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 日ごろ、当たり前のように生活をしている世界では、その生活に不自由しない限りは、それ以上

のものを見る事は少ない。当たり前のように時間が流れ、人々は生活を営んでいく。ただ、大き

な異変が起きた時、人々は自分達が知る以上の世界を知ることになる。

 

 アルバート・パロマーは、ごく普通の大学生でしかなく、メンガー・シティに住む、ごくありふれた

大学生としての生活しかしていなかった。

 

 彼ぐらいの年頃の男は皆、今を生き、いかに大学を楽しむかということばかりを考えているし、

アルバートもそんな大学生の一人だった。

 

 陽気過ぎず、暗すぎも無く、大学の後に待っている就職の事などほとんど考えてもいない。ただ

彼は今、この街で友達と同じように生き、当たり前の様な大学生活を送っているにすぎない。

 

 時々、テストやレポートに追われる事はあるが、それは他の学生とて同じ事だ。彼自身は、街

の大学生の一人として、抜きんでた成績を持つ存在でもなく、進級が危ういような学生でもない。

 

(ここ一年間で起こりました、連続失踪事件はこれで32件目となりました。全国各地で発生してい

るこの奇怪な現象は、特にこの一カ月間に、メンガー州を中心に発生しており…)

 

 アルバートはアパートに一人暮らしをしている。ラジオ付き目覚まし時計から流れてくるニュース

が、目覚まし代わりになっていた。

 

 彼は寝ぼけた頭を起こし、ラジオを切った。どうもここ一ヶ月間、暗いニュースしか流れて来てい

ない。自分の大学生活は絶好調だと言うのに。余計な事で気を紛らわせたくはなかった。

 

 午前中の講義まではまだ時間がある。十分にゆっくりとしていけるだろう。彼は部屋の窓のカー

テンを開けた。

 

 だが、アパートの目の前には隣の建物が建っていて、光をあまり入れる事ができない。

 

 無理も無かった。アルバートは大学2年生で、入学してからこのアパートに住んでいるが、大学

生の住むワンルームのアパートなど、どこもこうでしかない。カーテンを開ければ、目の前は隣の

建物だ。

 

 裕福な学生は、もっと見通しの良い窓を持つマンションに住んでいると言う。マンションの前に広

場やプールがあるようなマンションだ。

 

 しかしながら、アルバートは今のところこのアパートで十分だった。

 

 身支度を終えた彼は、アパートの部屋を出ていった。早速、毎日続いている大学生活を繰り返

すかのような外出だ。アパートの部屋の扉を開ければ、すぐに街中に出れるようになっている。

 

 街中の喧騒は部屋の中にまで聞こえてくる事もあるが、それは仕方が無い。皆、そうなのだか

ら、どうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 今日の電車は混んでいた。狭い車内には結構な人数の人々が乗る。限られたスペースしか無

いと言うのに、皆が無理矢理一つの電車内に乗り込むものだから、アルバートはいつもは幾つか

早い列車に乗ってしまう。そうすれば、混雑を避ける事ができる体。

 

 だが、今日の講義は遅かったし、アルバート自身もゆっくりとしていたものだから、混んでいる電

車に乗らざるを得なかった。電車を遅らせれば、講義に遅刻する事になってしまう。

 

 絶好調な大学生活の中で、下手に単位を落とすような事はしたくは無かった。

 

 電車内に設けられたディスプレイでも、ラジオで聴いたのと同じニュースをやっていた。電車内

では音は流れず、ディスプレイに文字の表示と画像が現れているだけだ。

 

(謎の失踪事件32件目発生。行方不明者の数は100人以上に。警察は行方不明の原因を今

だ発見できず。謎の黒い影が現場に)

 

 アルバートはやれやれと言った様子でその流れていくニュースを見ていた。最近話題になって

いる、この連続行方不明事件は、いつしかどんなニュースよりも真っ先に報じられるようになって

きていた。

 

 自分の大学生活とは関係が無いと言うのに。この事件も、どうせいずれは忘れられるようなも

のだ。混んでいる電車がやがては空いていくように、いずれは騒がれなくなるだけのものでしかな

い。

 

 アルバートを乗せた列車はやがて大学近くの駅に到着し、その駅で多くの乗客たちと共に彼を

も吐きだしていた。

 

 駅はこの時間ではいつも混雑している。列車は、ホームに溢れ返る乗客たちが出ていくまで、

発車する事が出来ず、いつも列車は遅れている。乗客達が線路を渡り切ってしまった後でしか、

列車は発車する事ができないのだ。これはどうしようもない事だった。しょっちゅう遅れて、しかも

混雑する列車に乗るくらいなら、朝に早く起きて大学に行ってしまっていた方が良かったかもしれ

ない。

 

 アルバートは改めてそう思い、発車を待ちわびている電車の目の前を横切った。

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 大学の構内は他の建物に比べればずっと広い。それは、どんな大型デパートよりも広い、一つ

の町であるかのような姿をしている。アルバートが通っているのは、総合大学の経済学部だった

から、その大学構内の広さは、慣れない者が迷い込もうならば迷ってしまうほどのものだった。

 

 実際、大学の規模はメンガー・シティ内の施設では最大の規模を持っている。ここは一つの学

園都市となっている。

 

 入学したての頃はアルバート自身もこの大学の広さには迷わされたものだったが、今ではもう

慣れてしまっている。次の講義がどこの講堂で開かれるのか、それらを全て把握している。他の

学生もそうだ。幾ら広い敷地を持とうと、慣れてくれば迷わなくなるものだ。

 

「アルバート君」

 

 そう言って自分の名を呼んでくる人の姿があった。同じ学部の学生かとアルバートは思ったが

そうではない。

 

「今から講義?わたしもそうよ」

 

 自分の名を呼んできたのは、一人の女子学生だった。マリーはアルバートにとっては幼馴染で

あり、子供のころはよく遊んだ。中学と高校は別だったが、共にメンガー・シティ最大の大学に通

うようになったのだ。

 

 だが、アルバートは経済学専攻であり、マリーは物理学専攻だった。どうやら彼女は小さい頃か

ら、実験や科学理論と言うものが好きだったらしく、アルバートもよく彼女の実験に付き合わされ

ていたものだ。

 

「ああ、今から講義さ。今日もいつもと同じ」

 

 そう言いつつ、アルバートは手に持っている鞄を見せた。物理学専攻のマリーに比べれば持っ

ていく教科書もノートも少ない。

 

 マリーは物理学の中でも理論物理学専攻であるらしいから、その荷物は少なかったが、最近は

どうも彼女も講義や実験に入れ込んでいるようだった。

 

「今日は、これから、あなたの叔父さんの講義なのよ」

 

 彼女はアルバートと共に歩きながらそう言って来た。

 

「ああ、そう」

 

 アルバートはそう言った。自分の叔父が通っている大学の教授、それも理工学部の教授だとい

う事は良く知っているが、だからと言って特に会って話すような事も無い。それに、アルバートの

叔父は彼が小さい頃から、訳の分からない言葉ばかり並べ立てる為、彼にとっては近寄りがたい

存在でもあった。

 

 だがマリーは、自分の叔父がとても頼もしい存在であるかのようにいつも話をしている。実際に

彼の講義が一番面白いようである。

 

 アルバートにとってみれば、彼女の話している事が良く分からないような事も多々あった。宇

宙、粒子、そして定理など、そんな話をマリーはよく話に持ち出すが、そんな事がアルバートには

良く分からない。

 

 アルバートにとってみれば、大学は、ただ順風に生きていくための人生の一ステップであり、そ

れは楽しみでなければならないと思っていた。そこに宇宙の摂理や、細かい定理などは必要な

い。

 

 しかしマリーはそうではないようである。彼女はよく言う。宇宙の真理を知った時に、この世に生

きている自分の価値が分かるのだと。

 

 そんな、歳にも似合わぬような事を言う彼女だったが、アルバートにとってみれば唯一のガール

フレンドで幼馴染でもあった。手放したくは無い友人でもある。

 

「今度、あなたの叔父さんの講義に出てみなよ。きっと面白いからさ」

 

 マリーがアルバートにそう言って来た。だが、アルバートにとってみれば、自分の叔父の講義な

ど、訳の分からない代物でしか無い。講義に出ようとなど考えもした事が無い。

 

 どうせ、難しい数式を黒板に並べたてられるだけの講義さ。そう思ってアルバートは調子だけ合

わせることにした。

 

「ああ、考えておく。それよりも」

 

 アルバートがそう言いかけた時、始業のベルが鳴った。

 

「ああ、急がなきゃ。じゃあ、わたしの講堂はこっちだから。それじゃあね」

 

 そう言ってマリーは足早に行ってしまった。どうやら、彼女にとっては異性との関係などよりも宇

宙の真理の方がよほど大切な事であるらしい。

 

