蛇達の饗宴 1「物語のはじまり」(後編)
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12.(chizuru's sight)

 

別に正義感だけからそんなことを口にしたわけじゃない。

昨日の通り魔との遭遇が偶然ではなく、必然だとすればこれらかもあたしはあの通り魔に狙われることになるし、あたしと那唯ちゃんとの間の『共有・共感能力』が切れてしまったら、彼女があたしの危機を察知して昨日みたいに助けに現れてくれる可能性は極めて低くなってしまうし、何よりあたしを守ってくれる理由がなくなってしまうからだ。もちろん、彼女の性格から、通り魔を狩るためにあたしを引き続き守ってくれる可能性もあるが、あたしの犠牲は仕方ないものとして、もっと強い協力者を探しに行ってしまうかもしれないのだ……それなら、この能力による繋がりがある今のうちに敵を倒してしまった方が良いというのが本当のところの主な理由だった。

だけれども、正義感が少しも無かったといえばそれも嘘になる。

あたしは、昨日は嫌いになろうとしたけど、やっぱり今のバイト先が好きだし、バイト先の仲間が好きだ。それが傷つけられるのはどうしても許せない。

……ご息女は大変に正義感が強いのは長所だと思います。

学生時代の三者面談の際の教師の言葉が唐突に思い出された。

……しかし、それがまれに暴走する時があるのが短所です。

「暴走するから何よ!」

あたしは思わず口に出していた。「千鶴さん?」と那唯ちゃんがあたしの顔を驚いたように覗き込む。

「なんでもないわ」照れ隠しにあたしは、彼女の手を引いて病院の入り口へと向かった。「那唯ちゃんはあたしから距離をとって、昨日のあいつが不意打ちしてこないか注意してね。あいつが現れたら体の力を抜くからあたしの体を使って」

「分かりました、千鶴さん。でも最初にお断りしておきますが、私が千鶴さんの体性神経を操作できるからといって、それはあくまで千鶴さんの潜在能力も含めた能力の範囲内でのことです。千鶴さんの能力で出来ないことは私には出来ません」

「つまり、カタログスペックで60km/時しか出ないバイクで実は80km/時出せても、100km/時は出せないということ?」

「……ええと、まぁ、間違っていないと思います」どうやら那唯ちゃん、機械には弱いらしい。「ともかく、私が千鶴さんを使って出来ることは、あくまで私が現場に到着するまでの時間稼ぎだけだと考えてください」

つまり、自分の能力にあまり期待してくれるな、と彼女は言っているのだった。

あたしは一瞬心細くなったが、一度乗り出した船から下りることはできない、と腹を括ることにした。第一、物事を良い方に考えれば、実は通り魔に狙われていたあたしに神様からの助けの手が差し伸べられた、という解釈もできるのだ。だったら、やっぱりこの幸運を逃す手はない。

「あたしの命、あなたに託すわ。よろしくね、那唯ちゃん」

「はい、千鶴さん」

返された力強い返事があたしを勇気付けてくれた。

決戦は今晩だ!

 

 

病院に来るのに使ったスクーター(もちろん那唯ちゃんと二人乗りだった)を置いてあたしは歩いて家まで向かった。

その家路にはわざと人通りの少ない通りを選んだのだったが、通り魔はなかなか姿を現さない。

「那唯ちゃん、敵は家の前とかで待ち伏せしているのかなぁ?」

数十分ほど歩いた時点で、あたしは頭の中で彼女に語りかけた。

「そうかもしれません、あるいは家の中で待ち伏せしている可能性もあります。もし家まで何も無かった場合、最初に私が家に入ります。でも、まだ油断は大敵です」

彼女の言うとおりだった。あたしは用心しながら、尚且つその用心が相手に気取られないように、そして何が起きても冷静に対処できるようになるべく普通を装って歩く。

しかし突然鳴り響いた携帯の音に、あたしは驚きのあまり悲鳴をあげて文字通り飛び上がってしまった。

携帯はバイト仲間の一人からだった。

「はい、円城ですが…」

「千鶴ちゃん、大変よ!『ワラちゃん』が病院から姿を消したの」

彼女の話によると、今らか数十分前病室に入った看護師がベットで寝ているはずのワラちゃんの姿が消えていることに気付き、全員でワラちゃんの姿を探したのだが病院内に彼女の姿を見つけることが出来なかったのだという。

「……それでね、患者さんの一人が『ワラちゃん』が駐輪所でバイクを弄っているのを見たって」

……まさか!?

嫌な予感がしたが、それはありえない話ではなかった。「ワラちゃん」だったら、バイクのエンジンを直結して動くようにすることぐらいは簡単にできるだろうし、それに……

「『ワラちゃん』の怪我って首筋の打撲と裂傷だったよね」

「うん、そうだけど……」

……もし、その裂傷が首筋の噛み傷を隠すためのものだったら、「ワラちゃん」は……まさか!

「那唯ちゃん!、気を付けて!!」

私は慌てて頭の中で叫んだ。

「どうしたんですか、千鶴さん?」

……良かった、まだやられていない。

あたしは思わず胸を撫で下ろした。

だが、その時だった、あの通り魔の『再生者』が物陰から姿を現したのは。

「千鶴さん、力を抜いてください。時間を稼ぎます」

あたしは那唯ちゃんの言う通り体の力を抜いたが、その瞬間これは罠なのではないか?という考えが頭を過ぎった。通り魔も『再生者』だ。そして、もし、那唯ちゃんと同じ能力が使える、もしくはそれ以上の能力が使えるのならばあたしの体を操る際に、自分の体を動かすことが出来なくなる、すなわち無防備になることも知っているはずだ。もし、あたしがこいつならば、取るべき方法は……

「駄目、那唯ちゃん。これは罠よ!」

しかし、手遅れだった。あたしの体の中に何かが侵入してくる感覚とともに、あたしの体は勝手に空手か何かの格闘技の構えのポーズをとっていた。あたしは那唯ちゃんに罠であることを伝えるために、体に力を入れて那唯ちゃんからの体の操作を拒絶しようとしたが、男は一歩あたしの方に踏み出し、二人の間合いは一触即発の位置まで縮まった。もう、こうなっては操作の拒絶どころの話ではない。

「那唯ちゃん……」

あたしは那唯ちゃんに頭の中で話しかけたが、返答は無かった。もう、那唯ちゃんの意識は私の体を操ることに完全に集中してしまっているらしい。こうなったら、あの悪い予感が単なる杞憂だと信じて運を天に任せるしかない。

