『やまない微熱』第2章その3
[全1ページ]

   3

 

 やっちゃいましたよ。不覚です。

 まさか電車の中で血を吐いてしまうとは、想定外です。

 

 学校の授業中なら頴田君に接近する大チャンスになるでしょうが、

 こんな場所で吐いてしまったら全くの無駄骨ならぬ無駄血じゃないですか。

 これ一応、私の体液ですよ。

 血を吐くの慣れてはいても、吐いていいものでもないんですから。

 

 満員電車に揺られたのがまずかったのでしょうか?

 普段は限界まで、ぐっと我慢する私も抵抗一つ出来ずに吐いちゃいました。

 

 しかし、私みたいな人の為に優先座席があるんじゃないんですか?

 それなのにあのガキ共と馬鹿親、我が物顔で座って!

 

 ふふふふ、別にいいんですよ。

 今更席を空けなくても、ちょっと血が飛んだぐらいで、そんな慌てなくてもいいんですから。

 

 ちょっと、半泣きはやめてください。

 まるで私が見ず知らずの一般市民をいじめてるみたいじゃないですか。

 それに汚らわしいモノを見る目もやめてください。

 私の血はそんなに汚くありません。

 さっきまで私の中にあったものですよ。

 

 あ、……もう一回出そう。

 

 早く次の駅に着かないかなぁ、

 さすがにハンカチ一枚じゃ足りないんですよ。

 

 私の願いを聞き届けたのか、電車は減速を始める。

 私が扉の方を向けば満員電車の人垣が左右に割れていく。その中央は私が通るべき道。

 

 私は満員電車の中に現れた道を歩いていく。

 まるでモーゼみたい。それとも告別式の見送りかしら?

 

 私の見当はずれな感想を余所に、喉の奥に灼熱がうごめく。

 私の体内にある物のはずなのに、私よりも遙かに熱を放っている。

 その分これを吐き出せば、私から何かが削り取られるのでしょう。

 そんな実感に私は恐怖を覚える。

 

 停車駅へのアプローチも終わりにさしかかり、窓の外にプラットホームが流れ込む。

 出入り口の扉まで辿り着いた私は、勢い余って扉にもたれかかった。

 

 やだ、扉に血がついちゃった。鉄道会社の人、ごめんなさい。

 わざとじゃありません。私はちゃんとハンカチで抑えてたのに。

 不可抗力だから、放っておきますね。後で扉、洗ってください。

 

 血に塗られた扉が開くと同時に、私はホームに駆け降りる。

 日頃の行いがいいのか、単なる偶然か、降りたホームの目の前にお手洗いがありました。

 

 ちょっと吐いてきます。

 

 

 

 全部出し切った私は、妙にすっきりしていた。

 もう、胸にも喉にも違和感はありません。

 

 誰もいないホームに座り、空を眺めていた。

 天空は冬色に染まり、本格的な冬がもう直ぐそこまで迫っている。

 

 今の吐血で、今日の目的である冬物衣類の買い出しも出端を挫かれた形です。

 電車の中で吐血したと父に知れたら怒られるだろうなぁ。

 

 私が学校以外に一人で出掛けるのを、父はとても嫌がります。

 当然、私の体を心配してくれているんでしょうけど、私だって女子高生です。

 父と連れ添ってばかりなのは恥ずかしい。特に服や下着を買いに行くときは、

 私は一人で二松市の中心部にある新町〈しんまち〉に出掛けることにしている。

 買い物に付き合ってくれる友達がいなんて、寂しくないと言えば嘘になっちゃいます。

 

 新町までは電車に揺られ四十分ほど。

 いつもなら体に負担を感じる距離じゃないのに、今日は特別です。

 理由はわかりませんが、いつもは見るも寂しいガラガラの電車は今日に限って大入り満員。

 何かイベントでもあるのでしょうか?

 この時期のイベントといえば文化祭しか私は思いつきません。

 

 私は文化祭というものに行ったことがない。

 中学校にそんなのはありませんでした。

 そして今年と同じ高一だった去年は階段で足を滑らせ、文字通り体を壊して入院していました。丁度、去年の今頃でした。

 それも今年冬に着る物が不足している一因。

 去年の冬は買い物に出かけることがなかったのです。

 

 もちろん、友達のいない私は他校の文化祭に行く機会だってない。

 それに、他校で私が体調を崩せばみんなに迷惑がかかる。

 あまり自分から他校に出向こうなんて発想自体、私にはないんです。

 