 せっかくデートに誘おうと思ったのにと、アルバートは思っていたが、マリーはいつもそうそう乗り

気ではなく、大学の講義や研究を優先する。だが、そうした何かに一途な姿も彼女の魅力なんだ

ろうとアルバートは自分を納得させた。

 

 大学の建物は迷路のように入り組み、広がっている。すでに覚えた道のりを、迷路を辿るかの

ようにしてアルバートは進んでいった。

 

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 神隠しの話題は大学でも広まっていた。テレビでトップニュースとされているだけはある。アルバ

ート自身はそれにあまり関心を抱いていなかったが、大学にいる噂好き、そして騒ぎ好きの連中

は、その話をやたらと誇張し広めていた。

 

 メンガー州、アルバートが住んでいる地域で多発するようになったこの神隠しは、その原因が不

明であるという事が、大きな不気味さを持っていた。

 

 警察も、研究者もこの謎は解けていないのだと言う。突然人が消え、跡には黒い影の様なもの

だけが残っているというのだ。

 

「どうせ、家出とかじゃあねえのか?珍しくないだろ、そんなもん」

 

「いいや、違う。これは、人体の自然発火現象とかだ。すごいぞ。超常現象なんだ」

 

 大学の講堂の背後の座席で、同じ学部の学生がうるさく騒ぎ立てている。

 

「アルバートはどう思う?」

 

 案の定、アルバートはその学生達に話を振られてしまう。彼にとっては、そんな事件など興味は

無かったからだ。

 

「そんな事よりも重要なのは、今日、出されたレポートをどう片付けるか、だな」

 

 そう言うと、背後に座っていた学生達は、呆れた表情と、同感した表情をそれぞれ見せた。

 

「確かに、そりゃあそうだ。俺は単位が足りねえんだ。これを落としたら進級できないかもしれね

え」

 

「こんな神隠しに付き合っていても仕方が無い。いやあ、神隠しに合っちまった方がいいかもな。

こんなつまらねえ大学生活ともおさらばできるしよ」

 

 口々に言う学生達がアルバートの背後にいた。アルバートはやれやれと思う。幾ら人々の行方

不明事件が多発しようと、自分がそれに巻き込まれるつもりはない。自分が行方不明になったと

しても、単位を落としたとしても、この大学生活を楽しむ事ができないじゃあないか。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、アルバートがアパートで目を覚ました時、ラジオ付き目覚まし時計にかかるラジオの内容

は、ようやく、謎の連続失踪事件から別のものへと変わっていた。

 

(メンガー・シティを中心にして開発が進んでいる、この大規模送電システムは、より市民の生活

を豊かにしてくれるものとして、大手企業数社によって推し進められています。この街をぐるりと取

り囲むようにして送電線を配置する事により、幾つもの発電所から効率的に電力が送信され、更

にメンガー州全域にわたって、毎日豊かな電力が供給されます…)

 

 行方不明事件の暗いニュースではないだけましだったが、アルバートにとっては興味の無いニ

ュースだった。新たな送電システムの規模は大規模だとニュースでは言っているが、それは自分

には何も関係ない。電気だったら足りている。

 

 自分は、自分を生きるだけだ。アルバートはそう思いつつ、また今日も同じように大学に行く支

度を始めた。だが、順調な大学生活を送るためには、より交流を大切にしたい。幼馴染のマリー

に、今日はもっと自分を良く見せたい気分だった。

 

 髪の手入れにも時間をかけ、満足するまでじっくりとそれを続けていた時に、携帯電話に彼女

からのメールが届いた。

 

(今日、デートしよう。二限目に、第三理工学部講堂の前で待ち合わせ)

 

 そのメールを読んでアルバートは浮かれた。何とも突然で好意的なメールだと思う。マリーと自

分は付き合っている、つまりは恋人同士と言う関係ではなく、ただの幼馴染の友達でしか無いの

だ。だが、デートという言葉を使ってくれているのが何とも嬉しい。

 

 もしかしたら、いつの間にか、恋人という目で見られていたんじゃあないだろうか。とにかく浮か

れた気分を隠せなかった。

 

 二限目と言ったら、少し急がなければならない。今日の講義は午後からだったから、アルバート

は少し遅めに起きていたのだ。

 

 だがマリーとデートできると言うのならば、何をおいても大学に急ぐ必要があるだろう。そう思っ

て彼はアパートで素早く身支度を済ませた。

 

 電車の中は空いていた。昨日よりも更に遅い時間の電車に乗っているからだ。しかしながら、

変わらず車内のディスプレイにはニュースが流れており、アルバートはそれを見る羽目になって

いた。

 

(33、34件目の行方不明事件が連続して発生。行方不明者は5人と思われ。警察は依然として

事件の実態を掴めず)

 

 そのニュースを見てアルバートはすぐに目線をそらせた。自分は今、気分が上々なのだ。こん

な暗いニュースでその気分を台無しにされたくない。今はマリーとのデートに集中する。ただそれ

だけで良いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だが案の定、大学の理工学部第三講堂前で待っていたマリーの姿は、とてもデートとは言い難

いものだった。いつものように眼鏡をかけた冴えない姿で、決して不美人ではないものの、そこに

は飾り気が少ない。

 

 本当に自分とデートをする気なのだろうか。アルバートは心配になりつつも彼女に声をかけた。

 

「やあ、少し遅れてしまったよ」

 

 丁度、始業が始まるベルが鳴り出し、講堂の中には次々と学生達が入っていく。

 

「ほら、もう講義が始まっちゃうよ!」

 

 マリーは何やら奇妙な事を言ってくる。講義?自分はデートをするためにここに来たはずだ。何

故、講義などと言うのだろう。それにここは理工学部の講堂であって、自分には何も関係が無い

はずだ。今日のこの時間は講義も無い。

 

「どういう事だい?これから、どこかに行くんじゃあないの?」

 

 アルバートはそのように言ったが、マリーは隠し事をしているように悪戯っぽい笑みを見せた

後、アルバートに言って来た。

 

「そう。デート。この講義に出席する事が。単位も取れて一石二鳥。それに、私が思う一番面白い

講義の一つよ」

 

 そのように言って来たが、アルバートは肩透かしを食らった思いだった。

 

「講義って、一体、何の?」

 

「理論物理学の基礎講義よ。あなたの叔父さんが一番楽しそうに思っている講義の一つなの」

 

 そう言って、マリーはアルバートの腕を引っ張ってくるが、これは困ったものだった。

 

 何しろ、アルバートがこの大学で一番苦手としている教諭は、自分の叔父だったからだ。

 

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「次元というものは、xとyの二つの座標で表す事ができる。もしそれが、xの一つの線しかなけれ

ば、それは1次元と言うものだ。線は平面ではない。あくまで一直線の一本の紐の様なものでし

かない。この紐の上に乗せた虫は、右にも左にも行けず、ただ前進か、後退かのどちらかをする

しかないのだ。これはx座標だけで現す事ができる世界。

 

 そしてこの上の次元にあるものが2次元だ。2次元は、それに更にy座標が追加される。x座標

とy座標。この二つができてこそ、初めて2次元を現す事ができ、今、ここにある我々の世界を造

り出す。x座標とy座標を指定するだけで、どんな場所でも表す事ができるし、その広さも延々と伸

ばす事ができる。

 

 それが、我々が知りうるこの世界の姿だ。

 

 だが、物理ではこうも考える。それはもっと高位の次元があると。3次元、4次元。いやもっと

か。我々はその次元の事を超次元などと呼んでいる」

 

 アルバートの叔父の講義はまだ始まって30分ほどしか経っていなかったが、早くもアルバートは

飽き始めていた。何しろ、何を言っているのかが良く分からない。

 

 全く分からないと言う訳では無い。1次元、2次元。そんな話はどこかで聞いた事がある。だが、

叔父の講義と、黒板に書き込んである図形の様なものは、あたかも雲のように不確かなものでし

かなく、アルバートには呑み込む事ができないのだ。

 

 聞こえている言葉は、ただの単語の羅列でしか無く、その意味も断片的には理解する事がで

き、そして言っている事も分からないわけではない。

 

 しかしそれを実感として掴む事ができない。難しい理論物理学の話を、アルバートの脳は受け

入れようとしない。

 

 やがて彼は、熱心に、そしてこれこそが人生の生きがいであるかのように講義を続ける、自分

の叔父からは目線を離して、広い大学の構内を見渡す、窓の方へと目をやってしまっていた。

 

「超次元が実在するかどうか、我々の科学では、確かにそれを掴んではいない。だが私はそれが

実在するものと確信している。この世界にはまだ、上の次元が存在しているのだ」

 

「教授。もし、超次元が存在していたとしたら、それはどんな姿をしているとお思いです?」

 

