少女の航跡 第1章「後世の旅人」14節「侵食」 |
ゴブリンとサイクロプスに襲われてから、更に一夜が明けた。
昨日とは一転して雲行きは怪しくなり、山間部に立ち込める霧が、私達の行方を阻もうとして
いる。
私達は、更に山深くへと入り込んでいた。辺りは崖、切り立った断崖である。谷の底のような
場所に今、私達は馬を走らせているのだ。もはや街道は影も形もなくなり、藪に似た草の生え
る道なき道を、ただひたすら進んでいた。
いつも乗っていた自分の馬とは違い、今、私が手綱を握っているのは、かなり大型の騎士の
馬だ。慣れるまでには時間がかかった。何よりも馬の力が違ったので、騎士でない私が手綱を
操るのには、いつも以上の力が必要だった。
しかも、昨日の戦いで負傷した騎士達も連れて行かねばならず、私達の足取りは鈍ってい
る。
それが、どの場所かも分からない私達を不安にさせていた。
だが、フレアーによれば、もうすぐ《アエネイス城塞》が見えてくるとの事だ。
エドガー王が治めている『セルティオン』の、もっとも北側にある城砦で、外部からの侵入を阻
んでいる城砦。
そこまで辿り着くことができれば…。
「あれえ…、おっかしいなあ…?」
霧がどんどん濃くなって行く中、フレアーは辺りを見回しながらそのように呟いた。
「どうしたの…?」
フレアーを自分の前に乗せているクラリスが尋ねた。
「この場所…、どこ…? 何か、違う…」
私達がとても心配するような事を、彼女は言い出すのだった。
「ちょっとちょっとォ…! お嬢ちゃん? あんた、城砦の場所知ってるんでしょ? あなただけ
が頼りなんだからね!」
すぐ隣に馬を歩かせていたルージェラが、フレアーに呼びかける。
「ま、迷ったんじゃあないよ! 場所はこっちの方で正しいの! あたし、ちゃんと知っているん
だから!」
「フレアー様、落ち着かれて…」
フレアーは言い返した。一緒に馬に乗っているシルアがなだめようとする。
「じゃあ、何が違うのかしら…?」
そう言ったのはクラリスだった。
フレアーは、後ろを振り返って、クラリスの方を見上げた。
「な、何かね…。前来た時よりも、じめじめしているし…、それに、こんなに湿地だらけじゃあな
いの」
辺りは湿地帯、いや沼と言っても良いほど、地面がぬかるんでいた。馬たちも、脚をとられな
がら、何とか進んでいるといった状態だ。
大きく迂回して行きたいくらいの場所。だが、辺りは崖や森ばっかりで、迂回していきたくても
道が無かった。
何より、この場所のほとんどが、このようにぬかるみばかりで、どこを通っても同じと言った感
じなのだ。
谷の底ほぼ全てが、さながら沼のような有様だった。
「嫌な予感がするわ…、さっきよりも、もっとぬかるみが酷くなっている」
クラリスはそう言い、馬を進める速さを遅くした。
馬達にも、不穏な気配が現れだしていた。まるで、これ以上進みたくないかのように、鼻を鳴
らしたり、首を振ったりしている。
「この場所をこれ以上、進むのは危険だ」
カテリーナがそう言った。
「そうだね。そうしよう。霧は濃いし、どんどん底が深くなっている気がする。それにこの場所、さ
ながら沼だよ」
そう言いつつ、ルージェラは自分とカテリーナを乗せている馬を、反対方向へと戻していっ
た。
「クラリス。道を変えよう。この場所はどうやら危険だ」
カテリーナが、すぐ後ろを行っていたクラリスにそう言った。
「え、ええ…」
クラリスはそのように言うだけで、不穏な気配が頭から離れないようだった。馬達が怪しい気
配を感じるのならば、エルフの血が流れているクラリスは、もっとはっきりと、鮮明に気配を感じ
る事ができるのだから。
カテリーナとルージェラを乗せた馬が戻り始めた時、突然、クラリスとフレアーを乗せた馬が、
激しく鼻を鳴らし始め、大きく首を振り出した。
「どうしたの?」
自分の馬の慌てぶりに、クラリスはそれを抑えようとする。
「ね、ねえ、お姉さん? あたし達、何か、さっきよりも沈んでいない…?」
そんな彼女に、フレアーが恐る恐る言った。