男がもう一歩あたしの方に踏み出し、間合いに入ったその瞬間、あたしの体が相手の顔面を狙って飛び蹴りを繰り出していた。

それは、あたしのどこにそんな潜在能力があったのだろうというぐらいの鋭い蹴りだったが、その勢いは唐突に途中で止まってしまった。

「な、那唯ちゃん!?」

問いかけてみたがやはり返事は無く、体を操られているときに感じる、あの体の中の異物感も消えていた。

通り魔の男は、勢いの無くなったあたしの蹴りを容易に片方の手で掴み、あたしは逆さ中吊りの状態になった。

「那唯ちゃん!?那唯ちゃん!!」

あたしは捲れそうになったスカートを慌てて押さえながら何度も彼女に問いかけた。

「無駄だよ千鶴さん」それが、初めて聞く通り魔の男の声で、それは、ひどく嘲笑的だが予想外にも普通の若者の声だった。「彼女、今頃それどころじゃないはずだからね」

「それどころじゃないって……一体?」

本当はあたしには分かっていた。嫌な予感は、多分的中したのだ。

「はじめまして千鶴さん。自己紹介しておくよ。僕の名前は高槻 弦哉(たかつき げんや)。君達が『再生者』と呼ぶ存在さ」

 

 

13.(nayu's sight)

 

それは正に唐突な出来事だった。

突然、響いてきたバイクのエンジン音と、突き飛ばされるような感覚、そして体中に走る激痛……それは殆ど同時に起きた。

何が起きたのか分からないままあたしは地面に叩きつけられ、その拍子に千鶴さんの体を操るために集中していた意識が解け、殆ど無理矢理に意識が自分の体に戻ってきてしまった。体中に走る激痛とその感覚の気持ち悪さに、思わず私は嘔吐しそうになる。

半人前の私の『共有・共感能力』は完全なものではない。『共有・共感能力』で相手と『接続』している間は、私自身の方の身体能力や察知能力は著しく低下してしまう。つまり、相手を動かし、相手の感知しているものを感知する方に全ての能力を注ぎ込んでしまっていると言っても過言ではないのだ。熟練した『再生者』になると、自分の力を完全に発揮しながら『接続』した相手を意のままに操ることが可能だし、さらに熟練した『再生者』になると、複数の人間に対して『共有・共感能力』を発揮することが出来るのだと言うが、現実として私にはそんなことは不可能で、尚且つ一人の人間に『共有・共感能力』を発揮するのも難しい状態だ。そして、今、正に私はその盲点を付かれたわけだった。

少し離れた所でバイクがターンする音がして、またエンジン音が迫ってくるのが聞こえた。

私は慌てて起き上がったが、頭がフラフラする上に足元がおぼつかず、視界は二重三重にぼやけていた。結果、私はバイクを避け損ね、近くの壁まで跳ね飛ばされた。

再び体中に走る激痛……肋骨が折れて内臓を傷つけたのか、咳き込んで口から吐き出された物の中に赤いものが大量に混じっていた。おそらく体中の他の骨やら組織もかなりの損傷を受けただろう。私が『再生者』ではなく普通の人間なら、とっくに身動きが取れなくなっているぐらいのダメージだ。

私は口の中に溜まった血を、ペッと吐き出して立ち上がった。

骨が折れたのならばともかく、皹が入ったぐらいなのならば、それを治すのに『再生者』にはそれほどの時間は必要ではない。しかし、バイクの襲撃者はその僅かな時間も与える気はないようだった。もう一度バイクがターンする音が聞こえてくる。

……まいった、私、また死ぬかもしれない

おぼつかない足元でバイクの方に向き直りながら、そんな事を私は考えた。

……でも、もう一度死ぬなら、今度はもう少しましな死に場所がいいな

決まった、やっぱりまだ死ねない。

もう一度バイクのエンジン音がした時、私は壁を蹴って寸前でそれをかわした。そして、その瞬間にバイクの襲撃者の顔を見てしまった。襲撃者がバイクのヘルメットを被っていなかったからだ。襲撃者、病院の入院着を着た女性は、私の記憶にある人物だった。

「たしか、昼に千鶴さんの家に来た……彼女の怪我は首筋の打撲と裂傷。それが他の傷口を隠すためだとしたら……じゃ、これは……しまった!」

私は青ざめた。これは私が千鶴さんに『接続』できないようにするための罠で、それが確かだとすると通り魔は自分の能力、少なくとも『共有・共感能力』に気付いてしまったというわけだ。そしてその推測が正しいとすれば考え付くことは二つ、敵は熟練者ほどではないとしても『接続』しながら自分の体を動かすことができるということと、少なくとも『共有・共感能力』に関してはこちらの実力を見抜いているということ……

……馬鹿じゃないとは思っていたけど、まさか短期間でそこまで気付くぐらいに頭が回るなんて……

私は歯軋りする。

相手を舐めていた。そして、相手より有利なカードはこれでなくなった。むしろ、一気に劣勢に回ったと言っても良いかもしれない。

……それにしても、彼女、人を傷つけることをなんとも思っていないのかしら?

『再生者』は『共有・共感能力』は使えるが、この『共有・共感現象』は相手にとっての禁忌事項を強要することはできない。普通、人間は自衛以外の目的で他人を傷つけることを禁忌事項にしている。それは軍人とか殺し屋のような他者を傷つける、あまつさえその生を奪うことを生業にする人間も一部を除けばそうだ。

だというのに彼女は、最初から殺人が禁忌事項ではないかのように、平気でこちらを轢き殺そうとしているようだった。殺人が禁忌事項に入っていないというのは人間社会において狂人以外の何者でもない。でも、昼間ちらりと見た限りでは彼女はそんな人間には見えなかった。むしろ、どちらかといえば虫一匹殺せないというタイプに見えた。もちろん、人間が全て見た目通りとは限らないが……

……いや、待てよ……まさか!?

あたしの中で恐ろしい考えが閃いた。

……まさか、この事件、『レギオン』が絡んでいる!?

 

 

14.(The Third Person's sight)

 

 登場人物設定(4)

???(???)

・(職業)???(『レギオン』の関係者?)

・(年齢)15歳(ただし外見年齢)

・少年。それ以外については不明

 

???(???)

・(職業)???(『レギオン』の関係者?)

