「あなたとわたしは彼女と僕の」第11章
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  第十.五章「発端」

 

 

 特別恵まれいたわけではなかったが、その家族はとても幸せに暮らしていた。

 

 父と母、そして子供一人の三人家族。

 いつも遅くまで仕事に明け暮れる父親は家に帰ってこない日も多々あったが、母親はそれに文句も言わず、寂しがる子供に精一杯の愛情を注ぎ懸命に育てていた。

 知人の仲介で出会った二人だったが、よく尽くしてくれる母親に感謝する毎日だった。

 

 子供が小学校に上がる頃、父親は仕事で大きなプロジェクトを進める為に、ずっと家を空けるようになっていた。

 金銭的に苦しかったわけではないが、家に誰もいなくなると母親はパートに出るようになった。

 自らが稼いだお金で子供に服や玩具を買ってやれるのが母親の密かな楽しみになっていた。

 

 父親は決して子供を愛していなかったわけではない。

 家を空ける時間が長ければ長い程、夜、家に帰って覗き見る子供の寝顔が愛おしくて堪らなかった。

 可愛いその顔を見れば仕事の疲れなど全て飛んでしまう。

 子供の遊び相手が出来なくても父親はそれで満足だった。

 

 ある日、いつものように遅く帰宅すると子供の通う小学校から連絡が来たと母親が告げた。

 担任の先生が、ときどき子供の様子が少しおかしいと言ってきたのだ。

 母親は心配して父親に相談したが、昼間はずっと職場にいる父親には子供の変化が見て取れなかった。

 

 しかし母親も何やら心当たりがあるらしく、子供の体調を心配していた。

 父親は子供を病院に連れて行くように言った。

 結果的に言えば、それが子供の病状を悪化させた。

 

 子供は病気だったのだ。

 数千万人に一人という希な病気。町医者では一生目にかかることのないだろう難病。

 専門の医師でないかぎり、初期症状で病名を特定することすら難しい。

 案の定、子供は原因不明の体調不良で一年間病院をたらい回しにあった。

 

 東京の大学病院で脳の萎縮が見つかったときには既に手遅れだった。

 それは末期症状の始まり。子供の病名はマサビシ脳萎縮性ジストロフィー。

 未だに根本療法の存在しない超難病・MBAD。

 

 父親は泣いた。年甲斐もなく涙を流した。

 医者にかかっているというだけで、どこか安心していた自分。

 母親に任せっきりにした自分。

 仕事にかまけて子供を直視しなかった自分。

 全て自分の責任だった。

 

 それなのに白いベッドに寝かされた子供は、父親が見舞いに来ると無邪気に喜ぶのだ。

 その笑顔が愛くるしかった。

 そして、不幸は続く。子供の看病に疲れた母親が胸を患って急死してしまったのだ。

 

 罵倒してほしかった。

 非難してほしかった。

 自分の罪に罰を与えてほしかった。

 あの時、自身が診ていれば直ぐに初期治療が出来ただろうに。

 そうすれば母親も死ぬことがなかっただろうに。

 

 それなのに死に際でさえ、母親は落ち込んだ父親を逆に励ましたのだ。

 誰も責めてくれない父親は決意した。

 

 いくら嘆いても過去は変えられぬ。

 ならばこれから訪れる未来の為に為すべきことがあるだろう。

 

 罰は自ら与えよう。

 自らに相当の罰を得る為に罪を重ねよう。

 それがどんなに心苦しいものだったとしても……。

 

 

 

 

 

  第十一章「柚山潤と悠木有紗の場合」

 

 

「はぁ。はぁ」

 

 柚山潤は暗闇の中、後ろを振り返ることもなく走り続けていた。

 全く光源がない暗闇。所々にある何かに足をぶつけては転び、それでも止まろうとは思わなかった。

 

「一体なんだあの人は!」

 

 何も分からない。ここがどこなのかも、あの黒川という人間がどういう人物なのかも。

 ただ確かなのは、黒川が今もなお拳銃を手に潤を追って来ているという事だった。

 

 暗闇に包まれた建物。

 二月の寒風を受けコンクリート造りの建築物は冷気を帯びて、ただただ静かそびえていた。

 窓から入る月明かりだけが潤の頼り。

 それでも目が慣れれば意外に見えるもので、潤はなりふり構わず、長い廊下を懸命に駆け抜けた。

 

「本当に、撃った。本物の拳銃……」

 

 潤の脳裏には、初めて目の当たりにした発砲の様子がこびり付いていた。

 暗闇で弾丸が放たれた瞬間、拳銃は赤き光を吐き出した。

 そして銃声。その全てが黒川の手にしたものがモデルガンではなく本物の拳銃だと示していた。

 

 映画の銃ってリアルなんだ……。

 そんな感想しか思いつかず、逃げ出すのが遅れてしまった。

 しかし、黒川も拳銃の扱いに慣れていなかったのだろう、潤は撃たれることなく二人でいた部屋から飛び出せた。

 

 そこは思った以上に広い建物だった。

 足下を気にして全力疾走出来ないにしても、もう数分走り続けていた。

 それなのに廊下の終わりが見えてこない。

 同じ場所をグルグルと回り続けている錯覚に襲われ、急に不安が胸を締め付ける。

 

 しばらく廊下を走ってみて、ここが病院であると潤も実感出来た。

 暗くて細部まで観察は出来ないが、確かに病院独特の造りがそこにはあった。

 

 廊下の両横に似たような小部屋がいくつも並び、各部屋に据えられた窓から同じような月明かりが注していた。

 それが廊下まで届き、潤は月影を追うように逃げ続ける。

 

 ふと振り返れば、誰もいない廃墟の静けさ。

 闇に蠢くモノもなく、潤を追う者の姿はどこにもなかった。

 

「よかった。あいつ足遅い……」

 

 運動選手でもない潤は、いつまでも走り続ける事なんて出来はしない。

 息を整える為、ナースセンターらしきスペースに駆け込んで、放置された机の陰に身を隠した。

 病院として使われていた頃ならば物資で煩雑していただろうナースセンターも、今ではがらんどう、もぬけの殻だった。

 

 必死に息を殺しながらも体に酸素を補給する。そして黒川という人間について考えた。

 黒川の言ったことを信ずるなら、ここは既に潰れてしまった病院だ。

 そんな所で目覚める理由ってなんだ?

