季球妖物語・第二幕「夢織人〜後編」 |
タンタントントン、タン、トントン。
夢織人は、夢を織る。
つらつらつらつら、夢を織る。
丹精込めて織り上げて、
今宵は誰に、見せましょか……。
タンタントントン、タン、トントン――。
唄が聞こえる。
紅蘭がよく口ずさんでいた、あの唄が。
あの時も――口ずさんでいた、あの唄が。
暗くなった部屋の中。唄を口ずさんでいるのが自分だと気付かぬまま、青嵐は紅蘭の人形をぼんやりと見つめていた。今日、多少脚色したとは言え、あの話をしたからだろうか。無性に紅蘭が見たくなったのだ。
そう。
あの時も、彼女は小さく口ずさんでいた。ぼぉっと焦点の定まらない目をして、土間の隅に寄りかかりながら。
何があったのかは、一目で分かった。必死に掻き合わせたのだろう乱れた着衣。肌蹴た胸元から垣間見える赤い痕。片方だけ脱げた足袋。そして、力無く投げ出された白い太股の内側を伝う、真っ赤な――。
まるで、壊れた人形のように生気の無い顔をして、彼女はこの唄を口ずさんでいたのだ。
赤い液体は土間を隔てて裏庭まで点々と零れ落ちていた。元々手入れも何もしていない草木も生え放題の庭ではあったが、そこが更に人間の足や身体によってがさがさと踏み倒されている。ここで何かがあった事は明白だった。
……何かも何も。
そんな事、紅蘭を見たら一発で分かるじゃないか。
どうして。
どうして置いて行ってしまったんだろう。
彼女に執着する人間がいるって事は分かり切っていたはずなのに。
そんな後悔だけが、青嵐の頭を支配していた。
裏庭に立ち尽くし、両の拳をぎりっと握り締める。爪が掌に食い込んで血が滲むがそんな事はお構い無しに辺りを見回した。
ふと、疑問が頭を掠める。
庭の草は伸び放題だったとは言え、多少は土の残っている場所もある。そこに残った足跡の数が、多すぎやしないか?
庭の草の倒れ方だって、二人の人間が争ったのならあまりにも大きすぎやしないか?
一度湧き出した疑問はとめどなく湧き出し続け、青嵐の頭の中に居座った。
足跡の数。
大きく倒れた草の意味。
そもそもどうして、今日に限って僕がいない事をあいつは知っていたんだ?
どうして、誰も助けてやらなかったんだ?
それらは一体、何を表している――?
「丹精込めて織り上げて、今宵は誰に、見せましょか……」
紅蘭はぼぉっと生気の無い顔にうっすらと笑みを浮かべて口ずさんでいた。もう枯れ果てたのか、乾いた涙の痕が幾筋も頬に残っている。そんな紅蘭にどう声をかけたら良いものか、青嵐にはどうしても分からなかった。分からないというより、何故一緒に連れて行かなかったのか。その所為で紅蘭がこんな目にあったのでは無いかと自身を責めて認めてしまいそうで――怖かったのである。
だけど。
こんな状態の彼女をいつまでもこのままにさせておく訳にはいくまい。青嵐は意を決して、紅蘭へと手を伸ばした。
その瞬間。
「嫌アァアァァァァアアッ!」
喉が張り裂けんばかりの叫び声を紅蘭が上げたのだ。人の喉から出たものとは一瞬思えないような心の底からの絶叫に、青嵐は伸ばしていた手をびくりと止めた。叫びと一緒に、今まで自分を掻き抱くような格好で固まっていたのが嘘のように両手を振り回す。両手で襦袢を押さえていたお陰でかろうじて隠れていた形の良い乳房が露になる。
「来ないで、来ないでェッ!」
「紅蘭、僕だ、僕だよ。青嵐だよ。もうここには誰もいない、僕しかいないよ」
滅茶苦茶に振り回してくる手をどうにか押さえ、そのまま静かに抱きしめる。紅蘭は最初こそ抜け出そうともがいていたものの、ぷつん、と人形の糸が切れたように大人しくなった。
すぅっと両の瞳から二筋、新たに涙の痕が加わる。
「……せい、らん?」
まるで、子供のような声。舞台に立っている時の張りのある声とは似ても似つかない。
「そう、僕だよ。もう大丈夫、大丈夫だか……」
襦袢を着せてあげながら言った青嵐の言葉は、途中で途切れた。
……ぬるりとした生暖かい感触。ふと見ると両の手が、不透明な赤い色にべったりと染まっている。
これは一体、何だ――?
視線を、ゆっくりと紅蘭へと向ける。
彼女の、いや、普通の人間なら白いはずの腹が、薄桃色の襦袢がどす黒い赤に見えるのは、何故だ――?
真、逆――ッ。
彼女から見えた赤い色は――。
もちろん、処女を奪われた時のものもあるにはあるだろう。だけど、このお腹の赤い色は? この今も流れ続けている液体は……?
