『やまない微熱』第1章その2
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 遠くに聞こえる静かな喧騒に私は目を覚ました。

 金属バットの響き。ランニングの号令。部活動の音。

 普通の学校の普通の音。それは健康である証の音。

 

 私は拳を握り締め、体を起こす。嫌な寝汗が肌にまとわりついていた。

 全く爽快さの欠片もない目覚めです。

 

 どうやら今は放課後、私は二時間ほど眠っていたようです。

 

「由利先生?」

 

 私の声に返事はなく、保健室に人の気配はなかった。

 私が保健室に来るなんていつものこと。

 この部屋の主である由利先生も、私に付きっきりというわけにもいきません。

 それもいつものことです。

 私は制服の乱れを直して保健室を出た。

 

 廊下は弱い西日で包まれていた。

 セピア色の斜陽。綺麗で儚い色。まるで私みたい……。

 

 それでは、まるで私が自分を綺麗って言ってるみたいに聞こえてしまう。

 自画自賛なんて反吐が出ます。

 己への陶酔など、私に最も縁遠いもの。血を吐き散らす私が綺麗なもんか。

 私は今も昔も死相にまみれた生き物だ。

 

 私の足は職員室に向いていた。

 誰か先生に帰ることを伝えないといけません。

 

 人気のない冷たい空気が漂うの廊下。

 そいういうの、嫌いではありません。

 そこは私を邪魔する存在がいないたった一人の舞台。

 私が歩けば足音を響かせ、私が止まれば何事もなかったように沈黙を守る。

 私が支配する私の世界。

 誰もいない学校の廊下は、そんな気さえ起こさせる。

 

 足取りは悪くない。体が異常に重いというわけでもない。

 目覚めこそ良くありませんでしたが、しばらく寝たおかげで体調は好転したようです。

 

 『……大丈夫。……大丈夫』私は私に言い聞かせる。私の体に言い聞かせる。

 さっきはちょっと血を吐いただけ。そんなの、いつものこと。

 

 誰ともすれ違うこともなく、職員室に辿り着く。

 それが妙に誇らしかった。

 私は何を言っているのでしょう。

 誰とも会わないことが心地よいなんて、何たる傲慢。

 私の命は多くの人の支えで保たれているのに……。

 

 職員室の扉を前にして私は気合いを入れる。

 職員室に誰がいるのかはわからないけど、一仕事あるのは間違いありません。

 

「失礼します」

 

 私は声を張り上げ扉を開けた。

 そうしないと私の脆弱な肺活量では、

 空耳と間違われても仕方がない弱々しいだけの声になってしまうのです。

 

 職員室は静かだった。放課後特有の空虚な空気が漂う。

 教師のほとんどは用事に走り回っているのでしょう。

 職員室には三人の教師が黙々と事務作業を行っていた。

 授業の資料作りか、報告書でも書いているのかもしれません。

 何にしろ教師が長時間勤務のきつい仕事であることは、世話をかける身としてよく知っていた。

 

「おお、また血、吐いたらしいな」

 

 にやけた口調で、一人の男性教師が私の声をかけてきた。

 その口調は私の体調をいたわる気持ちが欠片もありません。

 でも、私はそれに嫌悪感を抱くことはないのです。

 

 それは慣れみたいなもの。

 人の不幸を面白がる人なんて、世の中にごまんといる。

 そんな人が教師にいないなんて保証はどこにもありません。

 残念なことですが、非情で優しくないのがこの世の中だと私は知っています。

 

 私に声をかけてきたのは、確か三年の進路指導を受け持っている衣川〈きぬがわ〉という教師だった、と思う。

 一年以上籍を置く学校ながら、直接関わりのない教師の名前には自信がありません。

 逆に私のことは、全ての教師が把握しているのでしょう。

 なにせ私は超弩級のブラックリスト入りしている生徒なのだから。

 

「あの……。由利先生は?」

 

 私は衣川先生に保健室にいなかった由利先生の所在を聞いた。

 

「ああ、何か研修があるとかで出掛けたぞ。楠木〈くすのき〉先生は代わりにいなかったか?」

 

「楠木先生? ……またタバコですね」

 

 大学出たての新米教師である楠木先生。新人らしく、よく仕事を押しつけられている人。

 当然、私の世話も同様で、養護教諭の由利先生の次に顔なじみの先生です。

 私にはよくわからないけど、顔は結構いいらしく、女子の間ではかなり人気があります。

 私は頴田君の方がカッコイイと思うんだけどなぁ。

 

「あのアホ。職員室以外では吸うなって、言ってるのに」

 

 別にいいじゃないですか。私は喉まで出かかったそんな言葉を飲み込んだ。

 さすがに進路指導の教師に向かって言う言葉ではありません。

 

 副流煙を垂れ流されては、肺の弱い私も困りますが、

 私と関係ないところで吸ってもらう分には、どうでもいいんです。

 

 いえ、むしろ羨ましいと思う。たとえ二十歳になろうとも、私の肺ではタバコの煙には耐えられないでしょう。

 そもそも、私は二十歳まで生きられるのかさえもわからないのです。

 

「先生。私、もう帰ります」

 

「そうか、大丈夫なのか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

 私は無理矢理に笑みを浮かべる。

 少しでも弱い所を見せると、家に送られるか、病院に強制連行されるのは目に見えています。

 だから私は、出来る限りに笑顔を作る。

 精一杯の微笑みを。それが私を一番疲れさせる。

 

「……車に気をつけて帰れよ」

 

 衣川先生の心配は、交通事故なんかじゃない。

 「下校途中に倒れるなよ」「死ぬな、学校に迷惑がかかる」

 そんな心配なんです。

 

 そんなこと、重々承知しています。

 だからこそ、私は家に帰るまで絶対死ねないのです。

 

 私は形式だけの返事をして職員室を後にする。

 

 職員室の空気は嫌い。

 そんな思いが浮かぶと、私も一端に生徒してるんだと思える。

 そんな当たり前のことが嬉しい。

 

 やっぱり、私って変わってるのかな?

 

 

 

 

 

(第1章の3につづく)

説明
幾度となく血を吐き捨てる私。
いつに死ぬともわからぬ私。
惨めに死を待つしかない私。
そんな私でも恋をした。
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