余計な道徳心から、余計なことを言ってしまったのは。
「ところで千鶴さん、一つだけ言わせてもらっても宜しいでしょうか?」
3.(???'s sight)
少女と千鶴さんがどんな話をしていたのかは、衝立で視界を阻まれた自分の場所からは聞こえなかったので分からない。
けれど少女の話は千鶴さんを怒らせるには十分な話だったのだろう。
千鶴さんはやにわにポケットから財布を取り出すとなけなしのお金を取り出して少女に投げつけ、そして怒ったような足取りでファミレスから出て行った。
少女のほうは一瞬唖然としていたようだったが、慌てて立ち上がって千鶴さんの後を追う。
僕はニヤリと顔を歪めると、外套のポケットの物を確かめて席を立った。
きっと少女には千鶴さんに追いつくことはできないだろう。
でも、僕にはそれができる。
だって、この街、いや『狩場』の構造は僕の頭の中にしっかりと焼き付けられているし、僕は千鶴さんの行動パターンを研究済みなのだから。
「……待っててね、千鶴さん」
僕は小さな声で呟く。他の人に聞かれたら怪しまれるかもしれないし、僕がこれからやろうとしていることが分かっちゃうかもしれないからだ。
僕と千鶴さんは今夜『結ばれる』のだ。
今までの相手は失敗したけど、今度は大丈夫だ。
ちゃんと計画は練ったのだから……
4.(chizuru's sight)
あたしは怒りのあまり机を叩くと、なけなしの三千円を少女、那唯に放り投げるようにしてファミレスを後にした。
あたしの後ろを少女が何か言いながら追いかけてきたが、あたしには振り向く気なんてさらさら無かった。
まったくもって最悪の一日だ。
よりによって、あの少女、人を年下だと思っていたのだ。
……千鶴さん、年上の相手にはもっと丁寧なしゃべり方をした方が良いですよ。私は15歳、多分あなたより年上なんですから
少女の言葉を思い出し、思わずあたしは電柱を蹴りつけた。いくらなんでも15歳の子供から年下呼ばわりされる筋合いはない。あたしはこう見えても19歳なのだ。
「千鶴さん、待ってください!。千鶴さん!」
まだ彼女はあたしの後を追ってきている。
……ええい、うっとおしい。
あたしは一瞬駆け足になって彼女との間を離すと、急いで小さな路地へと身を隠した。物陰で息を殺していると、彼女がこの路地を素通りしていく足音が聞こえた。
……やれやれ
あたしは、足音がずいぶん遠くへと消え去ったのを確認して路地から出て、彼女が走っていったのと正反対の方向へと歩き出した。
財布には僅かであるが小銭が残っていた。これで切符を買えば、なんとか自分の駅へと帰れるだろう。
ただ、確かなことは、この小銭を使うと文字通りの文無しになってしまうということだった。
あそこでなけなしの三千円を投げつけたのは痛かった、と後悔しても、最早後の祭りだ。
「また、実家に仕送り頼もうかな?」
あたしは肩を落として呟いた。
自立した大人になるんだ、と夢見て高校の卒業後にこの街に来て1年近くが経つが、夢の実現にはまだまだ程遠いのが現実だった。
はぁ、と深い溜息をつきながら俯き加減でトボトボと歩き出したあたしは、途中で誰かにぶつかって尻餅をついた。
「何よ、危ないじゃない!」
本当は、悪いのは前を見ていなかったあたしの方だったが、他人に頭を下げる余裕がその時のあたしには無かったのだ。
「ちょっと、何か言いなさ…」
そう言って顔を上げたあたしは言葉に詰まった。
あたしがぶつかった人物、180cmは軽く超えるだろう巨漢の男は明らかに只者ではなかったのだ。深く被った毛糸の帽子…顔の下半分を隠すようにして首に巻いているマフラー…黒いロングコートと袖から突き出た軍手の大きな手に握られたスパナ。
……あ、まさか……嘘!?
あたしの頭を、最近この街に出没するという通り魔の噂が過ぎった。そして不幸にも、目の前にいる人物は、その噂の通り魔と寸分違わぬ格好をしていた。
あたしは、尻餅をついたまま後ずさったが、その動きに合わせるようにして男は一歩あたしの方へと踏み出して来る。
「あのー、まさか、あなた噂の通り魔さん……なんてねぇ」
あたしは、引きつった笑顔で言ってみたが、その瞬間に男と目線が合った。その目は、明らかにイっちゃっていた。
……うわぁ、ピンチ、それも大ピンチ!
立ち上がって逃げなきゃならないのは分かっていたが、恐怖のあまり体が硬直して動かない。
男はそんなあたしにスパナを振り上げた。
「千鶴さん、左!左に避けて」
頭の中……信じられないことだが間違いなく自分の頭の中から那唯の声が聞こえてきたのはその時だった。
……え、うそ、今の何?、なんで?
「千鶴さん、早く!」
考えている暇は無かった。男のスパナは今にも振り下ろされようとしていたのだ。
あたしはその声に従って、無理やり体を動かして左に転がった。背中の後ろで何かが砕ける、というか爆発したような音が響いたのは正にその直後だった。そっと背後に目線を動かすと、スパナはものの見事にアスファルト舗装された地面を抉っていた。
……に、人間技じゃない!