 どこかで倒れて運び込まれた? もうここは病院じゃないのに?

 

 潤は自らの記憶がないことが歯がゆくて仕方がなかった。

 とにかくこの建物から出る。それ以外の選択肢はありそうにない。

 酸素を溜めるように大きく息をすると、潤はゆっくりナースセンターから這い出した。

 

 やはり黒川の姿はない。いやに静か。

 追って来ているはずの人間が追ってこない不気味さが、潤の不安をかき立てる。

 目を凝らせば、暗闇の奥に階段らしきものが見えた。

 しかし、明かりのない階段は奈落へ続く穴のように、全てを吸い込む黒さを見せていた。

 

「待ち伏せとか、されてなければいいけど……」

 

 そう呟くと、潤は意を決して階段に歩み寄った。

 殺しているはずの息までも反響してしまうような予感に囚われる。

 廃病院を縦に貫く階段は、冷たい空気を吐き出し続けていた。

 

「とりあえず、下りるか……」

 

 病室から見た夜景が潤の頭に浮かび上がる。その風景から察するに、現在潤がいるのは四階か五階。

 廃病院から脱出するには下の階層への移動が不可欠である。

 

 もう一度、後ろを見回して黒川がいないことを確かめる。

 逃げるのなら階段に来ることは容易に想像出来るはずなのに……。

 潤には階段の暗闇より黒川の不在の方が恐ろしかった。

 黒川から逃げているのに、黒川がいないと不安になる。その矛盾に自然と苦笑が漏れた。

 

 別の階段を見に行っているんだ。そう自分に言い聞かせて潤は恐怖心を押さえ込む。

 そして真っ暗な階段を下り始めた。足を地面に滑らせて一歩ずつ確実に……。

 

 僅かの明かりもない黒の世界。暗闇とは不思議なものだ。

 人は暗闇に不安を抱き、光を欲する。しかし、同時に闇に安心も感じる。

 それは母体内の暗闇を思い出すからだという説もあるが、今の潤に安心などというポジティブな感情はない。

 

 足下の段差すら輪郭を追えず、足の裏の感触だけが頼りの闇に潤の体が溶け込んでいく。

 足音を完全に消す事が出来ず、階段を一段下りる度に自らの足音に驚いてしまう。

 潤は緊張を張りつめたまま、懸命に足を動かした。

 

 どれくらい時間がかかっただろうか。潤は三階分の階段を下りきって立ち止まる。

 足下が全く見えない階段の下り難さときたら腹が立つ。

 普段、視覚障害の人を街で見かけれも何とも思わなかった潤だが、これからは優しくしよう。そう心に決めた。

 

 廊下の方が階段より僅かに明るいらしく、防火扉周りの輪郭は何となく見えた。

 しかし、壁に書かれているだろう階層表示を見上げてみるが、光量が足らず字を読みとることが出来なかった。

 

「恐らくここが一階か二階だけど……。ここって地下とかあるのかな?」

 

 さすがに下りすぎて地下の階層に入り込むと面倒になる。潤は素直に階段からフロアに出る事にした。

 もしここが二階か三階でも、地下の階に入るよりはましだった。

 しかし、そのフロア側から小さな物音が聞こえてきた。

 

「足音?」

 

 潤の耳に、遠くから小さな足音が聞こえてくる。

 足音を立てないように、と注意はしているようだが、潤に気付かれては元も子もないだろう。

 

 どうする? どこかに隠れてやり過ごす? それとも……。

 

 潤は対応を決めかねた。

 普段から悠木有紗に優柔不断と言われ続けていたが、こんなときまで迷うなんて本当に決断力がない。

 さすがに潤も情けなく思う。

 

 不意に足音が止まる。

 自分がいることに気付かれたのかと潤は身構えるが、階段の踊り場からは相手がどこにいるかはわからなかった。

 潤は生唾を飲む。足音は全く聞こえなくなっていた。

 否応なく緊張が高まる。

 黒川がどこからか潤を見ているような気がしてならない。

 しかし、どこにいるともわからない相手は全く動く様子がない。

 

 潤はしびれを切らせ、階段の踊り場からフロアに顔を出した。

 階段の暗さに比べれば、薄明るい廊下は見通しが利いた。潤はじっと目を凝らして辺りを窺う。

 

 すると廊下の端に何か塊があった。

 距離にして十歩。少し遠くて何なのか潤にはよく見えなかった。

 

 違う、塊じゃない。人がうずくまっているんだ!

 そう潤が気付いたときには遅かった。

 

「そこ!」

 

 甲高い声が廃病院に響く。

 同時に人影が潤に向け跳ね上がった。

 

「うあぁあぁぁ」

 

 情けない悲鳴を上げて飛び退く潤の鼻先を、人影が掠めた。

 巻き起こる風に、潤は目をしかめる。

 

 人影の着地が大音量で鳴った。

 しかしそれは潤に向けて再び体を射出する踏切でもあった。

 今度は潤の真正面に人影が飛び込んで来る。

 身構えていたはずの潤だが、反応出来るような生半可なスピードではなかった。

 

 潤は人影と衝突で鞭打つように弾き飛ばされた。

 背中にも衝撃が走る。直ぐ後ろにあった壁に背中を打ちつける。

 そして人影は潤に衝突したままの勢いで、潤を壁に押さえつけた。

 

 一瞬の出来事。

 潤には反撃どころか避けるのもままならない刹那のことだった。

 

「……」

 

 体に走る痛みを堪えて潤は相手を睨み付けた。

 目の前、僅か数十センチの所に、暗闇に浮かぶ二つの瞳が見える。薄ら見えるその虹彩は青く見えた。

 

「……有紗?」

 

 交差した両の手で潤の胸を押さえつけた人物は、悠木有紗に似ている。

 