・(年齢)20代半ば(ただし外見年齢)

・青年。それ以外については不明

 

「あーあ、失望だねぇ」少し離れた場所にあるビルの屋上から銀髪で癖毛の、整っているがどこか幼さの残る顔の少年が肩をすくめるようにして言った。「後任の『追跡者』が任命されたというから期待していたのに、あの程度とはねぇ。僕らも舐められたものだよ」

「失望しているのは『追跡者』だけじゃないでしょう?」

 脇にいた背の高い黒髪の青年が言う。無表情で、どこか作り物を思わせる美しさの顔をした青年だ。

「そうそう、あの通り魔やってた『再生者』にも失望だよ。助言どころか薬まで分けてあげたんだよ。もう少し上手く使ってくれないかなぁ?」

「少なくとも、あの『追跡者』の足止めをするという意味では上手く使っているようですよ」

「それは認めるよ。自分の望みは果たしそうじゃない、取り敢えずはさ」少年はつまらなそうに、頭の後ろで腕を組んで言った。「でもさぁ、研究成果の実戦検査なんだよ、これ。もう少しでかいことやってくれないとねぇ」

「目的の大小は個人によるものなのですよ。まぁ、良いじゃないですか。世界は広い、被験者はまだまだ増えます」

「そういうものかねぇ」

不満げな口調を残して、少年は立ち去ろうとした。

「あぁ、ところで」青年は少年を呼び止めて聞いた。「この戦い、どちらが勝つと思いますか?」

「あぁ?、もう勝負付いたんじゃないの?。通り魔の方でしょ」

「私はあの娘の方が勝つと思いますよ」青年は、ポケットからタバコを取り出して火をつけながら言った。「あの娘達、結構面白いですからねぇ……」

「どちらにしても、僕には興味の無いことだね」

そう言って、少年は次の瞬間にはそのビルの屋上から姿を消していた。

青年はタバコの紫煙を吐き出しながら、「それでは楽しませてもらいましょう」と呟いた。

 

 

15.(chizuru's sight)

 

登場人物設定(5)

高槻 弦哉(たかつき げんや)

・(職業)無職

・(年齢)20歳代半ば

・通り魔にして『再生者』

 

「千鶴さん、やっとこうして話せる機会ができたね」

「……そうね」

できればそんな機会は未来永劫来て欲しくなかったが、現実は現実だ。

あたしは今、通り魔に足をつかまれて逆さ宙吊りにされている。おそらくこの体勢からでは、抵抗しても無駄だろう。もしできたとしても、あたしの運動神経では、那唯ちゃんの力でも借りない限り相手に決定的なダメージを与えることはもちろん、この場から逃げることができるような攻撃をすることも絶望的だ。だから、あたしは諦めて話しかけてきた男に返事を返す事にした。

「僕はね、ずっと千鶴さんを見ていたんだ」

その行為がいつから、どのように行われていたのかは知らないが、正直、できれば知りたくなかった事実だ。

「どうして?」

もう腹を括った。こうなれば、どうしてあたしがこんな目に遭っているのか、根掘り葉掘り追求してやる。

「だってさ、君、あの雨の日に僕に傘を貸してくれてじゃないか」

「……傘を?」

「そうだよ、思い出さない、この顔?」

そう言って通り魔はマフラーを外した。マフラーの下から現れたのは、予想していたよりずっと幼い顔立ちだった。

……この顔、どこかで見たことある……かしら?

あたしは記憶のフイルムを逆回転させて過去の出来事を思い出す。

そうだ、思い出した!。確か、半年ぐらい前に、あたしのアパートの軒下で途方にくれている男に傘を貸してやったことがあった。あの時は、あたしも世間知らずだったし、その男がてっきりアパートのご近所さんの知り合いかと思ったのだ。

「僕はね、あの時、途方にくれていた。僕は事故で、車ごと焼かれて死んだはずだったんだ。なのに、気付けば無傷のまま街の雑踏の中に立ちすくんでいたんだ。だから喜ん家族の元に帰ったんだ。なのに、家族は僕を受け入れてくれるどころか、生き返った僕に怯え、そして帰ってきたことが迷惑だと言うんだ……」

……私、蘇っちゃいけなかったの!?帰ってきちゃいけなかったの!?

一瞬、あたしの脳裏を那唯ちゃんの言葉が過ぎった。

彼女が蘇った後で、実際にどういう事件があったのかは知らない。けれど、きっと彼女にも同じように哀しいことがあったのだろう……

「僕は、どうしようもない呑んだくれで働きもしない父さんのせいで借金まみれになった家族を助けるために身を粉にして働いていたんだ。なのに、死んで保険金が入ったから、僕はもう要らないって言うんだ。誰がいったと思う?。僕がこの世で一番助けたかった人、母さんが言うんだ。僕は、この世で一番分かってもらいたかった人に拒まれて、捨てられたんだ」

……それはショックだったろうに

あたしは思わず、この通り魔に同情した。あたしだって、同じ立場なら自棄になって犯罪に手を染めるかもしれない。

「一人になって、僕は途方にくれたんだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう、って。でも、同時に僕には生きていたときには無かった不思議な確信があった。それは、誰かと繋がって分かり合える、という確信だった」

……『共有・共感現象』のことだ

あたしは那唯ちゃんの説明を思い出した。

おそらくこの男は、『再生者』になった時に自分の能力には薄々気付いていたのだ。ただ、不幸にも誰も彼にその能力が何なのかはおろか、使い方すら教えてくれなかった。だから、その能力に自分が期待している程の効果が無いことが分からなかったのだ。

「僕は気付いた。誰かと分かり合えればいい……そうすれば、次々に人の分かり合う輪が広がっていくはずだ、と。だから、分かり合えそうな人間を探すことにした」

……聞いているだけでお腹が一杯になりそうな幼い理想論だ。

世間知らずの理想もここまで来ると妄想だ。

しかし、だとすると疑問が一つ残る。その疑問をあたしは聞いてみることにした。

「それで、何で通り魔なんかしたわけ?」

「あれは未遂だったんだよ、全部」

 

 

16.(nayu's sight)

 

脂汗が顎を伝って地面に落ちた。

襲撃者のバイクをターンさせて轢きに来る速度は軽くかわせるものではなく、私はその都度飛び上がって地面に無理な着地をしたり地面を転がったりしていたが、そのたびに体に衝撃が走り、傷が治るどころか傷口が広がっていたのだ。

……あと何回避けられるかしら?

既に息は上がっていた。

このままでいれば、最期には轢き殺されるのは時間の問題だった。『再生者』は普通の人間以上の回復力を持っていても、不死身ではないのだ。

もちろん、対応策が無いわけではない。

バイクは直線的に飛び込んでくるのだから、運転手目掛けてとび蹴りを食らわせるか、避けた振りをして延髄斬りを決めるという方法は有効だろう。あるいは、相手のバイクの後部座席に着地して攻撃するか、当身で気絶させるという方法も有効かもしれない。『共有・共感能力』は相手に意識があり、尚且つ相手が『再生者』の指示を拒絶しなかった場合のみ有効なのだ。多分、どんな薬物を使われていたとしても、これらの方法で意識を失わせればしばらくの間『再生者』が彼女を動かすことは不可能になる。

ただし、これらの方法にはどれも一つだけ問題があった。それは、確実に彼女を怪我させてしまうだろうということだった。

……馬鹿馬鹿しい、何を考えているの、私?

