真・恋姫無双 〜美麗縦横、新説演義〜 第三章 蒼天崩落 第十三話 開幕の朝 |
人には、平等なモノが一つだけある。
死。
生命の終端は誰にでも平等に訪れ、全てに等しく無を与える。
永久の離別を。
久遠の決別を。
無慈悲に、無情に、ただ虚しく、等しく。
世に祝福を以て与えられながら、その最期は余りにも無情。
だから、人は生き続ける事を希う。
永遠の生を。
永久の命を。
無意味と知りながら、無駄と悟りながら、それでも。
醜く、浅ましくも求め続ける。
―――下らない
永遠?
久遠?
それ程長く生き続けて、一体何をしたい?
失い、欠けていく者は幾多もあれど、戻る者など誰一人いないというのに。
切っ先が日の光を浴び、鋭い閃光を放った。
微動だにしないその剣は優男の首筋に添えられ、僅かに身動ぎでもすれば即座に斬り落とさんばかりに柄を握る青年は、男の眼鏡の内に潜む野心的な眼を射抜いた。
「…………」
静寂の帳が支配する玉殿にあって、その二人は異質であった。
いずれも――『この世界』の住人が知る由もないが――祝福を以てして生まれ落ちた命に非ぬ存在。
永遠と刹那の狭間を彷徨い続ける『管理者』と、それの興として生み出された『駒』。
「……今更」
駒―――司馬懿はギロリと、その凍てつく様な瞳を向けて男を睨んだ。
「今更、『管理者』たる貴様が何用だ?」
管理者と呼ばれた男―――于吉はしかし、首筋に添えられた凶刃を意に介した様子もなくニヤリと笑んだ。
心の底からの侮蔑と、嘲笑を含んだ笑みである。
「そう苛立たない方が宜しいのでは?貴方に私は殺せないでしょう?」
「黙れ」
抑揚のない、何処までも平淡な声音。
だがその言の葉はそれだけで人を切り刻めそうな程に鋭く、冷たい。
「僕は何故この局面で貴様が『介入』したのかと問うている」
『管理者』である彼らが介入するのは、その『外史』の筋書きを書き変えた時だけ。
始点である北郷一刀に自分達と云う『存在』を認識させる為。
或いはその『外史』の筋道を変更し、よりその世界を彼らにとって愉快にする為。
「筋道を変える訳でも、一刀に自分達を認識させる訳でもないというのに、何をしに来た?」
「―――今日は貴方に良い知らせを持ってきたのですよ」
僅かに剣の切っ先が揺れた。
それを見過ごす事無く、于吉は再び笑む。
「『この外史』における貴方という『存在』の大きさは、此方の想定した以上のものとなってしまいました。北郷一刀は勿論の事、程cや曹操……それに諸葛亮」
最後の名前に、司馬懿の瞳が静かに動いた。
「他の『役者』はともあれ、始点である『彼』がそれを望んでしまい、この『外史』は少々面倒な事になり始めました」
「……?」
「この『外史』で消えていった魂魄が今、回帰しつつあるのですよ」
その言葉に、司馬懿の目が明らかに見開かれた。
「貴方の屠った命が、貴方の奪われた存在の全てが、です。……どういう意味か、お分かりでしょう?」
「…………黙れ」
静かに呟く。
しかし聞こえていないのか、于吉はただ吐いた。
「全てが夢であったかの様に『やり直して』もう一度始まろうと……」
「―――黙れッ!!!」
苛立った様にして、司馬懿が叫んだ。
だが于吉は心外だ、とでも言わんばかりに鼻を鳴らした。
「何を怒っているんですか?貴方の望んだ通りではないですか?」
「煩い……」
「『みんな仲良く』『何時までも一緒で』『誰も死なない、傷つかない』世界が築かれようとしているんですよ?」
「煩い……!」
「貴方の失った繋がりも、絆も、全てが取り戻せるというのに―――」
「煩い!!煩い!!!煩い!!!」
于吉の言葉を遮る様にして司馬懿は叫ぶ。
彼の言葉の全てを拒絶するかの様に、ただ癇癪を起した童子の様に叫んだ。
だが対して、于吉は酷く冷淡だった。
「―――怖いのでしょう?」
「ッ!?」
ブルッ、と司馬懿の肩が震えた。