 他校で血を吐いた、なんて噂になったら……。

 私はそうなった場合を想像してみる。

 

 ……結構、面白いかも。

 

 それにしても、このところ吐血にしろ嘔吐にしろ回数が増えてきている。

 それが何を示すのか、私は考えないようにしている。

 そんなことをいちいち気にしていたら私は生きていけない。

 私の体が弱いのに理由なんてないのだから。

 

 私の人生は多難です。

 前途多難と言えないところが私の人生。

 それは前途の、未来のある人間の言うことです。

 私には相応しくない言葉。

 

 いつも通りのネガティブな思考を繰り返す私。

 

 そんなことを考えても私の体調は好転しない。

 むしろネガティブな思考は私を追い詰める。

 『病は気から』それが真実だと知っていても、『気で病は治らない』とも知っている。

 つまり、私がどう思ったところで私の体はよくならない。

 

 考えが一巡したところで、私はやっと周りを気にする余裕が出来ました。

 

 あれ? ここ、どこ?

 

 駅のホームに人影はない。

 吹きさらしのホームから周りを見渡せば、山際の竹林が直ぐそこまで迫っている。

 私が今さっき吐いて来たお手洗いのある駅舎は古くさい木製で、鉄道マニアの好きそうな趣を感じます。

 駅の周囲に建物は見あたらず、駅だけがポツンと立っていた。

 

 私の最寄り駅である新前岡駅も栄えた駅とは言えませんが、

 この駅は輪をかけて何もない寂れた駅のようです。

 

 駅舎にも人がいる様子はなく、鳥の声しか聞こえない静かなホームに私一人だけがいる。

 

 私はベンチから立ち上がり、ふらふらと駅名のプレートを探しました。

 

 『榛道』私が見つけたプレートにはそう書かれていた。

 何て読むんだろう?

 と一瞬戸惑いましたが、直ぐ下に『はるのみち』と書いてありました。

 

 どこかで聞いたことあるような、ないような駅名です。

 そりゃ、車内アナウンスで停車駅を告げてるんだし、聞き覚えがない方がおかしい。

 『榛道』って文字も線路図かなんかで見ているはずです。

 だけど、どうにも覚えがありません。こんな駅ありましたっけ?

 

 私が降りた電車が行ってから、人っ子一人いないホーム。

 向かいのホームにすら誰もいない。

 まるで、この駅が私一人の為にあるようだった。

 

 なんだか私は良い気分になる。まるで学校の屋上にいる気分。

 私一人だけの世界がそこにはあった。

 これで私の横に頴田君でもいれば完璧なんだけどなぁ。

 

 あ〜。そんな冗談が思い付くぐらいに体調は落ち着いてきたようです。

 

 辺りを見回しても駅名のプレートの側には時刻表が見あたらず、

 私は時刻表を求めてホームを散策することにした。

 雰囲気からして各駅停車の鈍行しか止まらない駅。

 もともと本数の多くないこの路線のこと。

 三、四十分は待たされるのを覚悟した方がいい。

 

 素直に帰るか買い物を続行するか、私の体調と相談しながら決めないといけません。

 

 確かにさっきは吐いちゃったけど、この冬を乗り越す衣類の買い出しは、

 雪の舞い散る本格的な冬が来る前に済ませなければいけないわけで、

 体調が悪いながらも今日のうちに済ませられれば、今日出かけた甲斐もある。

 逆に今日というチャンスを逃すと日に日に冷え込みが厳しさを増すこの季節、

 あっという間に霧ヶ屋は雪に閉ざされるでしょう。

 

 そんな季節になるまで、買い物に行かなかった私に責任があるのでしょうけど、遠出は余り好きではないんです。

 

 あった。あった。時刻表です。

 なぜか駅舎から離れた場所にひっそりと時刻表は立っていた。

 

 私の予想通り、次に新町方面行きの電車が来るのは三十四分後。

 それくらいの時間ならホームで待ち続けても支障はないけど、

 新町に行くか、戻るかは帰り方面の時刻表を見てからでも遅くない。

 

 私は陸橋通路を挟んで向かい側のホームを睨み付け逡巡する。

 階段を上がって下りて、反対側のホームに行くのはいささか体力を消費する。

 それで反対方面の時刻表を見てみたら、次の電車までの待ち時間がこちらより長いと、

 また戻ってこないといけないわけで、そうなったら誰が私の貴重な体力の弁償をするのでしょうか?

