空飛ぶリンゴ |
光は陸上部だから、地面の上では軽やかに走る。夏の海を愛している(もしかして俺よりも?)から水の中でも伸びやかに泳ぐ。
それに加えて、氷の上でも完璧だ。今にもトリプルアクセルとか跳びそうな勢いで涼やかに滑る光を見ながら俺はそんなことを思った。この分だと、空も飛べるかもしれない。
「ねえ、氷がツルツルでスピードが出るから気持ちいいよ!」
俺のそばにやってきて光が言う。ぷっ。
「? なあに。私、なんかおかしなこと言った?」
俺は光の頬をつついた。
「リンゴになってるよ」
光の顔の残りの部分もリンゴの色になった。
「も、もう。しょうがないでしょ。君だって結構リンゴだよ!」
かわいい。俺は光の頬をまたつついた。
「ひかりんご」
「もう、ばかぁ」
光は俺の指を握って頬から離させると、そのまま手まで進攻してきた。
「さあ、滑ろうよ。休憩はおしまい」
……困った。せっかくごまかしてたのに。いや、滑れないわけじゃない。時給0円の手すり清掃バイトだったのは小学生の頃だけだ。でも、光みたいにリンクのど真ん中を高速滑走する度胸はちょっと。でもそんなこと言うのカッコ悪いよなあ。
なんてぐずぐず思っているうちに、俺は光に手を引かれて安全とは程遠いところにまで連れて来られてしまった。
「ほら、ここからだとあっちにあるツリーが良く見えるでしょ!」
光が指差した方向には、確かに大きなクリスマスツリーが飾ってあった。
「本当だ。立派なツリーだな」
「きれいだよね」
俺の手を握る光の手がきゅっと強くなる。小さく声が聞こえる。
「また、今年のクリスマスも一緒にいられた。うれしいなあ」
「そうだな」
答えると、光はまた顔をリンゴに変えた。
「き、聞こえたの?」
「うん。光、かわいかった」
「も、もうっ」
光の手がさらに強く握ってきた。俺も握り返す。動悸が、早く高くなる。
と、場内のスピーカーからちょっと懐かしいクリスマスソングが流れてきた。俺と光が小学生くらいの頃に流行っていた歌だ。
「あ、これ」
光ははにかんで、俺の手を引いたまま滑り出した。わっと、付いて行けるかな。
鐘の音とオルガンがリードする華やかな旋律が紡ぐ、恋人たちの歌。光はそれに合わせて見えない糸を紡いでいく。もちろん俺も一緒にだけど、こっちはちょっと優雅さが足りない。糸というより綱かもしれない。ペアでオリンピックに出るのは無理そうだな。
「えへへ……」
恥ずかしそうに、嬉しそうに。光の笑顔が俺の馬鹿な妄想を溶かす。溶け切らないうちに、馬鹿なことを言ってみた。
「今なら、四回転ジャンプとか出来そうな気がするな」
光はくすっと笑い、うなずいた。
「二人なら空も飛べるよ、きっと」
やっぱり、光は飛べるな。俺も付き合おう。
ふと、思った。俺は前に滑っている。光は俺の手を引いてちょっと前にいる。なのに、光の顔が真正面から見える、ということは。
「あ、光、前!」
「え」
そう、光は後ろ向きに滑っていた。俺の声に光は慌てて前を見た。スケートデビューなのか、お姉さんらしき女の子にしがみついて動かない小さな男の子がいる。
「わああっ!」
光は急ブレーキをかけ、ぎりぎりで幼い姉弟を回避した。光は。
「わああああっ!」
派手にバランスを崩した俺は姉弟に突っ込みかけた。
「え、えいっ」
光が渾身の力で俺を自分の方に引っ張る。俺も全力で光の方へバランスの中心を持っていった。間一髪。俺は男の子のスケート経験にトラウマを植えずに済んだ。だが、その代償はあった。
「うわあっ」
「きゃあっ」
俺と光は揃って転んだ。
「あいたたた……ボク、大丈夫?」
光がお尻のあたりをさすりながら立ち上がり、男の子に声をかける。男の子はちょっと青い顔でうなずいた。
「よかったあ」
光がほっとため息をつくと、女の子が心配そうに言った。
「あ、あの、それより、そっちのお兄さんは大丈夫ですか?」
「えっ」
光が振り向く。俺は転んだとき、光を支えようと思った。しかし、そもそも最初にバランスを崩した人間がそんなことをするのは思い上がりだった。結果、俺は光の下敷きになった。