「また傷つけてしまうのではないか。また裏切ってしまうのではないか。また失ってしまうのではないか。それが怖くて、恐くて堪らないのでしょう?」
「黙れ……それ以上、口を開くな!!」
震えを押し殺した様な声音で司馬懿が叫ぶ。
だが于吉には、それが虚勢である事など即座に見抜けた。
「愛した人を、好いた人を泣かせてしまうのが恐い。
信じた友を、頼った友を傷つけてしまうのが恐い。
望んだ願いを、祈った想いを壊してしまうのが恐い。
そして何より――――――友を殺した己が幸せに浸るのが、恐い」
カラン、と音を立てて、司馬懿の手から剣が零れ落ちた。
息は荒く肩は震え、手先は蒼白く染まり顔から色が失せていく。頬を幾筋もの冷や汗と涙が伝い、口から嗚咽が漏れ出しかける。
「自分は罪人だから幸せになってはいけない。
自分は在ってはならぬ存在なのだから居てはいけない。
自分は生きてはならぬ命なのだから永らえてはいけない。
自分を責め、傷つけ、殺して、そうやって貴方は『貴方』を演じてきた」
力なく、司馬懿の膝が床に着く。
歯がガチガチと音を立てて震え、己の身体を抱き締める様にして司馬懿は自身の肩を抱いた。
「その全てが誰でもない『親友』とまで呼んだ男に否定されてしまうのが、恐い」
「あ、あ…………ッ!!」
一歩一歩于吉が歩み寄る。
その肩に手を置き、耳元に口を近づけて囁いた。
「何より――――――」
「や、め……!」
「それを受け入れようとしている自分が、恐い」
「卑怯で、卑劣で、醜く、浅ましく、誰よりも欲気を嫌いながら人一倍強欲な自分と云う存在が己に内包しているのが恐い」
だから遠ざけた。
だから傷つけた。
自分を守る為だけに。
「友の願いも守れず、愛した女一人救えないのに、誰よりも一番生き永らえてしまった自分が許せない。だというのに彼らはそれを憎みも怨みもしない」
全てを受け入れてくれると初めから知っていたから。
その情に甘え、優しさに巣食ってのうのうと。
「いくつもの命を蝕み、喰らい、数え切れぬ程の罪を重ねながら。友の願いに実は誰よりも近い存在であり、最も在ってはならぬ存在でありながら」
私は生き続けた。
一刀の願いを、華琳様の望みを、朱里の祈りを。
全てを踏み躙り、壊しておきながら、自分だけが。
「―――貴方は卑怯だ」
私は、卑怯だ。
誰よりも平穏を傷つける存在であった自分を知りながら、自分は平穏を望んでいると謳う。
誰よりも幸せを渇望しておきながら、いざ掌中にありかければそれを畏れる。
今度は自分が、嘗て己がしてきた様に奪われるのではないかと。
「この―――裏切り者」
卑劣漢。
簒奪者。
裏切り者。
何もかもが真実。
だというのに、私はそれを拒んだ。拒絶した。
違うと。
自分はそうではないと、屁理屈を捏ねた。
力ずくで捩じ伏せて己を正当化し、弱者を踏み躙って奴らこそが悪であると罵った。
それは全て一刀の願いを叶える為だと、自分に言い訳して。
そんな事を彼は望んでいないと知りながら。こんな醜い天下が彼の理想で在る筈がないと知りながら。
―――私はただ、私が信じた者に見捨てられるのが恐かった。
謗られるのが、嫌われるのが、只恐かった。
もう傍らに誰もいないというのに、何かに取り憑かれた様に私は殺し続けた。
主を、同朋を、民草を。
ありとあらゆる、私と云う存在を拒む存在を喰らい尽くした。
―――けど、世界が変わった時。
新たな外史に生まれ落ちた時、私はその罪の全てから解放されたのだと思った。
もう苦しまなくて良い。
傷つかなくていいんだと思った。
―――浅ましく、愚かしく。
全てが戻った時、私は己を呪った。
何故こんな真似をしたのだと。
そして誓った。
今度こそ変えてみせると。
このふざけた顛末を、今度こそと。
―――醜く、汚らわしく。
幾度、それを繰り返したか。
気がつけば、私はただ淡々と『外史』を滅ぼすだけの『駒』と成り下がっていた。
何度変えようとしても、誰かを失って。