あたしは這って逃げようとしたが、体が上手く動かせない。
「千鶴さん、今度は右、急いで!」
もう一度あの声が響いた。
迷っている暇なんてない。あたしは大慌てで右に体を転がした。
またもや、爆発音と抉られた地面。
「ひ……ひぃ……ひぃい!」
出来るんだったら、悲鳴をあげて全速力で逃げ出したかった。けれど、それも腰が抜けてしまって立てない今の状態では叶いそうにない。
「千鶴さん、立ち上がって!。そして後ろを振り向かないで逃げて!」
「む、無理よぉ、絶対に無理。だって、腰が抜けちゃったんだもん!」
頭の中に響く声に、あたしは半分泣くような声で答えていた。
そんなあたしの行為に男は首を一瞬傾げたようだったが、無理もないだろう。傍から見ればあたしの有様は異常な事態に混乱しておかしくなった以外の何物でもない。
「千鶴さん!」
「だから無理だって!!」
あたしに出来るのは一歩、また一歩近づいてくる目の前のこの男に対して一歩づつゆっくりと後ずさることだけだ。
多分、次に男がスパナを振り上げてきたら、もう避けることはできないだろう。
「分かりました、千鶴さん」頭の中の声が言う。「それでは、体中の力を抜いてください」
……それって、まさか諦めろってこと!?
あたしは頭の中の声に見捨てられたと思って体をこわばらせた。
今のあたしにとって頭の中の声だけが唯一の救いなのだ。その救いに見捨てられたらあたしに待ち受ける運命はたった一つ、すなわち死だ。
「い、いや、嫌よ!、死にたくない!、まだ死にたくない!!」
傍から見ても、自分で自分の姿を見ても分るぐらいに見苦しくあたしは叫んだ。涙を流して、鼻水を垂らしながら叫んだ。
嫌だ、死にたくない、あたしが何をしたって言うの!?
「それじゃ、急いで私の言う通りにしてください。絶対に千鶴さんを助けますから!」
そうしている間にも男とあたしの距離は縮まっていき、今や男の息遣いすら身近に感じられるほどになっていた。
……もう、どうにでもなっちゃえ!
遂にあたしは諦めて体中の力を抜いた。
5.(nayu's sight)
登場人物設定(2)
御社 那唯(みやしろ なゆ)
・(職業)『誘導者』にして『追跡者』
・(年齢)15歳(現行年齢。ただし、彼女の肉体年齢は14歳の時点で止まっている)
・『再生者』、物語の主人公
私は深呼吸して、瞼を閉じて肺一杯に冷たい夜の冷たい空気を吸い込むと、今まで目に集中していた意識を指先から爪先まで全てに行き渡らせ、頭の中で自分の輪郭と、そして千鶴さんの輪郭を描いた。最初曖昧でぼやけたシルエットにしか過ぎなかったそれは、次第にはっきりした物になっていき、そしてある程度までその輪郭がはっきりしてきた時、私はその輪郭を重ねて融合させた。
意識の一部をごっそりどこかへ持っていかれるような感覚。
それは僅かな間の出来事だったが、何度やってみても落ち着かないものだ。
私は閉じていた瞼を開いた。
そこには、私が先程まで見ていた光景とは違う光景があった。
外灯の白い光に照らされて、今正に迫りつつあるスパナを振り上げたロングコートの男。
対する私の現状は、地面に尻餅をつきながら後退を強いられているというものだった。
「千鶴さん、怖くなって中途半端な力を入れるのは無しですよ」
私は千鶴さんに頭の中で話しかけたが、返答は無かった。
6.(chizuru's sight)
そして、諦めた事を悟ったあたしの頭目掛けて三度目のスパナが振り下ろされ、あたしの頭は砕け散……らなかった。
自分でも何が起きているのか分からない。
けれど確かなことは、自分の意識内に何か分からないものが侵入したような感覚がしたかと思った次の瞬間、体が勝手にバネのように跳ね起き、逆に男の懐に潜り込むことによってスパナをかわしていたということだった。
「えっ?、えっ!、ええっ!!!」
「力は抜いたままにしてください。私の方でコントロールしますから」
言われるまでもなく、唐突に目の前で起きた出来事に放心するあまり、とっくに体中から力が抜けていた。
それは、まるで他人事のようだった。
男の懐に入ったあたしは、そのまま跳ね起きた力を利用して掌を相手の鳩尾目掛けて突き出していたのだ。
それは昔、カンフー物の映画でみた中国拳法に似ていた。確か、その映画によると、この技は相手の力を利用して、普通に攻撃する以上のダメージを与えるというもののはずだった。
あたしの掌は男の鳩尾に鈍い音を立ててめり込み、ゴッと何かを吐き出す音が男の口から漏れて男が方膝をついた。
……決まった?
あたしは思ったが、頭の中の声が告げたのは「今ので少し時間が稼げるはずです、逃げてください」という逃亡を促すメッセージだった。
「え、でも、今のでこいつ倒しちゃったんじゃ…」
「普通の人間が相手じゃないんですよ!」
……普通の人間じゃない?
その言葉の意味を理解するよりも早く、男のスパナを持っていない方の手があたしの襟首を掴んで持ち上げた。
男の目線とあたしの目線が同じ位置になる。
「こ、こん……こんばんわー」
あたしは涙目の引きつった笑顔で返したが、男のイッちゃった目には今や殺気も少し混じっていた。
……死ぬ……絶対に死ぬ……
あたしは自分の歯がガチガチと音を立てている音を聞いた。
……お願い、助けて那唯ちゃん!
最後の望みとばかりに、あたしは彼女への恨みも忘れて体中の力を抜いたが、さっきの様に意識に異物が侵入する感覚は今度は無かった。
……嘘、もしかして奇跡は打ち止めってやつですか?