 

 いやはや、私の体力はこの世でもっとも貴重なものの一つです。

 御歳十六の私は、未だに持久走完走ゼロを誇る生物です。

 そもそも、体調が相当良くないと体育に参加すら出来ないんです。

 

 何だかんだ言ってみても、単に移動するのが面倒臭いだけという説が最有力で、

 行くか帰るか決めてないのに、どちらの方面の電車に乗れというのでしょう。

 

 反対方面の時刻表を見てからどうするかを決めるのか、どうするのか決めてから反対方面のホームに移動するのか。

 なんだか、卵か先か鶏が先かみたいいな話。なんて不毛な思考でしょう。

 

 そんな意味もない思案にふけっている私を余所に、やっと一人、ホームに人が現れた。

 

「頴田君?」

 

 自分で吐いた言葉が信じられなかった。自分の見たものが信じられなかった。

 

 どうして頴田君がいるの?

 どうしてこんな私が偶然降りた名前も知らない駅に頴田君がいるの?

 どうして向かいのホームに頴田君が入ってくるの?

 

「頴田君」

 

 私は彼に呼びかけた。

 まだちょっと遠い所為もあるんでしょう。

 頴田君は私に気がついた様子がない。

 私は自分の脆弱な肺活量を叱りつける。

 

「頴田く〜ん」

 

 私は力の限り声を張り上げた。

 肺が軋しむのを感じても私は止まらない。

 更には両手を大きく振ったりもしちゃった。

 

 後から考えると結構恥ずかしい行動だったりもする。

 それだけ休日に頴田君に出会えたことが嬉しかった。

 

 逆に頴田君は信じられないものを見たように眉を潜める。

 そりゃ、私だって信じられない。こんな場所で頴田君に会えるなんて。

 

「頴田く〜〜ん」

 

 私は頴田君に気付いてもらえて更にハッピー。

 これこそ日頃の行いというものでしょうか。

 こんな場所で出会う偶然はまさに運命。

 私はとんでもなく幸せ者です。

 

 嬉しくて嬉しくて。私の視界は傾いていた。

 

 あれ? 何? 何? なんで傾くの?

 

 あははは、なんだか足に力が入りません。

 

「ちょっ、お前何やってるんだ!」

 

 頴田君が大声で言ってくれます。

 さて、私は何をやっているのでしょ?

 はははは、わかりません。

 

「お前、落ちる! くっ」

 

 頴田君は右見て、左見て、なんと向かいのホームから線路に飛び降りてしまいます。

 軌道をまたぎ超え、私の方に一直線に来てくれるじゃないですか。

 

「かぃた〜く〜」

 

 私はその危険な行為を注意しようとするのだけれど、いつの間にか、私はホームの際で座り込んでいた。

 

 そうしている間に、頴田君は私がいるホームによじ登って来てくれた。

 

「おい、何してるんだ! 線路に落ちたらどうする気だ!」

 

 あれ? 線路に飛び降りてこっちに渡って来たのは頴田君ですよ。

 それなのに、なんで私がそんな風に言われないと……。

 

「早くこっちに来い」

 

 私は頴田君に腕を引っ張られて、再びホームのベンチに座り込んだ。

 

 結論から言うと、どうやら私は酸欠で立ち眩らんだようです。

 血を吐いた直後にあんな大声を出して、脳に酸素が行かないのも無理はありません。

 

 頴田君は私が落ち着くまで、ずっと静かに待ってくれた。

 

「また迷惑かけちゃったね。……ごめんなさい」

 

「別に、謝られても……」

 

 そう言う頴田君はいつも通り。

 別に迷惑がってないし、私の体に関してああだこうだ言うこともない。

 ただ、私の様子を見ている。容態が急変していないことだけを確認する。

 そんな頴田君独特の距離感が私には心地よい。

 

「でも電車行っちゃったし」

 

 私は頴田君に申し訳なく思う。

 頴田君がいた反対側のホームには、先ほど電車が入って来た。

 私が気付いたんだから頴田君が気付かなかったわけがない。

 なのに、頴田君は電車など見もしなかった風に振る舞っていた。

 

 やっぱり頴田君はすっごく優しい。

 恩着せがましい他の人とは違う。

 頴田君は私の……。

 

 あれ? ちょっと待ってください。

 私、頴田君と同じベンチに座ってる……。

 私の隣に頴田君が座ってる。

 

 ちょっと、ちょっと、いいんですか?

 こんなに接近しちゃって、私の心臓耐えれますか?

 私の脳味噌ちゃんと動いてますか?