よく回りを見てみると、赤い液体は彼女の座っている位置全体にどす黒く広がっていた。あらかた着物や土が吸い込んでしまったので目立たなかったのだ。
これだけの出血では、もう――。
再び、紅蘭へと視線を戻す。
彼女は、子供のような無邪気な笑顔を浮かべていた。
「……あのね……。あたし、青嵐にお願いが、あるの」
まるで昔を思い出させるような舌足らずな口調。
「一生のお願いなの。……き、聞いて、くれる?」
もじもじとしながら一寸困ったような上目遣いで言ったその言葉は、気まずい事や意地でも頼み事をしたい時に子供の頃よく彼女が使った台詞だった。青嵐は彼女をそっと抱きしめると無言で頷いた。正直、今の彼女を正面から見ていられなかったのだ。
肩越しにその動きが伝わったのだろう。紅蘭はぱぁっと表情を明るくさせると、こう言った。
「――夢を、織り続けてね」
その口調ははっきりと、今の彼女のもので。
でもそう口にした顔は、まるで少女のそれで。
信じたくない今と戻りたい昔の間。あまりにも大きすぎる衝撃の為だろう。少しでも力を入れたら壊れてしまう。そんな、危うい均衡を彼女は保っていた。
「約束して。夢を、織り続けるって――。お、お願い」
あたしの代わりに、夢を――。
「か、代わりなんか出来ないよ。君の代わりなんて絶対に出来ない。誰にも絶対に出来ないんだよ――」
「ほん、とに、一生のおね、お願いだか、ら――」
――約束して。
夢を織り続けて、人様に一時夢のような時間を与える夢織人になるって。
――約束、して。
「……分かった、分かったよ。約束する。だけど、その時は君も一緒に――」
紅蘭は静かに事切れていた。彼の約束が聞こえたかどうかすら分からない。まだ温もりの残る亡骸に顔を埋(うず)め声を押し殺して泣きながら、それでも青嵐はその約束を守ろうと心に決めたのだ。
夢と一口に言っても、楽しい夢だけでは無い。二度と見たくない悪夢、それだって夢は夢であり、誰でも平等に見る権利があるだろう。紅蘭が、見たように。
――その為に、自分は夢織人になろう。
タンタントントン、タン、トントン。
――さぁ、最初は誰に見せれば良い?
それが、気弱で純真な人形師の決断だった。
ひゅっ、ひゅっと風を斬る音が心地良い。竹刀を打ち込んで行くたび巻き起こる風に乱れて張り付いた前髪を掻き揚げ、種田千花はふぅと一息肩で息をついた。
一汗かいてそれを流してから寝るのが千花の日課である。彼女は種田の流派である種田一双流も使える事は使えるが、実際は二刀を使った我流剣術の方が強い。我流であるが故、教えを請える者も居ず、いつからか毎日こうやって一人で稽古をしていたのである。それがいつの間にか日課になってしまっていた。
彼女は誰もいない道場を見回し、おもむろに庭に向かって竹刀を突きつけた。
「いー加減、出てきたらどう? それとも、覗き趣味だったりするの、あんた」
ちりん、と小さな鈴の音が鳴る。
「いや、いくらなんでも覗く方だって選ぶだろうよ」
「何ですって……ッ」
相手の言葉にかぁと頭に血が昇る。思わず怒鳴りそうになったのを必死に堪え、道場の中から相手を精一杯睨み付けた。
相手はひらひらと手を振って、
「別に、あんたが覗かれないって言ってンじゃねェのよ? ただ単純に、剣の稽古してる色気のねェ女と、これから風呂にでも入ろうとしてる女なら誰でも後者を選ぶだろうよって話」
「……成る程ね。途中で何か聞こえた気がしたけど、それは聞かなかった事にしてあげるわ」
「そりゃどうも」
雷封は庭の木に背を預け、相変わらずやる気無さそうな顔で立っていた。法衣が黒いものだから、一瞬影と同化しているようにも見える。派手な赤毛だけが、それを否定していた。
千花は突きつけていた竹刀を下ろし腕を組むと威圧的に問いかける。どうにもこの男とはウマが合わないのか、そうしたいワケでは無いのに無駄に突っかかった態度に出てしまう自分が、千花はどうにも気に入らなかった。
「それで。覗きたくも無い女の姿を覗いてまでここに入り込んだ用件は何?」
「ッかー。どうにも突っかかるねェ。俺は折角、あんたの兄貴を助けてあげようと仏心を出してやって来てやったッて言うのにさァ」
「……今度は一体どんな事に巻き込んでるのよ」
「あのね、巻き込んでるって……ああ、まァ今回は確かに巻き込んじまったよ。お陰でややこしくなりそうだから、早々にご退場願いたいわけ。分かる?」
「巻き込まれないで済むならそれに越した事は無いけど、何でそれをあたしが言わなきゃならないわけ? あんたが自分で言えば良いじゃない」
その言葉を聞いて雷封は天を仰いだ。
「あァ、そう出来てりゃアこんな所に来ねェでさっさとそうしてるさ。ただよ、俺が手を引けって言ったら余計に勘ぐるだろあのセンセ」
「……確かにね……。それは一理あるわ」
「だからよ。妹のあんたからそれとなく言ッて欲しいってわけさァ。『人形師の怪』にはもう首突っ込むなって」
人形師の怪。その言葉には千花も聞き覚えがあった。聞き覚え所か、今巷を騒がせている連続殺人事件ではないか。
だが血生臭い浮世の事件を嫌う兄があの事件に首を突っ込んでいるとは正直あまり信じられなかった。まぁ目の前の男も関わっているようだし、という事はただの単純な連続殺人では無いという事なのだろう。
「あの先生……。のめり込み過ぎると回りが見えなくなるだろ? 今回ばっかはちィと危ないかもしれねェンでさ」
――下手ァすると、命に関わるぜ。
普段と変わらぬ口調で雷封はあっさりとそう言うと、すっと闇の中に消えた。