絶体絶命にして絶望的……あたしは自分の顔から僅かな笑顔が消えて、今や完全に恐怖に引きつった顔になっていることを感じた。
その時だった、何か小さな影がもの凄い勢いであたし達に近づいてきたのは。
7.(nayu's sight)
私は指先にまで集中していた意識を解くと、千鶴さんのいる方向まで走り出した。
千鶴さんのいる凡その場所は彼女に『接続』した時に分かっていた。
途中で千鶴さんが助けを求めて体の力を抜いたことに気付いたが、これからやろうとしていることを『接続』しながらやるのは今の私には難しいのでそれは敢えて無視した。あれは頭の天辺から足のつま先まで意識を集中して初めて出来ることで、半人前の私には自分の体を動かすか、『接続』して千鶴さんの体を動かすかのどちらかしかできないのだから。
……だから、私はまだ『誘導者』には役者不足だって言ったのに。
私は一瞬だけ長老に文句を言ったが、通り魔と千鶴さんの姿が視界に入ったので、気合を入れるために「ハァッ」と小さく叫ぶと地面を蹴って対象物である男と自分の間を一気に詰めた。そして、間髪置かずにもう一度渾身の力で地面を蹴って千鶴さんを掴む男の腕の間接部に飛び蹴りを入れた。
何かが砕ける音がして男の腕がありえない方向に曲がり、千鶴さんの襟を掴んでいた指が離れる。
私は千鶴さんを地面に落ちるまでに抱きとめ、急いでその場から跳躍して間合いを取った。
なにせ、相手の腕が分からない。もし、こいつが自分の力の使い方を知っていて尚且つ戦い方も知っているとすれば、きっとこの程度の攻撃なんて軽い不意打ち程度でしかないし、傷が癒えるまでの間片手だけでも十分に戦いを挑んで来るだろう。『再生者』同士の戦いとはそういうものなのだ。
「同じ『再生者』同士の戦いは好みません」私は千鶴さんを抱えたまま男に言った。「あなたは多分、自分に何が起きたのか分からず混乱している。だからこんな事をしているんですよね?」
男は無言のままだ。
いけるかもしれない、と考えた私はさらに続ける。
「あなたが望むのなら、今この瞬間から『一族』として迎え入れます。今回の事件の始末についても、こちらで出来る限りのことをしてあげます。でも、もし望まないのだったら、残念ながら交渉は力づくで行うことになりますよ」
その瞬間だった、スパナが私の顔面目掛けて飛んできたのは。
私はそれを間一髪でかわした。背後でスパナが衝突してガラガラと壁が崩れ落ちる音が聞こえてくる。
それが意味する所は二つだ。交渉は決裂したということ、そして女の子の顔面目掛けてこんなものを投げつけて来るような所行をしでかすこの男に世の中というものを教えてやらなければならないということだ。
しかし、口惜しいことに、もう少し冷静に考えると取るべき行動はもっと他にあった。
「……ここはお互い引くべきだと思います」
私は言った。
これだけ派手に暴れれば、いくら人通りが少ないとは言っても、そろそろ誰かが気付くだろう。そのことはこの男がいくら狂っていて愚鈍だとしても気付いているはずだ。そうなるとどちらにとっても都合の悪いことになる。
「『さよなら』は言いません。また会いましょう」
「……」
返って来たのは無言だった。
喧嘩で一番怖いのはこういうタイプだ。はっきり言って、何をしでかすか分からない。
だから、私は早々にこの場を退散するために、地面を全力で蹴ってジャンプすると近くの電柱のてっぺんに着地し、そこから千鶴さんを抱えたまま飛び石をわたる要領で電柱の天辺を渡り、適当なビルの屋上まで逃げた。
振り返ると、騒ぎを聞きつけた野次馬や周りの住人達が先程の事件現場に集まりつつあったが、見るとその中に男の姿は無かった。
「本能と欲望で動いているとおもったんだけど、案外用心深いタイプなのかしら?」
私は地面に下ろした千鶴さんの方を向き直りながら言ったが。千鶴さんは既に気を失っていた。
「あぁ、もう、しかたない。千鶴さん、千鶴さん」
私は千鶴さんの目を覚まさせようとしたが、その拍子に千鶴さんのポケットから運転免許が零れ落ちたのに気付いた。
住所を見ると、ここからそれほど遠い場所ではないようだった。
「今晩は隣町で作戦拠点になるホテルでも探す予定だったんですけど……丁度良いですね」
私は運転免許を千鶴さんのポケットに戻すと、彼女の体を抱え上げて、着地に適当な地面が見つかるまでビルとビルの間を飛び越えた。
8.(???'s sight)
……くそっ、なんなんだ?
物陰に潜みながら、僕はまだ使える方の右手で鳩尾の辺りをさすって歯軋りした。
鳩尾の痛みは次第にだが引きつつあり、折られた左腕もゆっくりと治りつつあったが、心に芽生えた屈辱感は暫くの間は消えそうに無い。
僕の調査は完璧なはずだった。今までの獲物に関しては常に完璧な調査をしてきたし、千鶴さんについてもそうなはずだった。
なのに……なんなんだ、千鶴さんのあの動きは?