そうして一つ一つ欠けていき、最後は全てを失った。
「―――私が、解放してあげましょう」
于吉は、ただ呟いた。
目の前で崩れ落ちた彼の耳元で、悪魔の様に歪んだ笑みを浮かべて。
「貴方の意識を、記憶を、全てを忘却し元々の『駒』に戻してあげましょう。そうすれば、『貴方』はもう苦しまない。傷つかない」
司馬懿は答えない。
答え様もない。
既に于吉はその意識への介入を始め、彼を再び己の『駒』へと変じかけているのだから。
「ただ『敵』役を演じるだけの『駒』として、一切の情を消して差し上げます。貴方を苦しめる存在を消し去り、貴方が幸福であれる存在だけを残して。貴方だけの理想郷へと『貴方』をお連れしますよ」
異なる外史へ。
彼が日向となれる筋書きの世界へ。
『管理者』たる自分だから出来る、と吟じた于吉は、スウッと手を伸ばした。
「………………」
司馬懿の反応はない。
行ける、と于吉は踏んだ。
この外史における、最後にして最大の鬼札(ジョーカー)たる彼を掌中に収めれば、今度こそ―――
「さぁ、お行きなさい。夢の彼方へ」
司馬懿へと向けて伸びゆく手は、やがて――――――
「………………ん」
「お、目が覚めたか?仲達」
穏やかな日差しが、うっすらと開きかけた瞼に差し込む。
僅かに身を捩り声を零すと、聞き慣れた友の声音が耳を打った。
「……一刀?」
「珍しいな。仕事中毒のお前が休憩時間過ぎている事に気づかなかったなんて」
少し悪戯めいた様な、そんな緩やかな笑みを湛えて彼は笑った。
「今日は早めに片付けようぜ。何しろ今夜から三日三晩、夜通しでお祭り騒ぎになるんだから」
「……お祭り?」
「そうだよ」
座っていた草場から腰を上げて、一刀は大きく伸びをしながら口を開いた。
「何しろ、三国同盟締結の祝賀会なんだ。しかも今回は許昌一帯を丸々会場にしたっていうから、準備も大変だっただろ?俺もあっちこっち駆り出されたしなぁ……」
「…………あぁ、そして華琳様の睨みが効いていない事を良い事にあちこちの将と交わって色欲を十二分に堪能したと」
「そうそう、特に紫苑さんとか桔梗さんは……ってちょっ!?どうして知ってるの!?」
「……半分適当に云ったつもりだったのだが図星とは」
嘆かわしい、とでも言いたげに僕はかぶりを振った。
声を潜めて、一刀は顔を寄せる。
「ち、ちなみに華琳とかには…………」
「五分も憶測の話を公言するのは馬鹿の仕事だ。九分九厘の確信がなければ華琳様には進言しないというのが僕のやり方という事くらい、君も知っているだろう?」
言って、笑ってやった。
そうすると、一刀は苦虫を噛み潰したのか、してやられた様な顔をした。
「お前なぁ…………」
「ふふっ、まぁ華琳様なら大方の予測は自身でつけておられるだろうよ。閨は精々覚悟しておけと忠告しておくぞ、一刀?」
「―――だったらお前も、このお祭りの間は覚悟しておいた方がいいんじゃないか?」
つと、一刀がニヤリと笑んだ。
その意図する所が読めず、僕は首を傾げた。
「覚悟?何をだ?」
「そりゃぁ、青藍とか紅爛とか風とか、それに蜀軍が来るんだったら孔明ちゃんとか」
「………………はぁ?」
何を言いたいんだ、この男は。
そんな胸中の呟きを察したのか、一刀はこれまた悪戯好きな悪童の様に笑んだ。
「身持ちが固いというか、そういうのに一番興味無さそうだったのに……何時の間にそんなに仲良くしてたんだよ?」
「……さっきから、何の話だ?」
「いや、だってみんな仲達の『コレ』だろ?」
言って、一刀は小指を立てた。
そこに至り、漸く彼の意図する所が読めた僕は大きく嘆息を洩らす。
「あのなぁ、別に青藍や紅爛や風や朱里はそういう相手じゃ……」
「だーいじょうぶだって!仲達ならみんな幸せに出来るよ」
だからそういう話をしている訳じゃないだろう。
というか、どうしてそんな根拠もない自信に満ち溢れているんだ君は。