思っていたより埃が凄い。
自分も部屋に篭っている方だし、古い文献なんかを漁ったりするのには慣れている方だと思っていたが、ここの埃はまず量が違った。埃というにはあまりにも多すぎるし、何よりすでに固まりになっている。こうなると埃というより元埃、つまりはただのごみであろう。
青嵐と話をした次の日の朝早く、草雲は版元の下を訪ねた。まだ眠そうな顔をして出てきた版元は草雲の話を聞き、あからさまに面倒くさそうな顔をする。
「珍しいねぇ。先生が昔の事件、それも殺人事件なんぞに興味があるなんてさ」
「いえ、私だって興味があるわけじゃあ……」
「しかし……三年も前の事件だろう? そんな昔の瓦版が残ってるかねぇ」
「はぁ……」
そんなやり取りを適当に右から左に受け流しつつ、草雲は舞い上がる埃と戦いながら必死にお目当ての瓦版を探していた。面倒臭そうに作家の頼みをかわそうとする版元に、調べさせて欲しいと意地で食い下がったのである。これには最初渋っていた版元も、いつもは押しの弱い先生がねぇ、とびっくりしたらしく、渋々ながら承諾してくれたのだった。
「大体、その事件は解決してるじゃあないですか。女殺して自分もどぼん、でしょう? そんな何処にでも転がってるような事件の情報なんか、今更探したって何も出て来ないンじゃないですかね。そりゃあ、一時は盛り上がりますよ? やっぱり殺しは派手ですからね。でも、下手人も一緒にどざえもんになっちゃあねぇ」
「いや、まぁ……あっさり言えばそうなんですが……」
変な話、死に得ですよ。
そう言った青嵐の言葉が頭から離れない。それに、射るような目付きで一点を見つめていた椿の事も気に掛かる。草雲の思い違いかもしれないが、あの時彼女は落日庵の方を睨んでいたように見えたのだ。
「しかしね、先生も先生ですよ。いや、流石は先生と言ったところでしょうかね。その事件、少なくとも当時はかなり騒がれて色々噂が流れたりしたんですよ。仕舞いにゃ、殺したのは別の奴なんじゃないかってガセまで飛び交ったりしてねぇ」
ま、女がこれまた別嬪な役者さんだったから余計にね、流行ったわけなんだろうけどもねぇ。
いやぁ、それを知らないとは流石に浮世の事にゃあ興味の無い先生らしいですわ。
言いながら一人で勝手に頷いている。が、草雲の頭の中ではその少し前の台詞がぐるんぐるんと回っていた。
「――ガセ?」
「嗚呼、やっと見つけたわ、兄様」
しかし、草雲の呟きに対する返答はそのようなものだった。もちろん、版元が兄様等と呼ぶはずも無い。その声に草雲はよいしょと腰を上げようとして元埃の山達に足を踏み込みそして――。
世界が綺麗に一回転した。ごつんと派手な音がする。強かに後頭部を床に殴打したのだが、溜まった埃が厚かった所為かそう痛みも感じない。お陰でもうもうと積もりに積もった埃が舞い上がり、遠目からは煙でも出てるんじゃなかろうかと勘違いでもされそうな勢いである。
「……何やってるのよ、兄様……」
埃に届かない位置から心底呆れた声で千花は呟き、首を振った。いつの間にか非難して来ていた版元も、一緒にうんうんと頷いている。
「全くですわ。あれ、一体誰が片付けてくれるんです? 今更三年も前の事件を調べたりして、どっか頭でも打ったんですかね……って、今打ってましたか」
「ええ、盛大に。あれ以上おかしくならなきゃ良いけど」
千花の台詞が終わるか終わらないかといううちに、埃の中から二人に向かって人型の埃がよたよたと歩いて来た。もちろん、草雲であるのだが正直動く埃の山である。
「やぁやぁすいません。あれ、直そうとしたらもっと崩れてしまいまして……」
「……そんな事だろうと思いましたよ。後であたしがどうにかしておきますから、とにかく先生はお帰り下さいな」
「ああ、すいません〜」
草雲のそんな情けない声を皆まで聞かず。ふぅっ、と一息気合を入れて腕をまくると、版元はまだ埃の立ち上る自分の店へと入って行った。後には、埃の塊になった草雲と、呆れた顔でそんな実兄をじとーっと見つめる千花が残された。
「……で? 一体何の用です? 私を探していたような口振りでしたが」
「ええ、まぁ、探してたのは事実だけど。でも兄様、その埃、何処かで流してから話をしても構わないわよね?」
まぁ、兄様が埃を被っていたいって言うんなら仕方ないけど。
ぶすっとした表情で言った妹の台詞に、いやぁ、流石にそれは勘弁ですねぇと緊迫感の無いのほほんとした声で返し、ぱんぱんと着物に付いた埃を叩き落とした。千花が手でひらひら埃を避けながら少し草雲から離れる。
「ああ、裏の桶を使って構わないよ。顔と手ぐらいは洗って行きな」
まるで二人の会話を聞いていたようなタイミングで版元が顔を出して行った。彼女の顔も、あれで殴られたら大層痛いだろうなーと想像に難くない太い腕もすでに埃で真っ黒である。草雲は流石に恐縮したように身を縮めて家の裏へと回る。少し離れて、千花も付いて来た。
版元の家の裏には共同の井戸がある。その井戸から水を引き上げ、ひんやり冷たい水に手を浸すと多少頭がすっきりしたような気分になった。そのまま、顔も洗いぶるぶるっと動物のように身体を振るわせた。もちろん水飛沫が周りに飛び散るわけで、またもや千花は自分の兄から距離を置く羽目になった。
「……それで。話というのはなんです? 何か、深刻な用事ですか?」
余程、冷たい水が気に入ったのか足袋を脱いで足まで洗いながら草雲は言った。そのまま、井戸の縁に腰掛ける。