千鶴さんに何か格闘技の経験があるなんて調査結果には無かった。いや、むしろ彼女は運動音痴というのが僕の調査結果だった。
……僕の調査に漏れがあったというのか、いや、そんな馬鹿な
だが、どんなに否定してみても結果は、千鶴さんには逃げられてしまったという事実は変わらない。そう、最後に乱入してきたあの交友関係の調査結果にもなかった少女のせいで……。
「何者なんだ、あいつ?」
僕は、歯軋りしながら折られた右腕を見る。
あの時、あまりに一瞬のことで、僕は自分の腕がどうなったのかすら分からなかった。
もし千鶴さんがいなかったら、いや、いたとしても少女が千鶴さんに構わず戦っていたら、確実に僕は倒されていただろう。
「見ちゃられないねぇ」
唐突に背後からかけられた声に、僕は思わず身を硬くする。
振り返ると、そこにはローブのような衣装をまとった、あの少女と同じぐらいの年代の少年がいた。
暗闇でも分かる艶のある銀色の髪の毛が印象的な、おそらく北欧かそのあたりの人間なのだろう顔の作りをした少年だった。
「あんな明らかな新米相手に手こずるなんてさ。君も『一族』なんだからさぁ、それらしい戦い方をしなきゃねぇ」
……こいつ、只者じゃない
僕の中で何かが、そう警告を発していた。
さっきの少女と同じ、いや、もっと危険な存在に違いなかった。
……殺らないと、殺られる!?
だから、少年が一歩前へと踏み出したとき、僕は思わずポケットからスパナを取り出して殴りかかっていた。
しかし、少年はうっとおしそうに軽く体の位置を変え、僕は地面にそのまま倒れこんだ。
「君、獲物にする人間のことは熟知しているくせに、自分のことは何も知らないんだねぇ」
少年は端整な口元を歪めながら言った。
「君のような3流の手伝いをする気はないんだけどね。まぁ、知恵ぐらいは授けてあげるよ。その左手は僕からのささやかなプレゼントだ」
言われて気付くと、いつの間にか折れた僕の腕は元に戻っていた。
……治るのに2,3時間はかかると思ったのに……
「あんた、何者なんだよ?」
僕は恐る恐る聞いた。
9.(chizuru's sight)
夢の中、あたしは小さな子供で、必死になって逃げていた。
……なぜ逃げているの、あたし?
振り返ると大きな犬が、あたしを追って大きな口から牙を覗かせていた。
……あぁ、そうだ
あたしは思い出していた。公園で遊んでいるあたし達の前に突然野良犬が現れて、あたしたちに吠え掛かってきたのだ。あたし達は散り散りに逃げたが、その野良犬が追ってきたのは何故かあたしだった。
……どうしてあたしだけ!
あたしは恐怖のあまり涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら逃げていたが、元々の運動神経の鈍さのためか、あたしと野良犬の距離は次第、次第に縮まっていく。
そして、とうとうあたしが足元を絡ませて地面に倒れたとき、犬は大きく跳躍してあたしに飛び掛ってきた。
なんとか上半身を起こしたものの、もはや無力なあたしは、その絶望的な状況にただ悲鳴を…
悲鳴をあげて布団から跳ね起きたとき、最初、あたしは自分の状況が分からなかった。
……ええと、ここは?
あたりを見回す。いつもの天井、いつもの床、万年床と化したいつもの布団、いつもの部屋…
……あたしは一体?
野良犬に追われていた……それは夢の中の出来事だ。その前の出来事は?
あたしの中で記憶のフイルムが逆回転を始める。
……あたしは、通り魔に襲われて、抵抗したけど捕まって……
その後のことが思い出せなくて、あたしは思わず自分の体を抱いた。
何か恐ろしいことが起きて、そして信じられないことが起きたという事は覚えている。けれど、それが何であるのかが思い出せない。まるで頭の中に霧がかかって、その記憶だけを包み込んでしまったかのように……
「あ、起きたんですね、千鶴さん」
襖が開いて、購入したもののずっと使う機会がなくて台所に置きっぱなしにしていたトレイを手にした、エプロン姿の一人の少女が姿を現した。
「台所、勝手に使わせてもらいました」
そう言って少女はあたしの横にトレイを置いた。
「お粥とお味噌汁を作ってみました。良かったら食べてみてください」
「あ……うん、ありがとう」
……誰、だっけ、この娘?