 いきなりそのように言葉を発したのは、マリーだった。彼女はアルバートとは違い、すでに講義

の中にのめり込んでおり、興味津々な様子で質問をしていた。何故、この講義にそんなにのめり

込めるのか、よく分からないまま、アルバートはちらちらと彼女の方を見ていた。

 

「さあ、この黒板には、超次元を書き表す事ができない。だから、こうして、形式的に書く事しかで

きないわけだが。

 

 超次元が存在する事は、何も特別な事じゃあない。我々が日ごろ生活しているこの空間でさ

え、何も我々の知っている2次元で全てが収まっているわけではないのだ。もしかしたら、こういう

例えは変かも知れないが、空間にはもっと広がりがあるのかもしれない。我々、物理学者は、そ

れを、その次元の方向に空間が広がっていると言う。だが、我々の目では、その方向を見る事は

できないし、感じる事もできない。

 

 そして、我々の次元の階層にまで影響が無い限り、上の次元で何が起きても、我々には影響を

及ぼさない。それを知るすべが無いからだ。

 

 私は確信している。この世は何十次元も、いや、それこそ、二十何次元もの数の次元が存在し

てこそ初めて成り立ち、全ての物理的法則が解明できると。

 

 実際に観測する事はできないかもしれないが、理論では幾らでも進められる。そしてもしかした

ら、私達の世界にも、上の次元からの影響はすでに現れてきているかもしれないのだよ」

 

「具体的に、どのような影響がやって来ているとお考えです?」

 

 マリーはすかさず尋ねた。彼女のノートには、アルバートの叔父の喋っている事が、かなり丁寧

に書かれている。マリーはノートもかなり活用しているのだ。

 

「さあね、そこの所は私にも分からないよ。ただ、ある研究者は、重力のしみ出しで超次元を観測

できるのではないかと言っていた。上の次元からこぼれてくる重力子を観測する事で、その次元

の事を知る事ができるのだ。

 

 そして、どんなに高い次元の世界でも、物理的法則は通用する。重力が無ければ物は形を保

つ事ができないし、全ての理論も通用するし、同じ数式が適用できるだろう。これは忘れないでほ

しい。

 

 超次元と言うのは何も特別な事では無く、ありふれたものなのだ。この講堂の中にもあるし、窓

を開けて見える広々とした広場にもある。ただその方向がどちら側へと広がっているか、という事

なのだ」

 

 

 

 

 

 

 

 結局のところ、このマリーとのデートは何かプラスになった事があったのだろうか。アルバートは

教科書もノートも持たず、ただ叔父の講義を聞き流していただけだ。

 

 聴講をしたからといって、それを一期続けているわけではないから、単位にはならない。ただ、

マリーは自分が一緒に講義を受けた事に対して満足げである。

 

 彼女は講義が終わってすぐに教授、つまりアルバートの叔父の元へと向かった。

 

「今日の講義はいかがだったかな?アルバート君」

 

 叔父は自分がこの場に来ている事を、すでにお見通しのようだった。小さい頃にはよく色々な所

に連れ回されたし、アルバートが大学に入学しているという事も叔父は知っている。

 

「今日は、私が連れてきたんですよ。教授の講義がとても面白いからってね」

 

 そうマリーは言って来た。

 

「ほほう、それはそれは。しかし、アルバート君には理解できたかね?」

 

 叔父はじっくりと観察するかのような顔で、アルバートの眼を覗きこんでくる。アルバートは思わ

ず目線をそらしていた。

 

「さあ、良くは分かりませんでしたが」

 

 アルバートはどうとでも良いという声でそう答えていた。

 

「経済学部の君には難しいだろう。何せ、普段2次元しかない世界で生活をしている人達にとって

は、更に上の次元は理解するのは難しいかと思うからね」

 

 と、叔父は得意げな声で言って来た。更に上の次元?一体何を言っているのだ。やはり理論物

理学とかいうものにはついていく事ができない。

 

「ちょっと、アルバート君には難しすぎちゃったかしら?この講義って、1年生の基礎口座なんだけ

れども」

 

 マリーもアルバートの顔を覗きこんで言って来る。だがマリーの言うとおりだ。自分には何も理

解できていない、アルバートはそう言いたかった。

 

「ああ、少し難しすぎたかもね」

 

 不機嫌な声になってしまったかと、アルバートは少し不安になる。

 

「無理して理解しようとする必要は無いさ。例え超次元の事を考えられなくても、君の日常生活に

は何も不自由しない。それに経済学の方が、よっぽど実用性は高いんじゃあないかな」

 

 そう言うなり叔父は笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 マリーはアルバートをデートに誘ってくれたが、それは彼にとってはあまりにもハードルの高いデ

ートだった。

 

 アルバートはただ、順調な大学生活を送りたいだけの学生でしかない。3次元だの超次元のと

いった言葉とはまったく無縁の世界に生きているのだ。マリーのように、常人には理解しがたい

学問に身を呈しているような学生とは何もかも違う。

 

 マリーの事を好いているのは、アルバートも自分で分かっていたが、彼女の頭脳にはとてもつ

いて行けるものではなかった。

 

 今日のデートと称したものも、マリーと調子を合わせるだけの為のものだった。

 

「少し、アルバート君には難しすぎたかな?」

 

 共にランチを摂りながら、マリーはアルバートに言って来た。広々とした大学の中にある広場

は、窮屈なメンガー・シティの中では、群を抜いて広々としたスペースを取られている場所だ。

 

 大学の敷地は広く、その中心に広々とした広場を開けておくことで、それを有効活用している。

 

「難しかったというのは本当だが、あんなものを君は理解できるのかい?」

 

 アルバートはマリーの方は見ずに、だだっ広い広場を見つめてそう答えていた。広い広場には

昼の休み時間を利用して、多くの学生がランチを摂っている。マリーとアルバートのような、男女

の組み合わせもいる。

 

「だって、ただもう一つ方向があるっていうだけでしょう?3次元って言うのはさ。現す事ができな

いものは、ただ擬似的に考えているだけだし、物理では、式が2次元にもう一つ追加されるだけ

で、それは4次元以上になっても同じ事、方向って言うのは、何も特別な事じゃあなくって…、って

いうのは、やっぱりアルバート君には難しいよね。

 

 私も君が習っている、需要曲線とかよく分からないもん」

 

「ああ、良く分からないね」

 

 アルバートは自虐的に笑みを浮かべながらそう言った。

 

「今日は、私が引っ張っちゃって、ごめんね」

 

 マリーにはそう謝られてしまったが、アルバートにとっては、そこまでされるような必要も無い事

だった。

 

「分かった。じゃあ埋め合わせをしよう。今日の講義は君がどんな事を勉強しているかを知るた

めのきっかけだった。そういう事にしておいて、また別の日に改めよう」

 

「じゃあ、予定を入れましょう。今週の金曜日とかは?次の日は休みだし」

 

 マリーは携帯電話を取り出すなりすぐに予定を組み始める。こうした事はマリーは素早くやる

し、約束を破る事もしない。昔からそうだった。

 

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 ファラデー刑事はこれまでにも様々な事件を取り扱って来たが、これほど難解とされるような事

件を担当する事になるのは初めてだった。

 

 それまでにも解決する事ができないような事件は幾つもあったし、謎の多い事件と言うものは、

事件捜査をする仕事をしている以上は仕方が無い事だ。

 

 しかし、これほどまでに謎が多く、しかも頻発する事件がメンガー・シティで起こってしまうと、彼

も頭を抱えるしか無かった。

 

「刑事、何か分かりましたか?」

 

 自分の部下の警官がそう言ってくる。今、ファラデーは地面にしゃがみ込んでおり、そこに広が

っているものをじっと見つめていた。

 

 手を触れたかったが、触れてしまうと、鑑識の捜査に支障をきたす。しかし目の前に広がってい

るものを、手に取ってでも調べてみたいような気持ちにさせられる。

 

 その、ものとは、黒い灰のようなものだった。きな臭い臭いが漂って来ており、これが何かが燃

えてできたものとは違うものだと思わさせる。

 

「これで事件は何度目だ?38回目か?」

 

 ファラデーは、自分のあごに生えた髭をさすりながら言った。ここ数日間、髭も剃っていない。

 

「ええ、38回目になります。メンガー・シティだけで20件を超えていますよ。それに、こんなに大規

模に、はっきりと現れてしまうと、もう隠しようが」

 

 部下の警官はそう言って来た。

 

「隠す必要なんてもうないだろう?これを仕掛けている何者かは、もう隠れるつもりなんてないん

だからな。何しろ、この大都市の真ん中で、100人以上も消し去ったんだ。列車ごと丸々な」

 

 そう言ったファラデー刑事の前には、半径50メートルほどの惰円形の影が残っていた。そこ

は、街中を走るライトレールの鉄道線路の真っただ中にあった。

 

 線路と、それを並走している集電線は切断されている。そして、線路周辺の土地にも影が広が

っていた。

 

「消えた列車は分かったか?」

 