私は頭を振って、冷静さを取り戻そうとする。

……どうして、私が襲撃者の心配をしなければならないの?……千鶴さんの友達だから?……だからといって私と彼女には何の面識も無いわ……だいたい千鶴さんだって、たしかに今回の件で協力してくれてはいるけど、それはあくまで自分自身と自分の周りの人間を守りたいという自分勝手な考えで……

でも、だから何だというのだろう?。

確かなことは、襲撃者が千鶴さんの友達だという理由で、私は彼女を攻撃するのを躊躇っていて、何とかしなきゃ、と何故か思ってこの場から逃げる(やろうと思えば電柱の上まで飛び上がってこの場から逃げるということも、まだなんとか可能だ)という選択肢を自らなくしていたということだ。

「……結局、私には向かないんですね、『誘導者(ガイド)』はおろか、『追跡者』も……」

私は呟く。

人生には選択しなければならない時がある、と教えてくれたのは長老達だったか、先生だったか、それとも教科書だったか……思い出せないが、今がその時だということは確かだ。

……いや、でも、もう一つ選択肢があるのではないだろうか?

私はふと思った。

根拠は無い。でも殺るか殺られるかなんて選択肢はそんなに単純じゃないはずだ。

しかしながら、その第三の選択肢が何なのか?、答えには手が届きそうで手が届かないのも確かだった。私はそのまどろこしさが悔しくて、思わず下唇を噛んだ。

バイクがターンする音が聞こえてくる。

その瞬間、私が『再生者』になる前の光景が頭の中でフラッシュバックした。

夕焼け空の下……グラウンドの長距離走用のトラック……最終走者として走っている私……ランナーを一人抜き、二人抜き、とうとう先頭のランナーの背中が見えた……私は彼女に勝ちたかった……医者からは今日の競技が私にとってのラストランになると言われていたから、だから……けれど、その背中に手が届く所まで追いついたのに、私の心臓はそこで停止した……意識が暗い闇に沈んでいく中、ただただ悔しくて流した涙……それが私の普通の人間としての最期の記憶

あんな思いは、もう御免だ。

霞んだ視界の中、私の目前にまたバイクは轟音と共に迫っていた。そして、バイクと私が接触する瞬間、私の体は考えるより先に行動を起こしていた。なぜ、そのような行動に出たかなんて分からない。多分、窮地に追い込まれての刹那のひらめきが私をそうさせたに違いない。

私は、地面を蹴って飛び上がり、そしてバイクの荷台置き場、彼女の背後に着地し、驚いて背後を振り返った彼女の肩を押さえ、首筋に噛み付いた。前歯の奥にある二つの牙が素早く伸び、彼女の血管内に分泌した体液を流し込む。熟練した『再生者』ならば血液を流すことなく、これらの動作を終わらせることができるそうだが、半人前の私は僅かに彼女の血液を口内に入れてしまい、軽い嘔吐感を感じる。だが、これで『共有・共感現象』の『上書き』は完了した。

一度『再生者』に噛まれた普通の人間がもう一度『再生者』に噛まれた場合、噛まれた人間の体内の分泌液は化学現象を起こし、後から噛んだ『再生者』の分泌液に急速に変化する。つまりは、最初に噛んだ『再生者』との間の『共有・共感現象』はなくなり、代わりに後から噛んだ人間との『共有・共感現象』が発生するのだ。確かにいい加減だが、残念ながらこれは真実だ。

でも、問題はその後だった。

「がはぁっ!」

私は思わず悲鳴を上げて、仰け反りそうになった。体中に見えない大量の何かが自分に入り込み、そして同じく大量の何かが出て行くような感覚が私に襲い掛かってきたのだ。

これは、現在私に二人分の人間の感情や感覚が流れ込んできていることによる現象だ。熟練した『再生者』ならまだしも、半人前の私にとって、二人の人間と『共有・共感現象』を起こすのは容易なことではない。千鶴さん一人と『共有・共感現象』を起こしただけでも平常心を保つのがやっとだったのに、私、襲撃者、千鶴さんの三人分の意識が、私一人の中で混在している現在の状況は、例えるならば暴風の中に何の装備も無く放り出されたようなもので、制御できないまま意識の奔流が私の中で無秩序かつ手加減なしの状態で渦巻いていた。

彼女は前の『再生者』との『接続』が切れたためか走らせていたバイクを止めたが、その拍子に私はバイクの荷台から地面に転げ落ちた。怪我の件もあったが、体中を駆けずり回る混沌とした意識の奔流と眩暈のせいで、もうまともに立っていられない状態だったのだ。

「私……どうして、こんな所で、こんなことを?」

呆けたように襲撃者の彼女はバイクから降りて言った。どうやら事態が飲み込めていないらしい。だが、事態が飲み込めていないからといって役に立ってもらわなければ困るのが現状だ。

「あなたは、今日の昼に千鶴さんの所に来た人ですよね?」

あたしは相手の頭に話しかけた。本当は相手を混乱させないように、ちゃんと言葉で喋りたかったが、地面の上で倒れたまま体が痙攣している私には、もはやまともに喋ることすら難しかったのだ。

「そ、そうですけどぉ…」しかし、予想外にも相手は事態に対する順応性が高いようだった。「あ、あなたは一体?」

「私は、あなたの後ろに倒れています」

彼女は恐る恐る背後を振り返り、「ひっ」と悲鳴をあげた。恐怖の感情が私にも伝わってくる。無理も無いだろう、傷だらけの女の子が白目をむいて、口から泡を吐き出しながら体を痙攣させている姿は、普通ならホラー映画のワンシーンでしかお目にかかれない光景だ。

「あのぉ、あなた大丈夫……!?」

躊躇った挙句、おそるおそる彼女は私の体を心配して話しかけて来た。

どうやらこの人は決して悪い性格ではないらしい。

「大丈夫です、体の方は治り始めていますし、なんとか『意識の折り合い』も付きそうですから」

それは半分以上嘘だった。

体は、治りかけているとはいえまだボロボロで、体中のあちこちが痛んでいたし、二人分の人間と『共有・共感現象』を起こしているせいか、視界が大きく歪んでいて吐き気がしそうだ。そして、なんとか千鶴さんと彼女に『接続』しないことで自分の正気を保ってはいたが、この状態ではそのうち意識が自分で制御できなくなって勝手に千鶴さんや彼女に『接続』を開始するのは時間の問題だった。もし、そうなったら、私は狂って『暴走』するか長時間意識を失うかのどちらかだろう。私が『接続』を抑えていられる時間は、多分15分が限度だ。

「肩を貸してくれませんか?、そしてそのバイクに私を乗せて私の指示通りに走って欲しいんです」

今度はちゃんと言葉で頼んだ。

言葉を使って喋らないと意識の崩壊が加速しそうだったからだった。

「え、いいですけどぉ、でも……」

「詳しい説明は、後でちゃんとしますから!」

必死な口調で私は言う。

色々な意味で残った時間は少なかった。こうしている間にも千鶴さんは通り魔に何かされているかもしれないし、私の意志は次第に暴走する意識の奔流の中へと落ちようとしているのだ。