「……何?」

 

 潤の言葉に返事が聞こえてくる。

 つまり本物の悠木有紗だ。

 

「いや……クロスチョップ、かなり痛いんだけど。いきなり襲いかかるのはどうかと……」

 

 潤は胸に食い込んだ二本の手刀をどけない有紗に苦情を上げる。

 それで気が付いた。顔が近い。悠木有紗のあの綺麗な顔が直ぐそこにある。

 息が届きそうな距離。気恥ずかしさに潤の心音が跳ね上がる。

 

「あ、ごめん……。でもまぁ、潤だったらいいか」

 

「いや、よくない!」

 

「怪我してないからいいでしょ」

 

 有紗が吐くように言い捨てて手をどけた。

 その様子を見て、さすがの潤も頭に血が上る。

 有紗相手に緊張して、損した気分だった。

 

「背中も頭も打った! 胸も痛いに決まってるだろ!」

 

「大丈夫、大丈夫。この程度で壊れる頭じゃないから」

 

「有紗が言うなよ……。それで、どうして有紗がこんな所にいるんだよ」

 

 有紗とは毎日のように会っているが、この何処とも知れぬ廃病院に彼女がいることは、潤にとって不思議でならなかった。

 

 そこは未だに暗闇。真夜中の廃病院という異質の空間である。

 二人は手が届く距離にいるので互いがなんとか見えるのであって、視界の利かない闇が支配する建物は、人が入り込むような場所ではない。

 うら若い有紗には不似合いの場所に来て、一人で何をやっているのか潤が疑問に思うのも当然である。

 

 潤の問いに有紗はなかなか答えなかった。

 何か思案した後、有紗は視線を潤から外すとポツリと言った。

 

「アンタを探しに来たに決まってるでしょ」

 

 有紗の言葉を、潤は素直に嬉しく思った。

 ただ、この廃病院に来た経緯を全く記憶していない潤には、なぜ有紗が潤を探しに来る事態になったのか、さっぱり分からなかった。

 

「そうなんだ……」

 

「とにかく、早くここから出るわよ。さっき銃声みたいなのも聞こえたし」

 

「そ、そうだよ。あの黒川って人が」

 

「黒川ですって! やっぱりここにいるの?」

 

 潤が黒川の名を出した瞬間、有紗は潤に掴みかかる勢いで声を上げた。

 その様子から有紗と黒川の関係が尋常でないことが窺える。

 

「いえ、そうね。潤がいたんだから黒川がいるのよね。

 じゃあここで……でも……」

 

「有紗。あの黒川って人、知ってるの?」

 

「……ええ」

 

 有紗は渋々肯定した。

 そういえば黒川も有紗を知っていると言っていた。

 有紗と付き合いの長い潤でさえ、黒川という名すら今日まで聞いたことはなかった。

 

「あの人、拳銃を撃ってきたんだよ! 有紗、あんな人と付き合ってるから暴力的なんだよ」

 

「誰が付き合ってるって! あんな男、私の敵よ!」

 

 敵。その言葉に潤は覚えがあった。

 その黒川が潤との関係を指して言った言葉だった。

 

 黒川と潤は敵。黒川と有紗も敵。

 二人の敵という黒川が何者なのか、潤には計りかねた。

 

「一体あの人は何なんだよ?」

 

「話は後よ。逃げるのが先。こんなとこ早く出るのよ。胸くそ悪い」

 

「……そうだね。拳銃を撃ってくるんだもんね」

 

「拳銃って、さっきも言ってたわよね? 本物の銃なの? 麻酔銃じゃなくて?」

 

 そう聞きながら、有紗は潤の手をとって歩き出した。

 潤はいきなり触れられ、有紗の手の感触に驚いた。

 もちろん、潤には有紗と手を繋いで歩いた経験なんてない。

 

 周りが真っ暗で心細いのかな、と潤は邪推したが、悠木有紗はそんな玉じゃない。

 この暗闇の中、鉢合わせした潤に襲いかかったぐらいだ。

 暗いのが恐いなんて感情は持っていないんだろう。

 前がよく見えない闇の中、二人で歩く為に手をとっただけなんだと潤は納得した。

 

「え? いや、あれは麻酔銃なんかじゃないよ。弾が壁に当たって火花吹いてたし」

 

 潤は先程遭遇した現場を思い出す。耳をつんざく銃声。

 何とも言えない火薬の臭い。花火と同種の現象ではあったが、本物の銃には花火とは一線を画す迫力が備わっていた。

 銃所持が禁止されているこの国では滅多にお目にかかれる代物ではないだろう。

 

「拳銃……。そうか、そういうことね」

 

 有紗は何か考えついたようだった。

 

「何がそういうことなんだよ?」

 

「潤、怪我してないでしょ? そういうことよ」

 

「だから、そういうことじゃ分からないよ」

 

 相変わらず明言しない有紗に、潤は苛立ちを覚える。

 ただ、有紗は無理矢理聞き出そうとすれば、機嫌を損ねて絶対教えてくれなくなるのも知っていた。

 潤は文句だけを言うと、有紗が話してくれるのを静かに待った。

 有紗が口を開くまで、優に三十秒は要しただろう。

 

「アンタを危機的状況にすればアイツが出てくるとでも思っているんでしょう?」

 

 やっと答えた有紗だが、その声は微妙に小声で聞き取りにくかった。

 

「アイツって誰だよ? 有紗のこと?」

 

 いくら帰国子女の有紗でも、自分自身をアイツだなんて言うはずがない。

 日本に帰ってきた当初は、分法やら語彙やら相当に怪しい言葉使いであったが、帰国してから三年が経つ。

 今では日本語も流暢にこなしている。だったらアイツとは誰のことなのだろう?

 潤には『出てくる人物』といえば有紗しか思いつかなかった。

 

 事実、潤にはどうしてかは分からないが、有紗はこうして探しに来てくれた。

 しかし、潤には黒川の目的が悠木有紗だとは思えなかった。

 潤に協力してほしいと言った黒川が潤を襲う理由は何なのだろうか?