「仲達は今まで頑張り過ぎたんだって。ここら辺で少し落ち着いて、のんびり華琳の治世を噛み締めたって罰は当たらないと思うよ?」
そこで、ほんの一瞬だけだったが、一刀が遠い目をした。
その表情は、しかし直ぐに掻き消えて、僕に手を差し伸べて一刀は言った。
「―――行こう、仲達。みんなが待ってる」
その世界は、とても優しい。
一刀も、華琳様も、風も、朱里も。
みんな笑顔で、優しくて、朗らかで、温かくて。
「月、このお皿は此処でいいの?」
「あ、詠ちゃん……それはあっちだよ」
誰も死なない。
「んぐ……んぐ……美味しい」
「恋どのーっ!こちらにも沢山ありますぞーっ!!」
誰も傷つかない。
「あいしゃぁ!きょんじょきょそしょうぶらぁ!!」
「…………姉者、それは石像だが」
「にゃにおぅ!?まけにゅぞぉ!!」
「……いや、何故酒瓶に向かって闘志を燃やしているのだお主は?」
誰も争わない。
皆が幸せで、幸福な世界。
ずっとずっと僕が夢見てきた、焦れてきた世界。
「…………ふぅ」
宴席を離れ、小川の畔へと足を運んだ。
静かな川のせせらぎが鼓膜を震わせ、水面に映る月は撫でる様に吹く風に揺れキラキラとその光を輝かせる。
「やはり、騒がしいのはあまり好きじゃないな…………」
昔から、騒々しい空間というのはどうにも落ち着かなかった。
こうして夜闇の帳と、月の光と、静かな音が支配する空間の方が、やはり僕には心地よかった。
「ん…………中々」
何時だったか、一刀にも分けた自作の酒を杯に満たし、一気に呷った。
あの時より幾分か洗練され、より美味を増した液が喉を潤し、少しばかりの刺激が鼻を抜けて脳を小突いた。
そうして、誰彼となく笑みが零れた。
何を面白く感じたのかも分からない。
けれど、何となく笑いたい気分だった。
自然と浮かんだそんな感情を、そのままに表現して笑う。
人として自然の摂理であるそんな行為すら、僕にしてみれば酷く懐かしい。
どれくらいの時が経ったのだろうか。
一刻程経ったのだろうか。
それとも、四半刻も過ぎていないのだろうか。
街の賑わいは未だ治まらず、少し目を向ければその灯は煌々と照り、やや離れているにも関わらずその喧騒がすぐ傍にある様な錯覚に陥る。
時が経つ事を忘れ、その場に留まっているかの様に。けれどそんな風に、永遠にこの幸せが続けばいい。
そんな風に、思えた。
「…………仲達くん」
鼓膜を、聞く事すら懐かしい声音が揺さぶる。
未だ少しの幼さを残し、しかし最後に聞いた時よりは余程大人びた声音で。
「……どうした?朱里」
朱里が、静かにそこに立っていた。
「仲達くんこそ、どうしたんですか?まだ宴は途中ですよ?」
「騒がしいのは好きじゃないんだ。そういう君はいいのか?」
「私も仲達くんと一緒です」
言って、朱里は僕の隣に腰かけた。
「それに……仲達くんの傍にいたかったので」
鼻孔の奥に甘い薫りが擽った。
咲き掛けの花弁の様に幼く、しかし乙女らしい艶やかさを思わせる薫りが嗅覚を衝いた。
「そうか…………」
何と返したものか、返答に窮した曖昧な言葉が口をついて出る。
だが僕のそんな言動にも朱里は慣れたもので、取り立てて不快に思った訳でもないのかクスリと笑みを一つ浮かべて空を見た。
満天の星空に無数の輝きがあり、煌々と大地を照らす月は酷く大きい。
「綺麗な空ですね…………」
「ああ……」
上体を仰向けに倒して見上げてみると、全身が夜の空に包まれている様な感覚を覚えた。
「……もう」
「…………?」
「そこは御世辞でも良いから『君の方が綺麗だよ』とか言って欲しかったです」
むぅ、と拗ねた様な口調で朱里は笑んだ。
「今更解りきった事を言う必要があるのか?」
「…………」
「どうして押し黙る」
「ふぇ!?い、いえ……その、急にバッサリいうものですから、つい」
「面食らったか」
笑いながら言うと、朱里は脹れっ面を浮かべた。
「仲達くん」
咎める様な口調になった。