言われたクラリスは、自分の馬の足元を見た。すでに蹄が深くぬかるんだ地面の下にまで沈
みこみ、更には、膝の辺りまで沈んできてしまっている。
見て取れるほど、速い動きで沈んでいっている。
彼女の白馬は、かなり興奮していた。どんどん地面に沈んでいる。いや、この場所は沼だっ
た。
あっと言う間に、クラリスの馬は脚が全て埋まってしまった。
「クラリスッ! 早くこっちに戻って来るんだ」
カテリーナが、大きな声で呼びかけた。
「できる事ならばそうしたいんだけれどもね…。馬が脚を取られちゃって…」
クラリスは冷静にそう言ったが、馬の体はどんどん沈んで行っていた。
「そ、そんな…、こんな場所に、今まで沼なんて無かったのに…」
怯えた声のフレアー。
「この沼、ただの沼じゃあない…。大きな力を感じるわッ!」
クラリスはそのように言うと、自分だけ槍と盾を持ち、馬から飛び降りた。
沼へと脚をつけるクラリス。飛び降りて地面に脚をついただけで、彼女がしている脛当てがほ
とんど埋まってしまう。彼女が踏みしめる地面は、土ではなく、確かに沼だった。
着地した時に跳ねた泥が、彼女が身につけているミスリル銀の鎧に付いては目立つ。
クラリスは、その長い耳で何かを捕らえようとしながら、自分の馬よりも前に、脚を踏み出し
た。
歩くだけで、沼へとどんどん埋まって行こうとする彼女の体だったが、クラリスは動じていな
い。
「一見すると、ただの沼のように見えるけれども、やっぱり違う。大きな力を感じる…」
クラリスは、周囲の様子を伺う。それを背後からフレアーが見つめていた。
「お、お姉さん…、よくこんな場所に飛び降りようなんて考えるよね…? な、何がいるか分から
ないのに…」
フレアーが怯えた声でそう言った時だった。
クラリスの近くの沼の下から、何かが飛び出した。
「ひゃあッ! 危ないッ!」
フレアーが呼びかける。だが、クラリスは気付いていた。
巧みに槍をさばいて、自分の方へと飛び掛って来ようとしたその何かを、クラリスは次々に空
中で仕留める。
それは、蛇だった。
ただ、大きな蛇ではない。小さな蛇が、何匹か、沼の下からクラリスの方へと襲いかかろうと
したのだ。
クラリスによって切り刻まれた蛇が、次々と沼の中へと落ちて行く。
「こんなのが、この沼の中にいるのね…? でも、今の蛇、普通じゃあなかったような…」
そのように呟くクラリスの体は、どんどん沈んで行こうとしている。
「お姉さんッ! 早く上がらないと危ないよォ!」
「フレアー様、どうか落ち着かれて!」
フレアーがわめき立てる。それをシルアが抑えようとしている。
それに応えるように、クラリスが身を動かそうとした時だった。
すでに液体と化している地面に、波が立つ。ついでにどこからか、地の底から湧き上がって
来るかのような、地響きさえもが聞こえて来る。
クラリスは、沼の先に注意を向けた。
だが、彼女の視界には霧のカーテンで隠された風景しか見えない。
「この地響き…、もしかして…」
どんどん沼へと沈んで行こうとしている馬にしがみついているフレアー、彼女は恐る恐る言っ
た。シルアもそんなフレアーを落ち着かせようとしているが、体を震わせている事に変わりは無
かった。
激しくなっていく地響き、辺りの地面には亀裂さえもが走る。
やがて、沼の一部分が、大きく隆起した。それはクラリスの目の前、ほんの10メートルの所
で起こった。
沼の泥が、上空に向かって一気に吹き上がり、泥の雨となって辺りに降り注ぐ。と、同時に、
まるで周囲の大地を引き裂いてしまうかという程の、さながら金切り声のようなものが響き渡っ
た。
思わず耳を塞いでしまいたくなろうかという奇声。怪鳥の鳴き声とも、ハーピーの泣き叫ぶ声
とも違う。私が今まで聞いた事もないような声だ。
泥の激しい噴出と共に姿を現したのは巨大な影。山一つ分はあろうかという巨大なものが、
そこには姿を現していた。
それは、巨大な蛇だった。
クラリスに襲い掛かった小さな蛇達とは比べ物にならない。半分くらいが地に埋まって入る
が、それでも、10メートルは聳え立っている。