 

 それに黒川は『藤堂』っていう人がどうこう言っていた。藤堂というのも潤は知らない名前だった。

 

「とにかく、黒川たちは本当に危険なんだから、ここか早く出るわよ」

 

「有紗、こんなに暗いのに出口とか分かるの?」

 

 潤は有紗に手を引かれるまま、廃病院の廊下を歩き続けた。

 相変わらず足下はほとんど見えない真っ暗な廊下だったが、何かにつまずくこともなく歩けていた。

 

「大体の構造覚えてるのよ。

 この廊下を突き当たった階段を下りたら待合室があるから、直ぐに出られるはずよ」

 

「あれ? ここ一階じゃなかったんだ」

 

 潤は先程、下りてきた時に階数表示を確認したわけではない。何となく一階まで下りて来た気になっていた。

 

「ここは中二階。ここ、増築とか重ねてるから、構造が結構複雑なの。覚えてないと迷うわよ」

 

 なぜこの廃病院の構造を有紗が知っているのか、潤は聞こうと思ったが、一歩前を行く有紗の後ろ姿がそれをさせなかった。

 

 長い付き合いの二人。なんとなくの雰囲気でわかってしまうこともある。

 有紗は理由を話したくないと思っている。そう感じ取った。

 

「有紗、懐中電灯とか持って来てないの?」

 

 潤はわざと話題を変えた。潤は潤なりに有紗に気を使っているのだ。

 しかし、その言葉にも有紗は返事をしなかった。

 

「こんな所に来るのに明かり一つ持って来ないなんて」

 

「……うるさい」

 

 ご機嫌斜めだった。

 そんな有紗が急に足を止めたので、殴られるのかと潤は身を固くした。

 しかし、有紗は体を止めたまま、荒い息をするだけだった。

 

「有紗?」

 

「えっ、何?」

 

 まるで声をかけられたことが心外だったとばかりの反応だった。

 

「急にどうしたんだよ。黒川の奴がいたのか?」

 

 ゆっくりと辺りを見渡したが、潤には人の気配がするようには感じなかった。

 

「いえ、ちょっとお腹空いて……」

 

 そう言うと有紗は腹部をさすって見せた。

 暗くてよく見えないが羞恥心から顔を赤らめているのだろう。

 

「こんなときに……。やっぱり有紗は有紗だね」

 

「どういう意味よ! ちょ、ちょっと、昼間暴れたから、血糖が下がってるだけよ」

 

 それも有紗の体の性質だった。

 タダで馬鹿力が出るわけではない。使った分はカロリーを消費する。

 エネルギー保存の法則は有紗の体にも適応されるのだ。

 

「暴れてたの?」

 

「うるさい! 一体誰の為に……、アンタには関係ないでしょ」

 

 誰の為と言われれば、潤の為である。

 昼間の記憶がない潤にも、それは察することが出来た。

 潤は責任感よりも感謝の気持ちで一杯だった。

 

 潤はあることを思い出し、上着のポケットをまさぐった。

 記憶が時々飛んでしまう潤だったが、飛ぶ前の記憶通り、ポケットの中に小さい箱の手応えがあった。

 

「有紗。チョコレート食べる?」

 

「チョコ?」

 

 有紗は嫌な予感がして表情を歪ました。

 

「なんか知らないけど、この前、上着のポケットに入ってたんだよね。それ入れっぱなしになってたみたい」

 

 潤が取り出したのは少し角の潰れた、手のひらにスッポリ収まるサイズの箱だった。

 

「……はぁ」

 

 有紗は聞いたことがないぐらい大きな溜息を吐いた。

 嫌な予感が当たり、気が遠くなりそうな感覚に襲われる。

 

「あんたねぇ。唐変木なのはわかってたけど、ここまできたら、むしろ病気よ」

 

 有紗は怒る気すら失せ、呆れてしまう。

 取り出した箱のラッピングは解かれていたが、どこからどう見ても有紗が渡したものだった。

 

「病気? 何のこと?」

 

「そのチョコ、ラッピングかかってたでしょ?」

 

「どうして知ってるの?」

 

 素っ頓狂な声を上げ、潤は本当に驚いた様子だった。

 その様子は、むしろ白々しいとまでいえた。

 

「死ね! 馬鹿!」

 

「どうして死なないといけないんだよ」

 

「いつチョコに気が付いたのか知らないけど、二月中旬にラッピングされたチョコがあったら答えは一つでしょ!」

 

「え? ……もしかして有紗がくれたの?」

 

 しかしながら、有紗からチョコレートをもらった記憶など潤にはない。

 記憶が飛んでいる間にチョコレートをもらったなんて、思いも寄らなかった。

 

 せめて、毎年有紗からチョコレートをもらっているなら、そういう発想が生まれるかもしれないが、有紗からバレンタインデーにチョコレートをもらったことは一度もなかった。

 ただ毎年、数日遅れておこぼれのような義理チョコがあたるぐらいだ。

 

「知らない! もう私が食べる! 貸しなさい!」

 

 声高らかに叫ぶと、有紗は繋いでいた潤の手を払いのけ、目にも留まらぬスピードで箱を取り上げた。

 そして、中身を一気に頬張ってしまう。うっすら異臭漂う廃病院に甘い匂いがあふれ出す。

 

「あ……」

 

 潤は呆気にとられて何も言えなかった。

 有紗は急ぐように咀嚼(そしゃく)し、大きく飲み込んだ。

 

「あ〜 美味し〜 さっさと行くわよ」

 

 明らかな当てつけの言葉を口にすると、有紗は不機嫌な足音を立て、本当にさっさと行ってしまった。

 

「待って、有紗」

 

 潤は慌てて有紗を追う。

 

 また失敗した。潤は心中呟く。

 どうせ今年も義理チョコだろうが、このままだと何となく有紗の機嫌が悪い日が数週間続いてしまうだろうという経験則が潤の頭を巡っていた。

 

