「あなたとわたしは彼女と僕の」第9章
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  第八.五章「悔恨」

 

 

 天才の条件とはなんだろうか?

 計算力か? 記憶力と言う人もいるだろう。

 洞察力がなければならないのかもしれない。

 しかし世間でどんな概念で天才が語られようとも、私は天才の条件に確固たる定義を持っていた。

 

 私の考える私の天才。それは「馬鹿で愚直なカリスマ」だ。

 他の事、一般常識で人間として必要とされている必要事項など放っておいて自分のテーマに専念してしまう馬鹿。それが天才。

 いくら失敗しても自分のテーマをあきらめず追い求める愚直さを持つ。そんな社会不適合者の側面を才能の一言で説得力を持たしてしまうカリスマ。それが天才だ。

 

 発明王と名高いトーマス・エディソンは言った「一%のひらめきがなければ、九十九%の努力は無駄である」と、

 つまりは九十九も努力してしまう馬鹿さ。一のひらめきを待てる愚直さ。

 そんな恐ろしく非効率な物言いに説得力を持たせたカリスマが天才なのだ。

 どうやらエディソンは私と同じ考えにあるようだ。

 

 では、私は自身が天才かと聞かれたら、「天才だ」と速答は出来ないだろう。

 私はあの実験の幇助者(ほうじょしゃ)という大馬鹿で、十年以上たった今でも可能性を追い求める愚鈍な男だ。

 あの男たちを言い包めたカリスマもあったのだろう。

 

 唯一足りなかったのは、結果を得る時間。

 だから急いだ。

 だから時間が欲しかった。

 私は一分一秒、失うわけにはいかなかったのだ。

 

 結果論で物事を語るのを、私は好まない。

 しかし、この世は結果がなければ何の意味もないことを、この十年で私は思い知らされた。

 

 私の失敗は何だったのだろう? 何を間違えたのだろう?

 私は自分の信じるところを突き進んで生きてきた。どんな状況でも諦めはしなかった。

 それなのに、私の望みは叶った試しがない。

 私の生き方全てが否定されているとさえ思えてくる。

 

 それでも私は諦めない。私の望みを叶える為になら、悪魔にだって魂を売り渡す。

 もし神が私の望みを聞き入れるなら、この身を人身御供として捧げるだろう。

 

 私は彼に問いただしたかった。なぜ去ったのか? なぜ諦めたのか?

 「彼さえいれば」その思いは今でも変わらない。

 

 ただ一つ言えることは、私はこれからまた罪を犯すだろう。

 それは平穏に生きる彼らを巻き込んで、私の勝手を貫くわがままなのかもしれない。

 

 どんな罪にこの手を汚そうとも、どんな責め苦を負おうとも、今度こそ私は私の望みを叶えよう。

 私生まれてきた意義を見出すために……。

 

 

 

 

 

 

  第九章「黒川将人の場合」

 

 

 遠くで風の音がする。

 逆にそれ以外の音は皆無。静寂というよりは清閑の方が似合う空気がそこにはあった。

 

 私は無意識にコートを羽織り直す。二月独特の身を切るような冷気に目を覚ました。

 月明かりが仄暗く室内を照らしていた。飾りっ気のない殺風景な部屋。

 同じデザインの背の高いベッドが四つ、部屋の四方に並んでいた。

 そしてなにより、部屋の生活感がない雰囲気こそが、そこが病室であることを示していた。

 

「寝ていたのか……」

 

 車を使ったとはいえ、さすがに人一人を担いでここまで来たのだ、疲れていたのかもしれない。

 私は壁際のパイプ椅子でうたた寝をしていたようだった。

 寝る気は微塵もなかったが、最近準備に追われていたのだ、体も休息を求めているのだ。

 

 私は横にあるベッドに目を向ける。

 私が寝かせたままの姿で、柚山潤が眠ったままだった。それに安堵を覚える。

 ただ呼吸の様子から、その眠りは浅くなっているようだった。

 

 この病室に、他に人はいない。

 ベッドに布団も敷かれていない。むき出しのマットレスだけが柚山の体を支えていた。

 ただ一人だけ病室に寝かされたその様は、何だか滑稽に見えた。

 

 椅子から立ち上がると、私は壁を手探りした。

 電灯のスイッチに手があたる。ふと私の視界に窓から差し込む月明かりが入った。

 私は思い直し、折角探り当てたスイッチから手を離すと、月明かりの差し込む窓辺に足が向いた。

 