そんな兄を見て、しょうがないと妹は思ったのだろう。千花はさっと左右を確認し、心成しか小声になってこう言った。
「兄様……。また何だって三年前の事件なんかかぎ回ってるわけ? 昔は見向きもしなかったのに」
「おや。私が調べてる事件の事、よく知ってましたねぇ」
「さっき版元さんから聞いたのよ。……『人形師の怪』と、何か関係があるわけ?」
千花の言った言葉に、草雲は大げさに驚いて見せた。驚きすぎて井戸に落っこちそうになった程である。
「うわわっ、な、何だって千花の口からその事件の名前が出てくるんですッ?」
「だって、三年前の事件も役者絡み、今回の事件だって被害者は役者ばかりでしょ。それで、昔の事件を調べてるんじゃないかなって思ったの」
ただ、今回のも昔のも、あまり兄様が好みそうな事件で無い事だけは確かなんだけどね、と付け加えられた妹の台詞に草雲は苦笑いを浮かべた。
「まぁ確かに、血生臭いのはご遠慮願いたいんですけどねぇ。ただ今回は、どうにも妖が絡んでいる可能性もありまして……」
それに。
――死に得ですよと呟いた青年の声と。
射るような視線で落日庵を見上げていた女の瞳が、どうしても忘れられない。別の事を考えようと振り払っても振り払っても、いつの間にかくっついてくる埃のように草雲の頭の中一杯一杯にでんと居座りもやもやと溜まってしまっている。それこそ、先ほどの埃のように凝り固まっていると言っても良いかも知れない。
足を浸したままの桶に視線を落とす。桶の中から見つめ返してくる男と目が合った。
男は、酷く似合わない表情をしていた。
「……兄様?」
ぶつんと言葉を切ったまま水面を見つめて固まってしまった兄に小さく声を掛ける。小さな声だったにも関わらず、草雲はびくんっと驚いたように背筋を伸ばし、また井戸から落っこちそうになった。
「あ、ああ、千花。すいません、私は用事が出来ました」
言うが否や。
桶をひっくり返す勢いで足を引っこ抜くと、裸足で濡れたままの足に草鞋を突っ込み、足袋を掴んで駆け出した。そのあまりの勢いにあっけに取られ、目を丸くしながら千花は呆れたようにぼそりと呟く。
「……止めるヒマなんて、無いじゃない」
大体、本題に入る事すら、出来ないんだから。
だけど、何処かでこうなる事を予測していたのかもしれない。千花の顔には呆れと諦めが混じった笑みが浮かんでいた。
辺りに少しずつ夕闇が落ちて来る。
草雲は一人、枝垂れ柳の側の茂みの中にしゃがみ込んでいた。そう、今では夜じゃなくとも誰も近づこうとしない、あの枝垂れ柳の側である。
どうしても振り払えない言葉が頭の中をうろついている。
――死に得ですよ。
どうしてだ。
相手も一緒に死んでくれたのなら。それも事故で勝手に死んでくれたのなら、もう少し違った気持ちがあっても然るべきじゃないのだろうか。
そこにどうして得という言葉が出てくるのか、それがどうにも引っ掛かってしょうがなかった。
いくら憎い相手でも、死んでしまってはどうにも出来ない。最悪の形ではあったけれど、悪夢はそこで終わったはずだ。
得という、言葉。
草雲にはどうしても、解せなかった。何故青嵐はそんな言葉を使ったのか。
あの言い方じゃあまるで――。
「――他に犯人がいるとでも、言うような言い方じゃないですか」
そう。
簡単に死ねて得したね。
あの短い言葉の裏には、そんな黒い感情が渦巻いていたのではないか。
だから。
だから草雲はここに来ずにはいられなかった。これ以上事件が起こるかどうかも分からない。起こるとして、一体いつ起こるのか見当すらついていない。だから、馬鹿正直に枝垂れ柳を張り込んでいるのだ。否、彼に出来る事など他には無い。
――犯人を、確かめる為に。
雷封や霜雪に助力を求めようかとちらりとでも考えなかったと言ったら嘘になる。彼らの力を借りればもっと良い方法で犯人を突き止める事が出来るだろう。だが、事件は自分の手を離れて行ってしまう。自分はいつも通り、蚊帳の外に出されてしまう。それが、草雲を思い止まらせた。
『人間ってヤツに希望を持っていたいンだ』
ふと、椿の声が頭を過ぎる。
『だから妖という名の、人以外の何かが犯人であって欲しいと――そうだろう?』
その言葉に、自分は何と返しただろう。確か、人を信じていたいと思う事はいけませんか? とかそういう類の台詞だったと思う。
一度しか会った事の無い男。
一体その男の何処を、自分はこんなにも信じているのだろうか。
……いや。
これは、違う。
薄暗くなった茂みの中で、草雲はじっと自分の両手を見つめる。ずっと茂みの中にいた所為かそれとも違うのか。見慣れた自分の掌は、少し薄汚れて見えた。
これは――単なる。
すっかり思考に没頭していた所為で、今自分は張り込みをしているのだという事を忘れてしまっていた。突然辺りに響いたがつんという不快な音とくぐもった悲鳴が聞こえ、はっと我に返る。
何時の間に来たのだろう。柳の下には艶やかな紅い長髪の女が草雲に背を向けて立っていた。丁度柳の枝が邪魔をしていて上手く見る事が出来ないが、彼女が手にした槌を振るう度、彼女の足元からくぐもった悲鳴が聞こえて来る。声を聞く限りでは男のようだが猿轡でも噛まされているのかどうにもはっきりしない。
そして。
その声も、とうとう聞こえなくなった。虫の声すら聞こえない静寂の中で、男の荒い息遣いだけが聞こえ続けている。草雲が耳を塞ぎたい衝動を何とか押し止めながら数え始めて、女が七回目の槌を振り下ろした後の事だった。
女は槌を投げ出し、しゃがみ込んで何かを呟いている。呟きながら、手にした糸を男に巻きつけ――。