 そんな居心地悪い空気が流れる二人は、しばらく黙って歩き続けた。

 すると中二階から地上階に降りる階段が見えてきた。文字通りぼんやり明るく見えたのだ。

 階段の下から薄明るい光が差し込む。階段を降りれば待合室。直ぐ側にある玄関から月明かりが差し込んでいるのだ。

 

 突然、二人の足下に火花が散る。

 同時に乾いた破裂音。二人は既にその音が銃声と知っていた。

 

「さすがにこのまま帰すわけにはいかないな」

 

 聞き覚えのある声。潤が先程まで話をしていた男の声が聞こえる。

 そして闇から浮かび上がるように、二人の背後から人影が現れた。

 

「黒川! アンタなの!」

 

 有紗は叫ぶ。怒気を含んだ声。

 高校以来の長い付き合いの潤でも、有紗のそんな声を聞いたのは初めてだった。

 そんな有紗を目の当たりにして、潤はやっと黒川が敵だということが実感出来た。

 

「昼は再会の挨拶もせずにすまなかったね」

 

「どの面下げてここに帰ってきた! 黒川!」

 

 有紗が声の限りに叫ぶ。側にいる潤は耳が潰れそうな程だ。

 有紗はその心中にある怒りをぶつけたのだろう、被っていたニットキャップを地面に叩き付けた。

 帽子に仕舞われていた有紗の金髪がふわりと舞った。

 

「こんな老いぼれの顔でよければ、いくらでも見てくれたまえ」

 

「そんな挑発には乗らないわよ。どうせどこかにあの男を伏せているのでしょ? 潤は渡さないわよ!」

 

 そう言うと有紗は潤の体を引き寄せ、両手で潤を抱き寄せた。

 

「えっ? ちょっと、何? 何?

 有紗苦しい。柔らかいけど苦しい」

 

「はははっは。本当に負けん気が強いな。……本当に元気になって」

 

 その黒川の言葉に、有紗の心臓は跳ね上る。

 有紗の胸に顔を抱き寄せられた潤には直にそれを感じることが出来た。

 

「何を、何を言い出すかと思えば!」

 

 有紗は明らかに動揺をしている。

 一体に何が有紗を揺り動かしているのだろうか。

 黒川の言葉には密かに宿った力があった。

 

「この暗い病院内でも君の髪はよく見える。

 光をまとった淡い色。結局、色素異常は治らないままか」

 

「ええ、お陰様で髪も瞳も肌も、全部色素が抜けたままよ。

 もう二度と昔の黒髪にも黒い瞳にも戻らないんでしょうね」

 

「昔は綺麗な黒髪だったのにな。今では外国人にしか見えなくなったか」

 

 潤は息を飲む。

 有紗は生まれつきの金髪碧眼ではなかった。潤はそんなことも知らなかった。

 有紗は一言も言ってくれなかった。逆に黒川はそれを知っていた。

 潤の心に黒川に対する嫉妬の陰が燻(くすぶ)り出す。

 

「元々、四分の一はケルトの血も入っているんだけけど」

 

 有紗の言葉に黒川は、なぜか含み笑いをした。

 

「有紗、アイツとどういう知り合いなの?」

 

 潤は痺(しび)れを切らせて聞いた。黒川と有紗の会話はわからないことだらけだった。

 

「ふん。腐れ縁なだけ。お喋りは終わりよ。さっさと逃げるわよ」

 

 有紗は重心を僅かに落とす。

 無論、有紗に抱きつかれたままの潤もそれにつられる。

 

「そうはいかんよ。私は藤堂に話が残っている。彼は置いていってもらおうか」

 

 静かに銃口が二人に向けられる。闇の中で黒川の気配が急に増したように感じられた。

 

 じわりと汗がにじむ。

 堪らず有紗は大きく深呼吸をした。そして、潤を更にぎゅっと引き寄せた。

 

 黒川は柚山潤の交代人格である藤堂作弥に用がある。

 だから、柚山潤を傷つけるような真似はしないはず、ならば潤と密着しながら逃げれば、銃で撃たれる可能性が減る。有紗にはそんな打算もあった。

 

 視界はコントラストの低い暗がり。

 有紗は黒川の手元を食い入るように見つめ、逃げ出すタイミングを計った。

 筋力全開の踏み出しをすれば、一瞬で黒川を置き去る自信が有紗にはあった。

 

 緊張の汗が脂汗に変わっていく。

 一年で最も寒い二月の乾いた空気の元、体より湧き上がる水分が不快だった。

 それが密着している潤に気付かれないかと、有紗は急に不安になった。

 

「有紗、右」

 

 悲鳴のような潤の声。その声に有紗の目だけが右を向く。

 1m以上はある何かが宙を舞って見える。

 いや、有紗と潤に向けて何かが飛んで来た。

 

「なによ!」

 

 有紗は咄嗟に潤を突き飛ばす。自分はその反動を利用して後ろに倒れ込んだ。

 その二人の間を、何かが騒音を立ててバウンドしていく。

 二人の間を通過した物体が、壁に当たり弾け飛ぶ。

 そうして、やっとその物が待合室のベンチであるとわかった。

 

「あの黒ずくめね!」

 

 ベンチを投げ飛ばすなんて、そうそう出来る芸当ではない。

 有紗にはその心当たりがあった。

 ベンチが飛んできた方を見れば、窓から差し込む月明かりの下、予想通りに裏路地で会った黒ずくめの男が立っていた。

 

「大垣(おおがき)。やりすぎるなよ。死なれては本末転倒だ」

 

 黒川が言う。おそらく黒ずくめに言ったのだろう。

 しかし、大垣と呼ばれた男はその声に全く反応を見せなかった。

 

「有紗……痛い」

 

 先程、有紗が突き飛ばした潤が、タイルの剥がれかかったリノチウムの床にひれ伏していた。

 

「潤、寝てないで早く立って! 私が引きつけておくから、とにかく外に逃げて!」

 

「それはいいんだけど、やっぱり痛い……」

 

「いいんだったら早く!」

 

 有紗に急かされて潤はやっと立ち上がる。

 しかし、その足下に再び銃弾の火花が上がった。

 