「ご、ゴメンね!」
氷に伸びていた俺を助け起こして光が言う。
「気にするなよ。俺がドジだっただけなんだから」
「で、でも、私をかばってくれたんでしょ」
「カッコつけようとして失敗しただけだって。ははは…」
痛っ。何だ? 足が、何か…
「! だ、大丈夫!?」
光が青い顔をして俺に肩を貸してくれた。
「平気だよ。ちょっとくじいたとかそんなんだろ」
「ダメだよ! 病院に行こう!」
有無を言わさぬ勢いで、光は俺をリンクから引き摺り下ろし、病院に連れて行った。
「捻挫ですね。まあ、そんな重傷ではないですが、二、三日は歩き回ったりしない方がいいでしょう」
というのが診断。俺が思ったよりはひどかったが、光が思ったよりは軽かったというところか。でも俺を部屋まで送ってくれた光は、見るからにしょげていた。
「大した事なかったんだから、そんなに落ち込むなよ、光」
そう言っても、光は首を横に振る。
「だって、私のせいで……せっかくのクリスマスなのに」
俺は光より若干強めに首を横に振った。
「気にするなってば。せいぜいスケートの後のレストランの予約を取り消す手間だけだよ」
「でも」
笑顔がない光、っていうのは、クリスマスのない十二月、だよな。
「そんなに言うなら、これから付き合ってくれよ」
俺がそう言うと、光は首を傾げた。
「もちろん。でも、君、歩いたりしたら…」
「だから、部屋に」
「え。あ、うん」
そんなわけで俺と光は俺の部屋に落ち着いた。でもまだ光は元気がない。
「光い」
「あ、ご、ゴメンね」
困ったな。あ、そうだ。
「……CDかけていい」
「え、うん」
俺はもそもそとCDの棚を漁る。ええと、うわ、こんな奥底か。ほこりの被ったケースを開けて、プレイヤーにかける。
「あ」
そう、さっきスケート場で流れていた、あのクリスマスの歌だ。
「……」
光はさっと立ち上がった。
「あれ、光……」
俺の声を置いて、光は出て行ってしまった。しまった。逆効果だったかな。
十分くらいして、光は戻ってきた。その手には。
「光、それ」
「うん。ケーキだよ。やっぱりクリスマスにはケーキがないと」
「光」
光はにっこり笑った。
「ゴメンね。落ち込むなんて私らしくないよね。どこにいたって今日はクリスマスなんだから、楽しまなくちゃ」
光はケーキの箱を開けながら、悪戯っぽく笑ってCDプレイヤーを指差した。
「そういうことでしょ?」
「……そこまで深く考えてなかった」
「ぷっ……アハハハ」
光が入れてくれた紅茶と一緒にケーキを食べながら、俺はふと思った。
「考えてみるとさ」
「うん」
向かいの光はカップを両手で持って一口啜りながら相槌を打つ。
「レストランに行っても、他にお客さんはたくさんいるわけだよな」
「そうだね。今日はクリスマスだしね」
うなずく光に俺は笑いかけた。
「よかったよ。二人きりになれたじゃん」
光は目を丸くし、嬉しそうにうなずいた。
「そ、そうだよね。えへへ」
光は立ち上がると、俺の隣に移動してきた。
「転んでみるもんだよなあ」
「もう、そんなこと言って」
笑って俺の頬をつつくと、光は頭を俺の肩にもたせ掛けた。
「また、君に元気をもらっちゃった」
俺は光の髪を軽く撫でた。
「で、いつも光は十倍返ししてくれる」
「えへへ」
さらにくっついてくる光。ふんわりといい匂いがする。息遣いを、感じる。光は、今日一番のリンゴになっていた。そしてきっと俺も。
「……不思議だな」
ほとんど無意識にそう言っていた。
「……なにが?」
「歩くのも出来ないのに、空を飛んでる気がする」
光はそっと目をつむった。
「うん。飛んでるよね。高く、高く」
「サンタとぶつからないようにしような」
「もう、ばかぁ」
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五年前のクリスマスに初出。むず痒さを取ったら何も残らないのです。 | ||
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