 街灯が薄く照らし出す街並みが眼下に広がっていた。

 懐かしい街明かり。昔は何とも思わなかった風景に今は哀愁を感じてしまう。

 私も歳をとったということだろう。

 

 私は不意に空を見上げた。

 真円を描く月。薄い雲が月に笠をかけていた。美しい月光は何人も魅了する魔力がある。

 美を愛でる精神は人間が人間たる証であって、それは私も例外ではない。

 しかし、私は月の光の幻想よりも、月がほぼ南中していることに気が行った。

 

「少し寝過ぎたか」

 

 専門でないとはいえ、私とて基礎的な天文学の知識は身に付いていた。

 満月が天高く上がる時間帯は真夜中であると直ぐに気付いた。

 

 恐らく二十三時前後。柚山の様子を見に、ここに着いたのが十九時であるから、四時間も寝てしまうとは不覚だった。

 

 柚山には改めて睡眠剤を投与していた。

 彼が目覚めるはずがないと油断していたのかもしれない。しかしその薬も明け方までには醒めるだろう。

 

 私は外の風景を眺めながら現在の状況について考えていた。

 準備はほとんど整ってある。あの不測の事態以降の計画修正には手間取ったが、あと二つの問題点をクリアーすれば計画は軌道に乗るだろう。

 しかし、まだまだこれからだ。私には私のやるべきことがたくさんあるのだから……。

 

 唸るような声が背後から聞こえてきた。柚山潤の声。

 単に寝言かと思ったが、ベッドから身を起こす衣擦れの音まで聞こえ、私は振り返った。

 

「こ……ここは?」

 

 声の様子、体の動き、柚山潤ははっきりと覚醒していた。

 私はそれに驚きを隠せない。確かに睡眠剤の作用は個人差が大きくでるが、最低でも後数時間は覚醒しない計算だった。

 今この時間にここまで簡単に意識を取り戻すとは私の想定外である。

 

 薬剤の眠りは普通の睡眠とはわけが違う。

 大脳皮質を薬能で強制的に催眠状態にするのだ。

 仮に目が覚めたとしても血中に薬が残っている限り意識がはっきりせず、ぼんやり催眠状態が続くのが常だった。

 

 そう医学的な知識を巡らした私は、自分の目の前にいる者がどんな人間なのか思い出した。

 柚山潤。前の研究の生き残り。

 実験病棟で散々脳に作用する薬剤の投与をされた人間だ。

 薬物耐性がついていたのか。失念していた。

 

「誰……だ?」

 

 黙々と佇(たたず)む私の姿に気が付いたのか、柚山がベッドの上で身を硬くした。その眼(まなこ)は細く歪んでいる。

 窓際にいる私は月明かりの逆光で見にくいのかもしれない。

 

「……起きたのか」

 

 私は焦らすように間をおいて言う。

 柚山にも考える時間は必要だろう。

 

「病院?」

 

 周りに気を配る余裕が出来たのだろう、柚山は正解を言い当てる。

 ただ残念なのは、もうここは病院としては使われていないということだ。

 

 柚山は頭を押さえ、顔をしかめた。

 口には出さなかったが頭痛がするのかもしれない。

 それが麻酔の後遺症なのか、トラウマによる精神面が原因なのか、私には判断しかねた。

 

「気分はどうだ?」

 

 私が尋ねた。柚山は身構えたまま答えなかった。

 

「別に、そう構える必要はない」

 

 私がそう言った所で、柚山は警戒を解かなかった。彼の目は私と病室の出入り口を往復する。

 この部屋の入り口にあるはずの扉はなく、暗い廊下には全く明かりはない。そこにはぽっかりと暗闇への入り口が開いていた。

 窓からの光が全ての廃病院において、闇に飛び込むことは勇気がいる。

 私と闇と、どちらが危険か計っているのか。

 そういう危機察知は生物として正しい方向性だ。現代人には失われつつある能力。

 それがこの柚山潤に備わっていることに私は感嘆を覚えた。

 

「月明かりというのも風流だな。そうは思わないか?」

 

「あなたは誰ですか?」

 

 柚山は私の言葉を無視して同じ質問を繰り返した。

 

「久しぶりだな、……柚山潤」

 

「僕のことを知っているのですか?」

 

 あからさまに私のことを怪しんでいる。

 私を値踏みするように見流しながら、柚山は私の回答を待っていた。

 