ただ蛇を大きくした姿と言ってしまえばそうだが、その顔の額の部分には、紫の色で、奇妙な
模様が描かれている。
この蛇が、奇声を上げたのだ。
「う、う、う…、嘘でしょ…? そ、そんなあ…?」
フレアーが、突然目の前に現れた巨大な蛇を、見上げながら驚いている。
「参ったわね…。この大蛇…、知っている。確か、話には聞いていた事がある…」
クラリスは、少し驚かされたようだったが、平静さを保ってそのように言った。
「あの額の形…、ミドガルズオルムだよう…、お姉さん…、早く逃げようよぉ…」
フレアーは恐れをなしていた。無理も無い。目の前に現れた大蛇は、あまりに大きすぎた。
「それができたら、そうするんだけれどもね…」
そのように言ったクラリスの体は、すでに腰の辺りまでが沼につかっていた。鎧の腰当が沼
に全部埋まっているくらいだ。フレアーを乗せている彼女の馬も、相当沈んでしまっている。馬
の上にいる彼女の膝までがすでに沈んでいたのだ。
「何とか、ならないんですか?」
離れた場所にいて、どうする事もできない私がルージェラに訪ねる。
「こっからじゃあ、どうしようも…」
彼女はそう答えるだけだった。沼に入って行こうというものならば、自分達も沈んで行ってしま
うだろう。
「この沼…、どうもわたし達の行く手を阻むかのように都合よくあるもんじゃあない…?」
目の前の大蛇は、そう言ったクラリスの姿を確認したらしく、長い舌を、もっと小さな蛇がする
ように動かしながら、目線を合わせてくる。
「だって、だって…、沼なんて、もっと遠い所にあったんだよ…」
「分かっているわ。多分、誰かがこの蛇を放つ為に、沼を作ったのよ」
大蛇はクラリスの方に向かって、巨大な口を開いてきた。大きな牙の現れた口という空間
が、クラリスとフレアーの前で開かれる。
そして鳴り響く奇声。地を引き裂こうかというその奇声で、私達は耳を塞ぎたくなる。
クラリス目掛け、大蛇は迫った。
だが、とっさにクラリスは精霊魔法の詠唱を行う。
アルセイデス ギ ア…、ユ、ブ、オラ、ブラ、パ…
巻き起こる竜巻。それが、大蛇と、彼女との間に障壁を作り出し、沼の泥もろとも吹き飛ばし
た。
大蛇、ミドガルズオルムは竜巻の衝撃に怯み、再び奇声を上げた。
クラリス達は、竜巻で吹き飛ばされた泥から解放され、自由に動けるようになる。
「ほら、行くわよ」
自分の馬に呼びかけ、動けるようになった彼女達は、大蛇が怯んでいる隙に距離を取ろうと
する。
クラリスの白馬は、やっとという思いで走り出した。
しかし、ミドガルズオルムはすぐに体勢を立て直し、再びクラリス達に向かって襲い掛かって
こようとする。
自分達を覆っていた泥は吹き飛ばせても、再び沼に脚を取られていくクラリス。彼女の馬も
同様だ。すぐに追いつかれてしまう。
「随分と、ご立腹じゃあないの…。さっきわたしが倒した小さな蛇達は、多分、あなたの子達だ
ったのね…」
大蛇がクラリスに襲い掛かる。彼女は勇敢にも振り返り、盾と槍を構えようとした。
「もうッ! どうにでもしてッ!」
フレアーは叫ぶと、手に持っていた杖をかざした。すると、そこから沸き起こったオレンジ色
の光が、大蛇の方へと飛んで行き、爆発を起こした。彼女が必死だった事もあり、起きた爆発
はかなり大きなもので、『ミドガルズオルム』を大きく怯ませる。
しかし、致命傷には至っていないらしい。逆に怒りを買ってしまったようだ。
再び上げられた奇声に、フレアーとシルアは共に頭を抱えて悲鳴を上げる事しかできない。
「ねえ、頭抱えてないで、もう一回同じ事でもしたらどうッ?」
そうフレアー達に向かって叫んだのはルージェラだった。
そのように言った彼女は、沼へと近づき、斧を大きく振り上げている。
そして、全体重をかけるかのような勢いで、それを地へと一気に振り下ろしていた。それだけ
で、地震のような衝撃が辺りに伝わる。
ルージェラが叩き付けた斧の場所から、地面が大きく隆起していく。彼女の斧による一撃が、
地面の下を伝わって行くようだった。それは沼、更には、ミドガルズオルムがいる位置へと走っ