「藤堂。貴様はいつまで逃げる気だ!」

 

 これまで淡々と話をしていた黒川の声に怒りの色が含まれていた。

 

「黒川! させないわ」

 

 潤の背に手をやると、有紗は手に力を込める。

 筋肉の脈動。潤という人間の質量を無視して有紗の関節が動き出す。

 筋力と重量のバランスなどその思考に欠片もない。

 

 有紗の力。MBADの実験的治療の副作用として体に残ったのは、いつでも出てしまう火事場の馬鹿力。

 普通の人間はその筋肉量の三十%しか使っていないという。

 人間は自らの筋力をそれ以上使うと体の方が保たない。

 筋断裂、骨格の歪み、関節への過負荷。

 三十%しか使えないのはそれを未然に防止する防御機能といわれている。

 治療の副作用は有紗の脳からその防御機能を失わせた。

 

 人間に出せるはずのない筋力。

 自らの体を痛めながらも有紗はその力を使い続ける。

 

 有紗に押された潤の体は風を切って飛ぶ。

 まるで自転車を全力で漕いでいるような加速。

 静止状態から全力疾走に突如切り替わる異常事態に、潤の足は絡まりながらも走り出した。

 

「有紗も早く!」

 

 そう叫んで、潤は階段を駆け下りていった。

 その先は待合室。黒川が他に誰かを待ち伏せさせてない限り、潤は廃病院を脱出したも同然だった。

 

「藤堂!」

 

 直ぐさま黒川が潤を追う。

 それを阻もうと黒川の前に有紗が立ちはだかった。

 しかし、その有紗に向けて黒ずくめの男が、自身の体を弾丸に猛烈なショルダータックルを放つ。

 体重とパワーを考えると有紗は避けるしかない。

 回避行動は則ち隙である。飛び退く有紗を横目に、黒川が通り過ぎて行った。

 足音を高々と鳴らして黒川は潤と同じ方に消えていく。

 

「アンタ、ホントに邪魔。大垣っていったっけ?

 アンタ何よ? なんで黒川なんか手伝ってるのよ?」

 

 有紗は苛立ちを隠さず黒ずくめの男、大垣雅一(おおがき・まさかず)にぶつけた。

 視界の利かない真っ暗な廊下は男の姿を包み隠す。

 潤を追うためにも、黒ずくめの大垣を相手にするにしても、廊下に留まっているのは危険に思えた。

 

「……邪魔をするな」

 

 大垣のゆっくりとした声。有紗は大垣の殺気が増すのを感じた。

 様々な感情のこもった声に、有紗は気迫負けしそうであった。

 

「アンタ、そんな力得て嬉しいの? それでオリンピックでも出る気?

 私はね。こんな力いらない。元の体に戻れるなら今すぐ戻してほしい。

 でもね。戻せないの。過ぎた時間は戻らないの。

 私がこんな体になったのも、MBADになったのも」

 

 悔しさに涙腺が緩む。それでも涙なんてとうの昔に枯れている。

 有紗は胸苦しさに耐え言葉を紡いだ。

 

「私は後悔していない」

 

 大垣は断言する。

 明瞭なる意思。有紗とは意見が交わらぬその意思を、大垣は何一つ恥じることはない。

 

「アンタは! 私はね!」

 

 有紗は感情を吐き捨てる。その思いのまま大垣に殴りかかった。

 何の策もない。真っ正面から怒りを拳に乗せて。

 

 もし拳に想いが宿るなら、その力は有紗の人生を込めたものだった。

 有紗の戦い。幼き日に病気を患い、父親に捨てられた生きる戦いの人生。

 今でも有紗はMBADの呪縛と戦い続けているのだ。

 

 拳を通して体中に衝撃が走る。

 全力の突きの威力が自身の体を蝕む。その拳が止められたのなら尚更だった。

 

 大垣は両手のひらを重ね、真っ正面から有紗の拳を受け止めていた。

 有紗の拳骨に柔らかい感触が返ってくる。突きを受けた大垣の指骨が砕けたのだ。

 有紗の全力を受け止めた代償だった。

 

 人間の手ではあり得ない剛性を失った大垣の手の感触に、有紗は慌てて飛び退いた。

 自らが砕いておきながらその結果に嫌悪感を覚えずにはいられない。

 

「……どうして?」

 

 昼に大垣と手合わせした有紗には分かった、大垣がわざと避けなかったことが。

 大垣は無事では済まないのを覚悟で有紗の全力の突きを受けたのだ。

 

「お前はMBADを憎んでいるのだろ? ならば同志になれ、正菱有紗!」

 

 大垣は有紗が予想だにしないことを言う。

 敵視している人間から仲間になれと言われて有紗は思考が停止した。

 

「私は!」

 

 有紗は叫びで返す。だか、それを遮るように大垣は続ける。

 

「お前は間違っている。

 たとえどんな扱いを受けたとしても、死ぬはずだったお前を生かしているのはあの研究のお陰だ」

 

「アンタも同じこと言うのね……。罪を憎んで人を憎むなとでも言いたいわけ?」

 

「いや、憎むべきはMBADという病だ。

 だからこそ、我々はMBADを根絶する為に動いているんだ」

 

 大垣の主張は正論だった。客観的に考えれば大垣の方が正しい。有紗にもそれは理解出来た。

 しかし、有紗は機械ではない。感情という自我を持ち、思いという心がある。

 主観を捨て、論理だけで生きるなんてことは出来はしない。

 

「その為に私たちがどれだけ犠牲になったか!