キラリ、と何かが光った。
女は男に身体を重ねるように押し付けている。男の荒い息遣いも次第に聞こえなくなってきていた。
女はぱっと男から離れ、満足そうに見下ろすと手にした糸を引っ張った。
ずるりと不快な音が聞こえ。
女の細腕の何処にこんな力があるのだろうと思わせるほど作業は簡単だった。男はどんどんと柳の枝の中に絡み付いて行く。
すっかり柳の中に入ってしまった男に向かい、顔を近づけると二言三言呟いた。うっすら、笑いが混じっていたように草雲には感じられ、肌が粟立つ感触を覚える。
――次の瞬間。
すとん、と何かが落ちる音がして。
だらり。
草雲の瞳に映ったのは、人間ではあり得ない方向に捻じ曲がって垂れ下がった男の腕――。
「……う、うわぁぁぁッ!」
草雲には、そこまでが限界だった。喉に込み上げる物を必死に堪えながら立ち上がり、夢中で走る。途中、何度もつまづいて転びかけたが何とか堪え、死に物狂いで走り続けた。
――落日庵に、向かって。
はぁはぁと息を荒くしながら草雲は小高い丘を駆け上がる。日が沈み切り、黒く塗りつぶされたその道は、昨日と全く同じ道なのに黒々とした闇に染まりまるで別の場所を駆けているような気分にさせる。
さっきのアレは。
力無くだらりと垂れ下がった腕を思い出し、喉に何かがこみ上げてくるような感触を覚え、何とかそれを押し止める。
――違う。
問題なのはそこじゃない。
必死に自分にそう言い聞かせ、頭の中の映像を強引に切り替える。
問題なのは、その前だ。
どうしてあの腕が見えたのか。言い換えれば、何故それまでは見えなかったのか。
答えは簡単だ。
前に人が、長髪の女性が立っていたからに他ならない。
草雲には、その女が木の枝に顔を近づけて、二言三言囁いたように見えた。そして――。
ふっと、その姿が掻き消えたのだ。何か、小さな物が落ちたような気もするがその記憶は曖昧で何とも言えない。何より、女が消えたという事実と、その後に見えたあの光景――。
またその光景が脳内をふっと過ぎり、草雲は胸の悪さを覚えて胸を押さえて立ち止まる。普段あまり激しい運動をしない所為か、心臓はもう飛び出しそうなほどばくばくと脈打っていた。その激しい動悸も手伝って胸の悪さは益々酷くなる一方で、たまらず草雲はその場にしゃがみ込んだ。
――あの、女性は……。
酸素が回っていないぼぉっとした頭で考える。動悸の音が邪魔をするが、それも冷たい夜風に当たっていると少しずつ治まって行った。それと一緒に、不鮮明な脳内も少しずつ働きを取り戻して行く。
……でも、そんな。
草雲は、その女性が誰かという答えを一つだけ持っていた。だからこそ、それを確かめるためにここまで走って来たのである。
ざっと、草を踏む音がした。
「あーあ。やっぱり来ちゃったンだね、先生」
残念そうに後ろからかけられたその声は、聞き慣れてはいるが今この場で聞く事になるとは夢にも思っていなかった声だった。弾かれたようにぐるんと後ろを振り向く。
声を聞き慣れているのだから、まだあどけなさを充分に残すその顔ももちろん見慣れている。そこにいたのは、白髪の髪を持つ一人の少女だった。夜風に遊ぶその髪をいじりながら、彼女は続ける。
「本当はね、来ないで欲しいってずっと願ってたンだ。あたいはあまり……」
その後に呟いた言葉は上手く聞き取れなかった。だが、当の草雲はきょろきょろと少女の言葉を頭半分で聞いていたようなものだったので例え聞き取れていたとしてもその意味を深く考える事は無かったかもしれない。
立ち上がって辺りを見回し、草雲はまるで内緒話でもするように声を低くして少女に問う。
「……沙雪、一人……ですか?」
「あたい一人だよ。……ここはね」
「ここは?」
沙雪の言葉に眉を寄せ、鸚鵡返しに問う。白い少女は丘の頂上を指差した。
「先生も、行くンでしょ? 多分、来るだろうからここで待っててくれって、雷封にそう言われたんだ」
「雷封さんに?」
益々訳が分からない。
「あたいはね、乗り気じゃないんだけど。まぁ一応雷封はあたいの使役者だからね。正式に式として使役されるとさ、一応は従わなきゃならないでしょ」
「……正式に? 雷封さんは、貴女に何をしろって言ったんです」
少女は一瞬だけ戸惑い、そして諦めたように言った。
「先生を、止めてくれって。……どうしても駄目なら仕方が無いって」
「……仕方が、無い……」
「先生、こっから引き返せば何も起きないで済むよ。あたいは、この先に進む事は先生には勧めない」
「ですが……この先には、私の疑問の答えが待っていると思うのです。だから、ここまで来たんです」
「それって、そんなに大事な事? 知らないままでいた方が良いって事だってあるじゃん」
まるで泣き出しそうに小さな顔を歪めて言ったその台詞。多分、自分の経験を重ねて言ったのであろうその台詞は、流石に少々重たかった。
重たかったけれど。
「私にとっては、大事な事です。例えどんな答えが出たとしても見届けなければならない、そんな気がするのです」
一度しか話をした事の無い男。
そんな男の為に、自分は今一体何をやっているんだろう。
ほんの刹那、そんな疑問がすぅっと秋の冷たい夜風の様に首筋を撫でて消えた。確かにその通りだ。青嵐とは旧知の仲でも杯を酌み交わした義兄弟でも無い。ただ、偶然であっただけの、それだけの間柄だ。
それでも。
確かめなくちゃ、ならない――否。
確かめたい。
さっきのあれは何だったのか。
『人形師の怪』に関わっているのか。