 鑑識がきて、広がっている黒い灰のようなものの採集を始めた。これで何か分かるかもしれな

い。

 

 一方、部下の警官がファイルを持ってきて読み上げる。

 

「消えた列車は、ブルーライン東行きのE-553です。行方不明者の情報については、まだ不明で

す。駅の監視カメラや定期券の電子記録などを調べるしか」

 

「ああ、それは時間がかかりそうだな」

 

 特定の誰というわけではなく、列車一つが消えてしまえば、その行方不明者を特定するのも難

しいし頭を悩ませる。

 

 これだけはっきりとした行方不明事件、それも原因不明の怪奇事件が起これば、マスコミがさら

に騒ぎたてる。警察側は、困ったことに全くこの行方不明事件の正体は掴めていない。

 

 何故、メンガー・シティでここまで連続して事件が起こるのかと言う事についても不明だ。

 

 だが、ファラデーはこの事件の担当官にされても、結局それを掴む事ができていない。

 

 警官としての使命で、何としてもこの事件を解決する必要がある。行方不明者の為でもあるし、

何よりもこの奇怪な事件の正体を掴まなければ、また多くの行方不明者が出てしまうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「とりあえず、判明している分の行方不明者のリストができました」

 

 数刻後、警察署に戻ったファラデーの元に、警官がファイルを持ってきた。そのファイルには、

駅の防犯カメラなどから撮影された写真や、名前のリストが載っていた。

 

「判明しているのは54人か。死んだ、とは思いたくないが、行方不明者リストに載せておく必要は

あるな」

 

 ファラデーはそう義務的な態度で言ったが、そのとき彼は、ファイルの中にあるある名前に目を

止めた。

 

「おい、ちょっと待て、これはどういう事だ?」

 

「はい?」

 

 ファイルを突き出し、ファラデーは声を上げていた。警官の方は驚いたように目を丸くしている。

 

「この名前は、本当なのか?列車の中にいたのか?」

 

 そう質問するまでも無い。消失した列車の中に乗っていて、判明している行方不明者は、きちん

と警察が割り出した者達だ。割り出されていない者達もいるが、ファイルに載ったという事は、列

車と共に消失してしまった事を意味する。

 

「ええ、そうです。上が、駅の監視カメラで特定した人物達で、下が定期券の情報から割り出さ

れ」

 

 そこまで言ったところで、ファラデーは更に声を上げる。

 

「鑑識からは、例の灰みたいなものが何であったのか、判明したのか?」

 

「いえ、まだ。ですが、何かの有機物の燃えカスだという報告はありました。できた原因は不明で

す」

 

 警官がそう言った所で、ファラデーはオフィスの椅子に身をうずめた。

 

「そうか、分かった。もう行っていい」

 

 彼は頭を抱えてそう言うしか無かった。

 

 まさか、あの列車に乗っていたなんて。

 

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 今日はアルバートにとってデートのやり直しの日だった。一週間前にマリーとデートをした時は、

難しい理論物理学の講義に参加をするという敷居の高いデートだったが、今日は違う。

 

 アルバートが全てプランを立て、メンガー・シティの中でもデートスポットとして知られる場所へと

行き、夕食までのプランをアルバートが立てたのだ。

 

 マリーとの前のデートが嫌だったというわけではない。彼女の理屈っぽい考え方や、科学的なも

のに惹かれているというのは、彼女の魅力の一つとしてアルバートは思っている。そうしたものが

無ければ、マリーは結局のところ、経済学部にいる女子学生達となんら変わりはない。

 

 アルバートはマリーと一緒にいるだけで良かったのだ。それが理論物理学の講義であろうと、

街で一番のデートスポットであろうと変わらない。

 

 今日は休日で大学の講義も無い。アルバートは窓の外がすぐ隣の建物で覆われてしまってい

る、アパートの中で、どんな服を着ていこうかと考えを巡らせていた。

 

 その時、テレビのニュースが流れてきた。いつもならば聞き流してしまうニュース番組だったが、

今日流れてくる事件はあまりにも異質すぎたため、アルバートは聞き流す事は無かった。

 

(緊急ニュースです。先程、午後3時ごろ、メンガー・シティにて新たな連続失踪事件が起こりまし

た。ええ、入ってきた情報によりますと…)

 

 そこでアナウンサーは言葉を切った。渡されてきた資料に目を通して、とても信じられないという

表情をしている。

 

 アルバートはそのアナウンサーの表情に思わずテレビに引かれた。何か、緊急ニュースになる

事が起こったのだ。

 

 アナウンサーは少しの間、言葉を詰まらせていた。何が起こったのかと、アルバートも思わずテ

レビへと身を乗り出す。デートの身支度が半分しか終わっていない姿のままだった。

 

(え、ええ…、先程、メンガー・シティの市内を走るブルー・ラインの東行きE-553の列車が消失し

たとの情報が入ってきました。警察の発表によりますと、この列車には100人以上の乗客が乗

車していたとの事であり、現在判明している行方不明者は58人とされています。列車の行方は

不明であり、現場には大きな影ができており、列車だけではなく線路をも呑み込んでいる状況だ

との事。

 

 現場の映像がもうすぐ入ってきます)

 

 列車がそのまま一つ消失してしまった?アルバートは信じられないという表情をした、アナウン

サーの心情が分かったような気がした。

 

 まさか、そんな事が起こるわけがない。アルバートの頭にそんな考えが浮かびかかるが、消失

事件の現場の映像が目に飛び込んで来た時、アルバートはそれが現実に起こってしまったという

事を、知らざるを得なかった。

 

 カメラマンがカメラを揺らしながら、その現場へと近づいていく。列車が消失してしまったという現

場の地面には、警察が張ったテープが敷かれており、そこから先へは一般人は入れないようだっ

たが、カメラマンは身を乗り出して現場の様子を撮ろうとしていた。

 

 カメラマンが抱えているカメラが、テレビ画面を見ていると酔いそうなくらい揺れている事から

も、現場の緊迫感が伝わってくる。

 

 そこは線路が走っている場所だったのだろうか。今では地面に大量の灰を広げたかのような、

黒い何かにその地面は覆われていた。

 

 危機迫るような雰囲気は、その撮影現場が、慌ただしい事からも明らかだった。テレビの台本

通りに動いているか円らの動き、レポーターの動きをしておらず、その場しのぎの報道がなされて

いる事から、テレビ局側はまだその実態を掴めていないのだろう。

 

 ただ、黒く、巨大な何かが現場に広がっているという事だけでも、その現場の恐ろしさが伝わっ

てきていた。

 

 即興で作られたテレビに流れるテロップには、“乗客百人以上消える。列車消失事件”と現れて

いた。

 

 このままテレビを見続けているべきだろうか。この事件はメンガー・シティ内で起こった。アルバ

ートが住んでいるアパートからもそれほど遠いところではない。

 

 現場で騒ぎたてるような野次馬になるつもりはなかった。この黒い何か、消えてしまった列車。

最近起こっている神隠し現象が、近くにいる者達に向かって更に襲いかかって来ないとも限らな

い。

 

 テレビをこのまま見続けているべきか。マリーとのデートの時間が迫って来ている。百人以上の

人々が消え去ってしまった事件が起こった以上、デートなどしていて良いものかと思ってしまう。

 

 だがアルバートは結論を出した。これは他人の間で起こった出来事に過ぎない。自分達とは全

く無縁の世界で起きた事件なのだ。

 

 どうせ、いずれは忘れ去られる事件の一つなのだ。自分が乗り出したところで、一体何になると

いうのだろう。

 

 自分ができる事はただ一つ。マリーとのデートをする事だけだ。

 

 マリーもこのニュースを見ていると思っていた。だが、彼女からはデートをやめにしようという連

絡は無い。つまりデートはする事なのだ。

 

 今のところ、アルバートにとって重要な事は、百人以上の人々が消えた事よりもむしろ、マリー

に嫌われない事の方が大切だった。

 

 

 

 

 

 

 

 午後6時も回った頃、マリーはアルバートとの待ち合わせ場所と決めておいた、大学構内のと

ある場所にいた。

 

 そこは広場の中の一角にある場所で、照明が設けられていた。その照明はマリーの足元にあ

り、薄暗くなっていく広場の中でぼうっとした光を放っている。

 

 デート待ち、そしてデート中のカップルは広場には他にもいた。夜に照明に照らされるこの広場

は、大学の学生たちにとって、良い待ち合わせ場所として知られている。

 

 アルバートが少し遅い。無理も無いだろう。午後に起こった列車消失事件によって、メンガー・シ

ティを走る電車が運休している。

 

 運休した列車を普段利用している乗客達が、バスやタクシーに乗り換えているせいで、どこの

交通機関も混雑していた。人々もどことなく慌ただしく、また攻撃的になっている。

 