 改めて自分の姿を考えると、深い色のトレンチコートの下に、繁華街の客引きが着ていそうな黒ずくめのスーツをまとっている。どこからどう見ても怪しいその姿に自分自身笑えてしまう。

 

 この格好は私の趣味というわけではない。外で動くときの為に用意した作業着だ。

 この姿ならもし第三者に目撃されたとしても特徴ある服装に目がいって、顔や身体的特徴を覚えにくいという効果を狙っている。

 それが今は柚山潤に不審を抱かせる副作用が出ているわけだ。

 

「最後に会ったのは十年ほど前か……。よくぞここまで育ったものだ。

 あの弱々しくベッドに横たわっていた子供が」

 

 それは私が真に思うことだった。

 いつ死んでもおかしくなかった子がここまで育つ。子を持つ親としてこんなに心強いことはない。

 

「十年? 僕はあなたと小さいときに会ってるのですか?」

 

 柚山はかなり悩んでいる様子で、ぶつぶつと呟きを漏らしている。

 その呟きの中に「親戚のオジサン」なる文言を聞き取って、私は苦笑した。

 

「君は記憶が欠落するのだろう?」

 

 私の言葉に柚山は驚いて目を丸くした。

 

「どうして……知っているんですか?」

 

「私は君を知っていると言っているだろ?

 少し話をしないか? 今の君にでも聞いてもらえれば通じるはずだ」

 

 私はそう言うと窓際のベッドに腰掛けた。薄汚れたマットレスが静かに軋む。

 そして柚山も座るようにと、人差し指で自らの隣を指差した。

 

 私の言い様に違和感を覚えているのだろう。納得のいかない表情だった。

 だが私に敵意がないと感じとったのか、柚山は私の横に腰掛けた。

 

 柚山は同じ月明かり下、改めて私の顔をまじまじ見ていた。

 情報通りなら、私を本当に覚えてはいないのだろう。

 しかし、改めて顔に注目されるのは如何に私といえども照れを隠せない。

 すでに髪には白髪が交じり始めている。

 眉間にも深い皺が入り、自分自身初老と言われても仕方がないと思っている。

 しかし私の実年齢はまだ中年で済むはずなのだ。

 私の普通ではない生き方が私を随分老けさせた。

 

「柚山潤、君の記憶障害のこと聞かせてくれないか?」

 

 柚山潤の症状について、私は資料を読んだ知識しかなかった。

 柚山潤のことを柚山潤本人から聞いてみたかった。

 

「でも……」

 

 柚山はいい返事をしない。私を警戒しているのだ。それも当然だろう。

 

「私はこう見えても昔は医者だったんだ。

 私に話したからと言って記憶障害が治るわけではないが、何かアドバイスが出来るかもしれない」

 

 それは嘘ではない。ただ建前と本音が違うだけだ。

 まだ人生経験を十分に積んでいない柚山にその違いが理解出来るかは知らないが、私ぐらいの歳になれば自然と身に付くものだ。

 

「……すいません。昔会ったことがあるようですが僕はあなたのことを覚えていません。

 申し訳ありませんが自己紹介して下さいませんか?」

 

 柚山は慇懃(いんぎん)に言う。目上の人間を前にしたときの態度としては正しいものだった。

 最近の若い者は、と言えば完全に年寄り扱いされてしまうだろうが、柚山潤は礼儀をわきまえていた。

 

「……私は黒川。黒川将人。

 正直言えば偽名だよ。ただそう名乗るのが一番適当だろう」

 

 そう、今は私の『個』なんて、どうでもいい話だ。今必要なのは私の『役割』だけだろう。

 柚山潤とはもっと別の形、私『個人』として会いたかったという気持ちもどこかにある。

 しかし、この場でそれを口にするのは相応しくないだろう。

 

「医者だったんですか? この病院の医師の人?」

 

「薬を開発する研究医だった……随分昔の話だよ。

 それにここはもう病院ではない。とっくに潰れている」

 

「え?」

 

 柚山は改めて病室内を見渡す。

 パーティションカーテンもない。ベッドに布団もない。私たち以外に人の気配もない。

 柚山にだってここが廃病院だと認識出来ただろう。

 

「じゃあ、どうして僕はここに……?」

 

「やはり記憶がないんだな?」

 

「……はい」

 

 柚山は自分の責任でもないのに申し訳なさそうにした。

 正直ないい青年に育っている。

 資料では大学を中退したと書かれていて少し心配していたが、大学が必ずしも人生に役に立つものではない。

 それも一つの生き方だ。

 このまま普通の生活を続けさせてやりたいという親心が疼き出す。

 それでも私は彼を巻き込もうとしている自分を止められない。

 