昔から癖になりつつあるお姉さんぶりなこの言動が、しかし実の所僕は嫌いじゃない。
背伸びしているみたいで、可愛いく思えて仕方ないのだ。
「女の子は凄く繊細なんですよ?だからそういう事は偶には言ってあげないと、どう思われているか不安になっちゃうんです」
「必要以上に媚を売ってやる必要はないし、『偶に』なら言っているだろう」
「回数の問題じゃありません」
じゃあどういう問題なんだ、と問いたいが、黙っておいた。
とても懐かしく思えるこんなやり取りが、愛おしいから。
だからだろう。
「仲達くん!」
「どうした?」
「笑ってないで、真面目に聞いて下さい!」
気がつくと、頬はどうしようもないくらいに緩んでいた。
―――嗚呼、もう駄目だ。
「朱里」
「……何ですか?」
少し不貞腐れている様なその横顔に、
「愛してる」
そっと、唇を触れた。
「……ッ!?」
数瞬置いて、朱里の顔が面白いくらい真っ赤に染まった。
耳まで赤々と、それこそ暗がりでもはっきり分かるであろう程に赤く染まる。
「ちゅ、仲達くん!?」
「朱里」
そっと名前を紡ぐ。
それだけで、心がこれ以上ない程に満たされる。
「ふぁっ!?」
「朱里」
その小さな体躯を抱き寄せる。
全身に感じる温もりが、これ以上ないくらいに愛おしい。
「も、もうっ!仲達くん!!」
「朱里」
瞳を見つめあう。
目に映る彼女の全てが、大切で仕方なくなり、何も考える必要がなくなる。
「―――大好きだよ朱里。誰よりも、何よりも君が愛おしい」
ギュッと、その幼さの残る身体を抱き締めた。
それに応える様におずおずと背中にまわされる彼女の腕が、その動作の全てがいじらしくて、愛おしくて、愛らしい。
「仲達くん…………」
彼女が、静かに僕の名前を呼ぶ。
その声音を合図にしたのか、どちらともなく顔を向かい合わせ、どちらともなく唇を重ねる。
触れるだけの、優しい口づけ。
けれど、それだけでどうしようもなく満たされてしまう。
もっと、もっと欲望のままに求めたら、どうなってしまうのか。
熱を帯びた眼が、その欲望を助長する様に誘い、けれど離した。
「…………?」
髪を梳いて、頬を撫でる手に、彼女は首を傾げながらも目を細めた。
朱里の柔らかく無垢な肌の上で踊る僕の指は、やがて彼女の頭頂へと辿りついた。
そのままあやす様に撫でると――子供扱いされていると感じたのだろう――朱里はまた脹れっ面を浮かべた。
「子供扱いしないで下さい」
「朱里」
もう一度、名前を呼んだ。
すると彼女はしぶしぶと云った感じに、けれど、何処か期待を浮かべた様な表情で瞳を閉じた。
強請る様な彼女の仕草に、僕はもう一度彼女を抱き寄せた。
「朱里」
感じるその温もりを、いとおしみながら―――
「――――――有難う」
視界は、暗転した。
ピキン、と何かが弾け飛ぶ音が響く。
喜色を驚愕に一変させた于吉は、驚きを隠せなかった。
「なっ……!?」
「……違うんだ、于吉」
涼やかな彼の声音が、戸惑う于吉の鼓膜を揺らした。
「この意識は、苦しいさ。辛いし、痛いし、忘れられるなら、忘れたい。永遠に、二度と傷つかずに済むのなら、その方がいい」
「けど」と、司馬懿は顔を上げる。
瞬間、于吉の表情が凍りついた。
「―――今ここに居る『僕』は、僕の見てきた、成してきた全ては夢なんかじゃない。例えこの物語の終末が僕と云う存在の否定に完結するのだとしても、僕以外の全ての存在が僕を否定するのだとしても……僕は甘んじてそれを受け入れる」
「何を……!貴方は、自らの消失を受け入れるとでも言うのですか!?己の全てを、あんな甘ったるいだけの妄想に潰されても構わないとでも―――!!!」
「『潰される』んじゃない」
司馬懿は『笑った』
嘗て浮かべていた、あの無邪気な笑みを。挑戦的な眼を。
全てを取り戻して、彼は笑った。
「『託す』んだ―――僕の願いを、理想を。届かないとしても、伝わらないとしても、僕にはこのやり方しか、こんなやり方しか出来ないから。だから……」