草雲自身が、確かめたいのだ。確かめたくてしょうがないのだ。
先程から、否、彼に目を向け始めた頃からずっとそうだった。
信じているからでは無い。ただ――ただ。
確かめたい。頭の中でうずうずと蠢く抗い難い好奇心に突き動かされて、草雲は動いていたのだ。
気が付いて。
愕然と、なった。
信じているからでは――無い。
信じようとは、している。それは、確かだ。だが信じきっているかと問われれば、すぐに肯定出来る自信が無い。自分は必ず、戸惑ってしまうだろう。
――それでも。
ふ、と沙雪を見つめる。白い少女と視線がぶつかった。どうやら彼女は草雲をずっと観察していたらしい。
「……行くンだね」
聡い少女の事だから、この沈黙の間草雲が何かと葛藤していた事はすでに見抜いているだろう。だが、聡いからこそ自分が何を言ったところで止められないという事もまた、気が付いている。故に、彼女の言葉に草雲が頷いてももう止めようとはしなかった。
その代わり、前を見据え、草雲に注意を施す。
「あたいは、一応止めたかんね。何があっても、受け止める覚悟は出来てるンだよね?」
「沙雪は、一緒に行かないのですか?」
「あたいは、ここで先生を止めるように言われてるだけだから。どっちにしても、このまま雷封が降りて来るまでここで待っていなくちゃいけない」
正式に使役されれば、逆らえないんだよ。
その言葉に草雲は横っ面を思いっきり引っ叩かれたかのような衝撃を受けた。今更ながら、目の前の少女が人と異なる存在だという事実を改めて叩きつけられたからだ。
「先生。先生は」
――一体、何をする為にここに来たのさ。
少女の言葉に、ふ、と顔を上げる。
自分がすべき事は。
一刻も早く落日庵に行き、真相を確かめる事。
うんとお腹に力を入れ、分かったと沙雪に頷いてみせる。一体何が行われているのやら皆目見当は付かないが、それでも気合を入れておくに超した事は無さそうだ。
少女は草雲の前に立つと彼を見上げ、念を押すように「踏み出したら、戻って来ちゃダメだよ」と言った。
ざっざっざっと自分の足音がやけに響く感じがした。
静寂が、辺りを包んでいる。虫の声も風の音すらも聞こえない。
――しゃらん。
「沙雪を置いて来たのかよ、先生」
「……ら、雷封、さん」
影から滲み出てきたかの様に、全く気配を感じさせず現れた黒衣の青年の名前を呼ぶ。
雷封は、輪が互い違いにすれ違っている独特な形をした錫杖を左手に携え、無表情に彼を見つめていた。いつもは饒舌で口達者な青年だが、仕事に入ると時たまこういう一面を覗かせる事がある事を草雲は知っている。
触れるだけで切れてしまいそうな、冷たく鋭い無表情。
きらりと、錫杖の先が光った。
赤毛の青年は少しの間そうしていたが、ふぅっと息を吐き出して錫杖を肩に担いだ。冷たい無表情が崩れ、いつもの少しだらしなさそうな顔になる。
「ま。先生のこッたから、沙雪一人残して来る事に罪悪感でも感じて下に残ってくれるンじゃねェかとちッたァ期待したンだが……。そんなに気になるのかよ、『人形師の怪』が」
「……え、ええ……」
「知らない方が良い事だッてあるンだぜ? それでも、知りたいのかよ」
「はぁ、沙雪にも同じ事を言われました」
苦笑いを浮かべてそう言うと、雷封はふいっと彼から目を逸らした。少女が同じ事を言ったと聞いて、居心地が悪くなったのかもしれない。
「……先生。めんどくせェから先に言っておく。青嵐ッて野郎はな、ろくでもねェ男だぜ。だから――」
――妖なンかに、魂を売っちまうンだ。
続きは、そう聞こえた。
「だから、先生なンかが何を言った所で、アイツはこっちに戻って来やしねェぞ。あンな男に、先生なんかが関わるべきじゃア無かったンだ」
ま、半分は俺の責任か。
心の中でのみ呟いたその台詞を飲み込み、雷封は苦笑だけを草雲に向ける。
「アイツは先生なんかが何を言っても引き戻せやしねェ。もう、手遅れだよ」
ておくれ。
それがどういう意味か、草雲には嫌というほど分かった。
――だけど。
「そ、そんな事、どうして雷封さんに分かるんです。確かにあの人は何らかの手段を使って人を殺めたのでしょう。だけど、それにはきっと理由が――」
必死に弁解をしている自分が可笑しくてしょうがなかった。
たった一度しか言葉を交わした事の無い男。
それでも、言葉は止まらない。
「紅蘭さんを殺めたのだって、犯人は違うんじゃないかって話があるぐらいじゃないですか。もしかしたら青嵐さんはその真犯人を――」
「ああ。その通りだよ、先生」
人形師の怪の正体は、青嵐の仕組んだ復讐劇だ。
あっさりと。
あっさりとあまりにも軽く。
空気のようにその言葉は、草雲の耳をすり抜けて行く。
「青嵐の通り名は夢織人――。まるで夢を織って見せるが如く、幻を操れるところからついた呼び名だよ。それこそ」
楽しい夢から――残酷な夢まで。
「……幻……」
あれが。
――だらり。
先程の、あれが。
あれが幻だったとでも、言うのだろうか。
「ま、俺には夢だなンだッてェのはよく分かンねェけどな。夢は所詮夢でしかねェ。そンなモンに振り回されて人生終わンのは真っ平御免だぜ」
言って、ひらひらと手を振り。
――後は夢紡ぎに聞くンだな。
と、短く吐き捨てた。
「……夢、紡ぎ?」
椿の事だよ、と雷封は言い。
「そろそろ――開演の時間だぜ」
合図のように。
ちりん、と場違いな鈴の音が鳴る。
弾かれたように、草雲は庵の中へと駆け込んだ。
――嗚呼、全て終わったよ、紅蘭。
――ええ、知っているわ。だって私もお手伝いしたでしょう?