 だがマリーはこの神隠し事件に対して、世間でやたらと広がっている恐れを感じる事は無かっ

た。それよりもマリーは好奇さえ感じていたのだ。

 

 人知れず人々が行方不明になる事件は、科学でさえも今のところ解明する事ができないとい

う。だからこそ警察は事件の実態を掴む事ができず、そもそもこれが行方不明事件なのか、死

亡事件なのかという事さえ掴めないでいる。

 

 学者達からも様々な意見が出されている。それは新聞などにも掲載されているが、まだ人々が

突然消え去る事件については、明確な答えさえ出されていない。

 

 マリーも自分で失踪事件の原因について考えを巡らせてみた事もあった。人体の自然発火現

象や、ブラックホールの発生など、様々な原因が思い浮かぶ。しかしそれらの原因を自分で並べ

立てた後に思う事は、所詮は自分はまだ未熟な学生でしか無いという事だ。ろくな答えを出す事

ができない。

 

 事件捜査に参加する事などできるわけもないし、現場に行った事も無いのだから、その実態を

知る事もできない。分かる事は新聞やテレビが伝えている事そのもの。人々が突然、焼け焦げ

のようなものを残して消え去ってしまうという事だけだ。

 

 どうせ、警察が原因を究明するか、いずれどこかの学者が結論を出し、自分の研究成果として

しまうのだろう。

 

 もし、わたしが10年は早く生まれていたら、この事件の究明をして、一躍有名な研究者になれた

かもしれない。教授にもなる事ができるかもしれないし、著名な物理学研究施設にヘッドハンティ

ングされるかも。

 

 そんな事を夢見たとしてももう遅い。だけれどもこの神隠し現象が10年以上も原因不明なまま

続いていけばどうだろうか。その間に行方不明者は何人と数えられないほどに膨れ上がるかもし

れない。行方不明になってしまう人達には申し訳ないかもしれないが、もしそんな事になったら、

何としても自分がその原因を究明してみせてもいい。

 

 この事件が、ホラーや童話で描かれるような神隠しとは違う、何か、超自然的な物理的現象で

あるという事は、マリーにも薄々感じとることができていた。

 

 では、この事件は物理学的に解明される事が必要な事件なのだ。霊能者も超能力者もいらな

い。この事件は、物理学的に解決する事ができるはずなのだ。

 

 マリーは、神隠し事件には恐れも何も抱いていない。むしろそこには、好奇の塊の様なものを

感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなマリーは知る由も無かったが、広場の電灯に照らされている彼女へとゆっくりと影が迫っ

て来ていた。その影は、彼女自身は気が付いていなかったが、あたかも電灯の灯りを消すかの

ように広がって来ている。

 

 その影の広がりは、マリーも認識する事ができるはずだったが、彼女はじっとその電灯の前で

考え事をしていたせいか、全く気がつかないようだった。

 

 マリーがその影の正体に気が付いた時、軽い悲鳴を上げた。影の主を彼女は見る事はできな

かったが、電灯の灯りが消え去った事には分かった。そして、思わず手に持っていたハンドバッ

グを落とす。アルバートとのデートのために、今日ばかりは多少はおめかしをしてきたマリーの真

っ白なバッグが、音を立てて地面に転がった。

 

 だがマリー自身は、軽い悲鳴の後には何も残らなかった。

 

 彼女の姿は消え去ってしまっていた。後には、ただ黒い影の様な痕跡が残っているだけだっ

た。

 

-7ページ-

 

 アルバートがマリーとの待ち合わせ場所にやって来た時、彼女の姿はどこにも見られなかっ

た。

 

 待ち合わせ時間に遅れるような彼女では無い。だから真っ先にアルバートは不信感を感じた。

彼女は時間というものを、何やら物理の中でも特別なもの、そして貴重なもののように感じている

らしく、時間は厳守する。そして遅刻するような事があれば、もちろん自分へと連絡を入れてくれ

るはずだ。

 

 アルバートは携帯電話で連絡を入れようかと考えた。マリーもたまには遅刻するのだろう。そう

思いつつ、彼は携帯電話を取り出そうとしていた。

 

 その時にアルバートは自分の側の、広場の照明が消えている事に気が付いた。正確には照明

が消えていたわけではない。等間隔に広場にずっと並んでいる照明は、すでに真っ暗闇になりつ

つある大学の広場を照らし上げているが、一か所だけ、パーツが欠けたパズルのように照明が

無かった。

 

 それが、アルバートが立っている位置だった。

 

 アルバートは、周りを良く見た。このマリーとの待ち合わせ場所だけ照明がともっていないた

め、妙に暗い。

 

 しかしアルバートは暗いせいですぐには気がつかなかったが、そこにあるものを見つけた。自分

の周り、半径3メートルほどに、黒い影の様なものが広がっている。それはあたかも黒い影のよう

なものだ。

 

 大学の広場に突然現れている影。あまりにも不自然だった。アルバートの頭にはさっきテレビで

観た、鉄道線路を呑み込んでしまった巨大な影が現れてきた。

 

 その影が、マリーとの待ち合わせ場所にある。

 

 そして、列車を呑み込んでしまったあの黒い影は、その列車ごと乗っていた人々をも全て消し去

ってしまった。

 

 この場所にもしマリーがいたら。アルバートは悪い予感がした。しかしそれは的中していた。

 

 白い鞄が転がっている。中身が少し外に出ている。アルバートはその鞄を手に掴んだ。これは

マリーの鞄だ。

 

 しかもその白い鞄には、はっきりと黒い影があり、あたかも何かも燃やされたかのようになって

いた。

 

 アルバートはパニックに陥った。マリーが消え去ってしまった。または、誰かに誘拐されたの

か?そうではない。ここは大学の広場で、他にも待ち合わせをしている学生達が大勢いる。もし

マリーが誘拐されたならば、連れ去られる所や、彼女の悲鳴を誰かが聞く事になる。こんな場所

で誘拐されるなど不自然だ。

 

「おおい!ここにいた人を見なかったか?女子学生なんだ」

 

 アルバートはすぐ近くにいた、恋人同士かと思われる学生たちに声をかけた。

 

 もしマリーが誰かに連れ去られていたら、それを目撃しているはずだ。

 

「さっきまで誰かいたと思ったけど」

 

「どっかに行っちゃったんじゃあない?」

 

 と、その男女は何も知らないといったように言って来た。

 

 アルバートは、マリーの白い鞄を抱えたまま、どうする事もできないでいた。白い鞄に残っている

黒い影は、染みなどよりももっと存在感のあるものがあり、不気味なものにさえ見えていた。

 

 どうしたらいい?

 

 もし、マリーが神隠しと呼ばれている現象に遭ってしまったとしたら?

 

 アルバートは、最後の望みとばかりに、携帯電話を取り出し、それでマリーに向けて電話をかけ

ることにした。

 

(この番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため…)

 

 落ちついた声で録音されている電話会社のその声も、今のアルバートにとっては苛立ちと焦り

の対象となった。

 

 もしマリーがその辺りにいるならば、電話は繋がるはずだ。しかしながら電話は繋がらない。そ

して黒い影。

 

 結論に飛びつくには早すぎるだろうか。だが、ここ最近、メンガー・シティでは当たり前のように

次々と神隠し事件が続発し、そこには黒い影が残されている。

 

 警察もこの事件に関しては全く手掛かりを掴めていないという。

 

 アルバートにとって、最も身近で頼れる存在は、一人しかいなかった。

 

-8ページ-

 

「アルバート、君から私の研究室に来てくれるとはね。同じ大学にいるのだから、いつ来てくれて

も良いのに」

 

 そう言いながら、アルバートの叔父にして、メンガー総合大学の理工学部教授のパロマーはそ

のように言いつつ、自分の研究室のホワイトボードの前にいた。彼の研究室は教授と言う事もあ

ってか広々としたスペースに感じられる。

 

 しかしそれだけではない、パロマーの部屋には、研究者や教授と言う言葉で人々が想像しがち

な、実験道具というものが置かれていない。

 

 部屋に置かれているのは、書斎の様な本棚と、コンピュータが数台あるだけだ。あとは異様に

大きなホワイトボードがあり、それにはアルバートには理解不能な数式が書きなぐられている。

 

 アルバートがこの研究室に入って来た時も、彼はしきりにホワイトボードに何かを書いていた。

 

「座りたまえ。今日はゼミも終わって、私が勝手に残っているだけだから、ほら」

 

 と言いつつ、叔父は促しているが、それよりも前に彼はマリーの鞄を彼の前へと突き出してい

た。

 

「これを見てください」

 

 叔父の前に突き出されたのは、真っ白な鞄に不気味に残る黒い影のようなものだった。影の部

分で鞄は裂けたというよりもむしろ、切断されたかのように消え失せてしまっている。

 

「これは、とても鋭利な刃物で、焼き切られた、かのようだね?そう言えば見た事があるような鞄

な気がするが、君のじゃあないね?」

 