彼女は、恐る恐る私に近づくと、私の肩を持ち、そしてゆっくりとバイクに乗せてくれた。

「ヘルメットはぁ、無いんですけどぉ、良いですかぁ?」

私は首を縦に振った。どちらにしろ、ヘルメットを被るとその分視界が狭くなるし、空間感覚の認知能力が鈍くなってしまう。ただでさえ視界がはっきりしていないのに、これ以上視界を悪くするのは得策ではない。

「それでぇ、どこへ行けば良いんですかぁ?」

彼女が聞いてきたので、私は千鶴さんの待つ方向を指差した。

「しっかり掴まってますから、急いでください!」

やはり彼女は素直な性格だった。私が言うと、彼女はバイクを急発進させて、油断しているとそのまま後ろに吹き飛ばされそうな猛スピードで走り出したのだ。

 

 

17.(The Third Person's sight)

 

「なんです、また戻ってきたんですか?」青年は自分の背後にいた少年に気付いて言った。「飽きて帰ったのかと思いましたよ」

「まぁ、実際飽きたんだけどね、二つほど教えておこうと思ってさ」

少年はそう言いながら青年の横に並んで、眼下で繰り広げられる二つの対決を眺めた。

「一つはさ、あの『追跡者』とは別に『探索者(サーチャー)』と『誘導者(ガイド)』がこの街に近づいていることに気付いたことを教えておこうと思ってね…」

「ほぅ」と青年は少年を一瞥し、「なるほど、あなたも『探索者(サーチャー)』でしたね」と答えた。

「『探索者(サーチャー)』でもあるんだよ」少年はさりげなく青年の言葉を訂正して言った。「あまり時間もないみたいだから、あんたもそろそろ気配と身を隠したら?」

「言われなくてもそうしますよ」静かな口調で、しかし眼下の光景から目を離さずに青年は言った。「それでもう一つは?」

「そうそう、あんたあの娘達面白いって言っただろう」少年は両腕を頭の後ろに回しながら、屈託の無い笑顔で答えて言った。「でもさ、あの男も結構面白いんだよ。それを教えておこうかな、と思ってさ」

「ほう?」

「あいつ、自分が殺した人間は自分と同じ『再生者』になるって、思い込んでいたんだよ。『共有・共感能力』を勘違いしていたんだねぇ。そんなわけあるわけ無いのにねぇ。そうなるんだったら、『レギオン』が苦労なんかしないし。それに歴史のどこかで人類が『再生者』だらけになってるのにさ。少し考えれば分かることなのにねぇ」

「人は窮地に陥るとおかしな考えに捉われて、そしてそれを妄信してしまうものなのですよ」

諭すように答える青年の口調はあくまで静かだ。

「それで、あなたはその考えが間違いだと『共有・共感能力』について教えたときに教えてあげたのですか?」

「いいや」あっけらかんとした口調で少年は答える。「面白そうだから黙ってたよ。『共有・共感能力』については、少なくともあの未熟な『追跡者』以上のことができるように教えてあげたけどね。どうやら別の能力だと思ったみたいだよ」

青年が少年の方に振り返った時、既に彼は姿を消していた。

「やれやれ、相変わらず逃げ足は素早い」青年は呆れたように言った。「悪戯好きな点も幾つになっても変わらない」

青年はポケットから日本では売られていない銘柄の銀色の煙草の箱を取り出し、箱の底を指で叩いて箱から飛び出た一本を口で咥えると、同じくポケットから取り出したマッチで火をつけた。

「でもねぇ、あまり悪戯が過ぎると、それで痛い目を見るときもあるんですよ。『再生者』について全てを知らないのはあなたも同じなんですから。まぁ、本人がいないのに説教をたれても仕方ありませんがね」

青年は口から紫煙を吐き出すと、人差し指と中指に挟んでいたそれを親指で眼下の街へとピンと弾き飛ばした。

それは風に舞いながら地面へと着地し、やがてその火は燃やすものを無くしてアスファルトの上で消えたが、その頃までに青年の姿はビルの屋上から消えていた。

 

 

18.(chizuru's sight)

 

「だからね、僕と同じになれば千鶴さんも分かってくれると思うんだ」

……冗談じゃない、狂ってる、この人

あたしは自分の歯がガチガチと音を立てていることに気付いた。

つまりは『再生者』に殺されたものは『再生者』になれる。そのようにして産み出された『再生者』は元の『再生者』と完全な意識や思考の共有が出来る。そう信じて、『再生者』にしたい人間を『選択』(世間一般の言葉ではストーカーだ)して『開放』(世間一般の言葉では殺人だ)しようとしたが、今まで邪魔が入って一度も成功していないというのが通り魔の言い分だった。

「幸いにして、もう邪魔者はいない。あの『再生者』も、僕の『下僕』がもうすぐ片付けてくれる。『再生者』だって不死身じゃないんだからね」

「『下僕』?」

あたしは逆さ宙吊りの状態から男の顔を見ながら聞いた。

「そうさ、『共有・共感能力』なんて不完全な意識の共有だろ。なにせ主である『再生者』に意識の共有を拒否することも出来るんだからさ。せっかく意識の『共有・共感』ができるのに、そんなことをされたんじゃ何の意味も無いじゃないか。だから最も僕の場合は、少し工夫をさせてもらったよ」

そう言って、男はポケットから小さなカプセル状の薬品を取り出した。

「これが何だか分かるかい?」

「……いいえ」

でも、多分、どうせまともなものじゃない。

「これはね、『人形作り』と呼ばれる薬だよ。中世のヨーロッパの戦場なんかで、傭兵達が慰み者にする目的でかどわかしてきた女性が暴れないようにするために使った秘薬なんだ。時の権力者は、科学の研究に熱心な者でさえ、この薬の使用を禁止して、あまつさえこの薬の製作者を処刑して薬物史上から抹殺されたといういわくつきの薬なんだよ。まぁ、正確にはこれはそのレプリカで、効果も本物の足元にも及ばないんだけど、少なくともこちらからの『共有・共感』の接続を拒絶しようとする感情と精神の禁忌によって命令を拒否する感情ぐらいは吹き飛ばせる代物なんだ。おまけに、よっぽどの精密検査をしない限りこの薬は検出されないんだよ」

……本当に、人と科学の進歩というのは罪深い

あたしはしみじみと思った。

「相手に噛み付いた後で、この薬を使えばそいつは僕の思うままに操れる。しかも、普通ならばよほどの経験を積まない限り、全ての精神を集中しないと相手を操ることができないんだけど、この薬を使った相手に関しては半分の力でそれが可能になるのさ。『死ね』と命令すれば死ぬ事だって平気でするし、他人を傷つけることを命令しても、何の罪悪感も禁忌も感じることなく拒絶しないでそれを行ってくれる。まぁ、その効果はせいぜい1日ぐらいなんだけど、これを使われた人間は、まさに『下僕』さ」