 あの実験がどれだけ私たちを苦しめたか!」

 

 有紗は今でも思い出す。あの病棟の記憶。孤独、寒さ、絶望、つらさ、苦痛、切なさ……。

 いろんな感情が十年経った今でも有紗の中に渦巻いている。

 

「犠牲は我々だけでいい。そうだろう?」

 

 それは静かな声だった。

 まるで地中深く眠る地底湖の水面のように静かで雄大な。その大垣の声に有紗は完全に飲まれてしまった。

 

「犠牲……我々? アンタ……MBADなの?」

 

 有紗は勘違いしていた。黒川の補佐をしているので大垣は黒川側の人間だと思っていた。

 だから有紗と同じ馬鹿力が使えるのは、十年前の実験病棟での研究成果を元に、そういう風に体を改造したのだと思っていた。

 

 違ったのだ。大垣という男は有紗と同じようにMBADを患い、その治療の副作用で筋肉制御異常の体になったのだ。

 それこそ有紗と大垣は同じ立場の人間なのだ。

 

「アンタ、どうして黒川の手伝いなんかしてるのよ?」

 

「正菱有紗、お前も柚山潤も特殊なんだよ。

 お前はMBADは過去のもので、今は普通に暮らしたいと思っているのだろう?」

 

「私たちが普通の生活の望むのがそんなにいけない?」

 

 悲痛な訴え。有紗は何者にも遮られない極々普通の日常を欲していた。

 家族がいて、友達がいて、未来に多少の不安を抱えながらも明日があることを信じて疑わない普通の人生。

 MBADになった瞬間に失われたものを有紗は取り戻したいだけなのだ。

 

「ああ、妬ましいよ。そう割り切れる体は」

 

 そんな有紗を大垣は羨ましく思っている。

 有紗にはあって、大垣にはないものがあるのだ。

 

「何? どういう意味よ?」

 

 有紗は困惑するばかり。大垣という存在が有紗の存在を揺り動かす。

 

「お前は現実を知らなさすぎる!」

 

 突然、大垣が拳を振るってきた。強烈な踏み込みから突き上げるようなボディーブロー。

 まだ間合いの外にいると思っていた有紗は不意をつかれ、回避は間に合わない。

 

 有紗の体が1mは浮く。両手でガードはしたが、昼に痛めた肋骨が強烈に痛み出す。

 着地を果たしても、その衝撃に有紗は咳き込まずにはいられない。

 

「もう一度言う。我々の仲間になれ!」

 

 大垣の最後通告だった。

 胸の痛みに苦しむ有紗に非情の目が向けられる。そして一歩、また一歩と歩み寄ってくる。

 有紗はその歩みが止まるときが殺されるときなんだと悟っていた。

 

「大垣って言ったわね……。

 人にはね、死んでも譲れないものがあるの。

 私はね、人間よ。決してモルモットなんかじゃない!」

 

 有紗は痛みに耐え、なんとか空気を肺に送って声を出す。

 スッキリした。有紗は自らの思いを口に出来て満足だった。

 もしこの場で殺されようと、主義を曲げて生き恥をさらすよりはいい。

 

 有紗の覚悟を知って大垣の目が変わった。

 その目に意思は感じられない。これから有紗を処分しようとする機械の目。

 有紗が来ると感じた瞬間、そのワンテンポ前に大垣が動いていた。

 

 一瞬の交錯。有紗は肩口に熱さを感じる。大垣が伸ばした手が有紗の左肩に掛かっていた。

 顔と胴を守るのに精一杯の有紗は、狙いを外され為すがままだった。

 

 大垣の握力は有紗の手首が身を以て知っていた。

 何とか振り解こうと藻掻いてみたが、ガッチリと掴まれた肩は、そのグリップをずらすことすら叶わない。

 既に昼からのダメージの蓄積した有紗は、有効な反撃が何一つ出来なかった。

 

「ああああぁあっぁぁぁぁぁ!」

 

 有紗の悲鳴。大垣の指が有紗の肩に食い込んでいく。

 空いた大垣の左手は先程有紗が砕いている。右手一本の大垣に屈するわけにはいかない。

 引き剥がそうと、大垣の腕を掴み返すが有紗の力をもってしてもビクともしなかった。

 

 その間も、有紗は肩を締め上げる痛みに耐え続けていた。

 大垣がゆっくりと有紗の体を持ち上げた。掴まれた肩に有紗の全体重がかかり、更に激痛と増す。

 

「いああぁぁあぁっ!」

 

 痛恨の悲鳴。有紗はあまりの痛みに意識がとんでしまいそうだった。

 そして、有紗の悲鳴も徐々に力を失っていった。

 

 それは拷問だった。

 肩を握り潰すという単純な行為は、筋肉の潜在能力を100%使うことにより効率的な破壊行為に変わっていた。

 

 圧壊により有紗の肩組織が死んでいく。

 血流は留まり、体機能の損壊を神経が訴え続ける。

 

 大垣の馬鹿力も持続性がないはず。同種の体を持つ有紗にはそれは分かっていた。

 だから、耐えれば大垣の手の筋肉も疲労を溜め、動かなくなる。それを希望に有紗は痛みに耐え続けた。

 

 一体何分それが続いたのだろう。有紗の希望的観測は完全に裏切られ、有紗の肉体に苦痛を与え続けている。

 有紗も浮いた体で反抗を続けていたが、大垣に反撃を試みる度、力の反作用で自らの肩へのダメージが増していった。

 そして、既に肩が壊死したかと思うほど、大垣の指は有紗の左肩に食い込んでいた。

 

 いつの間にか有紗の反撃の手が止まっていた。

 痛みのあまり、意識が朦朧としているのだ。どうせならさっさと殺してくれた方が楽なのに。

 そんな考えが浮かぶほど有紗は弱っていた。

 

「大垣、止めろ」

 

 どこからともなく声が聞こえてきた。

 有紗がその声の主が黒川だと気付いたのは、体が地上に降ろされ、大垣の手が肩から離れた後だった。

 

 有紗の思考が正常に働くまで回復したときには、二人の横に黒川が立っていた。

 有紗は痛みを訴え続ける肩を抱えながら、やっとのことで立ち上がり、現れた黒川を見据えた。

 

「どうして……止めたの? 私を助けるつもり?」

 

 荒い息を続ける有紗がひねり出した声に、黒川は興味を示さず、大垣の方を見た。

 

「大垣、よくやった。ただ、少しやりすぎだ。障害が残ったらどうする」

 