 叔父も事の深刻さが理解できてきたようだ。深刻な表情をし、鞄をアルバートから受け取った。

 

「座りたまえ。まずは落ちつこう」

 

「マリーが、マリーがいなくなってしまったんです。多分、これは神隠しの!」

 

「だから、落ちつきたまえ。マリーとは、理論物理学科の、あのマリー君の事か。君が付き合って

いた?慌てる気持ちも分かるが、まずは落ちつくんだ」

 

 そう言って、叔父はアルバートを落ちつかせた。

 

「今日もあったでしょう?神隠しが。電車が丸々一つ呑み込まれたって言う!その場にも、この鞄

と同じような影がありました!鞄が落ちていた場所にも、大きな影があったんです。マリーは確か

にそこにいたのに、僕がついたときには消え失せてしまっていた!」

 

 アルバートはとても椅子に座る事は出来ず、ただそう言う事しかできなかった。

 

「そのような事なら、警察に連絡すべきじゃあないかね?」

 

「警察だって、つかんじゃあいないんでしょう?マリーがどこに行ったかなんて警察にだって分から

ない」

 

 とアルバートは自分の動揺を抑える事ができない。だからここに駆け込んできてしまったような

ものだ。物知りな叔父ならば何とかしてくれる。そう思ったのだ。

 

「だが、まずは警察に連絡を入れるべきだよ。神隠しが大学の中で起きたというのならば、わたし

にはそれをきちんと報告する義務があるんだ」

 

 鞄はパロマーの研究室のテーブルの上に置かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 ものの1時間後には、マリーが残したその不気味な黒い影を残した鞄は、警察の証拠品袋の透

明なビニールに包みこまれた。中身も全部中に入れられる。

 

 アルバートは、強面の背の高い刑事に、幾つか質問をされたが、彼は鞄を発見した。マリーと

待ち合わせをしていたという事実だけを伝える事しかできなかった。

 

「マリーは見つかるんでしょうか?」

 

 アルバートはその刑事の前で独り言のように、そう言っていた。

 

「さあな。我々にも分からない事だらけだ」

 

 刑事はそっけなくそう言うだけだった。アルバートは別に彼らに期待をしているわけではない。も

し彼らに期待していれば、もっとましな態度を取っただろう。どうせ警察にも、この神隠し事件の詳

細は掴めていないのだ。

 

「教授さん、あなたも何か見ていないんですか?」

 

 と、刑事は向き直り、ホワイトボードの前で何かを書きなぐっている、叔父に向かって言った。

 

 彼は集中して何かの作業を進めていたらしく反応できていなかった。一心不乱に、アルバートに

とっては意味不明な数式やらなにやらを書きなぐっている。その姿は、あたかも新たな発見をし

た研究者のようだった。

 

「教授さん!いちおう、あなたにも質問が?」

 

 刑事がそのように声を上げると、ようやく叔父はホワイトボードに書きなぐる手を止めた。

 

「それは、ただの目撃者としてかね?それとも、理論物理学者の意見として?」

 

 と、彼は刑事の態度とは反して、何とも落ちついた声でそのように尋ねるのだった。

 

「じゃあ、両方お聞かせ願えますかね。正直、この事件は我々警察でもお手上げというのが実際

です。隠す必要なんてもうないです。マスコミにも散々書かれているくらいですから」

 

 刑事はそう言うなり、アルバートは座らなかった、叔父の研究室にある椅子に座る。

 

「目撃者としては、何もありませんよ。私はその場にはいなかったんだから。私の甥が、その鞄を

持ってきただけだ」

 

 叔父はそう言うなり、今度はホワイトボードに一本の長いラインを引いていた。

 

「ああそう。じゃあ、今度は学者の方としての意見を聞きたいところだ」

 

 刑事はそのように言いだした。

 

「何故、警察は私に、この事件の原因究明を依頼しなかったのか、不思議でしてね」

 

 叔父は突然そのように言いだした。一体何を言っているのかという様子で、刑事は間の抜けた

ような声を上げた。

 

「何を、おっしゃりたい?」

 

「人体の自然発火現象。透明人間の仕業。もしや、そうした現象に惑わされていて、この事件が

別の観点から見るべきだと思った事は?」

 

 そう言いつつも、叔父は次々とホワイトボードになにやら書きなぐっている。

 

「そんなマスコミが流しているような、くだらん憶測には飛びついてはいませんよ。あくまで事件とし

て我々は扱っている。専門家ならとっくに呼んである。あなたに依頼するまでもなく」

 

「その方、もしくはその方達は、理論物理学者ですかな?」

 

 その言葉を発すると同時に、叔父はホワイトボードに書きなぐる手を止めた。

 

「いいや。行方不明事件の専門家だ。あなたのように、民間の大学の教授さんとかじゃあない。

大体、あなたの書いているような、数式で解決できる事件とはとても思えん」

 

 刑事はだんだんと苛立ってきているようだった。それに反して、アルバートの叔父は落ちついた

態度を取っていた。

 

「さあ、それはどうですかな?もしかしたら、この事件は、ただの行方不明事件などではありませ

んよ。わたしの考えによればね。もう少しで、この事件の全貌が見えてきそうだ」

 

 そう言いつつ、叔父は更に数式を先に進めていく。

 

「その数式で、神隠しが解き明かせるとか!」

 

 アルバートは思わずそう言い放ったが、パロマーはペンの動きを止めて言った。

 

「いや、この数式は何も関係は無い。ただ、考えを整理する時は、何かの数式を解いている方が

落ちつくものでね」

 

 その言葉に、刑事はどうやら呆れたようだった。

 

「やれやれ、その数式で解決できるのならば、いくらなんでも単純すぎると、私も思っていた所で

すよ。まあ、何かありましたら、ここに連絡してください。それじゃあ、私はこれで」

 

 刑事は名刺を机に置いていくだけで、研究室からさっさと出て行ってしまった。

 

 叔父はと言うと、刑事が研究室から出ていった事など知らないかのように、更に数式の続きを

連ねていた。

 

「おじさん!」

 

 アルバートはたまらずと言った様子で、思わず身を乗り出し、叔父に呼びかけた。すると彼はち

らりとアルバートの方を振り向いて言ってくる。

 

「少し、落ちついたらどうだね」

 

「落ちついてなんていられないよ!」

 

 アルバートは思わずそのように言い放っていた。どんな風に思われたって構わない。だが、大

切なマリーが消えてしまった事で、彼はとにかく動揺を抑える事ができないのだ。

 

「私も、こうして考えているのだ。それこそ本気でね。この数式は確かに意味は持っていないかも

しれないが、私の中で、何かが組み上がってきている事は分かる。どうもこの事件は、私の専門

分野が関係しているのではないかと、思って来ていてね」

 

 叔父のその言葉に、アルバートは何かの活路を見出したような気がした。

 

「本当ですか?」

 

「ああ。だけれども、まだ言葉にする事はできない。すまないんだが、私もマリーを、今すぐにでも

この場に取り戻してあげる事はできそうにないのだ。明日、また来てくれないかね?そうすれば、

きっと解決へと導いてあげる事ができる」

 

「分かり、ました」

 

 叔父のその言葉で、ようやくアルバートは落ちつく事ができた。だが、やはり不安は残る。マリー

は一体、どこへと行ってしまったのか。それはアルバートにとっても、全く理解ができない事だっ

た。

 

-9ページ-

 

 翌日。アルバートはほとんど眠れないままに夜を過ごしてしまっていた。今だに信じられない

が、マリーがあの神隠しに遭ってしまったのだ。

 

 そして消え去ってしまった。眠っていられるわけがない。あのマリーが唯一残した白い鞄に残っ

た黒い染み。あの影がアルバートの頭に焼き付いて離れない。白い生地に残された染みは、異

様なまでの存在感を持っていた。

 

 あの染み自体が何か怪物のような存在であり、自分にも襲いかかってくるのではないかと、ア

ルバートは恐れさえも抱くのだった。

 

 だから、再び叔父のパロマーに出会うまでは、アルバートは自分の不安を心から消し去る事が

出来ず、また、それは顔にも表れていた事だろう。

 

 翌日の大学の講義は午後からだった。パロマーも時間を取っていてくれた。大学のパロマーの

研究室に再びアルバートは足を踏み入れ、昨日よりもずっと数が多くなっている数式を目の当た

りにした。

 

「やあ、昨日はよく眠れたかね?」

 

 叔父はそのように言ってきたが、

 

「いいえ、全然」

 

 憮然とした態度でアルバートは答えるのだった。

 

「私も、だよ。いや、大学の構内でこんな事件があれば、そして私が一番気に入っている生徒が

消えてしまったとなれば、落ちついてなどはおれんな。そんな時は、賞金にかけられているような

数式を解こうとする事で、私は物事を忘れようとする。

 