ていった。
「さっきの距離じゃあ遠すぎたけど、今の位置ならできる。クラリス。離れていな、危ないよ」
ルージェラに言われ、クラリスは走って来た隆起する地面の衝撃から飛び退いた。
その衝撃波は、すぐに大蛇に向かって炸裂する。
思っていたよりも、その衝撃は強い。まるで爆発の衝撃波を浴びたかのように、大蛇は怯
み、更に沼の泥が、地面に仕込まれた爆弾が爆発したかのように広範囲に飛び散った。
しかし、それも致命傷にはなっていないらしく、再び大きな奇声を上げさせるだけだった。
そんな中、またがっていたルージェラの馬から、カテリーナが地面に降り立つ。
「どうする気?」
「見ていられない」
それだけ言うと、カテリーナは剣をたずさえ、大蛇のいる方へと走って行こうとしている。
「いくらあんたでも…」
「そうかな…? この沼は、あの蛇のいる辺りからどんどん広がっている。気付かないか? さ
っきよりも私達のいる場所がぬかるんで来ている事に」
カテリーナがそのように言い、ルージェラや私達は、自分の足元を確認した。
ぬかるみがさっきよりもひどくなり、脚がどんどん沈んで行こうとしていた。クラリス達も、先ほ
どの窮地を脱しても、再び体が沈んで行こうとしていた。
「あの蛇が、この沼を広げているって言うの?」
と、ルージェラ。
「ありうる話だ」
「この状況じゃあ。あたし達の目的地もどうなっている事やら…」
その時、沼に立ち込めている霧を切り裂いて、松明のようなものが宙に浮かび上がった。そ
れは、ミドガルズオルムの背後に出現する。
「今度は何?」
ルージェラが、その方向を向いて、苛立たしげに言う。
だが、その松明の明かりは、猛スピードでこちらに迫ってきた。しかも一つではない。無数と
いっていいほどにある。
火は、ミドガルズオルムの体に突き刺さった。それは松明ではない、火の点いた火矢だっ
た。
何者か、何者達かが、一斉に火矢を放っている。
次々と放たれる火矢。初めの内、大蛇はそんな事などまるで気にもしていないかのようだっ
たが、無数の火矢を浴びると、だんだんとそれを気にし出す。
止め処なく放たれる矢の嵐に、ミドガルズオルムは奇声を上げた。巨大な体を持っていても、
さすがに100本以上の火矢を浴びると、体に堪えてくるらしい。
大蛇の気が、矢を放って来ている者の方へとそれた。
「それッ! 今だッ!」
「フレアー様ッ!」
フレアーはそのように叫び、シルアと共に練り上げた、オレンジ色の火の塊を、大蛇の方に
向け、杖から発射した。
それが、大蛇の顔面の辺りで炸裂すると、けたたましい奇声を上げながら、ミドガルズオルム
は沼へと崩れ落ちた。
すでに、様々な攻撃を幾度となく浴びせられ、弱りかけていた大蛇にとって、その一撃は致命
的なものとなった。
「倒した…?」
フレアーが恐る恐る尋ねた。
「多分…、ね…」
と、クラリス。
少しの間の後、沼の中へと、どんどん沈み込んで行く大蛇の姿を確認すると、フレアーはシ
ルアと共に、思わず馬の上へへたり込んだ。
「た、倒したぁ…」
「そして、どうやら、目的地に辿り着いたようね…」
クラリスがそのように言って、谷間の高台に隠れていた弓を構えていた兵士達を見やる。
そこにいたのは、《アエネイス城塞》の紋章を甲冑に掘り込んだ兵士達だった。
彼らの出で立ちからしてそれが分かると、騎士達の間に安堵が広がる。
私達は、目的の為の中継地点にやっと到着したのだ。
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15.支配者
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ある少女の出会いから、大陸規模の内戦まで展開するファンタジー小説です。都から脱出した一行は、北の大地を目指しますが、ある沼で怪物に襲われてしまいます。 | ||
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