――だってこれは、僕と君の復讐だから。
――終わったのなら、もう一緒になれるわよね?
それが、庵に飛び込んだ草雲の目に飛び込んできた光景だった。
彼が捜し求めていた眼鏡の青年と、彼の作った美しく艶やかな人形。初めて聞いた人形の声は、涼やかにしかしざわざわと草雲の心を掻きたてて離れない。
穏やかな笑みを浮かべ、青年は言う。
僕は。
「僕は最初からそのつもりだった。とっくに覚悟は出来てたんだ」
――おかしい。
ちくりと感じる違和感。
人形が勝手に動く事なんて無い。況してや、言葉を発するなんて。
あるとするなら。
――夢紡ぎ。
そうだ、これは。
――駄目だ。
駄目だ。
「青嵐さん! それは、紅蘭さんではありません! 貴方がいかに精巧に作ろうと人形は人形なんです。動いたり況してや言葉を発する事なんて」
そこで草雲は唐突に言葉を切った。否、それ以上彼は言葉を続ける事が出来なかったのだ。
瞳に映った人形師の顔は――。
笑っていた。
青灰色の瞳に沢山の涙を浮かべて。
いつの間にか見慣れていた、優しく穏やかな表情を顔一杯に広げて。
それは、全てを受け入れた、心の底からの笑顔。
――嗚呼。
――届かない。
ちっぽけな、私の、言葉など。
ておくれ。
安堵しきった笑みを見て、そう悟ってしまった。すぅっと身体から力が抜ける。膝から崩れるように草雲はその場に座り込んだ。
にこり、と人形師が彼に笑いかける。
ほんの少しだけ申し訳無さそうに小さく顔を歪め、青嵐は呟いた。
――ありがとう。
名前通りの紅の髪に指を絡め。
彼女の作り物の唇に、そっと唇を重ねる。
同時に感じる、重たい衝撃。
冷たい、冷ややかな感触。その冷たさすら、いとおしい。
――ぱたぱたと。
赤い液体が、床に零れる。
――嗚呼。
この赤は知っているよ、紅蘭――。
ずるりと人形師の身体が崩れ落ちる。
彼が作った人形の手には、紅い色に染まった短刀が確りと握られていた。
ぱっと散った鮮やかな紅で、視界が曇る。
すとん、と何かが落ち。
色鮮やかな人形の幻影は、目の前から消えていた。
残されたのは、己の血に染まり人懐っこい笑みを浮かべながら倒れている人形師と。
美しく艶やかな人形とは似ても似つかない、小さく簡素な木彫りの人形だけだった。
「その人形が――人形師の怪の正体さ」
聞き覚えのある艶やかな声が、聞こえた。草雲は立ち上がらぬままゆっくりと首だけを声のした方へ回す。
派手な紅い羽織。
艶やかな紫紺の髪。
壁際に、椿白零が静かに立っていた。
――夢紡ぎ。
ぽつりと、草雲は呟いた。
夢、夢、夢。
何処を見ても、夢ばかり。
それなら――。
今この瞬間も、夢であったら良いのに。
夢紡ぎは腰をかがめて血に染まった粗末な人形をそっと拾い上げた。その人形を虚ろな目で見つめ、誰にとも無く呟く。
「コイツだって、分かってたンだろう。同じ手を使ったンだからね」
「……同じ、手」
「雛形を作り、幻に仮初めの身体を与えて操作する幻術の一種さ。尤も、かなり高度な術だから、幻術使いといえどこれを自在に操れる術師なんざそうごろごろ転がってるモンじゃア無いけどね」
青嵐がどうやって真犯人を見つけたかは知らないけど、犯人には効果的な方法だったろうさ、と椿はぼそりと言う。
草雲はのろのろと立ち上がると、効果的ですか、と何の感情も篭っていない薄っぺらな声で相槌を打つ。
――こんな事。
穏やかな顔で事切れている青嵐を見下ろし、草雲は小さく呟いた。
こんな事。
「……どうして。どうして他の道を選ばなかったのです。こんな事をしたって、紅蘭さんが喜ぶわけが無いという事ぐらい、少し考えたら分かるじゃないですか」
どうにも、納得が行かなかった。否、納得したく無かったのだ。
「忘れろとは言いません。そんな事、言える訳がありません。だけど、復讐なんて――そんな、くだらない事の為に」
――命を、賭けるなんて。
いつの間にか、拳を強く握り締めていた。爪はぎりりと音を立て、掌に深く食い込んでいる。
「生きる事。それが紅蘭さんの為に出来る一番の事だったのでは無いですか。自分の為に死ぬ覚悟なんてしてもらっても、何も嬉しくなんてありませんよ。そうじゃあ、ありませんか」
いつだったか、妹が言った台詞。
忘れられない表情を浮かべて言ったその言葉の意味が、今更ながらはっきりと分かった。
確かに、冗談でも聞きたくない。
「――ああ、くだらないね」
静かに、夢紡ぎが言った言葉。その静かな口調が、更に草雲の心を逆なでする。「あんたには分からないだろうよ」と、如実に言われているような気がしたからだ。
「私には、理解出来ません。いや、理解したいとも思わない。ただ――悔しいのです。悔しくて、しょうがないのですよ」
知らず知らずのうちに、涙が頬を濡らしていた。
「青嵐さんには、分かっていたはずなのです。復讐などをしても、紅蘭さんの所へ行っても、彼女が喜ぶはずがないと。分かっていた、はずなんです……」
僕にはもう、舞台に立つ理由が無いんだ――。
――でも、約束したから。
夢を織続ける――そう、約束を。
ぱたりと一粒、小さな涙が地面へ落ちた。
「……復讐なンてのは、結局は自己満足だ。そっからは何も生まれねェ。先生は、そんな事を言いてェのか?」
いつの間に入って来たのか。
今まで口を閉ざしていた、黒衣の青年がぼそりと言う。その視線は、部屋の隅で静かに佇む本物の紅蘭へと向けられている。
「だけどね、先生ェ。人間ってのはさ、無駄な事こそしたくなっちまう生き物なんだぜ」
「あたしが止めたかったのは、復讐でも決着でも無い。あたしが止めたかったのはね――」
――死者への、冒涜だよ。
「――え?」
何を言っているのか、理解出来なかった。
雷封も椿も草雲の方を見ず、紅蘭に視線を注いだままだ。冷たい感覚が背中を走り抜けるのを感じながら、草雲もまるで人間のような人形へと視線を移す。
そういえば。
この二人は、青嵐の復讐の邪魔をする気配はまるで無かった。
「……先生ェ。この人形、まるで生きてるみたいだろう。これが一体」
――何で出来てるか、知ってるかい?