 だが、それでも無理だな。やはりこの事件は異質過ぎる。しかしながら、数式を解きつつも、私

はだんだんこの事件の全貌が掴めてきたような気がする!」

 

 叔父のその言葉に思わずアルバートは身を乗り出した。

 

「それは本当!」

 

 叔父のその言葉がアルバートにとっては、何よりもの朗報であるかのように聞こえた。

 

「まあ、そう慌てんでも」

 

 そのように叔父が言った時だった。

 

「そういう事でしたら、是非とも私にもお聞かせ願いたいものだ」

 

 図太い声が聞こえてきたかと思うと、パロマーの研究室に入ってくる一人の人物の姿が合っ

た。アルバートには見覚えがある。

 

 それは昨日、この大学にやってきたあの刑事だった。相変わらずいかめしい顔をしている。彼

も眠れていないのだろうか。昨日と全く同じ姿をしており、いかめしい顔をしつつも、顔に隈が出

来ている。

 

「まあまあ、そんなに慌てんでも。それよりも刑事さん。例のテープというのは持ってきてもらえま

したかな?」

 

 叔父が二人をなだめながらそのように言った。

 

 例のテープとは何の事か?そもそも、何で機能の刑事がここに来ているのだろう?事件の事で

まだ、叔父に聞きたい事でもあると言うのだろうか。

 

「ええ、ここにありますよ。あなたなら、何か分かるかと思いましてね」

 

 そう言いつつ、刑事は黒い色をしたテープを見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 テープはパロマーの研究室にあった再生装置で再生された。

 

 そこに写っていた画面は、どこかの家族の撮影しているビデオ撮影のようだった。場所はメンガ

ー・シティ内で撮影されているようだ。

 

 手ぶれの仕方や、周りの雑音が入っている事から、あくまで素人が撮っている家庭用のビデオ

でしかない事は、アルバートにもすぐに分かった。

 

「これは昨日起きた、列車消失事件の際、正にその現場の付近にいた、ある家庭の父親が撮影

をしたもの。まあ、内容は見ての通り、子供の成長ぶりをビデオで記録するという微笑ましいもの

ですが、この画面の奥の方に、例の事件現場、鉄道線路があるわけです」

 

 刑事はどことなくぶっきらぼうな様子を見せつつも、叔父、パロマーに説明を続ける。

 

「まあ、どこにでもありそうな、普通の家庭ですな」

 

 緊張感のない叔父の言葉に、刑事は咳払いをしていた。そして、リモコンでビデオを操作してい

る叔父に向かって言った。

 

「少し飛ばしてくれますか?時間が、午後2時を越えるくらいの所まで。事件が起きた、午後2時

頃、ここを列車が通過します。銀色の6両編成。それが消える瞬間が撮影されている、唯一のビ

デオです」

 

 どこかの家族がとったビデオのタイムカウントが、2時を過ぎ、1分ほどが経過した。すると、住

宅地の向こう側、少しわかりにくいが、開けた広場の向こう側を、アルバートも毎日の様に利用し

ている、列車が1編成現れる。

 

 銀色のボディをしたその列車は、画面を横切っていくが、それは突然、広場に何かの幕でもあ

り、その裏側に隠れるかのようにして消えていく。

 

 やがて、列車は前方から次々と消え去っていった。それは粉砕されるように粉々になっていくも

のとは違う。まるで先の方に見えないトンネルがあって、そこに潜り込んでいくかのように消え去

ってしまっていったのだ。

 

 列車は、スピードを緩める事も無く、あっという間に姿を消していった。ビデオには音も何も収録

されていない。しかも、ビデオの撮影者は、ほんの数十メートル先で列車が消えていった事に気

づいてもいなかった。

 

 画面には無邪気に遊んでいる子供の姿が、変わらずに映されている。

 

「これがこの神隠し事件を映した、唯一の目撃証言です。ビデオの続きを見ても良いですが、こ

の撮影者は当初、列車が自分達のすぐそばで消え去ったことに一切気が付いていませんでし

た。家に帰ってニュースを聴き、慌ててビデオを見返した時に気が付いたのだとか」

 

 ファラデー刑事はそのように言った。

 

 アルバートは信じられない思いだった。これが、ただの心霊怪奇ビデオのようなものだったら、

アルバートも何らかのトリックとしか思わない。

 

 だが、実際にこの場所で、列車は消失している。

 

 爆弾で粉々に粉砕された訳でもなければ、全てが燃え上がって消滅したのでもない。

 

「まるで、人間の眼の盲点に物が入り込むかのような消え方でしたな」

 

 叔父はあくまでいつもの口調で言った。

 

「そう申しますと?」

 

 刑事が興味ありそうに促してくる。

 

「ものが消えてしまうというのは、色々な消え方があるものです。燃え上がって消えたり、粉々にな

ったりするものですが、この消え方は、まるで私達の見えない場所に隠れていくかのような消え方

でしたな。

 

 それと刑事さん。各地の現場に残されていた、燃えカスのようなものの分析結果は出したのでし

ょう?」

 

 そう言いながら叔父は自分の研究室にあるコーヒーメーカーから、コーヒーを注いでいる。何と

も緊張感のない姿だ。

 

「あれは炭素とか、地面やらを構成している物質ばかりで、言わば人や土や現場の表面燃えカス

でしかありませんでしたよ。だから、そこで火でも起こって、人体の自然発火などを疑ったのです

がね。だったら燃えているのを誰かが見ているはずだ。丸々列車が燃え上がって消えるまでには

相当時間がかかるでしょう?」

 

 ファラデー刑事はそう言った。アルバートはマリーが一瞬の内に燃え上がる様を想像しそうにな

ってしまったが、すぐに思考がそれを停止させた。その光景はあまりにも残酷すぎる。

 

「ふむ。自然発火現象は状況によっては起こりうる出来事かもしれませんが、これだけしょっちゅ

う起こっているとなると、もっと未知の可能性に目を向けてみる気は?」

 

 そう言いつつ叔父は、自分の分だけではなく、刑事の分と、アルバートの分のコーヒーも注いで

差し出してきた。

 

「ホワイトボードの上に書いている数式で、解明できる現象だとでも?」

 

 ファラデー刑事はそう言いながら、呆れたようにホワイトボードに並んでいる、パロマーが書いて

いた数式を指差す。

 

「私も、素人ながら色々と調べさせてもらいましてね。もちろん警察の方が知っているような情報

よりはずっと少ないのですが、この神隠し事件にはいくつか共通点があると言う事が分かってき

ましたよ。

 

 第一に、今見たように、誰にも知られずに一瞬の内に、人やら物がやらが消えている。これは

不可解だ。だからこそ、この事件は神隠しと呼ばれている。

 

 そして第二に、このメンガー・シティで事件は集中して起こっている。そして、刑事さんが言われ

たように、現場には地面の燃えカスのような物質と影が残されている。何故、地面に影の様な跡

があり、人や列車だけがそこにいないのか。

 

 私はこう考えています。何者かが、そこを通過したのではないかとね。それも、我々の目には映

らないものが通過したのではないかと」

 

 叔父がそのように言うと、ファラデー刑事は鼻を鳴らした。

 

「はあ、まさか。幽霊の仕業などとも言うのですか?あなたは科学者でしょう?」

 

 確かに叔父が幽霊の仕業などと言ってしまおうならば、アルバートも呆れていただろう。だが、

彼はすでに目を光らせていた。

 

「もちろん。私も科学者ですからね。そう簡単に幽霊の仕業などとは言いませんよ。ただ、目に見

えないもの。そうは言いました。ご存知ですかな?この世には人間の目に見えるものよりも、見え

ないものの方が遥かに多くあるという事を」

 

 そのように叔父は言葉を続けた。今ではホワイトボードに数式をかきなぐるような事はせず、あ

たかも大学の講堂で講義をしているかのような手振りをして見せている。

 

「幽霊とか言われている現象は、全てプラズマのせいだって、テレビで言っているのを見ました

よ」

 

 相変わらずファラデー刑事は呆れているような素ぶりだ。そう言えば、そんな科学で幽霊や超

常現象を解明しようとしているテレビ番組を、アルバートも見た事があった。

 

「ははは。プラズマは目に見えますよ。私が言っているのは、目に見えないものです。そして正確

に言うならば、目に見えない方向とでも言いましょうか?」

 

 叔父はあたかも、ファラデーとアルバートという学生を相手に講義をしているかのような態度だ

った。

 

「背後から襲われた、とでも言われるつもりですかな?」

 

「いえいえ、背後からでもなければ、右からでも左からでも無い、もう一つの方向から襲われた可

能性もあります」

 

 そのように叔父は説明する。

 

「よく、分かりませんな?何をおっしゃっているのですか?」

 

 ファラデー刑事は促した。

 

-10ページ-

 

「私の専攻をご存知ですかな?刑事さん」

 