その瞳に光を映して、不敵に微笑んだ。
「だからお前は、ただ客席で眺めていろ。『私達』の物語を、その顛末を」
「ふざけるな!!たかだか『駒』の分際で―――!!」
「だから」
ズン、と鈍い音が響いた。
僅かに揺れ、そして力を失っていく己の肉体を于吉は驚愕に染まった表情で見つめた。
―――腹に突き立つ一振りの剣を握るのは、彼。
「き、さま……ァ!!」
指先が、足が。
全てが粒子の様に光の粒となって消えていく。
「―――これ以上、貴様に邪魔はさせない」
「折角の、好機を……!!幸せになれる、と、いうのに……!?」
「死んだ人は、帰ってこない」
司馬懿は、呟いた。
僅かに曇らせた声音を、しかし懸命に振り絞って。
「始まったものはいつか終わる。どんな旅も、悪夢も、いつかは終わる。失った人は帰ってこない。亡くした者は、二度と応えない」
グッと、司馬懿は手に握った柄に力を込めた。
「なぁ、于吉」
ただ、呼びかけた。
幾ばくの感情をも感じさせない、冷たい声で。
「もう終わりにしよう。何もかも」
剣を抜き去る。
「どれだけ愛おしくて、美しくて、幸せだろうと……」
ぐらりと後ろに倒れかける于吉目がけて、司馬懿は大上段に剣を構え―――
「―――夢は、所詮『夢』だ」
「ほ、報告します!!連合軍が、許昌前に到着いたしました!!」
「各部隊に通達。『手筈通り動け』と伝えろ」
「はっ!!」
伝令に告げると、司馬懿は足音高く玉座に向かい、悠然と腰かけた。
「……いよいよ、始まりますね〜」
言って、支柱の影から風が姿を現した。
だが余裕めいたその声音は、司馬懿の顔を見た途端一変する。
「…………どうなさったんですか?仲達さん」
司馬懿は、壊れた様な笑みを浮かべていた。
泣き方を忘れ、けれど嘆き悲しみたくて仕方ない様な、悲痛に満ちた満面の笑みを浮かべて、司馬懿の口は歪な弧を描いた。
「夢を、見ていたんだ……」
「夢?」
「泣きたいくらいに幸せで、笑いたいくらいにありえない御伽の様な夢物語を見ていた」
もう戻る事は出来ない。
立ち止まる事も、帰る事も出来ない。
叶うのは唯一、進むだけ。
獄界の果てへと続く修羅の藪を、ひたすらに歩み続けるだけ。
「……風、私はやはりどうしようもない屑だよ」
「…………」
「今更になって、垣間見るんだ。ありえないと知りながら、叶わないと知りながら、それでも…………」
司馬懿は、己の掌を見やった。
「―――それでも、願ってしまうんだよ。皆の隣を歩み続ける道を。誰も死なずに済む方法を」
そこに二度と落ちぬ筈の雫が零れ落ちていた様な幻想を、司馬懿は垣間見た。
宮殿より遥か遠くに鬨の声が上がる。
翻る旗は『蜀』、『呉』、そして『魏』。
対する様に風に舞うのは『晋』の旗。
そう遠くなく、決戦の火蓋が切り落とされるであろう事は、誰の目にも明らかだった。
「…………君は、来るんだろう?一刀」
一人の男は、希望を夢見た。
「私を殺す為。『敵』となった僕を倒す為に、此処に来たんだろう?」
一人の男は、絶望を知った。
「おいで、一刀」
多くの時を超え、世界を超え。
その絆は、戦いは、遂に最後の瞬間を迎える。
「君はきっと正しい。過ちを犯しているのは僕だ」
始まった物語は何時か終わる。
「僕を殺して、裏切り者を倒して、悪の権化を消して、君は正義の象徴となる」
どれ程長い旅路も、何時かは終わりを迎える。
「そして正義の象徴たる君に倒された僕は永遠の悪として、その悪行は戒めとして後世に残る」
復讐と幸福。
絶望と希望。
その果てに、彼らは何処に辿りつくのか。
「―――さぁ、始めよう」
此処は創られた世界。
限りない命と、終わりない物語が紡がれる永遠の理想郷。
「――――――終幕の宴を」
今。
最後の戦いが、幕を開ける。
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