「私は君には怨まれる立場にあるだろうな」

 

「怨む、ですか?」

 

「かく言う私だって、君を怨んでいないわけではない」

 

 それも正直な私の気持ちだった。

 

「それじゃあ、僕とあなたは敵なんですか?」

 

「敵? 面白い言い方をするな。

 君は人を敵か敵でないかで判断す……。

 いや、そういうことか。なるほど、それが柚山潤の在り方か」

 

 彼は私の言葉が理解出来なかったのだろう。軽く首をかしげていた。

 

「先に言っておこう。私と君は敵か否かで分類するなら敵だよ。だが私は君を味方にしたいと思っている」

 

「味方にしたい? じゃあこれから僕を説得するのですか?」

 

「ああ、説得するさ。

 しかも説得が成功しなかった場合でも強制的に私を手伝ってもらう」

 

「随分強引ですね?」

 

 柚山は不思議そうに聞いてきた。普通の人間なら拒否感を覚えるであろう言葉に、彼は反応しなかった。

 

「ああ。それが私の在り方だと心得てくれ」

 

「どうしてそんなことを言うんですか?

 僕を説得したいなら、そんなマイナスなこと、口にしない方がいいと思いますけど」

 

「私は君に進んで協力してもらいたい。だから包み隠さず言った。

 誠意を見せるのも交渉術の一つだと思うが?」

 

 そう言った私は表情を少し緩めてみせた。

 笑みなど柄にもないが、それで柚山の警戒心が解けるなら安いものだった。

 

「協力って、僕に何をさせるつもりですか?

 僕は何の役にも立たない人間です。それは僕が一番よく知ってます」

 

「記憶障害があるからか?」

 

「それは……関係ないとはいえませんけど、たぶん違います」

 

「ほう? 君は記憶障害が煩わしくないのか?」

 

「それは……いえ、今もどうしてここにいるのかも分かりませんし、確か……家で昼を食べて、それから……」

 

「気が付いたらここにいた、か?」

 

「……はい。僕はあなたと一緒にここに来たんですか?」

 

 なるほど、情報が欠如するとそういう判断になるのか。

 普通の日本人には自分が拉致されるという発想がない。

 柚山は決して普通とは言えないがこの国で生まれ育ったのならそれも当然か。

 

「普段から記憶が飛ぶことが多いのか?」

 

 私はわざと柚山の問いに答えず話を進めた。

 

「ええ……記憶が飛ぶ時間や時期はまちまちですけど……」

 

「昔、入院していたのは覚えているのか?」

 

「あ、はい。脳の病気だったらしくて、記憶障害はその後遺症らしくて……

 今でも月に一度通院してますけど、十年ぐらい前は入院してたらしいです。

 僕はまだ子供だったんであまり覚えて……あっ、それじゃあ、黒川さんは僕が入院していた病院の人?

 あれ? もしかして、ここって昔、僕が入院し、アぁあっァ」

 

 突然、柚山が頭を抱えだした。

 苦悶に満ちた顔が月明かりに浮かび辛酸に満ちていた。

 

「はぁ はぁ」

 

 柚山の荒い息がコンクリート造りの廃病院に染み渡る。私はそれをじっと観察していた。

 

「気分が悪いのか?」

 

 私は苦しむ柚山を見下ろして聞いた。苦しんでいるのに気分がいいはずがない。私は本当に酷い人間だ。

 しかしそれが私の生き方であり、今の生きる目的だった。

 

 柚山は肩で深い息を繰り返す。私はじっとそれが収まるのを待っていた。

 五分ほど呼吸だけを繰り返す柚山を私は観察し続けた。

 

「どうだ体の調子は?」

 

「いや、特に普通ですよ」

 

 私の問いに答えた柚山は何事もなかったかのように答えた。

 その様子から柚山潤の特性が垣間見える。

 

「えっと……。何の話でしたっけ、黒川さん?」

 

「君が記憶障害について説明してくれていた所だよ。現状で君はどんな風に記憶がなくなるんだい?」

 

「え? え〜……、別にどうっていうか、決まってないというか、記憶がないから覚えていないというか。

 ホント突然に記憶が意識が途切れて、しばらくたって意識が再開するというか……」

 

「なるほどな。君はその記憶障害があることをどう思ってるんだ?」

 