「もしかして、その『下僕』というのは『水原 翔子』って名前なんじゃないでしょうね?」

あたしの質問に男は首を少し傾げる仕草をしながら、「僕の調査によるとそういう名前みたいだね」と答えた。

「なんで、『ワラちゃん』を!?……」

あたしは男をにらみ付けながら言った。挑発したり怒らせたりすることが危険だということぐらい私にも分かっていた。けれど、言わずにはいられなかったのだ。

「どうして、『ワラちゃん』を巻き込んだのよ!。彼女は関係ないじゃない!」

「理由!?。ただそこにいた、利用できると思った、『共有・共感能力』と薬の被験者が欲しかった。それだけさ」

あたしは自分の中で何かが切れる音を聞いた気がした。

「あんた、やっぱり最低だわ!」

「何だって?」

案の定、通り魔の顔色が変わった。けれど、あたしは喋るのを止めない。

「何度だって言ってやる!。あんたは最低よ!。あたしはね、さっきまであんたの事少しは可愛そうだと思った。同情もしたわ。でもね、やっぱり取り消しよ!。人の痛みが分からない奴が、例えそいつが何様だろうと、他人と分かり合えるわけ無いじゃない!。それは私だって同じよ!。あんたとなんて分かり合いたくない!」

「千鶴さん、僕はやろうと思えば君を『下僕』にすることだって出来るんだよ……」

宥めるように彼は言う。

でも、もう頭に血は上っていた。こうなったら、あたしは止まらないし、誰も止められない。

「やれるもんならやってみなさいよ!。でも、あんたに噛まれた瞬間に舌を噛んでやる!。『再生者』や『下僕』になってあんたと分かりあうぐらいなら、あたしは死を選ぶわ!」

長い沈黙と睨み合い。

やがて、彼は溜息をつき、肩をすくめながら言った。

「それは君が無知だからだよ。君も『再生者』になって僕の考えを分かってくれれば、きっと今のような言葉は言わないし、言う気になれないと思うな」

……やばいことになってしまった

あたしは心の中で呟いた。何か言うんだったら、自分が助かるような台詞を言うんだったが、それももう手遅れだ。

男が空いている方の手に握ったスパナを振り上げる。

覚えているのは漆黒の空で蒼く光る月の光。

覚えているのは男が振り上げたそれが月光を反射させて輝いていた銀の色。

覚えているのは男の歪んだ目の光。

覚えているのは死ぬ前にもう一度タイガージェット号を走らせたかったな、というささやかな願い。

他にも色々と見たのかもしれないし、色々と考えたのかもしれない。けれど、確かなことはそれらがあたしが最期に見て、最後に考えたこと……にはならなかったということだ。

「くっ」

突然、男が呻き、体をよろめかせた。その拍子にあたしのからだは振り子のように左右に揺れる。

 

 

19.(genya's sight)

  

軽い眩暈と共に頭の中で唐突に、小さな痛みと共に何か糸のような物が切れたような、あるいはテレビのスイッチを切った時のような感覚がした。

それは僅かなものだったが、何故か突然非常に落ち着かない気持ちが胸に去来し、そのためか僕は大きくよろめいた。

「くそ…」

僕は頭をふって、正気に戻ろうとする。いつの間にか『下僕』との『接続』が切れていたが、それよりも以前と比べて何かが物足りない、落ち着かない気分は一向に収まらないことが気になった。その正体が何だか分からず僕はイライラする。

「おい、そっちはいつまでかかっているんだ?」

僕は『下僕』に頭の中で、八つ当たりするように話しかけた。実際それは八つ当たりだったのかもしれない。何かに八つ当たりしないと、これから行う『再生者』を作るというこの神聖な儀式に邪念が入りそうだった。

「おい、返事をしろ!、おい!」

しかし、いくら問いかけても返答は無かった。慌てて『共有・共感能力』を使って『下僕』に『接続』を試みたが、彼女が感じていること、五感で感じているものが僕には伝わってこない。つまり『接続』が出来なくなっていたのだ

……まさか、もう血清があいつの体内で出来たのか?

いや、それはありえないはずだった。血清が出来るまでは最低でも1日はかかると、あの少年は言っていた。 

「……だとしたら」

猛スピードで迫ってくる、バイクのエンジンの爆音を聞いたのはその時だった。

振り返った視界に映ったそのバイクには見覚えがあった。あの病院の駐輪場で『下僕』に盗ませたバイクだ。

「おい、なんでここに来る!。命令はどうした!」

僕は思わず声にしていた。

しかしバイクはそのスピードを弱めず、どんどん僕の方へと近づいてくる。

「おい、お前、『下僕』の分際で!」

その瞬間、バイクは急ブレーキとターンで僕の手前2mぐらいで停止した。

……何のつもりだ!?

そう思った瞬間、予想外の出来事が二つ起こった。

一つは、千鶴さんが僕の腕を、思わず掴んでいた彼女の足を離してしまうような勢いで蹴り上げたこと。

もう一つは、僕の斜め頭上から空気を切り裂くような物凄い音が接近してきたこと。

思わず見上げたとき、そこには信じられない光景があり、それが何なのか分からないうちに衝撃と共に僕は地面へと倒され、そして闇が訪れた。

 

 

20.(chizuru's sight)

 

事が終わったとき、あたしは呆然とその場に立ち竦んでいた。

正直、何が起きたのかを分かるぐらいに頭の中身を整理するのには長い時間が必要だった。

突然よろめいた通り魔、突進してきたバイク、そして……

「千鶴さん、体中の力を抜いてください」

唐突に頭の中に響いた那唯ちゃんの声と、その通りにした瞬間に炸裂した、普段の自分では信じられないぐらいに敏捷で、あの体勢から繰り出せるとは想像すらしていなかった蹴り。

「……ええと、それから地面に落ちて」

そうそう、まるで弾丸が飛んでくるような凄い音の次に、何かが物凄い勢いで地面を突き破ったような音がしたのだった。

そして、地面から起き上がったあたしの目の前にある光景は、あの通り魔が頭をアスファルトの地面にめり込ませて体を痙攣させ、その上にまるで新体操で華麗にムーンサルトでも決めた選手のように両手を広げた那唯ちゃんが直立不動の体勢で立っているというものだった。

「あー、そういえば」

あたしは地面に落ちる刹那に見た光景を思い出す。そういえば、那唯ちゃんのような影が、男の頭目掛けて錐揉み状に斜め上から飛んできた様な気がした。

て、ことは……あー、つまり、これはこういうことだろうか?