黒衣の青年は、何も言わない。
――真逆。
椿は人形をいとおしそうに撫で、まるで生き写しだよ、と呟いた。
「当たり前さ。あのコの骨を使ってるンだからね」
「――え」
「型が良いンだ。青嵐の腕をして下手なモノを作れという方が、難しい話さ」
そんな。
そんな、事――。
だけど、時すでに遅かったねェと言う椿の言葉が耳を通り抜けて行く。
「この男はさ。後悔って妖に飲み込まれちまったのさァ。だから、せめてこのコが一番美しかった姿のままでいられるよう」
「骨を持ち帰り、人形にしたと、言うんですか……」
そして、その手を血に染めた。
己が誰よりも愛した、女の姿を借りて。
自らの手を汚す事無く、彼は確りと己の魂を血に染めた。
……矛盾している。
その思考は、歪んで、軋んで決して何処も理解など出来ないけれど。
ほんの少しだけ、羨ましいと思えたのは何故だろう。
最期の瞬間、青嵐が心の底から幸せそうな笑みを浮かべていたからだろうか。
それすらも、分からない。もう何も分からなくなった。
頭の中は混沌としていて、考える事を放棄している。身体はまるで無くなってしまったかのように動く事を拒否している。
――否。
「このコはねェ。少しの間だけだったけど、あたしが世話を焼いてやった事があるコでね。すぐに客が着いて、身元を引き受けてくれると言う。それが、青嵐のいた劇団の座長さんでねェ。座長さんは良さそうな人だったけれど、何たってこの美貌だからね。何事か起きやしないかと――ずっと気に掛けていたンだよ」
引き受けてくれたのが青嵐のいる劇団だった、というのもこのコにとっては悲劇だったンだろうねェ、と夢紡ぎは続ける。
椿の綺麗な声が、通り抜けて行く。聞いているのでも、聞こえているのでも無い。ただただ、通り抜けて行くだけだ。種田草雲という人物は、確かにそこに存在しているのに、何も掴み取らず何も押し留めなくなっていた。言うなれば、種田草雲の形をした残骸が残っているだけだ。
このまま。
……無に、なってしまえれば、良い。
悪夢すら見る事の出来ない、無に――。
椿も口を閉ざし、完全な静寂が訪れた。暗闇と静寂の支配する中で、草雲は自分が本当に無になってしまっているような錯覚を覚える。
それを壊したのは、自らも闇と同化してしまっているような黒衣の青年だった。
「先生。アンタが俺達について回ろうが事件に首を突っ込んで来ようが、邪魔さえしなきゃア正直どうだっていい。ただ」
闇の中から、黒衣の青年は草雲に語りかける。その言葉で、草雲は感覚を取り戻す。月明かりが差し込み、ここが完全なる暗闇では無いという事に彼は気が付いた。
私は――無になどなっていない。
「そのつもりなら、相手に余計な感情移入だけはしねェこったな。俺達以外で事件に関わっているヤツなんてのは――」
所詮。
――妖なんだからよ。
「……そう思えるだけの覚悟が、アンタにはあンのかよ?」
草雲の苦手な赤い瞳が強い眼差しで、彼を見ている。
覚悟。
……自分には。
「……私には、覚悟など何もありません。そんなものは何処にもありませんよ」
ぼそぼそと、歯切れの悪い台詞。我ながら情けないと思える。
――ただ。
「私は、真実を知りたいだけなのです。妖とは何なのか。人とは一体どういう存在なのかを――」
ゆっくりと顔を上げ、赤い瞳と真っ直ぐに向き合った。
血の様な、黒い赤。
「雷封さんには、分かっているのですか? 妖というものが一体何なのか。覚悟とは一体何の覚悟です? 妖を殺す覚悟ですか。それとも――」
妖という言葉で事を丸め、人を殺める覚悟ですか。
「教えて下さい、雷封さん……」
黒衣の青年は少しの間黙っていたが、ゆっくりと重たい口を開く。
「……答えは、自分でみつけるンだな。それが分からねェようじゃア、覚悟なんてホンッとに出来やしねェだろ」
珍しく、彼にしては歯切れが悪い。青年はくるりと踵を返すとぽつり、と言った。
「……まぁ」
――どっちにしろ、同じ事だよ、先生。
それがどういう意味なのか。
青年の黒い背中に。
草雲は、尋ねる事が出来なかった。
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