あたしは味噌汁を啜りながら、もう一度自分の記憶のフイルムを、今度はゆっくりと逆回転させた。
……闇夜の路上……ファミレス……そして、電車の中
「思い出した!」
あたしは思わず叫んでいた。
「あんた、何でここにいるのよ!」
「それは……」
別に少女の回答を待つまでもなかった。
気絶したあたしを家まで運んできて介抱した……そんなところだろう。
でも、そこで一つ疑問が生じる。
「それにしてもよくあたしの家が分かったわね」
「はぁ、失礼だとは思いましたが、運転免許を見せてもらいました」
あっけなく疑問は氷解した。
「私の目的地もこの近くだったので、この街の地図はだいたい頭に入っていたんです」
……はぁ、記憶力の良いこって
住んでから1年近く経つというのに、たまに近所で道に迷うことのあるあたしには驚異的なことだった。
「それにしても驚きました、千鶴さん」
「なにが?」と言おうとして、あたしはその言葉を止めた。免許書を見たというところから大体聞かなくても少女が言いたいことは見当がつく。多分、彼女が驚いたのはあたしの年齢についてだ。
……実際、もう慣れっこなのよね、年齢聞いて驚かれるのは……
自慢じゃないが、あのバイトの面接を受けに行った時も「中学生の採用はしていないんですが」というのが面接官である店長の最初の台詞だったし、何の交通違反もしていないのに小学生か中学生がスクーターを運転しているのと勘違いされて警察官に尋問されたことだってあるのだ。
「千鶴さんって、ちゃんと自立した女性だったんですね」
しかし、少女が口にしてきたのは意外な一言だった。
「はい?あたしが?」
「えぇ、だって一人暮らしをしていて、自分で自分の糧は稼いで、自分のことは自分でちゃんとやっているじゃないですか…」
「……そうとも言えないけどね」
あたしは照れ隠しが半分、今や職を失って自宅に仕送りを頼もうとしていることを思い出したのが半分で言った。
……あたしのどこが自立した女性なんだか……
「それは謙遜です。私、千鶴さんに憧れちゃいます」
……物を知らないって言うのは幸せなことだ
あたしは少女のキラキラと輝かせた尊敬の眼差しから顔を背けて思った。第一、自立するということは……
「ちょっと待った!」逆回転していたあたしの記憶のフイルムが大事なことを思い出させて、あたしは少女に向き直る。「あんた、昨日のファミレスで、噛まれたことで私が『化け物』とかになるってことは無いって言ってたわよね!」
「はい、言いましたけど」
きょとんとした顔で少女は答える。
「じゃ、昨日のあれは何?」
「あれ、といいますと?」
「惚けないでよ」あたしはまくし立てる。「あんたの声はあたしの中に響いてくるわ、体が勝手に信じられない動きをするわ、一体これはどうなっているのよ!。全然平気じゃないじゃない!」
「でも……おかげで千鶴さん、助かったわけですし」
……うん、まぁ、その通りだ……って、ここで納得してどうする、あたし!。誤魔化されてたまるもんか!。ちゃんと聞きたいことは聞き出さなきゃ駄目だ!
あたしは、一拍深呼吸をすると、少女に対して、わざと少しヒステリックな口調でまくし立てた。
「でも、じゃない!ちゃんと説明してよ!あたしがどうなったのか!。あんたが何者なのか!。あの通り魔が何者なのか!。あんた、通り魔事件について何か、いいえ、全部知っているんでしょう!?」
「あの…」と口ごもる少女に、「さぁ!、さぁ!!、さぁ!!!!」とあたしは迫った。こんな不可解な出来事からは、出来るんだったらさっさと足抜けして無関係になるに限る。そのためにも事実は知っておく必要はあった。
「あの、まず私達からなんですけど…」少女はあたしの剣幕に押されるようにしておどおどと話し始めた。「私達は自分達を『再生者(リボーンズ)』と呼んでいる一族です」
「『再生者(リボーンズ)』?」
「えぇ、呼んで字の如し、一度死んで蘇った人間です。それも、その肉体が滅んだに関わらず、何故かもう一度この世に生身の体と魂を与えられた存在です」
「それって具体的にどういうこと?」
「例えば私ですが、私の、御社 那唯という命は一度停止して、肉体も火葬されました。でも、私、御社 那唯という存在、魂と肉体は間違いなく今現在あなたの目の前にいます。火葬されて1週間後、気付いたら私のいた村の外れに立っていました」
「なんで、そんなことに?」
「自分に何が起きたかなんて分かりません。でも、確かに、気付いてみれば私は蘇っていたんです」
「……」
「あの、千鶴さん、もしかして信じていません?」
不安そうな顔で少女があたしに聞いてきたが、実際は、あたしは、あんな目に遭っちゃ信じるしかないだろうな、と腹を括ったところだった。
「それで、続けて…」
「そのようにして蘇った『再生者』は普通の人間より並外れた身体能力と、治癒能力、あとで詳しく話しますが『共有・共感能力』、そして新陳代謝の遅延と各種細胞内のテロメアーゼの長さの変更、つまり長い寿命を持つことが可能になります。それ以外は普通の人間と変わらないんです。でも、そんな『再生者』として蘇った人間を他の人たちはどうすると思いますか?」
「迫害するでしょうね」
あたしはあっさりと言った。
死んだ人間が蘇ったってだけで立派に怪談話なのに、それが特殊な能力なんか持ってたら、もう、どうするかなんて言うまでもない。人は死ぬ、そして一度死んだ人間は蘇ってこない、哀しいけれどこれが日常を日常たらしめる絶対の不文律の一つだ。人は、何だかんだ言って普段の生活が恒常的な日常であることを望む生き物なのだ。