「どうって言われても、ずっとそうだから……。

 でも、恐いことは確かです。自分がどこで何をしているのか分からないんだから……」

 

 そうして柚山潤は私に記憶障害について事細かく説明してくれた。

 具体的な例を交えて説明する彼の様は、今まで誰一人いなった理解者を作ろうというかのように熱心だった。

 

 日によっては半分以上、記憶がないときもある。

 自分が何をしていたのか覚えていない。

 それがどんなに恐ろしいことなのか、普通の人には理解出来ないだろう。

 

 いつ、どこで、何をしていたのか分からない。

 犯罪に手を染めたかもしれない。

 人を傷つけたのかもしれない。

 自分の行動に責任が持てない。

 記憶がない間、自分がやったことは自分の意思によるものなのかが全く分からないのだ。

 そんな状態に悩むなと言う方がおかしい。

 

 柚山潤は彼なりに悩んでいるようだった。

 今かかっている医者は「記憶障害は気にしなくていい。一生付き合っていくのだから気に病まないように」そんな説明をしているらしい。

 

 柚山の今の主治医も、正菱の息がかかった者だ。その判断は正しいだろう。

 解離境界を緩め、人格統合を図る治療は柚山に負担が大きい。

 逆に柚山の精神が崩壊しかねない。今の状態が安定しているならそのまま現状を維持するのも一つの方策だ。

 内因性の記憶障害とは完全に別物なのだから。

 

 ただ柚山本人が特に心配するのは、ときより記憶がない間に拳を痛めていることだった。

 それは明らかに何かを殴った痕。

 一度や二度ならどこかにぶつけたと考えることも出来るが、一ヶ月に数回ペースで拳が傷ついていれば、記憶がない間に人を殴っているのではないかと心配するのは当然であろう。

 

 柚山が大学を辞めたのもそれが原因の一つだそうだ。

 そもそも柚山は大学に行くのが躊躇われてならなかったらしい。

 柚山には入学試験を受験した記憶もないのだから。

 

「有紗は『そんなこと気にしないでいい。僕が心配することは何ない』って言うけど、でも……」

 

「有紗……。正菱有紗だね。彼女が生き延びたのも、今思えば奇蹟に思えてくる。しかし……」

 

 私は昼間に見た彼女の姿を思い出した。

 彼女も柚山と同様に立派に成長し、私の前に現れた。

 死すべき運命にあった子供が生きていることを、私は嬉しく思う。

 それこそが十年前の研究の成果。だからこそ私は今も動いているのだ。

 

「えっ? どうして有紗の前の名字まで……」

 

 柚山の言葉で、今彼女が悠木有紗と名乗っていることを思い出した。

 もう父方の名字を名乗ることは皆無らしい。だからこそ柚山も正菱の名前が出たことに驚いたのだろう。

 正菱と名乗りたくない心情は私にも理解出来る。

 人間捨て去ってしまいたいことはいくらでもある。

 

「そうだったな。彼女は正菱と縁を切ったんだったな。『親心子知らず。子心親知らず』とはよく言ったものだ」

 

「……あなたは何なんですか?

 僕と有紗を知ってるって?

 十年前ぶりに僕に会ったって本当ですか?

 有紗とはどういう関係ですか?

 それにここはどこなんですか?」

 

 柚山は堰(せき)を切ったようにまくし立てた。私の言葉が彼の不信感を再燃させたのだろう。

 前もって私は敵だと教えていたのに、間抜けな話だ。

 

 私は危険人物なのだよ?

 君にとっても君以外にとっても。こうして隣に座って話をするなんて論外なんだよ。

 

「今の問い。全て君は答えを知っている。私が言わずとも君は全てを理解している」

 

「何言ってるんです?」

 

「真実を言っている」

 

 私は静かに言い放つ。

 

「真実……」

 

 柚山の呟き、私は沈黙を守る。

 明るき月下に二人相対したまま静寂が流れる。

 柚山の表情は次第に強張っていった。その様子をつぶさに観察して、私は話を続けた。

 

「私はこの十年間、何をやっていたんだろうな。

 十年という途方もなく長い月日、私は時間を無駄にしてしまった。

 私は十年前に何としてでも研究を続けるべきだったんだ。

 アイツらに見放されようとも、後ろ盾を失ってでも、私は研究を続けていれば、少なくとも今のような無惨な状態にはならなかった。

 私は後悔しているんだ。

 あの時、何としてでも藤堂を引き留めるべきだった。

 藤堂作弥さえいれば……」

 