 それはアルバートも知っている。理論物理学者とかで、日夜、訳が分からない暗号の様なもの

をホワイトボードにかきなぐり、講義をしているという専攻だ。

 

「物理学とかで?わたしは高校以来は習っていませんので、良く分かりませんよ」

 

 すると、待っていたと言わんばかりに叔父は言った。

 

「高次元の理論物理学ですよ。超ひも理論などを完成させようとするのが私の目的だ。まあ、仲

間内からは、よくそんな理論だけで食べていけるものだと、嫉妬にも似た事を言われていますけ

れどもね」

 

「高次元?何の話ですか?」

 

 アルバートにも初めて聞く言葉だった。そんな言葉は、テレビに出ていた、超常現象解明屋の

物理学者も使っていなかった。

 

「刑事さん。この世界は何次元ですか?この部屋でもいいし、窓から見える景色でも良いです」

 

 そのように言われると、刑事は首を振った。

 

「何をおっしゃるか。そのくらいの事、子供でも分かる。二次元でしょう?右か、左か、後ろか、前

か。それでこの世界は構成されている。いや、あなた達の言い方なら、この宇宙が、とでも言うん

ですか」

 

 すると、まんまと自分の手中にはまったと言わんばかりの表情をパロマーはして見せた。

 

「本当に、そうですか?本当に、あなたはこの宇宙には、二次元“までしかない”と思ってしまって

いるのですか?」

 

 そう言いながら叔父はホワイトボードにいつものように、あるものを書く。それは一直線だった。

 

「おじさんは何が言いたいの?」

 

「これが、一次元。線です。この世界では、前と後ろしかない」

 

 アルバートの言葉を遮るかのように、パロマーは言った。

 

「そして、ここにこうやって線を引いて、二次元に見せる事ができる。残念ながら、わたし達は二

次元の人間だから、線でしかものを書く事ができない。でも世界は面というものによってできてい

る。さて、そこでです。そこで、アルバート君。もしここに、三本目の線、というか方向を引けたとし

たら、それは何次元という?」

 

 パロマーの講義は始まっていた。だが、深く考えなければ解ける問題だ。

 

「三次元という言葉が正しいのならば」

 

「そう、三次元。三つめの方向だよ」

 

「やはりあなた達科学者の言う事は突飛過ぎる。時間を呼び超えて、別の世界に連れ去られたと

でも言うのですか?」

 

 ファラデー刑事はまだ疑っている。だが、アルバートの叔父はそんな学生など扱いなれているか

のようだった。

 

「時間、じゃあありません。方向ですよ、刑事さん。よく三つ目の次元は時間とか言われています

が、私は時間と方向と言うものはまた別物であり、何次元という勘定には時間は加えないようにし

ているのです。

 

 さて、この三つ目の方向、三次元ですが、別に別の世界とかにあるものでも何でもありません。

多分、当たり前のようにこの場所にもあるでしょう。列車に乗っても、車に乗っても、歩いていて

も、あるものはあるのですが、私達は、その三つ目の方向に進む事ができないだけです」

 

 叔父は三つ引いたホワイトボードの線だけで、講義を展開して言っている。

 

「頭がこんがらがってきた。見えない方向があるっていう事でいいの?」

 

「刑事さんよりも、アルバート君の方が物分かりが良いようだ。まさにその通り。しかも私はこの世

界にある方向というものは、たかだか三つ程度ではないと思っている。

 

 私の立てようとしている理論、超ひも理論ならば、少なくとも10は、いや、もしかしたら20以上

もの次元というものがあって、私達は、所詮は二本の線の上を這っている虫のような存在でしか

無いのかもしれない。

 

 私達の目、そして感覚が、その次元には追い付いておいらんのですよ」

 

 とパロマーは説明を続けた。アルバートは何だかどこかで同じような話を聞いた事がある気がし

た。そう言えば、マリーに半ば強引に参加させられた、彼の講義で同じような説明を聴いていた。

 

 改めて聞いてみても、アルバートには何も掴む事ができない空気のように、叔父の説明は上手

く理解できない。

 

 それはどうやら、ファラデー刑事も同じらしかった。

 

「何でもかんでも、自分の理論で片づける専門家たちの意見は聴いてきて、私もいい加減うんざ

りしてきたところだ。そんな中で、確かにあなたの意見は面白い方かもしれない。

 

 ですが、そんな意見はとても信用できませんね。この神隠しでは、すでに何度もの調査が行わ

れてきている。説明と理論だけで片付けられるものとは思えませんよ」

 

 刑事は意味が分からないと言うよりもむしろ、理解したくないというような様子だった。

 

 しかし叔父はそんな相手など、幾らでも扱って来たというように、彼の言葉を受け流した。

 

「この事件は、神隠しという、神の行いというほどのものではないかもしれませんよ、刑事さん?も

しかしたらごく単純な、ありふれた事件なのかもしれない。もっと、視野を鋭く持った方が」

 

「視野を鋭く?私はいつもそうしてきている!」

 

 叔父のその言葉は、ファラデー刑事の怒りに触れてしまったのか、彼は声を荒立てていた。

 

「もういいでしょう?あなたは、この事件に対して解明できたと電話で言って来たから私はここに

来た。だが、結局のところ、あなたも他の専門家と同じという事だけが分かったにすぎない。もう

いいでしょう。この事件は、警察だけで解決する」

 

 刑事はそのように言いながら、乱暴にテーブルにあったテープをひっつかむと、パロマーの研

究室から出ていってしまった。

 

「さあ、君はどう思うかね?」

 

 別にどうという様子ではない、そんな姿を見せつつ、叔父は言って来た。

 

「どうとは思いませんけれども、僕には理解できるかどうか分かりません」

 

 アルバートの答えは自信の無いものだった。三次元。三つ目の方向がある。そんな話をされた

としても、アルバートにとっては宇宙の彼方にあるようなものとしてしか思えない。

 

「何。不思議なことでは無いと言うのに。この部屋自体も、ただ“平面”では無くて、もっと幾つもの

方向があるかもしれない。そのどこかの方向から、使者が私達を連れ去りに来ているかも知れな

いと、私はそう言ったのだ」

 

 アルバートは周囲を見回してみた。だが叔父の研究室はどのように見たとしても平面しか無く、

二つの向きしかそこには存在しない。数式は線で表され、本は一方向に並ぶ。

 

「僕はただ、マリーが心配なだけです」

 

 アルバートは素直な自分の気持ちをそう口走っていた。

 

「そうだったね。あの優秀な学生が消えてしまった事は残念だ。だが、私は何も彼女がこの世か

ら消え去ってしまったとは思っていない。もしかしたら、それほど遠くない場所にいるかもしれな

い。そう言っているんだ」

 

「それほど、遠くない場所?」

 

 だとしたら、この大学のどこかにいるかもしれないとでも言うのか。アルバートはそう思った。

 

「ただ、その場所は私達には見る事も感じる事もできない場所だがね。だけれども、私達が、そ

の上の次元を知る方法は一つだけある。それが影だよ」

 

 また叔父の難解な説明が始まるのか。アルバートは思わず身構えた。

 

「影?」

 

「二次元のものを私達はどうやって表現する?一次元として表現するだろう?つまり、平面を表

現するために線を使う。さっきも形式的に、三次元以上のものを表現するために私は線を使っ

た。

 

 線とは何か?このホワイトボードに書かれた線は?つまりは影だよ。一次元世界にしかいない

虫は、影と言う形で二次元の世界を知ることになる。

 

 それは更に上の次元でも同じことでね。必ず一つ上の次元のものは、一つ下の次元に影と言う

か、跡というもので認識される」

 

 その叔父の跡という言葉で、アルバートは真っ先にあるものを想像した。

 

「もしかして、あの影のようなものは?」

 

「上の次元からやってきた使者の残した、影かもしれないという事だよ。私には影というよりも、ま

るで墨で塗ったような影に見えるんだがね。

 

 そうした事から、私は想像してみた。そうしたら見事に自分の専攻の分野じゃあないか」

 

 しかしそうは言われても、アルバートは納得する事ができなかった。あまりにも叔父の言ってい

る事が、高い場所にあるような気がしてならなかった。

 

「正直に言って、もっと明確な証拠みたいなものが欲しいですね。説明や理論だけじゃあなくって」

 

「そうかい。だが、あの刑事さんが言ったように、私はこうして理論立てて説明する事しかできな

い。実際に事件を解決するのは、あの刑事さんの方さ」

 

 叔父にそう言われてしまえばそれまでだった。

 

 だが、もはやアルバートはこの神隠し事件の部外者として、自分を置く事はできなかった。マリ

ーが消えてしまった以上、もはや起きている出来事は他人事ではないのだ。

 

 

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説明
全てが二次元平面であるという世界で、連続失踪事件が発生するという物語。主人公は普通の大学生なのですが―。
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