「えぇ、殆どの場合『再生者』との間にトラブルが発生します。どちらが『被害者』になって、どちらが『加害者』になるかはケースにも拠るでしょうけど……それを事前に防いで『再生者』を『一族』の元に回収するのが私『誘導者(ガイド)』の仕事です」
「それじゃ、あの通り魔も……」
「『再生者』です」
「いやにはっきり言うじゃない」あたしは言った。「確証はあるわけ?」
「『再生者』は相手を見れば『再生者』かどうかを見分けることが出来るんです。遠くにいる『再生者』を気配だけで察知することも可能な『探索者(サーチャー)』と呼ばれる『再生者』もいます。でも、今までは、その道に長けた前任者がいたんですが残念ながら半年前に亡くなってしまって……」
どうやら『再生者』というのは不老不死ではなく、あくまで一度蘇っただけにしか過ぎないらしい。
「それで事件を起こすまで気付かなかったってわけ?」
「……まぁ、少し違うんですけど。『再生者』になる人間って民族や地域に関係なく非常に少ないんです。ええと、確か……3000万人に一人、いるかいないかの確率だったと思います。それがこんな短期間に、しかも同じ国に2人目が誕生するなんて予想すらしていなかったもので、『探索者』もその『再生者』の察知が遅れてしまったんです」
まぁ、あたしがその『探索者』だったとしても、一度『再生者』とやらが発生した地域にはあまり重点を置かないで仕事をするだろう。それが効率ってものだ。
「ちなみに、1人目というのが私です」
「それは昨日聞いたあなたの年齢と外見から想像がつくわ」
彼女は昨日自分のことを15歳だと言った。そして彼女の外見年齢は、せいぜい13歳か14歳ぐらいだ。しかも名前はあたしと同じ日本人のものとくれば、そのぐらいの想像は簡単につく。
「たった1年で2人も『再生者』が産まれてくるなんて、この国どうかしちゃってるのかしら?」
「はぁ、多分、単純に偶然だと思います」
この世にはラッキーな偶然と不幸な偶然の二つがある。この場合は後者だろう。
「まぁ、『再生者』ってのがいて、通り魔やるような奴が『再生者』になっちゃったのは分かったわ。それで本題。あたしはどうなっちゃって、これからどうなるわけ?」
「私の声が聞こえたり、自分の体が自分の意思と関係なく動いたことは気にしないんですね……」
呆れたような顔をして彼女は言ったが、そんなことは知ったこっちゃない。問題は現状と未来だ。
「蛇が上顎に牙を持っているように、私達『再生者』にも上顎の、丁度前歯の裏の辺りに牙があります。その牙はある種の体液を分泌し、その体液が『再生者』ではない通常の人間の体内に入った場合、その人間との間に短期間ですが『共有・共感現象』を起こすんです。つまり、双方向の情報交換プロトコルを確立させたり、体性神経の制御や、『再生者』側による感情受信……」
「説明は簡潔に分かり易く!専門用語は禁止!」
あたしは大きな声で言った。
分からない専門用語を知ったかぶりして、はぐらかされるのは真っ平ごめんだ。
「つまり、私と千鶴さんの間で言葉を交わさなくても会話が出来たり、千鶴さんの感情が『再生者』である私には分かるようになったり、あと千鶴さんが強い拒絶反応を起こさなければ私が千鶴さんの体を動かすことが出来るようになるわけです」
……はっきり言います、あたしにとって一つも良いことがありません、その能力
自分が人間以外の『怪物』になる事を恐れていたあたしだったが、状態はそれよりさらに悪かった。つまるところ、あたしは彼女の『奴隷』ってわけだ。
「あと千鶴さんが見て触っているものを私も共感することができたりします」
……どこへ、どこへ行くのあたしのプライバシー
あたしは思わず布団を頭から被った。
状態は最悪だった。全ての自由を奪われて、プライバシーも奪われたらあたしに何が残るというのだろうか?。答えは一つ、何も残らない、だ。
「あの、でもずっとってわけじゃないですから。人間の体にはもともと、私達の体液に対する血清を作る能力があって…」
「え、本当?、ずっとじゃないの?」
あたしは布団から這い出して少女の顔を凝視する。自分で言うのも何だが、その姿は何かの妖怪みたいだった。
「はい、個人差はありますが、だいたい3日ぐらいで『共有・共感現象』はなくなります」少女は、あたしの視線にたじたじになりながらそう答えた。「それに、千鶴さんと私の間で会話なしに意思疎通を行うことはともかく、それ以外の能力を使いながら自分の体を動かしたりすることは、熟練した『再生者』にはともかく、私のような半人前の『再生者』には難しいんです。だから、四六時中千鶴さんの感情を感知したり、千鶴さんを操ったり、千鶴さんの見て触っているものを共感することなんてできないです」
つまり別に四六時中あたしは彼女に操られたりプライバシーを覗かれたりすることはないし、3日経てば、あたしは自由の身で、普通の人間に戻れるというわけだ。良かった、本当に良かった。
「それに『共有・共感現象』は完全なものではありません。千鶴さんにとっての禁忌になる行動、例えば命に関わるような行動等、潜在的に『やってはいけない』と考えている行動や、それに繋がると千鶴さんが考えている行動は強要することはできないんです」
……つまり、あまり無茶を強要されることは無いというわけだ。ますますもってオッケーだ!