 

 か、か、頴田君に、何を話せばいいんでしょう。

 

 日頃お世話になっているお礼とか、そんなの普段から言ってます。

 えっと、えと、こういう場合は世間話をするものです。

 今日は秋晴れの晴天。お日柄もよく、本日の降水確率は……、じゃなくて。何話せばいいの!

 

「お前、何でこんなところにいるんだ?」

 

 あっ、頴田君ナイスです。

 そうです。そういう話題から入りましょう。

 今日は冬物のバーゲンなんです。

 こんな私でもバーゲンの魔力は女性に等しく訪れるものでして、

 コート半額とかそういう触れ込みはデパート側の策略と分かっていても、乗ってあげるのが人の情けというもので、

 店のある新町に向かう途中に血を吐いて……。

 

 うっ、ここで血を吐いたなんて言ったら、頴田君を更に心配させることになるじゃないですか!

 それはダメダメ。

 

 とすると、私はどうしてこんな駅にいるのでしょう。

 五十文字以内で答えなさい。言い訳検定準二級問題。みたいな?

 

「ちょっと、この駅の近くの知り合いに用事があったの。それでこれから新町に、買い物に行こうと街まで出かけたら」

 

 ありゃりゃ?

 無難な私の言い訳に、頴田君はさも興味がないような顔をします。

 頴田君の寡黙な横顔はとっても素敵で、思わず見とれてしまいます。

 

 ただ、元々頴田君は表情豊かな人じゃないですが、それでも人の話を聞くときはそれなりの態度をとる人です。

 なんだかおかしな雰囲気です。

 

「……真湖」

 

「は、はい!」

 

 頴田君に名前を呼ばれ、つい勢いよく返事をしてしまう。

 それはまるで犬と飼い主のようなやりとり。

 気恥ずかしさで私の顔は真っ赤になる。

 

「お前、今日化粧してるのか?」

 

 え、え、えぇぇぇ! け、化粧?

 この浮いた話が全くない私が化粧ですって!

 

 そ、そ、そりゃ。私だって女の子です。

 眉を整えたり、リップを塗ったりぐらいはしますけど。

 化粧と呼べるようなものはしてません。

 もちろん、今日頴田君と会うことが分かってたなら気合い入れてナチュラル系のメイクぐらいしたかもしれませんけど。

 

 そんな私がどうして化粧?

 もしかして私綺麗?

 って、そんな馬鹿な。

 

 私の態度が答えとなったのか、頴田君は妙に納得したようでした。

 

「じゃあ……それ、血か」

 

 あっ……。私は自分の失策に気付いた。

 同じミスを何回すれば私は気が済むのでしょう。

 私の唇には、さっき吐いた血が付いてたのです。

 それが口紅でないことぐらい、頴田君もわかってたでしょうに。ちょっと意地悪な質問でした。

 

「どうせ電車の中で吐いたかして途中下車か」

 

 ううぅ。頴田君、当たりです。

 伊達に私専属の保健委員をしてません。

 

「……うん」

 

「落ち着いたのか?」

 

「……うん」

 

「買い物に行く途中か?」

 

「……うん」

 

「帰るのか? まだ行く気なのか?」

 

「えっ……、どうしよう?」

 

「なんだ決めてないのか?」

 

「……うん」

 

「もうすぐ、上りの電車来るぞ」

 

「……うん」

 

 あれからもう三十分もたったの?

 早い。早すぎるよ。頴田君との時間はいつも早すぎる。

 

 帰りたくないよ。まだまだ一緒にいたいよ。

 頴田君と同じ時間を過ごしたいよ。

 そんなことを思う私って、わがままかな?

 

「……真湖」

 

「は、はい」

 

 やっぱり呼ばれれば答えてしまう。

 それはもう条件反射。恥ずかしいったりゃありゃしません。

 

 視界の端にくたびれた色の電車が現れる。

 ゆっくりと確実にホームに近付いてくる。

 

「さぁ、行こうか」

 

 それはいつもと同じ。いつもの頴田君。

 保健室に一緒に行くときの頴田君です。

 

「行く? どこに?」

 

 駅に保健室なんてないんだよ。

 こんな場所でどこに行くっていうの?

 

「新町に買い物……だろ?」

 

 頴田君の言葉は、電車のブレーキ音に邪魔されたけど、はっきりと私の耳に届いたのです。

 

 

 

 

 

(第2章の4につづく)

説明
幾度となく血を吐き捨てる私。
いつに死ぬともわからぬ私。
惨めに死を待つしかない私。
そんな私でも恋をした。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
271 264 1
タグ
オリジナル 少女 

柳よしのりさんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com