 柚山には、私が何を言っているのか理解出来なかっただろう。

 だがこれで彼には伝わるはずだ。彼は今もこの会話を聞いているはずなのだ。

 

「本当に今更だ。

 しかし私は本気だよ。もう後には引けない。

 私の両の手は罪で汚れきっている。十年前もそして今も。

 これからだって私は手を汚すのをいとわない。君がなんと言おうと私を止めることは出来はしない」

 

「一体、何をする気なんですか?」

 

 私の気迫が柚山を緊迫させる。

 彼が生唾を飲む音が私にも聞こえていきた。

 

「恥を忍んで頭を下げよう。私にはそれしかない。協力してくれ、藤堂」

 

 その言葉通り、私は彼に向き直り深々と頭を下げた。

 懇願の意だけではない。これが私なりのけじめだった。これから成そうとしていることへのけじめ。

 実験病棟で死んだ者。

 生き残ってもなお過去に苛まれる者。

 そしてこれから増えるだろう犠牲者。

 その全員に私は頭を下げたのだ。

 

「黒川さん。あなたの言うことは、僕にはよくわからないです。……藤堂って、誰ですか?」

 

 そうか、ここまで言っても無理なのか。彼は本当に私を見捨てた。そういうことなのか!

 私は悔しさを胸に顔を上げた。

 

「彼を、何と言えばいいのだろうな。君にとって彼は命の恩人だろうな。同時に怨むべき相手だが」

 

 そう、私も藤堂作弥を怨んでいる。

 確かにあの研究は出資者の撤退により中断を余儀なくされた。

 しかし、それでも藤堂がいれば、彼さえいればどんな場所であっても研究を続けることが出来たはずだ。

 彼さえ諦めねば、とっくに研究は完成したはずなのだ。

 

「私は彼を尊敬していた。子供と親というほど歳が離れていたが、私は彼の言葉を信じて疑わなかった。

 彼の言うこと全てが論理的で実践的で、そしてその意思はいつも未来に向いていた。

 私たちに夢を見させてくれた。

 必ず叶うと信じるに足りる夢を」

 

「黒川さんは、その人のことが好きだったんですね」

 

「好き? 私が藤堂を?」

 

「だって、黒川さんその人のことを話すとき嬉しそうだったから」

 

「……そうかもしれないな。

 彼には不思議とカリスマのようなものを感じていた。

 研究馬鹿で、いつもデータと向き合っていた。研究者の鑑(かがみ)のような奴だった。

 彼を理解出来るのは同じ馬鹿な私しかいないと思っていたのかもしれない。

 だが、あの研究は頓挫し彼は去っていた。

 彼を失って、初めて彼がどれだけ偉大だったのか思い知ったよ」

 

「でも、どうしてその藤堂さんと僕が関係あるんですか?

 よくは分かりませんけど、黒川さんは藤堂さんに用があるんですよね?

 僕は関係ないと思いますけど?」

 

 私は落胆の溜息を吐いた。

 どうやら言葉ではどんなに言っても無駄なのだ。

 私は方針を転換せざる負えない。手荒なことはしたくなかったが、藤堂が悪いんだよ。怨むなら彼を怨め。

 

「そうか……。協力する気はないようだな、藤堂。

 聞いているのだろう? お前はこの柚山潤と違っていつでも侵入交換が出来たはずだ。

 私にここまで言われても出てこないとは、何を考えている?」

 

「えっ? え? ちょっと、何を」

 

 私の威圧的な物言いに柚山は混乱しているようだった。

 私が懐に用意していた物を取り出すのを見て彼は後退った。

 

「強制的にでも手伝ってもらうと言ったはずだ。先程は麻酔銃だったが、これは本物だ」

 

 私は拳銃を構え、動けないでいる柚山潤に銃口を押し当てた。

 

「えっと、あの。冗談ですよね?」

 

 柚山の希望的観測は拳銃の濃厚な光沢に露と消える。

 既に何回も発砲してあるそれは火薬の臭いが染みついていた。

 

 どんな暴力的手段を講じようとも私は私の望みを叶えたい。

 私の手はとうの昔に汚れきっている。今更、善人ぶるつもりは毛頭ない。

 

 これが黒川将人と名乗った私の在り方なんだよ。

 それがどんなに侘びしく悲しいことだったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

(第10章につづく)

説明
 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

 僕は運命なんて信じない。
 信じられるわけがない。
 ただ、信じられるものは、彼女と僕の……。
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