「ごめんなさい、千鶴さん。本当は、この街のどこかに拠点を定めて、武術家か誰か、ともかく戦闘力のある人に事情を話して『共有者』になってもらって協力してもらう予定だったんです。それが、こんなことになっちゃって……」
「人間誰しも失敗はあるし、世の中万事上手くいくわけじゃないわ。気にしない、気にしない。これから頑張れば良いじゃない」
我ながら現金だと思うが、自分が自由になれると知って、あたしは布団から起き上がり、彼女を励ますように言った。
「ありがとうございます、千鶴さん」
そんなあたしの現金さに気付かないのか、彼女は明るい笑顔で言った。
……うん、やっぱりこの娘には笑顔が似合っているなぁ。
あたしは、思わず彼女を抱きしめて頭を撫でてあげたい気持ちになりながら思った。
「ところで千鶴さん。一つお願いがあるのですが」
「え…何?」
あたしは警戒しながら答える。
もちろん、彼女の『お願い』というのが『通り魔を捕まえるのに協力する』だったら断るつもりだった。あたしは、『血清』とやらが出来て、彼女の『共有者』でなくなるまで家に引きこもるつもりなのだから。
「すみません、昨日一晩寝てないんで、眠らせていただけると」
そう言うやいなや、彼女は前のめりに布団に倒れ込み、静かな寝息を立て始めた。
「……もう、仕方ないなぁ」
あたしは、少女を引きずるようにして布団の中へと運び込もうとしたがその瞬間、頭の中で何かが弾けるような感覚と共に、ある光景が浮かび上がった。それは漆黒の闇の中で必死になって家の入り口を叩き、何かを叫ぶ少女の姿だった。
「……お父さん、お母さん、どうして開けてくれないの?。私、戻ってきたのに……私、蘇っちゃいけなかったの!?帰ってきちゃいけなかったの!?」
呟いた少女の寝言に、あたしは一瞬だけ言葉を失ってその場に立ちすくんだ。
ちらりと、少女の顔を見て見ると、彼女の頬を一筋の涙が伝っていた。
彼女の過去に何があったかは知らないし、深く知る気は無い。でも……
「あんたも苦労したんだね」
あたしはそう言って、少女を布団の中に横たえさせた。
たとえ彼女が何者だろうとせめて、そのぐらいしてもバチは当たらないはずだった。
10.(chizuru's sight)
登場人物設定(3)
水原 翔子(みずはら しょうこ)
・(職業)高校生(喫茶店でアルバイトをしている。たまに実家のバイク屋の手伝いもしている)
・(年齢)17歳
・『ワラちゃん』というあだ名の、喫茶店におけるムードメーカー
ドアの呼び鈴が鳴ったのは昼過ぎの事だった。
あたしはと言えば、それまでぼんやりとTVでワイドショーやら時代劇の再放送やら昼メロを見ながら、普段こんな番組やってたんだ、とか、主婦ってこんなつまらない物365日見てるのかなぁ?とか考えていた。
「はい、はーい、今出まーす」
よく考えてみると、少女、那唯ちゃんが寝ている状態で不用意にドアを開けるのは危険な行為なのかもしれなかったが、その時のあたしはそこまで気が回らなかったのだ。
開けたドアの先にいたのは、職場の同僚……というか、元同僚で、細い目のせいでいつも笑っているように見える顔の作りの後輩、「ワラちゃん」だった。
もちろん、彼女には水原翔子という本名があるのだが、その笑っているような作りの顔といつも笑顔を絶やさない明るさから、誰が最初にそう言ったかは知らないが、翔子の翔を笑にもじって「ワラちゃん」という愛称で呼ばれるようになったのだった。
「こんにちわぁ、先輩。元気そうですねぇ」
「おかげさまでね。でも、どうしたの?。『ワラちゃん』がうちに来るなんて珍しいわね」
というより、どうやってあたしのアパートの住所が分かったんだろう、と考えたが難しい話でも何でもなかった。多分、バイト募集の時に出した履歴書か、バイトの住所録を事務所で見たんだろう。うちの店長は、今日び危ない話だがそのあたりが杜撰なのだ。
「色々とありますよぉ。まず、先輩のバイクなんですけどねぇ」そう言って、彼女はアパートの駐輪所を指差した。「簡単な故障をしてたのでぇ、先輩が置いてったんだと思って直して持ってきましたぁ」
あ、その手があったのか、とあたしは今更後悔した。
「ワラちゃん」の実家はバイク屋で、そのせいか「ワラちゃん」もバイクの修理とかには詳しいのだ。実際、今までに何回かあたしの『タイガー・ジェット号』は「ワラちゃん」のお世話になっていた。
「それと、店長さんからなんですけどぉ。『よく考えてみれば、あれは自分や社長の方が悪かった。でも、あの場では雇われ店長の俺と立場としてはあぁ言うしか無かった。後で履歴書をいじって別人ということで再雇用させてもらうから戻ってきてくれ、済まなかった』だ、そうですぅ」
店長の声を真似た「ワラちゃん」の説明に、あの人らしいな、と私は思わず、つい昨日までバイトを止めた事を清々したと思おうとしたことも忘れて頬を緩めた。短気で、たまについカッとなって行動してしまうという、どこかあたしに似た性格だけど、すぐに反省することが出来て、例え部下に対してでも謝るときは素直に謝ることが出来るのがうちの店長なのだ。
「ありがとう『ワラちゃん』。店長には、『あたしも悪かったから、2,3日頭を冷やしてからまた出勤させてもらいます』って伝えてもらえる?」
「良いですよぉ。また一緒に働けますねぇ、先輩」
「ワラちゃん」は、にっこりと笑顔で言った。彼女の笑顔は何時だって、人をほんわかと幸せな気持ちにしてくれる。
「ワラちゃん」の未来の夢は分からないけど、きっと結婚して奥さんになったら旦那さんはいつでも幸せな気持ちでいられるだろう。
「ところで先輩、一つだけ昔から聞こうと思っていたことがあるんですけどぉ。どうして先輩のバイクの名前は『タイガー・ジェット号』なんですかぁ?」
「よくぞ聞いてくれました」実はいつか誰かが聞いてくれる日を待っていたのだ。「そのうち中型バイクの免許を取って、中型バイクを買うのよ。そして、そいつにこう名付けてやるの!『タイガー・ジェット・真号』」