「ワラちゃん」のバイクは相手の目を引き付ける為の囮で、那唯ちゃんはその間に通り魔の頭を蹴りで狙える位置に移動し、バイクが停止して男の目がそちらに釘付けになった一瞬の隙を突いてあたしの体を動かしてあたしを助け、頭上から空中錐揉みキックをお見舞いして通り魔を一撃の下に葬り去った……。

「なんて滅茶苦茶な……」

そして、なんて出鱈目な戦いだ。きっと物理法則も武道もくそも関係ないに違いない。

しかし、その出鱈目のおかげで助かったのも確かだ。

「先輩……」

フラフラとした足取りで「ワラちゃん」が近づいてくる。あたしは、「ワラちゃん」の体を抱きとめると「大丈夫?」と問いかける。

「はい、そちらの方のおかげで、なんとか……」

とは言うもの、「ワラちゃん」の顔色は真っ青で、冷や汗で前髪が額にへばり付いていた。早く病院に戻す必要があるだろう。

「それにしても」と、あたしは未だに両手を広げたまま直立不動のままの那唯ちゃんを振り返った。

「なんか、二度も助けられちゃったね」

本当に、回数で言えば2回だが、恩の重さで言えば2回以上だろう。彼女がいなければ、あたしは通り魔に殺されるか怪我を負わされるかしていたし、「ワラちゃん」だってこのぐらいの怪我では済まなかったかも知れないのだ。初対面の時に噛みつかれたことや、年下だと勘違いしていた件は帳消しにするのは当然として、やっぱり言わなければならない台詞がある。

「『ありがとう』、って言わせてもらえる?」

しかし、那唯ちゃんからの回答はなかった。彼女は直立不動のままだ。

「那唯ちゃん?」

もう一度、彼女の名前を呼んだとき、彼女の体がぐらりと揺れた。

「那唯ちゃん!」

彼女の体は真横に倒れていったが、既に「ワラちゃん」を抱えているあたしは、彼女を抱き止めにいけない。

その時だった、あたしの真横を二陣の疾風のようなものが駆け抜けて行ったのは。

そして、気付いたときには倒れかけた那唯ちゃんの体を、黒い背広姿の老人が優しく抱きとめていた。

「やれやれ、君の弟子は無茶をするねぇ。本当に老人の心臓に悪い」

そう言って、老人は斜め真上に視線を動かした。そこには、黒いセーターとジーンズ姿の随分とごっつい体格の男が一人立っている。

「申し訳ございません。起きたらちゃんと説教を……」

しかし、老人は優しい口調で「まぁまぁ」と男の言葉を遮り、「無茶は若さの特権だからね」と言った。

「それに今回の件、『探索者』としての私の不覚が原因だ。彼女はその尻拭いをしてくれたんだから、文句を言う筋合いはないさ」

「はぁ、長老がそうおっしゃるのでしたら……」

大男は難しそうな表情のまま眉をひそめながら言った。

「それで、新人の『再生者』君の方はどうなのかね。なんだか、少しやりすぎた気もするが?」

「見ての通り、顔が半分潰れて頭も大分打ったようですが、新人とはいえ『再生者』ならこの程度の傷は大丈夫でしょう」

……それは大丈夫ではないのでは?

恐るべしは『再生者』なのか、それともこの筋肉の塊のような大男の超体育系な感覚なのか……いずれにしろ確かなことは、あたしは死後間違えても『再生者』にだけはなりたくないということだ。

……それにしてもどういう関係の二人なんだろう?。

あたしは呆然と二人のやり取りを見ていたが、老人が那唯ちゃんを抱きかかえて連れ去ろうとしたのを見て、「ちょっと待ってください」と思わず声をかけていた。

「どうかしましたか、お嬢さん」

優しそうな笑顔と声で老人はあたしに振り返って言った。

「あの、その……那唯ちゃんを連れて帰っちゃうんですか?」

「あぁ、そのつもりだよ。彼女の仕事は終わった。二人分の人間に『共有・共感能力』を使うなんて無茶をしたんだ、多分あと数日は目を覚まさないだろうからね」

つまり、彼女が連れ戻され、遅くとも数日中にはあたしと「ワラちゃん」の体内に「共有・共感現象」の血清ができて那唯ちゃんとの間の絆が切れ、やがて事件のことも日常の忙しさの中で記憶の何処かへ忘れ去られ、そして全て終わり。これはあたしの望む結末のはずだった、つい先程までは……

「あの、あたし、彼女に言いたいことがあるんです」でも、今のあたしにとっての望む結末は違う。「ちゃんと自分の口でそれを伝えたいんです。ですから、その……」

老人は、あの優しそうな目でしばらくあたしの顔を見て、そして笑顔で言った。

「あぁ、那唯も良い友達を持つことが出来ましたね」

「……」

「心配していたんですよ、私が『再生者』になったばかりの彼女を探し出して回収した時、彼女はすっかり人間不信になっていましたからね。食事すらろくに食べてくれない状態で、私達に馴染んで彼女本来の状態に戻ってくれるのに半年以上かかりました」

「そう……だったんですか?」

あたしは、那唯ちゃんが寝言で呟いた言葉を思い出しながら言った。

何があったのかは簡単に想像がつく気がする。けれど、それは決して安易に想像してはいけない事なのだと思う。

「でも、安心です。あなたのような良い友達を彼女は作ることが出来た」

「は、はぁ、恐縮です」

ついさっきまで思っていたことを考えると、本当に恐縮だ。彼女は2度も自らの危険を顧みず自分の身を挺してあたしを助けてくれたのに、あたしはつい先程まで早く事態が終結して彼女と縁が切れることを願っていたのだ。

「それでは、那唯はあなたにお預けします。大丈夫、2日も寝かせておけばそのうち目を覚ましますよ。代わりといっては何だが、そちらのお嬢さんは随分具合が悪そうだ。一緒に病院にお届けしますよ」

老人はそう言うと、那唯ちゃんを背負い、「ワラちゃん」の体を抱き上げ、「そちらの新人さんを連れて行くのはお願いしますよ」と大男に言った。大男は難しそうな表情のまま「分かりました長老」と答えた。

病院までの道すがらあたしと老人は並んで歩いていたが、あたしが何を話して良いのか分からないこともあって二人は終始無言のままだったが、彼はたまにあたしの方を優しそうな微笑みを浮かべて見てくれた。会話は無かったけど、それだけでこの老人とは何かが分かり合えた気がした。

 

 

21(or epilogue). --(chizuru's sight)

 

結局、あたしは那唯ちゃんに「言いたかったこと」を伝えることが出来なかった。

老人の言ったとおり、那唯ちゃんは2日間ずっと眠りっぱなしだった。そして、3日目、何か糸が切れるような感覚に目を覚ましたあたしが目にしたものは、もぬけの殻になった那唯ちゃんの眠っていた布団と、ちゃぶ台の上に置かれた手紙だった。