「すいません。あまりに強情だったもので」

 

 妙に素直な大垣の様子に有紗は訝しげに思った。

 先程まで有紗に向け発していた大垣の殺気はどこにもなかった。

 

「強情なところは親譲りか……」

 

 呆れた声で黒川が言う。

 

「ちょっと聞いてるの!」

 

 無視された有紗が声を上げた。

 それに仕様がないといった様子で黒川が有紗の方を向く。

 

「なんだ、元気そうだな」

 

「どうして私を助けたのよ!」

 

 敵対している黒川の制止で大垣から解放されたのが、有紗には悔しくて仕方がなかった。

 

「はは、お陰で藤堂の協力が得られそうだ。礼を言う」

 

「なっ」

 

 有紗は驚きの声を上げた。それに黒川は満足げな表情を見せる。

 

「約束は守れよ。藤堂」

 

「分かっています。私から言い出した交換条件ですから」

 

 黒川の後方、黒洞々とした暗闇の中から声が聞こえてきる。

 そして月明かりの下に柚山潤が現れた。いやその口調は柚山潤の交代人格の一人である藤堂作弥のものだった。

 

「しかし、なかなか複雑だよ。私が頭を下げても、脅しても全く出てこなかった藤堂が、君の悲鳴一つで現れるなんて、全く君は愛されているんだな」

 

「えっ……」

 

 黒川の言葉が意味するところを知り、有紗は頬を染めた。

 黒川に協力することを嫌い作弥を出さなかったジュンが、有紗の危機を知り作弥を出して有紗を助けるように交渉したのだ。

 

 ジュンの意図を知り、気恥ずかしさの中で有紗が柚山潤を見れば、何事もなかったかのように飄々とした表情だった。

 

「久しぶりですね。悠木有紗」

 

 毎日潤と会う有紗でも、作弥と会うのは数年ぶりだった。

 普段作弥は有紗に会いたがらない人格なのだ。

 恐らく実験病棟の件で負い目があるからだろう。

 有紗と一緒でない時に限って希に現れて、古書店や大学に行っているという噂は聞いていた。

 

「アンタって人は……」

 

 有紗も言いたいことはたくさんあったが、有紗の所為で黒川に協力すると約束させてしまった状況下では、何も言うことが出来なかった。

 

「さて藤堂作弥。約束通り、有紗の安否は確保した。我々について来てもらおうか」

 

「約束通り……ですか。確かに交換条件は交わしましたが、やり方は褒められたものじゃありませんね。

 元々、悠木有紗に危害を加えるつもりはなかったのでしょう?」

 

「当たり前だ」

 

 黒川はさも当然というように即答した。

 

「芝居と分かっていても、悠木有紗の悲鳴を聞けば柚山ジュンが動かないわけない。そう読みましたか」

 

 藤堂作弥という人格は柚山潤の交代人格の中でも異端な存在だった。

 いつどの人格が現れるか自ら意図的に操作出来ない他人格とは異なり、藤堂作弥の意思で現れることが出来る。

 そして、他の人格の経験記憶も共有しているのだ。そうある必要性をもった人格なのである。

 

「なかなか迫真の演技だったろ」

 

 黒川はこともなげに言う。それに大垣も無意識に首肯した。

 

「ちょっと待ってよ。演技って何よ!」

 

 堪らず有紗が声を上げる。

 

「全てですよ、悠木有紗。今日あったこと、全てが彼ら二人の仕組んだ芝居だったのです」

 

 作弥は両手の平を天に向け外国人の用に身をすくて、全く呆れたことですと付け足した。

 

「そんなに私に出てきて欲しかったのですか?」

 

 作弥は三白眼を黒川に向ける。言葉尻は丁寧であったが、明らかな不快感を表していた。

 

「我々は君の力が必要なんだ。さぁ、来てもらおう」

 

 そう言うと黒川と大垣は廃病院の奥へと消えていく。

 その態度は作弥が交換条件を無視して逃げ出すことなど考えてもいない風だった。

 

 よくもまぁそこまで信用されているものだと、作弥は苦笑するしかなかった。

 実際、自ら出した交換条件を反故にするなど、作弥の主義に反するのは確かだ。

 作弥は素直に黒川たちの後に従う。

 

「作弥! アンタ何考えてるの?」

 

 何の抵抗も見せず黒川に従う作弥を見て、有紗が声を上げる。

 

「ついて来いと言われれば、ついて行くか行かないかの二択ですよ?

 別に難解な話ではないと思いますが? 貴方は来ないのですか?」

 

 作弥の鼻につく言いよう。

 それでこそ藤堂作弥であると言いたい所であるが、先程まで柚山潤を守る為、身を賭して戦っていた有紗には簡単に割り切れるはずがない。

 

「ちょっと、待ちなさいよ! 私も行くわよ!

 それより芝居って何よ!

 危害を加えないって十分加えてるじゃない。

 私痛かったのよ、死ぬほど痛かったのよ。

 ちょっとアンタたち聞いてるの!」

 

 いくら大声で文句をつけようとも、有紗に答える人間はいなかった。

 

 全員が病院の奥に溶けるように消えていく。

 そこにあるのはやはり闇。四人の足音が冷たいコンクリートに残響となって消えていく。

 月明かりに舞う埃のきらめきだけが残り、誰もいない廃墟の病院へと立ち戻る。

 

 その奥にある物、これから向かう先を有紗は知っていた。柚山潤も本当は知っている。

 十年という月日を経て、二人は帰ってきた。その場所は二人を暖かく出迎えてくれるのだろうか?

 

 そんなことはあり得ない。あの場所が暖かいなんてあり得ない。

 孤独と絶望が渦巻いたあの場所は、いつだって冷たく苦しいものだった。

 

 柚山潤と悠木有紗は帰ってきたのだ。

 二人の第二の故郷、悲しき『実験病棟』に。

 

 

 

 

 

 

(第12章につづく)

説明
 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

 僕は運命なんて信じない。
 信じられるわけがない。
 ただ、信じられるものは、彼女と僕の……。
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