11.(nayu's sight)
……千鶴さんを除いてその場に重い沈黙の空気が立ち込めていた。
私は、来客があった時から眼を覚まして、いつでも飛び出していけるように身構えていたのだ。いくら相手が千鶴さんの知り合いでも、あの通り魔の『再生者』が自分の能力に気付いて、千鶴さんの知り合いを利用するとも限らないからだ。しかし、千鶴さんの台詞を聞いて、私は思わず硬直した。
「『タイガー・ジェット…』」
ギャグにしてもあまりに馬鹿馬鹿しすぎるのだが、千鶴さんの声から察するところどうやらかなり本気らしい。
襖をそっと開けて、来客の顔を窺ってみると、案の定困ったような笑顔を返していたが、千鶴さんはそんなことには気付いていないらしく。そのバイクで格好良く疾走する自分の姿を熱く相手に語っていた。
「アホらし…」
私は布団に入りなおして、もう一眠りすることにした。
「それじゃね、『ワラちゃん』。帰り道にはくれぐれも気をつけてね」
「はい、最近何かと物騒ですからね。それじゃ」
襖の向こうで交わされた会話に、私はふと不吉なものを感じた。
しかし、私はその時はそれが杞憂にしか過ぎないとばかり思っていた。
眠りを妨げたのは千鶴さんの携帯の着信音(恐ろしいことにタイガーマスクのテーマだった)だった。
どうやらバイト仲間からの電話らしいので、私はもう一度夢の世界へ戻ろうとしたが、千鶴さんの声が調子が明るいものから驚いて青ざめたものに変わったのに気付いて意識を覚醒させ、布団から起き上がる。
声の調子と同じく、千鶴さんの顔は青ざめていた。
「那唯ちゃん、大変なことになったわ」そういう千鶴さんの唇は震えていた。「『ワラちゃん』……あたしの友達が……」
全てを聞かなくても、何が起きたのかなんとなく察することができた私は、部屋の壁にかけていた外套に手を伸ばした。
「目撃者が大声で助けを呼んでくれたおかげでしょうな、軽い打撲と裂傷で済んでいます」
私や千鶴さん、その他、口髭の長身の男(多分この人が『店長』なんだろう)を始めとした大勢の人達に囲まれながらも、その医者は冷静に言った。
「外傷的にはそれほど重いものではありません。しばらく入院してもらえばすぐに直りますよ。ただ……」
「ただ?」
医者にその場の誰もが顔を近づけた。
「外傷はともかく、通り魔に襲われたという精神的な外傷が後遺症になることが心配されます。今は一応眠っていますが…」
医者の言葉にその場にいる誰もが顔を見合わせた、ただ一人を除いては。
「那唯ちゃん、ちょっと」
突然千鶴さんは私の手を引いて、物陰に連れ込んだ。
「これって、どう思う?。正直な所を言って」
千鶴さんの目は、少なくとも今までで一番真剣で真面目だった。
「二つ考えられます。一つはあの晩通り魔の『再生者』が千鶴さんを狙ったのは偶然ではなく、以前から千鶴さんをターゲットにして狙っていて、あの晩に犯行に及んだという考え方です」
「もう一つは?」
「あの晩に千鶴さんを狙って失敗したので、今度は成功させようとターゲットにした、という考え方です。どちらにしても共通しているのは、犯人はある程度千鶴さんの情報を持っていて、今回の件は犯人の意思表示である可能性が高いということです。千鶴さんが外に出て来なければ、次々に千鶴さんの関係者が襲われるでしょう」
その方法も失敗に終わった場合、家に火を付ける様な暴挙にでる可能性もあるが、それは黙っていた。
千鶴さんはちらりと医師を囲むバイト仲間達の方を見ると「冗談じゃないわ」と小さく呟いた。
「あたしの責任だわ…」
唇をかみ締め、肩を震わせながら千鶴さんが言う。その言葉には、何らかの決意があるように思えた。
「あの時、あたしが那唯ちゃんを起こして一緒に駅まで行っていればこんなことにはならなかった……」
その代わり、通り魔が家の中で私達が帰ってくるのを待ち伏せしていた可能性もあった。
千鶴さんには言わなかったが、通り魔は千鶴さんの住所ぐらいは調査していて、おそらく千鶴さんの家を何処かから見張っているはずだ。あの通り魔は狂ってはいるものの、知性が無いわけではない。衝動で犯罪を行っているのではなく、おそらくは何らかの目的で計画的に犯行を行っているのだ。
「那唯ちゃん、あたしと那唯ちゃんとの間の能力が切れるまでにまだ時間はあるよね?」
「えぇ、多分、あと1日か2日」
本当は人によって誤差があるので体内で血清が作られるのに4,5日かかる人間もいれば、それこそ1日で血清を作ってしまう人間もいるのだが、少なくとも千鶴さんと私の間の『共有・共感能力』は無くなっていない。それが証拠に千鶴さんの怒りの感情が私に伝わってきていた。
「それまでに通り魔の『再生者』を捕まえましょう」
千鶴さんの口から出された言葉に、私は我が耳を疑った。
「千鶴さん、いま何て…」
「あなたと私の間に繋がりがある間に通り魔を倒す。そしてこの事件を終わらせる。そう言ったのよ。通り魔の狙いがあたしなら、あたしが囮になるわ」
私は絶句した。それはどう考えても無茶だった。私はともかく、千鶴さんは戦闘経験なんてものはない素人なのだ。実際の戦闘は私が行うにしても、千鶴さんに危険が及ばないとも限らない。この提案は危険度が高すぎる。
「もうすぐ日が暮れる。そうすれば奴があたしを襲いやすくなる。みんなが病院から帰る前に行動を開始するわ」
でも、私には止められなかった。彼女の何かを決意した目に気圧されてしまったから……そして、多分止めても彼女は一人でも行動してしまうだろうことを悟ってしまったから。(続く)
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夕暮れ時の茜色の車内で「あたし」が会ったのは「化け物」だった。けれども、それは美しくて悲しい「化け物」だった。 「化け物」と少女の物語 前編 |
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