手紙には、那唯ちゃんが寝ている間にあたしが面倒を見てくれたことや今回の件に協力してくれた件に対するお礼と、あたしを今回の件に巻き込んでしまったに対する謝罪、そしてあたしに出会えて嬉しかったこと、「一族」の元に帰らなければならないので直接これらを口に出来ないことを残念に思う旨が書かれていた。

時計の針は、まだ6時を指していなかった。駅までスクーターを走らせれば始発電車に十分間に合う時間だったが、迂闊にもスクーターは病院に置きっぱなしだ。

「あぁ、もう、悩んでる場合じゃないって!」

あたしは、使い古しのスニーカーを履くと駅目指して走り出した。当然、普段の運動不足がたたってすぐに息が切れ始めたが、そんなことでへばっている場合じゃなかった。

例え足が千切れても、今は走らなければ成らない時だ。でないと、絶対にあたしは後悔するだろう。そんな後悔は嫌だ。

けれど努力空しく、あたしが駅に着いた時、丁度始発電車が出発した所だった。

「そんな…」

それでも、一縷の望みを繋いであたしはホームへ向かったが、そこに彼女の姿は無かった。

「……そんなのつれないよ」無人のホームに一人ぽつんと立ち竦んだまま、あたしは呟いた。「お礼ぐらい言わせてくれても良いじゃない」

何故だろう、ふと、あたしの頬を涙が伝った。

……あぁ、那唯も良い友達を持つことが出来ましたね。

あの晩、老人が口にした言葉が脳裏を過ぎる。

「そうだよ、あたし達友達だよ。なのに、こんな別れ方ってないよ。『さよなら』ぐらい言ってくれても良かったじゃない」

あたしは、遠ざかって、朝霧の中で陰になっていく電車に向かって言った。当然のことながら返答はない。

「今度会ったら、その時はちゃんとお礼ぐらいさせてよ!。絶対に恩は返させてよ!」

もう、電車は朝霧に隠れて陰すら見えない。それでもあたしは、電車の方向に向かって手を振りながら叫んだ。そうせずにはいられなかった。

やがて、ホームに朝日が差し込み、街に朝が訪れるまであたしはその場に立ち竦んでいた。

 

 

あたしが職場に復帰したのはその翌日だった。

店長は履歴書の名前欄を書き換えて『千鶴』を『ちづる』にして、別人ということにして本部に登録したらしい。

履歴書をいじるって、単にそういうことかい?、とあたしは呆れたが、まぁ、あの社長も暫くはこの店の視察には来ないだろうから結果オーライという所だろう。

それからさらに一週間して「ワラちゃん」が復帰してきた。

首の傷跡はまだ消えていないので彼女は首に包帯を巻いていたが、それも喫茶店の制服を着ればすっかり隠れる程度だった。

こうして、あたしの日常は再開し、1ヶ月、2ヶ月と経つうちにあの事件のことも少しづつ記憶から薄れていった。

そして、さらに何ヶ月かが経過し、寒かった冬も終わり、街にもようやく春の兆しが見え始めた頃のことだった。

その日は休日で、あたしがちゃぶ台に頬杖を付きながら面白くも無いテレビ番組を暇つぶしに見ていると、突然玄関のチャイムが鳴った。

「はいはい、新聞だったら要りませんよ。宗教なら尚更ねー」

そう言いながら開けたドアの先に立っていた人物を見て、あたしは思わず驚きのあまりに目を見開いて声を失った。旅行バックを下げ、この季節には少し早い春物のワンピースの上から白いジャケットを羽織った姿の少女。それは……

「な、那唯ちゃん?」

「千鶴さん、お久しぶりです」

そういうと、那唯ちゃんはにっこりとあたしに微笑みかけた。

「今、春が来て、君は綺麗になった」と歌ったのが誰だったかは忘れたが、那唯ちゃんはあの時と寸分変わらないはずなのに、ずっと可愛くなった気がした。

「お久しぶりって、えっと、その……」

何から話して良いのか分からず、あたしは思わず口ごもった。

そんな、あたしに「お土産と言ってはなんですが」と那唯ちゃんは話を切り出した。

「ちょっと目を瞑ってもらえますか」

「え、えぇ?……うん」

あたしは言われるままに目を閉じてしまった。

後から思うと、あの時一瞬だけ那唯ちゃんの息を間近で感じたような気がしたのだ。

だが、それに気付いていたとしても手遅れだったろう。ぷすっ、と何かが首筋に突き刺さったような感覚を感じた瞬間、「うぎゃああああ!」とあたしは激痛に悲鳴をあげていた。

「な、那唯ちゃん、今の、まさか?」

首筋を押さえながら顔を青くして言うあたしに、「えへへ」と悪戯っぽく那唯ちゃんはチロッと舌を出し、「実は手伝って欲しい仕事がありまして」と言ってきた。

「また、この付近に『再生者』が産まれたらしいんです。自棄になって、また前回みたいなことをしでかす前に『一族』に回収するのが今回のお仕事でして」

「じょ、冗談じゃ…」

前回の件で怖い目に遭ったことを思い出して断ろうとするあたしだったが、那唯ちゃんは「だって千鶴さんホームで言ってたじゃないですか『この恩は絶対に返させてよ』って…」と言って言葉を封じた。

……えーと、それはつまり

「でびるいやーは地獄耳?」

「じゃなくって、あの時、私まだホームに居たんですよ。ちょっとお手洗いに行っていたもので」

つまり、あの時言った言葉は全部筒抜けだったのだ。

あたしは恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤にした。

「そういうわけで、また暫くお願いします」

「でも、あたしにはもう『血清』が出来てるから……」

「あぁ、私達の体液は時間とともに変化するんです。だから、あの時点での『共有・共感能力』は終わっても、今の時点での『共有・共感能力』は今始まったばかりなんですよ。なので、また一緒にお仕事できますね」

「は、はぁ…」と顔を引きつらせるあたしは、今になってようやく気付いた。最悪は終わってなんていなくて、あの事件は単なる始まりにしか過ぎなかったことを、そしてこの那唯という少女の性格について少しも分かっちゃいなかったことを……

「さぁ、千鶴さん、でかけましょう。この時間に家にいるということは、お暇なんでしょう?」

そう言ってあたしをアパートから外へ連れ出す那唯ちゃん。「か、勘弁してよー」と言いながらも、まんざらでもない事に気付いて愕然とするあたし。

春の訪れを予感させるほんの少しうららかな日差しの中で、物語はまだ始まったばかりだった。(完)

説明
黄昏時に出会った「再生者」の少女那唯と「あたし」、千鶴はみんなを守るため通り魔を退治することになった。けれど、それは……

「化け物」と少女の物語、後編
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